※時系列バラバラ @ 壁一枚先でトレセン学園の外壁を大粒の雨が洗っている。 出力のツマミをでたらめに弄り回しているみたいに雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。 だが室内にあっては騒々しく響く雨音もどこか他人事だ。 どちらかといえばラップトップが奏でる空冷ファンの微音と小気味よく鳴るキーボードの打鍵音の方が身近だった。 「ねーえー、まだ終わらないのー?マヤもう待ちくたびれちゃったよー」 「始めてからまだ10分も経ってないでしょう。もう少し待っててね」 不満げな猫のように可愛らしい唸り声が膝のあたりから響いてくる。 訂正。一番身近な音は図々しく私の膝を枕にして応接用のソファに寝転がるこの子猫だ。 私がトレーナーの事務室で事務仕事を片付けるのにわざわざ「このソファでやって!」と言って譲らなかったのはどうやらこうしたかったかららしい。 「たーいーくーつー。トレーナーちゃん、早く終わらせてデートしようよー」 「デートって…。この大雨の中で何処に行くつもりなのよ」 不満たらたらのマヤノトップガンの要求に思わず苦笑した。 この子がこんなところでだらだらしているのも朝から降り続く大雨のせいで1日のスケジュールが滅茶苦茶になったせいだ。 室内で出来るトレーニングは済ませてしまったマヤノトップガンが「トレーナーちゃん!」と事務室へ襲来したのがつい先程のこと。 甘えたがりの子猫は私の膝を枕にした最初の内は気分良さそうにしていたが、飽きっぽいのもまた彼女の性質だった。 「むー。だって今日はずーっと雨が降っててずーっとつまんないんだもん。  こういう日に限って暇な友達いないしさー。マヤはホールディングパターンでずーっと旋回飛行中でーす…」 ぷー、と風船のように頬を膨らませてマヤノトップガンがぼやく。 大人のオンナになる、と常々口にしてる割には彼女の甘えん坊ぶりには拍車がかかりつつある気がする。 所構わずべたべたくっついてくるし、いつでも側にいようとしてくるのだ。 あのナリタブライアンさえ破った、今やトゥインクル・シリーズきってのトップスターなのに。 「そう?私は雨も悪くないと思うわよ。自分が濡れなければね」 「えーっ?でもでも、外で思いっきり走れないんだよ?それってキラキラしてないじゃん」 「確かにずっと続くようだと困るけれど、たまにならいいじゃない。  雨音がする中で静かな部屋にいると、まるで水没した空間にぽつんとひとりいるみたいで少し寂しげなのが心に沁みるでしょう」 視線は青白い画面に向けたままで、かたかたとキーボードを走らせながらマヤノトップガンに答えた。 事務室の他のトレーナーの机は空っぽだ。皆先に帰ったか、自分の担当のウマ娘に付き合っているのだろう。 大雨が降る中、照明を落とした薄暗い部屋でモニターの薄ぼんやりとした光に照らされていると、潜水艦のクルーにでもなったような気分になる。 マヤノトップガン風に言えば大雨の中のフライトだろうか。それはそれできっと揺れるだろうからこの静けさとは違うものである気がする。 「わぁー、トレーナーちゃんなんだか大人っぽーい」 「ぽい、じゃなくて大人なんです。まぁどう感じるかは人それぞれだけれどね」 「ふーん。…でも、そっかー。言われてみるとー…。あ。マヤわかっちゃったかも」 そう言うと彼女はごそごそと身をくねらせて起き上がった。 ラップトップに向き合う私の横へ座ってぴったりと身体をくっつけてくる。 露出している袖の先の肌へ、私のより高い彼女の体温が服越しにじんわりと伝わってきた。 「マヤノ?」 「えへへ。デートはデートでもおうちデート☆」 「ここ、私の家じゃないじゃない」 「じゃ事務室デート☆」 悪びれずそう言ったマヤノトップガンの可愛らしさにくすりと微笑んでしまった。 作業の手を止め、彼女の顔を見つめる。まだまだ幼さが色濃く残るが悧発そうな少女の細面が楽しげに笑っていた。 たっぷりと光を湛えた大きな瞳が私への強い信頼感に彩られながら私を見つめ返していた。 「トレーナーちゃん、マヤのこと忘れちゃ駄目だよ。ひとりきりなんかじゃないんだから。  マヤがいるからふたりきりなんだよ。ふたりきりだから寂しげなんじゃなくてドキドキするの。きゃーっ♪」 「あはは。ひとりきりじゃないというのはそうかもしれないけど、ドキドキはどうかなぁ」 「あーっ!だーめー!トレーナーちゃんもドキドキしなきゃいけませんー!」 はにかみながら笑っていたのが一転、眉を吊り上げてマヤノトップガンがぷんすかと怒る。本当にころころ表情の変わる子だ。 なんて和んでいた私は油断していた。 「うん。トレーナーちゃんはすぐ他の子に浮気するし、この際だからはっきり言っておかなきゃねっ!」 おもむろに彼女はソファの上で膝立ちになると、私の膝を跨いでその上に座ってきた。 丁度彼女とは向かい合う姿勢になった。膝の上に座っている分、普段は下にあるマヤノトップガンの視線が私よりやや高くなった。 光源は曇天から窓を通して差し込む微かな光とモニターの逆光だけ。 仔細がはっきりしないその照明が逆にマヤノトップガンの顔立ちを浮き上がらせていた。 ついぎくりとしたことを否めない。 何事も『分かって』しまう天才は常日頃からその稚気を振りまいているのでなかなか気付かせないが─── 今真剣な表情で私を凝視している彼女は、目鼻立ちのくっきりと整った物凄い美少女なのだ。そのことをつい忘れがちになってしまう。 彼女の行動の意図を読みきれていない私の肩をマヤノトップガンはその小さく華奢な両手できゅっと掴んだ。 「マヤね。わかったんだ。デートって別に何処かに遊びに行くだけじゃないって。  それだったら友達とも出来ることだもん。でもホントのデートはね、それだけじゃないの。  一緒にいたい人と一緒にいるっていうのがデートなんだよね。だからこれもデートなんだよ。  だからトレーニングしてる時も、お出かけしてる時も、何もして無くても、一緒にいたらそれはデートなの」 「…マヤノ?」 「トレーナーちゃん。ひとつ言っておくね。  マヤはトレーナーちゃんのこと大好きだよ?  でもマヤはまだ大人のオンナじゃないからトレーナーちゃんはそういう風に見てくれないのは分かるけど…」 くふ、と唇を曲げたマヤノトップガンの笑みが微かな灯りの中に浮かび上がった。 とろんと蕩けた半目。彼女の歳には似合わないはずがやけに印象的に映る、どこか妖艶な表情。 濃霧で形作られているみたいに掴みどころがなくてじっとりと湿った視線が引力でも放っているみたいに私の目を逸らさせなかった。 ごくりと喉が鳴った。びっくりするくらい大きく響いたそれが自分の喉から鳴ったと気づくのには時間がかかった。 夕方に差し掛かるにつれ、徐々に暗さを増していくトレーナーの事務室。 もしそこに誰かが入ってきたとして、自分の担当ウマ娘に伸し掛かられている私を見られたら何をどう説明すればいいのだろう。 「いつかアタシもホントの“大人の女”になって、そういう意味でもトレーナーちゃんを振り向かせてみせるから。  …だから、ずーっとマヤだけを見てないと駄目なんだからね?トレーナーちゃん?」 雨は降り止まず、ざあざあとひたすらに耳を打つ。 ただそれだけの音で満たされ静寂だったはずの部屋は、一回りも歳下の子の繊細な指先に唇をなぞられた私の鼓動の音で随分うるさくなってしまった。 A 「ねえねえトレーナーちゃん。飛行機に乗って海外に遊びに行くなら何処へ行きたい?」 なんて声は私の背中の上から聞こえてきた。 そうねえ、とひとしきり考えてみたはいいものの、口をついて出たのは実に凡庸な答えだった。 「やっぱりハワイとか、南の方の島とか。海が綺麗なところがいいな」 「わぁ、海かぁ…夏の合宿所の海もキレイだったけど、そういうところの海はもーっとキレイなのかなぁ?」 「たぶんね。そう言うマヤは何処へ行きたい?」 耳元で「ん〜」と唸ったマヤノトップガンは、ややあって私の首に回している腕の力を少し強くした。 「マヤね。行ってみたいところはいっぱいあるけど、トレーナーちゃんが一緒なら何処でも楽しい気がするんだ〜」 嬉しいことを言ってくれる。 えへへ、とはにかみ笑いを付け加えるマヤノトップガンの声音はどこか輪郭が曖昧で眠たげだ。 それはそうだ。さっきまで私に背負われたままぐっすりと眠っていたんだから。 ウマ娘の強靭なスタミナといえど朝から一日中アクセルベタ踏みのテンション最高潮でいれば限界があったようだ。 帰り際になってふと気がつくと、ガソリンが切れた車のように完全に機能停止してベンチの上で眠りこけていた。 しかし、彼女の好みを思えば今日彼女がひたすらはしゃいでいたのも無理からぬことだろう。 重賞を制したご褒美に日本最大級の航空ショーへ連れて行くことを伝えたときのマヤノトップガンの瞳の煌めきはまだ忘れられない。 企画したのは一泊二日のちょっとした小旅行である。彼女の喜びようといったら落ち着かせるのにかなり苦労したほどだった。 「でもでもっ、トレーナーちゃんはきっとおっきなレース場がある国に行きたいって言うと思ってたよ。  海とか美味しいものとかもいいけど、やっぱりマヤたちにとって一番ドキドキしてキラキラしてるところっていえばレース場でしょ?」 「パリとかドバイとか、あとはロンドンとか?うーん、気にならなくはないけど観光で行く気は無いかな」 「えーっ?どうしてどうして?トレーナーちゃんは海外のレース場じゃワクワクしないの?」 「だって、いつかマヤとそこに行くのは一緒に出走するウマ娘をみんなやっつけにいく時でしょう」 マヤノトップガンが小さく息を呑む微かな音さえ彼女をおんぶしているとよく聞こえる。 本気で言った。この子には無限の可能性がある。今はまだ早いけれどいつかは世界のレースにだって手が届く。 並み居る海外の強豪を蹴散らすマヤノトップガンの姿だって夢ではない。彼女のトレーナーとして、そう心の底から信じている。 「…もしマヤがそこで一着でランディングしたら、トレーナーちゃんもすごぉーくドキドキしてくれる?」 「もちろん。すごぉーくドキドキすると思うわ。きっとマヤノならそうさせてくれるって信じてる」 「…そっかー…えへ、えへへへへ…♪」 照れくささと嬉しさが綯い交ぜになった笑い声を溢しながらマヤノトップガンが私の首筋に鼻先を埋めてきた。 吐息や彼女の前髪が首をくすぐるせいで少しくすぐったい。気を取り直すように軽く背負い直した。 バスを降りた足取りはまっすぐホテルの方へ。街灯が灯りだした宵闇の中をこつこつと靴の音を響かせつつ街路を歩く。 先程起きた時に「…もうちょっとだけおんぶされたいな」なんて可愛らしいことを言ったお姫様を途中で下ろすこともなく、もうすぐ到着するところまで来てしまった。 背中の上の姫君は私でも易々背負えるくらい軽い。いつもこんな子に胸弾む体験をさせてもらっていると思うとどこかむず痒さも感じた。 遠目に宿泊先の大手航空会社が経営している大きなホテルが見えてきたあたりでぽつりとマヤノトップガンが言った。 やはり眠たげではあったが、どこか芯の通った言葉だった。 「トレーナーちゃん。今更と思うかもだけど、いつもありがとね。  マヤのこといっつもドキドキさせてくれたり、ワクワクさせてくれたり、キラキラさせてくれたり。  