人の活動には酸素が用いられる。 酸素と糖を組み合わせ、二酸化炭素と水とエネルギーを作り出す。 激しい運動をするたびにエネルギーはたくさん必要になり、私の肉体も酸素を求め喘ぐ。 しかし酸素を吸うための呼吸自体がすでに辛い。辛さを解決するには息を吸わなければならないのに、横隔膜を下げて肺を広げて口から空気を取り込む作業が私には苦痛で仕方がない。 呼吸に伴うエネルギーの消費に、呼吸で得られるエネルギーが釣り合っている気がしない。 あがる悲鳴は筋肉のもの。喉から悲鳴なんてあげたら呼吸が保たない。 窒息の苦痛を和らげるためのアドレナリンで快楽が得られるとは聞くけれど、私はそこまで到達したことがない。ハイになる前に力尽きる。 倒れる時の感覚は新鮮だ。いや新鮮だった。 目がぐるぐる回り、足がもつれ、内臓がひっくりかえり、上下がわからなくなって、普段滞りなく回転する頭脳も薄靄がかかった状態で認知機能が脱落する。 それが週2回はある。もはや慣れたものだ。 意識を喪失した私は気づいたらベッドにいる。保健室のベッドだったり、寮のベッドだったり。 前者の時は自分で意識がないまま向かっていたこともあったらしいが、後者の時は十中八九プロデューサーが運んでいる。 なぜなら倒れた次の日のプロデューサーの顔は、普段より3割増しで私を蔑んでいるからだ。 どうやって女子寮に入ったんだろう。 プロデューサーの背中の上で目が覚めたこともあった。 覚めたというか、嘔吐したというか。 あの時は本当に投げ捨てられるかと思ったし実際ベッドの上には放り投げられたけれど、翌日は普段の5割増しの顔と10割増しの毒舌になっているだけだった。 彼は優しいのだ。 だから私は彼に報いなきゃいけない。トップにはなれなくても、せめて、いつか誰かの輝ける道を舗装する彼の、予行演習くらいには。 ♢ もしもこの世が現実だと云うのなら。 どうか私の夢を叶えないでください。 ♢ いつもの事務所(代わりの教室)に行くと、そこにいたのは机に向かって頭を抱えているプロデューサーだった。 いや本当に頭を抱えていたわけじゃないんだけど、普段以上に眉間に皺が寄った表情的に、なんとなく問題は抱えてそうだった。 「どうしたの」 入ってきた私を見ると、眉間にある皮膚の谷間はさらに深くなり、明らかに私関連の問題なのだと察せられた。 このままでは彼の顔に取り返しのつかない苦悩の跡が刻まれてしまう。 「チッ」 「え、いま舌打ちした?」 「はぁぁぁぁぁぁ………………」 心配した私が近寄ると、もはや隠す気もない舌打ち、さらに大きなため息。普段から彼の言動は私に容赦が無いけれど(そうするように頼んだ)、それにしても会って即ここまで理不尽に面倒くさいアピールされることは無かった。 私への感情を隠さないでほしい、という話であって、私に鬱憤をぶつけてくれ、という意味ではなかった(それはそれで楽しいかもしれない)はず。 「どうしたの、プロデューサー。珍しい」 「仕事が増えそうです」 「おー。私の?」 「いいえ、俺のです。それに伴い篠澤さんに割ける時間が減ってしまうかもしれません」 椅子に座ったまま天を仰いだプロデューサーが、私の方を見もせずに言葉を溢す。 なるほど、そういえばここ一年彼はずっと私に付きっきりだった。 私はプロデューサー課のことは詳しくないけれど、少なくとも彼は無能と分類するには烏滸がましい能力を持っているのはわかる。この私を曲がりなりにも歌って踊れるアイドルにしたのだし。 本来なら複数のアイドルを担当できるくらいのバイタリティを私一人に注いでくれたことには頭が上がらない。よくぞ見捨てずにいたものだ。 いや、というか、むしろ今?今なのかな? 契約は一年だった。そろそろ満了するはず。 「もしかして、これを機に私のこと見捨て」 「ません」 「チッ」 「今舌打ちしましたか?」 「はぁ…………」 あからさまに肩を落とす。 まあ、割く時間が減るってのは辞めるつもりは無いってことだよね。 嬉しい。 「しかし時間と労力に限度があるのは事実です。もし篠澤さんが他の方に担当してもらいたいなら、是非とも俺を捨ててほしいです」 「あっ私が捨てる側なんだ」 「俺以外に当てがあるならですが」 「もう答え出てるよ」 選択肢を与えているようで与えてない。 