墜ちていく。空に向かって墜ちていく。 矛盾した形容だが、浮状希理江の現状はそうとしか言えなかった。 翼を持たぬものが高いところから身を投げた末路は墜落と決まっている。 希理江は何の因果かその結末までわずかばかりの猶予が与えられた。 リアルワールドの建物の屋上から身を投げた時、彼女は偶然開いたデジタルゲートを通って、デジタルワールドの空へと墜ちていった。 そのままなら何も変わらない。墜ちる場所がデジタルワールドになっただけだ。 しかしそれをジャザモンが助け、自身は墜ちた理由を忘却した。二つの空から堕ちるだけだった猶予は伸ばされることになった。 それももう終わり。忘却という楔が外れ、墜ちていることを思い出した希理江は、自分の行動の結果を受け入れリアルワールドの地面に向けて墜落する。 「…………」 この高さから堕ちた人間は自分以外にいないだろうとふと思った。間違いなく助からないし助かるつもりもない。恐らく痛みも感じず一瞬で自分の身体は四散するだろうと考えたら少し気が楽になった。 希理江はその瞬間が訪れるのを待つ。もう何も考えたくなかった。父も母もいない。独りぼっちであんな世界を生きていくことが嫌だった。だから空から堕ちたのだ。 「キリエェェェェェェェェェェェェェ!!!」 「……ジャザモン?」 そんな希理江の耳に微かに言葉が届く。遥か下から、輝く銀の翼を持つデジモンが飛んでくるのが見えた。 これまで共に空を飛んできた、ジャザリッヒモンに進化したパートナーだった。 ジャザリッヒモンは自身が持てる力を全て振り絞って空を飛ぶ。 しかしなかなか距離が縮まらない。既に音を数度置き去りにしている速度で上昇しているのに、一向に近づく気配がない。 重力に従って墜ちている希理江と、逆らって飛んでいるジャザリッヒモンの違いが二人の距離に現れていた。 全力でアフターバーナーを吹かしていたジャザリッヒモンの脚部が悲鳴を上げている。機械の身体にデジモン故の汗がにじんでいた。重しとなる翼部のミサイルは既に投棄されている。全身のエネルギーを絞り出し、苦しそうに息を吐いている。 そんなパートナーの姿を希理江は見ていることができなかった。 「もういいよ、ジャザモン……お父さんもお母さんもいないんじゃ、生きていてもしょうがないもん……」 「そんなこと言わないでよ!僕はキリエに生きていてほしい!!」 僅かに距離が縮まる。全力を上げた脚部は装甲の隙間からオイルが漏れだした。 「キリエ!僕はお父さんの代わりにはなれないけど、でも!家族になることはできる!僕を一人にしないで!!」 「!」 ジャザリッヒモンの言葉にハッとした。母が死んだとき、自分も同じことを思った。 更に距離が縮まる。身体の耐久限界を超えた速度が装甲を剥いだ。翼が歪むが、これまでの経験を総動員して進路を維持する。 「僕だけじゃない!思い出して!キミがいなくなったら悲しむ人たちがいっぱいいるんだ!」 ジャザリッヒモンの言葉にこれまでの旅の記憶が駆け巡る。これまで出会ってきた人たちの姿が思い浮かぶ。 ――お父さん会えるといいねぇ 神崎璃奈ちゃん。たくさん一緒に遊んでくれた子。お医者さんらしく気配りできる子だった。 ――一緒に応援しよっか! 灯導千尋ちゃん。ジャザモンのレースを応援してくれた人。ヒーローみたいにかっこいいお姉さんだった。 ――ワタシ、オオキクナレル。タカイトコロ、イク? フリオくん。大きくなれる人。頭に乗せてもらったけど、飛び降りたら怒られちゃった…… ――すげーな!師匠って呼ばせてくれ! 鉄塚クロウくん。飛び方を教えてあげた人。あれからちゃんと飛べるようになったかな? ――いいっていいって!無事で何よりだよ! 倉間舞ちゃん。一緒にお宝探しをした人。許してくれたけど、宝の山を吹き飛ばしちゃった…… ――やっぱり気持ちいいよね、空を飛ぶのって 三津門恋ちゃん。一緒に空を飛んだ人。妹がいるって言ってたけど、わたしにお姉さんがいたらこんな人だったのかな? ――いつか希理江ちゃんのジャザモンに追いつくからね! 鳥頭鷹子ちゃん。同じジャザモンを連れた人。いつか一緒に空を飛びたいって約束したんだった。 ――困ってるんだろ?オレが手伝ってやる! 穂村拝くん。優しい人。一緒に高いところを探してくれたっけ。 ――……大丈夫か? 三上竜馬くん。