緑閃光  年末年始の慌ただしい時期を避けてシーズンオフに降り立ったというのにこの街は相変わらずがやがやと騒がしく、顔も名前も知らない人たちが代わる代わる足早に過ぎ去っていく。  ビル風の冷たさに体を震わせながら、少しでも熱を逃さぬようマフラーとマスクの位置を調整した。世話になっていた親戚の家のある北海道よりも気温は高いのに、吹きすさぶ木枯らしのせいで東京の方が体感的に寒く感じる。  ぼんやりと眺めた道行く人々は季節柄なのかご時世なのか例外なくマスクで顔を隠していて、だれもかれもの輪郭が曖昧だった。もしこの中に知り合いが混じっていたとしてもきっと気付くことは難しいだろう。 「あれ、もしかして」  ふと背後から耳に飛び込んできた誰かのそんな発言にびくりと肩を震わせる。  数秒固まったのち、恐る恐る振り返ると偶然に遭遇した顔も知らない誰かと誰かが往来の真ん中で久し振り、元気だった?と立ち話を始めるところだった。  止まっていた呼吸を再開する。今日はこんなにも寒いというのに服の下は脂汗でびっしょりで心臓は壊れたメトロノームみたいにめちゃくちゃなリズムを刻んでいて、だというのに両の指先はまるで死人みたいに冷え切っていた。  大丈夫だ、落ち着け、今声をかけられたのは私じゃない。こんなに完全防備していたのだから、この場の誰も私のことなど見分けることなんてできないはずだ。心を落ち着けるために細く長く息を吐いてそう思った矢先、 「斎藤さん」  ひ、と声が漏れた。  勘違いなどでは決してない名指しの声掛けに足がすくんでしまい、金縛りにあったみたいに全身が固まって動けない。逃げるなり、助けを求めるなりしないといけない場面だというのに、つま先も指先も1ミリだって動いてはくれなかった。  焦点の合わない視点をどうにか一つ所に合わせようと必死に床のタイルの継ぎ目を睨みつける私をよそに、その人物は言葉を続けた。 「落ち着いてください斎藤さん、合田です」 「は──」  首の筋肉ががちがちに緊張して、ぎぎぎと音が鳴りそうになりながらやっとのことで振り向くと、そこには筋骨隆々で見上げるような体格の巨漢が仁王立ちをしていた。見慣れた、というよりも見飽きたくらいの彫りの深い顔。きちんとアイロンのかけられたパキッとした背広は好印象ではあるものの、少し体に合っていないのではないだろうか。ちょっとでも激しい動きをしたら筋肉の隆起で生地が裂けてしまいそうだ。 「……はーー……」  息を大きく吐いて眉間を指で揉み込む。  私としたことが大げさな反応を見せてしまった羞恥か、見知った人間とようやく合流できた安堵による弛緩か、膝に手をついて崩れ落ちそうになる体を踏みとどまらせる。 「申し訳ありません、配慮に欠けていました」 「……いいわよ、配慮なんて」  男はただ自分がマネジメントする所属アイドルを駅まで迎えに来て声をかけただけに過ぎず、問題ないどころか模範的で非の打ち所すら見当たらない。精一杯の虚勢を吐き捨てて、ようやく地面に対して垂直に立った。 「こちらへ。車を用意してあります」 「そう」  促された先に多少覚束ない足取りでキャリーケースをごろごろと引きながらついていく。  駅近の馬鹿みたいに高いパーキングに律儀に停められた社用車はイメージにそぐわず白いハイエース。初期の頃は真っ黒な高級そうな外車?だったはずが、今の事務所は得体の知れない後ろ盾を殆ど失ってそれこそ自転車操業の火の車。ロケバスのリースすら倹約のためにけちる有り様で、少人数で事足りるならばよくこの車に押し込められていたのを思い出した。  キャリーケースに手を伸ばそうとする合田に手を振って拒否を示し、この程度一人でできるとばかりに悪戦苦闘しながらどうにか車内に引き摺り込む。最後尾の左端の席に陣取ろうと奥へと進もうとすると呼び止められ、キーホルダーもなにもついていない簡素な鍵を手渡された。 「荷物は既に運び込んであります」 「そう」  前述の通り規模を縮小した現在の事務所では、以前のような高層マンションをまるまるひとつ所有して寮にするなんて芸当は不可能だ。したがって用意できる部屋は事務所近くのオートロックの1LDKがせいぜい。 