「アイエエエエ……っく、ぐすっ……ア、アイエエエーエエー……」 夕焼けが差し込むドラゴン・ドージョーに、マニカの泣き声が響く。 タタミの上で仰向けになり、涙の止まらぬ顔を両手で覆うマニカの平坦な胸が、泣きじゃくるたびに微かに上下している。 「…………ハァ」 そのブザマを通り越してアワレすら覚えるさまを、アグラ姿勢で頬杖突きつつ見守るのはアシャーダロン。 ヤマ山脈へと、リアルニンジャだかツノ生やしたウサギだか、なにやら胡乱な生物を探しに出かけたセンセイに代わり、ドージョーを預かる若きニンジャだ。 「アイっ、アイエ……アーッ!アイエエエエエー!!」 先程から童女のように号泣しつづけるマニカもまた「キャンドル」のニンジャネームを持つニンジャなのだが。 「あ……アー……アイエッ……ぐすっ」 そうしているうち、童女特有の絹を引き裂くような甲高い泣き声も鳴りを潜め、がらんとしたドージョーにはマニカの鼻を啜る音のみがこだまする。 「……落ち着いたか?」 つとめて柔らかい声色で問いかけるアシャーダロン(いつもの調子で声をかけると、不安定な状態のマニカはまた泣き出すからだ。彼は学習能力が高い) 「ウ、ウン。ごめんね、アリガト」 いささかサイズの合っていないジュー・ウェアの袖で顔を拭い、体を起こすと正座してアシャーダロンに向き直り 「今日も、アリガトゴザイマシタ」 「あァ。オツカレサマデシタ」 同時に頭を下げる。実際しめやかなトレーニング終了プロトコル。カラテ・トレーニングの終わりを告げる神聖な時間だ。 ------------------- センセイに留守居と妹弟子の稽古を任された初日。アシャーダロンは張り切っていた。 このきわめて臆病で、何かにつけ涙やそれ以外の液体を垂れ流す女は、それでいてカラテの飲み込みが早い。 実際、センセイと兄弟子の……アシャーダロンに言わせれば『お人好しとクソ真面目をかき集めてニンジャの形に成型したような奴ら』の指導を受け、 初めて出逢った日からは考えられないような上達を見せている。 ならば。彼女らの築いた土台に、己がカラテを注ぎ込み、さらなるステージアップをさせてやろう。 それがドージョー・マスター代理として、マニカの兄弟子としての己ができるベストなのだ。そう思っていた。 「アイエエエエエ!アーッ!アーッ!アイエエエエエー!!」 結果がこれだ。アシャーダロンのドージョー・マスター生活の初日は、型稽古の途中で泣き出したマニカをどやしつけるところから始まった。 「テメッコラー!泣いてるヒマがあったら手足動かせオラー!泣いてニンジャが殺せるかッコラー!!」 「アイエエエエコワイ!無理だよぉ知らないワザばっかり言われてもできないよぉ!!」 ナムサン!センセイはマニカとアシャーダロンにそれぞれ異なる順序でカタ・シークエンスを伝授していたのだ! 畢竟、稽古の進んでいるアシャーダロンの知る型をマニカはまだ知らぬ! 困惑がニューロンの閾値を越え、昂った感情は涙となり決壊!号泣へと繋がったのだ! 「なンで俺達のやってる型見て覚えてねェンだコラー!ソマシャッテコラー!!」 マニカの困惑をアシャーダロンは知らぬ!予定通りにシークエンスが進行せぬ苛立ちが罵倒となって凶悪な犬歯を剥き出した口から飛び出る! 「アイッ!?アイエエエエ!アイ、アイ……アイエエエエエーエエー!!」 泣きわめく子供に罵倒したところで事態が好転するはずもなし!むしろ恐怖と困惑を煽られたマニカはしめやかに失禁! 「アイエエエエ!!スミワノ=サンコワイだよぉ!もうヤダー!!」 とうとうタタミの上にへたり込み、天井を見上げて叫びだすマニカ! 「ヤダじゃねッコラー!テメェいい加減にしねェとスッゾオラー!?」 「アイエエエエエ!?フジキド=サンー!ユカノ=センセイー!ハシ=サンスヤ=サンジュリエット=サーン!!スミワノ=サンがー!スミワノ=サンがー!!」 「ウルセッゾコラー!いいから立って構えろコラー!!!」 「アイエエエエエ!!」 結局、この日のトレーニングは二人揃って叫び倒しただけに終わり、 さすがのアシャーダロンも、液体まみれのマニカのジュー・ウェアを洗濯しつつ、己の未熟に奥歯を鳴らすのであった。 ----------------- 「で、アタシにあのコとの付き合い方を聞きに来た、ってワケ?」 バー『絵馴染』店主のザクロは、ジン・ソーダと、ツケモノとチーズを挟んだ小鉢を差し出しつつ小首をかしげる。 「話が早くて助かるぜェ」 ピンに刺さったツケモノを一つ齧り、味わいの残る口内へジンを流し込むアシャーダロン。 実際、マニカはドージョーに来る前はこの店で世話になっていたのだ。泣き出した時の対処も心得ていることだろう。 「ンー……頼ってきてくれたアータにこんなコト言うのも悪いんだけどねぇ……ないわよ、そンなの」 困ったような顔で微笑み、グレープフルーツ・ジュースを飲むザクロ。夜はまだ長いのだ、店主たるものアルコールとは節度を持って付き合わねばならない。 「実際、あのコはすぐ泣き出しちゃうわね」 グラスを弄びつつ、昔を懐かしむように目を細めながら続ける。 「お皿割っちゃったり、お会計間違えちゃったり……なにか失敗するともーダメ。アタシがイイって言ってんのに『アイエエエ!ゴメンナサイ!』って」 「ワカル。泣くなっつってンのにビービービービーってよォ……アンタほどの人でもアイツにゃお手上げだったか」 「はいそこ。そこからアータ間違ってンの」 グラスを持ったままぴしゃりと言い放ち、人差し指を立て、アシャーダロンに突きつけるザクロ。 「アタシはね、あのコが泣き出しても泣き止むまで待ってたわ。マニカ=チャンへの対処はそれだけ。ワカル?」 「えェ……?うるせェしトレーニング進まねェし、ナルハヤで泣き止ませるべきだろォがよォ」 「そうね、スネてもうヤダー!ってなっちゃったらそうするしかないかも」 「だからよォ、実際そォなったから俺も泣き止ませよォとだなァ……」 「怒ったでしょ?」 じとりと非難を込めた目で睨みつけ、アシャーダロンの言葉を強引に途切れさせる。 「怒られたから余計に混乱しちゃうのよ、それで何も考えられなくなって、もうヤダー!ってなっちゃったの。アータにもそういう経験あるでしょ?覚えてないかも知れないけど」 「はァ?ねェよそンな経験」 面白くもない、といった渋面でジン・ソーダを飲み干し「おかわりくれ」 ドン、と音高く空のグラスをカウンターに叩きつける。『俺に説教するな』という意志を込めた無言の抗議だ。 「ダメ」 「アァ!?」 「思い出すまでダぁーメ。絶対アータにも今日のマニカ=チャンと同じ気持ちになった事があるはずよ?酔っ払う前にちゃんと考えてあげて、あのコのこととアータ自身のこと」 「ンだそりゃァ……?あるワケねェだろ、俺があンなクソガキと同じだったことなンて……」 クソガキ。そう、あいつの振る舞いは実際ガキ……子供そのものだ。アシャーダロンはすでに成人である。実際マニカも成人で、しかもアシャーダロンより歳上なのだが、それはそれだ。 過去を振り返ったところでガキめいて泣き叫んだ記憶など……ガキの頃……ガキの俺……割れた花瓶……クソ兄貴…… 「……ア」 「ね?」 呆けたような声で大口を開けたアシャーダロンに向け、ザクロはウインクした。 ------------------- 「アイエエエ!僕じゃない!僕は実際通りがかっただけで!」 「黙れスミワノ!お前が袖を引っ掛けて倒したところを兄は見ていたと言っているだろう!」 「アイエエエエエ!!知らない!知らない!」 「知らぬ存ぜぬで罪が消えるか!なぜ素直にゴメンナサイが言えぬのだ!」 「アイエエエエエ!兄さん僕、僕は本当に!アイエエエエエ!!」 「泣けば罪が濯がれるとでも思っているのか!?例え手違いであろうとも罪は罪、貴様も男なら潔く認めて謝罪せよ!!」 「アイエエエエ!アイ、アイ……アイエエエエエーエエー!!」 ------------------ 「アー……クソみてェな記憶引っ張り出しちまった。アレと同じってェコトかよ……」 ニューロンにかかった靄を消し飛ばさんと頭を振り、測ったようなタイミングで差し出されたジン・ソーダを一息で干すアシャーダロン。 なるほど、今日の己はあのクソ兄貴と同じ行動をしていたということか。