2. 「ここ、いいですか?」 食堂でカップを傾けている私に横から知らない声が掛かる 横目をやれば苦笑いを讃えた若い男性が、トレーに珈琲カを乗せてこちらを見ていました 「どうぞ、他に席が空いていませんから」 「助かるよ」 彼がゆっくりと椅子を引いて座ると手元と同じ香りがこちらに届きます つられるように顔を上げれば彼も私のようにこちらを見ていました 「君も珈琲が好きなのかい?」 先ほどとは違うふにゃりとした笑みで彼はこちらを見つめていました 「はい」 「そっか」 思えばこうして誰かと珈琲を飲むのは初めてでしょうか 珈琲を好む人は私の周りにほとんどおらず、食堂で一人嗜む程度です 「美味しいね」 黒い水面に視線を沈ませて物思いに耽っていると急に声を掛けられました 「そうですね」 返事をするとまたへにゃりとした顔をする彼。胸元に小さなバッジをつけてます 汚れや削れた跡もほとんどないそれは、彼が新人のトレーナーであることを示していました 「……勧誘ですか?」 自慢ではないのですが、私はよくスカウトを受ける程度には実力のあるウマ娘で 彼もその手合いでこうして同席を願ったのだろうと思いましたが、彼は困り眉でちがうよと否定しました 「次の選抜レースを見てからスカウトする子を考えようかなって思ってるんだ」 「そう……ですか」 「だから今は珈琲の友だね」 「……次の選抜レース、私も走ります」 「そっか」 頑張ってね、珈琲の友として応援してると彼は言いました ちょっとだけ、レースの感想を二人で珈琲を持って話すのも悪くないかなと思いました 「はっ……はっ……」 ゴール板を走り抜けて振り返ればまだ2着は決まっていなかった 差し切った上で圧倒的大差での勝利 しかし心にはしこりが残ったまま アグネスタキオン。超高速と呼ばれる彼女が今日の選抜レースに出場するはずで 彼女がこのレースに参加しなかったから私が1位だったと心の中の誰かが叫んでいる そんな心の声を振り切るように観客席を見た 多くのトレーナーたちの目は私に向いていたが私が探している姿は見えない (どこに行ってしまったのでしょう) ゲートに入る前には観客席に居たのを覚えているし、新人のトレーナーだと名乗った彼が重要な選抜レースを見逃すとは思えない 声を掛けてくる多くのトレーナーたちをかき分け姿を探すが一向に見つからなくて そこまでして、どうして私が彼を探すのかふと疑問を覚えた 彼は新人で未熟のはずなのに何故私は誰よりも彼の姿を探したのだろう 速くなりたいのなら、勝ちたいのなら彼以上の選択肢は多く開けているのに、どうして 心のしこりと疑問を抱えながらレース場を後にして着替えた私は 彼に向って熱心に話をするアグネスタキオンの姿を見ることになる さっきよりも大きなしこりを抱えながら 私は何も言わずにその場所を去った 3. こんにちわ、もうそろそろこんばんわですね あなたがトレーニングの間からずっとここにいたので来ただけですよ どうぞ、温かい珈琲です。食堂で二人分買って来ましたから 今日もきっと彼女は来ませんよ。帰った方がいいと思います それでもタキオンが来るかもしれないからギリギリまで待ちたい、と ずいぶん彼女を信頼しているんですね、ロクに練習に来たこともない彼女を 信頼じゃない?あなたが待ちたいから待っているだけですか ……珈琲を飲んでいる時でも、あなたは私の知らない目をするようになりましたね 私はそろそろ戻ります まだ冷えるので風邪にはお気をつけて 珈琲、今度はあなたが買ってきてくれると嬉しいです モルモットさん おーい、待ってくれモルモット君!今日は走る!走るから! ようやく実践段階まで進んでね!タイムを計ってくれたまえよ! はははっ!どうだったモルモット君!我ながらなかなかのタイムで走れたと思うよ! 記録を見せてくれたまえ!ほらそのストップウォッチをこっちに見せて! んんー……?いや、それよりもまずは記録だ ほう、いいタイムじゃないか。私の理論は間違っていなかったわけだ しかし君、まさかこんな時間までトレーニング場にいるなんて思わなかったぞ 偶然帰ろうとするところが目に付いたから声を掛けたがずっと待っていたのかい 本当に献身的じゃないか、私も驚くほどだよ タキオンと共に果てを見るならなんでもする? 本当に君は……いいやなんでもないさ しかし私と共にというなら、まずはその鼻につく匂いを落としてくれ どうにもその苦い匂いは好きになれないんだ 4. ……おつかれさまです、珈琲を淹れました 申し訳ない、ですか。急に押し掛けたのでこれくらいはさせてください 急にトレーニングが休みになって……行くところがなかったので 私は交友関係があまり広くなくて、偶然でも誘っていただけて助かりました 友達のところに行けばよかったのでは、と 今日は殆どの方が寮に戻るまでトレーニングの時間で予定が合いません ……タキオンさんは知っての通り研究に没頭してラボから出てきませんし 食堂や図書室で一人で過ごしているのも悪くはないのですけど それ以上に誰かとこうしてマグカップを傾けている時間が恋しくなったんです あなたの仕事の邪魔にはならないようにしていますから、もう少しだけここに居てもいいですか? ……嬉しいです、モルモットさん そういえば、棚にあったマグカップを勝手に使ってしまいました そう……大丈夫なら、いいです ふゥん、こんな時間まで仕事かい こんなに珈琲ばかり飲んで……トレーナーの方が不健康になってしまっては笑えないぞ どうしてこんな時間にって、私は少し目が覚めてしまっただけだよ 研究も大事だけど、私だってレースに出るウマ娘なんだ。