あと、ちょっとずつ大人のオンナに成長させてくれてるのはいつだってトレーナーちゃんだなって。…今日連れてきてもらってなんとなく思ったんだ〜」 「あはは。本当に今更だね。私だって同じ気持ちよ。いつもマヤノに夢中だもの」 「ホント?じゃあさトレーナーちゃん、マヤとおんなじ気持ちっていうなら今のマヤの気持ち当ててみてよ。ユー・コピー?」 そんなこと言われても。マヤノトップガンを背負っているせいで彼女の表情さえ見えないのに。 街灯が投げかけるスポットライトをひとつひとつ潜りながら難題に頭を悩ませたが、出た答えはやはり凡庸だった。 「今日は楽しかったな〜、とか…あと一日中駆け回ってねむ〜い、とか…?」 「ぶぶーっ!ちがいまーす!ううん違わないけど、ちがいまーすっ!」 どっちなんだ、と突っ込みを入れようとした私を背中の上のマヤノトップガンがぎゅっと抱き締めてきた。 服越しに彼女の鼓動さえ伝わってきそうなくらい、強く。すう、と響いた彼女の息継ぎの音さえどこか艶かしく聞こえた。 「───マヤはね。今すごぉーくドキドキしてるよ…?だいすきなトレーナーちゃんとぴったりくっついてて…。  だからさっき起きた時から、ずーっとドキドキしてる。思わずわわって飛び跳ねちゃいそうになったくらい。トレーナーちゃんはどう…?同じ気持ち…?」 …春の夜を思った。新鮮でぷりぷりとした肌触りで、生温く肌を愛撫していく春の夜の風を。 そのくらい色っぽくて暖かく湿った囁きが私の耳朶を打った。 “大人のオンナ”にはまだまだ遠いはずのマヤノトップガンが口にしたとはとても思えないような、どこか妖しげな響き。ついぎょっとして振り返ってしまった。 私の顔の間近には、まるで“大人の女”みたいな艶やかさと年頃の少女らしい若々しさを同居させた眠り姫の微笑があった。 B 「トレーナーちゃんはね〜。もし結婚するならどんな結婚式にしたい?」 「…え?なんて?」 なんてことをマヤノトップガンが言ってきたのでつい聞き返してしまった。 新幹線の指定席にふたり並んで座っていた時のことだ。 珍しくマヤノトップガンが女性誌を読み耽っていたので私はラップトップで予定表の整理をしていたところ、唐突な質問だった。 「だからね、結婚式!トレーナーちゃんはそういうこと考えたこと無いの?」 トレーナーちゃんはマヤの話ならいつでもちゃんと聞いてなきゃ駄目なんだから〜、と頬を膨らませながら見せてきたのは女性誌の誌面だった。 なるほど。プライダル特集。女性誌なら年に1度は掲載していそうな内容だ。 「うーん、どうかしら。あまり積極的に考えたことはない…かな。誰かと付き合ったことも無いし」 「えーっ!?トレーナーちゃんは大人のオンナなのにコイビトいたこと無いのっ!?」 「そ、そんな言い方は傷つくなぁ!?その通りだけどさ…」 マヤノトップガンの悪意が無いせいで余計に辛辣な台詞が心を抉っていった。 悪いか。トレーナーになる夢を追いかけるのに必死で色恋のひとつも経験してないやい。 「ふーん…そっか、そうなんだ…えへへ…」 「何で嬉しそうなんだろう…」 「じゃあねじゃあねっ、想像だけでもいいよっ!  トレーナーちゃんが想像してみて、大人っぽ〜い、素敵〜っ☆ってなる結婚式!どんな感じ?」 そう聞かれるといきなりでは難しい。つい唸ってしまった。 思い巡らせてはみるが、トレーナー業以外のことは門外漢なのでさっぱり分からない。我ながら貧困な想像力だ。 結局どういう式がいいかではなく規模を答えてしまうのが貧乏くさかった。 「そんなに大きな結婚式でなくてもいいかな…。お世話になった人を何人か呼べれば、それで」 「ぶーぶー!トレーナーちゃんがそんな寂しいこと言っちゃだめー!  キミの結婚式ならきっと行きたい人いっぱいいるよ?  マヤならね、招待状たくさん出していーっぱい人呼んじゃう!式場はホテルがいいかなぁ?それとも教会とか?  とにかくたくさん人が呼べるところ!出来るだけたくさんの人に祝ってもらいたいな〜」 嬉々としてマヤノトップガンは語った。目がきらきらと輝いている。 確かに賑やかな結婚式はこの子にぴったりだ。なるべく明るくて華やかであってほしいと思う。 赤い絨毯の上を歩くマヤノトップガンを想像しただけで思わず温かい気持ちになっていた。 …いやそうでもない。ちょっと、いやだいぶ寂しい。これが子をやる親の気持ちなのか。 きっとパパノトップガンは号泣するんだろうな…なんて勝手な妄想をひとまず追い払う。 「そっか。それがマヤノのキラキラしてる結婚式なんだ」 「うん!今はね、まだそういうのちゃんと考えるのは早いかなとは思うんだ。  今のマヤにとってはターフの上が一番キラキラでドキドキの場所だから。飛べるところまでずっとず〜っとフライトしてたい!  でもいつかは次のキラキラした場所を探しにランディングギアを降ろさなきゃいけないんだよね。  その時になったらオトナになったマヤがオトナの結婚式するんだ〜♪」 はにかみ笑いをするマヤノトップガンが可愛らしくてつい微笑んでしまった。 まだ彼女はレースという航路へ離陸し飛び立ったばかりだ。着陸の滑走路はまだ遠い彼方の海の果て。 でもその先のことに憧れを持つくらいは年相応でいいじゃないか。くすぐったい微笑ましさがある。 …と、マヤノトップガンが眺めているページに違和感を覚えて指摘してしまった。 「それ、タキシードの一覧だよね?ウェディングドレスのページは見ないの?」 「そだよ?だってマヤが着るのこっちだもん。  ウェディングドレスは綺麗だしマヤも着てみた〜い!ってなるけど我慢しなきゃね〜」 きっとその頃のマヤはオトナになってるから我慢できるっ、と今から決意を固める彼女が謎だ。 「あの…マヤノ?マヤノは女の子なんだから普通にドレスを着ればいいんじゃ…?」 「…?だって」 それが至極当たり前だとでも言いたげな顔をしてマヤノトップガンは言った。 「マヤはね、どっちかというとウェディングドレスはキミに着せたいの」 「…へ」 「で、マヤはこっちの服着てキミをエスコートするの。頑張るから楽しみにしててねっ♪」 こちらの顔を見つめて柔らかく破顔する彼女の表情がやけに男前に見える。粘つく舌を動かして、どうにかこれだけ言った。 「…そういうのはどっちもドレスを着るんじゃないのかなぁ」 「あ、そっか!そういうのもいいんだ!わぁ〜、やった〜!マヤもドレス着れるんだ〜!」 …あれ?私本当にこの子のお嫁さんにされる? 無邪気に喜んで更に熱心に特集へ目を通す少女の横で、作業が全く手につかなくなった。 C 有マ記念を取ったら大人のデートしたい!などと彼女は言い出した。 それをはいはいと笑って流さず、店に予約を入れて本気で用意したのはあの子の勝利を確信していたからであり─── 事実。マヤノトップガンは見事なフライトで周りの雲を吹き飛ばして青空へと飛び去り、そうしてこの席に座っていた。 「い…いいのかなぁ!?マヤ、こんなところにいていいのかな!?ちょっと大人過ぎるんじゃないかなぁ!?」 「大人のデートしたいって言ったのはマヤノでしょう?それともイヤだった?」 「ううん全然っ!すっごく素敵!想像よりもっとしっとりした大人な雰囲気でわーっわーってなってる!  でもマヤちんはちょっと不慣れな飛行コースなのでコックピットで緊張気味ですっ!」 言葉通り、お洒落な余所行きのお洋服に身を包んだマヤノトップガンはスツールの上でやや縮こまっていた。 微かに赤らんだ表情がやや固いのも初々しくて可愛い。確かに彼女の年齢ではこういうところに縁は無いだろう。 海の底にいるみたいに照明を絞られたここは本来酔客のためのお店だ。 バー。───ただしトレーナーとその関係者にのみ利用が許される会員制のバーである。 「トレーナーちゃんはよくこういうところに来るの?」 「…まあまあかな」 嘘です。嘘をつきました。よく来ます。お酒大好きです。 とはいえ酔っ払った状態でマヤノトップガンを寮まで送るわけには行かないので今晩は控えめだけれども。 運ばれてきた酒精の薄いカクテルで唇を湿らせていると、ノンアルコールのカクテルを前にした彼女がふわぁとため息を付いた。 「今日のトレーナーちゃん、いつもよりすっごく大人っぽい…」 「うーん、そうかな」 「いつもはちょっと野暮ったいジャケットとデニムパンツ姿なのに…」 「いつもそんな風に思ってたの!?」 ショックだ。精一杯普段着の範囲でお洒落していたのに。 内心深く傷ついて思わずウィスキーをロックで頼みたくなった私の前でマヤノトップガンがカクテルをひと舐めした。 瞼が瞬く。影色の照明の下で、大きな目がぱちぱちと。 「…大人の味がするね…」 「アルコールこそ入ってないけどカクテルには違いないから、それは間違いなく大人の飲み物だね」 「そっかぁ。これが大人なんだ…」 黄金色の飲み物を彼女はしげしげと見つめた。 今やトゥインクル・シリーズを代表するウマ娘であり、数え切れないほどの大人たちを熱狂させるアイドルは今大人の一端に触れて何かに戸惑っているようだった。 こんなカクテルで触れられる“大人”なんて、本当にごく些細な一端でしかないけれど。 「…トレーナーちゃん。今日はありがとね。なんだかマヤ、すごく大人っぽいことした気がするの。  友達とは絶対に行かないようなすっごくお洒落なレストラン行って、すっごくお洒落なもの食べて…。  今はすっごくお洒落な飲み物飲んでる。全部トレーナーちゃんが教えてくれたことなんだよね。  今日だけじゃなくて、トレーナーちゃんはいつもマヤにオトナを教えてくれてるんだ」 「…ねぇマヤノ。そのカクテル、なんていう名前か知ってる?」 「?」 「シンデレラっていうの」 一瞬キョトンとしたマヤノトップガンだったが、次の瞬間にはまだあどけないお姫様の笑顔がそこにあった。 これが見られただけで、今日彼女をここに招待した甲斐を感じた。 「分かっちゃった!じゃあマヤは今トレーナーちゃんに魔法をかけられてるんだ!」 「私に使える魔法なんてこのくらいだけれどね」 「ううん!トレーナーちゃんはもっともぉ〜〜〜っとたくさんの魔法が使えてるよ!  でもね、マヤ決めたよ!いつかマヤも魔法が使えるようになって、トレーナーちゃんをお姫様に変えて…。  それで、今日マヤがドキドキしたのよりもっといっぱいドキドキさせてあげる!ユー・コピー?」 承諾を求められたが、私は黙ってゆっくり首を振った。マヤノトップガンには悪いが、そこにはひとつ訂正しなければならないことがあったからだ。 「違うよマヤノ。私はいつもドキドキしてる。いつもマヤノに魔法をかけられたみたいに…レースのたびにドキドキしてるよ」 「知ってる!マヤがトレーナーちゃんのことだいすきなのと同じくらい、トレーナーちゃんもマヤノのことだいすきだもんね!」 お互い顔を見合わせて笑いあった。そこで私たちは改めてグラスを手にし、乾杯したのだ。 D 赤ら顔でむにゃむにゃと唸りながらソファに伸びているトレーナーを前にしてアタシは溜息を付いてしまった。 「も〜、しょーがないんだから〜トレーナーちゃんは〜」 見るからに泥酔していた。お祝いの日のパパみたい。 ご機嫌になっていつもより陽気になって、そして最後にはぐっすり眠っちゃう。 ちょっとお酒を飲みすぎると大人はこうなっちゃうんだって。 アタシの知っている例に漏れず、トレーナーは気分良さそうにすやすや眠っていた。 