「水族館なんて、アンタも気が効くじゃない」 有馬記念で見事一着を取りスターウマ娘になったダイワスカーレット。 彼女を労う意味を込めて、俺とスカーレットはある日、水族館に寄っていた。 「で、誰の入れ知恵なワケ?」 「…流石に隠し事はできないな…話すよ」 ここに来たのには理由がある。 もうすぐ始まるURAファイナルズに向けて、彼女を一番に、『ファイナルズ・チャンピオン』にするには。 強力なライバルになるであろう存在のことを、話しておかなければならないだろう。 同期のトレーナー、桐生院葵。そして、その担当ウマ娘であるハッピーミーク。 彼女達がすれ違い、紡ぎ合い、二人三脚に至るまでの経緯をスカーレットに話した。 「…と、こういうわけだ。ウオッカとの決戦もあるだろうが、それだけに気を取られてはいけない…って、うわっ!」 ずずい。むーっ。気がつけば、スカーレットの真っ赤な瞳が、自分の目と鼻の先で睨みつけていた。 「ちょっとアンタ、今まで一言もそんな話しなかったじゃない!」 「いや、すまない…!タイミングがなかったというか、言う理由がなかったというか…」 「わかってるわよ。どうせアンタのことだから、余計な心配をかけさせたくなかったんでしょ。…ありがと」 一転、そっぽを向いて。感謝は本心みたいだが…拗ねてる? 「で、このタイミングで打ち明けたのも。『アタシのライバルになるから』、なんて。全く。」 そう言うと、スカーレットはため息を一つ。そしてこちらに向き直り、告げた。 「今一度、はっきり言っておくわ。アタシのライバルはアイツ…それはきっと変わらない。何を言われてもね。それはURAファイナルズでも変わらないわ。でも。 アンタのライバルが、その桐生院さん。それはわかった。…漸く、アンタの目指してたものが見えた。 アンタ、その人に負けたくないのよ。自分の担当ウマ娘が、このダイワスカーレットが。"一番"だって証明したいの」 そうか。そうだったのか。 「…目標があるヤツは、強い。アンタの強さの源、やっとわかったわ。 …あーでもシャクねー!アンタには散々アタシのこと話したのに。アタシもアンタのこと知ってるつもりだったのに。 …アンタの一番は、アタシじゃなかったのかも。」 少し寂しそうに。そんなことはない、と否定する。本心だ。すると、ぷっと破顔した。 「あはは!ちょっとからかっただけよ。アタシのトレーナーが、アタシを最優先にしてくれてたこと。それは知ってる。でもね、だから。 "これから先はアンタの夢を叶えるの"。もちろん、アタシを一番にするのを忘れちゃダメだけどね?」 夢の扉は開かれた。そんな、どこかで聞いた言葉が頭に浮かぶ。スカーレットじゃない、自分の夢。 「…ありがとう、スカーレット。目が覚めた気分だ」 「…なによ。アンタとアタシは二人で一人。それが担当ウマ娘とトレーナーの模範的な関係、でしょ?」 「…敵わないな」 「…今までそれを教えてくれたのは、アンタだった。覚えてる? アイツがダービーに出るって聞いた時、道を見失ったアタシにアンタは指し示してくれた。 …URAファイナルズでアイツと雌雄を決する。そこまでこぎつけられたのも、アンタのおかげ。ずっと、色んなことを偉そうに教えてくれたじゃない」 褒められてるのか、貶されてるのか。…信頼されてるのは、確かだ。 「…ああ。これからもスカーレットのトレーナーとして、精一杯サポートするつもりだ」 宣誓。そしてそれはもう一対。 「そう、そしてアタシはアンタの担当ウマ娘として。精一杯走って、一番になる!」 人差し指をいつものように。彼女もまた、宣言する。 ああ、そうだった。彼女はいつも、輝いている。でも、その輝きは相当な努力の上に咲き誇っている。 そしてそれをサポートするのが、自分の仕事だ。いままでも、これからも。 「…アタシは一番のウマ娘、ダイワスカーレット。そしてアンタはそのトレーナー。つまり…ううん。」 スカーレットはそこで言葉を切る。 「…この先は全部勝った後に取っておくわ」 「勝てるのか?」 心配するように、挑発するように聞く。 「誰が相手でも、当然!」 ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。 「アタシが一番なんだから!」 そう、彼女は一番のウマ娘なのだから。 「マスター。夢を見ました」 今朝。ミホノブルボンが唐突に、そう話しかけてきた。 彼女がそんな話をするなんて、珍しい。 「いい夢だったの?」 聞いてみる。 「…記録メモリには、何も残っていません。何も、殆ど。覚えていません。 ただ。マスターが出てきたことは、覚えています。 そして、多幸感を得た記憶もあります。ですから感謝を。…プロセスは遂行されました。退出します」 「待って、ブルボン」 呼び止める。問題があったわけじゃない。ただ、彼女の見た夢について。 …自分が出てきた、というのが少し気になった。そしてそれが彼女にとって、幸せだったと。 有り体に言えば。このまま帰られると恥ずかしい。なんだかこちらだけ、幸せな勘違いをしてしまっている気がする。 「あー、そうだ。夢に私が出てきた。それは間違いない?」 「はい。それだけは、強く覚えています。」 「そして、夢を見て幸せな気分になった。それも間違いない」 「はい。感覚は既に失われていますが。そういう記憶は残っています」 「…じゃあ、私が出てきたから幸せになった…とは限らない。忘れてる夢の内容が、幸せだったのかも」 何を説き伏せているのかわからない。ただ、自分がブルボンの夢に出てきたというのが恥ずかしい。 「…その可能性は否定できません。ですが」 ブルボンの薄い表情が、少し寂しそうに変わる。 ああ、そんなつもりじゃないのに。 なんと言い訳しよう。 「ああ、私が言いたいのはね、ブルボン。 その忘れてる幸せな夢を思い出せたら、貴女にとって素敵じゃないかなーって」 そうだ、その通り。 「了解しました、マスター。ですが。一度ロストした記録を思い出すことは困難かと」 それはその通りだ。何か方法はないものか。 「あー、もう一回寝てみるとか」 「オペレーション:眠気取得を実行。1.2..3...失敗です、マスター…」 「あはは、そりゃそうだよ、ブルボン。まずよく眠るための準備をしなきゃ」 「準備、とは一体」 「そうだね、うん。今日はトレーニングもお休みの日だし、気持ちよく昼寝するには…」 一つ案が浮かんだ。これだ。 「…一緒にお風呂入ろっか、ブルボン」 ** 「マスター。ここは機械ばかりで、私には向いてないのでは…」 「大丈夫大丈夫!」 そう言って、手を引く。 ブルボンを連れ立って、近くのスーパー銭湯へやってきた。 周りの視線はまあそれなりに。"三冠ウマ娘"のブルボンは有名人だ。 でも、有名人だって出かける権利がある。ウマ娘だって年頃の女の子なんだからと、私は思う。 「さあ、こっちこっち!お風呂で血行を良くしたら、身体があったまってよく眠れるんだから!」 コインロッカーから何まで機械だらけのスーパー銭湯で、未知の光景に目を白黒させているブルボン。 その手を取って、リードして。服を脱いで、湯船へと向かう。 ** ミホノブルボンの身体を洗う。別にそこまでする必要はないけど、それが不審に思われている様子はない。 素晴らしく均整の取れた身体。しかし傷の痕はなく。彼女のトレーニングの成果と、恐れ多くも私の管理能力。その真髄が、彼女の肢体には詰まっていた。 「…マスター。すこし、くすぐったい感覚があります」 「ごめんごめん、ブルボン。優しく洗わなきゃと思うと、手が震えちゃって」 「…優しくしていただきありがとうございます、マスター」 律儀にお礼を言われる。すこし、にやけてしまった。 でも、見えていないから問題ない。 じゃばー。お湯を背中からかけて、彼女の身体を洗い終える。 …これ以上触れるのは、蛮勇だ。 「さ、背中はこれで綺麗になったよ。あとは自分で─」 「お待ちください、マスター」 へ? 「私はマスターに背中を洗っていただき、"幸せ"でした。 ならば。マスターの背中を洗えば、マスターを幸せにできると考えます」 ぐい。確かに掴まれて、逃れる術はなかった。 そういえば、幸せな夢を思い出すために銭湯に来たんだっけ。 「…ありがとう、ブルボン」 ブルボンの背中に比べたら、私の背中は貧相だ。それを見せるのすら、恥ずかしい。 「マスターの背中は、問題ないと思いますが」 「…声に出てた?」 「マスターの口から言葉が出ていたという意味なら、はい」 恥ずかしい。耳まで真っ赤になる。 私には、もったいない言葉だ。 肉体美を褒められるべきは、ウマ娘の役割で。 "私は、ウマ娘にはなれなかった"。 憧れた。遠い、遠い過去の夢。彼女達には耳が生えていることに気づかなかった。自分には尾が生えていないことに気づかなかった。 確かに見たその夢は、今も私を導いていて。縛っていて。 トレーナーという仕事にまで就かせた。 そしてミホノブルボンに出会い、彼女の夢を支えた。 夢。今は彼女が、私の夢だ。 それを見続けている限り、私は幸せだ。 ああ、そうか。だから恥ずかしかったんだ。私が貴女を見ていて、貴女も私を見ていたら。 それは、まるで。 「…ありがとう、ブルボン。あとは自分で洗うよ。ブルボンも自分の身体を洗っておいで」 そう言って、離れる。 いつかは、離れるのだから。 ** 「いい湯だね」 「はい、マスター」 「上がったら、眠れそう?」 「…体温の上昇を感知。意識にも眠気が混濁しています」 「それはよかった」 ざぱん。 