「アルダンお嬢様。ご加減は」 「ばっちりです。……むしろあなたが居る方が、我慢ならなくなってしまうかも」 「すみません……」 レース場の控室。初めて袖を通す勝負服は驚くほど体に馴染んで、気が付くと意味も無く姿見の前でくるくると回ってみたりしてしまう。 「お気に召したようで」 「だって想像以上に素敵だったんです。オーダーがちょっと曖昧だったかもしれなくて……」 「……型紙を送りつけてまで曖昧とは」 「細部の装飾までは考えてなかったんです。それがこんなに……」 ひらりと軽やかに衣装が舞う。来ているだけで力が湧いてきて、ああ、今にも走り出したい……! 春先ということで、今も私は発情期真っただ中です。 でもこうやって興奮がモチベーションに変わっているのを感じると、薬で抑えるのは不合理だという考えにも納得できます。 それに、レースが終わった後は…… ふるふると頭を振って不埒な考えを頭から追い出します。 レース前の集中を乱しては元も子もありません。 それに今日は、何といっても、 「日本ダービー……」 「対抗バにはチヨノオー様、ヤエノムテキ様がいらっしゃいます」 「分かっています。相手にとって不足なし。メジロの名に懸けて、必ず私が勝ちます」 病弱でも、足に不安があっても、メジロに生まれた以上は栄誉を掲げなければ恥さらしです。 あんなに良くしてもらったおばあさまに、そして支えてくれた彼に面目が立ちません。 「時間です。ご武運を」 「はい、……行って参ります」 扉を開けて、光で暗む地下道を進む。負けられないGⅠ一戦目、そのゲートに向けて。 『さあ、最終直線、抜けてきたのは外からサクラチヨノオー!内からはメジロアルダン!上がってくる!!』 最後、ゴールゲートが見えた辺りで、最後の脚を解放します。 「はあああぁっ!!!」 後続を突き放してハナに躍り出たけれど、チヨノオーさんがぴったりくっついて離れない……! けれど、差が開かずとも、このままもつれ込めば…… 「ああああああああっ!!!!!!!!」 (まだ伸びるんですか!?) じりじりと彼女の気配が背で大きくなる。鬼気迫る威圧感から必死で逃げても、距離が、距離が開かない! (嫌、嫌っ、負けたくない……っ!!) 「やああああっ!!!」 「うあああああああっ!!!!」 伸びる、伸ばす、迫る、逃げる、壊れてもいい、だから、だからどうか─────────────── ───────────────ゴールの一瞬、横目にちらりと、ピンクの髪が、 「お疲れ様でした。アルダンお嬢様」 バックヤードで待っていた彼を見つけると、ふらふらとその方へ歩いて行き、その胸に外聞も無く倒れこみました。 「本当に、よく頑張りました」 「でも……負けて……」 「……それでも、今までに見たことのない鬼気迫る良い走りだったと思います」 ぐしゃ、と彼のスーツを握る。 胸いっぱいに彼を吸い込んでも、この暗雲を塗りつぶすのには全然足りなくて、 「……ふっ」 強く押し込んでしまったのか、彼が座り込むままに私も倒れこんで、 「うっ、う、うぐぅっ……」 ただただ、全力を賭して、負けたのが、悔しくて、 「あ、うわあぁぁぁっ……」 彼の胸元に、沢山涙を刷り込んでしまいました。 「勝ちたかった!勝てると思った!なのに……なのにぃっ……!」 「あああっ……ひぐっ、うわあああん………」 「そうですか、では失礼」 軽く私の涙を拭った後、彼は私の体を抱え上げてレース場を後にしようとしたのです。 「ま、待ってください!まだウイニングライブが……」 「申し訳ありませんが、今回はご辞退を」 「どうしてですか!?二位とはいえ、私もファンの皆様に感謝をしないといけません!」 私の懇願を聞いても、有無を言わせない力加減と迷いのない歩きが止まることはありません。 「……今回の優駿は、恐らくライブ無しで終わると思います」 「ライブ中止!?機材トラブルですか……?」 悲しそうな顔をして、彼はこういいました。 「お嬢様の脚が折れている状態でステージに上げる訳には行きません。素人の見立てですが、恐らくチヨノオー様も……」 あんまりではありませんか。 世代の、最も運のいいウマ娘を決めるレースで、その上位二人が予後不良を起こすだなんて。 私は全治半年程度の骨折。リハビリを含めれば今年いっぱいは歩くこともままなりません。 後に聞いた話ですが、チヨノオーさんは、屈腱炎で、もう二度と走ることは叶わないと。 「どうして……どうしてこんなひどい仕打ちがあるんですか……!」 病室のベッドで、私は何日も泣き明かしました。 多くのウマ娘の念願であるダービー。数々の夢を散らしてでも得る栄光は、とっても尊いもののはずなのに。 こんなことなら走らなければよかったなんて考えてしまう自分も嫌になります。 「チヨノオーさんは、チヨノオーさんは、もう……」 「ご友人ということで、メジロもできる限りのバックアップは致します。ですが、覚悟は決めておいてください」 リンゴを剥きながら彼は、冷酷な事実を私に突き付けました。 「ご友人を心配する気持ちはよく分かります。ですがお嬢様は自分自身の療養に全力を挙げるべきだと思います」 「今はそんな場合じゃ……」 ことり、とナイフをお皿に置く音がしました。 そしてぐずる私の肩を、強く彼が掴んだのです。 「甘ったれないでください」 「し、執事さん……?」 その目には強い意志が秘められて、いつものような柔和な笑みではない硬い表情をしていました。 「あなたはにはまだ希望がある。骨が繋がって、リハビリを頑張ればまたGⅠに出るのも夢じゃあない」 こんなに、彼に強くものを言われたことは無くて、ただただあっけに取られっぱなしです。 「あなたはあなたの責務を全うしなければならない。ご友人を、おばあ様を、そしてどうか私めを、安心させてはくれないでしょうか」 その言葉は頭を強く打つようなものでした。 私は、私の責務を全うする。メジロに生まれた以上、恩に、栄光に報いなければいけない。 「……目が覚める思いですね」 「恐縮です」 「分かりました。チヨノオーさんには出来る限りのことをしてあげて下さい。私は自身の療養に専念します」 それを聞いて安心したのか、彼の表情に柔らかさが戻りました。 「それを聞きたかった」 差し出されたリンゴを一口で頬張って、しっかり噛みしめました。果汁が渇いた喉に染みて活力に変わっていきます。 そこからは、とても長い療養生活でした。 「……そういえば、発情期が収まってます」 「あれだけ全力を発揮したのです。あれ以上に発散する方法はありませんよ」 「そういうものですか……」 あら?でもマックイーンはレース後に必ず処置をしてもらっているって…… ……これは、彼女のイメージに関わる話かもしれませんね。