体調管理くらいしっかりやっているさ それより君のことだ。ほら、反応がいつもよりも遅れている 作業も先ほどから少しも捗っていないみたいじゃないか 今日はもう休んで明日に回した方がいい 私のスケジュールを組んでくれていたんだろう?確かに大切だが、君が健康でいてくれる方が大事だよ 君の取り柄は健康で丈夫であることなんだから、そうじゃなくなったら君を被検体にできなくなってしまうだろう? はは、担当バの照れ隠しだから素直に騙されておくれ お休み、モルモット君。また明日 誰が使ったのかは言及しないが 私のマグカップ、ちゃんと珈琲渋を落としておくんだよ 5. 不意打ちでキスをしたことがあります 珈琲から口を離してカップを置いた所に、机に向かっていた彼の横から唇を合わせました あの人はその瞬間から固まってしまっていたので、私は少しだけ舌を舐めて離れたのです 私にとっては初めてのキスでどうして急にその、しようと思ったのかはもう思い出せないのですが その一回だけです キスをする時に目を合わせてくれたのは、その一回だけ それからはキスをする時も、受け入れてくれるようになりましたが決して至近距離で目を合わせようとはしてくれないのです ここまでだ、と言われているような気分になります だけどたった一瞬近くで見たあなたの瞳に宿る紅い狂気と そのもっと奥に見えた昔のあなたのやわらかい光が ずっと忘れられないのです、モルモットさん ……ああ、キスをしようと思った理由を思い出しました 寂しかったのです あの子を追って走り出した私が走るのは、誰とも景色を共有できない孤独なレースです ゲートに並ぶ他の誰とも競わず私は自分の先を行くあの子の背中だけを見ている 彼のトレーナー室の窓からコースを並走するウマ娘たちを見て、そのことが急に寂しくなりました このままトレーニングを続けてレースに出る誰よりも速くなって 名だたるG1に勝利したとしても、私があの子に勝てなければ私は私を許せない 例えあの子に勝ったとしても誰とも勝利も敗北も分かち合うことはできないのです それが寂しくて心に罅が少しずつ広がって、罅から不安が沸き上がりました 果たして私はこのままあの子と私だけの世界に閉じ込められたままなのかと 以前であれば何とも思わなかったのに、それが急に孤独に思えて、不安定になって 誰かとの繋がりを求めた結果のキスだったのです 苦い味がしました。モルモットさんが飲んでいた珈琲の味で私が飲んでいた珈琲の味 同じだと思って、あまりにも簡単に救われてしまったんです あなたと私はわずかなつながりでも同じものを分かち合えるのだと知りました からーい!!モルモットくんまたあのマウスウォッシュ使ったのかい!? キスの時に辛い気がするんだよーやめてよー捨てようよー またカフェとキスしたんだ?わかるよ君がそれを使うのは決まってカフェとキスしたあとだ 確かに最初にキスのあとに苦いと言ったのは私だけど君だって普段から珈琲くらい飲むだろう? あの時は殊更苦かった気がしたけどいまさら気にはしないよ 怒らないのだって君が私から離れていくことはないと確信してるからだ 最後に私の隣にいればいいだなんて言えるほど私の心は広くはないが 君がずっと隣にいてくれるならそう信じさせてくれるならそれくらいは目を瞑るさ ほらそんな似合う顔をしないでもう一回いやもっとたくさんしよう 目を瞑るとは言ったが私の心が広くないとも言っただろう? 嫉妬してないわけじゃないんだ もっと私のものであることを信じさせてよ、モルモット君 それと……たまには私と紅茶を飲んでくれると嬉しいよ 1. まだ寝ててもいいですよ 珈琲の匂いがして目が覚めたんですね。いい香りですか、ありがとうございます どうぞ。インスタントでごめんなさい、アナタの部屋にはミルがないので 今度一緒に買いに行きませんか?見ているだけでもきっと楽しいでしょう ……確かに、この部屋に置いておくのは難しそうです こうして誰かと一緒にカップを傾けるなんて、少し前までは想像もできませんでした タキオンさん?あの人はちょっと違います。こちらの時間に無遠慮に踏み込んでくるだけ いいものですね、同じものを共有できるって 私は私にしか見えないあの子を追いかけてここまで来ました けれど最近はあの子に追いつくため以外の理由で走ってもいいかなって思います どんな理由かは聞かないでください、我慢ができなくなってしまうかもしれないので もう行かれますか?そうですか、お弁当の準備があるんですね ふふ、まだ言ってませんでした おはようございます、モルモットさん やあやあカフェ!こちらを見て露骨にため息をつくのはやめてくれないか! まったく、さすがの私もちょっと傷つくぞ…ウソ泣きでもしてみようか 何の用ですか、ってそりゃ食堂に君がいたから声を掛けに来ただけだよ いいじゃないか君と私の仲なんだし。嫌そうな顔をしないでくれないか それでどうだったか聞かせておくれよ 何を、だって?君が朝、トレーナー君の部屋から出てきたことだよ。ぜひ感想を聞かせてほしい 同じものを共有できる、だったか。それならまさに私と君は同じものを味わったのだから 何故知ってるかなんて私は私のモルモット君を経過観察する義務があるからね そこまで知っていて何故許したのかって……別に一晩くらい許せないわけじゃない あの選抜レースで彼が選んだのは私なんだ 彼があの瞳を私に向けている限り私の元から離れることはないよ、カフェ