「…そろそろ上がろうか」 「はい、マスター」 そうして、湯船から上がって、浴衣に着替えて。 …ブルボンがうっかり触ったコインロッカーが、故障してしまったのは割愛しよう。 「…マスター。ねむ、けが」 休憩室。私とブルボンは、折り重なってうつらうつら。 「…うんうん、よーく眠りー…」 予定通り、ばっちり眠くなった。私も含めて。 視界が閉じられ。ゆっくりと互いに互いを沈め。 眠っていく。2人とも。 ** 白い世界。意識が白に染まって、私は夢の中にいることに気づく。 ああ、なんて。素晴らしい。 気づく。夢を見るだけで、私は幸せなのだ。 それはどんな夢でも変わらない。私がかつて見た夢も。私が彼女に見た夢も。眠る私が見る夢も。 その側には、この世界は。ウマ娘がいつも、夢を見せてくれるから。 ごとん。頭を打って、強制的に目が覚める。…おかげさまで、夢の内容を忘れずに起きれた。 ブルボンを見ると、まだすやすやと。小さく寝言が、聞こえた。 「…マス…ター…」 ふふっ。ほんとに私の夢を見てる。彼女は私のことを、どう思っているのだろう。マスター。その言葉に、どれほどの親愛を込めてくれているのだろう。 「ねえ、ブルボン。こっそり教えてあげるけど。 私は貴女の夢を見れて、幸せだったよ。 頑張り屋さんなところも、ちょっと天然なところも。大好き」 そう、今のうちに吐き出しておく。返事の代わりに寝息が返ってくる。 最初の三年間を乗り越えて。これから先、ミホノブルボンはきっと走り続ける。 …そしていつかは。引退して、家庭を持って。彼女は優しい子だ。きっとみんなに愛される。私がいなくなっても。 「おはようございます、マスター。」 ぱちっ。ブルボンは目を覚ますと、すらすらと挨拶を述べた。 「…夢の内容は、覚えていません…。失敗です、マスター…」 そう申し訳なさそうに述べるブルボンに向けて、違うよ、と首を横に振る。 「貴女の夢は、私が見てあげるから」 「それは、どういう」 自分でも言語化できないけど。ミホノブルボンというウマ娘のことを、私はよく知っている。それなら、当たり前のことだったのだ。 「だから、大丈夫だってこと!」 なんとなく、根拠はない。だけど当たり前。 「…はい、マスター」 彼女はいつも私を信じてくれていた。理屈がなくても、心が戸惑っても、いつも。 なら、これからも。 貴女の競争生命の最後まで。 「よし、帰ろうか」 そしてその終りの時。貴女がもう、1人で立てるようになった時。 私の愛は、鉄の如く燃え尽きる。 有馬記念に出たい。彼女がそう言った時点で、止めるべきだったのだろうか。 勝ちたい。彼女が初めてそう思ったのを、へし折るべきだったのだろうか。 最後方にぽつんとひとり。それでも必死に、他のウマ娘が全てゴールしたあとも、ずっと。ハルウララががんばる姿から、目を覆うことすらできなかった。 彼女の脚は芝に適していないことなど、分かっていた。彼女の身体は2500mを走れるようにできていないことなど、分かっていた。 一人のトレーナーとして、当たり前のように分かっていた。それでも。 彼女には夢の舞台に登る権利がある。彼女には勝利を求める資格がある。 …彼女のトレーナーとして、当たり前のように彼女を信じていた。それでも。 現実は、冷たく。痛々しい。俺はどんな顔をして、ハルウララを迎えればよいのだろう。 「はあ~っ!トレーナー、ただいまっ!」 「おかえり、ウララ」 それでも、彼女は笑っていて。こちらも釣られて笑顔になる。 「あのねっ、すごかったんだよ!走ってる間ずっとね、声が途切れなかったの!」 ウララの走りはいつもみんなを元気にする。今日も、それは変わらなかった。 「全部聞こえてたの!ウララちゃんがんばってーって!」 楽しそうに、矢継ぎ早に。その言葉を、噛み締める。 「うん」 「それでね、前の子を追い抜こう追い抜こうって、すごくがんばったの!」 前を走るウマ娘は果てしなく遠く。ライバルの背中すら、見えなかったけれど。 「走ったの!けどねぇ、すっごく速くてね、追いつけなかったんだあっ」 果たして俺が同じ立場に立ったとして、彼女の見た景色が幸せなものだったと言えるだろうか。 「あともうちょっと、わたしの脚が長かったらね、きっと追い抜いてたんだよ!」 夢と現実。その差を知っていたはずの俺は、トレーナーとして止めるべきだったのか。一人のファンとして、俺は彼女の勝利を信じていた。 「それでね、それでねっ……」 ウララの目が潤む。桜色の瞳が、無色の泡をぽたり、ぽたり。 「ぐすっ……」 この気持ちを知れたことは、ウララにとって得難い経験だっただろう。でもそれは。 「あ、あれぇ?へんだなぁ」 この先も、ウララは走り続けるのだから。そのために、彼女はまだまだ成長しなければならないし、きっと成長できる。けれど。 「すっごく楽しくて、もっとずーっと走りたいって、ぐすっ、思ってたのに」 大粒の涙が、落ちる。 無垢な桜の花に、泥の味を教えるその行為は。ヒトとして、許されるものだったのだろうか。 「頑張ったな、ウララ!」 ウララを労う。この場に二人、何一つ間違っていない存在は、彼女だけ。だから彼女は尊ばれるべきなのだ。 「……っ!うええぇぇ~ん!」 涙の痕が決壊する。きっと、彼女は今知ったのだ。本気で走るということの意味を。悔しいという感情を。 間違いなく、成長した証だ。 彼女が落ち着くよう、背中を撫でてやる。泣きじゃくる彼女を、優しく抱き止める。 彼女は全てをかけて、いのちのかぎり走った。 そして、心に傷を負った。それでも、走ることを投げ出したりはしないだろう。だけど。 俺はトレーナーとして、彼女を見届ける権利があるのだろうか。 URAファイナルズは間近に迫っている。ハルウララは今度こそ、その脚に向いたダートで、短距離で。晴れ舞台のセンターだって夢じゃない。でも。 そこに至る罪の糸。 "自分はハルウララを有馬記念で負けさせた"。 その事実は、赦されないような気がした。 …ウララの涙は落ち着いたようだ。彼女は確かに強くなった。それを実感した。 「大丈夫か?」 きっと、大丈夫だろう。 「…うんっ、ありがとう。トレーナー」 大丈夫じゃないのは。 「ライブ、行ってこい。ウララ」 送り出す。ウイニングライブのバックダンサー。有馬記念ともなれば、それも大役だ。 「…うん!見ててね、トレーナー!」 客席へと、自分も向かう。心の靄は、黒く、暗く。 「あっ、ウララちゃんのトレーナーさん!」 ステージの客席へ向かうと、ウララをいつも応援してくれた商店街の人たちに捕まった。 「お疲れ様でした。ウララちゃんを有馬記念に出走させてくれて、ありがとうございます」 そんなことを言われた。そうだ。ウララが有馬記念に出走したのは、やはり俺のせいなのだ。 何故、自分は感謝を述べられているのだろう。 何故、自分は責められていないのだろう。 何故、自分は赦されようとしているのだろう。 「おっ、出てきた!ウララちゃーん!」 わっと周りから歓声が。ライブが始まり、ウマ娘たちがステージに躍り出た。 もちろん今日の主役はハルウララではなかったし、ファンの数だって決して他と比べて多いとはいえない。 それでも、いつも皆を元気にする。それがハルウララというウマ娘だ。…そのトレーナーとして、自分は相応しいのか。 わからなく、なっていた。 「…それでね、スペちゃんがね…」 時間はあっという間で。ハルウララと二人、帰路につく。ウララはすっかり元気になっていた。 けれど、悔しさを忘れたわけじゃないだろう。そしてその道は、皆とは違う。 ハルウララが有馬記念を走れるのは、きっとこれが最初で最後だった。その一回を、俺は敗北で迎えた。なら、なら。もう俺は─ 「…トレーナー。少し、お願いがあるの」 その時。ハルウララがそう言って、歩みを止めた。 「約束して。どこにも行かないって」 「どうしたんだ、急に」 「約束して。ぜったい、いっしょだって」 はぐらかすトレーナーに向けて、わたしは約束だけを言い続ける。 「うーん、一人になりたい時もあるしなあ」 わかる。わからないけど、わかる。わかるようになった。トレーナーのおかげで。 なんとなくヘンだった。このままじゃ、トレーナーがどこかへ行ってしまう気がした。それはぜったいな気がして。でも、そんなの嫌だった。 「約束できない…?」 「そうだなあ、わからないなあ」 ウソだ。わかる。わたしでもわかるんだから、トレーナーはきっとわかってる。 「…トレーナー、ちゃんと、正直に話して。隠してること、あるよね」 わたしのトレーナー。そう、"わたしの"トレーナーだ。 「…なあ。ウララは悪いことをしたいと思うか?誰も見てなかったとしても、だ」 気づけば俺たちは川辺に座り、二人で夜空を見上げ。話を始めていた。 「…それは、いやだよ。わたし、悪い子になりたくないもん」 「…じゃあ、悪いことをして、バレなくて。謝ることすらできなかったら、どうする?」 「…あやまったら、だめなの?」 「謝ったら、相手を嫌な気持ちにさせちゃうんだよ。だから、それは悪いことで、謝れない」 「…うーん、むずかしい…」 「ごめんごめん。とにかく謝ったら、悪い子になっちゃう時。謝らなくても、悪い子になっちゃう時。どうしたらいい?」 「…どうしても、悪い子なの?」 「そう、そういうことだ」 これが、今の俺を縛る罪の糸。誰も知らない罪を密やかに積み上げている。 わかっていて、わからなくて。ハルウララを有馬記念に出走させた。 負けさせた。 