こちらの言い分を聞かず、頭ごなしに叱りつけるだけの…あのファック極まる石頭と、同じ事を。 「大人になるってそんなものよ。良くも悪くも、ね」 またしても間髪入れず差し出されたグラスを手に取り、一口。 「……甘っめェ」 カルーア・ミルクをシェイクして泡立たせたカルーア・ラテ。アシャーダロンの舌には甘すぎる酒だ。 「あのコ甘くないお酒飲めないのよ。ソレが一番のお気に入りだったの」 「だろォな」 マニカが甘党であることは知っている。酒を嗜む趣味があるとは知らなかったが。 「あのコは事故で体と心のバランスが崩れちゃったから、ちょっと不安定で……時々、ほんとの子供みたいになっちゃうだけなの。本当はとっても賢くてしっかりしてるいいコよ?」 「……あァ。知ってる」 甘ったるいラテを一口ずつ舐めるように飲み進めながら、稽古中のマニカの顔を思い返す。 二人きりのトレーニングを始めた時のキアイに満ちた顔。得意な型をする時の溌剌とした顔。 知らない型を振られ困惑する顔。その次の型、また次の型。まだユカノ=センセイに習っていないワザの名前ばかり出てきて、ついには……泣き出してしまった時の顔。 「……センセイ代理失格だなァ」 自嘲しながら苦笑し、ツケモノを齧る。ツケモノの酸味と濃厚なチーズのマリアージュがサケを進ませる味だ。 「そうね、アータのセンセイ初日は実際落第点かも」 冷蔵庫からコロナを取り出し、軽く煽るザクロ。 「でも、失敗したっていくらでもやり直せるでしょ?アータ達は同じドージョーで暮らす……」 「そンなンじゃねェよ」 その先は言わせない。実際の意識はともかく、軽々しく言葉に出したくはない。スミワノにとって譲れぬ一線なのだ。 「アラごめんなさい。でもま、アタシが言いたいのはそれだけ。あのコのこと頼むわね?スミワノ=サン」 「おゥ、俺の手に負えなくなったらココ連れてくるからよォ。おしゃぶりとガラガラ用意しといてくれや」 「ついでにアタシのパンチもサービスしたげるわ、その時は」 くしゃりと相好を歪ませ凶悪に笑うスミワノと、アルカイックな微笑で受けるザクロ。 スミワノはザクロの返しがツボに入ったらしく、支払いの最中も時折含み笑いを漏らし、そのままくつくつと笑いながら店を後にした。 ----------------- ……翌日!ドラゴン・ドージョー・トレーニングルーム内! 「ウシロアシ!」「イヤーッ!」「ヒノクルマ!」「イヤーッ!」「モウイポン!」「イヤーッ!」 おお、見よ!舞うがごとくしなやかな筋肉を使いネコ科動物めいた柔軟かつスピーディーなワザを振るうキャンドルの雄姿を! 「ノボルケリ!」「イヤーッ!」「ラスト!ダブルノボリ!」「イヤッ!イヤーッ!」「ソレマデ!」 カタ・シークエンス終了の号令をかけたアシャーダロンは、空中蹴り姿勢から音もなく着地したキャンドルにサムズアップしてみせ、素直な賞賛を送る。 「実際、すげェよかったぜ。昨日できねェできねェって泣いてたのが嘘みてェだ」 「だってスミワノ=サンがウチの知らない技ばっかり言うんだもん。泣きたくて泣いたわけじゃないし」 「わかってンよ。ありゃ昨日の俺が全面的に悪りィ」 昨日と今日の違いはたった一つ『始める前にどんな技が出来るかを聞いた』それだけだ。 門下生が一同に会する合同トレーニングでは、基本的にカワラ割りやセイケンヅキといったベーシックなムーヴの見直しや、木人への打ち込みと言った基礎的なことしかしない。 各人の資質に合わせた個別指導はユカノやゲキリンの担当で、アシャーダロンは一人で自分の稽古を積むことがもっぱらであった。キャンドルのカラテを知らなかったのだ。 指導をしようにも生徒のことを知らねばやりようがない。昨日の稽古はスタート地点から間違っていたと言えよう。 型稽古が終われば次は組手だ。ここでもキャンドルはアシャーダロンを驚かせた。 「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」 「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」 小柄な体格を活かし、実にうまく躱す。