「ん…んっ…ふふ」 柔らかくて温かい感触が、ゆっくりと触れて、離れる。 時間にして10秒と少し。身体のほんの一部をたったそれだけ触れ合わせていただけなのに離れるのが寂しくて、彼を壁に押し付けるように寄りかかった。 甘くて、酸っぱくて、切ない。彼とのキスはいつも違う味がするのに、次もまたしたくなることだけはいつまでも変わらなかった。 「ごちそうさま。やっぱり美味しい」 「…お粗末さま」 今日のきっかけはなんだったっけ。いつもみたいに彼を家に呼んで、ごはんを作ってもらって。褒めたら恥ずかしがるのが可愛くて逃げる彼を捕まえたら、そのまま触れ合いたくなってしまった。 好きだと思ったら我慢できない。すぐに味わえるくらい近くにあるものを待つなんて、自分に正直じゃないことはしたくなかった。 「美味しく作れたらこうしてくれるのか?」 「うん。 だから、いっぱい作ってよ。これからもさ」 照れながらでも抱き返してくれる彼の温もりを感じていると、余計にそう思う。一回味わっただけじゃ、ぜんぜん足りないくらいに。 もっと食べたい。アタシのことも食べてほしい。 熱を宿した身体を冷やすように、服の首元をゆっくりと開けた。 彼の目が驚いたように見開かれて、その頬が一層赤くなるのを見ると、言わなくてもきっちり伝わってるとわかって嬉しくなる。促すように抱きとめる力を少しだけ強くすると、さっきまで触れ合っていた唇がそのまま首筋へと近づいていく。 その距離がほんの少し縮むだけなのに、その時間がひどく長く感じる。早く来てほしいと思う一方で、もっとこのもどかしい感じに浸っていたいとも思えるこの時間も、アタシは好きだ。 でも、あとほんの少しで触れるところで、彼の動きは止まってしまった。 「明日レースだろ?」 「うん」 彼の言いたいことはわかる。アタシの勝負服は肌をかなり出すデザインだから、見えてしまわないか心配なのだろう。 「だからほしかったの」 でも、そんなことなんてアタシは気にしてない。むしろ大切なレースだからこそ、きみの想いを刻んでほしかった。 「アタシね。きみがアタシのこと好きって伝えてくれるのがすごく好きなんだ。 だから、きみの想いを感じながら走れたら、どんなに気持ちいいだろうなってずっと思ってた」 きみはターフに立てないけど、きみと一緒に走りたいと思う気持ちは抑えられない。 きみの想いも連れていきたい。いつか、きみがアタシと同じ景色を見ようとしてくれたときみたいに。 「だから、ね。ちょうだい?」 きみの気持ちはもう、ずっと伝わってきてる。それをずっと感じてるのに、我慢なんてできるわけない。 でも、やっぱりきみは強い人だ。強くて、優しい。 「ライブだってある。だから、今日はだめ」 彼に大事にされていると実感するのは複雑な気分だ。 もっと踏み込んでほしいもどかしさと、それだけ大切に想ってくれていることへの嬉しさが混ざりあって、胸の中が不思議な感覚で締め付けられる。 「…ふふ。残念。 ごめんね、困らせて」 今はこれで我慢しておこう。そんなきみがアタシのために自分の欲望を抑え込んでいるところも、正論を言っておきながらやっぱり未練がましくアタシを強く抱きしめるのも、すごく好きだから。 とはいえ、触れてもらえなかった切なさはやり場をなくしてまだ身体の中を渦巻いている。これ以上求め合うことは諦めるしかないのだから、あとは言葉で満たしてもらおう。 「こういうの嫌いかな。お前は俺のものだ、みたいな」 このくらいのわかりやすい挑発では、きみは揺るがないことなんて、もうとっくにわかってる。むしろ穏やかにはにかむ姿が見られて、少し悔しいけどやはりどうしようもなく安心する。 「シービーは誰のものにもならないだろ?」 「あははっ。やっぱりわかってる。 でも、追いかけてほしいな」 きみと言葉を交わすたびに、心が通じあっていることを実感するのが好きだ。そんなきみに甘えたときに、少し恥ずかしそうに受け入れてくれることも。 「じゃあさ。 アタシがきみに付けるのはいいよね」 今度はきみの白い首筋に、アタシの手を乗せる。けれどそれ以上は何もせずに、反対に赤くなったきみの表情をじっと見つめる。 きみが受け入れてくれるのを待っていたかった。そのほうがずっと、愛し合ってるって思えるから。 何も言わなかった。言わなくてもよかった。 こくり、と、小さく首を縦に振ってくれただけで、アタシには十分だった。 「う…んっ…!」 きみの声が響く度に、もっと欲しくなって強く首筋に吸い付く。続きをねだるように抱きしめられると、息が続かないくらいに触れ合っていることを忘れてしまいそうになる。 わがままだね。アタシって。 あんなにきみが好きって言ってくれたのに、まだ足りないって思っちゃってる。きみが好きって言ってくれる度に、もっと欲しくなって仕方なくなる。 そんなアタシをきみが受け止めてくれることが嬉しくて、わがままでいるのがやめられない。 「ありがとう。アタシの気持ち、残させてくれて」 「…嬉しいのは俺のほうだよ。 