「本当……だんだん……眠く……」 「実は腕を爪先で少々、突いただけだったりして、ね」 アグネスタキオンに注射をされたと思い込んだダイワスカーレットは保健室のベッドの上で深い眠りについた。 「おやすみ、スカーレット君。しっかり休むといい」 スカーレットを見るタキオンの目は何時ものように実験対象を見る知的だが、何処か狂気的な物ではなかった。我が子を見守る母のような慈愛に満ちていた。 「プラセボ効果で入眠してしまうほどなら尚更だ」 慈母のようなスカーレットを見る目はそのままにやや批判的などこか面白そうな口調でタキオンは保健室の入り口を見た。 「君も試して見るかね?」 そこにいたのは一人の男性、スカーレットのトレーナーだ。 トレーナーは昔の汚点を見るかのように苦みばしった表情でタキオンを見るとため息をついた。 「……君の薬はもう懲り懲りだ」  「そう言うなよ、君と私の仲じゃないか『モルモット』くん」 トレーナーの言葉にタキオンは口元を僅かに歪め皮肉な笑みを浮かべた。 記憶の中にあるかつての希望に満ちた朗らかな笑みではなく、出会った頃のような全てを諦めているシニカルな顔。 二人の間に走った緊張など知りもしないスカーレットは安らかな寝息を立てていた。 「久しぶり、だな」 緊張から唾を飲み込む。 喉が僅かに鳴った。 トレーナーはゆっくりと言葉を紡ぎながら過去を思い返す。 端的に言えば、タキオンのプランAは……失敗だった。 成功したと思われたそれは破滅までの先伸ばしでしかなかったとは。 それが分かったのはトゥインクルシリーズが終わりドリームトロフィーリーグで新たな1歩を踏み出そうとした矢先。 夢に向かって踏み出す筈だったタキオンの脚は硝子細工のように砕け散った。 緊急治療と大手術の末に医者から告げられたのは二度と全力では走れないと言う事実上の引退告知。 競技者としての終わり、トレーナーとウマ娘という関係の終わりでもあった。 それでも構わなかった、タキオンが新しい道を選び彼女と共にいられるなら。 だが、ある日アグネスタキオンは姿を消した。 それから十年以上世界を飛び回って彼女を探し続けた。 香港、ドバイ、イタリア、デンマーク、ノルウェー、イギリス、アイルランド、フランス、ドイツ、南アメリカ、カナダ、アメリカ、アルゼンチン、ニュージーランド、オーストラリア。 何時しか世界を一周した頃にはそれなりに名前が売れたトレーナーになっていた。 ちょうど日本に戻ってきた頃、代替わりした学園長からの招聘を受け、トレセン学園に戻る事にした。 いい加減彼女の走りを面影を追うのを止めようと決めたからだ。 その矢先だった。 漸くあの走りから決別した筈が、全く似ていないのに彼女の走りを感じさせるあの走りを目にしたのは。 そのウマ娘はダイワスカーレットと言った。 気づけば一切の躊躇いなくスカーレットをスカウトしていた。 オーバーワークをしたがる兆候があるが、それを補って余りある程にスカーレットの走りには光るものがある。 彼女とならもう一度ドリームトロフィーリーグを目指せると決心した。 「ああ、十数年ぶりだね」 懐かしそうに言ったタキオンの言葉でトレーナーの意識は現実に引き戻される。 タキオンはかつての勝負服を思わせる白衣に身を包んでいた。 「今まで、いや、今は何を?」 トレーナーの言葉にタキオンは口元を歪め、白衣の胸元の身分証を指差す。 アクリルケースに入った身分証にはトレセン学園保険医、アグネスタキオン。と書かれている。 「この通り、今はトレセン学園の保険医さ。 おっと静かに頼むよ、スカーレットくんが起きてしまう」 口元に人差し指指を当て、トレーナーに笑いかけながらスカーレットの眠っているベッドに遮音カーテンで覆う。 良く見ると、片足を引き摺っていた。 「彼女が、その……スカーレットが君のプランBなのか?」 絞り出すようにトレーナーはタキオンへと問い掛ける。 「いや、敢えて言うならプランCと言ったところかな」 「それは…いや止めておこう」 トレーナーはタキオンの言葉に問い掛けようとして、首を振って止めた。 