「連絡を頂ければ最短15分で駆けつけられます」 「二十四時間三百六十五日?」 「……ご希望でしたら最寄りの警察署に見回りして貰えるよう話をつけますが」 「冗談よ。犯人はもう捕まってるんでしょ」  あまりいじめてやるのは止そう。過剰防衛しすぎるのもみっともないし、ひとまずリハビリがてら一人暮らしして、余裕ができたら好みの物件に移り住む腹づもりで話を受けたのだから、今はまぁ、こんなものだろうと見切りをつけた。  しばし合田みずからが運転する車に揺られる。  正月も三が日を過ぎれば徐々に元の日常に戻り始め、早いところではもう仕事が始まっているのかサラリーマンらしき背広姿が幾人も街を行き交っていた。 「壁はなんて?」 「今のところ、まだ何も」  簡潔な返答に「そう」と答えて少しだけ胸を撫で下ろす。  壁の宣告は事実上の解雇通達だ。どう取り繕っても結果は覆らないし、すべて見透かしているかのように揺らいだ人間を見極め、興味関心を察知し、他人の事情を明け透けに手玉に取り、容赦なく刈り取っていく。常に監視しているぞと言われているみたいで胸くそが悪い。  けれど私にはまだ何も言ってこないのだという。復帰できる見込みなんてこれっぽっちも感じられないのに、まだ利用できると値踏みしているのか半年もの間の放置プレイだ。  私自身はどうだろう?わからない。続けたいのか、もう終わらせたいのか、他ならぬ自分の気持ちだというのに、息がかかって白く曇った窓ガラスの向こうの景色のようにぼんやりと不明瞭だった。 「壁は何も言ってはいませんが……その……大変申し上げにくいのですが」  会話はもう終わったと思い込んでいたが、どうやらまだ続きがあるらしく視線だけを前方へやる。窮屈そうに運転席でハンドルを握る男は珍しく歯切れ悪く言葉を濁したあと、信じられないことを口走った。 ◆  配達完了の通知を受け取ってしばらくしたのち、音を立てないようにそっと扉を開き、ドアノブに引っかけられたビニール袋を回収する。  世の中便利になったもので部屋から出ることなく、誰とも顔を合わすことなく多岐にわたるジャンルの出前が指先ひとつでとれるシステムが整ったのは、辛酸を嘗めたあの三年間の数少ない成果物だろう。後ろめたいことなど何もないのにこそこそとするのは屈辱的ではあったが、空腹には抗えようもない。  屋外の冷気にさらされてはいたものの、料理はまだほんのり温かく、美味しそうな匂いが漂ってくる。荷解きも中途半端ではあったけど、まずは腹ごしらえだ。スリッパをぱたぱたと鳴らしてリビングへ向かう途中、ふいにそれはやってきた。  チャイムの電子音が部屋中にいやに大きく響き渡って、全身が強張って手に持った料理を取り落としそうになる。  遠目にインターホンのディスプレイを見ると、呼び鈴を押した人物がいるのはマンションの入口ではなく玄関の扉一枚を隔てた向こう側のように見えた。  なんで。オートロックなのに。誰が。どうしてここを知ってるの。  焦燥にとらわれながら床を蹴って、ベッドの上に放り投げたスマホに飛びついた。 『最短15分で駆けつけられます』  合田の言葉を思い出したが、この場合は警察とどちらを優先すればいいのだろう。とにかく電話、電話だ、と回らない頭でテンキーを呼び出そうと画面を操作しようとした瞬間、突然スマホが震えだし、通話の着信を知らせ始めてそれに驚いてスマホが手から滑り落としてしまった。  叫び出しそうになるのをすんでのところで堪えながらディスプレイを下にして落下したスマホを恐る恐るひっくり返し、そこに表示されていた名前をみとめた瞬間、ひどい脱力感に襲われた。  よくよく耳を澄ませばドアの向こうから「ニコっち〜」などというふざけた声が微かに聞こえてきて、こめかみをひくつかせながら頭を抱える。  ふと、手に何も持っていないことに気付く。見回すとリビングルームの入口に見るも無惨な姿になってしまったタコライスが転がっているのを見つけてしまい、思わず頭にきて玄関へと駆け出した。 「やぁやぁ久し振り。元気してた?」  扉を開くと両手に丸々と太ったスーパーのビニール袋をぶら下げて、へらへらとしまりのない顔が出迎えてくる。記憶よりも髪が伸びているだろうか。 