「あけましておめでとうございます、お兄さん」 「うん、あけましておめでとう。今年もよろしくね」 1月、トレセン学園の程近くにある神社にて。 僕とダイヤ──サトノダイヤモンドは、クラシック戦線に向けての願掛けに初詣に訪れていた。 スタイルが良い彼女に豪奢な振袖はよく似合っていて、むしろちんちくりんの僕が隣を歩くのがちょっと恥ずかしい。服装もラフなジャケットとジーンズだし。 彼女と連れ立ち、参道を歩く。両脇には出店が立ち並んでいて、食べ物を出す屋台も多い。少し風が吹くと、ソースの焦げた良い香りが漂ってくる。 ぐぅ~。 僕の真横から、ちょっと誤魔化すには無理がある大きな音が響く。幸いにして喧騒のおかげで周囲にまでは気付かれなかったようだけど、至近距離にいた僕にはばっちり聞こえてしまった。 顔を上げると、りんごみたいに真っ赤になったダイヤの顔。 「あの…その、これは…えと」 「………ちょっと、小腹空いてきたね。いくつか買って離れで休もうか」 女の子に恥をかかせないようにするためには、どうしたらいいのかさっぱり分からない。こういう時、自分の対人経験の少なさを恨む。 振袖なのに食べ物はこぼしたらまずくないかな、とか。そもそもこれフォローになってるのかな、とか。 色々考えながらもとりあえず僕らは人波を抜け、屋台の方へと歩き出した。 「はむ…もぐ、うん、美味しいです。あまり家では食べたことのない味付けで…」 「そうだね」 僕は生返事をしながら、ジャンクフードを頬張るダイヤを横目に見る。 焼きそば。唐揚げ。フランクフルト。イカ焼き。トルネードポテトにクレープにベビーカステラ。 山のように買われた食糧が、(比較的)上品な食べ方を崩さないダイヤの胃に吸い込まれていく。 …最近、ダイヤはたくさん食べるようになった。トレセン学園に入学し本格的なトレーニングをするようになったためにエネルギーの消費量が増えたからだと思っていたが、この食べっぷりを見るに明らかに他のウマ娘たちよりよく食べている。 大食いで有名なオグリキャップさんやスペシャルウィークちゃんにも、食事量なら引けを取らないと感じるほどだ。 それでいて、太ってきたような感じはしない。ハードなトレーニングに果敢に挑戦し、大量に摂取したカロリーを大量に消費しているからだろうか。 ただ、体型面で、強いて変わったところがあるとするなら、それは。 (…なんか最近、ダイヤを見上げる角度がきつくなった気がする) 成長期の少女が、十二分に栄養を摂取し十二分に身体を鍛えれば、自明ともいえるかもしれないが。 ダイヤはメイクデビューを果たしたあの日から、一回りも二回りも大きく成長したように感じる。 (アスリートとして見れば、身体が大きく頑丈に育つのはいいことだけどね) 自分に言い聞かせるように、内心で独りごちる。 幼馴染の少女の成長を素直に喜べない自分が、身体だけでなく心まで矮小になっている気がして、情けなくて小さくため息をついた。 …だから、俯いた僕は気付かない。 僕を「見下ろす」サトノダイヤモンドの瞳が、いつもと違う光をたたえていたことに。 ■ アスリート養成校でもあり世間一般の学校とは趣を異にするトレセン学園においても、殊更に他の学園と異なるシステムがある。 それが身体測定。ウマ娘たちは主にクラシック以降の大一番で勝負服を着る都合上、常に身体データを最新のものに更新していなければならない。レース前に勝負服のサイズが合わなくなっていたら悲惨なことになるためだ。 よって、通常は半年に一度程度である身体測定を、トレセン学園ではクラシック級以降、二ヶ月に一度行う。頻度が高いことにより意識が高まり体型維持にも寄与するという副次効果もあり、ウマ娘からもトレーナーからも概ね好意的に受け止められているものだ。 そしてその制度が適用されるのがクラシック級以降ということは、私たちデビュー直後のウマ娘にとっては、入学以来久しぶりの身体測定。その会場にて。 「──キタサンブラック、身長168cm」 成長著しい黒髪の少女に、どよめきが上がる。