「…あ、わかった!ならひとつ、いい方法があるよ。 …この答えがあってたら、隠してること。教えてね?」 「ああ、いいよ」 板挟みになって。俺の出した答えは一つだった。"逃げてしまえばいい"。もっと大きな罪を重ねれば、小さな罪は潰れて見えなくなってしまうのだから。 ウララもその答えが分かったのだろうか。分かったとしたら、俺は正式にウララのトレーナーを辞めることにしよう。全てを伝えて。 「…えーっとねー…」 少し、考えている。嬉しい。悩むだけ、俺はウララのそばにいられる。 トレーナーが言っている話は、もしかするとトレーナーが今悩んでいることを、ちょっとだけ言ってくれたのかもしれない。 力になりたい。わたしはそう思った。だって、今までトレーナーは、わたしの力になってくれたのだから。 そう、だから。 答えはひとつだ。 「謝られる人が、嫌な気持ちをしなければいい!」 「…どうかな、トレーナー?」 予想外の答えだった。 「でもね、わたし思うんだ」 声が出てこない。彼女の言葉を聞き続ける。 「好きな人の言うことなら、なんでもしあわせだって!だから、わたしもトレーナーの言うことなら。なんでも聞いちゃうよ? …ねえ、聞かせて?トレーナーのおなやみ」 ふぅ、と息を吐く。本当に、彼女は。俺が思っていたより、ずっと成長していた。 「ありがとう、ウララ」 なら、俺が言うべきなのは。 「…実は有馬のことで一生懸命だったから、言わないようにしてたんだが。来年明けにはURAファイナルズがある。覚えてるか?」 "こっちだ"。 「ゆーあーるえーふぁいなるず?」 ウララの頭上にハテナが浮かぶ。 「そう!ある意味ではGⅠより大変かもしれないな。ウララの得意なダートの短距離。そこで一番のウマ娘を決める!…それに向けて、これからの練習。それを一緒に考えたいなと思ってたんだ」 「…これから。なら、トレーナーはどこにもいかないってこと!?」 「ああ、そうなる─うわっ!」 ウララが横から思いっきり抱きついてきて、痛いほど締め付けられる。気づけば、彼女はまた泣いていた。 「…よかった、よかったぁ~!あのね、トレーナーがなんだかどこかに行っちゃう気がして、なんでかわからないけど、さっきからずっとで…」 「心配ない、どこにもいかないよ」 …また泣かせてしまったな。いつも笑顔な彼女を、2度も。でも、逃げられない。ひしりと捕まってしまったし。 ハルウララは俺の担当ウマ娘で、俺はハルウララのトレーナーだ。今まで通り、これからも。 そう、心の中で描いた言の葉を咀嚼する。 「ごめんな、何度もウララを泣かせて」 ぽんぽんと、背中をまた撫でてやる。ウララの小さく力強い身体は、より俺の身体にしがみつく。 「…むー。…そうだ!泣いた分、もういっこお願いを聞いてよ、トレーナー! …眼を、つむってほしいなー…?」 逆らえるわけがない。意図もわからず、眼を瞑る。 沈黙。どうしたんだろう、でも眼を開けるわけにはいかないし…。一言声をかけようか、迷う。そして、口を開く。その時だった。 柔らかい感覚が、開かれた口を塞ぐ。声は出せない。驚きで、すこしも動けない。 感覚は離れて。ウララは何事もなかったかのように、言葉を紡ぐ。 「…えへへ、トレーナー!これからもよろしくね!」 月明かりに照らされたその顔は、桜桃のように真っ赤だった。 遠い夢を見ました。私と同じ、ライスシャワーという名前のいのち。その夢を見ました。 長い夢を見ました。ライスシャワーという名前には、しあわせを呼ぶという意味が込められていて。そのいのちが、走りはじめて。おわるまで。時は那由多のように感じられました。 久し夢を見ました。そのいのちは、勝つために。どんな時でも、どんな舞台でも。信頼を背に乗せ、走り続けました。…いちばんをとったライスシャワーを迎えたのは、非難の眼でした。 怖い夢を見ました。幸せの青い薔薇のようには、なれない。誰もがそのいのちに、悪夢を見ました。…きっと、それは私の、ライスのこと。そんな気がしました。 尊い夢を見ました。それでも、ライスシャワーは勝利を願いました。孤高でも、孤独でも。限界まで、全てをかけて。夢を見ました。だから、そのいのちはもう一度勝利を掴めました。そばに信じるひとがいたから。たとえ、また望まれていない勝利だったとしても。誰の歓声もいらない。ただ勝ちたい。そう、見えました。 脆き夢を見ました。それから先、そのいのちは燃え尽きたように、勝てなくなってしまいました。…ライスは、そこまで夢を眺めて。違うところと、同じところ。その両方を見つけられた気がしました。 黒い夢を見ました。そのいのちは、望まれない勝利を掴んで疎まれ。望まれた時に、勝てなかった。勝ち続ければ、或いは負け続ければ。愛されたのに。そう、黒い心が囁きました。ライスは、お兄さまもいて、ウララちゃんも、ロブロイさんもいて。ブルボンさんやマックイーンさんも、私を祝福してくれて。幸せものだったと、思いました。 暗い夢を見ました。そのいのちは、期待を背負えど。愛されたのは、僅かな人達にだけ。競う相手は文字通り命を賭けていて、ライスたちのように仲良くはできませんでした。でも、それでも。走って、走って。勝つために、走って。私たちのレースとは違う世界が、そのいのちには見えていたように思えました。 光る夢を見ました。同じところは、ひとつ。私とそのいのちは、どちらもライスシャワーでした。しあわせを呼ぶことを、望んでいました。勝つことを、望んでいました。…信頼するひとが、いました。私にとってのお兄さま。だから、走り続けられました。 眩き夢を見ました。そのいのちは、もう一度勝ったのです。その勝利は、ずっとずーっと望まれていて。みんなが、ライスシャワーを祝福したのです。…私は、その姿に。青い薔薇を重ねることができました。きっとしあわせでした。きっとそのお話は、めでたしめでたしで終わったと思いました。…まだ、夢は続きました。 終る夢を見ました。みんなの期待を背負って。そのいのちは、漸く皆から勝利を望まれました。そして、駆け抜けた先に。祝福の雨へと、届くことはできませんでした。最期にそのいのちが願ったのは、信頼するひとが無事であること。そうだったように、思いました。 夢を見ました。始まりから終わりまで、ひとつの物語を。ひとつのいのちを。ぼんやりして、ふわふわして。それでも、確かに。私とそのいのちは、重なり合って見えました。 あなたがいたから、私が生まれた。そんな、そんな物語が、頭に浮かびました。万華鏡のように、おなじいのちの見え方を変えたような。同じように走って。勝ちたいと、願った。そこはきっと、一緒だと思いました。 目を覚まして、頭がぼんやりしているうちに。夢の中身を、日記に書きました。 むかしむかし、あるところに。そのいのちは、どんな時でも勝とうとしました。祝福されなくても、ただ勝ちたいと願いました。 夢の記憶は瞬く間にほどけて、日記に記せたのはこれだけ。でも、一つ願いました。私も。そのいのちが願ったように。願われたように。 しあわせを呼びたいと。 …あと、もう一つ。 素敵な夢を見せてくれてありがとう。 「おはよう、モルモット君」 階段を降りると、彼は既に朝食の支度を終えてくれていた。ハムエッグに紅茶。いつも通りだけど、"悪くない"。 「おはよう、タキオン」 朝の挨拶が返ってくる。このやりとりも、慣れたものだ。 「いただきます」 二人でテーブルを囲い、朝食をつまむ。…砂糖が少ないな。そう思い、席を立って砂糖を取りに行こうとすると。 「ああ俺がやるよ、タキオン」 そう言って、彼は私を制止し砂糖を代わりに取りに行った。…この距離感には、未だ慣れない。 「はい、どうぞ。砂糖はこれくらいだよな?」 もう、何度も過ごした朝なのに。 「ああ、ありがとう」 私が走れなくなってから。 「よかった、そろそろ覚えてきたぞ」 何故君は、私のそばに居続けるのだろう。 かちゃり。とん、とん。食器の金音が、静かに食卓に響く。この関係は、いつまで続いてしまうのだろう。何が、君を私に縛りつけてしまったのだろう。 幾度目かわからない思考の堂々巡り。私の探求も、彼の未来も。時間が止まってしまったように、動かないでいた。 「…時にモルモット君。君は相対性理論についてどれくらい知っているかな」 なんとなく、或いは単に沈黙を破るべく話題を振る。 「全然知らない。タキオンが教えてくれたら嬉しいな」 頼られて、すこし緊張の糸がほぐれる。 「いいだろう。…まあ今回の本題は相対性理論そのものではないし…そうだね、相対性理論の活用について話そう」 こうしてずっと話していれば、ずっと何も変わらないのだろうか。それとも会話によって、歩み寄れるだろうか。 「そもそも相対性理論というものは、いや、理論というものは活用するために存在するのさ。全く内容を知らなくても、どこかでその恩恵に預かっている…ということは非常に多い。相対性理論も然りだ」 彼はまっすぐこちらを向いて、話を聞いてくれている。それ以外に興味はないと言わんばかりに。 「極めて乱雑に言えば。相対性理論とはその名の通り、個々の物体は固有の時間を、相対的な時間の流れを持っている。…例えば君と私も、微細だけれど違う時を歩んでいる。その時間の差は、基本的には互いの速度に差があればあるほど遠くなる。…長くなった。ここまではいいかな?」 「違う時間を進んでいる、か。タキオンがレースに出ていた間、俺は同じ速度では走れなかった。隣にいたつもりだったけど、いられない」 「…そういうことじゃ…」 ぐっと掌を握りしめてしまう。