そんなに飲んでしまうくらい良いことがあったかといえば、もちろん思い当たることはあった。アタシがシニアの三冠を取ったのだ。 トレーナーはいつもみたいに、実際に走ったアタシよりも喜んでいた。その場でぴょんぴょん飛び跳ねちゃいそうになるくらい。 アタシもトレーナーがそんなに喜んでくれることがすごくすごく嬉しくて、ふたりで抱きしめあってはしゃいだっけ。 だから、ついつい飲みすぎちゃったんだろう。でも…。 「今晩のトレーナーちゃん、全然大人っぽくな〜い」 屈んで頬をぷにぷにと指で突いてみても全然起きる気配がない。 ここがトレーナーの自室ならどれだけ太平楽に酔い潰れてもいいのだけれど、今トレーナーが寝転がっているのはなんと栗東寮の小さな応接室だった。 お酒を飲んでたところで完全に眠りこけちゃって、住所を誰も知らなかったもので一番近かったここに放り込まれたんだって。 連れてきた別のトレーナーはそう言って寮長のフジキセキさんと苦笑いしていた。 情けないにも程があるとさすがのマヤちんも思います。恥ずかしいったら無い。困ったトレーナーちゃんです。 アタシは予備のタオルケットや水を持ってくるというフジキセキさんの代わりにトレーナーの側にいた。 こうして見つめていると、トレーナーの顔立ちがいつもより一回りも子供になったみたいに感じられる。 暑かったのかシャツのボタンだって胸元まで開けちゃって、無防備極まりない格好だった。 「そんな格好でいると風邪引いちゃうよ?ふふん、マヤが困ったちゃんのトレーナーちゃんの面倒を見てあげま〜す」 悪戯っぽくそう囁きながら開けっぴろげになっている襟のボタンをひとつひとつ留めていく。ママにでもなったみたいに。 じわり、と温かい気持ちが胸の中に広がっていく。 ───アタシ知ってるよ。トレーナーが今だけなんだかあどけなく見える理由。 いつも気を張ってるんだよね。アタシのためにアタシにキラキラを教えてくれる立派なトレーナーでいようとしてくれてるんだよね。 アタシ分かってるよ。トレーナーが完璧な人じゃないってこと。 いつも悩んでるよね。自問自答してるよね。アタシの担当のトレーナーでいていいのかなって。そんなに自分は凄くないのにって。 「ヘンなトレーナーちゃん。マヤのトレーナーはトレーナーちゃん以外他にいないのにね」 アタシはボタンを留め終えて、自然と微笑みながらトレーナーの髪を撫で付けた。 普段からあまり化粧っ気の無い人だった。そういうことに回す時間を全部アタシのトレーナーとしての時間に回してるんだろう。 トレーナーをここに連れてきた人の話を思い出す。 ───この子ね。酔っ払うとあなたの話しかしないのよ。自分の話なんてしたこと無い。全部が全部あなたのこと。愛されているのね。 そう。愛されている。トレーナーにアタシは、きっと心の底から。 アタシのパパとママに負けないくらい、アタシもびっくりしちゃうくらい真剣に愛してくれている。 レースの世界に散らばっていたドキドキやワクワクを全部掻き集めてきてアタシにくれたと思ったら、そんなの底でさえ無いと言わんばかりに全然知らないキラキラを次から次に示してくれる。 なんて凄い人なんだろう。あの日この人に出会えて本当にアタシは幸運だった。 つまんないことにも意味があるって教えてくれただけじゃない。キラキラしたものにも全部意味があるってアタシに分からせてくれたんだ。 その上、アタシのお願いを一日も欠かさず守ってくれている。一番近くでアタシを見てて、っていうお願いを。 いつだって一番にアタシのことを応援してくれたのはこの人だった。片時も離れず、アタシに夢中でいてくれた。そして今も。 …アタシはふとすやすや寝息を立てるトレーナーの頬を撫でた。酔っ払ってるせいか肌が熱い。指先がその温度で溶けちゃいそうだ。 それだけでぎゅうっと胸の奥の何か柔らかいところが縮こまってずきずき痛む。痛いけどずっと痛くていいと思えちゃう、不思議な痛み。 アタシは何度か本気で言ったのに、トレーナーはまだちゃんと分かってないよね。 トレーナーがそんなにアタシにだいすきを目一杯ぶつけてくるから、アタシはオトナになっちゃったんだよ。 アタシもトレーナーのことだいすき。たぶん…トレーナーの好きとは違う、オトナの好きなんだと思う。 だってこんなに苦しいもん。こんなに切ないもん。ふわふわして幸せなだけじゃないもん。苦いのや酸っぱいのも味わえるのがオトナならきっとそういうことなんだもん。 アタシは女の子で、トレーナーは女の人だけど、そんなのどうでもいい。そのくらいアタシはこの人のことが好き。 アタシくらいの歳の女の子の恋なんて青春の気の迷いなんだって。そう何かの本に書いてあった。 いいもん。気の迷いでもいいもん。アタシが本当の大人の歳になるまでずっとずぅっと好きでいるから。そうしたら気の迷いじゃなくなるよね。 廊下から微かに足音が聞こえてくる。きっと用意を終えたフジキセキさんだろう。 アタシはちょっと迷ってから───未だに意識が戻らず夢の中にいるトレーナーのぷっくり瑞々しく膨れている唇、ではなく頬にキスをした。 アタシの唇にトレーナーの柔らかな肌の感触が一瞬だけ伝わる。…うん。まだ唇を重ねる勇気は出せない。 でもいいんだ。いつかそうする時はこんな不意打ちみたいなのじゃなくて。 はっきりと気持ちを伝えた上で、きっとどぎまぎして顔を真っ赤にするトレーナーの唇を奪ってやるんだ。 それまでマヤのこと、ずっと見ててください。 絶対誰よりもキラキラで、誰よりもトレーナーちゃんをドキドキワクワクさせてみせる、大人のウマ娘になるから。 E 助手席のドアをぱたんと閉めて、アタシは松葉杖を座席の傍らに置いた。 「いや〜…びっくりしちゃったねぇトレーナーちゃん!あはははっ☆」 冗談めかして言うと、運転席に座っていたトレーナーも硬い表情を少し緩めて微笑んでくれた。 「本当よ。練習中に転けて痛くて歩けないって言い出すんだもの。肝を冷やしたわ」 「ね〜。マヤも怪我なんて久しぶりだからうわわーって慌てちゃった。ごめんねトレーナーちゃん、痛い痛いって騒いじゃって」 「ううん。そのほうがいいよ。軽い症状でも我慢したら悪化することだってあるんだから」 曖昧に笑いながら愛車の窓からトレーナーが外を見上げる。 駐車場から投げかけられた視線の先にあったのは『医療センター』の看板。トレセン学園のウマ娘御用達の病院だった。 ここへちょっとした騒ぎになりながら担ぎ込まれた結果、診断結果は単なる足首の捻挫。靭帯がちょっと伸びただけ。 一週間も安静にすれば完治するとのことだった。ちょっと痛がりすぎちゃった。 アタシは他の人より体が柔らかくてこういう怪我は殆どしたことが無いから不慣れな痛みだったんだ。 「でもでもっ、ある意味じゃ今やっといて良かったね〜。これがレース直前とかだったら出場するかしないかで悩まなきゃいけなかったもん」 「うん…。今日はひとまず練習は全部お休みにしよっか。明日までにその状態でも出来るトレーニング考えておくよ」 「お休みっ!?やったーっ!じゃあトレーナーちゃん、一緒に映画見ない?大人な雰囲気のあだるてぃーなメロドラマ!」 「どうせそんなの見ても、キスや情事のシーンになったらマヤノは目を瞑っちゃうでしょ?」 「そっ、そんなことないも〜ん!マヤだってだいぶ大人になったんだから最後まで見れるもんっ!」 唇を尖らせて抗議するとトレーナーははいはいと苦笑しながら車のキーを回してエンジンを掛けた。 全くトレーナーちゃんは失礼しちゃうんだから。さてと何見ようかな。トレーナーちゃんと一緒に見たい映画のストックは貯めてあるんだ。 エンジンの微かな振動に揺られながら機嫌良く映画のラインナップを並べていたアタシは今思えばちょっと無神経だった。 「…?」 車がいつまで経っても発進しない。ギアをドライブに入れることも無く、トレーナーはハンドルを両手で握ったままだ。 様子を伺おうと横顔へちらりと視線を遣って、はっとした。それだけで全部分かっちゃった。 トレーナーは病院の真っ白い壁に負けないくらい血の気の降りた顔色をしていた。 蒼白の表情の中で目だけが真っ赤になって、熱い液体で潤んでいる。まるでウサギさんみたいだと心の何処かが連想していた。 ハンドルを握る両手だってキツく握りしめられて白くなっている。小刻みにぶるぶると震えていた。 「トレーナーちゃん…っ」 「…良かった…大したこと無くて良かった…これが重い故障だったらどうしようって…。…どうしようって…!」 ぽろ、とトレーナーの目端から涙がこぼれ落ちた。アタシはそれを見た瞬間、助手席から身を乗り出していた。 捻挫した足首がちくりと傷んだけれど、さっきまで大げさに痛がっていたその痛みより大事なことがあるんだ。 なるたけ全身を使ってふるふる震えるトレーナーを包み込んだ。…震えは収まらない。きつく抱きしめた。 「トレーナーちゃん、大丈夫だよ。マヤは大丈夫。ごめんね、怖がらせて。マヤ、ちゃんと治してすぐ走れるようにするから。だから安心して、ね?」 トレーナーは何も言わない。ただぽろぽろ泣きながらアタシの言葉に黙って何度か頷くだけだ。 そうだ。この人は完全無欠じゃない。アタシのために、アタシに合わせて、一生懸命頑張ってくれてる人。 決してこんな状況で落ち着き払っていられるようなそんな立派でかっこいいだけの大人なんかじゃないんだ。 きっと診断が出るまで怖くて怖くて仕方なかったんだ。ひょっとしたら、アタシよりもずっとずっと。 ごめんね、トレーナーちゃん。マヤ知ってたのにうっかり忘れててごめんね。 トレーナーちゃんはマヤと一緒にキラキラを追ってくれて、マヤと同じ気持ちを共有してくれる人。大人だけど大人じゃない人。 だからアタシはアタシの側にいて、ずっとアタシに夢中でいて、って。そう言って逆プロポーズしたんだもんね。 こんな時に不安に思わないはず無いもんね。ごめんね、トレーナーちゃん。ごめんね。 声を押し殺して泣くトレーナーの頭を優しく撫でた。アタシの一番だいすきな人がなるべく早く泣き止んでくれるように。 こんな時でもトレーナーの髪の香りは甘く鼻先をくすぐって、アタシは胸をドキリとさせた。 F 有り難いことにパパノトップガンとママノトップガンは大変気風のいい方たちだ。 大晦日と正月を彼らの自宅で私が過ごしているのも彼らの厚意によるものだった。 「トレーナーちゃん、次はポッキーだよ!はいっあーんっ☆」 「…あーん」 ずずいと鼻先に突き出されたお菓子の先端を仕方無しに咥えた。甘い。 ソファに腰掛ける私の肩にぴったりくっついたマヤノトップガンは、私がもりもりとお菓子を咀嚼していることの何が嬉しいのかとてもご機嫌に見える。 テレビではぼちぼちの面白さの正月特番が漫然と垂れ流されていた。 父子家庭でありその父も既に他界している私にとって正月とはこういう番組をひとりで見ながらひとりで雑煮を食べるものだったので、誰かと一緒に過ごすのが新鮮だ。 何気なく正月の過ごし方の話題になってそのことを口にしたところ、「そんな寂しいのはだめーっ!マヤちん法違反ですっ!」と法に触れてしまった。 断る間も無くマヤノトップガンがさっさと話を進めてしまい、大晦日の夕方に彼女の実家の豪邸へお呼ばれして蕎麦を啜った次第である。 「でもマヤノは良かったの?