●4年目1月 私は彼女に嘘をついている。 サクラバクシンオー。URAファイナルズスプリント決勝戦で見事勝利をつかんだ彼女は、次の目標を中長距離に定め、 年明けよりトレーニングを再開していた。 その矢先彼女は軽度の肉離れを起こしてしまった。恐らく昨年の連戦に次ぐ連戦での疲労も溜まっていたのだろう。 私の判断ミスだった。幸い症状は軽度だったため1ヵ月程の治療で十分な回復が見込めるとの診断結果となった。 症状が少し落ち着いてきたころ、彼女は商店街の福引で引き当てたという温泉旅行券を私の前に差し出し、湯治も兼ねて温泉へ行きたいと申し出てきた。 彼女の若さ、ウマ娘の驚異的な肉体治癒力、アイシングが効果を発揮し気づけば肉離れの炎症はかなり抑え込まれていた。 温熱療法に移行すべきかを検討していた時期だったこと、ケガへの後ろめたさがあった点から、彼女の提案には、私も同意した。 ただし、彼女の性格を考慮する必要があった。旅先で走り回られケガが悪化しては元も子も無いため、 移動は全て車椅子で行うことを条件にした。 この条件に対し、彼女は特段不満もなかったようだった。やや意外であった。 -- 彼女は湯治旅を楽しんでくれているようだった。風情のある旅館のあちこちを見ては次々に感想を述べ嬉しそうに話す。 その姿はいつものように明るく、ケガによる精神的な不安なども無いように思えた。 その姿を見て、私も安らぎを感じた。 夕食を終えいつものリハビリメニューの時間となった。リハビリを軽く終えた後、私はソファに座る彼女の脚部に異常が無いか細かに確認しつつ、 あわせて彼女に軽いマッサージを行う。私は、視線こそ目の前の彼女に集中していたが、私の意識は、彼女に向けてはいなかった。 ある一つの事に、思いを巡らせていた。 私は、彼女に嘘をついている。 『結果的に嘘になってしまった』という言い方が正しいのかもしれない。彼女の適正距離の事だ。 中長距離だって彼女ならいつか走る事ができる。私はそう信じていた。 トレーナー契約をした当初も、至って真面目にその可能性を信じていた。 甘かった。 スプリントの覇者として彼女が大成した今、いざ中長距離を目標とした練習を開始したが、 そこに待っていたものは、重い現実だった。 壁は、目の前に、高く、高く、聳えていた。 中長距離向けペース走で表示されたタイムが冷酷な言葉を発する。お前達が目指すものは永遠に手に入らない。 無視し歩むのならば構わないがそれは欺瞞でしかない。この数字が明確な根拠だと言わんばかりに、 ナイフのように鋭く、冷徹に、私達へ忠告した。 私は、彼女に事実を伝えるべきだ、といつからか考えるようになった。 だがこの現実を彼女に伝えたらどうなるだろうか。 2年以上も彼女を付き合わせた上で、だ。 一度きりの競技人生を台無しにされた。 この嘘つきめ。 信じていたのに。 恥知らずの大人が。 許せない。 と、彼女が知る限りの怨嗟の言葉が私に投げつけられるだろう。 トレーナー契約も解消となり、彼女と歩んできたこの道のりを最後まで歩むことは決して叶わないだろう。 当然の報いだ。 だが辛いのは私ではなく彼女の方だ。彼女の笑顔に一生癒える事の無い傷をつける事になるかもしれない。 彼女に及ぼす影響だけがただただ気がかりで、ずっと、言えずにいる。 だが、もはや虚構でしかない夢をいつまでも彼女の前にチラつかせ続けるのは悪魔の所業でしかない。 本当の手遅れになる前に一刻も早く伝えるべきなのだ。 それが、私がトレーナーとして負った責任に対し最低限行うべき事なのだ。 そして、それは今でなくてはならない。 普段のトレセンの生活の中で何度も彼女に話を切り出す事を考えた。 何度も言おうとしたが、一度も私の口から言葉が出てくる事はなかった。 この、やや特異な非日常である湯治旅の場でならば。と、私は考えている。 きっと口を開く事ができる。伝える事ができる。 その結果、この旅が彼女にとって辛い、思い出したくもない思い出に変わってしまうかもしれない。 しかし今を逃しまたトレセンに戻った後、私は言えるだろうか。きっと、私は口を閉ざしてしまう。 彼女と共に歩んできた、あの見慣れた風景の中で、彼女が悲しみ崩れ落ちる姿を見る事を、 体が拒否しているのかもしれなかった。 明日の朝にはこの湯治旅も終わりを迎える。 今しかない。 今、伝えよう。1分でも、1秒でも、早く。 『自分には、君に中長距離を走らせる力が無かった。本当にすまない』と。 私は決心した。 -- 「…ひとつ聞いて貰えるかな」 私は床に片膝をついた姿勢でソファに座る彼女の足をマッサージしながら切り出した。 「はい!どうぞ!」 聞き慣れた、彼女の明るい返事が返ってくる。 「なんでも!仰ってくださいトレーナーさん!」 太陽のような眩しさすらある笑顔だ。どうか。この笑顔だけはどうか救えないだろうか― 思わず彼女の顔を見る。彼女が泣いているように見えた。 いや… 泣いているのはきっと私だ。 私の視界が急激にぼやけはじめている。 涙が出てくる。私が泣いてどうするのだ。 涙を止めようと思ったが、思えば思うほど止まらない。 