志木萌音は一通りの検査を終え、ため息をついた。 通い慣れた病院。いつもの患者衣。同じ結果の検査。 ぜんぶ変わらないのに、お母さんはいつも不安そうにしている。 生まれたときから私の目は一色覚、いわゆる全色盲だから、良くなることも悪くなることもないのに。 「萌音さんお疲れ様です。視力は0.07で前回と変わらないですね。今のサングラスはどうかな」 「いいと思います、これでお昼に外に出ても見えます」 だから、私だけはなんともないようにするのだ。 「もう終わりだけど、疲れちゃったかな。少し休むかい?」 本当はそんな必要はない。 けれど、お母さんはいつもお医者さんと話したそうにしている。だから。 「お願いしてもいいですか」 でも本当は疲れていたのかもしれない。 いつの間にか本当に眠ってしまっていたのだから。 目を覚ましてすぐ自分がベッドにいないことに気づいた。 立ち上がり周りを見ると、いつもと見え方が違う。 かけていたサングラスを外しても、昼らしいのに見えなくなることがない。 それどころか、見えるはずがない遠くの景色まで見えている。 写真に顔を寄せてやっと見た山や森の本物と思われるものが、自分の目ではっきりと。 「うわあ…」 萌音は知らず歩き出していた。 寝ている間に何か新しい施術でもあったのだろうか。 足下の花も森の木の一本一本もはっきりと見えるし、近寄るとより細かく見える。 どうも視力が急に上がったようだった。そんなことあり得ないはずなのに。 ボキリ、ドサリと重たげな音を聞いた萌音はその方向、森がある場所を見る。 すると森からとても大きな虫のような生き物が姿を見せた。 クワガタ虫のようで、その身体に見合った大きなハサミを持っている。 あのハサミで挟まれれば、自分なんてあっという間につぶされてしまうだろう。 本能的な恐怖を感じた萌音は反対方向へと走り出した。 後ろからブゥーンと虫の羽音と思しき音が聞こえる。こちらに向かって飛んできているのだ。 その音に気を取られた萌音は足下の石につまづき転んでしまう。 近づいてくるハサミ。その姿に目をつぶる萌音。 今にもハサミで切り裂かれると思ったそのとき。 「大丈夫?」 代わりに大きな衝突音と、女性の声がすぐ近くで聞こえた。 目を開けると、目の前にはクワガタを押さえつけるドラゴンか犬のような生き物と、自分より少しだけ年上の少女がいた。 「ブイドラモン、追い払って」 「おう!」 ドラゴンはクワガタを持ち上げ、地面へ叩き付けた。 クワガタはよろよろと立ち上がり、元の森へと帰っていく。 「ありがとうございます」 「あなた、もしかしてデジタルワールド、ここに来たばかり?」 その言葉に萌音はただうなずいた。ここはデジタルワールドと言うのか。 「私は堺木田真姫。こっちの青いのはブイドラモン……ってうん?」 ドラゴンを指差した真姫は訝しげに萌音を見つめる。 「もしかしてあなた、目になにかあったりする?」 「はい、色はまったくわからなくて……」 守ってくれたドラゴン。青いらしいその姿はいつもどおり白黒で見えていた。 視力がよくなった今でも、それ自体は変わらないようだった。 「なるほど……うん、わかった」 真姫さんは遠くを指差す。 「あっちにはじまりの街というのがあってね、人もデジモン、この子みたいな生き物なんだけどね、暮らしてるの。そこで少し考えると良いわ。帰るにせよ帰らないにせよ、ね」 私も帰らせ方とか知らないしね、と真姫は笑う。 「ありがとうございます」 「ついでにそれ、持っていった方がいいよ」 真姫が指差したのは先ほど躓いたところで、石じゃなく携帯のような機械だった。 