いるわけない。私の担当したいなんて物好きなんて。 いやでもどうなんだろう。この一年それなりに頑張ってきたし、自分で気づいていないだけで、意外と優良物件なのかもしれない。 「無いですね。プロデューサー課の同級生上級生問わずあなたに関する話題はもっぱら罵詈雑言です」 「それ言ってるのプロデューサーだよね」 「はい。あなたについて聞かれるたびにひたすら愚痴を溢してネガティブキャンペーンに勤しんでいます。アイドルとしてのあなたはともかくプロデュース対象としてのあなたの評判は下の下です」 「独占欲?」 「否定はしません。途中まで進めたゲームのセーブデータを他人に渡すのはあまり好きじゃないんですよ」 プロデューサーはこういう素直なところがいいところだ。刺々しい言葉に私への思いやりが見える。 釣った魚に餌をくれるタイプ。 「じゃあ新しいアイドルが問題児とか」 「あなたに比べれば全てマシです。比べずとも優秀な子ですよ」 確かに入学間もない私はひどいものだった。レッスンどころかまともな運動すらままならない有様で、人前で歌うなんてとても。 ハズレ値との比較なんてするだけ誤差が産まれるだけ。 「むー。なら何に悩んでいるの。やることは決まってるんでしょ。私と、その子、二人プロデュースするって」 「その結論はもう出ています。だからただ憂鬱なだけです」 「…………夏休みの宿題みたいな?」 「篠澤さんは苦戦したことないでしょう」 「そうでもない。毎年量が多くて力尽きてた。漢字の書き取りが苦手」 「見れば覚えられるでしょうに」 「うん。全部覚えた。でも提出物はそうはいかなかった。低学年の頃はこれが大変。今よりも体力無かったし」 勉強は嫌いじゃないけれど、筆記は得意じゃない。長い文章を書くと手が疲れる。 なんであんなに鉛筆は重いんだろう。 「だから飛び級を?」 「できたから」 できるから。 できるなら、やった方がいい。みんなが喜んでいたし。誰かを笑顔にするという意味では、私はあの頃の方がアイドルだったかもしれない。 「…………今もそれなりにアイドルだとは思いますが」 「うん。でもあの時の方がみんな嬉しそうだった気がする。それなのに放り投げちゃって。ふふ、私、悪い子」 「ギフテッドを活かさないのは、悪にはならないでしょう」 「そう呼ばれたの久しぶり」 「アイドルのギフトは一切ありませんからね」 「そう言ってくれるのはいつも」 私は私の天才を不要だとは思わないけど、天才に頼って生きるならそれは私の人生ではなく才能の人生だ。 だから、私を私として扱ってくれる彼が好き。 「そろそろレッスンの時間なんじゃないですか?」 「あ」 「忘れてたんですね」 「お話しするのが楽しかったから。つい」 プロデューサーは嘆息すると、いつものようにあらかじめまとめてくれていた用具を持った。 ら ♢ と、ここまでが私の中のはっきりした今日の記憶。 この後は記憶が飛び飛び。 確かなのはどうやらまた私は倒れ伏したらしいということと、保健室のベッドで寝ているということと、ベッドの横で半ギレしているプロデューサーがいること。 「おはよう」 「おはようございます」 慇懃な口から放たれる、熱を持った刺々しい音程。 半ギレじゃすまないかも。全ギレ?ガチギレ? 「最近あんまりリタイアなかったから、油断してた」 「俺もです。まさかいつもこなせているレッスンで今日に限って倒れるとは思っていませんでした」 「怒ってる?」 「呆れています。トレーナーと相談してゆっくりとペースを上げ、確実に達成できる量のレッスンしかさせていないはずなのになぜなのか」 「なんでだろう」 「不思議で仕方ありません。体調が悪かったなら言ってください。それとも体力の配分を失敗しましたか?」 「たぶん、そう」 胡乱な返答をする私の周囲に人の気配は感じず、窓から入ってくる日光も見えない。 ここには二人きりしかいないようで、それが彼の憤りに拍車をかけているようだった。 「今何時」 「8時です」 「朝の?」 「夜に決まっています。もう少し起きなければこのまま寮に運ぶつもりでした」 となると数時間はここで私を見ていたのかもしれない。 