担当のウマ娘とは適切な距離感を保つことが大事なのだという。 二人三脚でレースを走っていく過程でいつしか相手にパートナー以上の感情を抱くケースがよくあるのだそうだ。 分からないでもない。ウマ娘のレースは厳しいもの。ウマ娘とトレーナーはある意味では戦友といえる。 信頼関係を育む過程で相手へ入れ込むあまり、そうした感情を募らせることがあるというのは私にも想像しやすかった。 それが女同士でも油断しちゃ駄目と私に忠告していた先輩は先日担当のウマ娘に拉致されて実家へと連れて行かれてしまった。 だが…こと私たちにとってはそんなことは杞憂する以前の問題だったのだ。 「ベガ、今日は…」 「失礼します。いつも通りトレーニングが終わったら報告には来ます。では」 アドマイヤベガはそう言うと、迷うこと無く背を向けてトレーナー室を出ていってしまう。 引き留めようと躊躇いがちに伸ばした私の手が虚しく揺れていた。 …これである。 ベガは私の言うことを聞こうとはしない。いや、誰の言うことさえ耳を傾けようとしない。 練習熱心ではある。人一倍努力もするしひたむきだ。ピカイチの才能に驕らない謙虚さもある。 だがその練習内容はあくまでベガ自身が考えたもので、私の意見は一切含まれていなかった。 私が強く出れないのには理由があった。それがベガと私の間で交わされた契約条件だったのだ。 『私のすることに口を挟まないでください。私はひとりで走りますから』 専属に際し提示されたベガの条件を私はうっかり呑んでしまった。新人だった私には焦りがあったのだ。 まさかそれが本当にそのままの意味だなんて当時の私は想像もしていなかった。 以来、私とベガの関係は歪なまま続いてきてしまった。 ベガはレースに関する全てを自分自身で取り仕切り実行する。私は彼女を見守り、時々事務的な作業を請け合うだけ。 頑なな態度で誰とも打ち解けようとはせず、どこか悲壮感めいたものさえ感じる走りでベガは今日もトラックを回る。 パートナーとはおよそ呼べない。まるで書類の上だけの付き合いのような無味乾燥とした関係。 ───私は弱かったし、無能だった。 それでもその輝ける才能で結果を出してしまうベガに目が眩んでいた。 私たちはこれでいいのかもしれないなんて自分で自分を誤魔化していた。いいはずなんて無かったのに。 彼女から契約を打ち切られるとしても勇気を出してちゃんと向き合い、対話すべきだったのだ。 その臆病のツケはクラッシックの登竜門、皐月賞の舞台で強烈なしっぺ返しとなって叩きつけられた。 ───6着。掲示板にさえ、アドマイヤベガは入れなかった。 原因は明らかだ。人生でたった一度きりの大事なレースを前にしたオーバーワーク。それに伴う体調不良。 レース前のベガは精彩を欠いていて、調整に失敗していたのは誰の目にも明らかだった。 ちょっと頑張り過ぎじゃないかなと見ていた私は思っていたのに、結局ベガに言い出せなかった。 放っておいてくださいとベガにぴしゃりと言い放たれるのが怖かったのだ。 なんて間抜けな三流トレーナー。新人だからなんて言い訳が通用するものか。 好成績を収め続けるベガと契約を切りたくないだけで自分のことしか考えていなかった。 激しい後悔とこのままではいけないという理解は私をとうとう突き動かした。 「ベガ。話があるんだけれど」 皐月賞の翌日。レース後で消耗しているはずなのにトレーニングの用意を始めようとしていたベガに私は声をかけた。 じろりと私を見上げるベガの目が昏い。 「昨日のことでしたらすみませんでした。調整に失敗したのは私の責任です。以後気をつけます」 「そうじゃなくて…!  ううん、ベガが走りすぎだったのを止めなかった私の責任でもあるから…」 「…自分のせいでもあるとでもいうんですか?やめてください。  私の負うべき後悔を勝手に自分のものにしないでください。私がひとりで走り、私がひとりで間違えたんです」 ベガは不機嫌だった。 もともと昨日のレースのことで気を悪くしていたところに私から話しかけられて更に苛立っているようだった。 一瞬怯みかけたが勇気を振り絞って踏みとどまる。…このままでは駄目だと決めたのは私自身だ。 「だ…だからこれからはもう少し話をしようよ!  トレーニングの内容はともかく、体調管理くらいはやっぱり私にも担わせて!でないと…」 「でないと?今回みたいなことになるというんですか。もう間違えません。  言いましたよね。契約の時。私のすることに口を挟まないでくださいって。反故にするつもりですか?」 「そ、それはそうなんだけれど…でも…。  いつまでもたったひとりで走り続けるベガを見ていられないよ。だって───悲しそうだもの」 それがベガにとっての地雷だったらしい。ベガはいきなり立ち上がるなり、私をきっと睨みつけた。 「黙ってください…!私は決めたし、誓ったの!  誰の助けもいらない!誰の力も借りない!私はひとりでもレースに勝ってみせる!  それが私の代わりに星になったあの子に対する贖罪なの!  何も悲しいことなんてない!何も悲しいことなんて…!勝手なことを言わないで!  だいたい今日の今日まで指を咥えて見てるだけだったくせに偉そうに…!  あなたはトレーナーがいなければレースに出場できないから仕方なく選んだだけの───」 そこでベガは我に帰ったようにはっと表情を変えた。 勢いであれこれ口にしてしまったことに気づいたらしく、ぐっと息を呑んでから踵を返す。 「ともかく、これ以上口を挟んでくるなら契約を打ち切ります。  それじゃトレーニングがありますから…失礼します」 「ち、ちょっと待って、レースの翌日なんだから休まなきゃ…」 ばたん、と。トレーナー室のドアは大きな音を立てて閉まった。ベガと私の間の心の壁を表すかのように。 離れていくベガの足取りはとても早く、あっという間に聞こえなくなってしまった。 どうするべきか?決まってる!追いかけなきゃ! 呆然としていた私はすぐにベガの後を追って駆け出した。 ───が。きっといるだろうと思って辿り着いたトレーニングコースにはベガはいない。 首を傾げながらベガがいそうなところを転々として回るが、そのどこにもベガの姿は無かった。 そうこうしているうちにやがて日が暮れ、太陽はぐんぐんと山の端に沈んでいこうとしている。 ひょっとしたら練習用コースへ戻ってきているかもという淡い期待にも裏切られ途方に暮れた。 薄暮が芝を燃え上がるような茜色に染め上げている中で落ち込んでいた私の耳にソレは聞こえてきた。 「───はーっはっはっは───」 最初は気のせいかと思ったが、幻聴じゃない。 ソレはコースの端のあたり、最も全貌を見渡せる位置で高らかに哄笑するオモシロい存在だった。 「太陽よ!さようなら!さようなら!  そしてまた明日、ボクを照らすために昇ってきてくれたまえ!そう!ボクを遍く人々の目に触れさせる栄誉のために!  …おや?そこにいるのはアヤベくんのトレーナーくんじゃないか!どうしたんだい?」 そこにいたのは皐月賞の勝者。テイエムオペラオーだったのである。