私はどこにでもいる目立たない、普通のウマ娘です。 ただ、幸いなことに少しばかり走れる才能があったので、それを頼りに中央のトレセン学園に入学することが出来ました。 だけど、自分の才能を過信出来ていたのはその入学の瞬間まででした。 後は典型的な落ちこぼれルート、周りの自分以上に才能に溢れたウマ娘達の中に埋もれて、学園の中では取るに足らない存在と化してしまっていました。 毎日必死で教官の授業通りに、あるいは自己流のトレーニングを積み重ね、定期的に模擬レースに出場してはいますが一向にスカウトしてくれるトレーナーは現れません。 その原因である自分の欠点は自分がよくわかっています。 気が弱い。勝負根性がない。レースで勝ち抜くのに必要な我の強さがない。 そんなことを何度も言われて来ました。しかし、そういう精神的な強さは地の性格に由来するものでもあるので容易に変えることは出来ません。 精神面が原因による伸び悩みを自覚しながら、私は自分がデビューも出来ないままで学園生活を終えてしまう気がしていました。 ちょうどそんな時でした、トレーナーさんが私をスカウトしてくれたのは。 スカウトされた後で、自分のことながら驚きのあまり私はトレーナーさんを問い質してしまいました。 どうして私なんかをスカウトしてくれたんですか、と。 トレーナーさんはこう言いました。自分は才能がありながらも伸び悩んでいる子をどうしても放っておけない性格なんだ、と。 ウチのチームはそんな子が多いから、君も気負わずに安心して加入して欲しい。ちゃんと一人前になれるまで責任取って面倒を見るから、ともトレーナーさんは言ってくれました。 その時のトレーナーさんのあまりにも優しい言葉と笑顔に、私は思わず泣きそうになってしまいました。 そんな出会いの印象通りに、トレーナーさんは優しすぎるということで評判の人でした。 その評判は決していい意味ばかりではありませんでした。あまりにも優しすぎるのは指導者として短所にもなりうるという批判もあったりしたようです。 私のように伸び悩んでいるウマ娘ばかりスカウトするせいもあるのか、トレーナーさんのチームに入ると伸びなくなるなどと噂されてもいました。 けれど、そんな優しすぎるトレーナーさんの指導方針がどうも私にはぴったりと合っていたようです。 それに、言動は穏やかであっても指導やトレーニング内容まで優しすぎるなんてことはなく、決して手を抜かずに厳しく真剣に鍛えてくれました。 何より、トレーナーさんは決して私を見捨てませんでした。伸び悩み、精神的な脆さを抱えた私に寄り添い、根気強く支えて、導いてくれました。 そして、こんな私を支え、導いてくれたのはトレーナーさんだけではありませんでした。 チームメンバーの先輩方もまた、私をチームに優しく迎え入れてくれました。 トレーナーさんの率いるチームは、噂に反して華々しい成績を誇る先輩方が在籍していました。 チームリーダーのライスシャワーさんは春の天皇賞を二回も勝っている出色のステイヤー。 他にも国内を飛び出して海外レースでも大活躍するエルコンドルパサーさん、グランプリ三連覇のグラスワンダーさんや、芝とダートの両刀で走る規格外のオールラウンダーことアグネスデジタルさん。 そんな錚々たるスターウマ娘達が同じチームでトレーナーさんの指導を受けていました。とても入ると伸びなくなるチームだなんて信じられないメンバーです。 私なんかそんな先輩方と肩を並べるのもおこがましいくらいの実力だというのに、それでも皆さん分け隔てなく同じチームの仲間として受け入れ、親しく接してくれました。 そんなトレーナーさんの優しくも真剣な指導と、チームメンバーの親身なバックアップのおかげで、私はクラシック期から次第にレースに勝てるようになってきました。 伸び悩んでいた今までが嘘のようにメキメキと成長していくのを自分でも実感出来る程でした。そしてシーズン終盤には初めて重賞を取ることも出来ました。 その重賞で勝った時の、私の勝利をまるで自分のことのように喜んでくれたトレーナーさんの姿は今でも忘れられません。 トレーナーさんは私がレースで勝った時には必ず優しく頭を撫でてくれました。 最初は少し恥ずかしかったですが、いつしかあの優しく、慈しむように撫でられる瞬間を私は何よりも幸せに感じるようになっていました。 トレーナーさんに撫でられると何故だか胸がじんわりと温かくなって、満たされた気持ちになるんです。 最近では自分がただ勝ちたいという気持ち以上にトレーナーさんに撫でてもらいたくてレースに勝ちたいという思いの方が大きくなっているかもしれなくて、密かに悩んでいたりもします。 そして、特にその重賞で勝った時に撫でてくれたトレーナーさんの手は格別でした。 今までで一番、本当にこの勝利を嬉しく思っているトレーナーさんの気持ちが撫でる手から伝わってくるようで、私も嬉しくなると同時に感極まってボロボロと泣いてしまいました。 