1 愛バを失った。 死んだわけではない。だが死んだも同じだ。 名前はサイレンススズカ。 秋の天皇賞でレース中に粉砕骨折。治療には時間がかかり、レース復帰は絶望的と言われた。でも俺もスズカも諦めなかった。 治療とリハビリを繰り返し、きっとまたターフに立てるようにすると頑張った。 だけど、何とか走ってもよいと許可が出た時に本当の絶望に気がついた。 ターフを走るスズカ。ちゃんと走れている。フォームも問題なかった ただ、速度が出ていなかった。何度走っても人間と同じ速度でしか走れなくなっていたのだ。 すわPTSDか肉体の異常かとアチラコチラを走り回った結果、わかったのは、ウマソウルの喪失。 アグネスタキオン曰く、レース中に重大な怪我を追ったウマ娘に見られる現象らしい。 テンポイント、サクラスターオー、ライスシャワー、ホクトベガ……トレーナーとして聞いたことのある名バもそうなったらしい。 『ウマソウルについては未だ何もわかっていないに等しい。けれど私なりの解釈を述べよう。――本来は怪我でウマ娘は本当に死んでいるところだったのかもしれない。だけどウマ娘には魂が2つ有る。本来の物と、ウマソウル。ウマソウルが身代わりとなって助けれてくれた。そう考えている。科学者らしくないかい? 失敬だねぇ、私はこう見えても結構ロマンチストなのさ』 アグネスタキオンの推論はともかく、もうスズカは走る事ができないということだけはわかった。 トレセン学園だって鬼ではない。不慮の事故ということであれば在籍を許されるし、卒業すれば相当の資格だってくれる。 それでもスズカは学園を去った。走ることが生き甲斐であった彼女にとって、他のウマ娘が走る姿を見るのは辛いものだったのだろう。 私には使いみちがわかりませんから、そう言ってレースの賞金を自分に託していたスズカ。その口座の通帳を渡した時、例えそういう意図でなかったとしても、手切金を渡したような感覚に襲われた。 スズカは困ったように少し悩んで受け取ると、お世話になりましたと深々と頭を下げ、学園を去っていった。 あれから半年。新しい担当バを見つけるほど割り切れもせず、酒に逃げることもできず、動く死体だと揶揄されながら過ごす日々。 サイレンススズカという太陽に脳を灼かれてしまったのかもしれない。 このままトレーナーも辞めようか、そう考えていた自分の元に学園からの通知が届く。 クビの通告かと思い開いてみると、選抜レースの開催の案内。 そしてそこで担当バを見つけるようにとの理事長指示だった。見つけられなければクビとはどこにも書いていなかった。 行く必要はない。スズカを超えるウマ娘なんて見つかるはずもない。そんな考えだったが……。 ――選抜レースに行くことにした。担当バを見つけるつもりは毛頭なかった。見つからなかったことを理由にトレーナーを辞める、そんな後ろ向きの理由だ。 会場は相変わらず人でごった返していた。 本格化を迎えていない生徒、将来のライバルを見定めるつもりのウマ娘、マスコミ、そしてトレーナー陣。 ある意味トレセン学園にとって最重要イベントとも言える。 そんな喧騒を余所にトレーナー席の隅で選抜レースを眺める。 見どころのありそうな馬は勿論居た。マンハッタンカフェ、ジャングルポケット、タイムパラドックス。 けど、どれも足りない。サイレンススズカと比べるとどうしても見劣りしてしまう。 いや何を真面目に見ているんだ。辞めるつもりなら座っているだけでいいはずなんだ。これがトレーナの血というものなんだろか。 それからはレースを眺めているだけにした。ともすればサイレンススズカとの出会いが脳裏をよぎるが頭を振って追い出した。未練だぞ、くそ。 そうして迎えた選抜レース最終日。 最後のレースで珍しいものを見た。本格化の来たウマ娘に混じって明らかにベテランのウマ娘が混じっていたのだ。 黒鹿毛で小さなそのウマ娘は明らかにやる気がなかった。周囲のウマ娘を睨みつけ威嚇し、嫌々レースに出ていますよというのがありありと見て取れた。 