1 茜色、放課後の静寂が支配していた空間を、唐突にガラリと、ドアを開ける音が差す。 ここはトレセン学園の図書室。一般的な学校の図書室においてある書物から、ウマ娘向けの走法テクニックや精神鍛錬法、果てにはトレーナーとの『うまぴょい』作法なんてものまで多種多様な蔵書が存在している。 よってここを利用するのは主にウマ娘なのであるが、今回は珍しい来客だったようで。 故に、その時図書室にいた数人のウマ娘達――例に漏れず私も――は読んでいた書物から顔をあげ、一斉に入口へと目を向けた。 平均には少しばかり届かない身長に、これまたやや華奢な体躯。端正とまではいかないが優しげで、人に安心感をあたえる顔つき。 そして柔和だがどこか影を落とした瞳。 はたしてそこにいたのは、ウマ娘ハルウララのトレーナーであった。 周囲のウマ娘達の気配がが少し騒めく…彼は今の学園でちょっとした時の人なのだ…残念ながら悪い意味で。 『あ、トレーナーだ!どうしたの?』 そんな図書室の冷えたふいんきなどまるで感じてないかのように、彼の担当ウマ娘である『ハルウララ』が盛大に声をあげた。 図書室で大声をあげる非常識さに、内心眉をひそめる。しかしそれを表には出さず、私は件の彼の話を聞き取ることに集中するため、それまで読んでいた本をそっと机の下に隠した。 『ふむふむ……え?トレーニング?あ、もうそんな時間!ごめんねトレーナー。ここには面白い本がいーっぱいあって、夢中になって読んでたらいつの間にかふわふわーって!寝ちゃってんだ!だからね!元気いっぱい!トレーニング頑張れるよ!…うん!分かった!すぐに準備していくね!』 時計を見る。確かに彼がトレーニング提示していた時刻はとうに過ぎていた。…こういうところは、何度やっても治らないのが本当に情けない。 そんなやり取りを経た後、彼は一足先にトレーニング場へと去っていった。図書室の扉が閉まったその直後、張りつめていた空気が弛緩する。同時に今まで遠巻きに息をひそめていた方々のウマ娘からささやきが芽吹いた。 「あの人が例の…」「やっぱり噂は…」「ウララさんが可哀そう…」 …彼にまつわる悪評を大まかにまとめるならこんな感じである。 曰く『担当馬に適性に合わない練習を強制させている』 曰く『担当馬に異様な執着があり、スカウトの際は大勢の前で泣きじゃくりながら土下座までした』 曰く『ロリコン』 ひどい風評被害もあったものだ。周りからの雑音を振り切るように席を立つ。そのまま流れで机の下に隠していた本を取り出して、本棚に返した。 『メジロ家絶賛!長距離完全走破の心得』『ポニーにもわかる芝の走り方』 結局、バ鹿な私には全部読み切れなかった。また忘れないうちに読みに来ないといけないだろう…もしかしたら、その機会は今回はないかもしれないが。 最後に図書室のドアを開けようとして、ふとガラスに写った自分の顔に気が付いた。――ひどい顔だ。 両手で口角を釣りあげ、そのまま上へ。目蓋をこれでもかというほど開け広げた後、何も考えてないような笑顔でピース。 改めて、ガラスを見直す。 …大丈夫。もう、そこにいたのは私ではない。いつもの『ハルウララ』だ。 『こんなこと言っても、君には理解できないと思う。でも、もう、2度と……いや、一度たりとも、絶対!君にあんな思いはさせない!君の夢は、僕が必ず実現してみせる!それが僕の夢であり、僕のここにいる意味なんだ!』 幾星霜の輪廻の果てに彼が必ず『私』の夢をかなえるのなら、私はその果てまで、必ず彼の夢を守ってみせる。 扉を開ける。さあ行こう。トレーニング場で彼が待っている。 2 「『有馬記念』の、1着!すっごく大変かもしれないけど、わたし、トレーナーにプレゼントしてあげたいの!」 