駅から車に乗って郊外の田園地帯へ向かう。平和な農作業を横目にしばらく揺られていると黒々とした大きな屋根が見えてきた。 塀に囲まれその圧倒的な存在感を放つ屋敷は、自分の担当であるキタサンブラックの実家であった。 「こちらへ」 紳士服で固め、モノクルを掛けた老人の運転手に案内される。 「……いこうか、サトちゃん」 「……はい」 自分はトレセン学園所属のトレーナーで、彼女はサトノダイヤモンド。 キタサンブラックの幼馴染であり、トゥインクルシリーズに挑むウマ娘であり、そして、その若すぎる齢で母親になろうとしている身だった。 始まりは学園で彼女をスカウトした時か、あるいはそのもっと前だったか。サトちゃん曰く俺は彼女と幼少期にトレーナー契約を結ぶ約束をしていたらしい。らしいというのは、自分にあるのは彼女の幼馴染のキタちゃんと同類の約束をしたことだけだったからだ。校舎裏に呼び出されて、約束の件を持ち出されて、でもどうしても思い出せなくて、その時はただ悲しそうな顔をして引き下がったのを今も覚えている。 それから数日して、キタちゃんとのトレーニングが始まった。サトちゃんもトレーナーと巡り会えたようで共に練習をする機会も多かった。昔馴染みのよしみからお兄ちゃんお兄さんと慕ってくれるのは、嬉しいけども新人の身には少しむず痒かった。しかし、彼女たちは昔のように可愛らしい少女ではなく、立派な女性になる途上の青年である。特に肉体面の成長が著しく、子供の頃との同じ距離感で向けられるには凶悪すぎるものだった。自制しようと努めても、ふとした瞬間に弾む胸に視線が集まったり、汗で艶めかしく光る首筋やともを盗み見ることがどうしてもあった。 「お兄さんの視線…気づいてないとでも思っていましたか…」 ある日から、サトちゃんにトレーナー室で迫られるようになった。キタちゃんは先に帰してしまい、サトちゃんのトレーナーもいつもトレーニングの後さっさと帰ってしまう。誰も来ない部屋で二人きり、キタちゃんよりもたわわに実った肉体に落ちるのは時間の問題だった。 「キタちゃんには内緒ですよ…あの子を悲しませたらダメですからね…」 逢瀬の回数は日を追うごとに増え、場所もトレーナー室から更衣室、やがて自分の家にまで及んだ。汗の染みこんだウェアのまま時間を縫って体を重ねることもあれば、わざわざ勝負服のサンプルまで持ち出して一日中交わることもあった。避妊具は興奮をあおる道具でしかなく、やがて子供ができるのも不自然ではないほど俺は彼女に溺れていた。 ファイナルズが終わって年度が変わるころ、サトちゃんの不調が顕在しはじめた。そうなれば当然医療機関のお世話になるということで、発覚した時は三か月目で、堕胎の選択ギリギリの時期だった。しかしサトちゃんは堕胎を拒否、自分も腹をくくって責任をとることにした。幸いなことに彼女の成績は非常に優秀で、問答無用で学園から追放されることは無いだろうと、白い目と共にたづなさんには伝えられた。表面的にはケガの治療ということでサトちゃんはトゥインクルシリーズでの活動休止を報道された。自分の処分については追って発表されるとのことで、それまでは謹慎を命じられた。キタちゃんは実家に帰ってしまい、サトちゃんの両親には土下座と鼻の骨折で何とか許しを得た。警察に突き出されなかったのは奇跡としか言いようがない。 それからしばらくして、実家のキタちゃんにサトちゃんともども呼び出された。大方契約の解除の話だろう。彼女もサトちゃんに見劣りしない優秀な成績を収めたので後任については問題ないはずだ。心残りがあるとすれば、彼女を裏切り続けていた謝罪をする機会が無かったことくらいだった。 まだ目立って変化が無いとはいえ身重の彼女の手を引いて裏口の門をくぐる。運転手付きの黒い車やら屋敷からして地元の名家なのだろう。裏口から案内されているのもそういった世間体を気にしてのことに違いない。 「サトノダイヤモンド様はこのままお進みください。トレーナー様はこちらへ」 二手に分かれ、離れへと案内された。 「本日はここに宿泊していただきます。食事は係の者が運んできます。明朝、旦那様の下へと案内させていただくのでそのおつもりで」 と運転手さんは言い残して母屋のほうへと戻っていった。 備え付けのちいさな風呂に入り、運ばれてきた食事を平らげて、すこし古びた布団の上に寝転んだ。