きっちりと仕事を終わらせて、なんの憂いもなくゆったりと湯に浸かる。幸福な一日の終わりと言えるだろうが、今は少しだけ困ったことになっている。 おもむろにシャンプーのボトルの頭を押す。既に数度同じことをしているが、期待していた通りのものは出てこない。 「あー…」 逆さに振ってもまるで手応えがない。蓋を開けて覗き込んでみれば、ボトルの中身は完全に空っぽだった。 「うーん…」 もう頭はすっかり濡らしてしまっていて、風呂場の外に出ていくのは億劫だ。それに、出ていったところでシャンプーの買い置きはない。 ふと棚を見ると、空になった自分用のシャンプーの隣にもう一つボトルがあった。星空のような意匠が美しい、陶器のような質感の容器だった。 何の味気もない自分のシャンプーとは、容れ物からして違っている。これを使っている彼女のことを思えば、自分の使うものにこだわりを持つのは不思議でもなんでもないけれど。 「おーい、シービー」 返事はない。彼女はきっと居間にいるのだろうが、そこまでは声が届かないのだろう。軽く振ってみたが、中身は十分に入っていそうだった。 「…」 他人のものを黙って使うのは気が引けるけれど、一度くらいで咎め立てされるような間柄ではあるまいと、ほんの少しだけ中身を出して手に取ってみる。 頭の上で髪を泡立てるときにやけにいい匂いだと感じたのは、きっと女物の高級なシャンプーだったからだろう。そう思うことにした。 意識しすぎないようにしていたのに、風呂から上がって首に掛けている髪を拭いたタオルからも、同じような匂いがしているような気がして妙にそわそわする。 そんなことは露知らず、シャンプーの持ち主の彼女──ミスターシービーは、湯上がりのラフな格好でソファーに寝転がりながら、上機嫌そうに脚をぱたぱたと上下させていた。 「おかえり。じゃあ、食べよっか」 帰り道に新しくできていたアイスクリーム屋のアイスは実に美味しそうで、買ってお互いに好きな味を分け合う約束までするのにそう時間はかからなかった。だがそれをすっかり気に入った彼女がお茶と一緒にゆっくり食べたいと言い出したおかげで、家まで急いで走って持って帰らなければならなくなったのだった。 彼女の全力疾走のお陰でアイスは溶けずに済んだが、そのせいで二人して帰宅早々にひとっ風呂浴びることになったというわけだ。 久しぶりに全力で走ったあとの身体には心地よい疲労感が残っていて、今から食べるアイスはきっとさっきよりも美味しいだろうなと思う。けれど彼女を前にすると、さっきのシャンプーの匂いがどうしても気になってむず痒い。 「うん。お茶も淹れようか。 それと、ごめん。シャンプー切らしてて、シービーの借りたんだ。今度買ってくるから、今回だけ勘弁してくれ」 黙って使った後ろめたさもあった。だから、何かある前に自分から言ってしまおうと思った。 それを聞いた彼女の表情に、不機嫌さは少しも感じ取れなかった。むしろその碧色の瞳が、興味深そうにくりくりと大きく見開かれて、こっちに近づいてくる。 口元がゆっくりと綻んで、整った鼻筋が首のところに寄せられる。 「ほんとだね。アタシみたいな匂いがする。 けど、ちょっとだけ違うな」 すんすんと匂いを嗅ぐ音がはっきりと聞こえて、じんわりと頬に熱が宿る。どこまでも楽しそうな彼女の声音に反して、できた返事はひどく頼りなかった。 「…そりゃあ、同じの使ったから」 その恥じらいさえ楽しむように、彼女は耳元でくすくすと微笑んだ。その声が、耳に残っているうちに、彼女のしなやかな指がゆっくりと髪をかき分けた。 思わず目を閉じてしまう。彼女の髪に触れたことはあるけれど、逆に触れられたことはなかった。 「リンスはした?」 「…いや」 彼女の指が、髪を挟んでゆっくりと梳いてゆく。その感触がひどく滑らかで、まるで自分の髪ではないように思えた。 「いいのに。使ってよ。 いつもより綺麗だから」 首筋に埋められていた彼女の顔と、真っ直ぐに向き合う。その表情はさっきよりもずっと、楽しげな笑顔に彩られていた。 「よかったでしょ、あのシャンプー」 「うん」 「全然いいよ。使っても。 あ、でもアタシとすっかり同じ匂いになっちゃったら、それはなんか面白くないなぁ」 彼女の整った顔立ちに浮かぶ表情は実に豊かなものだが、自分が一番好きなのは、こうやって楽しそうに笑うときだ。