【ネオサイタマ某病院、ユヒタ・サヌマキ、クガイ・サト】新たなビジョン 「それではユヒタ=サン、オタッシャデー」 「アリゴトゴザイマシタ」 通りいっぺんの礼をして、ユヒタ・サヌマキは診察室を出る。足に受けた傷は、塞がりつつあるが痛みが消えない。 「セカンドオピニオンでも考えてみるかね…」 皮肉めいて口に出し、目を細めてそれを嘲笑う。そもそもそんなカネなどないのだ。むしろ現状でも貧乏な木端考古学者としては、真っ当というべき病院に通っていることをユヒタも理解している。同時に、鈍痛が自らのニューロンを鈍らせているという確信もある。 傷の痛みが消えないのは、傷をつけたものの情念が深いが故だと聞く。旧約聖書におけるカイン……否、オリエントのニンジャ伝承におけるカイン・ニンジャは、 弟アベル・ニンジャを怒りのまま棍棒でアンブッシュし爆発四散させたが、その一撃に刻まれた怨念は絶大で、強大なるヒツジ・ブンシン・ジツを持ちあらゆる打撃を無としたというアベルであろうとも消すことができないものだった。そしてアベルの爆発四散の後も、怨念の力は大地に刻まれあらゆる作物と土地を枯れさせ、今なおその地にはアベルの嘆きとカインの怒りが残されているという。ノドの地の真実だ。 ふう。とユヒタはため息をつく。平凡な考古学者であった自分がこのような狂気の真実……だがしかし、紛れもなく存在したニンジャという支配者の現実……を大真面目に考えるようになるとは。否応なく、大学時代に世話になったウミノ教授を思い出してしまい──連想されるように、一人の女の呆けたような顔が浮かぶ。最後に見た顔。恐るべきニンジャ。傷をつけた女。うなじの美しい彼女。彼女のせいなのか? 「…………」どこか、休める所を探そう。 自然と病院の入口…カフェテリアへと足を引き摺る。 ─────── 「ユヒタ=サン? ユヒタ=サンですか?」「は?」 カフェテリア、車椅子の老人に名を呼ばれる。 「やはり…! 元気にしていましたか?」「あの…シツレイですが……」「ああ、これは…スミマセン。でも、覚えていないですか? ほら」老人は眼鏡のジェスチャーをする。 「! クガイ=センセイですか! お久しぶりです」 「ええ! 私も会えて嬉しいですよ、ユヒタ=サン!」 ようやく得心いった。ずっと前──電子戦争の影が未だ根強く残る時代、ハイスクール生であった若きユヒタの通った学習塾のセンセイが、目の前のクガイ・サトであった。 当時と違い、眼鏡もしていなければ頭髪もかなり白く、やや後退しつつある。とはいえ、人の善性を信じる聖職者めいた笑みは以前とそれほど変わらない。ユヒタは自らの薄情な振る舞いにやや後ろめたさを覚えた。苦学生であったユヒタの学業を応援してくれたセンセイだというのに。 「スミマセン、先生。なんともシツレイな真似を」 「まぁまぁ。三日会わなきゃ別人と言いますから」 クガイ老人は怒った様子もなく、懐かしげに続ける。 「あの頃から随分と時間が経った……それに塾も閉めてしまいましたからね」 そこまでは聞き及んでいる。クガイが親から受け継ぎ家業として営んでいた学習塾も、少し前に彼の妻の早逝と息子夫婦の勧めで畳んでしまったという。ユヒタ自身研究の関係で連絡先がコロコロと変わる生活を営んでいたこともあり、それ以降の足取りを追うことはしていなかった。 「残念です」「いいんですよ。終わりの方はもっと大きな塾が近くに出来てましたから。子供たちが困ることはなかったでしょう……」 クガイは寂しさを僅かに滲ませて、ユヒタに向き直る。 「そうだ。折角ですからどうですか? オチャでも」 「それは……ですがセンセイ、お体は」「いいんです。入院前最後のオチャですから」クガイは話したいらしい。此方も時間がある。 「……それなら、ええ。是非」心を切り替えるにはいい機会かもしれない。ユヒタはカフェテリアにクガイを連れていく。 ─────── 「すると、君もセンセイになったのか。ユヒタ=サン」 「ええ。まぁ。といってもせいぜいが客員なので……相変わらずの貧乏暮らしですが」 少し胸襟を開き、教師と生徒でなく大人同士として。僅かに緩んだクガイの口調には、それでいて以前と変わらないアトモスフィアが漂う。 「いやいや……本当にすごいことだとも。君は夢を叶えたわけなのだから」素直に感心した様子でクガイが言う。「覚えているよ、君は昔から本当に歴史が好きだったし得意だった……学者になるといつも言っていた。