きっと今の私は、あまりにもひどい顔をしているのだろう。 ぼやけた視界の中で、彼女は笑顔で私を見つめている。 私の言葉を、待っている。 覚悟を決め、私は口を開いた。 ・・・ はい!サクラバクシンオーです! 今!わたしは!トレーナーさんと初の旅行中!湯治旅にバクシン!バクシン!しています! ですが、トレーニング中のケガを療養する事が目的なので、あまり激しく動いたり走ったりすることは、 お医者様にもトレーナーさんにもNGとされています。少し物足りないですが、仕方ありません! でも旅館でトレーナーさんが私を乗せた車椅子を引いてくれたり、車椅子を離れ歩行している時に歩行の補助をしてくれたりと、 私のために常にアレコレ気配りをしてくれています。なんだかおヒメサマにでもなったような気分です!エッヘン! ふとトレーナーさんの顔を見ます。チラリ。むむ、おお!スマイルスマイル!良かったです! ここに辿り着く前まではなんだか思い詰めたような顔をしていたのですから!安心致しました! 優しいトレーナーさんに、私のケガの責任を今も感じさせてしまっているのかもしれません。 タイヘン、タイヘン申し訳ない限りです。 -- 楽しい時間はアッという間にすぎてしまいます。 夜になりました。トレーナーさんから言われた通りの入浴方法でお風呂にも浸かりました。 トレーナーさんと一緒においしいおいしいお夕食も頂きました。 そしてリハビリの時間です。出先でもできる簡素なリハビリメニューをトレーナーさんは次々指示してくれます。 一通りメニューを消化し、最後にトレーナーさんのメディカルチェック兼マッサージの時間です。 私がソファに座っている状態でトレーナーさんが床に片膝を立て、入念に足の状態をチェックしてくれています。 そのマッサージの心地よさといったら! 私は余りの気持ち良さに思わず目を閉じます。 このまま寝てしまうかもしれません。グー。 オット!トレーナーさんを前にして居眠りするところでした。あぶないあぶない。 いけません。何か考え事でもしてみましょう。 考え事―。 題材はすぐに思い浮かびました。 未解決の、題材。 -- 昨年のURAファイナルズ決勝。私は後方から迫るフラワーさんと並んでゴール。写真判定で私が1着となりましたが、 正直に言えばゴール直後、私は敗北を覚悟していました。 フラワーさんはレース後、私の勝利を精一杯称えてくれました。私も模範的優等生としてフラワーさんに可能な限り感謝の気持ちをお伝えしました。 ですが私はフラワーさんに勝った気など全くしませんでした。勝利した私に去来した想いは悔しさ。惨めさ。 あと1mでも距離が長かったならば私は負けていたに違いありません。 あの日の事を思い返すと胸が熱くなります。 再戦し、雌雄を決したい―。 最近、ふと思うことがあるのです。 私は…スプリントの世界で生きるべく生まれたウマ娘だったのかと… -- 昨年のクリスマス前。短距離戦で負ける事を疑っていなかった私は、当時こう思いました。 もし私がURAファイナルズを制したとして次に何をするのでしょう。 私はそこで終わり? トレーナーさんは新たな目標を見つけ、私を置いて次のステージへと行ってしまう? ふとそんな思いが頭をよぎりました。 気づくと私はトレーナーさんへのクリスマスプレゼントとして立派なシステム手帳を買っていました。 買ってすぐに包装紙を破き中身を取り出し、手帳に中距離、長距離のレース日程をひたすらに書き殴っていきました。 そして、手帳をトレーナーさんに渡しました。 クリスマスの日、トレーナーさんは私の差し出した手帳を見て、笑顔でうなずいてくれました。 私は安心しました。中距離、長距離を目指す事にではありません。 これでトレーナーさんがまだ私の元を離れないと知って安堵したのです。 ですが新たな距離でのトレーニングの準備が進むにつれ安心は恐怖へ姿を変えました。 中距離以上で私に必要とされる能力が欠如していることが、トレーニングで徐々に浮き彫りとなってきたのです。 トレーナーさんの焦燥、この状況を打破しようという苦しみが、すぐ近くにいる私にもひしひしと伝わってきました。 私は言いました。いえ、言うつもりでした。 『トレーナーさん、私、短距離を―』 ですが実際に口に出てくる言葉は全く違うものでした。 『トレーナーさんを、信じていますから―』 トレーナーさんと出会ってすぐのころは、輝かしい中距離、長距離の世界へ導いてほしいという思いから、 常々、その言葉を口に出してきました。 でも、今、私が放った言葉は『嘘』です。 この距離の才能が無い事を知った彼に、 見放されるかもしれない。 逃げられるかもしれない。 その恐怖に耐えられなくなった私は、彼にとって呪詛とも言える言葉を持ち出したのです。 トレーナーさんの逃げ道を奪い、束縛することで僅かな心の平穏を得ようとしたのです。 『トレーナーさんを、信じていますから―』 なんて卑劣な言葉。模範的優等生、模範的学級委員長などの言葉を常々言っている自分が、心底嫌になりました。 常に学級委員長として模範的な存在として自らを疑わなかった自分が嫌になったのはこれが生まれて初めての事でした。 -- 私は、まだ彼に嘘をつき続けています。 でも、もう、これ以上は嫌でした。トレーナーさんが日々傷ついていくのを見るのが耐えられないのです。 どんな形でも構わない。最後まで私を見届けてもらいたい。 伝えたい言葉は、それだけでした。なのに、一歩が踏みだせない。 怖いのです。 嘘に身を隠そうとする自分が、嫌でした。 伝えたい。この想いを。 伝えたい。勇気を振り絞って。 伝えたい。きっかけが、ほしい。 ・・・ 「…ひとつ聞いて貰えるかな」 と、ソファの下で床に片膝をついて熱心に私の足をマッサージしてくれているトレーナーさんがぽつりと一言。 私は一瞬にして我に返りました。 トレーナーさんが、居る。 トレーナーさんが、居る。目の前に。 トレーナーさんが、居た。こんな近くに。 「はい!どうぞ!なんでも!仰ってくださいトレーナーさん!」 頭で考えるより早く瞬時に言葉が口から出ていました。 ん?なぜでしょう。いつの間にか、両の眼から涙を流しているトレーナーさん。 なぜでしょうか。私の目からも突然、涙が溢れ出てきた気がしました。 でも気にする暇はありません。 静かにトレーナーさんが話し始めました。 「うん…最後まで、どうか、聞いてほしいんだ」 いつも一生懸命なあなたの言う事です。 なんだって聞きますとも。 あの日あなたに感じた何かを信じて ここまで来たのです。 なんだって聞きますとも。 そして決めました。 あなたのお話を聞いた後、 勇気を出して言うことにします。 ずっと、ずーっと、 これからも一緒に歩んで行きたいのです。 私の大好きな、トレーナーさんと。 私の大切な、トレーナーさんと。 ・・・ 私の想いはすべて言葉に乗せ、彼女に伝えた。 私の力不足がこの事態を招いた事。 責任は全て自分にあること。 トレーナーを辞めるつもりであること。 私の言葉をすべて聞き終えた彼女は、私の顔は見ず、俯き、ボロボロと涙を流し始めた。覚悟した。彼女から浴びせられる数々の罵声を。だが、彼女が取った行動は、俯いたまま、自らの顔を手で覆っただけだった。 続けて、嗚咽まじりの、言語の体を成していない言葉で彼女は何やら話し始めた。彼女が何を喋り始めているのか、何を言っているのか、全くわからなかった。 想定外の事態に私も困惑する。立ち膝でいた私は立ち上がり、ソファに座る彼女の肩をつかみ、彼女の名前を呼び、彼女の顔を覆う手を払った。 涙で、鼻水で、ぐしゃぐしゃになった彼女の顔が現れる。 その口から洩れる微かな声。何を言っているのかが分からない。 彼女はずっと同じ言葉を繰り返していたため、最終的になんとか単語を聞き取ることができた。 『二人で』 『スプリント』 『一緒に』 彼女の言葉一つ一つを繋げた時、私は心臓に杭を打たれる想いがした。彼女は、もう既に、覚悟ができていたのだ。 愚かだった。今、この場で、ようやく私の口から出した言葉の一つ一つは、彼女を切り刻む凶器として作用したのだ。 手が、足が、体が、自らの起こした凶行に震えだした。 彼女は涙を目に溜め、呼吸を荒げ、今にも叫びだしそうな顔で、私を見つめている。その表情は、青ざめている。恐怖に怯えるような、初めて見る彼女の顔だった。 伝えなければ。彼女に。 言わなければ。彼女に。 とっさに、言葉が出た。 「最後まで、君のトレーナーでありたい」 取り繕いの無い、本心だった。 彼女はソファから飛びあがると私の胸に顔を埋め、再び声を上げ泣き出した。 「はい」 彼女の返事を聞いて、全身の力が抜けた。 震える手をなんとか制御し、彼女の体を支えられるように、彼女の肩を掴む。だが、涙が止まらなかった。 涙はどうしようもなくこみ上げてきた。 彼女も同様だった。 ただ、泣く事しかできなかった。 二人で寄り添うように、泣き続けた。 夢を追い続け、その最果てで見た絶望に。 夢を追い続け、その最果てで得た希望に。 二人で、泣き続けた。 … 涙を流し尽くし、二人が落ち着きを取り戻した時、既に部屋の時計は深夜1時を回っていた。 そろそろ自分の部屋に戻るよ、と彼女に伝えた。 彼女は既に泣き止んではいたが、無言で両腕を私の背中に回し、私の体にしがみついている。 離れようとしない。私の体を拘束する腕に、グッと力が入る。 離れたくないですと彼女は言った。 一度は落ち着きを取り戻した彼女の涙が、また止まらなくなりそうな気配すら感じたため、 私は、この部屋を出る事をあきらめる事にした。 彼女の布団の隣に、余っていたもう1組の布団を敷いて、 今日は、彼女の掌を隣で握っているからという事で、 ようやく彼女は納得してくれた。 横になった彼女が、私の手を握り、少し離れた場所で横になる私の顔を見て、口を開く。 「トレーナーさん、私達、ずっと一緒ですよね」 ああ。 彼女の顔を見て答える。彼女は微かな笑顔を浮かべた。 「明日からまた、バクシン!ですね!」 そうだな。 夜遅いからもう静かにね。とだけ添える。 数秒の間があった。気づくと、彼女は安らかな寝息を立てていた。 疲れていたのだろう。私の手を握る彼女の力も次第に弱くなっていった。 彼女の顔をもう一度見る。 