誰が、彼をこうしたのか。わかっているくせに。 「…安心して欲しい。ウマ娘がレース中トップスピードを常に維持したとしても、わずか1秒の差を生むことすら難しい。結局のところ、基本的には。私たちは皆、同じ時を過ごせるんだ」 「…話が逸れたね。この理論が一般的に活用されているのは…皆が持っているスマートフォンなどに搭載されているGPSだ。GPSの情報は地球上空を秒速数kmで航行する人工衛星から送られている。そしてそれが地球上の私たちに情報として送られるまで。大体1秒間に20億分の1秒ほど、差が起こってしまう。もちろん私たちが気づくには、20億秒かかってようやく1秒体感できるかできないかだが。GPSに頼る電波時計などでは、この差を無視することはできないんだ」 彼はいたって平静に見えた。心の距離も、変わってしまったのだろうか。 「この差を見つけ出したのが相対性理論であり、この差を計算して時計データに修正を加えるのも相対性理論、というわけだ…さて、いよいよ本題に入ろう」 「とりあえず、なんとなく理解できたよ。ありがとうタキオン」 その言葉は、嘘か真か。どちらにせよ、心からのものだろうと思った。信じられていると、信じた。 「さて。物体が速ければ速いほど、遅い物体に比べてその時間は相対的にゆっくり進む。つまり理論上は、速さに応じて時間の流れは変わるんだよ。 そしてその速度がもし光の速さに限りなく近づいたとしたら…時間の流れはゼロに等しくなる。そこまで速い存在は現代の科学では極小単位でしか実現できていないけれどね」 仮定の話。もしもの話。あったらいいな、の話。茶飲み話には十分だけれど、本当は。 「この話には更なる可能性が含まれている。光の速さで進み続ければ、他の物体よりも時間経過を少なく過ごせる。ゼロにさえできる。未来に往ける。ならば。 "光の速さを超えたなら、どうなるのか"?」 「…超光速、か…。君の名前が意味するところも、超光速の粒子だったな」 そう。なんの因果だろうか。今の自分が一番求めるものは、己の名に刻まれている。 「…理解が早くて助かるよ。超光速の粒子。アメリカの物理学者ファインバーグによって命名された『架空の粒子』。それが、タキオンだ。 タキオンが仮に存在し、利用できた場合。その時間の歩みはゼロよりも小さくなる。つまり…マイナス。タイムトラベルが可能になる」 「原理の説明に行こう。まず前提として、すべての物体は相対的な時間を持っているだろう? そして、光速で移動する物体は時間の進みがほぼゼロに近くなる。 さらに、光の速さを超える超光速であれば…光速よりも速く、たとえ後から出発したとしても光の速さに追いつくことができる。つまり、つまりだよ」 楽しそうに喋っている自分がいる。本当は必死に絞り出しているのに。 興味深そうに聞く君がいる。本当はあり得ないとわかっているのに。 「光速で進む物体に向けてタキオンを用いて情報を伝達すれば。自分よりも時間の流れが遅く、50年かけて1年しか変わらない光へと伝達を行なった場合。 その情報は光の速さの側では10年も経っていない、新鮮どころか生まれていない情報になるのさ。 …少しわかりづらかったね。語弊を恐れずに言えば、タキオンは時間を逆行できる。そのタキオンに何かを載せれば、載せたものも時間を逆行できる、というわけさ」 「…それで。過去に戻れる」 「その通り。タキオンを利用して移動できる乗り物があれば、それはタイムマシンと言えるだろうね。そこまで出来なくてもいい。情報さえ過去に送れればいい。タキオンを利用して今の私が光の速さで移動する物体へと情報を撃ち出し、その物体からまたタキオンでこちら側に情報を撃ち返せば。 過去の私は、未来の私からの情報を仕入れられる。そうすれば」 そうすれば。もし、そんな理想が叶うなら。 「…まだ気にしてるのか」 「…っ!当たり前だろう!プランBを遂行できなくなる、だからそいつを選ぶな! そう!そう伝えられるなら、伝えられるなら…!」 声を荒げてしまう。…講義は終わりだ。戯れのつもりで始めたのに、本気になってしまった。そんな、そんな。そんなことあり得るはずがないと、わかっていたのに。仮定上の空想。無意味なもしも。 …アグネスタキオンというウマ娘が、走り続けられなくなった時。私が、スピードの向こう側にたどり着けなくなった時。 私には万全のバックアッププランがあった。誰か他のウマ娘に望みを託して、研究の成果全てを注ぎ込む。そのつもりだった。 だのに。彼は私を縛ってしまった。否、私が彼をとうの昔に縛っていたのだ。自らの身体には細心の注意を払っていたのに、他人の心には気づけなかった。 彼は言った。私を見捨てることなどできない、私の幸せを一番に考えてくれ──。そんな甘言に、必死の訴えに。私は彼の言葉の通り、レースから身を引き。彼は今まで通り、私をサポートしてくれた。 嬉しくなかったと言えば嘘になる。嬉しかったから、私は立ち止まってしまった。思いの外、私は彼から離れられなくなっていた。 でも、その結果が。二人で死ぬまで一緒にいるという選択。そんなのは、あまりにも残酷だと。理屈ではわかっているのに。昔の私なら、避けられたのに。今の私には、彼がいなくなってしまうことは。 耐えられない。 「…なあ、タキオン。わかってるんだ」 彼が口を開く。 「俺が君を引き止めたのは、俺のわがままだって。いつのまにか、俺は君の弱みになっていた。それを利用した。君のためにならなくても、君の力になりたかった」 「…そんなことはないよ。君がいなければ、私は走り始めることすらできなかっただろう」 互いに互いを否定する。互いに互いを想うが為。なんて、なんて。 「…でも、後悔しているんだろう?俺のために。俺をトレーナーに選ばなければ、こんな風にはならなかったと」 「…その言い方は卑怯だよ。肯定すれば、私は君のためなら走れなくてもいいということになる。それなのに、こうして今も君と共に過ごしてしまっている。…否定もできないけど」 口を噤む。でも、言葉を止めてはいけない気がした。止まれば、彼が消えてしまいそうな。 「…タキオンが実在するならば、本当にやり直すよう、過去の自分に言ってしまえるのに」 「…どうやり直したいんだ?」 話題が戻る。もしもの話をし続ければ、本当になる気がした。 「そうだねぇ、まず君にはもっといいウマ娘を見繕ってあげよう。私は脚のことを知って、走るのではなくサポートに徹する。君と君の担当ウマ娘のサポートだってさせてもらうよ」 「…」 「そうして君は優秀なトレーナーとして、キャリアを積むんだ。何年も、何レースも…見届ける」 「それは、確かにいいな」 「だろう?別に私たちが仲違いするわけじゃない。仲良くする前に、そもそも深く関係を結ばないのさ。それに──」 「でも俺は、タキオンのトレーナーだから」 彼は、そう言って。 私は、言葉を返せなくなって。 瞬間。景色が歪み。幾星霜の果ての果て。羽ばたきが舞う、舞う、舞う。 蝶の残像が最後、頭にくっきりと痕を残した。 「おはよう、タキオン」 朝が来て、学園で彼に出会う。 「おはよう、トレーナー君」 夢。あれは夢で、私は今日もトレーニングができる。 でも。夢の中、最後に舞った蝶の翅。 バタフライエフェクト。胡蝶の夢。本当の"もしも"。 こちらが現実であることに感謝する。 「…どうした?タキオン。調子が良さそうだな」 …顔に出ていただろうか。まあ、でも。 「なんでもないよ、モルモット君!さあ、今日も研究を始めよう!」 いつも通りだけど、"悪くない"。 オグリキャップというウマ娘がいた。地方から生まれながらも、中央の強豪をばったばったとなぎ倒し。芦毛の怪物と呼ばれたウマ娘。 でも、彼女には純朴とした愛らしさもあって。それを知っている数少ないうちの一人に私が入っているというのは、少し嬉しい気もする。 アイドルウマ娘、オグリキャップ。今日は私と彼女の二人きり。みんなのアイドルを独り占めできる日なのだ。 私は大した者ではない。ただ、地方からやってきたオグリに道案内をしたりしていたら、そのまま彼女のトレーナーになった。はっきり言って、オグリは私とじゃなくてもここまでやってこれただろう。ライバルとなるタマモクロス、スーパークリーク、イナリワン…彼女たちの存在の方が、オグリの成長には寄与した気すらする。 「なあトレーナー、これはなんだ?」 「ああ、これはね…」 じろりじろり。周りからオグリに向けられる視線をうまく遮りながら、彼女にショッピングモールの案内をしてやる。まさにアイドルのマネージャー、といったところだ。 彼女は眩し過ぎて、周りの注目を集め過ぎてしまう。…それに都会に弱いから、一人で出かけさせるわけにはいかない。彼女を適度に覆う影。それが私に出来る、オグリのためになることだ。 …周りのウマ娘とトレーナーの関係を見て、すこし羨ましくなることもある。もちろん、彼女が私を信頼してくれていることは知っているし、私も彼女を信頼している。 でも、なんとなく。三年間を通じて、私にできたのはごく当たり前のことだけ。体調管理だとか、出走レース決めだとか、道案内だとか。そんな気がしていた。 「トレーナー、これはどうだろう」 「これ…はオグリが着けるの?」 白いヘアピン。素敵だけど、オグリの綺麗な芦毛には白と白で被ってしまうんじゃないか。 「…いや、タマにプレゼントをと思って」 ああ、そういえば。もう少しで彼女の誕生日か。…いいな、競い合える仲間がたくさんいるのは。 