強くてちょっと無口な人。襲われていたところを助けてくれたお兄さん。 ――みんなで食べると美味しいよね! 能星カナタちゃん。お友達のデジモンがたくさんいる人。一緒にご飯を食べて楽しかった。 他にもたくさん浮かんでくる。堀鉄華ちゃん、銀河すたあちゃん、安里結愛ちゃん、鞍馬りんねちゃん。 みんな親しくしてくれた人たち。自分がこのまま堕ちたら、みんな自分が抱いたあの時のような気持ちになるのだろうか? そう考えると胸が苦しくなった。目から零れ落ちた涙が空に溶けていく。 「うっ……うう……」 ジャザリッヒモンが更に速度を上げる。足からは煙が吹き、内部構造が覗く身体からは火花が散った。 それでも構わず銀の竜は空を飛ぶ。こんな痛み、希理江が受けたものに比べれば何ともない。 あと十数メートル。絶望的に遠い距離が二人の間にあった。 「キリエ!僕はキリエがいたから飛べたんだ!!これからも一緒に飛びたいんだ!!だから手を伸ばして!!!」 「ジャザモン……」 ジャザモンとの思い出が蘇る。初めて飛んだ空。何度も受け止めてくれた背中。雨の日は雲の上まで飛んだ。虹が掛かったら袂まで飛んでいこうと言った。夕焼け空が眩しかった。夜の星を共に見上げた。 どれも笑顔が溢れていた。今みたいに苦しそうに空を飛んでいなかった。 ――希理江、空はいいところだぞ。空を飛ぶと色んな人のところに行けるんだ。みんな、同じ空で繋がっているんだ。 お父さんの言葉が脳裏に木霊する。あの日も笑いながら家を出ていった。きっと最後まで空を飛ぶことを楽しんでいたんだ。 ジャザリッヒモンの右足が限界を迎え停止する。距離がどんどん開いていく。たまらず伸ばした手が空を切る。 それでも空を飛ぶことに憧れた竜は残った力で墜ちていく少女に言葉を投げかけた。 「キリエ!!空は墜ちるところじゃない!!飛ぶところだ!!!!」 「……うん!」   パートナーの言葉にテイマーは手にしたデジヴァイスを握りしめる。 友達との思い出が、家族との思い出が、父と母との思い出が、デジヴァイスに集いこれまでにない光を放つ。 墜ちるだけだった少女は己の心の内を力いっぱい叫んだ。 「わたしは、またみんなに会いたい!空を飛んでいたい!まだ生きていたい!!だから!!!」 「うん!!」    助けて 「――飛んで!!ジャザモン!!!」 「もちろんだ!!!」 光がジャザリッヒモンを包む。装甲の剥げた身体はより強固でたくましく、煙を吹いていた足は力強く、ボロボロだった翼は虹色に輝き、放つ光の粒子は飛行雲のようにその軌跡を刻む。 みんなとの記憶が、希理江の願いが、翼となって空へと飛び立った。 「ジャザリッヒモン究極進化――メタリックドラモン!!!」 鳥の翼を持つ竜が巨大な翼を羽ばたかせる。虹色の粒子が空を染め、その身体をグンと持ち上げる。 みるみる希理江の姿が近づいてくる。最早運命という重力はかの竜の飛行に屈した。メタリックドラモンはこれまで何度もやってきたように速度を合わる。 「キリエ、捕まって!!」 「うん!!」 希理江をその背に受け止める。 何千回とやってきたことのはずなのに、やっと希理江をちゃんと受け止められた気がした。 二人はそのままみるみる高度を上げていく。光の速さを超え、デジタルワールドの重力も、リアルワールドの重力も振り切って、空(ソラ)の境界を超え、虹色の翼を羽ばたかせて、空を飛んでいく。 やがて二人の視界は光に包まれ、気づいたら見知らぬ場所にいた。 「ここが……」 「空の向こう……」 二人の目の前にはどこまでも空が広がっていた。下には地面がなく、上には星がなく、その空は赤くて、橙色で、黄色で、緑色で、青くて、藍色で、紫色だった。朝焼けのようで、夕焼けのようで、夜空のようで、快晴のようで、曇り空のようで、雨模様のようだった。 これまで何度も見てきた、あるいは見たこともない光景に二人は目を奪われた。 まるで自分の翼のようだとメタリックドラモンは思った。 「たどり着いたんだ……」 「うん……そうだね……でも、お父さん、いないや……」 ここに来ればいると思った。そう信じて飛んだはずだった。そう信じて旅をしてきた。でもここにもいなかった。もうどこにもいない。もう父に会えない。その現実をやっと希理江は受け入れることができた。やがて、目から涙がとめどなく溢れ出した。 