デビューから一年足らずで身長6cm増。長い手足も相俟ってすっかり大人びた彼女は、溌剌として元気いっぱいな言動とのギャップで観客のみならず学園内でもファンを増やしていた。 「だいぶ伸びたね、キタちゃん」 「へっへー!いっぱい食べてよく寝てるからね!」 諸々の測定を終えて帰ってきた彼女に、声をかける。肉体の成長に比例するようにめきめきと頭角を現した彼女は、私の大親友にしてライバル。 身長はともかく成績では負けてない自負はあるけれど、油断はしていられない。見習うべきところは見習って、せめてレースだけでもいつか勝ち越せるように頑張らなきゃ。 …と、思っていたのだけど。 「サトノダイヤモンド、身長168cm」 どよめきが一段大きくなる。私自身、え、と小さく声を漏らした。 確かに最近、服を買い換えるペースが上がった気はしていた。お兄さん──トレーナーさんと並んだ時、以前より少し低い位置に頭が来るなとは思っていた(お兄さんが気にしてるようだったのでこっそりヒールのない靴に換えたりもした)。 けれど、まさか10cmも伸びてたとは。 「ダイヤちゃんもすっごい伸びてる!私びっくりしたよ~!」 「う…うん、私もびっくり…。こんなに伸びてるなんて…」 「えへへ、並ばれちゃったね!次の測定には追い越されてるかも?」 「や、それはないと思う…たまたまだよ、たまたま。たぶん」 なぜか嬉しそうなキタちゃんをよそに、私はそっとため息をついた。 お兄さんとの身長差は開く一方。そんなことを気にするような人ではないと思ってるけど、このまま伸びていったら。 お兄さんに嫌われちゃったら、どうしよう。 (…お願いです。もう身長いらないので、どうかここで私の成長を止めてください) 今回の測定結果が「たまたま」であることを願い、私は三女神様に祈るのだった。 なお、私たちの学年で一番身長が高かったのは168cm。 つまり、私とキタちゃんの同率トップということになった。……はぁ。 ■ 「そ、っか。身長伸びてたか」 「はい…」 担当トレーナーがいるウマ娘は、測定結果を申告することになっている。 後日学園側からトレーナーに通知は行くのだけど、体格の変化はトレーニングにも影響を与えるので、基本的にはそれに先んじてウマ娘の口から伝える慣習なのだそうだ。 「ひゃくろくじゅうはち…」 「あの…トレーナーさん」 「あ、あぁ!身体が出来上がるのはいいことだ!今までに比してハードなトレーニングにも耐えられるということだからね」 私の身長を聞いたトレーナーさんは、目に見えて動揺していた。言葉だけでも平静を装おうとしているのがありありと見て取れて、かえっていたたまれない。 それはそうだろう。男の人が年下の女の子に身長で負けるだけでも屈辱的だろうに、さらに差が開いてしまったというのだから。 私のせいで優しいトレーナーさんを傷つけてしまったかもしれないという事実に、胸が張り裂けそうだった、けれど。 (…けれど?) ぼう、と。胸に灯った感情を自覚し、困惑する。 これは何だろう? 「…お兄さん。聞きたいことがあるんです」 お兄さんを「見下ろして」、私は問いかけていた。 惑う私の心をすり抜けるように、思考を経ない言葉が口をつく。 「お兄さんは、私の身長が伸びたって聞いて、どう思いましたか」 「え…どうって、それはさっき言った通り、」 「違います。サトノダイヤモンドのトレーナーとしてではなく、『お兄さんは』どう思ったか。それが知りたいんです」 「ダイヤ…?」 灯った感情が揺らぎ、胸の内側をちりちりと焦がしていく。 違う。こんなことが聞きたかったんじゃない。お兄さんを傷つけたくないのに、傷つけるようなことを言ってしまうなんて。 でも、問うた私の心はいやに晴れていて。その感情にあてられたように、お兄さんは口を開いた。 「………正直言えば、悔しかったよ」 「…お兄さん」 「あんなに小さかったダイヤが、再会した時にはすっかり背が伸びてて。それだけでもショックだったのに、そこからさらに10cmも伸びて。