「あんたイカれてんの!?」  私の休業理由を知らないわけではないだろう。だというのに玄関先で無駄にでかい声で名前を叫んだり、どういう思考回路をしていればそんな無神経な真似ができるのか。 「その様子だと元気みたいでよろしい」 「……」  私の罵倒などそよ風か鳥のさえずりといった風で、そいつ、柊つぼみは無遠慮にひとの顔をじろじろと観察してくる。 「でもちょっと痩せた?」 「どうだか」 「髪もパサついてるし肌も荒れてる」  マイペースに、気にしていることをずけずけと。反論したいところだったけれど、その通りなのだからなにも言えずに下唇を噛んだ。不規則な睡眠時間に食生活、運動不足にストレスと思い当たる節はいくらでもあったし、実際に一目見ればわかるのだから取り繕いようもなかった。 「入口オートロックなんだけど、どうやって入ったの」 「デリバリーの配達員さんが出るのと入れ違いで」  ぬけぬけと。セキュリティという言葉の意味を今一度考えさせられる。だいいち昨日入居したばかりのこの部屋の住所をどうして知っているのか。 『大変申し上げにくいのですが』  合田のすまなさそうな表情と声がフラッシュバックした。  あぁ、そうだった。圧に負けてつい口を滑らせてしまったと謝罪され、大いに憤慨したのを思い出した。プライベートだとか守秘義務だとか、そのあたりはどうなっているのだろう。これはもういよいよ移籍を考えるべきところにきているのかもしれなかった。 「なにしに来たの」 「入居祝いと、荷解きの手伝いしよっかなって。ニコっちのことだから全然進んでないっしょ」 「そん……っ」  そんなことはないと反論しようと口を開きかけたが、図星を突かれているので二の句が継げない。何も言えずに口をもごもごと動かす私を尻目に、柊は我が物顔でずかずかと部屋に上がり込もうと脇をすり抜けていく。 「お邪魔するね〜、さむ〜」 「ちょっと!」  上がり込もうとする柊に手を伸ばすも虚しく空を切ったところで観念してため息をつく。そもそも存在自体が嵐のような天災の類なので、抗えば抗うほど被害が大きくなることは嫌になるほど理解していた。 「どうせニコっちのことだからデリバリーとかばっかりでしょ。わたしがいろいろ作ったげる」 「余計なお世話って言葉知ってる?」 「遠慮しないでさ〜」  皮肉すら通用しないというのだからたちが悪い。ほとぼりが冷めれば帰るだろうし、もう抵抗するのも疲れたのでここは諦めた方が利口というものだ。 「うわヤバッ!料理ぐちゃぐちゃじゃん!低評価しといた方がいいよ!」  心底ムカついたのでスリッパでひっぱたくくらいのことはしておいた。 ◆  人は食べないと生きていけない。当たり前のことだ。食べるためには多くの場合金銭を支払うことを要求される。これも当たり前のことだ。ならば金銭を得るにはどうすればいいか?大抵の人は身を粉にして働け、と言うだろう。私達は生きるために命を削っている。  持論だが人と労働の関係性は大別して六通りの関係があると思っている。好きか、嫌いか。得意か、苦手か。向いているか、そうでないか。三種の感情のネガポジで付き合い方が変わってしまう。どれだけ適性が高かろうがそれが嫌で嫌でたまらないなら心はどんどん擦り切れていくし、どれだけ好きなことだとしても適性が低ければ効率は上がらず成果は得られない。  天職などというものにはそうそう出会えないのだ。  私自身はどうだろう?画面の向こう側のアイドルたちには憧れを抱いたし、歌もダンスもトークも人一倍の努力で得手に変えたし、培ってきた自信を絶対的な根拠に向いていると自負している。 『いちばん、やりたくないことをしに来ました』  彼女の言葉が鼓膜の奥から頭蓋に響く。  人前に出ることが何よりも嫌いで、声高らかに歌うのもはきはきと喋るのも苦手で動きも鈍くて、仕事どころか生きることすら到底向いているとは思えないというのに、彼女はどうしようもなくアイドルだった。  では、今なぜか我が家のキッチンに立っているこいつはどうなのだろう。 「今の仕事?んー、まぁ、それなりにわたしには合ってるとは思うよ。そこそこ楽しいし」  それなりだのそこそこだの、可もなく不可もなくといった曖昧な返答。