夜を照らす月あかりのような、静かな寝顔がそこにあった。 … 夢を見た。 彼女が、サクラバクシンオーが、スプリントで閃光の輝きを放つ。 人々は熱狂する、歓喜する、ターフ上の彼女に喝采を送る。 トレーナーとして、私も彼女にできる限りの声援を送る。 応援していて、なぜか涙が止まらなかった。 なぜ涙が出てくるのか、分からなかった。 嬉しいからなのか。悲しいからなのか。分からなかった。 彼女は圧倒的な力で1着の栄光を掴む。 ウイニングランに臨む彼女を見た。 彼女は、彼女がいつも見せる満面の笑顔で、私達の声援に応えていた。 人々は熱狂する、歓喜する、ターフ上の彼女に心からの喝采を送る。 私の頬を流れ落ちる涙は、いつしか止まっていた。 ●4年目2月 インターバル走のトレーニングをしている合間、チラとトレーナーさんの方を見ます。 ほんのわずかな時間ではありましたが、トレーナーさんが桐生院トレーナーとお話をされていました。 最近、トレーナーさんが女性の方とお話をされている姿を見るとなんだか胸がキュっと苦しくなります。 ふぅ。 さて、トレーニングの時間が終わり、トレーナーさんとの楽しいミーティングの時間です。 …なのですが、これも課題や問題も無くあっさりと終わってしまいました。 もっとトレーナーさんと一緒の時間が増えたらいいのですが。 …先月トレーナーさんと行った温泉旅行みたいに。 はぁ…バクシン、バクシン…。 帰りましょう。 あ。学級委員長の仕事を忘れていました。投書箱の中身を確認しましょう。 どれどれ!オヤ。今日は1通投書がありました。匿名さんですか。フムフム… 『美浦寮に無数の鳥の羽が散らばっている事があります。エルコンドルパサーさんもかなり驚かれていました。誰かのイタズラでしょうか、怖いです』 ムム。これは後日調査ですね。ふぅ。私のモヤモヤもこのように相談できたら…ん? ……なるほど!! ・・・ トレーナー室で本日のトレーニング結果を整理していたところ、 ドアから高速連続ノック音が鳴り響く。 びくりと身構える間もなく部屋のドアがバンと勢いよく開く。 ドアの先を見るとそこに居たのは担当ウマ娘のサクラバクシンオーだった。 先ほどミーティングを終え、今日は帰ったものと思っていたが忘れ物だろうか。 彼女はトレーニングで使うジャージからいつもの制服に着替えていたが、 その両手になにやら見た事の無い箱を抱えている。 その箱を持ったまま、彼女は部屋へと入ってきた。 -- 「投書箱?」 「ハイッ!学園内の生活で面と向かって言い辛いご意見、相談事があった時、匿名・記名問わずでこの投書箱に投函していただくのです!」 彼女はハキハキと持参した箱の説明をする。 「それを、日々チェックしていると」 「ハイッ!仰る通りです!!模範的学級委員長であるこの私がッ!一つ一つ目を通し、皆さまからのご相談・お悩みを解決に導く投書箱システムです!」 「いつも思うけど、偉いな」 「エッヘン!優等生ですから!」 彼女は腰に手を当て満足気に胸を張って答える。 互いがライバルであり凌ぎを削りあうこの学園内で他者を思う行動ができる。 空回りをする場面も多々見かけるが…彼女の取組みはとても立派だと思う。 「それで相談ってのは?」 「その、投書箱に…レンアイのご相談をチョウダイしておりまして…トレーナーさんのご意見を聞かせて頂きたいのです…」 珍しく弱気に、やや言い辛そうにバクシンオーが呟く。 「俺に?」 「ね、年齢がショウショウ上の男性に対するコイの相談なのです!」 「そういうのなら、同年代の子に相談したりする方がいいんじゃ…」 「リッパな大人であるトレーナーさんの視点でお聞きしたいのです!!匿名ですので気兼ねもございません!」 ずいぶんといきなりな話だが、渋る理由、断る理由は無かった。 それどころか担当ウマ娘の彼女が頑張っているのだ。 ここはトレーナーとして彼女を精一杯フォローしてあげなければならないだろう。 「力になれるか分からないけど、じゃ聞かせてもらおうかな」 「本当ですかッ!ありがとうございます!ではさっそく読み上げます!」 「…なんか緊張するな」 彼女は『投書箱』から一枚の薄桜色の紙を取り出すと、その紙に書かれた文章を読み上げ始めた。 気のせいかどこかで見覚えがあるようなメモ用紙だった。 -- 『模範的学級委員長様へ!相談があり投書させていただきます!私はいま恋にバクシンしており』 「あの、出だしから悪いんだけど」 「ハイッ!何でしょう!」 「原文を読んでくれないかな…」 「ハイッ!原文を読み上げていますッ!」 「うん?」 「続けてよろしかったでしょうかッ!」 「…ああ、うん…うん?」 『私はいま恋にバクシンしております!想いを寄せるお相手は身近にいる年上の男性です。 その方と今以上に一緒に居る時間を増やしたり、あとはその、恋愛というものの後学のため、 手などを繋いでみたりもしたいのです。 然しながら、そういった想いは全生徒の模範であり続けるという私の命題と相反するモノでもあります。 私はこの先どうすれば良いのでしょうか』 「以上ですッ!トレーナーさん何か良い解決方法などは想い浮かびそうでしょうかッ!」 