月影の中に埃の落ちる音さえ、人気の絶えた廊下にはうるさく響く。 まして日中は上下の別なく、老若男女問わず人の歩き回る城内においては、 この時間帯の静寂は、巨大な生物の口の中にいるような不気味な息苦しさを生む。 無意識に唾が落ちる――どっ、どっ、どっ、と心臓の音が壁の上を跳ね回り、消える。 夜遅く、女が一人足音を殺して歩いているのは、それ自体特段おかしなことではない。 しかし彼女の内心はどうだろう。自ら絞首台に行く罪人と言うべきか―― そうでなければ、家人のいるやもわからぬ館に忍び込む盗人とでも言うべきか、 いずれにせよ、穏やかならぬ心地であったことだけは間違いない。 視えざる舌が、べろりと肌を舐める――初夏の夜半とは思えない寒気が背を震わせた。 それにつられて、深く谷間の覗いた胸元も、また一つの生き物のようにわなないた。 夜の青、月の銀。それらの中にあってなお、彼女の肌はつやつやした白を溜め込んでいる。 うっすらと浮いた汗の粒さえ、弾けんばかりにぷるぷると揺れているようで、 その悲痛な表情さえなくば、きっと、どれだけ美しかったろうかと思わせる。 言葉にならぬ息が、歯と舌にすり潰されながらするりと空気の中へと溶けていく―― あえて言語化するならば、なんで私が、なんでこんなことを――といったところだろうか。 しかし彼女はそれを口にしない。そう決めたのは自分で、これが仲間のためになるなら。 切れ長の目は、その心根の強さを思わせた――頭の左右で二つに纏められた赤茶の髪もまた、 快活さと、若さと、自身への誇りとを伺わせるに十分であった。 想い人の顔を、ほんの一瞬頭に浮かべる――否、それは執着である。弱さである。 彼を裏切って、好きでもない相手の望みを聞いてやらねばならぬのだから、 その影が色濃いほど、却って心は傷つくのだ。今の彼女にとっては、 亡き兄の仇を取るために一切の屈辱に耐えて目的を果たすか、 あるいはつまらぬ自尊心と恋慕のために、それらを打ち捨てるかの二つに一つ。 そして後者を選べるほど無責任な女ではなかった、というだけのことである。 こつこつこつ。扉の中へ音が吸い込まれていく。やはり不気味な静寂はまだ、 彼女の上にずっとのしかかったまま、その柔らかな肌を品定めしているようだった。 ちょうどそれは、扉一枚隔てた先に、来客の訪れるのを待っている一人の小太りの男、 その厭らしい視線だけが壁をすり抜けてきているような錯覚をも引き起こす。 男は己の寝台に腰掛けたまま、薄ぼけた鏡の表面に脂ぎった指を押し付けていた。 この鏡一つを巡って、彼女と、その仲間の薄汚れた連中二、三人は、 わざわざこの城まで旅してきたというのだから――ただで渡してやる義理もあるまい? なんの面白みもない、埃を被った鏡と交換に、あの豊かな胸を、細い腰を、丸い尻を、 一夜と言わず好きにできるのであれば、これほど愉快なことはなかった。 勿体付けて咳払い一つ、男は扉越しに命令を下す。入ってこい、と。 女は無言のまま、彼の分厚い顎肉を、まだ震える唇を忌々しげに睨んだ。 無論、憎まれ口など叩かない。男の手の中に、これ見よがしに鏡の握られている限り。 そして彼が、飽きた玩具を投げ捨てるのと同じ手振りで寝床の枕側にそれを放ると、 女は観念したように、そのにやついた視線、十本の肥えた蚯蚓めいた指の踊る中に、 自ら身体を潜らせる。見るだけ、嗅ぐだけ、触るだけ、との約束を彼が守ることを期待して。 壁に掛けられていたあの似顔絵はどうだ?餌を鼻先に出された豚そのものの様子とは、 何一つ同じところがないではないか。陰口を叩かれるだけの品のなさにも納得だ。 王子がこの様では、きっとこの国はまともに立ち行かなくなるだろう――女は嗤った。 高貴なだけのそんな下衆に、自ら身を委ねている己をも同時に。 彼女の思うよりずっと、夜は永く――彼女の思うよりずっと、彼は卑怯だった。 日の昇るまでに何度、嘘つきと彼を罵倒したかは二人しか知らないことだ。