[Pre] 「確かにあなたの能力はなかなかです。それは認めざるを得ません。  しかしトゥインクルシリーズに出走するウマ娘というものには相応の振る舞いが求められるという自覚が必要になります。  しかしこの際はっきり言っておきますが…そんな態度を続けるようならこちらから選抜レースに推挙することは出来ませんよ」 「…はぁ」 教官のそれはきつい声音だった。しかし聞いていたウマ娘は生返事を返すだけだった。 指で口元を覆うマスクの位置を直す。心の何処かでやる気の萎えた言葉が虚ろに響いていた。 “───そんなこと分かってるっつの。はいはい、どうせキレたら何するか分からない素行不良のウマ娘ですよ” 「次こうしたことがあれば厳正に対処します。いいですね?」 「…はぁ。分かりました」 本当に分かっているのかしら、と疑いの視線を送りながら教官は去っていく。 指導室の椅子に腰掛けていたそのウマ娘はそこで重い溜息を付き、マスクをずらした。 「…ま、いっか。どーせ誰もアタシなんかに期待しちゃ無いし。  今更叶いもしない夢を追いかけるほど夢見がちじゃねーしなァ」 嘯くそのウマ娘の名はオルフェーヴル。ただの、不良ウマ娘だった。 @ 思えば、彼女に対する第一印象は良好なものとはとても呼べないものだった。 そのウマ娘と出会ったのはある曇天の日のことだ。 スカウトが担当するウマ娘を決めるのは選抜レースの結果を主とした上で模擬レースの様子… そして日々の練習に対する姿勢といった要素が理由となる。 自分もそのご多分に漏れず、トレセン学園の広い練習場を駆け回るデビュー前のウマ娘たちの視察に訪れていた。 (なんだかどの子にも魅力があるように見えて悩ましいなぁ) 一生懸命頑張る彼女たちの姿に心のなかで声援を送りながら練習用コースの外周を歩いていた時のことだ。 「…余所見しながら歩かないで貰えます?」 「え?うわっ」 声は足元から聞こえてきた。視線を前に戻すと思わず驚いてしまった。 あと1歩でも踏み出せば爪先で蹴ってしまいそうな距離に、芝の上に座り込んでいるウマ娘がいたのだ。 背格好は中肉中背といったところ。栗毛の髪を無造作に長く伸ばし、だらしなく脚を投げっぱなしにしていた。 いかにも無気力そうな倦怠を眼に浮かべ、胡乱げな視線でこちらを見上げている。 風邪でも引いているのか口元を覆うマスクのせいで表情を伺い知ることは出来なかった。 「ご、ごめんっ」 「…はぁ。気をつけてくださいよ」 眼がだるそうなら口調さえだるそうだ。全体的に覇気を感じさせないウマ娘だった。 彼女へ妙に興味を惹かれたのもあって、何とはなしにそこで立ち止まってしまった。 練習場のウマ娘たちの姿を遠目に見学するフリをしていると、横から響いてきたのは重々しい溜息だ。 「…なんスか。アタシに何か用スか」 「いや、その…ここで君は何をしているんだろうって」 「サボりに見えます?見えますね、どこからどう見ても。じゃそういうことでいいッス」 彼女の鬱陶しそうな口振りからは会話を打ち切ってこちらを追い払いたいという気分がありありと伝わってきた。 同時に、彼女の語るそれが真実ではないというのも。…この時ばかりはやけにそれが気になった。 「でも、サボってるわけじゃないんだよな?」 「…」 そう聞くと彼女が黙り込む。遠くに威勢のいい喧騒を聞きながらしばらくふたりでコースを眺めていた。 根負けしたのは彼女の方だ。微かではあったが、明らかに舌打ちのような小さな音がした。 「謹慎中なんスよ。罰で練習に参加させて貰えないんス。それがこんなところにいる理由。これでいいッスか?」 「謹慎?」 「模擬レース中に前を走ってるヤツをぶん投げたんです。襟掴んで、真横に」 「投げ…っ、な、なんでそんなことを」 「位置取りフラフラしながら日和って走ってるのがミエミエで、邪魔だったから…ついカッとなって」 急に物凄いことを言い出した。言うまでもないがウマ娘のレースにおいてレース中に暴力を振るうなんて論外だ。 