「あれはトレーナーとやらかしたか……」 ウマ娘の態度からわかる気性難。そういうウマ娘がトレーナーと折り合いがつかずに契約解消。再び選抜レースに出てくるということは稀にだが有ることだった。 「どこかで見たような気がするが思い出せないな……」 とはいえ手元のタブレットでいちいち調べる気も起きなかったのでレースを見ることにした。 レースはその黒いウマ娘の圧勝だった。さすがにデビュー済みが新バに負けるようなことはないか。だが1位で駆け抜けた後やっちまったというような顔をしていたのが印象的だった。 そしてトレーナー達がウマ娘達にこぞって声をかけに行く。最終日の最後までいるようなトレーナーは大体後がない。着順関係なく声をかけにいく。 だが一位を取ったはずのその馬には誰も声をかけに行かなかった。 だがそれだけ。こちらは帰るとしよう。辞職届を書かないとな。 「おい」 掛けられた声に振り向けば、例の黒いウマ娘がいた。 「なんでスカウトしねえんだテメエ」 喧嘩腰の口調。勿論買う理由はない。 「有能なウマ娘がいなかっただけだ」 「嘘つくんじゃねぇよ。選抜レース最終日、才能があろうがなかろうが担当バが欲しいはずだろ。担当バの居ないトレーナーなんざカスだからな」 「――そうだな。俺はカスのトレーナーだよ。それでいい」 背を向けて一歩踏み出す前に襟首を捕まれ、地面に引きずり倒された。 「すっかりさっぱり死んだ眼をしてやがんな。まぁそういうのが俺には丁度いいってやつか。契約しようぜ、な?」 「な、な……。ま、ぐはっ!」 胸に振り下ろされた足で息が止まる。 「別にトレーナーしなくていいからよぉ。トレーナーがいるっていう建前だけ欲しいんだけなんだよ〜。俺は好きにやる。お前も好きにやっていいからよ」 そういって持っていたタブレットを取り上げるとささっと操作してして終わらせてしまった。 「ほい完了。んじゃま仲良くやろうぜ、トレちゃんよぉ」 差し出された手に不承不承捕まれば、思い切り握られて痛みに声が出ない。 なんてウマ娘だ。こんなのがトレセンに居ただなんて。 「自己紹介をしてなかったな。キンイロリョテイだ。もう忘れんじゃねーぞ」 2 次の日、トレーナー室にやってきたキンイロリョテイがやったのは室内に飾られていたトロフィーやレイをボストンバッグに叩き込む事だった。 「何をするんだ、キンイロリョテイ!」 「ああ? こんなのもう要らねぇだろ。前の担当バのトロフィーやらレイやら女々しくいつまでも飾ってんじゃねぇよ」 トロフィーだけでは飽き足らず本棚のレース資料まで放り込んでいく。 「やめろ、それは今まで集めた貴重なウマ娘の資ry……がっ、ガハッ」 止めようとしたがウマ娘の膂力に人間一人が叶うわけもない。腹に一発食らって悶絶する。 「だから要らねぇって。ほとんどのウマ娘は引退したかドリームトロフィー行っちまったよ。もう何の役にも立たねえって」 言われてみればその通り。ウマ娘の世代交代は早い。スズカと一緒に走ったウマ娘なんてもう残っても居ないだろう。 それでもと声を出そうとしても腹の痛みが出させてくれない。 「好きにするって言ったろう? トレちゃんも好きにしていいぞ。まぁ普通の人間にウマ娘は止められるわけねぇけどな」 蹲る俺を余所にキンイロリョテイはスズカが置いていった私物も残らずバッグに放り込んでいく。だがその手がピタリと止まった。 手に取ろうとしていたのは第39回宝塚記念の優勝レイ。 一瞬、その顔に悔しさが滲んだような気がしたが、次の瞬間にはレイをバッグに放り込むキンイロリョテイへの怒りで忘れてしまった。 数十分後。 「さてトレちゃんよぉ。トレーナー室を掃除してやったウマ娘に感謝の言葉は?」 「――出ていけ」 「あーん? 聞こえねえなぁ」 「出ていけと言ったんだ!!」 こちらの怒りもどこ吹く風か。リョテイは肩をすくめると袋を持ち上げて部屋を出ていこうとする。 その足が扉の前で止まった。 