アイドルを辞めてまでして進学し、ようやく就けたというのに完全に理想とは合致していないという現実に、目元がひくついた。 「世の中そんなとんとん拍子に進むもんじゃないよ」  そう笑いながら柊は困ったように眉を下げて木べらでフライパンの中身をかき混ぜた。  その様子を頬杖をついて眺めながら、プラ容器から飛び出してビニール袋の中でぐちゃぐちゃにシェイクされたタコライスを皿に盛り直し、スプーンで掬って口へと運ぶ。映えはないけれど胃に入ってしまえば同じだし、味もそう悪くはなかった。 「ニコっち、そこのタッパーにご飯詰めといて」 「……どれよ」 「わたしの荷物の中に入ってない〜?」  重い腰を上げてがさがさとビニール袋の中を手探ると、未開封の5個パックのタッパーがいくつか見つかった。 「それひとつ開けて、5個ぶんにご飯を7割くらいよそっておいて」  言われるがまま炊飯器の蓋を開け、白米を敷き詰めてテーブルに並べると、柊がフライパンの中身を「よいしょ〜!」などと言いながらその上に盛り、仕上げにシュレッドチーズと乾燥パセリを振り掛ける。熱でチーズがじわりと溶ける。 「じゃ〜ん、つぼ特製なんちゃってミートドリアの完成〜!」 「どうせ動画かなんかで見たんでしょ」 「バレたか」  冷めた反応をしておいてなんだけれど、確かに見た目も匂いも食欲をそそる。 「冷まして冷凍しとけばあとはチンすれば食べられるから」  おそらく作り置きして職場に持っていく弁当か何かなのだろう。一仕事終えたとばかりに掻いてもいない汗を拭う仕草をして、柊は慣れた手つきで軽くフライパンを洗って次の料理に取り掛かろうとしていた。アイドルをしていた頃はこういうことをするイメージなど皆無だったというのに、人は変われば変わるものだ。  ふと、ずっと感じていた違和感の正体に気付いて口を開く。 「あんた、一人称わたし、だったっけ」 「ん〜?メッチャ頑張って矯正したんだよ〜。まだたまにつぼ、って出ちゃう時もあるけどさ」  アイドルを辞めたからキャラ作りなど不要ということか、それとも素の自分を隠して日々生活しているのだろうか。どちらにせよ不自然極まりなくてむずむずする。 「よく考えてみてよニコっち。社会に出てもまだ一人称が愛称の女なんて、ただのイタいヤツじゃん」  なるほど。一般的にいってしまえば、生きるということはどうやら自分を殺す行為らしい。 ◆  数品を作り終えてそのすべてを冷凍庫に押し込み、山のように積まれていた段ボールを粗方片付け終えると、柊つぼみはそれまでのマシンガントークが嘘のようにぷっつりと電池が切れ、私のお気に入りのサメの抱き枕を抱いてぼんやりとテレビの画面を眺めるだけの置き物になった。 「ちょっと、いつまでいるつもりなの」 「えぇ〜、いいじゃんもうちょっとくらい。めっちゃ頑張ったんだし終電には間に合うからさ」 「仕事は」 「まだ正月休みだしぃ?そもそも今日は土曜だも〜ん」  だからといってうちに居続ける理由にはならないのだけれど、どうやら帰る意思自体はあるみたいで安心した。口ぶりからして日が変わる頃には出ていくだろうし、もう少しの辛抱だとばかりにスマホの画面の右上に視線をやる。 「あっ、そうじゃん土曜じゃん!うわギリギリ!」  自分の台詞から思いがけず何かを思い出したように柊が声をあげ、リモコンのボタンを操作してチャンネルを変えた。CMが流れ終わり画面が青く染まったかと思うと、ポップなBGMとともにカラフルなタイトル画面が浮かび上がる。  MCの男性の「新年、明けまして!」という言葉の後にスタジオメンバー全員が「おめでとうございます!」と続けた。 「あ゛ぁ゛〜〜、後輩ちゃんたち可ン愛い〜〜!ねぇ、ニコっちはお気に入りの子とかいる?つぼはね……」 「消して」  画面から目を逸らしながら言い放つ。多少のことなら許容できたとしても、流石にこれはラインを割っているだろう。 「ニコっち」 「消してって言ってるでしょ!」  私の所属するグループの、私だけがいない楽しげな場面を見せられて気分がいいわけがないなんてことは、いくら能天気な柊でも想像くらいはつくはずだ。