その時間、彼はなにを考えていたのだろう。私への怒りはもちろんとして、きっとそれ以上に私を倒れさせたことへの責任感を感じていたのかもしれない。 「私の部屋、入るの」 「もう何度も入っています。あなたのイレギュラーに合わせるために学園からも寮からも許可は取っています」 「不法侵入じゃないね。遵法侵入」 ギロリと睨みつけられる。寝ている私と座っている彼だから、上から見下される形になって、心地いい。 「何ニヤニヤしているんですか」 「嬉しくて」 一層彼の眼が鋭くなっていく。多分放送禁止に近い罵倒を思い浮かべて、ギリギリ言うのを堪えたというところだと思う。 言ってくれていいのに。 「起きたなら帰りますよ、寮の前までは送りますから」 「むりそう」 「なぜ」 「身体重い。おんぶ」 「帰るのもレッスンですが?」 「ふふ、私の歩行ゲージはすでにゼロ。このままだと担当アイドルを床に這わせて帰宅させる鬼畜プロデューサーの名前をほしいままにできるチャンス」 「大ピンチですね」 プロデューサーは今日一の大きなため息をつく。 気分がゾクゾクする。 「はこんで」 「運びます。座るくらいはできますね」 「ん」 のぞのぞとベッドに手を付きながら身体を起こし、ヘリに座る。 万歳の格好をとって差し出された上着を着せてもらう。外は寒い。このまま出たら死んでしまう。 ぬくぬくしたフリースを着て、プロデューサーはおんぶのために私に背中を向けるのかと思ったら、正面に立ったまましゃがみ込んで私の膝裏に手を差し込んだ。 「これは……夢のお姫様だっこ……」 さすがプロデューサー、今日は甘やかしてくれる日。なんて気分がアガったのも束の間。 プロデューサーは持ち上げた私の上半身を自身の肩に布団干しのように引っ掛けると、そのまま片手で私の手足にロックをかける。 この運び方は。 「ふぁ……ファイヤーマンズキャリー……」 「荷物を持つときは片手は開けておきたいので」 私も荷物にカウントされている気がする。 女の子をこんな持ち方するなんて。好き。 「本当に身体重くなりましたね」 「デリカシー無い?」 「あなた相手に必要ですか?それ以前にアイドルの体調管理もプロデューサーの仕事なんですから、あなたの体重くらいずっと把握しています」 「私の全てを知ってくれている」 「頭の中だけは未だに理解できませんよ」 「うん、人類の技術ではそれはもう少しかかる。私がアイドル辞めたら早くなるかも」 「あなたが自分の脳内を言語化できればそれだけでいいんですが」 「私が死んだ後に脳をほじくり返せばわかるかも」 「手遅れですね。死人をアイドルにする趣味はないので」 「ゾンビ系アイドル」 「流行りませんよ」 夜空はすでに真っ暗で、街灯の灯りがなければすでに前も見えない。私は体勢的に後ろしか見えてないけれど、今来た道がすぐに暗闇に飲み込まれる。 この闇の中で彼はきちんと前が見えているのだろうか。前を見て進めているのだろうか。間違った道なんて選んでいないだろうか。横道に逸れたりなんてしてないだろうか。荷物のせいで自分の行くべき場所を見失ってなんていないだろうか。 普段徒歩で帰っている道で、こんな近場の道で、そんなことありえないのに。それでも考えてしまう。 「ねえプロデューサー」 「はい」 「新しい担当の子は、トップアイドルになれそう?」 あなたの夢は、叶いそう? 「まだわかりません。情報は集めていますが、直接会ったわけではなく、理事長からの勧めなんです。だからもしかしたらお断りするかもしれませんし、されるかもしれません」 「ふーん」 なんだろう。胸がさかさかする。頭をひっくり返して中身を整理したくなる感覚。 「────篠澤さん。もしかして今日そのことを考えていたんですか?」 「そうかも。レッスンの記憶がない」 「それなら、話すタイミングを見計らわなかった俺のミスですね」 やっぱり、彼は優しく、自罰的で、そして。 「昼間もお話しましたが、俺はこの趣味を止める気はありません。趣味も仕事も夢も、全て両立してみせます」 とても強欲なのだ。きっと、私以上に。 「だから、篠澤さん。あなたは、トップアイドルにならなくていいです。あなたは俺にとっての趣味ですから」 ♢ なんて、話をしている間にいつの間にか寮に到着。 