「あのさ、これバクシンオーの悩み?」 「……!!!!ち……ちょわ――――――――――っ!?!?」 ・・・ トレーナーさんにはすべてバレてしまいました。 私は世にも不純なウマ娘として優等生も学級委員長も失格の烙印を押されるのでしょう。 トレーナーさんの部屋で崩れ落ち横たわった私は、薄れゆく意識の中でそんな事を考えました。 「…ほら、制服汚れるから…もう立ちなって……」 こんな私にもトレーナーさんは優しく声をかけてくださいます。 すみませんトレーナーさん。でも、もう私は終わりです…!委員長失格なのです…! 「困ったな……、ん……?」 お部屋が静かになりました。床に転がる私を起こそうとするのを諦めたのでしょうか。 恐る恐る顔を上げトレーナーさんがいると思われる方向を見ます。 なんということでしょう。いつの間にか床に落ちていたあのメモを、 トレーナーさんが拾い上げ、読んでいるではありませんか! 「あわわわわわ!トレーナーさーーーーん!!それは!ダメです!!!!」 床に這いつくばったままの姿勢で訴えますがトレーナーさんはメモを読み続けています。 あわわわわ! 「…この身近な年上の男性ってのは」 突然の言葉。どきり。 それは。 それは。 「と、トレーナーさんですッ!あッ!」 「…」 「…」 つい反射的に言ってしまいました。 トレーナーさんと私、お互いの目が合います。 トレーナーさんは驚いたような顔をされていましたが、 いつも通りの優しい表情に変わりはありませんでした。 トレーナーさんは私の方へと歩み寄ります。 先程まで読んでいたメモを折りたたみ私の手の上に乗せました。 「…バクシンオーは模範的生徒で、立派に学級委員長をこなしてるよ」 床にへたり込んだ私の傍で身を屈め、制服のあちこちについたホコリ汚れをぱしっぱしっとはたき、 トレーナーさんは静かに言いました。 「…ええと、それは。つまり。私は、模範的ということでしょうか」 「うん」 「まだ、学級委員長でよいのでしょうか」 「ああ」 「このまま、バクシンしてもよいのでしょうかッ!」 「ああ!」 「あの!トレーナーさん、ご相談なのですがッ!今、トレーナーさんと手を繋いで!歩いてみてもよいでしょうか!」 「…………ああ!」 一瞬の間がありましたが、トレーナーさんはすぐに笑顔を浮かべ片手を差し出してくれました。 私はその差し出された手をぎゅっと両手でつかみました。 ナルホド。これが手を繋ぐ。ん?しかし、なんだか思っていたものとチョット違うような?? 「両手で掴んだら動けなくなっちゃうから、こうかな」 トレーナーさんは私の両手をスッと引きはがし、代わりに私の右手の指先を優しく握ってくれました。 -- 「歩いてみるよ」 「は、ハイ!」 トレーナーさんの声に導かれるように立ち上がると、そのまま私達は室内を歩きました。 一歩、二歩、三歩、四歩、………。 くるっと回ってUターン。 一歩、二歩…。 トレーナーさんと手をつないで一緒に歩いています。 「トレーナーさん!なんだかとても楽しいですッ!」 トレーナーさんも、そうか、良かった。と私に笑いかけてくれました。 スタート地点に戻った私は、トレーナーさんの顔を見上げ、ぜひ、もう一度!とお願いをしました。 トレーナーさんはすぐに頷いてくれました。 もう一度。一歩、二歩… 今度は私からトレーナーさんの指を握ってみたり。 その次は、トレーナーさんの腕にそっと寄り添ってみたり。 その次の次は、はじめの手繋ぎに戻ってみたり。 そろそろ30分は経つよ、と、私の帰宅時間を気にしてくれたトレーナーさんに言われるまで、 時間を忘れ、一緒にお部屋の中を散歩いたしました。 -- 「トレーナーさんッ!とっても、楽しかったです!」 「元気が出たみたいで良かったよ。また明日。おやすみ」 「ハイッ!ありがとうございました!また明日からバクシン致しますッ!」 「ああ!」 トレーナーさんに一礼しお部屋から出ようとドアノブに手をかけた時でした。 ふと急激に寂しさが私を襲い、私の身体は動きを止めました。 「…どうした?」 トレーナーさんが後ろから心配そうに声をかけてくれます。 …ハイ。ムショウに寂しいのです。 「あの、トレーナーさん、最後にあと一つご相談しても良いでしょうか」 振り返り、私を見送ろうとしていたトレーナーさんを見つめます。 「ああ、何でもどうぞ」 「あの、おやすみの前に、ハグしても、よかったでしょうか」 「…………………ああ!」 結構な間がありましたが、お返事が頂けました!私はトレーナーさんの言葉を聞くと ほぼ同時にトレーナーさんに駆け寄り、その体にきゅうっと抱きつきます。 トレーナーさんは私を受けとめ、その腕でしっかりと抱き支えてくれました。 大好きな桜の木のように、優しく、力強く、飛び込んだ私を支えてくれました。 それからまた30分ほどが過ぎ、寮の門限時間が近づいている事をトレーナーさんに言われるまで、ハグは続きました。 優しいトレーナーさん。 私の大切なトレーナーさん。 おやすみなさい。 今日は、とっても、とっても、幸せな一日でした。 ●4年目3月 3月、快晴の日曜日。