「そうそう、次のレースは目黒記念だから出走登録宜しくなぁ」 そう言い残してリョテイは部屋を出ていった。 「くそっ!!」 机を叩きつける音が広くなったトレーナー室に虚しく響く。 「何が目黒記念だ。スズカとの思い出を、絆を、全部捨てやがって……!!」 今すぐにでも契約解除してやろうかとも思ったが、同期のトレーナーやたづなさんの喜んでくれた顔を思い出せば、それも出来なかった。 辞めようとしていたはずであるのに、未練はないはずだったのに。 見守ってくれていた同期やたづなさんへの感謝と同時に、キンイロリョテイへの怒りが胸を占める。 一体何だと言うんだあのウマ娘は。出走登録などしたくもなかったがトレーナーである以上やらねばならない。 不承不承ながらパソコンを立ち上げる。 「好きにしろ、と言ったな……」 建前としてトレーナーが必要なだけとも言った。なら何をやればキンイロリョテイは嫌がるか。 思いついた俺は学園の資料室へ向かった。 「んだよ、これぇ」 翌日、トレーナー室に顔を出したキンイロリョテイに出走登録の控えと分厚い紙の束を渡した。 「――トレーニングメニューじゃねえか!!」 学園の資料から得たキンイロリョテイのデータを基に組み上げたトレーニングメニューだった。 普段の日常トレーニングだけではない。トレーニング外での行動や食事内容制限にまで言及が及んでいる。 「好きにするから好きにしろって言ったのはお前だよな。だから、俺は俺の好きなようにした」 その物言いに今度はキンイロリョテイが言葉に詰まる。 「意趣返しのつもりかよ、クソが」 「勿論別にやらなくてもいいぞ。お前はお前の好きなようにやるんだからな。だが、もしメニューをこなす時は呼んでくれ。手伝いくらいはしよう。暇だからな」 キンイロリョテイは紙の束を持つと真っ二つにしてバラ撒いた。まぁそうするだろうな。 フンと鼻を鳴らした後、トレーナー室を出ようとする。 「そうだ、宝塚記念のレイなら掛けておいてもいいぞ。スズカの影を踏んだ記念なんだろ?」 その後姿に本命を叩き込む。キンイロリョテイの資料を探して思い出したがあの宝塚記念はスズカがギリギリまで追い詰められたレース。そして、キンイロリョテイには後少しで勝てたレース。 「――!!」 ウマ娘の本気を叩きつけられ、その日からトレーナー室の扉はスイングドアになった。 3 目黒記念当日。 東京競馬場のウマ娘控室はキンイロリョテイの怒気で溢れかえっていた。 トレーナーが来ないのはいい。体調不良だのメールが来ていたがどうせ仮病であろうし、来ないことは想定済み。 「これが本命ってことかよ、ちくしょうが!!」 蹴り上げたカバンが壁にぶち当たって落ちる。開いたカバンから出てくるのは黒字に金色のラインの入った服。 キンイロリョテイの勝負服だ。 「目黒記念はGUだぞ……っ!」 ウマ娘が勝負服を着てレースを走るのは何の問題もない。だが暗黙の了解か、勝負服を着るのはGTレースである場合が多い。 勿論GUのレースでも着てはいけないわけではないが、その場合よっぽど気合が入っているか、どうしても勝ちたいという意欲の表れと映る。 まさか他のウマ娘に予備の体操服を貸してくれと頼みにいけるわけもなく、体操着忘れの過怠金など払いたくもない。 館内放送がパドックの時間を呼びかける。悩んでいる暇も選択肢もなかった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 『注目の一番人気、キンイロリョテイ』 『おや、今日は勝負服を着用していますね。気合が違いますよ』 『GUとはいえ勝負服を着用しての出走。トレーナーが変わった事と関係があるのでしょうか』 『ありえますね。よほど相性のいいトレーナーと巡り合ったのかもしれません』 『キンイロリョテイは2年以上勝利がなく、重賞勝利もありません。それだけに今回は特別ということなのでしょう』   何もかもがイラつく。