悪質なものなら出走停止処分だってすぐさま降りるくらいの重大なルール違反である。 しかし目の前のウマ娘からはそんなことをしそうな雰囲気はまるで感じられなかった。 どちらかといえば昼行灯めいている。柔和というよりはダウナー寄りの大人しさが第一印象だった。 レースになると性格が変わるタイプ、ということなのだろうか。 と、受け答えをしていたウマ娘がそろそろ本格的に苛ついてきたのが感じ取れた。ここが潮時だろう。 「そ、そっか。あんまり乱暴はしないようにな。…ああ、そうだ」 「まだ何かあるんスか…」 「ああ。まだ君の名前を聞いてなかった。教えてくれないか」 名前を聞かなければてこでも動かない、といったこちらの雰囲気を察したのか、溜息まじりにウマ娘は言った。 「オルフェーヴル、ッス」 A 「オルフェーヴル?知ってる知ってる、アタシの舎弟」 「舎弟!?」 ゴールドシップの打った蕎麦を啜っていたところ思わぬ関係に思わず噎せそうになった。 見事な芦毛の髪が美しい彼女はこう見えて既に輝かしい実績を残しているデビュー済みのウマ娘である。 …なのになんでこんなところで屋台を出して蕎麦打っているんだろう…。 こちらの聞き返しに手慣れた手付きで蕎麦を切っていたゴールドシップは怪訝そうな顔で唸った。 「はぁ?アタシがそんな前時代的な人間関係作るわけ無いだろ、何言ってんだコイツ…」 「こっちの台詞だよ…」 「で?オルフェーヴルの何が知りたいっていうんだいお客さん。ホラお姉さんに言ってみな?  言っておくが…スリーサイズとかは…な?分かるだろ?トレセン学園生徒会が擁する秘密警察がな…」 「そんなのあるの!?」 「はぁ?そんなもんあるわけないだろ、何言ってんだこいつ…」 駄目だ。このウマ娘のノリに付き合っていたらいつまでも話が進みそうにない。 何故か呼び止められ何故か席に座らされ何故か啜っていたお椀をカウンターに置いて話を切り出した。 「あの子がどういう子なのか知っているなら教えて欲しいんだ」 あの日以来何故かオルフェーヴルのことが脳裏にちらついて離れない。 エキセントリックな謹慎理由もだが、トレーナーとしての直感が彼女に何かを感じていた。 あんなに邪険にされたのを多少はむっと思っているくらいなのにそれが不思議だった。 んー、と考えた後でゴールドシップはこう言った。 「フツーのウマ娘?」 「普通?」 レース中に相手へ暴力を振るって謹慎食らうようなウマ娘が普通だろうか。 しかしゴールドシップの表情は(意外と言ったら失礼かもしれないが)至極真面目なものだった。 「だからフツーだって。いいか?ウマ娘にとってレースてのはすげえ熱いところなんだよ。  どんなウマ娘だってレースじゃ本性剥き出しにして必死になるんだ。  身体の奥の方からこう、グァーッと熱くなってさー、よっしゃやったるかーっ!って気にしてくれんの。  そういうもんなの。な?いいだろ?トレーナーならアンタも察せるだろ?」 「あ、ああ」 普段から奇矯な行動の数々でトレセン学園の関係者問わず有名なこのウマ娘だが、レースへの情熱は本物だった。 だからさぁ、とゴールドシップはねじり鉢巻の蕎麦打ち職人姿でこちらに指を突きつけ言った。 「オルフェだってそこは変わんねーの。たぶん。きっと。メイビー。  うおおおおおリミッター解除ォ!したらウマ娘によっちゃー斜め上にパワーが逆噴射するやつもいるよなー。  ん?どこかで聞いたことがあるような…誰のことかしら…とてもよく知っているようでよく知らない気がするわ…」 もしかしなくても自分のことでは無いだろうか。 「ともかくさぁ。そんなに気になるならアタシと話してる場合じゃないだろ?  せっかくおもしれーウマ娘見つけたんならアタシや余所の先入観抜きに知ってみなきゃ面白くないじゃん。  さすがに牙生えてるわけじゃないんだからさー。アンダスタンオケイ?」 しかしゴールドシップの言うことは確かにその通りだった。 