知っててやった行動なのだとすれば、これはもう明確な嫌がらせでしかない。 『とてもご心配されていたようでしたので、つい』  バックミラー越しの困ったような表情の合田の言葉を思い出した。柊の突然の訪問も、今日一日の行動も、最初から全部解っていた。こいつの目的は塞ぎ込む私に発破をかけにきたということに他ならない。けれどそんなもの余計なお世話、逆効果だ。  空虚な笑い声が画面の向こう側から聞こえてくる。もう言葉の意味を汲み取ることすら放棄して顔を背けた。  ぶるる、と砕くほどの力で握り込んでいたスマホが震える。画面を見ると、ホーム画面の上部にRAINの新着通知のポップアップが浮かび上がっていた。送り主の名前は、滝川みう。  反射的に右手を振りかぶった。私の右手を離れた端末はテレビ画面に吸い込まれ……ることなく壁にぶち当たり、反射して空中を何回転かしたあとテレビラックの後ろへと埋まっていった。  頭をかきむしって声にならない嗚咽を漏らした。どいつもこいつも、可哀想なものを見るような目で私を見るな。見られることが仕事のアイドルだというのに、今はまともに人と目を合わせることすら恐ろしい、もう見る影もない私のことをどうか見ないでほしい。  事務所からの淡々とした機械的な確認も、同期からの慰めの言葉も、後輩からの遠慮がちな励ましも、SNSの復帰を望む無責任なポストも、諦観混じりの無秩序な噂話も、それでもなお沈黙を貫く壁も、全部ぜんぶが私の神経を逆撫でしてくる。  いっそ、さっさと切り捨ててくれたのならどれだけ楽だったことか。いつか立ち直れると高を括って、いったいどれだけの時間が過ぎた?憧れ、志し、叶えたはずのひとつの夢がただの一人の自称ファンの暴走であっけなく崩れ去って怯え慄く私の姿はさぞ滑稽だったろう。これでは暗い部屋で膝を抱えて蹲り、ただ時が過ぎるのを待っていたあの頃に逆戻りだ。ベッドに顔を埋めて子どもみたいに泣き喚いた。  いつの間にか柊の右手を力いっぱい握りしめていることに気付く。手入れもろくにしていないがさがさの爪が手の甲に深々と埋まっているのに、幽霊みたいに恨めしげな目で睨みつけているのに、柊は眉一つ動かさずに何も言わないでそれを受け入れていた。  手を伸ばしてもそれをするりとすり抜けて私達のもとを去っていったくせに、こんな時ばかりそこにいる。いや、私以外はそうだったかもしれないけれど、あの時の私は手を伸ばそうとすらしなかった。脱落者だと、落伍者だというレッテルを貼り付けて、歯牙にもかけていなかった。佐藤麗華のときも、東條悠希のときも、河野都と戸田ジュンのときもだ。  だというのに握った手を離すことができない。私をとりまくすべてを拒絶したがったくせに、今だけは本当の本当に一人になってしまうのが怖かったから、手離せなかった。独り善がりで身勝手な理由。  急激に頭に血を巡らせた反動か、頭痛がひどくて視界にちかちかと星が舞った。相反する思考と心の決着を見ることなく、私の意識はすとんと落下するみたいに微睡みの中へと溶けていく。  記憶が途切れるその瞬間も私を見つめる柊は無表情で、けれどなんだか悲しげで、それが余計に腹立たしくて、殊更に網膜に焼き付いた。 ◆  うつ伏せの息苦しさに寝返りを打とうとして、瞼を貫いて眼球を刺してくる照明の眩しさに意識が浮き上がった。  寝起きのぼうっとした頭で涙と洟と涎にまみれた顔を部屋着の袖で拭おうとして、右手が誰かに握られていたことに気付く。言うまでもない。柊だ。  私が爪を突き立てたことで抉れ、青黒く内出血した右手で私のそれを握りながら、ベッドに突っ伏して寝息を立てている。体を起こして左手で痕をさすった。 「んあ……おはよ……」  目を覚ました柊が口の端の涎を拭おうともせずに顔をもたげる。 「ごめん」  拍子抜けなくらいにあっさりと、素直に謝罪の言葉が口をついた。泣き喚いたおかげですっかり毒気が抜けたせいか、普段の私からは想像できないくらいにしおらしく、自分のしでかしたことに後悔の念を抱く。 「いいよ。つぼも無神経だったから」  カーテンの向こうの空はまだ暗い。時刻を確認しようと周囲をまさぐったが、スマホが見当たらない……あぁ、そういえば自分で放り投げたんだった。