タキオンが話すとは思えなかったからだ。 「1つだけ教えてくれ、タキオン」 代わりにタキオンの目を真っ直ぐに見詰めた。 「私と君の仲だ。1つだけなら答えよう」 スカーレットは笑みを止め、真剣にトレーナーを見つめ返した。 「君のやろうとしている事はスカーレットの意思に反するような事じゃないんだな」 「勿論さ!私がモルモットくん以外に投薬実験をしたり他のウマ娘を巻き込んで騒動を起こした事があったかい!?」 タキオンの自信満々な態度をトレーナーは冷たい目で返す。 騒動なら幾らでも。と返す程子供ではないので黙っていたが。 「ま、まぁ兎に角だ!君と私と、スカーレット君でウマ娘の高み、スカーレットくんの言う1番を目指すのは悪くないと思っているよ」 トレーナーの冷ややかな視線は多少タキオンを慌てさせたのか僅かに声が上擦っている。 「……それはスカーレット次第だな」  少なくとも嘘をついている訳ではない。 力になってくれるなら断る理由もない。 「勿論さ、スカーレットくんが嫌がるなら残念ながら仕方ない。プランCはそれでも検証出来るからね」 タキオンの言葉が引っ掛かる。 プランAはタキオン自身の脚の強化。 プランBはタキオン自身への投薬実験を経て完成したものを対象(以前はマンハッタンカフェだった。)に渡し強化する。 と言うことはプランCはプランBとはちがう…? 「もう用は済んだかい?スカーレットくんが起きると行けないからトレーナー室へ帰りたまえ」 右手、と言っても長い袖に隠れているが、長い袖をブンブンと振り出ていくように促す。 「一つ言い忘れていた。 ……頼むタキオン、二度と俺の前から勝手に消えないでくれ」 タキオンの華奢な体を力強く抱き締める。 二度と離さないと言わんばかりに。 「強引になった物だね、モルモットくん」 「あれからどれだけ経ったと思ってる」 タキオンの顔は僅かに赤面していた。 「悪いが、スカーレットを頼めるか?」 「勿論さ。私も彼女の事は気に入ってるんだ」 タキオンの気に入ってるはろくな物じゃないのはマンハッタンカフェを見れば明らかだが。 トレーナーは保健室から足早に立ち去った。 トレーナーが保健室から離れたのを確認すると、タキオンは遮音カーテンを開け、スカーレットの顔を覗く。 その顔は実験対象を観察するというより、子供の寝顔を見守る母のようだった。 「良くここまで育ってくれた。 両親からも愛情を貰って育ったんだね」 「ママ……」 スカーレットの寝言にタキオンは優しく頬を撫でる。 「許してくれとは言わないよ、スカーレット……。君を父親から引き離して母親をやれなかった私を」 「だぁから俺は言ってやったんだぁ!お前はトレーナーとして一人前になるにはまだ早いってなぁ!タキオン聞いてるかぁ?」 「はい、はい、ちゃんと聞いてるよ」 トレセン学園近くの居酒屋の片隅。 私、アグネスタキオンは元トレーナー通称モルモットくんの向かいに座り、食事と飲酒をしながら一方的な会話に相づちを打っていた、所謂愚痴を聞いている。 私の記憶が正しければ、スカーレットくんをスカウトしたモルモットくんに押し掛け弟子が出来たと話していたのが半年前。 あいつは筋が良い、サブトレーナーにした、すぐに一人立ち出来ると嬉しそうに話していたのが三ヶ月前。 そして今は…… 「確かにスカーレットにはサブトレーナーの方が相性が良いとは分かっていたがぁ!あいついつの間にあの面倒くさいスカーレットから信頼されてたんだぁ?まぁあいつなら上手くやってくれるだろうが……やっぱりなし!」 つまる所サブトレーナーと担当しているウマ娘の一人であるスカーレットくんが相性が良いので嫉妬しているわけだ。 嫉妬というよりは娘が余所の取られないか心配でならない父親と言ったところだが。 ウマ娘とトレーナーの相性は何より重視される。 例えばゴールドシップ。破天荒な彼女と組むには同じくらい破天荒かそれに着いていける人材が相応しい。 