てっきり私はご両親と一緒に初売りへ行くものだと思ってたよ」 「ん〜…多分そっちに行ってもワクワク出来たんだろうな〜、とは思うけど…でもいいのっ!  今年のお正月はトレーナーちゃんをマヤが独り占めコースで決定してるのですっ☆これも立派なお正月おうちデートだもんね〜♪」 「大晦日は日付変わる前に寝ちゃったけどね」 「もーっ、パパもママもトレーナーちゃんと夜遅くまでお喋りしてたんでしょ!?マヤもしたかった〜!!」 はい。それはそれは盛り上がりました。お酒も大変美味しゅうございました。 マヤノトップガンが両親から深く愛されて育ったことがよく分かってつい涙ぐんだりしたのは内緒です。 「いろいろ聞けちゃったな。マヤノが幼稚園の時…」 「わ、わーっ!?その話は禁止!絶対あのことだからっ!パパにもママにもトレーナーちゃんに教えちゃ駄目って言ったのに〜!」 「ちょ、マヤノ…ふわっ」 横から無理やり私の口を塞ごうとマヤノトップガンが手を伸ばしてきた。 もつれ合って折り重なるようにソファの上へ倒れ込んだ。この子に押し倒されているみたいな格好。 伸し掛かるマヤノトップガンは全然重くは無い。ただ密着しているとぽかぽかした彼女の体温を服越しでも錯覚する。 「その話、余所でしちゃ駄目だからね?絶対、ぜぇーったいだよ?ユー・コピー?」 「わ、分かった…分かったってば。アイ・コピー」 「うんうんっ、トレーナーちゃんはマヤとの約束守れるいい子だもんね〜。いい子いい子〜☆」 私の顔を間近で覗き込んでいるマヤノトップガンの大粒の宝石みたいな瞳に稚気の光が宿る。 私を倒したまま、まるで子供を褒めるような手付きで私の頭を撫で回してくる。マヤノトップガンの細い指が私の髪を梳いていた。 べったりと密着しているせいで鼻先をくすぐってくるのは仄かに甘いこの子の髪の香り。 朝日のような見事で美しい色合いの髪の毛からは、いつも金木犀のような薄っすらと濡れた優しい匂いがする。 私はこの香りが苦手だった。何か、こう…奇妙なことを考えてしまいそうで。 「マヤノ、そろそろどいて欲しいんだけど…」 「え〜?う〜ん、どうしよっかな〜。  …そっか!せっかくのおうちデートでトレーナーちゃんがマヤにして欲しいこと言ってくれたらどいてあげるっ!」 「えぇ?」 「制限時間は10秒で〜す☆じゅー、きゅー、はーち」 そんなこと急に言われても! そもそも私はマヤノトップガンのお願いを聞く側ではあってもお願いをする側では無い。 いきなり彼女にして欲しいことと言われても頭のギアの回転率は凡庸な私には思いつかず、無常にも10秒(気持ち早い)は過ぎていった。 「…ぜろっ!トレーナーちゃんは答えられなかったのでマヤが決めちゃいま〜す。  じゃあじゃあっ、トレーナーちゃんはね───」 にっこりとマヤノトップガンが笑う。まるで悪戯が成功した子供のように、ぴかぴかと。 「…あの、マヤノ。これ結構恥ずかしい…」 「今ここにはマヤとトレーナーちゃんしかいないんだからへーきへーき!  どうかなどうかなっ?マヤのお膝枕気持ちいい?リラックスできる?きゃーっ☆なんか大人のコイビトがする休日の過ごし方って感じ〜!」 全然リラックスできません。…と言いたいところなのに意外と落ち着けてしまうのが怖いです。 ソファの上でだらだらと正月特番を見ているのは変わらない。変わったのは姿勢だけだ。 具体的に言うと私は寝そべって腰掛けるマヤノトップガンの膝に頭を乗せていた。 マヤノトップガンは私を自分の膝の上へと迎え入れて先程よりも更にご機嫌になっていた。 ちょっと視線を上げるといかにもご満悦という表情の少女の顔が映る。 「…楽しい?」 「うんっ!すっっ…っごく!マヤちんがびっくりしちゃうくらいっ!  ねぇねぇトレーナーちゃんここから何して欲しい?耳かきとかしてあげよっか!膝枕の定番だもんね〜☆」 マヤノトップガンの片手が閃くとそこには耳かき棒。いつ取ってきたんだ。 「あの…一応聞いてみるけど、したこと…ある?」 「え?ううん無いよ?でもマヤ、手先の器用さには自信あるし大丈夫っ!任せといてトレーナーちゃんっ!」 それを聞いて不安だ、とは言い切れないのがマヤノトップガンである。 何事にも天才型のこの子はアドリブで何でもこなしてしまうのだ。「分かった」と、そう唐突に呟いて。 それはレースでも変わらない。トレーナーとしての私はこの子にレースのイロハを教えたことは一度も無い。 教える前に全部彼女は“分かって”しまうから。私のしたことといえばこの子の希望を何とか支えようとしただけで…。 そんな私の不安は、ひょっとしたらお見通しだったのかもしれない。 マヤノトップガンの耳かきの手付きはやはり彼女らしかった。 最初のごく僅かな間こそ力加減の間違いから私に悲鳴を上げさせたが、あっという間に習熟していく。 気づけば的確な力加減でかりかりと耳の穴の中を引っ掻かれていく。 …他人に耳かきされるなんて初めてだ。私にお母さんがいればあるいはしてもらう機会があったのかな。 心地よさに眠気を覚え始めていた頃、ぽつりとマヤノトップガンが言った。 「あのね、トレーナーちゃん」 「…?」 「最近のマヤね、トレーナーちゃんに色んなことをいっぱいしてあげたいなって気持ちなの。  マヤはトレーナーちゃんにいっぱい色んなことをしてもらえたから。目一杯のキラキラを貰えたから。  だからね、トレーナーちゃん。トレーナーちゃんも、もっとマヤに頼っていいんだよ?」 「…」 「ね。気持ちいい?トレーナーちゃん」 「…うん」 「そっかぁ。…今年も、ううん、来年も、再来年も、ずっとずっとよろしくね、トレーナーちゃん」 夢見心地で私は考えていた。───パパノトップガンとママノトップガンは何故出かける前にマヤノトップガンにサムズアップをしていたのだろう…。 G 空から霧吹きで地面をべったり濡らすような、そんな細かい雨粒が朝から夜まで降り続いていた。 このくらいの雨なら悪天候のレースに慣れるためにも屋外トレーニングは量を減らされつつも実施される。 そんなわけでぐちゃぐちゃ泥濘む芝の上を泥んこになりながら走ってきたボクは冷えた身体をお風呂で温めて実にいい気分だった。 スキップスキップ。まだ湿っている髪をタオルで拭いながら自室に戻る。天下無敵なトウカイテイオー様のお帰りだぞ〜。 「たっだいま〜。…あれ。どうしたのマヤノ」 そんなボクがドアノブを引いて最初に見つけたのは、ベッドに腰掛けてぼんやりしているルームメイトの姿だった。 心ここにあらず、といった様子だ。行儀よく膝を揃えて座ったまま、何をしているというふうでもない。 ふと連想したのは今空に浮かんでいる雨雲だった。どす黒く染まって大粒の雨を降り注いでくるやつじゃない。 ちょうど今降ってるみたいな霧雨をさらさらと溢していく、風が吹けば飛んでしまいそうな綿みたいな雨雲だ。 ボクに気づくのさえやや遅れた。後ろ手にドアを閉めたあたりでようやくボクが帰ってきたことに気付いたみたいにきょとんと顔を向けてきた。 「…あ。おかえり、テイオーちゃん」 …まあ、マヤノトップガンのことを雨雲みたいだなって感じる時点でだいぶ様子がおかしいよね。 いつだって次々にいろんな事を思い付いてはキラキラと輝いてみせる、歩く花火大会みたいな子なんだから。 けれどその時のボクはマヤノがそんなふうになっている理由に心当たりが無いでも無かった。 ボクらはレースで速さを競い合うウマ娘だからさ。思い悩むこといえばやっぱり一番にはレースのことなんだ。 「まだ一昨日のレースのこと気にしてるの?気持ちは分かるけどさ〜」 手早く入浴用具を片付けながらボクは遠慮なく言った。わざわざ遠巻きにするような関係じゃ無い。 というのも、先日のレースでマヤノは5着に沈んでしまったのだ。ギリギリの入賞だった。 ちょっとしたミスをしたのだ。それでいて致命的なミスを。瞬間、観戦していたボクも思わず「あっ」と呟いてしまったくらいの。 それで一気にあの子をマークしていたバ群に取り込まれた。本当にマヤノにとって苦しいレースだった。 抜け出すのも一苦労という重いバ群からむしろよく抜け出してなんとか5着に滑り込んだものだ。 しかし、ボクはマヤノの様子に違和感を覚えていた。 落ち込んではいたが、今朝まではここまで深刻では無かったはずだ。悄気返ってはいたが、寒々と張り詰めた顔はしていなかった。 全然似合わない表情。薄幸さなんて雰囲気が漂っていい子じゃあ無い。 「…何かあったの?」 こくり。黙ってマヤノが頷いた。 「そっかぁ。ボクで良ければ話くらいは聞いたげるよ。マヤノがそんな湿気た顔してちゃボクの調子も狂うしね」 ボクもベッドの脇に座り、落ち込むマヤノと向き合った。 もう一度黙って頷くと、彼女は座ったまま膝を抱えて縮こまった。淀んだ視線は自分の膝小僧に向けられている。 しょんぼりしているのとは違った。ギリギリまで水を張ったコップみたいだ。僅かな刺激で水が溢れてしまう。 「あのね、テイオーちゃん」 「うん」 「…マヤね。トレーナーちゃんと喧嘩しちゃった」 あ〜。 なるほど〜。 そう来たか〜。 そりゃ落ち込むな〜。ある意味じゃきっとレースに負けた時以上に。 マヤノトップガンとそのトレーナーが凄く仲良しなのはボクも知るところだった。ホントに相思相愛なのだ。 同室の子のトレーナーだからね。ちょっとは話したこともある。 キャリアの無い新人の女トレーナーだ。なんだかいまいち頼りげの無い小学校の新任教師みたいな人だなぁ、なんて思ったっけ。 最初は大丈夫なのかなぁともちょっぴり心配になったけれど、その後は着実に勝利を積み重ねているんだからマヤノの目は正しかったということだろう。 しかしいつもべったりくっついて仲睦まじいにも程があるって感じのあの人とマヤノが喧嘩か。ボクには想像出来ないな〜。 「レースで負けたのは、いいんだ。悔しいけどマヤが一瞬わかるのが遅かったってことだから、納得はしてるの。  でもトレーナーちゃんがね。ずっとめそめそしてるの。マヤが勝てなかったのは私の責任だって。ごめんね、ごめんねって。  レースが終わってから俯いてばっかりでマヤと目を合わせてくれないんだ。それ見てたら急にむかむかーって来ちゃって…」 「うわ、わわ」 ボクはびっくりしてしまった。 大きな両目の端に涙の玉がぷっくりと現れて、それがみるみる内に大きくなっていくのだ。 マヤノが泣いているところを見たことが無いわけでは無かったけれど、こんなふうに泣くのを見るのは初めてだった。 「…そんなトレーナーちゃんなんか大嫌い、って言っちゃった。  そんなならもうトレーニングもしないしデートもしない、レースにも出ないって…それだけ言って飛び出してきちゃった…」 膝小僧に鼻先を擦りつけているマヤノはもう鼻声だった。瞬きする間に涙の雫は決壊し、後から後から頬を伝っていく。 鼻先をくすぐったのは水の匂いだった。雨と涙の匂い。 「…トレーナーちゃん、マヤのこと嫌いになっちゃったかなぁ…!  だってトレーナーちゃんは凄いんだもん…!マヤにいつだって新しいキラキラを教えてくれるんだもん…!  めそめそしてて欲しくないんだもん…!トレーナーちゃんはちゃんとマヤのこと見ててくれなきゃヤなんだもん…!  でもあんなこと言っちゃったら、トレーナーちゃんはマヤから新しい子のところへ行っちゃうかなぁ…!  