GUに勝負服で出て浮いている自分も、こちらを遠巻きに見ている連中も、的外れな実況も、この降りしきる雨も。 ぶっ殺す。帰ったら絶対にぶっ殺す。 頭の中はどうやってあのクソトレーナーをぶっ殺してやろうかと考えるので一杯。 パドックも地下バ道も話しかけたら殺すと言わんばかりに歩く。トレーナーが同行していないのがなんだってんだ。 気がつけばゲート。 さすがに少しは冷静になる。怒りで掛かって最下位は流石に不味い。 深呼吸して構える。大丈夫、いつも通りだ。 『すんなりとゲートに収まって、係員が離れます。――スタートしました!』 深呼吸が終わればゲートが開いた。 いつもどおり中団をキープして最後にちょっと走って4着5着狙いそれでいい。 先行争いが終わってスローダッシュとヒートステルスが前に出る。なんだ、何をビビってんだあいつらは。 向こう正面で中団の位置。いつもなら問題ない位置だ。少し抜かせば4着5着が狙える。 だけど――クソッ! 今日に限って周りの連中を鬱陶しく感じる。俺の近くを走るな、前を塞ぐな。 全部撫で斬りにしたい衝動を抑えて走る。周りのウマ娘はビビるし、先頭の逃げはどんどん距離を離す。 逃げたいなら逃げろよ、垂れてきたところを撫で斬りにしてやるからよ。 第三コーナーを回って周囲のウマ娘が動き出す。ビビるが下がらない根性だけは認めてやるけどよぉ〜。 どいつも、こいつも、俺の、「邪魔をするんじゃねえええええええ!!!」 最終コーナー回ったところで完全にキレた。怒りが黒い炎となって全身から噴き出す。雨は触れる側から蒸発して消えていく。重バ場を足と蹄鉄で弾き飛ばすつもりで踏み出す。 「どぉけぇぇぇぇええええええ!!!」 『中からキンイロリョテイ! 中からキンイロリョテイ! さぁ200を通過! 先頭はキンイロリョテイ!』 視界に誰かがいると苛つく。苛つく連中を視界に入らないようにすれば、前には誰もいなくなっていた。 『先頭はっキンイロリョテイ、キンイロリョテイ!! 初重賞ゴールインッ!! やりましたキンイロリョテイ! 二年八ヶ月ぶりの勝利が、嬉しい重賞初勝利!』 我に返ればゴールを一着で駆け抜けていた。ウマ娘の本能が、魂が喝采を上げる。これこそが見たかった風景、望んでいたものだと叫ぶ。 脳内での魂からの衝動に、怒りは急速に収まっていく。まるで激情すら走りの糧にしたかのように。 「くそっ、やっちまった……」 ずっと取らなかった1位を取ってしまった。 これをトレちゃんが狙ってたというのであれば脱帽するしかないが恐らくそうじゃない。 だから、これは怒りに我を忘れた俺が悪い。GTじゃないだけマシと思おう。 義務的にウイニングランを終えて地下バ道へ戻ってきたところで厄介なことを思い出した。 「ライブの、センターの練習なんてしてねえぞ……!」 3 目黒記念で勝利したからといって俺とキンイロリョテイの関係が何か変わることはなかった。 次はGTだと出走した宝塚記念は5着。目黒の脚を使えばオペラオーを倒せるとは言わないが掲示板くらいには入ると思っていたんだが。 キンイロリョテイが手を抜いているのは明らかだったが理由はわからない。 聞いて教えてもらえるとも思っていなかったが。 なんとか練習の時だけでもと手をつくしたが、その度にボディにいいのを食らうだけに終わった。 そうして春のGT戦線は終了。夏の強化合宿に入った。 合宿でのキンイロリョテイは比較的おとなしかった。周囲の目があるせいだろう。トレーニングも一通り真面目に行っている。 だが、それに気を良くして少し増量すると砂浜に埋められた。 トレーニングが早く終わったので追加トレーニングしようとすると海に放り込まれた。 ある時は遠泳でキンイロリョテイが溺れているというので助けに行けば、それは演技で逆に沈められたあげく、トレーナーが溺れたということで救助したという美談にすり替わっている事すらあった。 そんな合宿も終わる頃にはいい加減自分も人間としての耐久力が上がってきたなと実感しかけていた。合宿で鍛えられたのは俺かもしれない。 