実際それで身を立てたのだから、誇るべき事だよ」 昔からこういう言葉をさらりと言っても、欺瞞でなく嫌味のない真心を感じるのは、この老人の美徳か。 「その分数学は苦労をおかけしました」 皮肉めかして口に出し、過去を思い起こす。実際センタ試験で一番点数が低かった分野だ。 「それに、学者になったからといって……このご時世カチグミというわけにはいきません」ユヒタはコーヒーに口をつける。苦い。 「年々研究費は減るばかりですよ。やれもっと有益な学問をしろ、マネーになる研究をしろとね」と吐き捨てる。お陰様でマネー欲しさにスカム雑誌に記事まで持つ事になった。 ユヒタ・サヌマキはいつもマネーに苦しめられていた。幼少期に学者を志してから、今に至るまでずっと。無実の罪で投獄されたエドモン青年を容赦なく打ち据えたテミス・ニンジャのような社会の苦しみに。そしてその苦しみは年月を経るごとに別の拷問器具を見せて、これでもかとばかりに突きつけてくる。 「なんとか資金繰りをしていますが、実際今も懐は寂しい。来年はどうだか……」そこまで話して、苦しみの和らいだ時代が頭の端によぎる。フートンに包まり、自分の言葉を聴き流しながらも、何処か満足げな女の顔。彼女の姿が、社会の苦しみとは違う痛みも齎している。 「そうか……世知辛いね」「スミマセン。愚痴になりました」「いいとも。存分に吐き出してほしい……私も最近とんと人と話さなくなってね。なんでも嬉しいものだよ」クガイははにかんでユヒタを気遣う。ユヒタは苦笑せざるを得なかった。どうにもお人好しだ、この人は。 それなら、胸を借りるつもりでもう一つ二つ切り込んでみるとしよう。半ば衝動的にユヒタは問う。 「ではシツレイでなければ……センセイ」 「奥様を失われた時……どのように気持ちに整理を?」 クガイは少しきょとんとした顔をしている。愚痴を聞く流れでまさかインタビューされるとは思っていなかったのだろうか。怒らないだけありがたい。 「ユヒタ=サン。君も」「あ、いえ。私は独身ですが……その。交際のあった女性と、最近別れまして。死別ではないのですけれど」「ああ、そうなのか」 得心いったような顔。そのままクガイは機嫌を悪くもせず続ける。「不本意な別れ……だったのかね」「……はい」 不本意。不本意という言葉が正しいかはわからない。変わり果ててしまった彼女との決別を願い、三行半を一方的に叩きつけたのは紛れもなくユヒタの側だ。しかし、別れの過程に得た傷は、罪悪感と後悔を呪いのように刻んで、今も消えることはない──体からも、心からも。 「もしや、その脚は」「はい。別れ際に、少し」 別れを切り出し、彼女の居城を去った時の事は今でも覚えている。忘れることができない。 「傷は塞がりつつあります。ですが痛みが消えないのです。トラウマ、というやつなのでしょうか。経験がないもので……」信頼した医者に話すように続ける。 そこでようやく、ユヒタ自身も気がついた。 精彩を欠いていく自身に対する苛立ちと、この場の奇妙なアトモスフィアが、些かユヒタらしくもない質問をさせたのだ。ウカツに気づくと、また後悔が積もり、鼓動が鳴り体温が上がる感覚がする。 「何か、参考にさせていただければと……」とはいえ、ユヒタはタナカ・ニンジャではないし、ましてただのモータルだ。一度放った矢の軌道をテレキネシスやスリケンで曲げることはできない。やりきるしかない。 「うーむ……」クガイは考え込むと、暫く黙り…… 「……私と妻は……それほど不本意に別れたわけではないんだ。準備する時間もあったからね……それに人生訓めいていて少し説教くさい。だから参考になるかはわからないのだが……」間を開けてから、言う 「私は割り切れてなんていない。傷を受け入れて、他のもので補っているだけなんだ」 「それは……どういう」「孤独というのは色々な形で襲ってくる」クガイは答えになっていない答えを返す。自らの思いを語るように。 「私の孤独は老いが連れてきた。時が妻を、家業を、繋がりを奪って…命にまで手を伸ばしている」問いに答えずして、更に続けていく「失われて出来た傷に、構いもせずにまた孤独が襲ってくる」ヒートアップしている。「そしていつも問いかけてくる……ナンデ妻は先に逝ってしまったのか? ナンデもっと構ってやれなかったのか? ナンデ……」「…………」ユヒタはただ静かに聞くことにした。 クガイが滲ませた感情を少し抑えると、申し訳なさそうに目を伏せる。「誰かと別れて孤独になると、傷は癒えるのでなく広がっていくんだよ。