週末の夜。同じソファーの上に座って、手が届く距離で思い思いに過ごす。いつもと同じ穏やかな風景だが、今日は隣が少し騒がしい。 「ん…」 おおらかだが凛とした立ち姿が印象深い彼女──ミスターシービーだが、今日はなんだか収まりが悪そうにしきりに寝返りを打っている。深刻な様子ではなかったから初めはさほど気に留めなかったが、こうまで多いと流石に見過ごせない。 「どうした?」 そう問われた彼女は、すっくと起き上がって振り向いた。少しばつの悪そうな、恥ずかしげな笑みを浮かべながら。 「蚊に刺されちゃった」 長い付き合いになるのだから、彼女の放浪癖がどれほどのものかは言われなくともわかっている。こちらの与り知らぬところで野山を駆け回っていることだって、珍しくないに違いない。 「この間、綺麗な小川を見つけてさ。ずっと流れを遡っていったら、いつの間にか山の中に入ってた。 きっとそのときに刺されたんだと思う」 彼女のことだ。予定外の楽しみがあったら、きっと汗をかくのも構わずに突き進んでいくに違いない。薄手の格好で山に分け入ることも、きっと躊躇わないだろう。 「名誉の負傷だな、冒険の」 「あははっ。仕方ないかな、夏だし。虫除けはしっかりしてるんだけどね。 大きな滝があってさ。すごく綺麗だったから、散歩はすごく楽しかったよ。 でも、痒いんだ。すごく」 そう言ったきり黙りこくった彼女は、しばらくしてすたりと立ち上がった。 一度ソファーから降りた彼女が、膝を突き合わせて目の前に立っている。何も言わずに微笑んでいるだけだったが、何をしてほしいのかはすぐにわかって、読んでいた本を横に置いた。 こちらが腕を広げたのと、彼女が膝の上に乗ってきたのは、どちらが早かったろうか。彼女の背の高さに対して不相応に軽い体重を胸板で感じながら、ゆっくりと腕を絡めた。 思わぬ災難に出くわした彼女の頭を、まずは労うように撫でてやる。満足そうに揺れる尻尾が見えるとこちらもなんだか嬉しくなって、その揺れに合わせるようにゆっくりと手を動かした。 しばらくの間そうした後に、ゆっくりと手を下に降ろす。 「背中か?」 「うん。真ん中」 人差し指の腹を当てて探るように下へとなぞっていくと、やがて肩の高さの少し下ほどのところに、ぷくりと腫れている箇所があることに気づいた。 「ああ。これは痒いな」 服の上からでもわかるとなれば、痒みも相当なものだろう。そこに触れさせた時点で彼女が何を望んでいるのかはなんとなく読めたが、何の躊躇いもなくそれができるほど、自分は大胆ではなかった。 狙いを定めるようにそこに指を立てたままで止めて、お伺いを立てる。 自分も彼女も、何も言わなかった。けれどゆっくりと、肩口に頭を預けてきた彼女を見ると、きっとこれは許可の証なのだろうとわかる。 「あは、気持ちいい」 その腫れに引っ掛けるように指を上下させる度に、彼女が愉快そうに笑う。 「こら、落ちるぞ」 はしゃぐ彼女を落ち着かせるようにもう片方の手を腰に添えると、彼女の手もこちらの背中に回された。 「じゃあ、しっかり抱きしめてよ。きみに掻いてもらうの、好きだから」 さっきとは打って変わって彼女は静かになって、一緒に戯れて誤魔化していた胸の高鳴りと否が応にも向き合わなければならない。彼女の重みと温もりがさっきよりずっと近くに感じられて、身を委ねてくれたことへの喜びと恥じらいが交互に胸を焼いていた。 「誰かに掻いてもらうってあんまりないからさ。 でも、いいね。こういうのも」 耳元で彼女の声が響く。蕩けるように甘くて、けれどそれ以上に安らいだ声音だった。 「こうやってどうでもいいことで甘えられるの、すごく安心するな。 ありがとう。付き合ってくれて」 「いいんだよ。散歩には着いて行ってやれなかったし。それに、山はきっと今が一番綺麗なんだろうな。 走りたく気持ちはちょっとわかるよ」 草木が太陽の光をいっぱいに吸って輝く、緑色の季節。それを愛する気持ちが身近なものではなく、どこか懐かしい匂いを帯びるようになったのは、いつからだろうか。 