テレビの背後の壁の凹みを見て巨大なため息をつく。入居二日目にしてもう内装に傷をつけてしまった。 「四時前だね。電車動いてないぃ〜」  私の様子を察してか、柊は自前のスマホを見ながらあくびを噛み殺しつつ背中を反らせて大きく伸びをする。  今どき、スマホが手元にないというのは現代人にとっては手足をもがれたも同じだ。テレビの裏からそれを拾おうと立ち上がりかける私に、柊はにやついて台詞の後半のトーンを下げながら言った。 「探しといたげるからニコっちは……シャワー浴びてきなよ」 「え、キモ……」  手短にシャワーを浴びてリビングに戻ると、ディスプレイのひび割れたスマホを差し出された。精密機器とはいえイメージしていたよりも随分と丈夫なもので、電源を入れると問題なく画面に明かりが灯る。礼を告げて髪を拭きながらベッドに腰掛け、仕舞うのが面倒で昨日から床に転がしていたドライヤーに手を伸ばした。 「ニコっちは初日の出見た?」 「見てない」  脈絡もなく振られた話題に投げやりに返す。睡眠時間の割に眠気は感じなかったけれど、思考は靄がかかったようにぼんやりとしてふわふわとした浮遊感があった。熱風を髪に浴びせかけながら返しのボールが飛んでくるのを待つ。 「じゃあ今から見に行こ」 「何言ってんの?」  唐突な意味のわからない提案に、にわかに脳裏の靄が晴れる。既に年明けから一週間が経とうとしているのに、何を言い出すのか。  怪訝な表情を向けていると、「まぁ聞いてよ」なんて柊は切り出した。 ◆  吐いた息が夜闇に白く溶けていく。風呂上がりの火照った頬に吹き付ける真冬の風が容赦なく温度を奪っていき、身震いをしてマフラーとマスクの位置を調節した。  最寄り駅までの道中は人通りもなく、弱々しい街灯と無機質な自販機の明かりがいやに目につく。眠らない街とはよく言うものの、流石に始発電車が動き出す前の東京は想像していたよりもずっと静かで、別世界に迷い込んだような感覚に陥る。  柊の言い分はこうだった。新年最初の日の出の瞬間という現象を観測するまでは、たとえ太陽が昇りきったとしても観測者にとっては翌朝の日の出が初日の出たり得ると。 「シュレディンガーの初日の出だよ」 「無敵かこいつ」  屁理屈で煙に巻くのは勘弁して欲しいのだけれど、手振りを交えて熱弁する柊の得体の知れない熱のようなものにあてられて、気付けば財布と割れたスマホを手に夜明け前の街へと足を踏み出していた。  人気のない駅の通用路を歩く。動画実況で流行りのホラーゲームの画面のようで不気味ではあったけれど、不思議と息苦しさは感じず、それどころか新雪に初めて足跡をつけるかのような妙な心地よさに身が粟立った。  自動改札にパスケースを宛てがい、電子音とともに構内へと侵入し、ホームの自販機でホットドリンクを買って始発電車が入線してくるのを待つ。  会話は少なかった。事前に調べた乗り換え駅と日の出時刻の情報共有くらいだ。  やがて到着した車両に乗り込み、暖房の効いたがらがらの車内で柊が端の席に陣取ったのを見て倣って隣に腰掛けた。  時間のせいか日取りのせいか、乗客はまばらだった。日中はあんなにせわしなくドアが開くたびに出たり入ったりを繰り返していたというのに、本当に同じ街なのだろうかと疑り深くなる。  黒く切り取られた窓の外を、ビルの屋上広告と信号の青と赤と無数の蛍光灯が右から左へと飛ぶように流れていく。なにも面白いことなんてないのに、なぜだか目が離せなかった。  乗り換え駅が近づいた旨を知らせる車内アナウンスに気付き、うつらうつらと船を漕いでいた柊を肘で小突いて起こす。が、一瞬覚醒したと思ったけれどまたすぐに頭の角度が徐々に下がっていき、うなだれるようにして再び浅い眠りに落ちていく。その様子に嘆息を吐いて体を揺すろうと手を伸ばした時だった。 「あの、もしかして」  体が凍りつく。同じ車両に偶然に乗り合わせた顔も知らないどこかの誰かが声をかけてきたということを理解するのに数秒を要した。 「斎藤ニコルさんですよね」  おそらく男性。フィルターがかかったみたいに音が聞き取りづらくて視線だけを向けるけれど、胸元あたりまでが精一杯で顔を見ることができない。