そうして私のクラシック期は終わりました。重賞も取って、一角のウマ娘として注目されるようにもなりました。 全てトレーナーさんのおかげでした。私がここまで来られたのは自分の努力以上にトレーナーさんの導きによるものだと確信していました。 トレーナーさんがいなければ私はこんな風に走れなかったでしょうし、それはきっとこの先も変わらない。 だから、私はまだまだずっと先まで――自分が引退するまでトレーナーさんに導かれて、このチームで走り続けるつもりでした。 私をここまで立派に育て上げてくれたトレーナーさんのために。もっと大きなレースで結果を出すことで少しでも恩返しが出来るように。 けれど、そう決意してシニア期を迎えた矢先のことでした。 私の練習を見てくれていたトレーナーさんが不意に私を呼び止めて、あの言葉を告げてきたのは。 「君は本当に、十分立派に成長したね。きっともう、僕がいなくても大丈夫だと思う」 トレーナーさんは私を真っ直ぐ見つめて、いつものような穏やかな笑顔と優しい声でそう言ってきました。 一体今自分が何を言われたのか、私はしばらく理解出来ませんでした。 「これからは僕以上に君の才能を伸ばしてくれて、大きなレースでの活躍が期待出来るチームに移籍した方がいい」 混乱のあまりフリーズするしかない私を置いて、トレーナーさんはどんどん言葉を重ねていきます。 「君もウマ娘だ、今よりも更に高みを目指したいという気持ち……本能があるだろう? それならば、きっとそうした方が……」 そこでようやく、私の目から大粒の涙がボロボロとこぼれてきました。 トレーナーさんが何を言っているのかを理解して。 だけど、わかりませんでした。それなのに全然、まったく、わかりませんでした。 どうして突然そんなことを言うのか。どうして。私はトレーナーさんがいたからここまで来られて、この先もトレーナーさんのために走り続けようと思っていたのに。 トレーナーさんに導いて欲しいからここにいて、精一杯頑張って、トレーナーさんに褒めてもらいたいから、トレーナーさんのために勝ちたくて。 あなたとずっとこの先も、一緒にいたいから。だから、これからも頑張ろうと思っていたのに。 どうして。どうしてそんないきなり、突き放すようなことを言うの? 自分がいなくても大丈夫だなんて、どうして? そんなはずない。そんなはずないじゃないですか。私はトレーナーさんがいないとダメなのに。 それなのに、どうして。 ……もしかして、そうだから? 私が、そんな風にいつまでもダメだから? トレーナーさんは、私がもういらなくなったから? ボロボロと涙を流しながら、私は頭の中で一気にそこまで考えてしまいました。そのせいで更に涙は勢いを増して溢れ出てきます。 だけど、私はそのことを声に出して尋ねることが出来ませんでした。どうしてなのか、問い質すことが出来ませんでした。 ただ、ひたすら悲しくて、トレーナーさんにそう思われていることを想像すると恐ろしくて、私は何も言えないままただ泣きじゃくるしかありませんでした。 トレーナーさんの真意を聞くことが、どうしても怖くて出来ないまま。 そんな風にひたすら泣きじゃくる私を見て、トレーナーさんはどうやら焦っているようでした。本気で困惑しているようです。 私にどうしたのかと尋ね、どうにかなだめて落ち着かせようと優しく気遣う声をかけてきています。 だけど、私は涙を止められないまま、返事をすることも出来ませんでした。 このまま泣き止むことで、この話が進んでしまうことが怖くて。そうしたくなくて。 「お兄様っ!!」 その時でした。チームリーダーであるライスシャワーさんの大声が私の後ろから飛んで来たのは。 その声は普段とても温厚で大人しく、心優しいライスさんにしては珍しく、本気で怒っているようなそれでした。 「ら、ライス……」 「お兄様、そこに正座」 「いや……でも……」 「いいから、正座」 そんなライスさんの声を聞いたトレーナーさんはますます焦り、しどろもどろに何かを言おうとします。 しかし、それをピシャッと遮りつつ、有無を言わさぬ調子でライスさんはそう命じました。 トレーナーさんはもうそれ以上何も言わず、黙ってその言葉に従い、ターフの上に綺麗な正座で座り込みました。全てを諦めたように、がっくりと項垂れながら。 普段の仲睦まじい二人の関係が嘘のように、ライスさんがレースの時と同じ鬼のオーラを纏ってトレーナーさんを圧倒しています。 とても信じられない光景でした。 驚きの余り、私の涙もいつの間にか引っ込んでしまっていました。 「あらあら~ライスさんの雷が落ちるのは久しぶりですね~……」 「あっちゃ~遂にこの子も洗礼受けちゃいましたか~……」 すると、私の両隣から突然そんな声が聞こえてきて、私は再び驚きました。 