ガーゼを貼った鼻を撫でながら、やりきれない気持ちを整理していた。 キタちゃんもきっと俺を軽蔑しているだろう。トレーナーになって君が頂点に立つ手伝いをすると約束したのに、よりによって親友との不祥事で台無しにされたのだから当然だ。俺がいなくなった後も、その印象がすぐぬぐえるわけでは無いからきっと苦労することだろう。そう思うと更に自責の念が強くなる。 どうしてこうなった?彼女が妊娠したからか?彼女の誘惑に負けたから?それとも彼女のいう約束を俺が忘れてしまったから? 悔しい。あの日の夢に輝いた二人の笑顔を自分が汚してしまったことに耐えられない。かといって、自殺をしても何の解決にもならないことは分かっている。背負った罪は一生かけて償うしかないのだ。そこまで考えて、彼女のお腹の中の子を自然と罪扱いする自分にに嫌になった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「……」 大広間に3人きり。俺と、サトちゃんと、向かいにキタちゃん。 先ほどキタちゃんのお父さんとの面談を終えたばかりだ。お父さんからは未成年に手を出したことを叱責されたのみ、のみとはいえ生きた心地はしなかったが、で話の本題は彼女が一任しているらしい。 キタちゃんは着物を着込み、膝の前に刀らしきものを置いて俺たちを待っていた。突っ込む気は流石に起きず、サトちゃんと二人、黙って彼女の前に座った。不謹慎だと分かっていても、神妙な表情の彼女は魅力的だった。 「お兄ちゃん」 キタちゃんが口を開く。 「ここに来た意味は分かってる?」 口調こそ聞き知ったものだが、纏う雰囲気はまるで別人だ。 「……」 おおよその検討はついていても、口に出すことができなかった。心のどこかではやはりまだ和解を望んでいる。 「お兄ちゃん」 が、今更そんな甘えた選択は許してくれないらしい。 「……ああ、多分……」 重い空気に潰れそうな肺を動かして何とか言葉を続ける。 「俺が……もう君のトレーナーにふさわしくないって───」 刹那、彼女の目が殺意に似た色に染まる。年下であることをまったく思わせない凄みに息が止まる。隣のサトちゃんに助けるを求めるような視線を送る自分はきっと最高に情けない顔をしていたことだろう。しかしサトちゃんも神妙に押し黙り、何も答えてはくれなかった。 「ダイヤちゃんから聞いたよ。お兄ちゃん、約束忘れたんだって?」 キタちゃんが俺に問いかける。本当に覚えはないが、今更言い逃れもするまいとうなずく。 「……なのに」 「なのに、私との約束も破るっていうの……」 うつむいた彼女の肩が震える。裾が固く握られている。 その声は、今にも泣きそうなほど弱弱しかった。 「ち、違っ、そんなつもりじゃっ……」 「違わないよ!お兄ちゃん、私のトレーナーやめたがってるじゃん!」 「俺だって続けたいよ!でも──」 「でも、ダイヤちゃん言い訳にしてやめるんだ?」 返す言葉も無かった。そうか、俺は…… 「……ああ、そう、かもしれない……」 「お兄さん……」 自分が退けばなんて、自分勝手な考えだったとようやく思い知った。向き合うべきはサトちゃんでもキタちゃんでもなく、その両方だというのに。 「……でも、俺にはもう、分からないんだ……何を……自分が何をすべきか……」 教え子の友人を毒牙にかけ、その未来を奪った。そして教え子自身の栄光にも泥を塗った。そんな自分が 「……君たちと、一緒にいていいのか……?自分では、もう、そう思えない……」 「お兄ちゃん、顔上げて?」 「……」 言われるまま顔を上げると、やさしい表情の彼女がこちらをみていた。 「……さっき、ダイヤちゃんから聞いたっていったでしょ?お兄ちゃんが酷いことしたわけじゃないんだよね」 「……それは」 どのような経緯であれ彼女と事に及んだのは事実で、ならば、大人の自分が責任を取るのは通りで、 「……お兄さんは悪くないんです。私が、迫ったから……」 袖に縋りついたサトちゃんが俺をかばう。そんなことはない。悪いのは…… 「お兄ちゃんは、悪いよ。最悪。こんなんじゃダイヤちゃん走れないもん」 「キタちゃん!」 「でも、誘ったダイヤちゃんも悪い、でしょ?」 「っ……それは……」 「多分、私の約束の方が後だったんだよね。