これから先、僕との差は開くばっかりなんだろうな、って。僕なんて置いていかれちゃうんだろうなって」 「………」 「ダイヤを見上げるたび思うんだ。僕はなんて不釣り合いなんだろうって。綺麗で美人のダイヤと、僕なんかじゃ比べ物にならないよ。…そんなことを考えてた。あはは、そんなどうでもいいことでいちいち落ち込んでるようじゃ、僕はトレーナー失格だね」 普段の優しく落ち着いた物言いからはかけ離れた、拗ねた子供みたいな不機嫌な声色。 虚勢と怯えがないまぜになった、「そんなことないよ」と優しく否定してくれるのを待つような言葉選び。 到底、頼りになるトレーナーさんの台詞じゃない。はっきり言って、大の大人がみっともない。 そんな誰でも幻滅しそうなショッキングな言葉を聞いて、私は、 (──かわいい♥) 私の胸に焦げついた感情に、歪んだ輪郭を与えてしまった。 ■ 僕の抱えるコンプレックスは、僕自身意識していないものだった。 ダイヤの感情の読み取れない瞳に射竦められ、止めどなく言葉が溢れ出す。 さも「身長なんて気にしてませんよ」と嘯いておきながら、ちょっと揺らいだだけでこれだ。ましてそれを自分の担当ウマ娘に叩きつけるなど、言語道断。 本当にこんなの、トレーナー失格だ。 言った言葉を戻すこともできず、どうしようもなくて叱られた子供のように俯いた僕はしかし、ダイヤが一言も発していないことに気付いておそるおそる顔を上げた。 幻滅されただろうか。失望されただろうか。口ではああ言ったけれど、ダイヤに見捨てられたら立ち直れそうにない。そんな保身ばかりの自分がまたみっともなくて、泣きそうになりながら見上げた彼女の目は、 ──はっきりと見て取れる情欲に、燃え盛っていた。 「え」 「お兄さん。お兄さん…ありがとうございます、私に教えてくれて」 譫言のように呟いて、彼女はそのまま一歩、こちらに踏み出した。 「今…はっきり分かりました。最近、お兄さんを見ていると感じる想いが何だったのか。私の身長を聞いて動揺したお兄さんを見て感じた想いが何だったのか」 また、一歩。 「みっともない言葉で、本心で日頃思っているみっともない考えを伝えてくれたお兄さんを見て、私が感じた想いは何だったのか」 一歩。 僕はそこでようやく、身体を動かすことを思い出したように、ほんの少し後ずさりした。 ダイヤはもう、目の前に来ていた。 「ねぇ、お兄さん。──好きです」 愛の告白めいた言葉は、けれど明確にそれとは文脈を異にしていた。 「好きなんです。みっともないお兄さんが。身長にかかずらって私を見て思い悩むお兄さんが。身長差がさらに開いたことで分かりやすく動揺するお兄さんが、好きです」 ダイヤの顔はよく見えない。至近距離に立つと大きな胸で遮られて、顔の下半分が隠れちゃうんだなぁ、なんて、場違いな思考が脳裏をよぎる。 「私に詰められて本音をこぼしちゃうお兄さんが好きです。恥ずかしさで耳まで真っ赤なお兄さんが好きです。感情がぐちゃぐちゃになって、泣きそうになってるお兄さんが好きです」 腕が伸びてくる。何が起きていてどうすればいいのか僕には分からなくて、ぁ、ゃ、と、声にならない声が漏れる。 「お兄さん。──かわいい」 「ぁ──」 全身を、浮遊感とダイヤの体温に包まれた。 抱き上げられた、と感じたと同時。いつもよりずっと近くで、見上げることなくダイヤと目が合った。 「……だい、ぁ」 「ふふ…お兄さん、軽いです。ちゃんとご飯食べてますか?」 目線を逸らせないまま、顔が近付く。 目を閉じられないまま、彼女との距離がゼロに近付く。 「お兄さん。お兄さん。お兄さん。私の──かわいいお兄さん」 「──!」 「ん…」 夕暮れのトレーナー室。トレーナーと担当ウマ娘。幼い頃から親交があり、深い絆で結ばれた二人が、好きだ好きだと言い合いながら、ついに口付けを交わす。 ──そんな陳腐なほど使い回された恋愛劇的シチュエーションで、僕らはしかし、くらくらするような退廃に身を投じてしまったのだった。