だからなのか、彼女の笑顔にも色々と種類があって、それがころころと変わることにも気づくようになった。 今だってそうだ。さっきまでの笑顔は無邪気さでいっぱいだったのに、今の微笑みの中には悪戯心がらんらんと輝いている。 「ねぇ」 「ん」 予感がする。きっとこれから、この小さな胸の中が彼女への想いでいっぱいになって、恥ずかしくて苦しくて仕方なくなる。 「シャンプー買いに行くとき、教えてよ。 アタシも一緒に行きたい」 でも、目を逸らせない。逸らしたくない。 そのくらい、彼女の笑顔が好きだから。 「…なんでさ」 自分でも驚いてしまうくらいに彼女に問う声が小さい。胸がきゅっと締め付けられるような気がして、これ以上声が出せない。 「きみの匂い、好きだから。 シャンプー替えるなら、アタシも好きな匂いにしてほしいんだ」 彼女に好きと言われる度に、心の中の気持ちが溢れ出して止まらないのに。 その出口を締め付けられているみたいで、切なくて仕方ない。 「きみはアタシの匂い、好き?」 「…」 何も答えなかった。答えなんて聞かなくたってわかっているくせに、あえて言わせようとする意地悪な彼女に、せめてもの抵抗がしたかったのだ。 「同じシャンプー使ったならさ。わかるでしょ?」 不満そうな、寂しそうな声音を聞くと、思わず本当のことを言ってしまいそうになる。けれどやっぱり恥ずかしくて、彼女も少しくらい同じ気持ちになってしまえばいいと思ってしまって、素直になれない。 「…わかんないよ」 ぼそりと言い捨てたのは自分なのに、返事がないと寂しい。結局のところ、自分だって彼女と同じくらいわがままなのだ。 けれど彼女は、そんなわがままさを隠したりしない。わがままな姿だって、たまらなく愛おしい。 「…じゃあ、今確かめて」 拗ねたようなじっとりした目付きで、少し紅みが差した頬を膨らませる彼女が、目に焼き付いて消えそうになかった。 いくら聞いても答えてくれない彼の鼻先に、ふんわりと頭突きをしてみる。 「ん…どう?」 もう蕩けきったその目がとうに答えを教えてくれていたけれど、彼の口から聞きたかったのだ。 「…嫌いなわけないじゃん」 顔を上げると、頬を真っ赤に染めた彼が恥ずかしそうに目を伏せていた。そんな彼が見れただけで嬉しくて、口元が勝手に綻んでいくのがわかる。 でも、まだだめだよ。こんなに待たされたんだから、もっときみの気持ちが聞きたい。 「じゃあ、髪は?」 「…好き」 今度は間を置かずに答えが返ってきた。それはそれで嬉しいのだけれど、そうするともっと言ってほしくなってしまう。 「…どのくらい?」 今度は返事がない。だからさっきと同じように、彼が答えてくれるまで待っていた。 きっと彼はまた恥ずかしそうに、けれど愛おしそうに言葉を紡いでくれるのだろうとばかり思っていた。だから、背中に回った彼の両手にそっと抱き寄せられたときには、驚いてつい顔を上げてしまった。 「…!」 彼の表情は相変わらず可愛らしい恥じらいでいっぱいだったけれど、きっと今度はアタシもそうだ。アタシも、彼から目が離せなかった。 彼の手が掬い取ったアタシの髪が。 「このくらい」 その唇を柔らかく覆い隠す姿が、目に焼き付いて離れなかった。 何も感じないはずなのに、その姿を見ていると髪にも感覚があるように思えてしまう。 だって、こんなに嬉しいんだもん。他のどこにしてもらうキスにも、ちっとも負けないくらい。 「…そっか。 アタシも好きだよ」 「…どのくらい?」 そう訊いてくるきみに、ありったけの気持ちを伝えたくなってしまうくらい。 彼の首元に顔を埋めて、唇で髪をかき分ける。アタシみたいに長さはないからこうするほかはないのだけれど、いくらやっても捉えられないきみの髪になんだか逃げられてしまっているみたいで寂しい。 だから、受け止めてほしくなっちゃうんだ。 きみの髪に鼻筋を埋めながら味わう、真っ白な首筋に。アタシの髪を愛してくれた、きみの唇に。 「ん…!」 きみの髪を撫でながらするキスは、ひどく甘い味がした。 どのくらい好きかって聞いたよね。 「これじゃ、ぜんぜん足りないくらいだよ」 足りないよ。好きって伝えたら、もっと愛おしくなってしまうから。 アタシと同じ匂いをつけた、綺麗になったその髪も。アタシのことが好きって、伝え続けてくれるその心も。 ──大好きだよ。きみの、ぜんぶが。