「…タマちゃんも芦毛だから、白はどうなんだろう。いや他との組み合わせかなぁ…」 ぶつぶつ。タマモクロスはオグリによくしてくれているウマ娘の一人だ。その誕生日プレゼント。それをオグリは買ってやりたいらしい。…私と二人の日なのに、なんて。 そんな感傷は、彼女の周りにいるには似合わない。 「うーん…」 タマモクロスへのプレゼント選びは難航していた。あれでもない、これでもないと。時間はゆっくり流れていく。 「…あれ、オグリンじゃない?」「サインもらえるかなあ」「トレーナーっぽいのが横にいるし、難しいかも…」 聞こえてる聞こえてる。聞こえてるけど無視してやる。今日のオグリはオフの日なのだ。嫌味なトレーナーさんが、今日だけはオグリを独り占めさせてもらおう。 それでも人混みはだんだん増えてきて。まずい、このままだとプレゼント選びどころじゃなくなってしまう。 「…トレーナー」 と、そこで。 「少し掴まっててくれ」 よいしょ、とオグリは私を抱きかかえ。 「えっちょっ、オグリ…!」 人の合間を瞬く間に、駆け抜けた。 どくん。どくん。心臓が強く波打つ。こんな速度で走るのは、ウマ娘ならではで。私には見れない景色で。それを初めて体感して…正直生きた心地がしなかった。 「…もう大丈夫だ。トレーナー…降りれるか?」 「ごめん、むりぃ…」 へにゃへにゃ。もう少しで腰が抜けるところだった。膝はガクガクだ。 「…すまない。でもトレーナーが、周りの目を気にしている気がして…その…」 それはその通りだ。何かがオグリの邪魔になってしまわないか、気遣うのはトレーナーの役目だ。…待てよ。この言い方だと。 「オグリは私を気遣ってくれたの?」 「…そういうことになるな。トレーナーを心配するウマ娘というのは、変だっただろうか」 確かにそうかも。でも、嬉しい。オグリの身体から降りながら、そのしなやかな身体を見つめる。…そうだ。一つ面白いことを思いついた。私にしかできないこと。彼女なら、少し向いているかもしれない。 「トレーナー…ここは?」 「スケート場だよ」 「すけーとじょう」 ピンときていない。よし、それなら教えがいがあるというものだ。昔取った杵柄。私が小さい頃少しだけやっていたスポーツ。フィギュアダンスだ。 「ウマ娘は…げっ、専用の靴を購入してください…仕方ない、払うか…オグリ、こっち来て。一応靴のサイズを測るよ」 「わかった。…蹄鉄、とは違うみたいだな」 「そ。これはブレードって言って、氷の上を滑るためのもの。まあ靴にも色々種類があるんだけど、これはフィギュアスケート用の靴。はい」 「…いいのか?買わなければいけないとさっき言っていたが…」 「いいの!私からのプレゼントと思ってよ。買い物もしばらくできないだろうし、代わりと言っちゃあなんだけど」 「…!ありがとう、トレーナー。大切にする」 耳がぴょこぴょこ。彼女にひとまず喜んでもらえたようで何よりだ。さて。ここからが大事なのだけれど。 「じゃあ、靴を持ってコートに行こう!オグリにスケート適性はあるかな~?」 ないと困るかも。割と。 アイススケート。氷上を靴に付いたエッジで滑走するスポーツ。ウマ娘と普通のヒトが、『自らの脚で』同じステージに立てる数少ないスポーツの一つ。 もっとも靴の規定やらなんやらで、それはカジュアルに限られるけど。 「…ト、トレーナー!足が宙に浮いているみたいで、落ち着かない…!」 「大丈夫大丈夫。姿勢はいいよー。そのままいればまず転けることはないね。…手すりから手を離せるか…」 オグリの脚は震えてこそいないものの、動きはまるっきり初心者のそれだった。貸し切り状態のコートに、私と彼女の声がこだまする。 前オグリから聞いたことがある。彼女は生まれた時、立つことすらままならなかった経験があるという。それなら逆に言えば。スケート靴をいきなり履いても、不安定な足に順応できるんじゃないかと思ったが。 「…おー。…おー!トレーナー!真っ直ぐ動けた、動けたぞ!…助けてくれトレーナー!止まらない、止まれない…!」 …まずまずと言ったところか。つぃーっと滑って行って、オグリの両手をキャッチする。 「…すごいな、トレーナーは…」 「昔やってたってだけだよ。オグリの方が、最初の私よりずっと上手い」 「いや、すごい。トレーナーは流石だ」 そんな真顔で褒められると、照れてしまう。 「私も昔はさー、スケート選手を目指してたってほどでもないけど、憧れてたの」 ぽつぽつと。自分の過去が口から漏れてしまう。 「それでずっとやってたからそこそこ滑れるけど、センスがなくてさ。そこら辺の上手い人、にすらなれなかった」 センス。才能の差。それは残酷だ。 「あの頃は上手い人を見て羨ましがったけど、今は違うってわかるよ。上手い人は上手い人で次元の違う努力をしてたんだって」 才ある者が更に血の滲むような努力をして、漸く成果を紡ぎ上げられる。トレーナーの勉強をして、オグリのトレーナーになったおかげで、わかったことだ。 「…トレーナー」 ああ、そうか。なんだ、簡単だ。私はオグリのトレーナーになったことで、彼女の努力を確かに支えられた。 「…トレーナー。今更言うのも変だが、いつもありがとう」 手を取り合って。氷上にて、オグリと私は二人でバランスを取っていた。今までのように。 「私には、カサマツの人たち。タマたちライバル。そしてトレーナー。大切な人がたくさんいる。私にとっては皆が同じくらい大切で、本当に恵まれていると思う」 他にも大切な人がいるから、彼女は強かったのではない。みんな大切だから、彼女は強かったのだ。 「けれど…だからこそ。皆に恩返しができるようになりたい。そう思って走ってきた。それはこれからもだ。だからトレーナー」 「…泣かないでほしい。私のそばにいてほしい。一歩引かないでほしい。同じ夢を、見てほしい」 あれっ。私、いつのまにか泣いてたか。目が熱くなっていることに気づく。同じ夢を見る。それは、彼女のそばに立つ私にしかできないことだった。やっと、気づけた。 向かい合う好敵手。後ろから支えてくれる人たち。そして、そばに立つ私。その全てが、オグリキャップの力になっていた。私が要らない理由など、どこにもなかった。 「ありがとう…オグリ。いつも、本当に」 本当にありがとう。あなたのトレーナーで、良かった。 「…それはこちらの台詞だったのだが…」 「えへへ、ごめん。…じゃあ、さ」 彼女の柔らかい腰を抱き寄せる。 「曲もないけど、一つ。一緒に踊ってくれないかな」 「…出来るだろうか」 彼女の顔はほんのり紅く。大丈夫。君と私なら。 「オグリと一緒に。共に歩む。今までだって、ずっとそうしてきたじゃない?」 貴女と共に歩むこと。それが、私にできること。 「それでは、よろしく頼む」 「ぷっ!固い、固いよオグリ!」 白き氷上を、二人。滑走音だけが、コートに響いた。 「…あ、そうだトレーナー。これを…」 帰り道、そういえばタマちゃんの誕生日プレゼントはどうしよう、などと考えている時だった。不意にオグリが鞄から包み紙を取り出す。 「…これは」 「…本当はタマの分だけ買って帰るつもりだったんだが、どうしてもあれが気になって。でも似合わないと言われたし…」 似合わない、ってなんのことだっけ。包み紙を開ける。…中に入っていたのは、白いヘアピン。あの時オグリが目をつけていた物品だ。 「それで、あの時こっそり買ってしまったんだ。トレーナーになら、似合うと思って」 「…なにそれ。先に誕生日でもなんでもない人の分を買ってしまって、タマちゃんはどーするのさ」 でも嬉しい。すごく嬉しい。顔がにやけ切ってしまう。 「それは…また明日。当日になってしまうが…もう一度トレーナーと一緒に、タマの誕生日プレゼント選びをしたいんだ。…よければ、誕生日会も一緒に」 「…いいの?」 そんなに何度もオグリと出かけて、バチが当たらないだろうか。 「…いや待てよ、タマには一応確認を取らないと…いやそもそも誕生日会がサプライズだったような…」 あらあら。この様子だとサポートは必要そうだ。 「任せて、オグリ。私がサポートするからには、絶対成功させるから!」 「そう言ってくれるとありがたい…!トレーナーがいれば百人力だ!」 本当に、嬉しそうに笑う娘だ。 「私はオグリのトレーナーだからね!」 私も、とびっきりの感情を込めて笑った。 月の出てきた夜の空。闇に照らされた二人の影は。 一つに、重なった。 「…というわけでタマ、誕生日おめでとう!」 「なんでウチは誕生日プレゼントにオグリの惚気を聞かされとるんや…」 恋。それは大人への階段。だから私は、日々"いいオンナ"目指して修行中だ。トレンドだって外さないし、いつでもキミを夢中にさせる準備はできている。ああ、でも。"キミ"はいつ現れるのだろう。ムチューにさせてくれる、ステキな人がきっとどこかに────。 「どうしたの、マヤノ?ぼーっとして」 「…うわっ!テイオーちゃん!マヤちょっとオトナな悩みをしてたのに!」 同室のウマ娘、トウカイテイオー。彼女はすっごくキラキラしてる。でもマヤだって負けない!恋する乙女の力を手に入れられれば、そう!テイオーちゃんにはそれが…ない、はず。…自信がなくなってきた。いつもテイオーちゃんは生徒会長、ルドルフちゃんのことを喋っている。それってもしかして、もしかしすると? 禁断のコイ、かも。 「ねえ聞いてよマヤノ~!今日カイチョーがさあ…」 「…テイオーちゃん、ルドルフちゃんのことが好きなの?」 好奇心。あるいは対抗心。