サイレンススズカであれば、意外に頑固な彼女に枷を嵌めるような事をせず、行き過ぎた場合は的確にブレーキを踏める人間でなければ危うい。 そして我が元トレーナーくんは担当している娘に入れ込むが余計な口出しはせずに放任主義と言うかウマ娘の自主性に任せる方針だ。 担当しているウマ娘の一人であるスカーレットくん、ダイワスカーレットはオーバーワークし過ぎる癖があるから少し口煩い位の方が丁度良い。 私とモルモットくんは…言うまでもない、120点の相性だ。 そもそも彼の方から狂気じみた目でスカウトしてきたのだから相性が悪いわけがない。 ん?なにか問題でも?私は皐月賞もダービーも菊花賞も取った三冠バだが? スーパークリーク?ノーコメントだ。 「うぅ…だが、スカーレットの今後、URAファイナルの事を考えるとサブトレーナーに任せた方がいいんだ…」 モルモットくんはまだ愚痴っていたらしい。 感情が昂っているのか顔が発光している。 モルモットくんは投薬実験の影響、後遺症で感情が昂ると顔が光る。 十数年振りに見るとなんとも奇妙で異質だ。不気味と言っても良い。 当時の私が何を思ってモルモットくんを光らせようと思ったのか全く理解が出来ない。 ……いや、きっと面白そうだからとかその辺りかな? モルモットくんが完全に酔い潰れ、飲み会はお開きになり、私はモルモットくんを部屋へと連れて帰っている。 普通逆じゃないのか?と言いたいが、あまりお酒は飲まない(苦くて嫌い)のでまぁ仕方ない。 「ほら、モルモットくん君の部屋に着いたよ」 あらかじめ作って置いたコピーした鍵を取り出し、ドアを開ける。 ベッドへと適当にモルモットくんを放り投げと部屋を見渡した。 懐かしい匂いと光景だ。 この匂いを逃がすまいと鼻孔から肺を満たすように息を吸った。 モルモットくん、トレーナーの部屋は十数年前と同じ場所だった。 なんでも夜になると人魂やオーブが出ると曰く付きの部屋になってしまい住む人がいなかったらしい。 気になって調べたら部屋の中からモルモットくんに投与したものと同じ発光物質が検出されたがきっと偶然だろう。偶然とは恐ろしいね。 ベッドのモルモットくんを見ると苦し気に呻いている。意識を取り戻すまではいてあげるとしよう。 折角なので送ってあげた代金代わりに肌着の一枚でも貰って帰ろうかとタンスを漁ったが新品ばかりで録な収穫はなかった。 代わりに冷蔵庫に入っていたきんぴらごぼうを全部頂いた。相変わらずおいしい。 「モルモットくん、私はこれで帰るよ」 ぺしぺしとモルモットくんの頬を叩く。 「タキオン、今日はとまっていくのか…外泊許可はだしてるんだろ…」 まだ意識が混濁しているらしい。十数年前と勘違いしているようだ。 「……仕方ないね、明日の朝食は君が作ってくれるんだろうね?」 このまま放って置いてなにかあっても困る。 仕方ないから!仕方ないから今日はモルモットくんの部屋で泊まるとしよう。 「うん、がんばって作る……一緒にねようか」 言うが早いかモルモットくんはかなり強引に私をベッドに引きずり込み、抱き締めたまま寝てしまった。 身動きが取れない。 「全く仕方ないね、君は……」 モルモットくんから匂うアルコール臭と懐かしい匂い、体から伝わる体温を感じながらいつしか私も眠りへと落ちていた。 さて、少し昔の話をしようか。 今から十数年前、トゥインクルシリーズを賑わせたあるウマ娘がいた。 十数年前は少し昔じゃない?じゃあ昔の話だ。 そのウマ娘は当初のやる気の無さそうな態度とは裏腹に重賞を取って走りで人々を魅了し超高速のプリンセスと呼ばれた。そう、私アグネスタキオンの事さ。 我ながらまるでシンデレラのようじゃないか。 ……嗚呼、まさしく当時の私は自分が魔女だと思っているシンデレラだった。 魔法のような奇跡でプランAは成功した、そう思い込んでいたわけだ。 でもシンデレラは12時を回れば魔法が解けるなんて子供でも知っている。 魔法が解けたのが大レースの最中に足が折れるなんて劇的な物であったなら救いはあったかもしれない。 