それを拾い歩いていこうとする私を、ブイドラモンさんは心配そうに押し止め、街まで送ってくれた。 さっきのクワガタ(クワガーモンと言うらしい)もデジモンらしいが、いろんな子がいるんだなと萌音は思った。 「手伝う?お前がか?」 幼年期デジモンの世話をしているというユキアグモンに会いに行くと、訝しげな顔をされた。 はじまりの街には本当にいろんな人やデジモンがいた。 宇宙人さんや宇宙人デジモンさんやデジモンのお医者さん。 みんな優しくしてくれて、でも私だけ何もしないのも気が引けたので、デジタマというデジモンの卵が発生するところで幼年期デジモンのお世話をしようかと思ったのだ。 病院で小さい子の世話をするのは慣れていたから。 「はい、ダメですか?」 「ダメってことはないけど。……オレアグモンじゃなくてユキアグモンだからいざってとき守ったりできないけどいいのか?」 ユキアグモンは爪で頭をかきながら言う。 アグモンとユキアグモンはよく似ているけど色が違うというのは、ここに来る前に聞いていた。 「私の目、色わからないんです。だから黄色も白色も同じなので、ユキアグモンさんも頼もしく見えますよ?」 「なんだそりゃ。…まあいいか、オレ一人じゃ大変だったし」 そうして、私はユキアグモンさんと幼年期デジモンの面倒をみることになった。 幼年期デジモンたちのごはんを持って歩いていると、アンコさんが頭をなでに来た。 「萌音ちゃんはいつもデジモンだけでなくデジタマのお世話も頑張っていて関心ね」 「ありがとうございます」 「今度うちの教会にも来てね、特別におごっちゃうから!」 アンコさんが手を振って見送ってくれた。いい人だ。 ただ、教会は集まるデジタマモンさんの雰囲気が独特で、気後れして行けていない。 「持ってきたよみんなー!」 萌音の声に幼年期デジモンたちが歓声をあげる。 一人で面倒を見ていたユキアグモンはやっと来た萌音に胸をなでおろす。 食べるのに夢中な幼年期デジモンたちを見ながら、「33、この子は53かな?」と数字をつぶやく。 「その数字なーに?」 萌音の言葉にコロモンが反応する。 「ええと、大きさかな?」 「えー、ボクの方があいつより大きいよ!」 「でもそう見えるから、ごめんね」 萌音が言うと、コロモンが身体ごと頭をひねったが、そのまままたごはんを食べ始めた。 「ねえ、この子たちには散歩が必要じゃない?」 みんな食べ終わり、賑やかに騒ぐ幼年期デジモンたちを見守る萌音に、ある女性が近づいてきて言った。 小柄で優しそうな見た目だが、はじまりの街に住んでいる人ではないらしく見覚えがない。 「散歩ですか?」 「そう、はじまりの街の中だけじゃなく、たまには他のところを少し歩かないと成長できないわ」 散歩自体は悪くないが、はじまりの街を出るのは心配だ、そう萌音は思ったが 「さんぽー!」「そといくー!」 それを聞きつけた幼年期デジモンたちはすっかり乗り気になっていた。これで行かせないのも可哀想だし、近くならいいだろうか。ユキアグモンに聞いてみようと思った。 振り返ると、女性はいつの間にかいなくなっていた。 「みんな楽しそうですね」 ぴょんぴょんと動き回る幼年期デジモンたちを見て萌音が言うと、ユキアグモンが肩をすくめた。 「散歩とかあんまりしてなかったからなあ。……オレがアグモンなら、安全に散歩に行けてたのかな」 「ダメです、そういうの。今この子たちのお世話してるのはユキアグモンさんで、ユキアグモンさんのおかげで今みんな喜んでるんですよ」 「でもオレは白い半端モンだから」 ため息をつくユキアグモン。 「ほら、黄色くても白くても、私の目から見れば一緒ですよ」 「そのブラックジョークは止めてくれよ……。