言葉は、呪いだ。一度口にしてしまったらもう取り返しはつかない、劇物だ。 決して軽い気持ちで言った言葉ではない。あの時わたしはほんとの本気で、有馬記念という大舞台で、一番のトロフィーを彼にプレゼントしたかった。 『後方にポツンと一人、ハルウララ』 わたしの前を走る15人のウマ娘達。彼女達の背中に必死にすがろうともがき、喘ぎ、足を出す。 まるで芝が巻き付いたかのように、足が重い。 走れど走れど見えてこないゴール板に、息ができない。 しかし、何よりも彼との約束を果たせない未来が私をとうに追い越し、飲み込んでいく焦燥感が、私の心を黒く深く焦がしていた。 楽しかったはずのレース。 負けても走れるだけで、それだけでよかったはずのレース。 でも今は辛くて辛くて、自らが抱いた勝利への渇望で押し潰されそうで。 『夢の舞台を制したのはスペシャルウィーク!年末最後の大一番を制し栄光のセンターの座を手に入れた!』 張り裂けそうなほどの大歓声。最終コーナー、それを聞いて、私は…足を止めてしまった。 ゴールまであとちょっと。もうちょっと。 立ちすくむ。こんなこと、駄目なのに。最後まで走らなくちゃいけないのに。私の足はもう、動かなかった。 『ウララぁー!!!!』 未だに続く勝者への大歓声。それを縫って彼の声がわたしに届いたのは、もしかしたら奇跡だったのかもしれない。 ゆっくりと、顔をあげる。疲労でぼやけた視界の中で、何故か彼の顔だけは、涙と後悔でぐちゃぐちゃになったその顔だけはくっきりと像を結んで。 『す ま な い』 今度は聞こえなかったけれど、きっと彼はこう言った。 何故、謝るのだろう。 何故、あんなに辛そうな顔をしているのだろう。 決まってる。全て、わたしのせいだ。 わたしの弱さが、無知が、浅ましさが、いや、その全てが。 彼を蝕む呪いとなって、今、あれほどに彼を苦しめている。 その時、わたしのなかでぷつりと、何かが切れる音がした。 目の前が、くるりくるりと3回転。 どさりと倒れた自分の体は、まるで糸の切れた人形みたいだと、他人事のように思った。 もう何も聞こえなかった。あの大歓声も、彼の声も。 視界一面に広がっていた青空も端からどんどん暗くなっていって。 これが、間違え続けたわたしと、彼の結末。でも、もし、もしも過去をやり直すことができたなら。 「あなたを泣かすような願いなんて、もういらない」 その言葉だけ残して、私は目を閉じた。 ――言葉は、呪いだ。分かっていたはずなのに。愚かなわたしはまた、間違えた。 『こんなこと言っても、君には理解できないと思う。でも、もう、2度と……いや、一度たりとも、絶対!君にあんな思いはさせない!君の夢は、僕が必ず実現してみせる!それが僕の夢であり、僕のここにいる意味なんだ!』 再び開いた目の前に広がる景色は、こんなにも呪いに満ちていて。 『えーと、わたしにはよくわからなかったけど…』、 これはきっと、女神様からわたしへの罰。分不相応な夢を抱えて、トレーナーを傷つけて、あげくにレースを投げだしたわたしへの、罰。――でもどうか、彼は、彼だけは。 『夢をおーえんしてくれるのは本当にうれしい!これからよろしくねトレーナー!一緒に一着目指して頑張ろうね!』 その身にかかった呪いが、一刻も早く解けますように。 3 『ごめんなウララ、迷惑かけちゃって』 シニア級、3月の末のこと。 わたしのトレーナーが熱を出した。 お医者さんが言うには原因は睡眠不足と過労による免疫低下、後は食事の偏りによる栄養失調で、数日しっかり休ませれば治るとのことらしい。 蜂蜜舐めるだけの生活なんてしてたらそりゃあ倒れるわい、なんてぷりぷり怒る彼に、わたしは苦笑いを返すことくらいしかできなかった。 