レースで負けたのはトレーナーちゃんのせいじゃないのに!マヤわかんないよ、トレーナーちゃんのこと…!」 おいおい。さすがのトウカイテイオー様でも困っちゃうぞぅ。 マヤノがそんなふうに目を真っ赤に腫らして大粒の涙をぼろぼろ溢してたらどうしたらいいのか分からなくなっちゃうぞぅ。 うーん、とボクが唸っている間もマヤノは時折鼻を啜りながらしくしくと泣いていた。 外のささやかな雨音と灯りのついていない薄暗い部屋。少女の小さな嗚咽。なんだかドラマのワンシーンみたいだった。 それでも慎重にボクは言葉を選んだのだが、やっぱりどう考えてもそれしか回答は用意出来なかった。 当たり障りの無い言葉で慰めて、っていうのはボクらしくない…かな?どうだろう分からないけれど、それはボクがマヤノに取るべき態度じゃないもんね。 「それは…もっと喧嘩するしか、ないんじゃないの?」 ぱちぱち。カメラのシャッターを連続で切ったみたいに素早く閉じたり開いたりするマヤノの瞼。 「もっと…?もっと喧嘩したら、もっと仲悪くなっちゃうかもしれないのに…?」 「うん。だって喧嘩するってことはお互いに考えていることや大事にしてることがすれ違ってるってことでしょ?  そのへんなぁなぁにして誤魔化して付き合う関係もあるんだろうけど、でもウマ娘とトレーナーは二人三脚なわけじゃん。  少なくとも…ボクは嫌だね。ボクもトレーナーにはボクのことだけをずっと見てて欲しい。だから食い違ったらとことん喧嘩するよ」 「テイオーちゃん…そんなにトレーナーと喧嘩するんだ?」 「するする!なんなら今日もしたよ!病院で検査をするしないで軽く1時間は揉めたね!」 ボクは病院は嫌だって言ってるのにボクのトレーナーたら全然話聞かないんだから。 仕方ないから折れてやったよ。感謝するんだぞトレーナー、トウカイテイオー様の海より広い心に。ぐすん。 ボクの言葉の消化に手間取っているのか、しばらく涙目でボクをじっと見つめてじっとしていたマヤノだったけれど…。 やがて瞬きを繰り返すたびに光が宿っていった。涙の膜が光を反射するぬめった光じゃない、雲の切れ目から差し込んでくるみたいに瞳の奥から溢れ出てくる光だ。 「そっかぁ…。マヤわかった…。  いつもみたいに“わかる”んじゃなくて、頑張って“分からなきゃ”いけないことだったんだね…。  トレーナーちゃんと喧嘩して、お話して、それでちゃんと埋めなきゃいけなかった隙間をこれまで埋めてこなかったんだね…」 「と、ボクは思うけどね〜」 なんてボクが適当に相槌を打った途端だった。 いきなりマヤノが跳ね起きた。白兎みたいになってる目のまま、がばっと部屋着を脱ぎ捨てた。 そうして目を白黒させているボクの目の前で半裸のマヤノはジャージを引っ掴んであっという間に着替えたのだ。 「ま、マヤノ?」 「テイオーちゃん!マヤ行ってくる!」 「行くってどこに、って今の話じゃひとつしか無いや!でももう門限過ぎて」 「関係無いよっ!今行かなきゃいけないってマヤわかったの!だから行ってくる!トレーナーちゃんのところへ!」 ちょっと待って、ってボクは言おうとしたよ。 言おうとしたんだけど口を開いた時には背を向けていたマヤノはつむじ風みたいにドアを開けて出ていったよ。 おいおいおい。…まぁでも、この方がマヤノらしいかな。ボクだってさっきみたいな調子のマヤノと今晩を過ごすのは勘弁して欲しいしね。 「…お互いにお互いのことを魔法使いだと勘違いしてるんだよね〜」 なんでも出来てどんな夢も叶えてくれる凄い魔法使い!そんな魔法使いの手を離さないように追いかけるのでお互い必死っていう。 それに気付けないくらいにはマヤノたちは上手く行き過ぎてたし、仲が良すぎたのだ。 初々しいな〜。ま!ボクとトレーナーのが絶対に最強で最高な関係だけどね!そこらへんマヤノにだって負けやしないよ。 「さぁて、寮長にはなんて言おうかな。そっくりそのまま話したほうが納得してくれそうかな〜」 ボクはマヤノのあまりにも堂々とした寮則破りのフォローをするべく、マヤノが飛び出していった部屋のドアノブに手をかけた。 だって親友だからね。トウカイテイオーはトモダチのピンチを見捨てないのだ。 H トレーナーの固く強張ったところへゆっくりと指を飲み込ませていった。 「ふあ…ん、ぅ…」 絞り出されるかのようなトレーナーの声もアタシが聞き慣れたものじゃ無い。 湿っていて、仄かに温度があって、どこかぬるりとした感触でアタシの鼓膜を撫でていった。 レースの時に感じるものとは違う、妙な高揚感がアタシの胸の中をくすぐる。 「ねぇねぇトレーナーちゃん、気持ちい〜?ここ痛くない?大丈夫?」 「だいじょう…ひぅ」 「にひひ☆声我慢しなくていいんだよ?ほらほらっ、どんどん行くよ〜っ」 トレーナーの控えめな呻きに気を良くしたアタシは次々にトレーナーの肉体を暴いていった。 アタシの指や手のひらが触れると時折ぴくりとトレーナーの身体が震える。 普段からあまり肌を見せないけれど、こうしていると女性的な肉付きに富んでる女の人なんだなぁというのを実感する。 胸なんてかなり大きいし。物凄い美人というわけではないけれど結構綺麗な人だ。 アタシが憧れるオトナの魅力を十分持ってるのに全然磨こうとしないなんて勿体ないな〜。 そんなことを思いながら、トレーナーの背中に跨ったアタシはその凝りまくっている背中を揉み解した。 こんなことをしているきっかけはアタシがよそのトレーナーに褒められていたことから始まる。 トレーナーが集まっての会議があったのだ。アタシは自分のトレーナーが出てくるのを待っていた。 そこに通りかかったトレーナーの人たちがアタシのレース結果を褒めてくれたのだ。 凄いね、素晴らしいね、って。何人ものウマ娘のデビューを成功に導いてる凄く有名なトレーナーもいてアタシはすっかり嬉しくなっていた。 「…」 「…?トレーナーちゃん?」 「なんでもない。行こっか」 でも、何故かやってきたトレーナーちゃんの様子が変なんだ。 アタシがみんなに囲まれているのを見てぎくりと表情を固くしてたし、帰る時も妙に足早。 トレーナー室に戻っても仏頂面でラップトップの画面とにらめっこしている。 (なんであんなにイライラしてるのかな…?) なんとなく“わかって”しまって、アタシは応接用のソファの上から黙ってトレーナーの様子を伺っていた。 アタシの方を見てくれないのはイヤだったけれどそれ以上にトレーナーのイライラの正体が気になる。 何か会議で言われちゃったりしたのかな。怒られたりしたのかな。それとも他に理由があるのかな。 会議の後にあったことを思い返してみる。 といってもアタシの方はいっぱい他のトレーナーさんに褒められていたくらいで…。 …。…あれ? 立場チェンジっ!もしアタシが(今だけは!)アタシよりキラキラしてるウマ娘さんに囲まれてるトレーナーちゃんを見つけたとしたら。 …あれあれ? アタシはソファを立って、こっそりとトレーナーに近づき後ろからそっと首に抱き着いた。 「マヤノ?」 「ねーねートレーナーちゃん。もしかしてなんだけどね〜。  …マヤが凄いトレーナーさんたちに囲まれていっぱい褒められてたの、イヤだったの?」 キーボードを叩く指がぴたりと止まった。ぎゅっと首に腕を回してるからすぐ分かるよ。息を呑んだの。 「…別に、そんな…マヤノが褒められていれば私も嬉しいよ」 どこか角張った返事。アタシにさえすぐバレる下手っぴなウソ。アタシはというと、口角がふにゃっと上がるのを抑えられないでいた。 う、うわ〜〜〜!ジェラシーだ〜〜〜! アタシが他のウマ娘のキラキラにトレーナーちゃんが目を奪われてるのがイヤなのと一緒だ〜! トレーナーちゃんには悪いけど…悪いけど…!ちょっとワクワクするかも〜〜〜! ごめんねという気持ちとくすぐったくてふわふわした心地よさが同時に湧き上がる。 あとトレーナーへの愛おしさ! トレーナーは基本的に落ち着いた大人な人だけれど完璧ではなくて、たまにとても子供っぽくなる。 お酒を飲みすぎて酔っ払ったり、子供舌だったり、そして今のこれだったり。そんなところがいちいち可愛い。 そう、トレーナーちゃんはすごくすご〜く可愛い!本当に可愛い!だいすき! 大人な雰囲気に憧れてるはずなのに、トレーナーちゃんの大人っぽくないところを見ると心がぎゅーっと暖かくなるのはなんでなのかなぁ? たくさんの好きが溢れ出してアタシはトレーナーちゃんの髪に頬ずりしてしまった。 「も〜、トレーナーちゃんは心配性なんだから〜♪  そんなにもやもやしなくても、マヤのトレーナーはトレーナーちゃんだけだよ?ユー・コピー?」 「…分かってるよ。うう、こんなことで動揺したなんて知られるの恥ずかしいなぁ…」 「えへへ〜、トレーナーちゃんか〜わい〜っ☆あ、そうだ!不安にさせた埋め合わせしたげるね!  ほら首のところガチガチに凝ってるじゃん!今日はマヤがマッサージしま〜す!」 「え、ちょっ…マヤノ何を───」 「───あのね、トレーナーちゃん。  いつもマヤのマッサージしてくれるのは嬉しいよ?嬉しいけど…自分のことも省みなきゃダメだよ!  ガチガチどころかカチカチじゃん!板だよ背中が!体壊しちゃうよ!マヤは怒ってますっ!」 「すみません、気をつけます…」 すっかりしょんぼりしてしまったトレーナーがマットレスに俯せに伸びたまま項垂れる。 訂正します!トレーナーちゃんは全然大人じゃありません!マヤにぞっこんになったら自分のことも忘れちゃうダメな子ですっ! そういうところもだいすきっ!…こほん。ダメダメ、ここでマヤが厳しくしないとトレーナーちゃんはもっとダメになっちゃうんだから。 「…それにしてもマヤノもやっぱりウマ娘なのねぇ。  そんな小さな手なのに凄く力強くて…背中に跨がられて押さえつけられたらきっと起き上がれないね」 「…そうなの?」 「うーん、多分ね〜」 気持ちよかった〜、ありがと〜、とアタシに跨がられたままのんびり言うトレーナーをアタシはじっと見ていた。 ふーん。そうなんだ。 何故か心の中がざわざわする。…マヤに押さえつけられたら勝てないんだ。…ふーん。 …ちょっとわかっちゃったかも。 I アタシもスーパークリークさんとそのトレーナーさんみたいにトレーナーちゃんを甘やかしたい! と思ったらトレーナーちゃんはマヤよりもちっちゃな子供になっちゃったんだけど目論見が潰えるのも一瞬だったのです。 「マヤノお姉ちゃん。タオル洗っておいたからこれ使ってね」 「わーっ♪全部洗ってくれたの?トレーナーちゃんありがと〜☆」 「それとマヤノお姉ちゃん。スケジュール調整しておいたから見ておいてね」 「新しいトレーニングメニュー?すごいすご〜い!トレーナーちゃんいい子いい子〜☆」 アタシがトレーナーの頭を撫でるとトレーナーははにかむように目を細めて微笑んだ。 …思ったのとは違うけど!トレーナーちゃん全然アタシに甘えてくれないけど!手が掛からないどころかてきぱきよく働いてびっくりだけど! でもこれはこれでいいかなと思うマヤなのです!お姉ちゃんって呼んでくれるし! もしこんな妹がマヤにいたら絶対に溺愛しちゃうな〜! …とはいえ、それで願望が満たされたわけではない。 大人だったトレーナーは子供になっても大人だった。ちっちゃいのに何でもひとりでこなしてしまう。 アタシのサポートさえまるで遜色無く果たしている。