私はトレセン学園内の自室で次のレース出走に向けた対外的な各種調整、手続等の準備を進めていた。 担当ウマ娘のサクラバクシンオーが高松宮記念に出走するためである。二連覇がかかる重要なレースだ。 普段はウマ娘たちで活気あふれるトレセン学園校舎は日曜日という事もあってか、廃墟のようにしんと静まり返っている。 トレーナー室の出口に繋がる長い大廊下にも人の気配や物音は全く無い。私がキーボードを叩く際に生まれる微かな音だけがこの部屋の中で断続的に響き続けている。 13時。本日予定していた仕事は全て終えた。…が、体が重い。延々デスクに向かい続けていたためか体の節々が強張っている。…仕事は区切りがついた。少し休もう。 椅子の背もたれに身体全体を預け深い溜息をつく。休息ついでに高松宮記念までに残された日数とそれまでに行う事でも再確認しようと3月のレーススケジュール表を開く。 …なるべく見ないよう意識したつもりだったが、表内に点在する『中長距離重賞レース』の数々にいつしか私の視線は奪われていく。金鯱賞。日経賞。阪神大賞典……大阪杯。 -- 私は取り出したばかりのレーススケジュール表をすぐに折りたたみデスク上へ雑に放り投げ、目を閉じた。 中長距離への未練などとうに無い。あの日、彼女と共に下した決断への後悔は無かった。だが、時折考えてしまう事がある。 『もし私ではなかったら、彼女のキャリアはどうなっていただろうか』を。 彼女の手を取り、私が挫折したあの領域に彼女を導ける者がいたとしたら。 時折空想する『もしも』の世界の中には、常に全力で挑戦を続ける彼女の姿があった。ただ目前の栄光のみを見据え、敢然かつ凛然と苦難に立ち向かう彼女が居た。勝つ事を諦めない彼女が居た。 諦めたのは私だった。可能性として存在していた岐路の扉を閉じる決心をしたのは、私自身だった。 目頭が熱くなり、体が小刻みに震えだす。答えのない妄執に囚われ続ける私は、負け犬のように声を潜め嗚咽することしかできなかった。 ・・・ 本日は日曜日。トレセン学園の校舎は寂しくなるほどひっそりとしており、平穏そのものです! 3時間の特別補習をバクシンし終えた私は、帰宅前に校舎内を見回りしていました。とは云え本日の学園内は見回りの必要が無いほどに模範的な風紀を維持しているように見えます。 ですが、休日と言えど私が訪れたからには一通り校舎内を巡回しましょう!それが学級委員長たる私のツトメですからね! 最上階から階段を降り、下の階の廊下に出ます。左向け左。フム。異常ナシ。右向け右。オヤ?突き当たりのお部屋から明かりが漏れています。 あちらはなんのお部屋だったでしょうか。確か…そうそうトレーナーさんのお部屋ですね。見覚えのある………… 「ちょわ!?私のトレーナーさんのお部屋では!?」 なんということでしょう。電気の消し忘れ?ドロボー?ムム。いずれにしてもこの事態を見過ごす事はできず、私は奥の部屋に向かって歩を進めました。 -- トレーナー室の前に到着。やはり室内には電気が付いていました。…中から物音も聞こえます。私は深呼吸し、勢いよくドアノブを掴もうと体を前のめりにしました。 その瞬間、ちょうど室内から人が出てきたため、ドア前にいた私と中の人物が、ドンっと正面から衝突しました。 「ちょわ−−−−−−−−っっ!?!?」 『うわ−−−−−−−−−ッッ!!!!』 私は恐怖のあまり絶叫しましたがそれ以上に部屋の中の人物も相当に驚いたようでした。私は総毛立つ思いで目の前の人物の姿を凝視します。 …目の前に居た人物は、驚愕の表情で私を見つめるトレーナーさんでした。もう、びっくりさせないでください!トレーナーさん。 ………。 ……………………。 「…なんでトレーナーさんがいらっしゃるのですか!?」 -- 「…なるほど、高松宮記念の準備をされていたのですね!」 お部屋の中でトレーナーさんと並んでソファに座り、淹れたてのお茶をいただきます。ズゾゾ!アツいッ! 「そっちはオフ日に補習・見回りか…大変だな」 「ハイッ!バクシン的スピードで補習は終わりました!あ、見回りは途中ですが!」 「…そうか。お疲れ様」 …横目で隣のトレーナーさんをチラリ。オヤ、トレーナーさん、あまり元気が無いような。 「……お疲れですか?トレーナーさん?」 「………え?あぁ…大丈夫だよ。そうそう…高松宮記念、勝てるといいな…」 ミャクラクも無くトレーナーさんがポツリ。レースの心配をされているのでしょうか? 「ええ!この学級委員長、今年の出走レースは全勝と決めてますッ!年間無敗!共に真・バクシンロードを駆け上がりましょう!!」 「ぜんしょう…」 オヤ。トレーナーさんが目を丸くして固まっています。ムム。 -- 「トレーナーさん、もしや…私が負けると思ってらっしゃるのですか?」 私は眉間に皺を寄せ口を一文字にしてズイと顔を押し出します。トレーナーさんをジトッと見つめ、言葉を待ちます。 「…いや、思ってない。…勝てるさ」 トレーナーさんは正面から私の顔を見て言いました。 「バクシンオーは先頭で、最速で、ゴール板に到達する。それを待つのが俺の役目だよな。今までも…これからも」 「ハイッ!