「わかる?」 「思い出すんだよ。シービーを見てると。 子供の頃は何もかもが楽しくて、だめだって言われても走り出してた」 その想いが瑞々しいまま生き続けている彼女から目が離せないのは、必然だったのだろう。誰もが忘れてしまった、好きなことに何よりもまっすぐな姿に、出逢ったときからずっと惹かれている。 「そうだね。アタシはずっとそんな感じだ。 だからね、帰るときみが待っててくれるのがすごく嬉しいんだよ」 そんな彼女が、自分を必要だと言ってくれる。 それが何よりも幸せだった。 「ありがとう。大分よくなった気がする」 「そりゃよかった。一応薬は塗ったほうがいいかもな」 仕上げにぽんぽんと背中を叩くと、彼女は愉快そうにくすくすと笑い声を上げた。だが、それに満足して腰を上げようとすると、膝の上にある彼女の重みが引き留めてくる。 「シービー?」 その重みを先程より強く感じているのは、気のせいではなかった。彼女は何故かさっきよりもしっかりとこちらの膝に腰掛けている。だが、それが何故かという疑問も、次の瞬間には頭から掻き消えていた。 彼女の腕が、しっとりと首に巻き付く。碧色のふたつの宝石が放つ輝きで、視界が埋め尽くされる。 子供のような無邪気さと、妖艶な色香が混ざり合った、実に美しい色だった。 さっきまでの穏やかな空気を、身体に籠り始めた熱が塗り潰していくのがわかる。 「妬いてくれないんだ」 「…え」 蕩け始めた頭ではその言葉の意味がすぐに理解できなくて、思わず訊き返してしまう。けれど彼女は気を悪くするでもなく、またくすくすと微笑みながら、さっきよりももっと甘やかな声で囁いた。 「きみじゃない誰かに吸われちゃったんだよ」 嫉妬と情欲を煽るようなその声で、彼女の仕草に目が釘付けにされる。 くるりとこちらに背を向けてタンクトップの裾に手をかけた彼女が、ゆっくりとその手を持ち上げた。いけないことなのに、幕が上がるようにどんどんと面積を増してゆく肌色から、目がちっとも離せない。 はっきりと浮かんだ、けれどやわらかな肩と背骨の輪郭。背中からでもわかる、くびれた腰のつくる曲線の美しさ。しみひとつない、ほんのりと赤みを帯びた柔肌に、ぽつりと浮かんだ赤い斑点。 無駄な肉などひとつもないのに、ひどく柔らかくて、美味しそうで。それを見せつける彼女の仕草が、何よりも色めいて見えて。 「だからさ。 塗りつぶしてよ」 吸い付いてしまいたいと、思ってしまった。 後ろから抱く腕に、ひどく力が籠もっているのがわかる。なのにちっとも苦しくなくて、むしろずっとこのまま抱きしめられていたいとさえ思えてしまう。 「…トレーナー?」 さっきからずっと彼はこのままだ。捲り上げたままのアタシの背中は、彼の胸板がぴったり触れている。 すぐに手を出してくれればいいものを、こんなふうにゆったりと抱きしめられてしまうと、さっきの彼の目を否が応でも思い出してしまう。 アタシの挑発に煽られて、彼の瞳にはどろりとした光が宿っていた。その光を思い出すと、体の内側にぞくりとした疼きが走るのがわかる。 好き。愛してる。 彼がいつも紡いでくれるありったけの愛の言葉と一緒に、絶対に口に出さない想いが混じった、危険なのに目が離せない光。 お前を食べたい、という欲望の光。 ちゅ。 「ん…んっ…!」 そんな目つきを散々反芻させておいて、心を蕩かされた頃になって、いきなり彼の柔らかな唇が背中に着地した。 きっと彼には焦らすつもりなんかなくて、ただアタシの挑発に乗るか乗らざるか、必死で考えていただけなのだろう。けれど、その分だけ煮詰められた情念が、何度も唇を離してはまたつけ直す度に背中から伝わってしまう。 ちゅ。ちゅ。ちゅ。ちゅ。 「あ…あ…あぁ…!」 甘い声が漏れる度に想いが募る。なのに、切なくて身を捩る度に、彼にしっかりと抱きしめられていることを実感してしまう。 せめてその熱を逃がしたくてこてんとベッドに倒れれば、彼も抱きしめたまま追いかけてくる。 