それでいて間隙を縫う様に放たれる反撃のカラテは実際鋭い。 (敵だったとしたら、あまりやりあいたくねェ手合いだな、こりゃ) 痩せぎすで手足の長いアシャーダロンは、こうしたコンパクトな打撃を放つ相手を苦手としている。 キャンドルと同様に小柄なゲキリンとの試合で星を取り遅れているのもそれが理由だ。それだけのことだ。絶対にそうだ。 しかし苦手なタイプだからと言えど、入門してまだ日の浅い妹弟子相手に遅れを取るアシャーダロンではない。 「イヤーッ!」「ンアーッ!」「イヤーッ!」「ンアーッ!?」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「ンアーッ!」 徐々にアシャーダロンの攻撃が当たるようになってゆき、キャンドルのカラテに動揺が生まれる。 動揺は困惑を生み、困惑から恐怖が芽吹く。「イヤーッ!」「イ……イヤーッ!!」連続側転でヤリめいたサイドキックをかわし、大きく距離を取るマニカ! しかし、離れたはいいものの、構えは乱れ、顔が紅潮し、瞳も揺れている。 目の端から頬へ涙が伝い、いまにも決壊寸前と言ったアトモスフィアだ。 昨日のアシャーダロンであれば「組手中に泣き出すニンジャがどこにいるンだッコラー!!」と即座に怒鳴っていたことは間違いない。 「…………」しかし見よ!今日のアシャーダロンは両掌を突き出したアイキドーの構えを取ったまま油断なく静止しているではないか! ニンジャならぬ我々には気づきようもないことだが、キャンドルと相対しているアシャーダロンには、彼女の未だ試合を投げていないことがニンジャ第六感で感じ取れているのだ! (あの時俺が泣いたのは、クソ兄貴が怖かったからじゃねェ。花瓶を割った罪悪感でもねェ) (『話を聞いてもらえなかったから』……頭ごなしに否定されたのが、悔しかったンだ) そう、本来のマニカの涙は癇癪を起こした子供の涙ではない。昨日の号泣はかつてのスミワノと同じ涙だが、今のキャンドルは違う……その根拠は彼女の瞳が物語っている! 「フーッ……フーッ……!!」 おお……おお!両目から沸々と涙を溢れさせながらも獲物を狙うネコ科猛獣めいて激しく光るその瞳は闘志の輝きに満ちているではないか! 恐怖を闘志でねじ伏せ、昂ぶった感情が涙となる!この涙は負け犬の、ましてや子供の涙ではない!気高き戦乙女の!戦士の流すカラテの涙なのだ!ゴウランガ! 「イィィィィィィィ…………」全身にカラテを込めたキャンドルが小柄な体をさらに低く沈め、全身にタメを作る。 普段の陽気な声からは想像もできないような低い唸り声がタタミを震わせ、ドージョーの空気をも揺るがす。 (そうだ。泣いてもいい。涙が勝手に出てきちまうのなンか放っとけばいいンだ) アシャーダロンもまた、全身に必殺のカラテを込めて迎え撃つ構えを取る。小さな戦士の強大なる全力に敬意を払うために! 「来い!キャンドル=サン!来い!俺に見せてみろ!てめェのカラテをォ!!」「絶対にはい!!」 アシャーダロンの叫びに呼応するようにキャンドルがカラテを開放し、くるくると前方回転しながら跳ねる!3回……4回……5回……6回!ナムサン!2160度回転! カマイタチ・ニンジャクランのカゼの力も加えた加速度と回転エネルギーにカラテを乗算した破壊力はもはや模擬戦闘の粋を超えた殺人的カラテと言えよう! 「イヤァァァァーーーーッッッ!!!!」勢いそのままにアシャーダロンの脳天めがけ踵を振り下ろすマニカ!!ドラゴン・ヒノクルマ・ケリ!! 「イヤァーーーッッッ!!!!」アシャーダロンもまた全身にカラテを巡らせ、ドラゴンの顎めいて構えた両腕で迎え撃つ!ダブル・ドラゴン・アゴ!! BAAAAAAAAAAAAAAAANG!!!!「グワーーーッッ!!!」「ンアーーーッッ!!!」 ゴウランガ!凄まじい激突音がドージョーに響き渡り、二匹の龍は同時にタタミの端と端まで弾き飛ばされた!! ----------------- 「アイエエエエ……っく、ぐすっ……ア、アイエエエーエエー……」 夕焼けが差し込むドラゴン・ドージョーに、マニカの泣き声が響く。 