シービーの気持ち、すごく感じる」 ありがとう。そんなアタシを好きでいさせてくれて。 アタシも、きみが好きだよ。 「そっか。 また付けていい?消えちゃったらさ」 こくりと頷くきみの蕩けた瞳を見ていると、今日はこれで我慢すると決めたのにまたかぶりつきたくなる。アタシが咲かせた赤い花は、そのくらいアタシの好きな色をしていた。 「…なんか、さっきシービーが言ってたこと、分かっちゃったよ。 あんなに恥ずかしかったのに、今はずっと消えないでいてほしいって思ってる」 それをきみが気に入ってくれたこともとても嬉しいけれど、その分だけやはり寂しくなる。アタシもおそろいの花を、きみにプレゼントしてほしかった。 「だからアタシにも付けてほしかったのに」 わざとむくれた声でそう言うと、彼は笑ってアタシを抱きしめた。 「ごめんごめん。 その代わり、絶対に消えないものをあげる。キスはできないけど」 微笑む彼の瞳はきらきらと弾んで見えて、なにか楽しいことを思いついたのがわかる。 「ふふふっ。何をくれるのかな?」 「それは明日のお楽しみですよ」 おどけた彼から思った通りの答えが帰ってきて、決めていた通りに拗ねたふりをして頬をつつく。 今すぐに教えて欲しかったわけじゃない。アタシが一番好きなことをもっと愛せるようにしてくれる、いつも通りのきみが見たかっただけだ。 ああ。本当に明日が楽しみだ。 きみがくれたものを想いながら、まっさらなターフに飛び出していくのが。 控室にいても伝わってくる熱気。前に走った子たちの情熱を受け止めて、緑色の海のようにそよぐターフ。 アタシの好きな世界が、もうすぐそこにある。レースの前の高揚感は、何度味わってもよいものだ。 「行ってくるね。 ふふ。今日はどんなレースができるかな」 「シービーは本当に変わらないな。それが嬉しいんだけどさ」 でも、それが前よりもっと楽しくなったのは、アタシをそこに送り出してくれるひとができたからだろう。好きなものを愛することしかできないアタシの生き方に、ありったけの愛をたくさん乗せてくれたひとが。 「変わらないよ。いつだってきみが夢見るアタシでいるって、約束したからね」 そんなきみを見ていると、きみと交わした約束が今でもアタシを支えていることがわかる。きみの顔を見ていると、アタシがアタシのままでいることを胸を張って誇れる気がする。 「ありがとう。 でも、ちょっとだけ変えていいか?」 けれど、そんなきみは少しだけいつもと違っていた。 彼の両腕がそっと頭の後ろに回って、抱きしめられるのかなと一瞬だけ思った。けれど目の前の彼の身体はそれ以上近づくことはなくて、腕だけがただ忙しなく動いている。 彼の指が左耳に触れて、思わずぴくりと身体が震える。でも、それ以上にアタシに何をしてくれるのか知りたくて、目を閉じてなすに任せた。 「いいよ。目を開けて」 そっと瞳を開いて、鏡を見る。 彼の触れた場所には、優しい雨が一滴だけ降っていた。 青い宝石をあしらった、水滴を模したイヤリングだった。雨を愛するアタシの姿を想って、彼が選んでくれたのだろう。 「俺の気持ちはここにいっぱい込めたから。 一緒に連れて行ってくれよ」 偶然なのか、必然なのか。今日も雨が降っている。 アタシの好きな世界に、きみの想いと一緒に駆け出せる。 「ありがとう。 いいね。今日にぴったりだ」 それが、何よりも嬉しかった。 でも、ひとつだけ困ったことがあった。もう行かなければいけないのに、きみが愛おしくて抱き合うのがやめられない。 「…錘になっちゃうかな」 でも、それも心地いい。きみの腕の中に閉じ込められる不自由も、きみがくれる想いの重さも、アタシの好きな世界のひとつだ。 きみがいてくれたから、不自由も自由も同じくらい心から愛せる。 「そうだね。でも、すごく心地いいんだ。 それだけ想ってくれたって、伝わってくるから」 だから、アタシはきみが好き。 きみがくれた「好き」と、一緒に走っていたい。 「いいよ。 一番早く、ゴールまで届けてくるね」 約束は苦手だ。 でも、きみと交わした誓いのキスは、何よりも甘くて幸せな味がした。 風が、雨が、大地が、アタシのぜんぶを受け止めてくれる。なにもかもをさらけ出したくて、ターフに吹く自由な風にアタシもなりたくて、ただ一心不乱に走り続ける。 観客の歓声も、自分の息遣いも、何も聞こえない。誰よりも早くゴールを駆け抜ける瞬間の、一瞬の静寂。 そして、アタシの名前を呼ぶ声で、世界に音が戻ってくる。 ああ。やっぱり最高だ。 走るのって、こんなにも気持ちいい。 「トレーナー!」 だからこそ、全力で駆け抜けた後にはきみが恋しくなる。雨と泥にまみれていたって、アタシもきみも気にしない。 早くきみに会いたい。きみを抱きしめて、この熱をぜんぶ伝えたい。 「楽しかったか?」 「最高」 きみの想いがあったから、こんなに楽しいんだよって。 「ありがとう。約束、守ってくれて」 きみのことが、大好きだって。