人間の触覚には場所で差があって、背中は比較的鈍感なのだと聞いたことがある。 でも、きっと嘘だ。 さっきまであんなに痒かったのに、今は甘くて、ぴりぴりする。そこの部分だけ、肌が融けてなくなってしまったみたいに。 「あぁ…!」 そんなに激しく愛しておいて、散々吸われて蕩けたところを、最後には舌で優しくひと舐めしてくる。 これがわざとではないというのだから、本当に質が悪い。今になって優しくされるほうが、激しく愛され続けるよりよほど効く。さっきまで散々アタシを蕩かした唇が、いつも優しい彼のものだと、はっきりわかってしまうから。 背中がじんじんする。知らない感触に頭が支配されていくようで、少し怖い。 でも、それ以上に、もっとほしくてたまらない。 きみの言葉が好きだ。きみがその言葉で綺麗に飾ってくれた、この世界の輝きが大好きだ。 でも、きみを愛すれば愛するほど、そんな綺麗なものだけじゃない想いが湧き出すことがある。どろりと濁った熱が身体から溢れてきて、それをきみにぶつけたくなる。 その度に何かと理由をつけて、こんなふうに彼にキスをねだった。ただ優しく唇を重ね合うのではなく、食べてしまうように柔肌を吸うくちづけを。 もう、すっかりわかられてしまっているのだろう。彼の唇の感触に、骨の髄まで浸ってしまっていることを。だからこそ、そうやって彼と愛し合う度にもっと欲しくなってしまう。普段はあんなに優しい彼も、あんな目をするんだということが、嬉しくなってしまう。 本心で望んでいたとしても、それ以上を求めないのは彼の自由だ。それもきっと、彼の優しさの表れだから。 でも、アタシは知ってほしいんだ。今よりもっと先のことを望んでしまうくらい、きみのことが好きだって。 前に伸びた彼の手が、捲り上げたタンクトップの裾にかかる。胸に引っかかって、そこで止まっているところに。 「…!」 このまま、脱がされちゃうのかな。 でも、それが怖いのか、それともそうしてほしいのかは、すぐに答えが出せなかった。 きみなら、いいよ。 そう言いたかったのに、言葉が出なかった。 何も言わないアタシをよそに、ゆっくりと、優しく。 彼の手が、裾を下ろして綺麗に整えた。 「…ごめん」 「ん…?」 「…怖かったろ」 その言葉が、さっきの愛撫よりもずっと胸を締め付けた。 ああ。本当にもどかしい。些細な不安なんて知らんぷりして、一緒に食べてしまえばいいのに。 きみは優しいから。アタシのことを何よりも大切にしてくれているから、そんな小さな気持ちにも気づいてしまうんだ。 もどかしいのに、それが嬉しくて仕方なくて、胸がひどく苦しい。 ゆっくりと、彼の腕の中で振り向く。アタシよりもよほど不安そうにしているくせに、アタシのことを想ってくれる彼の顔を、少しでも早く見たかった。 瞳の中に、あのどろりとした光はもうない。それが少し寂しくて、でもそれ以上に愛おしい。 「うん。 でも、大丈夫だよ。今はきみがいるから」 そっと唇を触れ合わせるだけのキスをする。抱きしめる腕も、重ねた唇も、さっきよりずっと弱々しくて、優しい。でも、さっきと同じくらい、アタシはきみのことばかり考えている。 困ったな。本当に。 優しいきみも、ちょっとだけ怖いきみも、アタシは大好き。 だからさ。どっちかしか選べないのが、もどかしくて仕方ないんだ。 「さっきは怖かったな。 もっと大きくて悪い虫に食べられちゃったんだもん」 「ごめんって」 わざとらしく拗ねる彼女の声が、静かな部屋の中に響く。戯けて見せているのはわかっているから、一度は軽めの返事で返した。けれど、少し震えていた彼女の手を思い出すと、理性を放り捨ててしまった罪悪感が蘇ってくる。 「…ごめん。本当に悪かった。 だめだな。大人なのに、優しくしてあげられなくて」 こうやって彼女に誘われることが、最近は増えた気がする。その度に脳味噌が端からちりちりと焼けるような気分になって、自分がどれだけ彼女を欲しているかが嫌でもわかる。 