同室の相手はライバルの1人。絶対先にオトナの女になるんだ、そう思っていた相手の1人。恋を知るのは自分が先だと、勝ちたいと思う気持ちはあるけれど。 恋に恋する乙女として、マヤノトップガンは他人の恋にだって気を配らずにはいられない。 「…?好きだよ?すっごくソンケーしてるんだ!」 もしもそうなら、それは触れてはならぬ恋の形。見てはいけない愛の形。ならば自分は、そっとしておくべきか。 「…恋してるわけじゃ、ないの?」 でも、本で読んだことがある。 「…コイ?何言ってるのさマヤノ、ボクとカイチョーはウマ娘同士だよー!」 同性同士の禁じられた愛の形が、確かに存在すると。…テイオーちゃんは、それを知らないんだ。 「…あはは、そうだよね!マヤ変なこと聞いちゃった!」 ホントに恋かはわからない。でもなんとなく、テイオーちゃんは隠してるか、わかってないか。何か違うのは、"わかった"。 「カイチョーは、ボクの目標!カイチョーみたいになりたくて、そのために。そのためならボクはなんだってできる」 テイオーちゃんの表情が、少し変わる。真剣だった。本気だった。 「…マヤノは何かそーいう目標、ないの?」 質問者が転換する。 「マヤは…ワクワクしたい」 少し考えて。言葉を吐き出す。 「…ワクワク?」 正確に言えば、きっと。わからない、というのが正解なのだろうけど。 でも、この気持ちはウソじゃない。 「うん、ワクワクして。ドキドキして。そんな気持ちになりたい。…だーかーらー!」 そう、それには何か、ずきゅんと来るものが。 「恋をしたいの!トキメキたいの!…それで、テイオーちゃんとルドルフちゃんのカンケーがそういうのだったら、参考になるかなーって」 そう、ダメ元で直球勝負で聞いてみる。 「…えへへ、カイチョーのことは好きだけど、コイってちゅーしたいとか、そういうのでしょ?ボクはカイチョーに褒めてもらえるならそれで…」 「ホントは?」 「…不安になってきた…。マヤノが変なこと言うからだよー!」 間違えたかも。オトナの女がここにはいない。だから恋の何たるかなんて、自分だってわからない。だから聞いてみたけど、テイオーちゃんにもわからない…。どうしよう。 「うーん…。でもテイオーちゃんのそれって、単純なソンケーだけじゃないと思うんだよなあ…」 「…マヤノがそういうなら、そうかも…。ああでもっ、ちゅーとかは絶対!ぜったいないから!」 2人でぽく、ぽく、ぽく。自分たちはまだ子供で、何も知らないのだとわかる。真剣に考えても、オトナたちから見ればおあそびにしかならないことしか思いつかないのだろう。 「…あーあ、早くオトナになりたいなー…」 「ボクもはやくカイチョーみたいに、かっこよくて、すごいウマ娘になりたいよ…」 「…目標は、具体的な目標はあるの?」 「おお!よくぞきいてくれたまえ!」 怪しい日本語とともに、彼女は一枚の紙を取り出した。そこにサインペンでさらさらと。 「目指せ、無敗の、三冠ウマ娘…と!どう!?」 「…デビュー戦もまだなのに、気が早くない?」 「そんなことないぞよ~!すぐにすごいトレーナーを見つけて、すごいデビュー戦を飾って、あっという間にカイチョーを超えてみせるんだから!」 少し、羨ましいかも。拙いかもしれないけど、確かなキラキラがテイオーちゃんには見えた。 「いいなあ、マヤも…」 そこですこし閃く。漠然とした彼方の目標で、まだテイオーちゃんには敵わないかもだけど。 「そうだ!素敵なトレーナーちゃんを見つけて、素敵なランデブーをするの!飛行機に乗って、窓から綺麗な夜空を見下ろして…」 「…マヤノもすごいと思うよ。…もちろん、ボクが一番すごいけど!」 テイオーちゃんに褒められた。意外だ。 「ボクさ、たまに不安になっちゃうんだ。"もし、夢が叶わなかったら"。だから夢がはっきりしてくるのは、ドキドキする。二つの意味で」 「でもマヤノはさ、走ること以外にも楽しみがあるっていうか、いつでもどこでも何かを楽しめそうっていうか」 面と向かってそんなことを言われたら照れてしまう。悪い気もしないけど。 「テイオーちゃんは、本当に真剣だね」 こっちも、褒めたくなる。 「…マヤそんなに、一つのことに夢中になれないもん。レースは楽しいけど、トレーニングがつまんないから全然走ってない。テイオーちゃんは、我慢してトレーニングしてるの?」 「それは、違うかも」 やっぱり、モノの見え方が違う。でもそれは、悪いことじゃなくて。伸ばすべき長所なのかも。 「トレーニングは、すっごく楽しいんだ。力が湧いてくるって、強くなってるって実感できる。…確かに同じことの繰り返しだけど、結果は毎回違うんだよ?真剣さが絶対、報われるんだ」 「…マヤは毎回違うことをしたいなーって思っちゃうけど…同じことでも、毎回違うってこと?」 「ふっふーん、マヤノもまだ子供だなあ!ワガハイがこれから教えてしんぜよう~!」 「授業はつまんないからやだー。…でもさ、やっぱりみんな違うってことかも」 そう、違う。誰一人として同じウマ娘はいない。それがわかった気がする。 「…違う、か…。ボクもカイチョーとは、違う。そういうことかな」 「なんとなく言っただけだよ」 「マヤノのなんとなくは当たるじゃん」 そう、みんな違うなら。誰かのようになりたい、という目標も、成し遂げられないものかもしれない。…でも、テイオーちゃんはそうだとしても、あきらめないと思った。走り続けると思った。 「…さっきも話したけどさ。夢がもし、叶わなかったら。叶ったとしても、叶った後。ボクたちが、大人になった後」 なんとなく、テイオーちゃんの言いたいことがわかった。 「将来って、未来って。どうなるんだろうね。早く大人になりたくても、早くなることはできなくて。ずっと子供でいたくても、子供のままではいられない」 当たり前のことを言ってしまう。でも、これが私たちの同じ悩みなのかも。 「デビュー、怖いね…」 「…うん」 夜空を見上げる。夜の空に光る星は、何億年もずっと同じ姿をしているらしい。…それでも、ずっと光っているわけじゃなくて。何億年が終わった後、その星はいのちを終える。その時、どんな気持ちなんだろう。 「どうしたの、マヤノ」 「あそこに光ってる星にも、命の流れが、始まりと終わりがあるんだなーって。改めて」 「…すごいスケールの大きいことを考えてるね。…やっぱりマヤノの見てるところは、ボクとは違ったりして面白いなー!」 自分からすればテイオーちゃんの見てるモノも、面白い。それはあまりにも近い着地点すぎて、ぶつかってしまいそうなのに。彼女はそこに向かって、少しもぶれることがなかった。 「テイオーちゃんと同じ部屋でよかった」 「ボクも。マヤノと同じ部屋でよかった」 不意に、互いの存在に感謝する。もし願いごとが叶うなら。ひとつといわず、たくさん叶えたいけど。 おばあちゃんになっても、ずっと友達で。 未来に一つ、目標を立てた。 逃げ。その戦場は他のウマ娘とは違うところに存在する。ただ一人、誰もいない景色が目の前に。争うべきは己のペース。機械のように正確に、影すら踏ませぬ異次元の逃亡。先手必勝、たった一度も前を譲らない。 それが、理想の『逃げ』で。人々はその独壇場に夢を見る。きっとスター性のある逃げとは、鮮やかに引き離し、誰とも競り合わないもので。 私の逃げとは、まるで違う。私の選ぶ逃げは消極的で、いつも本物の逃げの後塵を拝している。集団が後ろで固まって、誰も出てこないのを祈りながら走り続ける。引き離すことなんて叶わない、先行バに捕まれば競り合いすらなくあっという間に引き離される。 それでも、それでも。最初に見れる先頭の景色だけは本物で。私は、ジャラジャラというウマ娘は。それを見るために走っているのだ。 …ああでも、一度くらい。大舞台のセンター、獲ってみたいな──。 トゥインクル・シリーズ。ウマ娘にとって、最初の三年間。私のやる気はデビュー戦からこっち沈む一方だった。メイクデビュー、初戦も初戦で私は才能の差を思い知らされた。1秒間だけしか、私の逃げは成立しなかった。 マルゼンスキー。あまりにも速いその紅は、本物の逃げというものを、私に見せつけた。ぐんぐんと差が開いて、開いて、開き続けて。スターウマ娘への道は、いきなり閉ざされてしまったような気がした。 未勝利戦でなんとか勝ちを拾い、重賞に向けて実績を積み上げた後も。本物の主役と一緒に走る勇気は、まるで湧いてこなかった。 本物。マルゼンスキーと走って最初にわかったことだ。あれが本物で、私のようなウマ娘とは何もかもが違うのだと。努力しても、しなくても。結果は変わらなくて、努力は無意味で。それをうっすら感じ取りながら、私は未だに"逃げ"続けている。 「スプリングステークス、避けちゃったな」 今日はレースの予定だった。だいぶ前、マルゼンスキーが出走するとわかるまでは。トレーナーも了承した。仕方ない、と。そして練習もなく、目的もなく。こうして近くの駅で、電車を眺めている。 幸い私には大した数のファンもいないので、下手に外を出歩いても騒がれることもない。まったく、本当に幸せ者だ。 それでも、やはり他のウマ娘を見ると私自身が反応してしまうもので。びくり、と身体が動く。相手が広告なり喋らないなら問題ないんだけど。 レースから逃げたという事実は、思ったより私にはショックだったのかもしれない。自嘲気味に苦笑する。 さて、次はどこへ行こうか。学園にでも行こうか。何も考えずに来た電車に乗る。気が向いたら降りればいいか、なんて。