私も、応えてみせますともッ!」 嬉しくなった私は、トレーナーさんの腕に抱き付きました。 「私は、トレーナーさんが勝利に導いてくださると信じてますから。…だから、トレーナーさんも私を信じて待っていてくださいね!」 「……うん…全勝、しような……ありがとう…ありがとう」 ん?トレーナーさん声が震えてますが大丈夫ですかトレー… -- ぐぅ〜〜〜…。 突然、長く、低〜い音がお部屋に鳴り響きました。…私のお腹の音です。 「いやぁ…あはは。お昼、忘れていました」 「…どこか昼ご飯食べにでも行くか」 「トレーナーさんと!よろしいのですかッ!!」 「仕事は片付いたから。じゃ出ようか」 「ハイッ!」 トレーナーさんと久しぶりのお食事です。早く、早く。私もトレーナーさんと一緒になってお部屋の電気を消したり窓を閉めたりとお手伝いをします。 「そういえばトレーナーさんのお部屋、なんだか甘い、心地よいニオイがしますね」 「あぁ、沈丁花だよ」 「ジンチョウゲ。ジンチョウゲ?このお部屋に?」 「窓の真下の植込みに咲いてて、この季節だけ香りが風に乗って部屋まで届くんだよ。…もう、春なんだな」 -- 「ええ、春ですッ!私の大好きな桜が咲く美しい季節ですよ!トレーナーさん!今度一緒にお花見に行きましょうね!」 「ああ、行こう」 消灯・窓の戸締まりを終えた私達はお部屋から出ます。トレーナーさんはスーツのポケットから施錠するための鍵を取り出しています。 私は隣で待つ間、以前、このお部屋で練習したお手繋ぎの事を思い出していました。 トレーナーさんと手を繋ぐ練習をした、楽しい思い出。素敵な思い出。 ハテ、どうやるんでしたっけ。たしか、指を…。 隣に立つトレーナーさんの左手の指先を、そっと私の右手で包むように掴みました。そうそう、こんな感じ………あッ! 「あわッッ!!」 ほぼ無意識に私はトレーナーさんの指を掴んでいました。私は繋いだ手をすぐにパッと放します。あわわわ、ここは校舎の廊下ではないですか。はぁ、失礼しました………。 でも、手を繋いでみたくもあったような。 瞬間、今度はトレーナーさんが私の手の指先を握りました。そっと、優しく。 -- 「ちょわ!?」 「見回りの道順、わからないので…。このまま案内をお願いできますか、学級委員長」 「………!…は、ハイッ!模範的学級委員長の校舎見回りに、ご案内致しますッ!」 ギュっとトレーナーさんの手を握り返し、2人一緒に並び歩き始めます。 誰もいない校舎内を2人で歩いています。何だか夢の中のような光景です。……夢ではないですよね? 手を繋いでいない、空いた片手でトレーナーさんに手を振ります。トレーナーさん、トレーナーさん。トレーナーさんの顔を見上げ呼びかけながら片手をフリフリ。トレーナーさんは、見えてるよと言って、笑いかけてくれます。 なんだか嬉しくなってしまい、私もニッコリとスマイルをお返しいたしました。 ●4年目4月 サクラバクシンオーは宙を進むピンポン玉の軌道を見切っていた。ラケットを振り切り狙い通りに強打する。 卓上で僅かなバウンド音が響いた後、ボールは私の遥か後方で甲高い音を立て小刻みに跳ねていた。11点先取、彼女の勝利だ。 「バクシン的、勝利ッッ!! いい勝負でしたね!トレーナーさん!」 温泉宿の卓球場に大ボリュームの声を響かせ、浴衣姿のサクラバクシンオーは少女のように飛び跳ねる。後頭部で結った、長く美しい栗皮色の髪をなびかせ、はしゃいでいる。いや参ったと短く返事をして私はラケットを卓球台に置いた。 …私達は、以前彼女の湯治で訪れた温泉宿に来ている。 年明けの初戦、高松宮記念の勝利への労いと、彼女の誕生日が近かった事から何か贈り物でもできないかと考えたまでは良かったが、いい贈り物が浮かばなかった。 直接聞くが早いか、と彼女に直接希望を尋ねたところ、思いがけない出来事だったらしく彼女はとても喜んだ。私の表情を少しだけ確認した後、あの温泉宿にもう一度行きたい、と彼女は言った。 -- 立派な温泉宿だがところどころ古めかしく、どこかひなびた雰囲気がある。 そんな印象が残る宿のせいかは分からないが1週前でもすんなりと予約を確保する事ができた。 喜んだ彼女は、宿に到着するなり温泉街へと繰り出す。その後は宿周辺の散策。夜になり温泉と食事で休憩を挟んだ後は館内探検、続いて現在の卓球三昧へと至る。 気力が無尽蔵に溢れる若いウマ娘の彼女は全てが楽しくて仕方ない様子だったが、彼女のバクシンに付き添う私の体力は徐々に限界が近づいていた。 卓球がひと段落した後、そろそろ部屋へ引き上げたい旨を正直に伝えると彼女はすんなり同意してくれた。 「今日はとても楽しかったです!トレーナーさんはお疲れのご様子ですので、お礼に肩をお揉みしましょう!さあさあ!どうぞこちらへ!」 卓球場を引き上げ私の部屋前ヘと引き上げた時、彼女は自分の部屋へ戻らず突然マッサージを申し出た。そして、返事も待たずさっさと私の部屋の中へと入ってしまった。 ・・・ …ドアの方をちらり。トレーナーさんも一呼吸遅れてお部屋に入ってきます。ふう、と一安心し、トレーナーさんを一人がけソファへご案内します。 