「トレちゃんよぉ。近くで夏祭りやってるらしくてよー。ちょっとセイウンスカイとニシノフラワーの間に挟まってくるから小遣いくれよぉ」 なんてことを。 あの二人が仲良く笑顔で連れたって出かけていくのを俺は見ていた。そんなことをさせるわけにはいかない。 「わかった、財布を取ってくる」 と時間を稼いで、地元の自治体のご老人方が作ったであろう手書きのチラシの切れ端、ジュース引換券を集めて渡したところ、夜の海に放り込まれた。 流石にヤバいと思ったのかすぐにキンイロリョテイに救助された。 命の危機と引き換えに企みは阻止出来たようだ。 その後手間かけさせんなと逆ギレしたキンイロリョテイに屋台を総ざらいさせられたが、あの二人の笑顔を守れたのなら軽いものだ。 そうして合宿も終わり、なんとかキンイロリョテイの扱い方もわかって来たかなという頃、たづなさんに呼び出された。 キンイロリョテイの事かと身構える。なにせ秋戦線も成績は振るわない。オールカマー五着、天皇賞七着。 トゥインクルシリーズも5年目。引退を仄めかされても仕方がない。 身構えて出頭すれば、内容はまったく別だった。 「ドバイ、ですか……」 「まだ本決まりではありませんが、スタンドアップのドバイ挑戦の併せウマとして一緒に行ってもらえないかと……」 「ふーむ……」 スタンドアップは確かキンイロリョテイと同じような成績だったはず。ドバイに挑戦出来るとは思えなかったが、トレーナー側の希望という。色々あるものだ。 「本人に聞くだけ聞いては見ますが期待はしないでください」 なにせあの性格だ。海外なんて行きたがらないだろう。とはいえ聞かないわけにもいかない。 重い足取りでトレーナ室のドアを開ければ、眼前には信じられない光景が広がっていた。 床に倒れ蹲るキンイロリョテイ。それを見下ろす黒いスーツで黒鹿毛の華奢なウマ娘。 そのウマ娘が振り返る。黒一色のスーツの中でネクタイだけが真っ白い。そしてその視線、その瞳には人を殺してきたかのような圧。 「おまえか。うちの娘をろくに勝たせることすら出来ない無能は」 次の瞬間には腹部に鋭い一撃が入っていた。キンイロリョテイとは比べ物にならない一撃。 床に崩れ落ちる。 頭を踏みつけられる。 誰なんだ。学園内でこんな所業が許されるわけがない。床から見上げた姿。スーツに光る襟章はトレセン学園スカウトマンの証。 スカウトがなんでこんなところに。 いやさっき何か言ったな。俺の娘、だと……? 「やめろ、トレちゃんに、手を、出すな……」 辛うじて起き上がったキンイロリョテイだったが、すぐに足を払われて再び床を舐める。 「おまえ、今まで手を抜いて走っていたな? てっきりシルバーコレクター程度の足かと思って諦めていたんだが。俺の目を欺くとはやるじゃないか」 今度はリョテイが踏みつけにされる。やめろと叫びたい。今すぐ止めなければ。だが腹部の痛みで体が動かせない。 「何の気まぐれかわからないが、目黒記念であれだけの脚を見せておいてバレないとでも思ったのか? あの脚があれば今までのシルバーが幾つかはゴールドになっているはず。つまり手を抜いていたってことだ」 「親父……俺は……!」 「いいか、ウマ娘は走るのが本懐だ。本能だ。魂からの衝動だ。走らないウマ娘などウマ娘じゃない。走った結果として目が出ないのはいい。だが手を抜いていたのは許せん」 振り上げられた足がリョテイに命中する前に、精神力を振り絞って体を動かして飛び込んだ。 肩の裏にに衝撃。 「トレちゃん……!!」 今のは骨が砕けたかと思うほどの衝撃に目の前がチカチカする。 「ほう、根性だけはあるようだな。――いいだろう。チャンスをやる。ドバイで勝て」 ドバイ遠征の話をなぜ知っている。考えようにも思考はまとまらない。 「勝てないなら引退、学園も中退だ。望み通り自由にしてやる」 それだけ言い捨てると黒い嵐は去っていった。 圧が消えて安心したのか、それを見て俺は意識を失った。