タタミの上で仰向けになり、涙の止まらぬ顔を両手で覆うマニカの平坦な胸が、泣きじゃくるたびに微かに上下している。 「…………ハァ」 今しがた起こった激しいカラテ衝突と戦乙女の輝きを知らぬものが見れば、ブザマを通り越してアワレすら覚えるであろうさまを、アグラ姿勢で頬杖突きつつ見守るのはアシャーダロン。 ヤマ山脈へと、リアルニンジャだかツノ生やしたウサギだか、なにやら胡乱な生物を探しに出かけたセンセイに代わり、ドージョーを預かる若きニンジャだ。 「アイっ、アイエ……アーッ!アイエエエエエー!!」 先程から童女のように号泣しつづけるマニカもまた「キャンドル」のニンジャネームを持つニンジャなのだが。 「あ……アー……アイエッ……ぐすっ」 そうしているうち、童女特有の絹を引き裂くような甲高い泣き声も鳴りを潜め、がらんとしたドージョーにはマニカの鼻を啜る音のみがこだまする。 「……落ち着いたか?」 つとめて柔らかい声色で問いかけるアシャーダロン(いつもの調子で声をかけると、不安定な状態のマニカはまた泣き出すからだ。彼は学習能力が高い) 「ウ、ウン。ごめんね、アリガト」 いささかサイズの合っていないジュー・ウェアの袖で顔を拭い、体を起こすと正座してアシャーダロンに向き直り 「今日も、アリガトゴザイマシタ」 「あァ。オツカレサマデシタ」 同時に頭を下げる。実際しめやかなトレーニング終了プロトコル。カラテ・トレーニングの終わりを告げる神聖な時間だ。 ------------------ 「ねえ、スミワノ=サン」「アァ?」 シャワーを浴び、トレーニング後の爽やかな倦怠感に包まれた夕食時。 マニカが支度した、肉と野菜を濃い味付けで炒め合わせた湾岸警備隊仕込みのパワー・ポンめいたドンブリを掻き込みつつ、ふいにマニカが問いかけてきた。 「あのさ、今日のトレーニング……っていうか組手、実際キツかったよね」 「おゥ。最後のヒノクルマは100点やってもいいワザマエだったな、テメェやりゃできンじゃねェか」 「エヘヘ……アリガトゴザイマス」頬に飯粒を付けたままはにかむマニカ「……じゃなくてェ!」あわてて真顔に戻る。 「明日からのメニュー聞いておきたいかなー、って。ずっと今日みたいな密度だと、ウチ、身が保たないって言うか」 「ンなこと考えてたのかよ、メシの時はメシに集中するもンだぜェ?」 コメ一粒残さず平らげたドンブリを置き「ゴチソウサマデシタ」と呟きながら手を合わせたスミワノはにたりと笑い 「安心しろォ、明日からのメニューは今日と同じじゃねェ」 「ほ、ほんとに?今日みたいにキツくない?」「あァ、俺ァウソと女を悲しませるようなコトだけは絶対言わねェ」 「ヤッター!スゴイヤッタ……」 「明日からは今日の稽古が実際準備運動に過ぎなかったことを……そのちっせェ体にたァっぷり教えこンでやンよォ!!」 「アイエッ!?女悲しませるようなコト言わないってさっき言ったじゃん!!」 「ガハハハハハ!そォかそォか嬉しい悲鳴が漏れるほどスゴイヤッターか!よかったなァマニカ=サン、センセイ達が帰ってくるまでたァっぷりカラテできるぜェ!?」 「ヤダーッ!!鬼!悪魔!ハーヴェスター=サン!!」 思いつく限りの罵倒表現で不満をあらわにするマニカ!しかしスミワノは悪竜めいて凶悪な顔でニタニタと笑うのみだ! 「そォよ俺様はカラテの鬼!テメェに地獄を見せる悪魔……その名もアシャーダロン様だァ!!サンズ・リバーの通行費用意しとけよォ!!」 「アイエエエエエ!?フジキド=サンー!ユカノ=センセイー!ハシ=サンスヤ=サンジュリエット=サーン!!スミワノ=サンがー!スミワノ=サンがー!!」 「ゲハハハハハハ!グァーッハッハッハッハァ!!!」 ……ニチョーム・ストリートの一角に童女めいた悲鳴と恐ろしい笑い声が響き渡る。悲鳴の主はこの欲望のひしめく街でどのような悲劇に遭ってしまうのだろうか? 我々にはそれを知るすべも、彼女を助け出す手段もない。ただ、せめてその魂が安らかであるよう祈ることしかできないのだ…… 「ヤダーーーーーーーーッ!!!!」