彼は『毎回』この時期になると、こうして体調を崩す。 わたしがそれとなく健康に気を付けるように誘導しても、やっぱり崩す。 そもそも トレーナー自身も分かっているのだから気を付ければいいのに、絶対崩す。 こんな調子なので、もしかして何度繰り返しても変えられないうんめいみたいなものがこの世にはあるんじゃないかと……不安になる。 嫌な想像を振り払う。長い長い廊下を歩いて、たどり着いた先はトレーナーの部屋の前。 コン、コン、コン、とお見舞いの品を片手に3回ノック。返事はない。 この日に限って鍵がかかっていないのは分かっているので、何のためらいもなくわたしはドアを開けた。 時刻は深夜。大事なウマ娘に万が一があってはいけないと、完治するまでトレーナーとの接触を禁止されたわたし、『ハルウララ』。 いてもたってもいられなかった彼女は無謀にもトレーナーの部屋へと侵入を試みるのだ。 そしてなんとなんと、この挑戦は運よく成功することになる。 「今思うと、もしかして見逃されていたりしたのかなーなんて。トレーナーはどう思う?」 電気が消え、暗い部屋を迷いなく進む。いつもの椅子に腰かけ、問いかけた。 今ならともかく、あの頃の自分がすんなりウマ娘寮を抜け、トレーナー寮に侵入できる手腕があるとは到底思えない。 そうでなかったら逆にこの学園の警備体制のずさんさを疑うところだ。 「……」 もちろん返事は帰ってこない。当たり前だ。この日この瞬間、ベッドの中で彼が深い深い眠りに落ちていることは予習済みである。 手に持つ袋から、お見舞いの品であるウララ特製蜂蜜漬けうさりんごをとりだす。ご存じの通り、彼はトロットロに甘いものが大好物なのだ。 これを毎回のように枕元に置けばみっしょんこんぷりーと…だった、のに。 きっと、安易に彼の顔を近くで覗き込んだのがいけなかったのだ。 何も見えない空間、すぐそばで彼の存在を肌で感じる。彼の吐息が鼓膜を揺らす。 ただそれだけで、固く硬く被っていた『ハルウララ』の仮面がたやすく剥がされ、わたしが引きずり出された。 「ねぇトレーナー……」 わたしも、一緒なんだよ?ずっと、傍にいたんだよ?だから、『ハルウララ』じゃなくてわたしを見て。わたしを―― 衝動のまま全てをぶちまけそうになるのを必死に堪える。 『こんなこと言っても、君には理解できないと思う。でも、もう、2度と……いや、一度たりとも、絶対!君にあんな思いはさせない!君の夢は、僕が必ず実現してみせる!それが僕の夢であり、僕のここにいる意味なんだ!』 そう、彼の夢はわたしではない、『ハルウララ』を有馬記念で勝たせることなのだ。勘違いしてはいけないし、そもそもこの呪いを彼にかけた張本人であるわたしが言えることなど何一つない。 これはわたしへの罰。分かっている。分かっているのだ。でも――― ――初めての口づけは、甘い甘い、蜜の味がした。 重なりは一瞬で、弾かれる様に顔をあげる。 取り返しのつかないことをやってしまったかのような罪悪感と、それと同じくらいの高揚感に胸が爆発しそうで。 ――あぁ女神様。どうか、今夜、この時だけは、彼を『ハルウララ』ではない、わたしのトレーナーにしたことを許してください。 これ以上の愚行を犯す前に、足早に荷物をまとめて部屋を出る。 鑑を見ずともわかる。きっとその時のわたしの顔は、りんごのように真っ赤だった。 余談として、数日後、トレーナーの完治と入れ替わりに、わたし今まで一度もかからなかった風邪をひき、彼を心配と困惑の坩堝に叩き込んだのだった。 ……案外うんめいなんて、ちょっと足を踏み出すだけで変えてゆけるものなのかもしれない。