急いで左右を確認すると、私を挟むようにしていつの間にか同じチームのメンバーにして先輩であるグラスワンダーさんとアグネスデジタルさんが立っていました。 「ごめんなさいね、トレーナーさんも悪気があってあんなことを言い出したわけじゃないんですよ」 苦笑しつつそう言うと、グラスさんはハンカチでまだ少しだけ目尻に残っていた私の涙を拭いてくれます。 そうしながら、トレーナーさんの真意についてグラスさんが代わりに説明してくれました。 曰く、トレーナーさんには自分が担当して指導してきたウマ娘が立派に育つと、もう自分の指導は必要ないだろうと思い込む癖があるらしいのです。 そして、これ以上は自分以外に教わった方がもっと伸びるだろうと考えて、それを提案してしまうのだとか。 それが一概に間違っているわけでもない。それも確かなのだと。事実、トレーナーさんの提案を受け入れて移籍し、更に実力を伸ばした子も何人かいたようです。 なので、悪い面しかない問題行動というわけではない。トレーナーさんの確かな観察眼に基づいた、純粋な善意からの提案でもあるのです。だから、先輩方も止めるに止められないのだとか。 だけど、トレーナーさんにスカウトされてこのチームに加入したウマ娘は、このトレーナーさんだからこそ自分は成長出来たのだと思っているような子ばかりです。 自分がついていてあげないと心配で、放っておけないと思う子ばかりをスカウトしてくるのですからそれも当たり前ですよね。 だから、ほとんどの子がその提案を断ります。というか、いきなりそんな提案をされることに戸惑い、ひたすら困惑して固まってしまうんだそうです。中にはさっきの私みたいに泣き出してしまう子も少なくないようで……。 なので、その度にチームで古株の先輩方がこうして事情を説明し、サポートとケアに回る事態になるのだとか。リーダーのライスさんに至ってはいつしか担当を泣かせたトレーナーさんにみっちりお説教する係になってしまったそうです。 自分達にも経験があるので、あなたの気持ちはわかりますよ。そう言ってグラスさんもデジタルさんも苦笑していました。 それに、いくらライスさんにこっぴどくお説教されても、トレーナーさんのこの癖はどうしても直らなかったらしいのです。担当ウマ娘のことを真剣に考えているからこそ浮かんできてしまう考えなので、自分でも止められないのでしょう。 なので、今ではもうこのチームで成長した子が受ける一種の通過儀礼として半ば諦めて見守っているしかないとのことでした。 「だから、私達のトレーナーさんを嫌いにならないであげてくださいね」 グラスさんの言葉に私は驚き、慌てて首をブンブンと振ります。 嫌いになんかなるわけありません。絶対にありません。私のことをそこまで考えてくれているようなトレーナーさんを。 むしろ、ちゃんと説明を受けた今では少し嬉しいくらいだったりします。そんな風にトレーナーさんに一人前だと認めてもらえたことが。 そんな私の気持ちが表情だけで伝わってしまったのでしょうか、グラスさんは微笑みながら頷いていました。共感を示すように。 それから不意に、私の耳に顔を寄せてこう囁いてきました。 「一つだけ、かわいい後輩にアドバイスです。あの人を繋ぎ止めておきたかったら、あまり気負わずに、たまには少しだけ自分の弱さを見せて甘えた方がいいですよ。そうしたら、優しいあの人は離れられなくなりますから」 グラスさんのアドバイスは何だかあまりにも大人っぽくて、聞くだけで思わず赤面してしまったような私にはまだ上手く実践出来るかどうかわかりません。 でも、私だってこの先もずっと、トレーナーさんと一緒にいたいから――。 ライスさんのお説教からようやく解放されたトレーナーさんが、正座のしすぎか若干フラフラとした足取りで私の方に近づいてきました。 そして、深々と頭を下げて謝ってきます。自分の提案の唐突さと言葉足らずを。配慮に欠けていたと。 そんなトレーナーさんを快く許してあげる代わりに、私は一つだけ条件を出すことにしました。 私を認めてくれたからこその提案だったのなら、成長したご褒美に頭を撫でてくださいって。 トレーナーさんはその要求に若干戸惑う様子を見せながらも、素直に受け入れ、いつものように優しく頭を撫でてくれました。 その温かい感触に身を委ねながら、私は考えます。 この人と、これからも一緒に走りたい。そのためには、こうして甘えるべきなんだ。 そうしたら、トレーナーさんは私のことを放っておけなくなるはずだから。 だから、グラスさんのアドバイスを的確に実践出来るようになるまでは。そして、そのもっと先。いつか、あなたの手を離れても走っていける自信がつくまでは。 そんな日が来るまでの間は、この手に撫でてもらうためだけに走るのも、きっと許されるはずだよね? 私は何かに言い訳するようにそう考えながら、これから先もこの撫でられている間だけは自分の頬と表情がだらしなく、幸せそうに緩むのを抑えないことに決めるのでした。