でも現実はそうじゃなかった。 無理をすれば皺寄せが必ず来る。エアシャカールなら論理的に当然の結末だと言ったかもしれない。 それはドリームトロフィーリーグに向けて調整を始めようかと言う時期。 モルモットくんに見守られながら走り込みで何本か流して体が暖まり、全速力を出そうと踏み込んだ瞬間、強い痛みが走った。 ぱきんとなにかが砕ける音がして私は情けなく悲鳴を上げたのを覚えている。 慌てて駆け寄るトレーナーくんが私を抱き締めて大丈夫だ、大丈夫だ!と声を掛け、医療スタッフを叫ぶように呼んだ。 それからの事は正直あまり覚えていない。 トレーナーくんの話や記録によれば緊急搬送と大手術があったのは確かだ。 私が意識を取り戻したのは3日後、平静を取り戻す迄に更に4日。 意を決した顔付きのトレーナーくんに付き添われ主治医と面会した。 そこで告げられたのは私の足は無惨に砕け散り二度と全力では走れないという引退通告。 思考が出来ずに体が硬直する。リハビリを続ければなんとか歩けるようになるという説明は私の耳を通り過ぎていく。 かくしてシンデレラの魔法は解け、ガラスの靴は砕け散った。 それから一ヶ月は何も考えられず病院のベッドの上でただ無為に過ごすだけ。 モルモットくんは忙しい仕事の合間にそんな私を粘り強くリハビリをするように説得に来てくれた。 主治医や看護師の人達、モルモットくんの説得に応じてリハビリを続けて半年でなんとか歩けるようになり、漸く私は理解した。もう私はかつてのようには走れないと。 退院した後はモルモットくんの家に世話になることにした。 モルモットくん、トレーナーくんは走れなくなっても君を見捨てたりはしない。今度は俺の仕事を手伝ってくれ!君の目に叶う、プランBに相応しいウマ娘を探そう!とか相変わらずの狂気じみた目で私を誘ってくれたんだ。 それから暫くはモルモットくんのサブトレーナーとしてモルモットくんを手伝ったりリハビリをしていた。 夜になる度にあの時の恐怖が、足が折れる音を思い出して、モルモットくんの寝床に潜り込んで……幾度も体を重ねる日々。 正直悪くはなかった。このまま恐怖や過去を飲み込んでトレーナーと一緒になるのも悪くないと本気でそう思っていたんだ。 しかし、情欲のままにお互いの体を貪る日々は、ある日終わりを告げた。 私は妊娠していた。 今から考えればそれを告げればきっとトレーナーくんは喜んでくれただろう。 改めてプロポーズもしてくれたかもしれない。 だが、私にはそれを飲み込む勇気がなかった。 自分の中にもう一つの命が形を成しつつあること。それを、子供を私は育てられるのか、愛することが出来るのか。 なにより、トレーナーくん、モルモットくん、あの人は私と彼の子供を受け入れてくれるのだろうか? 様々な感情がぐちゃぐちゃに入り雑じってパニックになった。 これ以上、モルモットくんに迷惑を掛けられない。 私はモルモットくんの前から姿を消した。 それからどれ程月日が経ったか。 私は大きくなったお腹を抱えて、行き倒れた。 貯金を全部降ろして、行けるところまで行って、そこから更に別の所に行って…… そんな事を繰り返して、北海道の片隅で意識を失った。 幸いにも町医者に担ぎ込まれた私はそこで一人のウマ娘と出会う。 スカーレットブーケ。 私とは真逆の性格だが、人が良く話していて気持ちの良いウマ娘だった。 彼女は夫との間に子供が中々出来ずに悩んでおり、不妊治療に訪れていた。 そこで私の悩み……大きくなるお腹、子供の事を話した所、彼女から思いがけない提案を受け…… 「タキオンさん、いらっしゃいますか?」 聞き覚えのある声に私は意識を覚醒させた。 どうも保健室の机に突っ伏して寝ていたらしい。 「ああ、いるよ。なにか用かい、スカーレットくん」 遠慮がちに保健室の入り口から顔を出す懐かしいティアラと緋色の髪の彼女に私は笑顔を見せた。 さてはトレーナーくんと喧嘩でもしたかな?なんて思いながら。