……少なくとも私は強くそう思う」 「それは簡単に癒すことは出来ない。無かったことにすることなどとても出来ない。出来るとすれば、それこそブッダの御業だろう……」苦み走った顔。 「だから、代わりになるものを欲したんだ。パッチワークの布めいてね……」「それは?」クガイ老人は僅かに口角を上げた。「私の場合はネコネコカワイイと……誰かの役に立つことだった。今もそればかりを欲しているのだろう」 思わぬ単語にユヒタも鼻じらむ。ネコネコカワイイもそうだが、誰かの役に立つというのは。 「その、誤解しないでほしい。カルトの布教とかではなくて……つまりは自分のしたい事で補うしかないということなんだ……ああ。何を言ってるんだろうな私は」 ユヒタの困惑したような表情を見て、クガイもまた軽く混乱している。妙なアトモスフィアに惑わされているのはユヒタだけではないらしい。この老人もまた、勢いのまま自分の人生の一部を伝えている。 「つまりだね。君の感じているであろう痛みは、誰かでなく君自身が感じているものであって……整理をつけるには君自身のやり方でそれに対処するしかないんだ……ゲホ、ゲホ!」老人は捲し立てて、軽く咳き込む。「センセイ」「すまない」水を差し出す。「すまない……自分のことばかりになってしまった」「とんでもない」心の篭った言葉であったのは間違いない。 「参考には……ならんかな」「……いえ。なりました」 世辞ではない。クガイ老人はユヒタが望み、想像していたよりも深い部分に答えを突きつけてくれた。だからこそ、少し絶望的な気分にもなるのだが。「(僕自身が傷を深めているというのか)」傷跡は今も開いたままなのだ。 「アリガトゴザイマス」 とはいえ、穏やかさを取り戻したクガイ老人の気分を害することもない。まずは素直に感謝すべきだとユヒタは思った。そして、助言の内容に思考を向けた。 「とりあえずは……私も自分にできる事をしてみます。少しばかりがむしゃらに、研究に打ち込みますよ」 できるかどうかはともかく、やる事は明確なのだ。「そうか……それならば、よかった」役立てた事を喜ぶ老人の微笑みに、ユヒタもまた笑みで返した。 ふと、バイブレーション。ユヒタのIRC端末。 「む……」「仕事かな」仕事だ。コラムの打ち合わせ。 「スミマセン、お先に失礼します。話せてよかったです、センセイ」「ウン、気をつけて。私もサイオーホースだったよ」久方ぶりの邂逅は、あっという間に終わってしまう。この邂逅がユヒタの問題に光を当てど解決することはなく、クガイの孤独を癒すことはなく…… 「あ、ユヒタ=サン」「はい?」 ……クガイ老人は振り返ったユヒタの顔の前に、その痩せた手を震えながら伸ばして、軽く振った。 「取れたかな」「え?」「いや、なんでもないよ」 ユヒタは訝しみ、クガイもまた自らの行動を奇妙に思う。汚れのようなものが見えた気がしただけだった。 彼らは知ることはない。ユヒタの側にあり、その中に入り込もうとしていた「なにか」をクガイが無意識のうちに感じ取り、咄嗟に自らの側に呼び込んだという事を。 そして、ついぞ彼らは知ることはない……この次元において、ユヒタでなくクガイに宿った盤古の呪いが成さんとした悪を、破壊を、悍ましき墓荒らしの誕生を。 誰も知ることはなく、彼らも再会することはない。 「ではオタッシャデー、ユヒタ=サン」 「オタッシャデー、クガイ=センセイ」 かつて千にも届かんかと言うほどに繰り返したアイサツが、彼らの別れであった。 ──────── 「さて……」 ユヒタ・サヌマキは足を引き摺りながら、入口までやってくる。傷は痛み、苦しみは続き、癒す間も無く生活と仕事がやってきて、終われば孤独が襲う。この雨すらも追い討ちのように思えたが、不思議と心に重さはない。「(僕も彼女も、それぞれ補っていくしかない)」傷を埋めることを決めたのだ。手の中に唯一残った、学問という生きがいを使って。 「ヒカリ・ニンジャはまたもお隠れだ……」 皮肉めかして口に出し、僅かに目を見開いて遠くの空を見つめる。真実を見据える双眸が、空の端に僅かな雨雲の切れ目を見出した。 「今度は此方から行きますとも」 まずは仕事だ。そして、存分に研究だ。シ、クロム、セト物、黄金ピラミッド……コンスピーラシーの如き恐るべき歴史の中にこそ、知るべきことが沢山ある。 一歩ずつ、足を引き摺って進むしかない。 ユヒタ・サヌマキはゆっくりと歩き出した。傷を負った彼は、一人のモータルだった。