そんなふうに、本当に頭を空っぽにしていた私は。 「…こんにちは」 車内に入るなり挨拶されて、軽いパニックになった。 「あっひゃっはい!ジャラジャラです!」 聞かれてもないのに答えてしまう。前にいたのは、一人のウマ娘。白い毛が綺麗だった。 「ジャラジャラさん…よろしく」 その子は寡黙な感じだったが、にも関わらず話しかけてきたということは何かあるのだろうか。 「えっと、何用でしょうか」 「…?」 ピンと来てない。何用って表現変だったかな。 「えーと、何か私にご用件でもありましたでしょうか」 これは流石に慇懃無礼かな。わからなくなった。 「…いえ~。ただ、ウマ娘同士だな~と思ったもので」 そうか、何も理由はないのか。失礼かもしれないけど、なんだかその覇気のなさが親しみやすくてありがたかった。 「…お話しませんか?」 「…それなら、次の駅で降りますか」 よくわからない誘いに乗る。捉え所のない人だ。レースで会ったこともない。でも、他人を知れば自分の糧になるかも知れない。…それであの怪物に勝てるようになるかは、別だけど。 しばらくするとドアが開いて、私とその子の二人だけが降りる。何も考えずに降りたら、本当に人気のない駅で降りてしまった。 空を見上げると、少し赤く滲んでいて。なんとなくあのマルゼンスキーのことを思い出した。そしてそのまま、話を振ってしまう。 「えっと、マルゼンスキーさんって、知ってますか」 「…知ってますよ」 「実は今日、マルゼンスキーさんの出るレースがあったんです。…それで、私は出走を回避して」 ぽつり、ぽつり。白い子は黙って話を聞いてくれた。 「デビュー戦で、マルゼンスキーさんと私、レースしたんですけど。私は大きく逃げようとして。その日までは誰にも一度も抜かれず、そんなウマ娘を夢見てたんです。イメージトレーニングはばっちりだった。でも、結果は。 勝てなかった。それだけじゃない、私は逃げたなんて言えなかった。ほんの最初の数歩、枠の差を詰められるまでの一瞬だけ、私は先頭で。そこから先は、マルゼンスキーさんがハナをぶっちぎってって」 「強いですよね、マルゼンスキーさん」 そう、でも。それだけじゃなくて。 「違うんです。私にはないものが、あの人には何もかも備わってたんです。逃げ足なら負けないって、その時まで私は信じてたんです。でも、でも」 ぽたり、ぽたり。いつのまにか、涙がでてきた。 「今はもう、走るのが怖いんです。逃げても、ハナに立っても。あの人の姿が、ずっと視界に入ってる気がして。私は、その影を追いかけることも叶わない。ただ、怯えながらレースをしてるんです」 勝てない。どうやっても、勝てない。そう思ってしまったから。私は勝てなくなっていた。 「…そうですか」 「…貴女は、そういうの。ないんですか?」 走っているうちにわかる才能の差。実感せざるを得ない努力の限界。才あるものが努力をして、初めて栄光はつかみ取れるのだと、思う。そしてその資格は、私には。 「…私は、URAファイナルズに出るつもりです。トレーナーと、いっしょに。…まだ、道は遠いんですけど。トレーナーのこと、もっと知らなきゃいけないけれど」 URAファイナルズ。スターウマ娘だけが出走を許される、全てのウマ娘の頂点を決める大会。…私には、夢のまた夢だ。この人も、私とは違うのだろうか。 「…貴女は、何故もう諦めているのですか」 誰か恐れるウマ娘はいないのか。その質問に答えることなく、質問を返された。 「…私が質問してたんですけど」 「私は、私を選んでくれたトレーナーのために。走ります。絶対、ファイナルズ・チャンピオンになってみせます。…貴女には、何かないのですか。壁ではなく、目標は」 言われて、はっとする。 目標。目指すゴール。もしかすると私は、その前の壁に気を取られていたのか。 「…私は、いつでも。誰が相手でも。ファイト、するだけです」 唐突に。ファイト~、と彼女は気の抜けた掛け声をあげた。 「ぷっ」 笑ってしまう。彼女は私が何を笑っているのかもわからない様子で、きょとんとしている。それも愛らしくて、また笑う。 でも、その通りだ。私たちウマ娘は、走るために生まれてきたのだから。走りたいのだから。壁があるなら、垂直に走ればいい。そうすればきっと超えられる。ゴールはきっと、その先に存在するのだ。 「よし、じゃあ私も!ファイト!しようかな!」 威勢よく、声をあげる。ぱちぱちと、横の少女から小さな拍手が上がった。 どれだけ大変かは、わからない。辿り着けるかも、わからない。それでも。私たちには必ず、ゴールがあるのだから。 そちらに向けて、走っていこう。 「…大丈夫ですか~?なやみ、なくなりましたか?」 「うん、なんとか。ありがとね」 電車がちょうど来て。彼女はこの駅でそのまま降りて帰路に着くらしい。短い間だったけど、大事な時間だった。お別れだ。 「おっと、そういえば」 電車に乗る前、一つ忘れていたことを思い出した。 「貴女、名前は」 私はちゃんとジャラジャラと名乗ったのだから、聞いておかないと。 「…ハッピーミークです~」 最後までふわふわした感じで、ハッピーミークは挨拶し。間もなく扉が閉まって、お別れだった。 連絡先も交換しておけばよかったかな。スマホを取り出して思ったのはそんなこと。トレーナーに次の目標を伝える。新しい目標。マルゼンスキーからハナを奪うこと。彼女の脚より、更に速く。それは途方もない目標だけど、夢を見るのは自由だ。夢を叶えるのも、自由だ。 私も、彼女も。誰もが。等しく一人のウマ娘なのだから。  走ることは罪だと誰かが決めたのだろうか。生きることは等価ではないと誰かが定めたのだろうか。私は唯、貴顕の使命を果たすべく。前だけを見ていた。  先の天皇賞、秋。私は一つ、拭い去れない過ちを犯した。レース中の進路妨害による降着。勝利を求め過ぎたが故の失態。メジロの名に恥じることのないよう生きてきたはずの私は、全ての砦を自ずから失った。  天皇賞春秋連覇を目の前に、託された多くの想いと代々伝わる悲願を胸に私は走った。それは私が生きる理由。そうして私は、知らずのうちに自らの眼を曇らせていた。  わかっている。これは言い訳で、それこそメジロ家以前に一人のウマ娘としてあってはならない気持ちだ。もし、降着でなかったら、なんて。どこまで厚かましいのだろう。  だから終わりにしなければならない。  これ以上を走るのは、生きるのは、罪だ。 まず矛盾が立ちはだかる。生きることは罪であり、然して己の命を絶つこともまた、罪である。今の私は、針の筵で板挟みになっている。誰にも迷惑をかけたくない。そう願うには、あまりにも多くのものを背負い過ぎた。誰もが私の生に注目するし、誰もが私の死に注目するだろう。でも、でも。  耐えられない。消えてしまいたい。そう思ってしまうのもまた、罪なのだろうか。既に嫌というほどニュースを見た。嫌というほどウワサを聞いた。もう、嫌だ。  そんなふうに、全てのものから耳と目を塞いで。寮の皆には泊まり込みのトレーニングだと書き置きをした。そうして、そして。  私は今、崖の上に一人。佇んでいた。 「…ようやく、着きましたわ。」  そう、誰に言うでもなくつぶやいて、息を吐く。やっと、一人になれた。あれだけ心強かった仲間の存在が、むしろ今は辛くて仕方がない。期待が重い。配慮が苦しい。飛べなくなった天使の翼は、背負い縛る十字架になっていた。  ふらり。崖に向かって歩を進める。このまま落ちれたらどんなに楽だろうと、思う。でも、きっと駄目なのだ。私は加害者であり、泣く権利すら持ち合わせていない。悲嘆に暮れることなどあってはならない。  たん。また一歩、地獄へ向かって歩む。それでも、背負った咎を下ろす方法は分からなかった。だって誰も、表立って責めてはくれないのだから。  ぐらり。片脚を上げて、宙へ放り出してみる。まだまだ安全圏に私の命はある。どうやったら、死なずに生きるのをやめられるのだろう。きっとこれから先、私が走るのは全て罪なのに。ずっとこれから先、私の生きるのは遍く無価値なのに。  そっと、脚を下ろす。今までの私は、使命感で己を律してきた。ならば、想う。使命感が己を殺すのならば、私はどうすればいいのだろう。  もしかすると、死にたくないと言う恐怖心が己の心を歪ませているのかもしれない。いや、恥ずべき行為を償う理由が見つからないから、死に逃げているのかもしれない。導を失くした私は、何処へ、何のために。なにも、わからない。  ぐぅ~。お腹が鳴った。思わず顔を赤らめる。…そして、それが無意味なことを思い出す。もう自分は、何の価値も無くなった存在で。取り繕う意味も、理由もない。  「このまま、終われたら良いのに。」 空腹を誤魔化すように、口を遊ばせる。生きることも死ぬことも許されないなら、私は木になりたいとさえ思った。どうしても許されないことに、歪みだけが募っていく。だからもう、赦されなくてもいい。ただ、ただ。  貴方の隣に居たかった。    私のトレーナーが消息を絶ったのは今朝のこと。貴方はいつも強くて、優しくて。だから、誰にも迷惑をかけたくなかったのだろう。今の私と、同じだ。消息不明ということにはなっているが。そうしてくれと、書いてあったが。遺されていたのは、遺書だ。    『ごめん、マックイーン』 そう、端的に本音を書いた後は、この降着騒ぎを穏便に済ませるための言葉ばかりが並べられていた。"責められるべきはトレーナー"なんて。冗談じゃない。  何度も何度も考えた。責められるべきがあるとしたら、私だと。