金縛りにあったみたいに指先すら動く気配がなかった。 「は──」  肯定にせよ否定にせよ、何か喋らないとと思っていても、からからに乾いた喉はただ息を吐き出すばかりで意味のある言葉は発してくれなかった。  電車がスピードを落とし始める。慣性に従って動けないでいた体が傾き、隣の柊に寄りかかる形になった。車両が完全に停止して自動ドアが勢いよく空気を吐き出す音と同時に、ぐいと手を引かれて立ち上がらされる。 「ごめんね、プライベートの時間だからさ」  さっきまで朦朧としていた割に淀みなく、ぴしゃりと柊は言い放って私の手を引いて出入り口へと踵を返した。 「あっ、ごめんなさい、応援してます」  背後からファンを自称する男性の謝罪の声と注意を促す機械的なアラームが聞こえてきて、空圧式のドアはまたやたらと大きい音を立てて閉まっていった。  自分でも驚くくらいしっかりとした足取りで歩けていた。それは前を行く柊が手を握ってくれているからなのか、ただ単に私が勝手に歩けなくなったと思い込んでいたからなのかはわからなかったけれど、ふとした弾みで何かができなくなったり、その逆にできたりなんてことは経験があったので不思議には思わなかった。今の今まで忘れていた感覚に、あぁそうか、そうだった、と妙な納得を覚える。私は私が思っているよりも単純なのかもしれなかった。 「さっきの人さぁ」  階段を昇りながら柊がぽつりと零す。 「ニコっちのことは気付いてたけど、つぼのことはわかんなかったのかなぁ」  眉根を寄せて不満げに口を尖らせる表情が手に取るように想像できて、可笑しくなってしまう。 「卒業して何年経ってると思ってるのよ」 「そうだけどさぁ」  鏡を見たわけじゃないけれど、もしかしたらそう返した私の口元は緩んでいたのかもしれなかった。 ◆  目的の駅に到着して小走りに改札を出て、予め呼んでおいたタクシーに飛び乗った。 「おじさん!安全運転で飛ばして!」  柊の難しい注文に初老の男性は怪訝な表情を浮かべたけれど、焦る私たちの様子から何かを読み取ってくれたのか、ほどほどの速度で車を走らせてくれた。  進行方向の空はもう白んでいる。あと30分もしないうちに日は昇ってしまうのだろう。  一本道を進み続けて突き当たったところで車を停め、料金を支払って礼を告げて外へ出た。  一月の、それも元旦ですらない海水浴場は私達以外人っ子一人おらず、がらんと寂しげな砂浜を横切っていく。向かいからの海風に押し戻されて、疲労が倍増した。砂に足が取られる。息苦しさにマスクを外した。別に何に命令されたというわけでもないのに、いつ以来の全力疾走だろうか。  波に洗われて固くしまった波打ち際まで辿り着いたとき、ようやく足を止めて二人して肩で息をしながら水平線の向こうを睨みつける。ちら、と割れた画面に目をやると、日の出予想時刻を2分ほど過ぎたところだった。  再び東の空へと視線を戻したが、太陽の姿はどこにも見当たらなかった。海の上に鎮座した厚い雲が遮っているからだ。落胆に肩を落としかけたとき、すぐ隣から大きく息を吸い込む音が聞こえた。 「くたばれクソ上司ーーーーーーー!!!!働きたくねえーーーーーーー!!!!!」  啞然とする私に気づくと「海に来たら叫びたくならない?」と、妙にすっきりとした表情で笑ってみせてくる。そういうものだろうか。創作などではよく聞くシチュエーションではあるけれど、現実にそれを実行している奴を見たのは生まれて初めてだったので面食らう。……いやでも、いたわね確か。番組の企画で。 「ニコっちもいい機会だしなんか叫んでいきなよ。愚痴でもなんでも」 「そんな事言われても」  急に振られても咄嗟には思いつかない。タレントとしては致命的だ。けれど、おいそれと口には出せない、しかしこの道を志したなら誰もが一度は胸に抱く一つの夢が思い当たった。可能な限り息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たして、総毛立った。すっかり錆びついていた声を出すという当たり前の機能が、がちりと音を立てて動き出したような気がした。 「待ってろよ東京ドームーーーーーーーー!!!!!!」  