「……うわあああああああああぁああああぁあん!!!わああああぁああああぁああああああぁあああああああああん!!!ああああああああぁあああああああああん!!!うわあああああああああぁああああああぁああああぁああああん!!!!!」 声を上げて泣いた。あの日から、父に縋りつく母の姿を見たあの日からようやく泣くことができた。 積もった悲しみを吐き出すように、パートナーの夢を叶えた喜びを吐き出すように、希理江は声の限り泣いた。 「大丈夫だよ、キリエ。僕が一緒にいる。キリエと一緒に飛んでいく。二人ならこれからもどこまでも行けるさ」 新しい家族が語り掛ける。その言葉に安堵したように、希理江はまた声を上げて涙を流した。 少女の声が響く空で、銀色の竜がどこまでも羽ばたいていた。 ―――――――――――――― 目が覚める。固いコンクリートの地面に横たわっているようだ。 希理江が身体を起こして辺りを見渡すと、そこはあの日来た屋上だった。 意識がはっきりしてきた希理江は、共に空を飛んでいたパートナーのことを思い出す。 「……ジャザモン?ジャザモン!?」 あれは夢だったのか?そんな可能性が脳裏に過る。せっかく家族になれたのにまた独りになりたくない。 そんな不安は背中から掛けられた声ですぐに吹き飛んだ。 「キリエ、起きた?」 「ジャザモン!」 そこにいたのは銀色の機械の鳥だった。彼女のパートナであり、家族であるジャザモンだ。 初めて会った時のように抱きしめる。ジャザモンもそれに応え、翼で希理江を包んだ。 さっきまでとは違う、喜びの涙が頬を流れた。 「ジャザモン!ジャザモン!ジャザモン……!」 「うん。僕はここにいるよ……」 確かめるように何度も呼び掛ける。ちゃんとここにいる。自分は独りじゃないと、何度も何度も確かめた。 ようやく離れた希理江は周囲を見回すと頭に浮かんだ疑問をジャザモンにぶつけた。 「ここは……?」 「多分、キリエの世界。あの後光に包まれて、気づいたらここにいたんだ」 朧げだった記憶がはっきりしてくる。今度はちゃんと覚えていたことに安堵した。 理由は分からないが、あそこを経由するとリアルワールドとデジタルワールドを行き来できるようだ。 「……これからどうしよっか?」 ジャザモンが語り掛ける。空の向こうにはたどり着いた。 二人でリアルワールドで生きるのもいいし、メタリックドラモンになれば恐らくまたデジタルワールドに行ける。 少し考えた希理江はぽつりと呟いた。 「……またみんなに会いたいな。それで、もう大丈夫って伝えたい。それから、地図を作りたい」 「地図?」 「うん、デジタルワールドの地図!今まで行ったところとか、まだ行ってないところとかを書いて、みんなに教えたい!デジタルワールドにはこんな場所があるんだよって!それに、地図を作っている途中でまた色んな人に会えるでしょ?」 「いいね!賛成!」 二人が顔を見合わせる。これからの旅を思うと自然と笑みが零れた。 立ち上がった二人は揚々と歩き出そうとする。 「じゃあ行こう!」 「あ、ちょっと待って」 初めて会った日とは逆に希理江がジャザモンを呼び止めた。 希理江は手すりの傍に置いてあった靴を手に取り、足に履く。これから冒険をするのだから、裸足だとちゃんと歩けない。 それから手描きのチケット――遺書を手に取ると、それを破いた。細切れになった紙片が風にさらわれて空へと舞う。もう必要ない。これからは逃避のための飛行じゃない。行先の分からない冒険だ。そのために空を飛ぶのだから、どこに行くかを記すものなど必要ない。それに、自分には共に空を飛んでくれる家族が付いているのだ。墜ちるために書いたものはもういらない。 風が吹いた。帽子が飛ばされないよう手で押さえる。父がもういないことを思い出した。もう大丈夫。父も母も、思い出の中で、希理江の胸の中で生きている。この帽子と一緒に、新しい思い出を作って、父と母に見せてあげる。 心残りを終わらせた希理江は笑顔でジャザモンに向きなおった。 「お待たせ!さあ、行こう!」 「うん!テイクオフ!」 ジャザモンの翼を手に取り、靴を履いた足でしっかりと歩き出す。 天気は快晴で風は穏やか。絶好のフライト日和だ。 空を見上げる。どこまでも青く、どこまでも高い。二人ならどこまでも飛んでいけそうな空だった。 そして二人は、新たな空へと飛び立った。