そのことの不平不満も全く口にしない。 とても大人びた子供だった。これでは前と何も変わらない。甘えているのは相変わらずアタシの方だった。 何とかしなきゃ!…という思いから、アタシはトレーナーに提案をしたのだ。 「ねぇねぇトレーナーちゃん!今日はトレーニングここまでにして何処かデートしに行こうよっ!」 「でもマヤノお姉ちゃん、まだプログラムが残って…」 「ぶぶーっダメでーすもうデートしかしませーん!  トレーナーちゃんが今いちば〜ん行きたいところにマヤが連れて行ってあげるから!ね?ユー・コピー?」 アタシの急な提案にあたふたしていた小さなトレーナーはその時初めて年相応の表情を見せた。 行きたいところあるけど、ホントにいいのかな。そんなふうに迷っている子供の顔。 ほら言っちゃえ言っちゃえ。マヤがにこにこ笑って待っていると、やがてトレーナーはおずおずと口にした。 「じ、じゃあマヤノお姉ちゃん、私ね───」 それは案の定と言うべきか。 「レース場かぁ」 ついぽつりと呟いた。なんとなくトレーナーと初めて会った頃一緒に見に行ったことを思い出す。 あの時はユキっぺとアタシとトレーナーの3人だったっけ。 観客席は大入り。何のレースか心当たりが無かったが、大きなレースをやっているらしい。 芝の上では一流のウマ娘たちがゲートインを控えて準備を進めていた。 「わーっ、すごーいっ!ホントにレース場にいるんだ!現地で見るの久しぶりー!」 トレーナーは欄干から身を乗り出すようにしてまんまるの目を輝かせていた。わわ、危ない危ないってば。 さっきまでの大人びた態度が嘘みたいだ。大好きなものを目の前にしてはしゃぐ子供そのものだった。 「トレーナーちゃんはあんまりレース場ではレース見たこと無いんだ?」 「うん。うちはお母さんいないし、お父さんはいつもお仕事で忙しいからなかなか連れてきてくれないもん。  あっでもお父さんのことは好きだよ?いっぱい頑張ってるからね、仕方ないの。  いつか私が大人になったらお父さんみたいに頑張って働いて、お父さんも大好きなレース場にいっぱい連れていってあげるんだ」 そういえば父子家庭だったとかいつか言ってたっけ。 アタシがトレーナーくらいの頃は何してたかな?新しいキラキラを探して一日中忙しく遊び回ってたような。 少なくともトレーナーみたいにしっかりした子供じゃ無かったはずだ。 むむむ。トレーナーちゃんがこの歳でこんなに大人なのに…ひょっとしてマヤ、まだ全然大人じゃない…? 「マヤノお姉ちゃん。私ね、夢があるの」 出走するウマ娘たちがゲートに収まっていく。もうすぐ始まるレースを前に会場が高揚していく。 その様子を見つめる子供のトレーナーの目はそれに負けないくらいキラキラと光を湛えていた。 「私、レースに出るウマ娘のトレーナーになりたい。  こんなおっきなレースはね、私の知らないワクワクすることがいっぱい詰まってるの。  ほら、みんなキラキラしてる!あんな素敵なウマ娘さんたちをね、一番近くで見たいの!  観客よりももっと近くで!誰よりもキラキラするウマ娘さんの一番そばで、誰よりもワクワクしたい!」 「あ───」 目眩がするくらい強烈な既視感。 アタシもこんなふうなことを誰かに言った気がする。 ゲートが開いた。輝く芝を蹴ってウマ娘たちが疾駆していく。 わぁっ、と爆発するような喝采がレース場の全てを震わせる。 いつもならアタシもそのワクワクの中にいるのに、その時だけは幼い横顔から目を離せなかった─── 「…ふわ?」 そこでアタシは目が覚めた。 何かこう、自分でもよく分からない夢を見ていた気がする…。 ここ何処だっけ、とキョロキョロあたりを見回してすぐに気付いた。 座席に座るお尻に伝わる独特の振動。あっという間に流れていく窓の外の景色。ここ、新幹線の車内だ。 そうだった。トレセン学園の広報イベントで地方に出向いた帰りだったっけ。いつの間にか居眠りしていたみたい。 アタシのものではない微かな寝息が静かな車内を伝って耳に届く。横を向いた。 隣の席ではトレーナーが座席に埋まるようにしてすやすやと眠っている。 そっか。頑張ってたもんね。色んな人との打ち合わせでばたばた走り回って忙しそうだったもんね。 アタシはトレーナーが起きないよう気をつけながらゆっくりと手を伸ばし、その頭に手のひらを置いた。 「トレーナーちゃん、いい子いい子」 優しく撫でるとトレーナーは何事かふにゃふにゃ呟きながら気持ちよさそうに微笑んだ。 「んふふ。かーわい…☆」 アタシまでつられてにっこり微笑んじゃった。 何かいい夢でも見てるのかな。見てるといいな。これからも一緒にワクワクしようね、トレーナーちゃん。 J 控室に戻ってくるとマヤノトップガンがひとりぽつんと椅子に腰掛けていた。 静かに扉を閉める。声はかけない。レース前のいつものルーティーンだった。 「…で…そこまでぐぐーっと抑えて…抑えて…コーナー曲がり始めたところで…ギューンて…」 ぶつぶつとマヤノトップガンが呟いている。凄い集中力だ。 そっと入ってきたとはいえ、私が部屋に入ってきたことに全く気付いた素振りがない。 頭の中でレースを完璧に組み上げてしまうその姿は何度見ても背筋に寒気が走るほど凄烈だ。 邪魔しないように私はその場から動かず壁に背を預けて彼女を見つめた。 こうしてみると大きくなったなという感慨がある。出会った頃はあんなに小さな少女だったのに。 背丈こそそこまで伸びなかったが、全体的な雰囲気はもう子供とは呼べなくなった。 美しい少女から美しい女性へと脱皮中といったところ。すらりとした靭やかな手足はそのままに顔つきは凛々しくなった。 それは外見だけではなく、彼女が積み重ねた数々もの実績がそう感じさせるのかもしれない。 重賞を何度も獲った。誰にも真似できない変幻自在の走りで見るもの全てを魅了、いや“ワクワク”させた。 大地震の復興支援レースで見事に勝利してみせて被災者に勇気を与えたりもしたっけ。 今やウマ娘レース界の生ける伝説。誰も右に出る者のいない航路を征くエースパイロットだ。 本当に…本当に、とても立派になった…。 その時だった。俯いてゆっくり身体を揺すりながら呟いていたマヤノトップガンがぱっと顔を上げた。 「あ、トレーナーちゃん!おかえりっ☆いつの間に戻ってきてたの?」 「ついさっき…記者の人たちを振り払うの大変だったんだから。控室にまでついてきちゃいそうなんだもの」 「え〜っ?なんでなんで?そんな特別に記者さんたちが集まる理由あったかなぁ?…あっ、そっか」 ぽん、とマヤノトップガンが手を叩いた。 「アタシが今期限りで引退しま〜す!って言っちゃったからかな?」 「それ以外に何があるのよ。なんでレース前にそういうこと口にしちゃうかなぁ」 ごめ〜んね☆といつもの調子で拝んで謝る彼女に苦悩の色はまるで無かった。 さばさばとしていて、まるで何の未練も後悔も無いかのようだ。こっちはだいぶ気を揉んだというのに。 つい腕組みをしてしまったのは微かに蠢いた動揺を落ち着かせるためだったのかもしれない。 「…レース前に聞くことでもないけれど…本気、なんだね」 「うん。もちろんレースで走るのは今でもだいすきだよ?  何度走っても知らないキラキラが飛び出してきてワクワクしちゃう!でもね…。  目一杯全力でずっと走ってきてわかったことがあるの。キラキラはレースの上だけに散らばってない。  アタシの知らない違う世界にもキラキラはたくさんあって、それもいっぱい見に行きたいなって」 にこりとマヤノトップガンが笑う。目頭が熱くなるのを私はぐっと堪えた。 「…だから、アタシはここでタッチダウン。でもすぐ次のフライトが始まるんだよ。キラキラを探しにね」 ああ、この子は出会った頃から何も変わっていない。 輝けるものを追い求めてひた走り、走った先に見えた景色にまだ見ぬ輝けるものを見出してもう心弾んでいる。 大事なものを何も見失わないまま、立派に成長して、立派に大人になって…。 …ふと、マヤノトップガンが立ち上がってこちらに近づいてきた。私の目の前に立つ。 目を合わせるのに昔は文字通り見下ろすようだったのに、今は軽く視線を下げれば届くくらいには背が伸びたな…。 「にひひっ☆トレーナーちゃん、また泣きそうになってる。出会った時より涙脆くなっちゃったね〜」 「し、仕方ないの。マヤノが本当に凄いから。本当に格好良くて、綺麗で、キラキラしてて、だから…」 「…大人になった?」 「…うん。大人になったよ…。素敵な大人になった…。どんどん大人になるマヤノについていくのに私は必死で、ただ必死で…」 喧嘩もした。仲直りもした。分かりあった。一緒に笑い、一緒に泣いた。 その全部があまりにも忙しくて、あまりにも大変で、あまりにも鮮やかで、私には全てが夢のような時間で…。 マヤに夢中になった?と聞くこの子にいつも頷いたのは、あの日この天使と出会った時からずっと夢中という意味で…。 マヤノトップガンが上目遣いで私の瞳を覗き込んでいた。大きな目が今日は一段と大きく見える。…って、あれ? 距離、だいぶ近くない? 後ずさりしようと一歩下がろうとしたがすぐ背中が壁に当たる。そういえば壁に背を預けてたんだった…。 逆にマヤノトップガンは更に一歩詰めてきた。もう身体と身体がぴったりと密着する距離だ。 「トレーナーちゃん。それはだいぶ前にもう話し合ったことでしょ?アタシも…マヤもおんなじ気持ちだよ。  トレーナーちゃんに見ていてほしくて、夢中でいてほしくて…マヤもずっとトレーナーちゃんに夢中だった。  気持ちは今でも変わらないよ…?マヤね、トレーナーちゃんといるといっつもドキドキしてる…☆」 「ま、マヤノ…?ちょ、近いよ…?それになんだか、怖…」 いつもは稚気に富んでいるマヤノトップガンの瞳が今は怪しく滑り輝いている。 恐ろしいぐらい膨大な熱量を視線を通じて注ぎ込まれているのに目を逸らせない。凄い磁力が働いてるみたい。 いつの間にか私を逃さないように両手で彼女が壁に手をついていた。もう私に逃げ場は無い。 ぷっくりと膨れたマヤノトップガンの薄桃色の唇をちろりと赤い舌が一瞬這いずった。 「マヤね。競技者じゃなくなってもずっとトレーナーちゃんと一緒にいたいんだ。  でもトレーナーちゃんにはトレーナーでいてほしいとも思うの。マヤに見せてくれたキラキラを他の子にも見せてあげて欲しい。  だから…ね?わかっちゃったんだ。トレーナーちゃんをお嫁さんにすればずっと一緒にいられるって」 あ、駄目だ。 これ、頷くしか無いって私の心の中の何処かが納得しちゃってる。 この子に自分でもどうかと思うくらい惚れ込んでるなんてだいぶ前から分かっていたことなのに、今更気づくなんて滑稽だ。 「ね、トレーナーちゃん。マヤが引退したら、マヤのものになってほしいんだ。ユー・コピー?」 少しずつマヤノトップガンの微笑みが近づいてくる。もう息遣いさえはっきりと聞き取れる。 私は首筋まで真っ赤にしながら、一回りも小さなこの大人になりかけの少女の前でぎゅっと目を閉じた。 あはっ、と漏れるように小さく響いた笑声はびっくりするくらい蠱惑的な響きだった。 「嬉しい。一緒にいっぱいワクワクして、いっぱいドキドキして、いっぱいキラキラしようね。  だから───ずっとマヤのこと、目を離さずに見つめていてね。