息の続く限り叫んだせいで、酸欠でめまいがする。思わず膝に手をつく。 「いつかつぼのことも連れてってよね」 「……あんたはもういないから関係ないじゃない」  珍しくおとなしい柊の感想の言葉に息を切らしながら返す。 「関係あるよ。つぼはナナニジのファンなんだから、推しを連れて行きたいし、連れて行ってほしいじゃん」  そう答えながら、にかっと歯を見せた。吐いた息がものすごい勢いで海とは反対方向へ吹き飛んでいく。  ふいに、東の空が赤らんだ。海面ではなくぶ厚い雲の上から太陽が顔を覗かせたからだ。実に予測時刻から数分遅れの眩しい陽光に、思わず目を細める。 「ようやくあけましておめでとうだね、ニコっち」  支離滅裂なことを。それならばと、私も時期外れの文言で返した。 「そうね、誕生日おめでとうだわ、柊さん」  私のクリティカルな言葉に驚いて目を丸くする柊の顔があまりにも滑稽で、苦労してここまで来た甲斐があったというものだと思った。けれどその後の反応で不用意な言動を少しだけ後悔する。すぐに調子に乗るのだ、こいつは。ばしばしと背中を叩きながらへらへらとしまりのない顔でくねくねと体をよじらせて、まるでイソギンチャクか何かのよう。 「なんだよもぉ〜!知ってたんなら早く言ってよね〜!」 「うっさい」  一緒に活動していたのだから知っていてもべつに何も不思議なことはないだろう。  いつかあんたなんか及びもつかないくらいの高くて遠い舞台から見下ろしてあげるから、私達のことをずっと見ていてほしい。目を逸らしたら、今度こそ許さないんだから。  体を揺すられながらカメラを起動して、ご利益もへったくれもない一月七日の朝日を割れた画面に収めた。映りを確認しようとして、ふと内容すら確認せずに蓋をしたRAINのことを思い出す。一瞬躊躇ったけれど、意を決して個別トーク画面を開いた。 『曇り空の向こうは晴れている』  業務連絡ばかりでろくにやりとりもしていない画面にぽつんと、それだけ。私達の曲名の引用なのか、これで励ましのつもりなのか、それにしたって断言するような口調はなんなんだとか、言いたいことは山ほどあったし意図は図りかねたけれど、口下手な彼女らしいと思って少しだけ笑った。 ◆  朝、連絡帳の受話器のボタンをタップして耳にあてる。割れた画面が肌に触って少しだけ不快だった。  きっちり3コールでスピーカーからぶつりという音が聞こえてきて、神妙な声色の野太い声が続く。 『合田です。斎藤さん、何かありましたか』 「なにも。ただ、大事な話があって」  ごくりと唾を飲み込む音がこちらにまで聞こえてきた。気持ちはわからないではないが、どうせ壁は何も言って来てはいないのだろう。何年もそうやってきたのだからわかりそうなものだけれど。 「復帰、するわ」  大げさなくらいの安堵のため息。さすがにオーバーリアクションすぎやしないだろうか。 「けどあと少しだけ待ってほしいの。体が鈍ってるから」 『ええ、それは勿論』  今の体たらくではただの一曲だって歌いきり、踊りきれる自信がなかった。まずは休止前と同レベルか、それ以上に勘を取り戻さないとファンにも、メンバーにも、ステージにも、そして何より、縮こまって動けないでいた私の代わりに腕を振り上げてくれたあの小さな背中に申し訳が立たないというものだ。斎藤ニコルは完璧で究極のアイドルでなければならない。 『ええ、ちょうど体調不良でお休みされていた氷室さんも復帰の目処が立ちましたから、一度事務所で事前の打ち合わせを』  何ヶ月ぶりかにスケジュール帳に予定を記入して電話を切った。  結果的に私に卒業を言い渡さなかった壁の思惑通りにことが進んでいたのは癪だったけれど、落としどころとしてはこんなものだろう。  カーテンを開く。気温は低いが陽射しは暖かく、外を歩くにはうってつけの天気だった。  レンジから取り出したタッパーの蓋を開き、たちのぼる湯気をひと息で吹き飛ばす。お腹を満たしたらまずはスマホの機種変更から始めてみるかと思い立ち、スプーンで掬って口へと運び、咀嚼し、味わって、飲み込んだ。 「まぁまぁね」  独り言でも素直に美味しい、と言えないひねくれ加減がなんだか可笑しかった。 了