あー!こらお前一人で行っちゃだめだって!」 幼年期Ⅱともなれば一人でどこかへ行きたい気にもなるらしい。気まずさを誤魔化す意味もあったのか、ユキアグモンが追いかけていく。 帰ってくるまで少し待とうかと立ち止まると、ボタモンやプニモンが萌音の周りをぐるぐると回っていた。 その楽しそうな姿を楽しそうに眺める萌音。 「静かにしなクソガキども!」 頭のポイズンテールを地面に叩き付け、サソリのような姿をした人間みたいなデジモンが姿を見せた。 「私は毒の闘士・セルケトモン!お前たちを苦しめてあげるわ!やっぱりガキの恨みはガキよね!」 セルケトモンが幼年期デジモンに狙いを付けたのだった。 「そもそもボランティアでガキの世話なんてする奴がいるから!簡単な仕事だとか勘違いされんのよ!」 (ねえみんな、私が大声出したらはじまりの街へ逃げて、街の大人や大きなデジモンたちを呼んできて) (でも萌音は?) (私はあの人を引きつけるから) 一人でヒートアップしていくセルケトモンを伺いながら、萌音と幼年期デジモンたちが小声で相談する。 怖いけど、この子たちは私が守らなきゃ。覚悟を決め、声を張り上げようとする萌音。 「リトルブリザード!」 「ひゃっ、冷た!」 そのとき、サッカーボール大の冷気がセルケトモンにぶつかった。 コロモンを頭に乗せたユキアグモンが追いついてきたのだった。 「萌音!みんな!逃げろ!」 ユキアグモンが大声を出すと、それに合わせて幼年期デジモンたちが逃げていく。 「何をするのよこのアグモンモドキ!」 「うるせえサソリオバケ!だれにも相手されないから幼年期なんていじめるんだ!」 「言ったわね!」 ポイズンテールを叩き付けられて吹っ飛ぶユキアグモン。その横にふわふわと落ちるコロモン。 怒りに任せて叩き付けたためか毒の針は刺さっていないようだった。 「オレが今……一番強いんだから……オレがみんなを守るんだ……」 ふらふらと立ち上がるユキアグモン。 他の子たちは街へ戻った。でも大人や他のデジモンたちが来るのはいつになるか。 「もういいわ、あんたで我慢してやるわ」 ユキアグモンへ勝ち誇った顔で歩み寄るセルケトモン。 「ユキアグモンさん!」 萌音が叫んだ瞬間、あのとき拾った機械が光を放ち、萌音は頭に浮かんだ言葉を叫ぶ。 ドット・デジクロス! ユキアグモンとコロモンが一緒に光に包まれる。 萌音は思う。 デジモンたちはみな、人間と違って黒と白の四角形が合わさった姿をしていた。 なら、その四角形を組み合わせれば、もっと強くなるのではないか。 強さ。そのイメージの拠り所は、いつか自分を守ってくれたドラゴンだった。 「ブイドラモン!……ってオレが!?」 ドット状のブイドラモンとなったユキアグモンが自分の姿に驚く。 「またホイホイ進化なんてしちゃってさあ!どうせあのチビが元じゃない!」 セルケトモンのポイズンテールを今度は避け、必殺技を放つドットブイドラモン。 「Vブレスアロー!」 「クソ、こんなの割に合わないわ!覚えてらっしゃい!」 悪態をついて走り去るセルケトモン。 その背中を見て一息つく萌音。 「この姿ってなんなの?」 ドットブイドラモンが自分の身体を見て言う。 「えーと、私からはデジモンってそういう風に見えてるんだけど…」 「マジか、変なの。……こんな風に見えてれば、そりゃアグモンとも区別つかねえな」 「そうなのかもね……でもありがと」 「お礼の言葉はまだ早いぞ。これから、チビたち集めなきゃいけないんだからさ」 「ボクはいるからまだラクだよー」 「ははっ、そうだね」 気が抜けたように笑い合う三人。 街の方から、大人たちの声が聞こえ始めていた。