結論から言うとウチは赤ちゃんになる。 あの日、ウチは得も言われぬ高揚感に溢れとった。押しも押されぬ天下のオークス。 ウチは遅咲きやったから、ああいうお嬢様~って感じのレースには縁が無かった。 でも別に、嫉妬したりはせえへん。むしろ、ウチに無いものを持ってる連中がガチンコで競う姿をテレビで見て、ウチも負けてられへんと最高に燃え上がっとった。 その日は体調も良かったし、トレーニングも軽めやったから、自主トレで金勝寺のハイキングコース行って足腰鍛えたろ、とウチは思った。栗東寮の子ならあの辺はよく使うし、暗くなる前に寮にも戻れる。 いつものジャージを着て、金勝寺に向かう石段の方にジョギングしていくと、見慣れた大きな三編みが歩いているのが見えたんや。 この辺は一人暮らし向けのマンションも多くて、学園の関係者が多く住んどる建物も結構ある。きっと、あいつもトレーナーの部屋にでも行くのかもしれん。と一瞬考えた。 学園は婚活会場やないで、といつもの説教でもくれたろかと思って、後を追いかけようと思ったんや。 そのうち、何か様子がおかしいなと思た。まず、歩速が早い。走ってるわけでもないのに、ずいぶんと急いでるように見えた。 声を上げて呼び止めても良かったんやけど、いつの間にか、それも躊躇うくらいには離されてしもた。どうにか背中は見失わないように追いかけると、予想通り、ワンルームって感じのマンションに入っていくのが見えた。 でも、そこもまたおかしな場所やった。 最初は、こう、喩えに使たらオッチャンらに悪いかもしれんけど、野田の卸市場みたいな臭いやった。静かぁなマンションで、人の気配もほっとんど無かったのも嫌らしい感じやった。 人が住む家なら、何かしら気配がするのは至極当然や。でも、その時はひどく嫌な予感がした。様子のおかしい母もやけど、そこが随分と荒んだ建物だったんや。 ヒト気のない割に、どの窓も網戸がきっちり閉められて、建物の中に入って廊下を見ると、どの部屋もドアがボロボロやった。 仮にも学園の関係者が住んでる建物が、こんな西成でも見ないような状態になってるわけがない。 そんな中、ウチの目は見逃さなかった。母の影が廊下の奥でふっと横切り、部屋の中に入っていったのを。 こんなことをしているウチは、出歯亀か何かかもしれん。でも、こんな建物でどうにかなっている母をほっぽっておくことも出来ひんかった。 半壊したドアに身を隠しながら、ウチはメイクデビューよりも緊張しとった。何分経ったのか、何十分経ったのかもわからん。ただ、この建物の中でじっとしてると、えらい気分も悪なってくるようやった。 聞き耳立ててるのはこっちやのに、どこか見張られてるような、そんな視線を感じる。ウチが芦毛だからとかもたぶん関係無い。応援してくれはるファンとも、やらしい目で見る不埒なオッサンとも違う、無感情な視線。 落ち着かない心地の中で、母のいる部屋からは、何か聞き取れない言葉といくつかの衣擦れの音が聞こえてきて、心臓が掴まれるような気がした。 じきに、何かが軋むような、水を叩くような、そんな物音がかすかに聞こえ始める。 これ以上はアカン。理性はそう言ってたけど身体はもう止まらんかった。 ウチは見た。蛙のような、犬のような、ヒトならざる姿勢のトレーナーを。その傍らに控え、グロテスクな場所に、熱心な奉仕を施す母の姿を。 柵のついた寝床から見上げるように、冒涜的な意匠が施された飾りが吊るされて、UMAのような嘶きと共に、水音がもう一つ増えて、あの忌々しい臭いが周りに広がった。 なんてものを見てしまったんや。呆然とするウチと、母の目が合った。ああ、母の手が伸びてくる。 ウチを抱き上げる。優しくキスをする。生臭い臭いに包まれて、ウチは母にお世話される喜びに満ち満ちて、春天の日の朝よりもぶるぶると震えていた。 目覚めたウチが最初に見たのは、見慣れたいつものあの大食いの、すぐ目の前にある背中やった。どうやら、石段の下で居眠りしているウチを大食いが見つけて、寮までおぶってくれてたらしい。 結局あの後、学園で見た母はいつもの母で、あの時見た面影は微塵もなかった。学園の近くの荒廃したマンションなんてものも、噂一つもなかった。 根詰めてトレーニングをし過ぎて、変なモンでも見たのかもしれへん。そう思って、半月ほどゆっくり休んだら、気分もだいぶ良くなって、ウチと母と大食いと、三人の日常はすぐに戻ってきた。 でもウチは、その後もずっと覚えていたんや、おしゃぶりのシリコーンゴムがもたらす安らぎを。スモックに身を包んだ時の高揚を。あの時感じた母の温もりを……。