もっと傲慢な考えをすれば、私たちは一心同体、連帯責任を持っているはずだと。だからこうして、一人。今の私は人気のない場所を巡り、貴方を探し当てようとしている。  間に合うかは分からない。でも。彼からしたら迷惑かもしれない。それでも。何もかもが間違っているかもしれない。だとしても。  最良の結果は、何事もなく貴方が帰ってくることだから。そう、私と一緒に気分転換にでも出かけたのだ。そういうことにしてしまおう。  でなければ、でなくては。私も、潰れてしまう。  貴方がいなくなってから、数時間しか経っていないけれど。貴方がいないことの痛みは、幾億年にも感じられた。思い詰めて、思い詰めて。  貴方の思考を辿るように、自分の思考を破滅へと導いて。そして漸く、貴方が消えたくなった理由がわかった。  でも、本当は違うのだ。私は同時に、結論の過ちにも気づいた。  「さて、お腹も空きましたが。貴方を見つけるまでは我慢、ですわ。」  私たちは一人じゃない。同じ罪を二人で分かち合える。責めるでもなく、慰めるでもなく。唯一無二の共犯者がいる。  「…まったく、トレーナーさん。見つかったら、たくさん奢って頂くんですから。」  そして貴方もそれに気づいていて。だから、最後の引き金は引いていないだろうと、信じる。貴方が居るから、私は踏みとどまれた。ならば。貴方もきっと、まだ。  「…全く!次に行きますが。これで帰ったらいつも通り居ました、なんてことにでもなったら、許しませんわよ!」  そう、誰も聞いていない軽口を叩く。己を鼓舞するため?そうではない。  信じているから。  貴方とまた、笑い合えることを。  ヒトは生まれながらに罪を背負う。だから、貴方はそれを全て背負おうとした。ウマ娘は、走るために生まれてきた。だから、私は今も走っている。  少し遠くへ行ってしまった貴方に、追いつくため。いや、それは違う。貴方と私は一心同体。たとえどれだけ離れても、遠くになんか行きやしない。  「ここにもいませんわね…。」  探す。探している。大した事ではない。私のトレーナーは、強くて、優しくて。だからきっと、この捜索だって徒労に終わる。そうして夜に差し掛かった頃、私が帰路についたら。何事もなく彼は私を出迎えて、そうしたら。  そうだ。とびっきりのスイーツを奢ってもらおう。体重の事なんて気にしない。食べたい時に食べたって、たまにはいい。我慢して、役割に徹しなくてもいい。そう貴方に教えたいから。  なんて、理由をつけて。お腹いっぱい食べたいだけだけれど。少し、気持ちがほぐれる。そう、この心持ちがあるべき姿なのだ。ほんのちょっと物騒な書き置きをして、ほんのちょっと遠出をしただけ。私のトレーナーが行ったのは、きっとそれだけ。  走る。走る。ウマ娘の脚で届かない範囲には、ヒトの貴方は行ってしまっていないはずだ。願う。願う。貴方にもう一度会えることを。  終わってほしくない。ゴールに辿り着きたくない。そう思いながら走ったのは、初めてだった。  駅を回り、思い出の場所を巡った。貴方との思い出を噛み締めながら。彼はどんな時も、私を見守っていた。それは彼にとって負担だったのだろうか。私は彼に重荷を背負わせていたのだろうか。  私は一人になって、初めて冷たい眼差しを意識した。これは、貴方がずっと抱えていたものなのだろうか。私は、貴方の力になれていなかったのだろうか。  もどかしく、もどかしく。一つ当てが外れるたびに、動悸は激しくなっていく。まるであの天皇賞のようだ、と思う。あの時の私は、きっとひどく緊張していて。進路妨害に気づかないほど、何もかもが見えていなかった。でも今は違う。  貴方のことが見えるようになったからこそ、胸が張り裂けそうなのだ。  あり得る可能性から順に潰していって、すぐ見つかると無理矢理軽んじて。結局貴方は、見つからないまま。夜が、来た。  「ほんとうに。何処に行ったのでしょう!」 どうしても、大ごとにはしたくない。これが私の我儘。一人で探すのなんて非効率。でも、絶望的な結果を早く見てしまいたくなかったから。  苛立つように。いつものことだ、というふうに。そういうことにしたかった。日常の一コマであって欲しかった。  「…本当、に。」  涙が溢れ落ち。もう、止まらなくなった。  「…こんな。…そん、なっ…。」  認めたくない現実が、地面に散らばっていく。それはとても残酷で、シンプル。 最後の最後、僻地の僻地まで探し終えても。何処にも彼はいなかった。  どうしたらよかったのだろう。もっと大々的に探してもらうべきだったのだろうか。そうすれば見つかっただろうか。見つかることは、彼にとって幸福なのだろうか。  今、私のトレーナーに課せられた咎は一つ。メジロマックイーンの降着の責任の一端。でも、それは。私に非があることで。そうでないとしても、彼1人が背負う責任ではない。  それを彼に伝えたい。それだけでいい。彼がこれ以上私のトレーナーを務められないと申し出るなら、それも仕方ない。貴方のことを思えば、貴方の意思を最優先したい。  強いて言うなら。貴方に、一つだけ我儘を言うなら。  絶対に、死なないで欲しい。  帰路に着いてしまう。1日が終わってしまう。私はこれから、彼の秘密を何処まで隠し通せるだろう。でもこれが、私と彼が最後に共有する秘密なのだから。ぜったいに守り抜く。  そう、誓う。  「さて、大丈夫ですか?メジロマックイーンさん。」  「ご心配には及びませんわ。有馬記念、成し遂げてみせます。抜かりはありませんわ。」  あれから、あっという間に年末が来て。私は彼の遺書に沿って平穏なストーリーを組み立てた。トレーナーは実家の身内のために休暇を取って、知り合いのトレーナーに一時担当を預けると。彼は人は良いのだが…  「…その他人行儀な口調、なんとかなりませんの…?」  「マックイーンさんは私の担当ではなく、あくまで代理ですから。」  そう言って憚らない。正直、そのことは罪の意識を膨らませる。  彼は結局戻ってこなかった。まさかほんとうに、なんて。信じないけれど。私を見捨てて何処かへ行ったのだ。そういうことにしておこう。  彼の姿を再び見たくないと言えば嘘になる。けれど、叶わぬ願いを掲げ続けることは耐え難い苦痛を生む。…こうして考えてしまう時点で、永遠に自分のこの思考を否定はできないのだけど。  「行ってきますわ。メジロの名を復活させるために!」  そして、貴方の夢を叶えるために。  コースへ向かうと、歓声が大きく、大きく聞こえてきた。ねえ、トレーナーさん。私たち、まだ走っても良いのかもしれませんわよ?なんて。降着騒ぎがあっても走らせてくれるのだから、ファンというのはありがたい存在で。でも、思ってしまう。ファンの思うメジロマックイーンは、貴方がいたから創り上げられたのだと。  ゲートに入る。さあ、踏み出そう。最初の一歩を。  どん。走る。走る。少し身体が強張るのは否めない。でも。私と貴方で描いた未来。何処までだって行けそうだったあの頃。皆の期待を背負って、私はそれを翼に変えて羽ばたいた。  走り続ける。私は諦めない。諦めたって、もう一度。貴方のために、貴方がいたことを証明するために、ただ。今の私の新しい目標は。  貴方のことを忘れないために、走ることだけだ。  声援が強く聞こえる。もうすぐ最終直線だ。ここから、ここから。そう思う私の頬を、涙が横切った。それが己のものとわかるまで、戸惑ってしまう。少しペースを崩す。その隙に、狙うべきトップと差を開けられてしまった。  でもまだ、もう、諦めない。そうして再びスパートをかける。でも、差は縮まらない。もう駄目か。そう思った時だった。  「マックイーン!走れ!」  トレーナーさんのこえが、きこえた。  幻聴かもしれない。現実逃避のしすぎで病んでしまったのかもしれない。そんな考えを振り払う。今わかるのは、たとえそれが幻だとしても。私の隣にまた彼がいる。そのことだけ。  差を詰める。詰める。最強をかけて、走る。そして、結果は──。  「2着か。惜しかったですね。よく頑張りました。」  「…最後にギリギリまで伸びたのは。あれは私の力ではなくて、私は…。」  そう、新任のトレーナーに言葉を繋ごうとした。彼は急に任された私のトレーナーを、よくやってくれた。この有馬記念の結果が彼にとって満足いくものであれば良いな、と思う。  「ところでマックイーンさん。ご紹介したい人が。」  そう、彼が切り出して。何も、私は身構えていなくて。その人影を見た途端。私の視界は眩く滲み、顔も判別できないその人に。  思いっきり、抱きついた。  「…ごめん、マックイーン。」  「あの"手紙"と同じことを繰り返すのですね。さて、何から聞きましょうか?」  「とりあえず、彼にお礼を。彼はね、俺のことをトレーナーの連絡網を使って…」  「それはそれは。私が歩き回った甲斐もないというものですわね。」  「あと…マックイーン。離してくれないかな。」  「…嫌です。このまま話します。私の耳なら貴方の口元にあるでしょう?」  「ううん…それと…2着おめでとう。立派な結果だ。」  「私は1着が欲しいですわ。どんな舞台でも。」  「…さすが、マックイーンだな。変わらない。」  「…発言の意図が汲み取れていないのではなくて?」  「?…ってちょっとマックイーン…!?うんっ…!」  「…ふぅ。これで、貴方の1着。ファースト。頂きましたわ。」  どこまでも広がっていく始まりを。一緒にいこう。