ごちそうさまと一応言ってお椀を置き席を立つ。オルフェーヴルを探さなくては。 最後にふと気になったことを聞いてみた。 「そういえばなんで呼び止めたんだ?」 「ん?ああ、それ。アンタがすげえ楽しみてー!って顔でフラフラ歩いてたからさ。  そんなに楽しそうな話なら聞きてー!ってなったわけ。でもこれからも面白くさせてくれるんだろ?オルフェとさ」 そう言ってゴールドシップはにやりと笑った。 B 程なくしてオルフェーヴルは見つかった。 というのも見つけた時、彼女はやや目立つ立場にあった。校舎裏の日陰でオルフェーヴルは誰かと話をしていたのだ。 「───」 「───」 会話こそ聞こえなかったが、話し相手はやや遠目からでもすぐに分かった。 トレセン学園の有名ウマ娘。ステイヤーことメジロマックイーンを見間違える人間はそうはいない。 ふたりは剣呑というほどでは無かったがどこか近寄りがたい雰囲気を放っていた。 しばらく様子見していたところ、オルフェーヴルの方から会話を打ち切るように背を向けてこちらへ足早にやってくる。 メジロマックイーンはその後を追わなかった。ただその場からオルフェーヴルをじっと見送っただけだった。 俯いたまま苛立たしげに歩いていたオルフェーヴルはこちらに気付かなかったらしい。 校舎の角を曲がって急に目の前に現れた人影の前でびっくりした顔をして弾かれたように立ち止まった。 「…って、アンタこの前アタシに絡んできた…」 「やぁ、オルフェーヴル」 軽く目を丸くしていたオルフェーヴルだったが、すぐに出会った時と同じ据わった目つきに戻った。 「はぁ。どもッス。じゃアタシはこれで…」 「マックイーンと何を話していたんだ?話したくないならいいんだけど」 「…」 黙ったまま去っていこうとするオルフェーヴルの背中を追う。 しばらくオルフェーヴルはこちらのことを無視していたが、程なくして振り返りこちらを睨みつけた。 「あのさぁ。アタシをイライラさせてどうしたいんスか?喧嘩売ってる?  アタシがつい手が出るウマ娘だってこの前教えたッスよね?人間よりウマ娘の方が何倍も力強いんスよ?」 「ああ。でもトレーナーだから。スカウト対象のウマ娘のことは知っておきたいんだ。  まだこっちは君の話も聞いてないし、走りも見ていない。先入観だけで判断しちゃ勿体ないだろ」 そう言うとオルフェーヴルは虚を突かれたように黙り込んだ。 制服の上から羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込み、ごにょごにょと何か呟く。 「調子狂うやつだな…」 「え?」 「なんでもないッス。…マックイーンにはガキの頃に面倒見てもらったことがあるんです。  うちはメジロ家とは遠縁なんで。だからここでも姉貴面してくるっていうか…。いい迷惑ッスよ。  アタシがここでうまくやれてないのが気になるだの次の選抜レースはどうするんだだの…」 オルフェーヴルは鬱陶しそうに言った。だがそれは親しいものに対する悪態に似ていた。 少なくとも心底嫌っているというふうではない。 「そうか…。けど、本当に選抜レースどうするんだ」 「教官がどれだけ成績良くてもアタシは出さないって言ってるんだからどうしようもないスよ」 「…君はそれでいいのか?」 「別に良くは…。アタシだって走りたくなくてトレセン学園に来たわけじゃないッス。  けど仕方ないじゃないスか。レースしてるとどうしようもなく闘争心が疼くんです。  アタシの脚はそれと直結してて切り離せるものじゃない。ま、ぼちぼち見込みなし扱いで退学じゃないスか。  ルールを守れないやつに走る権利が無いことくらいアタシだって分かってるッスよ」 彼女の投げやりな台詞にはべっとりと諦観が塗りたくられていた。 だが、それを分かっているならひとつおかしなことがある。それが納得できなかった。 「なら、何で自分から去らずにまだここにいるんだ。諦めきれないからじゃないのか」 「…」 オルフェーヴルは視線を逸したまま答えない。