リョテイがなにか叫んでいるが何を言っているのか聞こえな……。 気がつくとソファに寝かされ天井を見上げていた。 起き上がろうとすると腹部が痛み、再び横になる。 「起きたかよ」 顔を動かせばリョテイ。顔に湿布が貼られている。自分の肩や腹部にも処置がされていた。リョテイがしてくれたのか。 「…………」 「…………」 聞きたいことは沢山あった。だが聞いてはいけない事のような気もする。 リョテイも言い出しにくいのか黙って椅子に座っている。 しばらく沈黙が支配して、リョテイがゆっくりと口を開く。 「――あれは俺の母親だよ。サンデーサイレンス。聞いたことくらいあるだろ」 「あれが、か」 その名前を知らぬトレーナーは居ないだろう。 サンデーサイレンス。トレセン学園のトップクラスのスカウトマン。スカウトしてきたウマ娘は数知れず。その中で重賞を勝ち抜ける"当たり"のウマ娘も数知れず。 トップスカウトマンの証、リーディングサイアーを持つ元競走バのウマ娘。 確かスズカも彼女の誘いで学園に来たはずだ。 「小さい頃からあんな感じでよ。走らないとよく殴られたもんだ。あんまりだから一度嫌がらせで親父って呼んだら逆に気に入りやがってな。それ以来ずっと親父呼びだ」 語るリョテイの目はどこか遠くを見ている。 「そんな親父だからトレセン学園には無理やり入らされたようなもんだ。辞めようとしたこともあった。けれど中学生程度の女が一人で生きていけるわけもない。すぐに見つけられて捕まったさ。それで嫌でも理解したんだ。走るしかないってよ」 諦観の混じった溜息。これがあのいつものリョテイと同じとは思えない。 「けど本気で走る気にはなれねえ。親父への反抗心もあったが、ウマ娘の足はガラスの足だ。本気で走ればいつ折れるかわからない。だから本気で走らず、負けないが勝ってもいない順位で落ち着くことにした」 「……」 黙って聞く。口を挟むほど野暮じゃない。 何よりリョテイが走らない理由がわかるのだ。 「親父は走って勝てるウマ娘にしか興味がない。このままシルバーコレクターして引退卒業すりゃ逃げられる。掲示板に入れば多少でも賞金もでる。そう思ってたんだがなぁ」 「どっかのバカが勝たせてしまった、か」 「そうよ。おかげでこの有様だ」 幼少期からのネグレクト。走らなければ否定される環境。それが今までのリョテイだったのか。 トレセンに来るような娘はみんな前向きで走りたい勝ちたいと思っているウマ娘ばかり。そう思っていた。こういう子もいるんだな。 「で、トレちゃんよ。ドバイって?」 「ああ、それはな……」 たづなさんからの要請を説明する。帯同バだと思っていたらとんでもないことになってしまった。 「そっか。――トレちゃん、メニュー頼むわ。ドバイに勝てるやつ」 椅子に保たれて手を顔に当てるリョテイ。その表情は読めない。 「いいのか?」 「いいも悪いもねぇだろ。そもそもトレちゃんだってターゲッティングされてんだぜ。リーディングサイアー持ちのスカウトマンとやらかし経験有りのトレーナー。勝てるんならどうぞ、だ」 「――そりゃ無理だ」 頭でメニューを組み立てる。だがドバイとなるとすぐに組み立てられるようなものでもない。 「んじゃ、頼むぜ。……痛つつッ」 腹を抑えながら部屋を出ようとするリョテイを呼び止めた。 リョテイの走らない理由を知った上で、これは言って置かなければならない。 「リョテイ、今までお前を担当バとまともに思ったことはない。殴って殴り返されての関係だったしな。それを今から担当とトレーナーとか言うつもりもない。でもお前と俺は一蓮托生になった。だから『共犯者』だ。お前の望みを叶えた上で、ドバイにで勝たせてやる」 痛む体を無理やり手を差し出す。リョテイとの間に担当やトレーナーという関係は望むべくもないし似合わない。これは共闘だ。 少し間を置いて、リョテイはその手を握り返してきた。きっちり握りつぶさんばかりの力を込めて。 「いいぜ、ドバイに勝って親父の鼻を明かしてやろうじゃないか」