ゆさゆさしながら運ばれるのはなかなか楽しかった。少し吐き気がするのは内緒。 プロデューサーがファイヤーマンズキャリーの甲斐あって空いている手を使って、門を開ける。 日の短い季節だからすでにあたりは真っ暗。夜空の星は街中だから見えないけれど。人の姿もここまで見えなかった。 二人きりの時間を邪魔されなかったのはいい。 「篠澤さんもう歩けますね?」 「む」 り。 「キレますよ」 「もうキレてるみたいだけど」 「まだです。この俺をキレさせたら大したものです」 「私が大物って言ってる?」 「キレました」 言うが早いか、プロデューサーは背負った私を足から地面に降ろす。口の割に丁寧な所作で私を扱うところにしゅるしゅるした気持ちになる。 そうされては私も二本足で立つしかない。人類の進化は二足歩行の進化。 いざ降ろされると身体はそれなりに軽かった。ベッドでたくさん寝て少しは身体も回復したらしい。 「では俺はこれで、部屋に戻ったらすぐに寝る支度をするんですよ」 「あっ待ってプロデューサー」 「運びませんよ」 「うん、それはわかってる」 「なら?」 不機嫌さ……というかめんどくささを滲ませながら律儀に私の語りを待つ姿は、彼らしい誠実さを感じる。 「私ね、トップアイドルになっても、いい、よ?」 「───────。なりたくてなれるものでもないでしょう」 一瞬、彼の息が止まったのがわかる。絞り出された言葉は、私に向けた言葉ではなくて、彼の中から探し出された一般論。 「私がトップアイドルになったら、プロデューサーは、トップアイドルをプロデュースしたことになる。かんぺきなりろん」 「破綻しています。あなたの実力で、そんな、夢みたいなこと叶うわけがない」 「でも、私の夢は叶ったよ」 だから、次はあなたの夢が叶わなければ、道理が合わない。 ねえ、あなたの望みを叶えるのに私を使って。道具になりたい。理論になりたい。数式になりたい。 夢の成就という解を私に託して。運命共同体なんでしょう? 私の希望があなたの絶望なんだから、私の絶望であなたの希望を遂げさせて。 私をあなたの趣味で、仕事で、夢にして。 口にしたら泡沫になりそうな想いが溢れてくる。全てを伝えるには私の息が持たない。 だけど彼なら私の想いは伝わってくれると信じてる。 「なら、これは勝負、ですね」 唖然としてた彼が覚悟を決めたかのように息を吸う。 「あなたがトップアイドルを目指す。もしなれなければ、あなたの人生はままならないままですが、俺の夢は叶わない。もしなれれば、俺の夢は叶うけれど、あなたは生きがいを失う」 そしてひどく愉快そうに、喉を鳴らして酷薄に笑う。こんな彼の姿は見たことがない。 いや、一度だけあった。たしか、私がむりやりライブをさせてもらった時の。あの顔。 スリルとリスクを天秤にかけた分の悪い賭けをする時の表情。 全く、失礼極まりない。けどそういうところが好きなのだ。 彼に言ったことは無いけれど、彼は頭が良い。 状況把握能力が極めて高くて、物事を現実的に捉えて、いつも私の手綱を握ってくれるのに、肝心なところで踏み外してしまう。 私という女に引っかかってしまったのがその証。 彼は今、また踏み外したのだろう。夢よりも私との勝負を優先してしまったのだから。 「でも、私はアイドル以外にも楽しいこと、あるよ」 「それを言い出すなら俺も篠澤さん以外で夢を叶える可能性はありますよ」 「むっ。結局、他のアイドルもプロデュースするんだ」 「一点賭けは素人のすることです。プロはワイドですよ」 条件は対等だと言う。なら、うん。いいや。 あなたと対等になれるなら、それでいい。 「わかった。おやすみなさい、プロデューサー」 「ええ、きちんと身体を休めてください。万全ですら、今の篠澤さんではトップに歯が立ちませんから」 身を持ち崩すタイプのギャンブラーはそう笑って私に背中を向ける。 いつもなら私を見送るけれど、今日は彼が先に立ち去った。 彼の背中を見ていたかったけれど、私も後ろを向いて部屋に戻る。 一方的に見守るのではなくて、対等な対戦相手にして同格の仲間で横並びの一体。 とりあえず、私の夢はまた一つ叶ってしまったらしい。 「しあわせ」