代わりにひとつ頼み事をした。 「なあ、オルフェーヴル。一度直に君の走りを見せてくれないか?」 C 何言ってんだコイツ。 その時はそう思うより他無かった。 それでも応じてやったのはアタシの走っているところが見たいなんて言う奴は久しぶりだったから。 走るためにここへ来たのに走ることを求められない日々に腐っていたアタシのただの気の迷いだ。 別にあのトレーナーの鬱陶しいくらいの熱意と押しに負けたとかそういうんじゃない。ないったらない。 併走する相手もいない。タイムさえ測っていない。こんなもの子供のかけっこと同等。 追い抜くウマ娘もいなければ1着で駆け抜けるゴールさえ無いんじゃ全然燃えない。脚に鞭も入らない。 けど、久々に思い切り芝を踏んで夕暮れのコースを駆け抜けるのはそう悪い気分じゃなかった。 やっぱいいな、走るのは。 これがレースだったら、公式戦だったら、重賞だったら、もっと気分がいいんだろう。 アタシもいつかは、そんな舞台に。…最近は忘れていたそんなことをふと思い出すくらいには、楽しかった。 …事の始まりはそうして1600mを走りきって軽く呼吸を整えていた時だった。 猛然と手足をバタつかせながら走ってきたあの新人トレーナーは顔色を変えて言ったのだ。 「オルフェ!君は選抜レースに出るべきだ!」 何言ってんだコイツ。 その時はそう思うより他無かった。 「…だから言ってるじゃないスか。レース中につい手が出るようなのは出させちゃくれないって…」 「俺が何とかする!」 「何とかって…どう何とかするんスか」 「それは…教官や選抜レースの運営班に直訴してみてだな…。こ、これから考える!  君の闘争心が強すぎて無茶やっちゃう癖も…い、一緒に対策を考えよう!  でも君の才能はこんなところで燻ってちゃ駄目だ!今の1600m、凄い走りだった!  君の脚には可能性が満ちている!確かにまだ荒削りだけど、磨けばきっと…」 こいつ、力説するのにのめり込んでアタシの両肩を掴んだのにも気付いてないんだろうな。 新米の癖に語りやがって。暑苦しいし、うざいな。突き飛ばしちゃおうかな。 「───三冠ウマ娘だって、夢じゃない!だから諦めないでくれ!」 …そんなふうに邪険に出来なかったのは、アタシが必死に説得するコイツの言葉に少なからず心動かされていたからだろう。 コイツがアタシの走りを見て心の底から感動したのが伝わってきたからだろう。 ただでさえ現状この体たらくなのに三冠だなんて、と笑おうと唇が震えて、笑えなかった。 「アンタ、やけにアタシに入れ込むんスね。アタシのトレーナーってわけでも無い癖に」 「関係ない。俺はウマ娘のトレーナーだから、担当でなくても君みたいなダイヤの原石が埋もれっ放しなのは許せないんだ。  もし君のトレーナーになれなくても、君がターフの上で走っているところを俺は見たい!」 こっ恥ずかしいことを鼻息荒く口にするトレーナーの顔を見ているとつい笑みが浮かんだ。 先程作ろうとした嘲笑とは違う、なんだか心が丸くなるような笑みだった。 いいな。どうせ叶わないことでも、そういうことを言ってもらえるのは悪くないな。 いざレースになったら自分でも制御できない沸騰するアドレナリンが全部滅茶苦茶にしちゃうんだろうけど。 でも、アタシの脚にそういう未来を見てくれるのは心が華やぐな。 だからこんなことを言ってしまったのも気の迷いだ。 ちょっと恥ずかしくて、ついマスクの位置を直すフリをしながらね。 「…ま、じゃあ、期待はしないッスけど。  アンタがそこまで言うなら、レースに出るための調整くらいは…しておくッス。期待はしないッスけど」 ありがとう!と言うアイツの破顔が妙にイラついて、蹴ってやろうかと思った。 D 紅茶の飲み方の作法なんて知らないものだからティーカップが震える。緊張のあまり味はしない。 「急に呼び出してしまい申し訳ありません…ただお話を聞いてみたいと思いまして」 対面へ座ってそう言うのは生来の一等な原石を手間暇かけて磨き抜いたような、そんな美しい髪を靡かせる少女だ。 