「…ありがとう、疲れてるだろうから手短かで構わないよ」 「心配には及びません!私、全く疲れておりません!トレーナーさんとお話もしたかったものですから!」 トレーナーさんの着席を見届けるとササッとソファの裏に回り、トレーナーさんの大きな肩に私の細い親指を押し当てはじめます。 ……ぐい…ぐい。 トレーナーさんとお話したいことはたくさんありました。旅館の素敵な佇まいのこと。二人で歩いた夕暮れの温泉街のこと。足を伸びに伸ばして入った温泉のこと。トレーナーさんと向かいあって一緒に頂いたお夕飯のこと。楽しかった卓球勝負のこと。今日1日、とても楽しかったこと。…あとは…私の気持ちについて。 ……ぐい…ぐい。 私は、トレーナーさんが好きです。…本当に好きなんだと思います。トレーナーさんは……私のことをどう思ってらっしゃるのでしょうか。 ……ぐい…ぐい。 -- 『――バクちゃんのトレさんに…カノジョさん?……聞いたコト無いかな。ねぇねぇ、聞いたコトある?』 『えー、いないと思うよ。だっていつもバクちゃんにつきっきりだもん』 ……ぐい…ぐい。 『たまに校舎でご挨拶して、軽く話したりする事あるけど…え?話の内容?ああ…バクちゃんが疲れてないか、とか。授業中眠そうにしてないか、って。ふふ。心配みたいだよ』 『あ、私も聞かれたー。あはは。あのトレさんらしいよね。パパか』 ……ぐい…ぐい。 『私たち学生だもん、まぁコドモ扱いにもなるよ』 『でもさぁ。あのトレさん、グイグイ来られたら断り切れなさそうだよね』 『お似合いだと思うよ。バクちゃんと――』 -- 「……それがどうやらあのお店の桜餅だったらしくて……あれ、聞いてる?」 「へぇッ?!あ、すいません…ちょっと考えゴトをしていました…」 トレーナーさんが何かを言っていたみたいです。ああ!失礼しました!クラスのお友達との会話を思い出していて聞けていませんでした。 「あぁ、いいんだ。さすがにもう眠くなるよな。肩も軽くなった。ありがとう、今日はこれでお開きにしよう」 トレーナーさんがソファから立ち上がり、私の方を振り返りました。 まだ、言えていないんです。 まだ、話せていないんです。トレーナーさん。 私は、意を決しました。 「あのッ!トレーナーさん!」 -- 「私トレーナーさんが好きです!ずっと、ずっと一緒に居たいんです!いつか、私が学園を去る日が来ても…その後もずっと!」 不思議でした。すらすらと言葉が出てくるのです。 「私を、この先も導いて頂きたいのです。トレーナーさんは…どうでしょうか!私の事…どう思われていますか!」 伝えられる限りの言葉と想いを。トレーナーさんを見上げて私は言いました。 「…好きだ。…前に見た手紙で、今言ってくれた事だってある程度解ってたつもりだよ」 びくんと、心臓が、シッポが、跳ね上がりそうになります。心臓を突然握りしめられたような鈍い、苦しい感覚がありました。 「…でも、サクラバクシンオーのトレセンでの活躍を、まずは今の関係のまま、見届けたいんだ」 ……ハイ。……つまり、ツマリ?…むむ?? 「ええと…それはつまり…どういうことでしょうか?」 「え……つまり?つまり……アスリートとしてのサクラバクシンオーも、一人のウマ娘としてのサクラバクシンオーも、どちらも大事にしたいと言うか…」 …なるほど!そういうことですねトレーナーさん!私は全て分かりましたよ! -- 「つまり、トレーナーさんは将来私の旦那サマになってくださると!しかし、それはまだ先の事!私が模範的な学級委員長であり続けるため在学中は最大限配慮をしつつ、いつか訪れる二人の門出の日を丁寧に、丁寧にお考え頂いているということですね!素晴らしい、なんと模範的ッ!さすがは、さすがはトレーナーさんです!」 「待ってくれ……待ってくれ!」 「ちょわわ!?まさか、違いましたか!?」 「そこまで前のめりな言い方してたかな!?」 「まあ同じようなものです!そしてご安心ください!父上も、母上も、トレーナーさんほど立派な方であれば必ずや喜んでくださいます!なに、心配はご無用ですよ!」 バクシン!バクシーン! 私は嬉しさを抑えきれず、お部屋の中を小走りでくるくる駆け回ります。パカラ!パカラ! 数周ほど部屋の中を走り回った後、口を開け私を見つめているトレーナーさんが目に入ります。私は笑顔でトレーナーさんの胸に飛びつき、ぎゅうっと力強くハグします。 「トレーナーさん!私達の明るい未来に向かって!バクシンしていきましょうね!オー!」 「…………おぉ…!」 -- …オヤ。窓の外が明るいような気がします。ひょいと窓の外を見てみると、大きな、大きな満月が光り輝いていました。なんと!今の今まで、まったく気づきませんでした。 トレーナーさん、満月ですよ! …そうだな。 二人で外の満月に見入ります。 トレーナーさん、今日はとても楽しいことがあったのです。お話しても、いいでしょうか。 トレーナーさんの方を見て言うと、トレーナーさんは聞くよと優しく言ってくれました。 私は、ありがとうございますと笑顔でお返事をします。 そして、ゆっくりと、ゆっくりと記憶を辿っていきました。