それを私が抜け駆けしちゃったみたいになっちゃって……」 苦しそうに胸に手を当てながら続ける。 「一回ね、ダイヤちゃんの寝言聞いちゃったことがあるんだ」 「えっ……」 「泣きながら、お兄さん……お兄さん……って、ああ私悪いことしたなって思ったんだ。」 サトちゃんが恥ずかしそうに顔を覆う。しかしどうやら自分の罪は想像以上に重いものらしい。 「お兄ちゃんが私に取られたみたいで悔しかったんでしょ?忘れられてたのが悲しかったんでしょ?……ねぇ」 詰められた少女は小さく首を縦に振った。さながらいたずらを叱られた子供のようだった。 「でもだからって、脅すような真似はよくなかったんじゃないかな。お兄ちゃん優しいから」 「ごめん……なさい……っ……でもっ……ひぐっ……寂しくて……!」 「よしよし……辛かったよね……」 キタちゃんが抱きしめ、サトちゃんは腕の中で泣いた。着物が汚れるのも構わず背中をさする様は慈愛にあふれており、殊更自身の罪を浮き彫りにされている気分になった。 しかし分からない。話の流れが読めない。彼女は俺をどうしたいのだ。俺は一体──── 「……どうすれば……いいんだ……?」 サトちゃんを離して、再びキタちゃんがこちらに向きなおる。 「……ダイヤちゃんと話して、一晩考えたんだ。確かにびっくりしたし、二人で隠し事してて、裏切られたって悲しくなったんだ」 淡々と、誰かを納得させるようにキタちゃんが話す。 「ショックでしんどくなって帰ってきてからも、ずっと考えてて、ようやくわかったんだ」 「私、別に二人のこと嫌いになったんじゃないんだって」 そう言う彼女の表情はどこか晴れやかだった。 「お兄ちゃんのしたことは最低だし、ちゃんと責任取るべきだと思うけど」 おもむろに刀を持ち上げ、抱きしめる。愛着あるものなのだろうか。 「だからって私をほったらかすのは違うと思うよ?だって私まだ出たいレース一杯あるもん」 「君は……ああ、いや」 代わりはいくらでもいる、だなんて、今の話を聞いて言えるほど物分かりは悪くない。彼女は俺を憎んでなどいなかった。さっきの目は、逃げだすことが許せなかっただけなのだ。 「……ダイヤちゃんがしばらく走れないのは残念だけど、でも、別に走るのをやめる気はないでしょ?」 刀を置いてサトちゃんに語り掛ける。 「うん、私もキタちゃんとまだ走りたい。お腹の子もレースも、諦めたくない」 サトちゃんもまだ闘志を燃やしていたとは知らなかった。妊娠後のリハビリについては後で調べることにする。 キタちゃんが立ち上がりこちらに歩いてくる。俺の前で立ち止まり、見下ろす。 「そういうことだから、勝手にトレーナーやめるなんて言わないでね。私にはまだまだお兄ちゃんが必要なんだから」 「……ああ!俺で良ければ、喜んで」 差し出された手に握手で答える。彼女が信頼してくれるなら、俺はそれに全力で答えるのみだ。 「ああ、あともういっこ」 そういうなり目の前で座り込み─── 「えいっ」 ───飛び込んで抱き着いてきた……! 「えっ」 「え?」 そのまま見せつけるようにぎゅーっと抱きしめられる。 「ちょっとキタちゃん!?」 「……ダイヤちゃんに先は越されたけど、お兄ちゃんは渡さないからね!」 いつものように不敵な笑顔の、キタサンブラックの戦線布告だった。 ……子供まで作った相手ってレースでいえばもうゴール目前というかゴール済みというか、それでいいのか……? そんな旨のことをもらしたら、 「いいの!というかお兄ちゃん二人まとめてもらっちゃえば?」 「いやいや……」 「籍は私と入れるとして、キタちゃんが仲のいい居候という体にすればどうでしょうか?」 「えっサトちゃんも乗り気!?」 「えー!ずるい!赤ちゃんの1番抜け駆けしたんだからもういいじゃん!」 「嫌です!どっちも譲りません!」 「じゃあ復帰後!復帰後のレースで勝った方が本妻ね!」 「望むところ……!」 ……俺の存在は優勝トロフィーに成り下がったらしい。その後も俺そっちのけで出場レースの相談で盛り上がっていた。 「「絶対負けないから!」」 「そういえば、その刀何?」 「これ?お守りみたいなものだよ。ほら」 「うわ重た……これ銃刀法とか……」 「さぁ?持ち出したこと無いからわかんない」 「これ……刃、ついてないよね……?」 「……」 「何とか言ってくれよ…」