挫折を乗り越え数々の実績を打ち立ててきたステイヤー。メジロマックイーンを目の前にすれば、新人トレーナーは多少の緊張を強いられる。 「い、いや…それで聞きたいことというのはオルフェーヴルのこと?」 「ええ。遠い親戚ではありますが、あの子に関わり持つ身としてあなたのことを知って気になったのです。  聞けばオルフェーヴルがレースへと出走できるよう方々へ手を尽くしているとか」 カップをソーサーに置いたマジロマックイーンは静謐さえ感じる真面目な表情だ。 その通り。ここ数日オルフェーヴルが選抜レースへ出られるよう各所に嘆願を行っていた。 想像していた通り結果は惨敗。仕方ないことではある。 一流ともなれば時速70km/hにもなるウマ娘のレース中に転倒するような妨害をするのだ。 相手に大怪我を負わせなかった今までが奇跡的でさえあった。 彼女が小さく嘆息する。厄介を抱え込んだという風ではない。 ただの親戚付き合い以上の感情をオルフェーヴルに感じているのは仕草から読み取れた。 それはあるいは、期待。 「オルフェーヴルは…心の底では優しいし、本当にずば抜けた才能を持った子です。  あの子がまだ物心つくかどうかという頃からあの子を知っていますが、それは間違いありません。  自分が高みに居続ければいつか必ず挑みに来るだろうと疑わないほどには楽しみにしておりました。  ただ私はあの子の気性…レース難となるその荒々しさまでは支えてあげられませんでした。  ですからあなたには…」 「あ、それだったら気にしないでいいよ」 きょとんとメジロマックイーンが小首を傾げる。 その彼女へともう決めてしまったことを口にした。 「オルフェーヴルの担当トレーナーになれるかどうかはまだ分からない。  でも決めたんだ。あの子のデビューまではあの子を全力で支えるって。  あんな凄い才能がこんなところで燻ってちゃ絶対に駄目だ。あの子は───いつか、君を倒すかもしれないウマ娘なんだから」 ステイヤー、何するものぞ。オルフェーヴルの脚にはそれだけの価値がある。 ぱちくりと目を瞬かせたメジロマックイーンだったが、すぐに破顔して笑い出した。 ふふ、うふふと、本当に楽しそうな笑い方だった。 「そうでしたの。私がわざわざ確かめるまでもありませんでしたのね。  あなたはとっくにオルフェーヴルに惚れ込んでいて、だからもう何が起ころうと関係ない。  惚れてしまった以上トレーナーとしては負けなのだと、そう仰いますのね」 「───そうだね。そういうことなんだろうね」 ステイヤーの言葉につい頷いていた。 それだけ目の前で見せつけられたあの子の走りは圧巻だった。きっとこの長距離の女王にさえ、負けやしない。 とっくにもうそう信じ切っている自分がいた。メジロマックイーンは微笑んだ。 「でしたらひとつだけご忠告を。  あの子は根は良い子です。自分のために尽くしてくれる誰かがいるなら、それに応えないことを許せない子ですのよ」 「どういうこと?」 「きっとすぐに分かりますわ。あなたの真心はきっと伝わるでしょうから」 彼女とのお茶会はそれから少し話をしてお開きとなった。 突如として嘆願していたオルフェーヴルのレース参加への風向きが良くなったのを知ったのはその翌日のことだった。 E 「オルフェ!お前に選抜レースへの出走許可が降りたぞ!」 「もう知ってるッスよ。わざわざ伝えに来なくても…」 呆れたような口振りだが、マスクで口元を覆ったオルフェーヴルの目元は柔らかかった。 ジムでウェイトトレーニングに励んでいた姿もどこか熱が入っているように見える。 先程までとても重そうなバーベルを担いでスクワットを繰り返していた。 目標が見え、やる気が出てきたのはいいことだ───しかし、同時に耳にしたもうひとつの話が気になっていた。 「聞いたよ。レース中に暴力を振るってしまったウマ娘ひとりひとりの元に行って頭下げてきたんだって。  