トレーナーちゃん…☆」 唇に触れたのは、柔らかくて、瑞々しくて、冷たいのに熱い、例えようの無いもの。 強い電流を帯びていて、通電した途端に脳までダイレクトに届いて道中の回路をショートさせた。 生まれて初めてのキスは歳下の女の子からでした。 どうも私の人生は、この子によって徹底的に幸せにされてしまうらしく─── 「うわぁ!?」 そこで私は目が覚めた。 何かこう、信じられないような物凄い夢を見ていた気がする…! ここ何処だっけ、とキョロキョロあたりを見回してすぐに気付いた。 座席に座るお尻に伝わる独特の振動。あっという間に流れていく窓の外の景色。ここ、新幹線の車内だ。 そうだった。トレセン学園の広報イベントで地方に出向いた帰りだったっけ。いつの間にか居眠りしていたみたい。 汗を拭おうと片腕を動かそうとしてぴくりとも動かない。横を向いた。 隣の席ではマヤノトップガンが私の腕を抱き枕にして実に幸せそうに眠っている。 そういえば壇上では凄く張り切っていたものね。お陰で会場は大盛りあがりだったよ。 私は腕を振りほどかずに彼女へそのまま貸し出すことにした。 「はぁ。それにしてもどんな夢だったか…」 じっと寝顔を見ていると、「トレーナーちゃんだいすき…☆」と寝言を呟いていた。 …あれ。なんで私、今顔を赤くしているの。 まったく、寝ているときでさえ人をびっくりさせる子だ。でも温かい気持ちになってつい微笑んでしまった。 何かいい夢でも見てるのかな。見てるといいな。これからも一緒にワクワクしようね、マヤノ。 K バーベルを上げ下げしていたマヤノトップガンがぽつりと呟くように言った。 「トレーナーちゃん、昨日の夜パパとママと一緒にご飯食べたでしょ」 ぎくり。陪審員の鋭い指摘に被告人は思わずトレーニングメニューの記載されたルーズリーフを落としかけた。 「な、なんでそのことを知ってるの」 「分からないわけ無いでしょ〜!パパもママも写真付きで自慢してくるんだもん!  トレーナーちゃんとお食事に行っちゃった〜、てへぺろっ☆ってマヤのスマホに送ってくるんだよ!」 パパノトップガンとママノトップガン!? 想定外の裏切りに返す言葉を失った私を前にして、ベンチプレスの台の上からマヤノトップガンはじろりと睨みつけてきた。 への字にひん曲がった唇に半目。あからさまに不機嫌そうな顔つきだった。 「も〜、トレーナーちゃんはマヤのなのに!しかも今日だけじゃなくてもう何度も行ってるって言ってたよ!?  パパもママもトレーナーちゃんのこと好きすぎ!マヤも一緒に行きたかった〜!」 「ほ、ほらその時間は寮の門限過ぎてるし、みんなお酒も飲んでたし、ね?」 「そういう問題じゃないんです〜!これはオトナの信頼関係の問題なんです〜!  あーあー、マヤだけ仲間外れなんて傷ついちゃったなー!これは修復ふかのーな傷かもしれませーん!ふーんだ!」 寝そべったまま頬を膨らませてふんとそっぽを向くマヤノトップガンを前に私ははわわと慌てるしか無かった。 絶対にこの子はこういう反応するだろうからなるべく内緒にってあのふたりには言ったのに! 「で、でもマヤノ。私はマヤノをご両親から預かっている身でもあるでしょう  そのご両親から誘われたら私からは断りづらいというか…ね?」 「ご飯美味しかった?」 「はい…美味しかったです…薄給の私だと思わず躊躇しちゃいそうなレストランでした…」 いくら担当がGTを獲ったとはいえトレーナーにはボーナスが出るくらいで基本的には新人の給料。 こうして私はパイロットだというパパノトップガンとの経済力の差を痛感するのだった。とほほ。 「もぉ〜今日はデートするしか無いんじゃないかな〜!トレーニングはおしまいにしよっかな〜!」 「そんなぁ、もうちょっと頑張ろうよぅ…」 へそを曲げるマヤノトップガンを前に、私は途方に暮れる他無かった…。 …それが昨日の話。 「マヤはキラキラなオトナになろうとしてるウマ娘だからね。  ひろ〜い心でトレーナーちゃんのこと許してあげよっかなって思うんだ〜。だからこれからもパパとママとご飯食べにいっていいよ☆」 などと、マヤノトップガンは180度違うことを言い出した。 怪しい。あまりにも怪しい。心なしか目も泳いでいる気がする。 …カマをかけてみることにした。 「…お父さんとお母さんに何か言われた?」 「えっ!?ななななな、なんのことかな〜!?マヤわかんないな〜!?」 効果は覿面。彼女の耳がぴーんと立ったと思いきや、尻尾が物凄いスピードでぶんぶんと振られだした。 何でも器用にこなすマヤノトップガンだが、嘘を付くことだけは物凄く下手だ。こんなふうに。 「ほ、ほらほら!今日も一緒にがんばろ〜☆マヤ、なんだかいっぱいトレーニングしたい気分だな〜☆」 「…ソウダネ」 これ以上の追求は藪蛇になりそう。除け者にされて不貞腐れるこの子をご両親がどんな魔法をかけて説得したのか。 知りたいようで知りたくない。 ───それがマヤノトップガン家による私の包囲作戦の一端だったことを知るのはかなり後になってのことである。 L 慣れない下駄を転がして待ち合わせの場所に到着すると、既にマヤノトップガンはそこへいた。 輪投げの屋台で輪っかを投げている。私の気配に気づいたのか、突然振り向くとすぐさま破顔した。 もうじき打ち上がる花火にも負けない、それはそれは華やかな大輪の笑顔だった。 「わぁ〜♪トレーナーちゃん綺麗〜!すっごく大人っぽ〜いっ!  うんうんっ、やっぱりトレーナーちゃんにも浴衣着て欲しいんだってパパとママに頼んで大正解だったね!」 「あ、ありがと…。でも良かったのかな。マヤノのお父さんとお母さんには私お世話になりっぱなしで」 「いいのいいのっ!ママが昔着てた浴衣らしいし、それにママ嬉しそうだったでしょ〜?」 それは確かに。着付けを手伝ってもらったママノトップガンは終始にこにこ笑っていた。 きっと安くはないものだろう、上質な風合いの紺の浴衣。朝顔の紋様が美しい。 そもそも夏祭りに浴衣を着て出かけるということ自体が生まれて初めての経験でどうにもくすぐったかった。 「でもマヤノの浴衣もよく似合ってるよ。なんというか、マヤノらしい」 「マヤらしい?んーと、それって可愛いってこと?それとも大人っぽいってこと?」 「両方かな。素敵だよ」 「えー?なーんかはぐらかされた気がするけど、まいっか!そうでしょそうでしょ、似合ってるでしょ☆」 ごめんなさい。後者はちょっと少なめです。 ただ似合っているのは本当だった。初夏の太陽のように元気いっぱいのマヤノトップガンに相応しい橙色の浴衣。 普段は下ろしている長い髪を結い上げているのはいつもと違う印象があって大人っぽさを感じなくも無い。 浴衣を見せびらかすようにくるりとその場でターンしてみせるようではまだまだあどけなさが勝るけれど。 「ごめんね。なるべく急いだつもりだったけれどちょっと待たせちゃったかな」 「え?マヤ気にしてないよ?待ち合わせしたいって言ったのはマヤだし〜、それにデートする相手を待つ時間ってなんだかすごく大人な感じするもん♪」 デートはやっぱり待ち合わせが大事なの!と先に夏祭りの会場へ向かっていたマヤノトップガンはそう言ってきゃーっ☆とはにかんだ。 楽しげなその様子につい微笑んでしまう。 夏季合宿からこっちに戻ってきた晩夏の夏祭り。この子に行こう?と誘われれば私は断れないし断らない。 結局私はこの子が喜ぶならなんだって嬉しいのだ。 と、マヤノトップガンが手に提げていた巾着袋から何かを取り出した。稚気に満ちた表情で。 「さっきここで貰えたんだ〜。はい、トレーナーちゃん手を出して!」 「…?こう?」 差し伸べた私の手を取ると、その薬指に彼女は何かを嵌めた。 …指輪だ。といっても子供への景品に配られていそうな、本物ではなく玩具の。 嵌め込まれた色硝子が連なった提灯の明かりでぴかぴかと光り輝いていた。 とはいっても、玩具の指輪を貰ってもなぁ。…苦笑しかけた私の指輪が嵌った手をマヤノトップガンがそっと握った。 優しく、だが握ったものを決して離さない独特の力加減だった。 「今は玩具の指輪だけど〜、いつかちゃんとしたのをあげるね?トレーナーちゃん。  今日の浴衣に負けないくらい、トレーナーちゃんによく似合うシックで大人なデザインのをね」 「…う」 自分の頬に朱が差したのを自分でも感じ取れた。…だんだんこの子が本気なのが分かってきたので。 そういう話をするときのマヤノトップガンは思わずぎくりとするくらい色気のある表情をするので。 小さな手に引かれ、夏祭りの喧騒へと混ざっていく。 “デート”中、妙に私はのぼせたような気分だった。 M トレーナーちゃんは今晩もべろんべろんに酔い潰されてしまいました。 それもこれもパパとママが調子に乗ってトレーナーちゃんに飲ませすぎるからなのです。 「マヤノのお母さんはね〜、優しくて〜。いい人だよね〜。えへへ。  あのね〜、私ね〜、お母さんの顔知らないんだ〜。私が生まれた後すぐに亡くなったんだって〜」 アタシの膝枕の上で太平楽に伸びたトレーナーがそんな話をしたのは夜も更けた頃合いのことだった。 こんなふうにトレーナーが酔っ払っているのを見るのも一度目じゃない。 パパとママにすっかり気に入られたトレーナーは既にアタシの帰省のたびに一緒に来るものと認知されつつあった。 最近はふたりともマヤが帰ってくることより楽しみにしてる気がする!マヤだけのトレーナーちゃんなのに! 「次はいつ帰ってくるんだ」って、絶対マヤじゃなくてトレーナーちゃんが目当てでしょ! ともあれ、そのたびにパーティやって大盛りあがりするせいで、客間のベッドに酔ったトレーナーが転がるのは恒例だった。 判断力はすっかりお眠なんだろう。アタシにこうして膝枕されても気にせずむしろ積極的に擦り寄ってくる。ちょっと可愛い。 「マヤノのお父さんも面白くていい人だね〜。カッコいいし。  でもね、私のお父さんも負けてないよ。私をひとりきりで育ててくれたもん。朝から夜まで働いて…」 「トレーナーちゃんのパパか〜。マヤも会ってみたかったな〜」 こんな素敵な人を育てた人なんだから、きっと素敵な人だったんだろう。 でもそれが叶わないことをアタシは当人から聞いて知っていた。 普段よりちょっとふにゃふにゃした喋り方で、えへへと照れくさそうにトレーナーは笑った。 「うん。私も紹介したかったなぁ、マヤノのこと。ちゃんと私は夢を叶えたってこと。  お父さんと私の共通の楽しみだったの。ウマ娘レースの観戦。いつの間にか私はその世界に関わるのが夢になってた。  昔からお父さんに迷惑かけられないから我儘言わないようにしてたけど、思い切って告白したら応援してくれてね…。  でも晴れて中央のトレーナーライセンス取れて、これからって時にお父さん、死んじゃった。  長年の働きすぎで身体が弱ってたんだって。本当に、突然…」 ころんとアタシの膝の上でトレーナーが転がった。ベッドに四肢を投げ出して、アタシからは表情の見えない格好で。 あはは、とトレーナーが笑う。今晩のトレーナーはいつもよりよく笑った。 「たまに思うんだ。私こんなに幸せでいいのかなぁって。  マヤノみたいな凄いウマ娘の担当になれて、重賞だってあなたが獲ってくれて、憧れの舞台にいて。  私、お父さんに何にも返してあげられなかったのに…。