彼女の気持ちもわかる。もうそういう仲なのに手を出さないというのは、一種の裏切りと言えるかもしれない。 好きなのに求め合って何がいけないのと、きっと彼女は笑うだろう。 けれど、自分は大人で、彼女を守ってあげなければいけないということも、同じくらいに自覚させられる。さっきのように想いに任せて彼女を求めてしまうと、彼女を傷つけてしまうかもしれないと思うと、ひどく怖くなる。 彼女は自分が育てたなどと、大言壮語を吐くつもりはない。むしろ見過ごしていた大切なことや美しいものを、彼女はたくさん教えてくれた。 そんな浮世離れしたどこか危うい彼女を、支えてあげたいと心から思っている。ここではないどこかを見つめている彼女の姿に、どうしようもなく惹かれている。 大好きだから想いが抑えられなくなって、箍を外して求め合いたいと考えてしまう。 でも、それと同じくらい、大切にしてあげたいと思っている。 どうすればいいのだろう。 愛することがこんなに難しいなんて、彼女を好きにならなければ知らなかったのに。 「あんまり謝らないでよ。 それより、もっと聞きたい言葉があるんだけどな」 彼女はきっと、そんなつまらない葛藤などお見通しなのだろう。見抜いた上で、こちらを煽っているのだ。 されるがままの自分が情けないと同時に、そんな彼女に少し仕返しがしたくなる。大切に思うのと同じくらい、隣に並んでいたいと思うから。 「…でも、シービーだって悪いんだよ」 「…ん…」 優しく。もう怖がらせないように。 でも、ちゃんと気持ちが伝わるように唇を塞ぐ。君を愛しているから、自分が自分でいられなくなるんだって。 「…こんなに美味しいのに、食べて、なんて自分で言ってさ。 …おかしくなっちゃうよ。そんなこと言われたら」 吐き出すように紡いだ言葉を受け止めた彼女は、いつものように柔らかく微笑んでいた。 「…ふふっ。 おかしくなるの、好きだよ。アタシ」 「きみに触れられるとおかしくなる。 熱くて、切なくて、アタシがいつものアタシじゃなくなる。胸がうるさいくらいどきどきして、ちょっと怖い。 でも、それが好き。アタシはそういうアタシも、好き」 君に見つめられると、たくさんの想いが湧いてくる。君が欲しい。君を大切にしたい。ずっと君の隣にいたい。 でも、行き着く先は結局同じだ。 君を愛することしか、考えられなくなる。 「きみは、どう? おかしくなったアタシは嫌いかな」 ゆっくりと、けれど迷いなく首を横に振る。 彼女が彼女で在り続けるのなら、自分はどこまでもそれを愛せる。恋に焦がれて熱に浮かされても、彼女はどこまでも美しくて、眩しい。 「アタシは好きだよ。どこまでも優しいきみも、そんなきみがおかしくなっちゃうのも」 そんな彼女が愛してくれるのなら、おかしくなった自分も好きになれるような気がする。彼女の「好き」には、狂うだけの価値がある。 「きみも好きになってよ。おかしくなったきみのこと。 おかしくなっても、きみは素敵だよ。アタシが保証する」 こっちが虫なら、彼女は花だ。そんなつもりなんて少しもないのに、甘い蜜と芳しい香りで、たくさんの虫たちを知らず知らずに狂わせていく、罪作りな花。 花屋の店先に並ぶどんな花たちよりも美しく、凛と野に咲く花。 「いいの?一緒におかしくなっても」 「いいよ。おかしくなったって、きみはきみでしょう? なら、アタシは好きになれるよ。どんなふうに変わったって、きみはアタシを好きでいてくれるから」 そんな花に、一緒に狂いたい、なんて言われたら。 どんなところにだって、ついていきたくなってしまうに決まってる。 大切に水をあげるのも、その香りに酔うのも、花を愛するということなのだから。 どんな愛し方も、君は好きだって言ってくれたから。 ああ。やはり自分は狂ってしまったのだろう。もう、たったひとつのものしかこしらえられないくらい。 君の咲く花畑を飾る、ありったけの言葉。 それを紡ぐためだけに生きるのが、こんなにも幸せなのだから。