私だけがこんなに幸せでいいのかな…」 声の調子はデタラメに明るかったけれど、それがさっきと違って悲しみだってことくらいアタシにもすぐ分かった。 トレーナーを見ていると大人というのがよく分からなくなる。 ドラマや映画で見る大人が相手への気持ちをなるべく秘密にするのはカッコよくて素敵なのに、トレーナーはいつだって辛そうだ。 うんと頑張ったりお酒を飲んだりしないと自分にも素直になれない。それが大人なんだって。 それはアタシが“わかった”ことを言葉にして伝えるのが苦手なのとどう違うんだろう。 それでもアタシはなんとか言葉をひねり出した。これもお酒のせいなのか、急にしょんぼりしだしたトレーナーが放っておけなくて。 「でもねトレーナーちゃん。マヤ思うんだ」 くるりとトレーナーが寝返りを打った。酔っ払いの赤ら顔がきょとんとしていた。 「マヤのパパはね、マヤがキラキラを追いかけてるとそれだけでキラキラ出来るって言うの。  マヤは最初はそれがよく分かんなかったの。どうしてなんだろ〜って。ずっとずっと。  でも今は分かるよ。マヤがレースでびゅーんって走ると観客席のみんなもキラキラを見つけた笑顔で喜んでくれるでしょ。  それはマヤのレースにワクワクを感じて、マヤのファンになってくれたからなんだよね。  それでわかったの。パパがマヤを見てたらキラキラ出来る理由。  だって───パパはマヤの一番最初のファンなんだもん。  それってね、トレーナーちゃんのパパも一緒じゃないかな〜。ね?だからトレーナーちゃんのパパは…最初からキラキラしてたんだよ」 それを聞いたトレーナーは最初何も言わなかった。 眠ってしまったかのようにぼんやりとしていた。やがて、紙が擦れるような声音でぽつりと呟いた。 「そうかなぁ」 区切って、もう一言。 「そうだったらいいなぁ」 そしてトレーナーちゃんはめそめそと泣き出してしまったので、マヤはいっぱいよしよししてあげたのです。 大人って難しいな。いつまでも泣き虫から卒業出来ないんだもん。トレーナーちゃんみたいに。 N トウカイテイオーは激怒した。 必ずかのマヤノトップガン陣営よりトレーナーとの仲良し度で勝たねばならぬと決意した。 だってさ〜聞いてよ〜この前のレースのことなんだよ〜! マヤノってばレース前に何の動画見て思い付いたか知らないけど大逃げ作戦やって大失敗したんだ。 マヤノのトレーナーちゃんが恐れていた事態だったね。マヤノのエンジンが停止しちゃったんだから。 ゴール板はまだ遥か先、最後の直線にさえ入ってない。なのに燃料が無いんだよ。 エンジンが両方とも停止したと聞いて、たまたま観客席でトレーナーちゃんの隣で観戦してたボクは確かこう言ったと思います! 「なんて事だ、もう助からないゾ!」 普通のウマ娘なら万事休すになっても仕方ないんだけどそこはマヤノなんだよね。 マヤノは天才のボクが認めるくらいの天才だからさ〜、ばばっと走り方変えて何とか保たしながらコーナー入ったんだ。 でもそれで失速したし後続は追いついてくるしで時間が無い。マヤノ風に言えばメーデーだよ。 そこでどんな顔してるかなってマヤノのトレーナーちゃんの顔を見てみたんだ。さぞ慌ててるんだろうな〜って。 ところがさぁ、慌ててるといえば慌ててるんだけど全然目が死んでないんだよね! 普段はマヤノに振り回されてあたふたしてる人が凄い目力でレース場を睨みつけてさぁ。 どうにかして生き残ろうとしてるマヤノを必死で追いかけてるんだ、視線が。 マヤノが空でエンジンが止まっちゃった飛行機の機長ならトレーナーちゃんは副機長って感じの顔でさ。 そこでボクわかっちゃったんだよねマヤノじゃないけど。これマヤノとテレパシーで会話してるって。 『わわわっどうしよっ!?でもこのコーナーでもう一度スパートかければギリギリ後ろは間に合わないんじゃないかな?』 『ダメだよマヤノ!それじゃ保たない!墜落しちゃう!後ろに追いつかれてもいいからこのコーナーで脚をためて!』 うん。間違いなくそう話してたね。絶対そうだ。 それが伝わったんだろうね〜。マヤノは落ち着いてゆっくりとコーナーを回っていった。 みるみるうちに後続に取り込まれてさぁ。実況も大騒ぎだったよ。マヤノトップガン万事休すってさ。 でもね。最後の直線に入るところでね、絶対、絶対だよ。間違いなく一瞬だけマヤノがこっち見たんだ。 正確にはボクらじゃなくて、自分のトレーナーをね。 その時もきっとテレパシーで会話してたよ!ボクが言うんだから間違いないもん!内容はね、多分こう! ギリギリまだ集団の中でも前の方だったけどバ群に取り込まれて進路は塞がれてる。絶体絶命でマヤノはトレーナーちゃんに念じたんだ。 『それじゃ…テイオーステップで行こう!』 …あはははっ!今思い出すだけでも笑っちゃうよあの時のマヤノのトレーナーちゃんの顔! まるでドラマの役者みたいな大げさな表情で『!?』ってさ!ボク吹き出すの堪えるの頑張ったんだからね! で、マヤノはボクそっくりの足捌きでひょいひょい前を走るウマ娘を躱し始めたんだ。 言っておくけどそんな簡単じゃないよボクのステップ。ボクほどじゃないとはいえ真似出来るのはマヤノくらいじゃないかな〜。 『ゴール板直前までテイオーちゃんの真似のステップでいけば、なんとかなるよっ☆』 『!?』 …でも畳み掛けないで欲しいよね!トレーナーちゃんそういう顔してたよ! ぶっつけ本番の足捌きなんだから心配なのは分かるけど不安半分キラキラ感じちゃってるの半分でさ〜! もうときめく女の子になっちゃってるんだよね〜! あ〜、ま〜たこのトレーナーマヤノにきゅんきゅんしちゃってるな〜ってのがバレバレなんだよ。 まあ、ね。気持ちは分かるよ。 最終盤まで逃げの脚使いで来たのを直前で差し型にチェンジしてハナ差で1着取るなんて芸当、マヤノくらいにしか出来ないよ。 これぞ変幻自在の脚質ってね。ちょっとボクでも真似出来ないな。一緒に走ったら負けないけどね。 あんなの見せられたら担当トレーナーならきゅんと来ちゃうのは分からないこともない! 違う違う、だいぶ話が脱線しちゃった。つまりボクが言いたいのはこういうこと。 あんな無茶苦茶なレースをしてもお互いのことを信じ合える関係を思い切り見せびらかされて悔しいってこと! むーっ!なんだよなんだよ〜!見せつけてくれちゃって〜!ボクとキミだってすごいんだぞ〜! トレーナー!次のレースはマヤノに負けないくらいボクとキミの絆を感じさせられる凄いレースにするよ! え?どうやって?…そ、それは今から考えるっ!とにかくマヤノがわわーってなるような…。 …ボクがボクらしく走るのが一番?わ、分かってるじゃんトレーナー! 無敵のテイオー伝説に必要不可欠なのがキミなんだからね!えへ、えへへへ…♪ O 控室ではマヤノのトレーナーがどう見てもイラついていた。 もう全身で不機嫌を訴えてるんだ。冷え切った無表情で周りの空気を凍らせている。 神経質にボールペンの頭をカチカチとノックし続けていた。 一番怒っていいはずのマヤノの方が隣の席であたふたしちゃってるくらいだ。 「と、トレーナーちゃん。もしかしてなんだけど〜…滅茶苦茶怒ってる…?」 「怒ってないよ」 口ではそう言うんだよね。マジギレしてる人って。青筋浮いちゃってるよ? この人な〜。マックイーンタイプなんだよね〜。 自分が我慢すればいいことならとことんまで溜め込めるけど地雷を踏まれた途端堪忍袋があっという間にプッツンってなるんだ。 実際さっきもキレかけたところをマヤノがこっそり尻尾で撫でて落ち着かせてたもん。立場が逆だよ。 普段から真面目で努力家でひたむきで…って人ほどこういう時怖いんだな〜…よく覚えとこ。 「ま、マヤは気にしてないよ!確かにちょっとむかむかってきたけど、今は全然平気だから!」 「…私は全然平気じゃない!」 あ、キレた。 「何よ!あの記者ったらねちねちねちねち、レースとは関係ないマヤノのプライベートに首突っ込んできて…!  下世話!下品!汚らしい勘繰りまでして!ふざけんじゃない!マヤノを何だと思ってるの!」 マヤノトレーナーチャンはいきなり立ち上がると息継ぎ無しにそう吠えた。 うん。まあそういうことなんだ。 記者会見にちょっと困ったタイプの記者が紛れ込んでいた。ゴシップ大好物って感じのね。 それがしつこくマヤノに粘着してきたんだ。今回のターゲットはマヤノってことだったみたい。 あれはボクもやられたことあるけど、こっちをイラつかせて失言狙ってくるんだよね。 で、まんまと引っかかりかかったのがトレーナー。我慢できたのがマヤノ。 マヤノはいつも大人のウマ娘になるんだ☆って言ってるけど、あの場は間違いなくマヤノの方がトレーナーより大人だったよ。 けれどマヤノのトレーナーはまだ憤懣やる方なしって様子だった。 「私のことはどうとでも言えばいいけど、ちゃんとマヤノは頑張ってるんだから…!  偏見や憶測で好き放題…!どうせまともな記事を作る気もないんでしょあの記者!くそっ歯痒いなぁ!」 「…どうとでも?」 おっ。空気がまた変わったぞよ。 今度はマヤノの目の色がおかしかった。ぽろりとトレーナーが溢した言葉の端を捉えて瞳の奥でどろりと泥が波打った。 「どうとでもよくないよ。そんなの全然キラキラしてない。  トレーナーちゃんのことあんなふうに言われたの、マヤすっごくイヤだった。全然どうでもよくないよ」 「マヤノ。いいの。ああいうのは本来私が引き受けなきゃいけないことで、マヤノは…」 「全然どうでもよくないよ!」 うわーっ今度はマヤノが立ち上がって吠えたぞ。だよね〜あの時はボクも「あ、マズい」と思ったもん。 話が不意に逸れてマヤノのトレーナーの方に行ったんだ。例の下世話な感じで。 もうね、あからさまだったよ。マヤノがカチンと来て顔色変えたの。堪えられたのはマヤノがカレンから付き合い方学んでたからかも。 担当されるウマ娘と担当するトレーナー。ふたりは間近で睨み合った。 「平気なわけ無いじゃん!ホントはあんなふうに絶対言われたくなかった!だってだいすきだもん!マヤはトレーナーちゃんのこと!  トレーナーちゃんにお母さんがいなかったことをあんなふうに言わなくなっていいじゃん!あれすっごくイヤだった!」 「はぁ!?それを言うなら私だってマヤノのことだいすきだよ!マヤノのだいすきよりもっとだよ!  だからマヤノに抑えてって手を尻尾で撫でられたとき、涼しい顔してるマヤノを見て悔しくて悔しくて…!」 「だってそうしなきゃトレーナーちゃんあの記者さんに噛みつこうとしたでしょ!?がぶーって!  面白いわけ無いじゃんあんなの!だけどマヤは我慢したのに!トレーナーちゃんのばか!短気!子供!あと…ばか!  トレーナーちゃんのだいすきよりマヤのだいすきの方が上だもん!だいすきだからイヤだったんだもん!」 竜呼相打つ。お互いノーガードで殴りまくってる。 普段は器用に人間関係構築してるマヤノがこんなふうにガチンコでぶつかりあってるところはなかなか見ないから新鮮だ。 それだけ信頼関係が築けてるってことなんだろうけどさ。ともあれ不思議と嫌な予感しかしないぞ〜。 そして案の定ボクの予感は的中した。まあ、ね。ボクは天才だからね。第六感ってやつも発達してるんだろーね。はは…。 「「テイオー(ちゃん)はどう思う!?」」 「…お互い気の済むまで言い合ったらいいんじゃないかな〜」 ひええ。ボクにどうしろっていうのさ〜。