急にどうしたんだ。これまでずっとそんなことしてこなかったらしいのに」 「…あー…」 オルフェーヴルが俯き、マスクをぐいと引っ張って位置を直す。 この仕草をするのは大抵表情を見られたがっていない時だ。 「…その、なんスか。アンタだけが頑張ってアタシは素知らぬ顔でいるなんてカッコ悪いじゃないスか。  アタシでも出来ることっていったら、まぁ、そのくらいしか思いつかなかったんで…」 「オルフェ…」 マスクからはみ出ている頬が仄かにピンク色に染まっている気がした。 別に嫌われたままでも構わない、このまま夢を諦めたって構わない。 そう腐っていた彼女がそうまでしてレースに出ようという意思を見せてくれたことに思わず感動していた。 「ま、でもレース中にテンション上がりすぎて前を走るヤツに噛み付いてやろうかってなるのが解決したわけじゃないんで。  どうせ選抜レースに出てもやらかして失格じゃないスか?アレは我慢しようにも出来るもんじゃないし」 オルフェーヴルはまるで取り繕うかのように急に声のトーンを大きくして投げやりに言った。 皮肉げな態度ではあるが、きっとそれが彼女にとっても一番の懸念で不安材料なのだろう。 しかし、それについては寝ずに考えついた秘策がある。 「オルフェ。聞いてくれ。そのことだが、ひとついい手を思い付いたんだ」 「はァ?なんスか。こんなのどうにか出来るとでも?」 これしかない───オルフェーヴルを安心させるため、出来る限り自信を込めて言った。 「ああ。レースが終わった後なら俺を殴ってもいい!」 「いきなり何言い出すんだアンタ!?」 オルフェーヴルは素っ頓狂な声を上げた。…無理もないかもしれない。 だがこれ以外には全然思いつかなかったのだ。 彼女の問題に対してまだトレーナーでもない自分が出来ることといえば、それくらいだ。 オルフェーヴルが意味が無くなるかもしれなくても出来ることをしてくれたように。 「ウマ娘の闘争本能が過剰に燃え上がってしまうのは君の弱点かもしれないが長所でもある。  それを無くす方向で矯正なんてするのは勿体ない!けど暴力はいけないからレース中は我慢してくれ。  その代わりレース後にそれを発散させるのは俺が付き合う。殴りたければ殴られもする。これでどうだ?」 「どうだってそれで言い訳無ぇだろテメェ!?ウマ娘が本気で殴ったら人間なんかな」 「それでもいい!」 オルフェーヴルがぎょっとした目をした。明らかに困惑していた。 「それでもオルフェーヴルがレースで最高のパフォーマンスを出せるなら、俺はそれでもいい」 「…アンタ、なんでそこまで」 「言ったろ。俺はターフの上で走る君が見たいんだ。君の走りに可能性を感じているんだ。君は…凄いウマ娘になれる」 言い切った。後悔は微塵も無い。 オルフェーヴルはしばらく呆気にとられていたが、やがてこちらにも聞こえるくらいの舌打ちをして呟いた。 「…はぁ。せいぜい頑張るッスよ」 F ゲートが開いて一斉に選抜レースがスタートした。 アタシもスタートは間違えず、集団の後ろの方につけて駆け出した。 奇妙な気分だ。一度は諦めたレースをこうして走っている。良くも悪くも夢か幻を見せられているみたいだ。 色んな出来事が連鎖的に積み上がった結果だったような気はするがいざレースが始まるとよく思い出せなくなる。 そういう余計なものは霞の向こうへと追いやられ、ここから一番はっきりと見えるのはコーナーを示す埒の白さだった。 少し笑えてくる。アレを見るのも久しぶりだ。模擬レースにさえまともに出ちゃいないんだから。 だのにいきなり選抜レースに出られたのは教官の後押しもあったかららしい。 アタシの気性難に散々苦言を溢してきた面倒くさいヤツと思ってたけど、アタシの脚に関しては本当に信じてくれてたのか。 あんな蓮っ葉な態度を取って悪かったなと微かに後悔が脳裏をよぎった。 けれどそんな風に落ち着いて走っていられたのは最終コーナーを回る手前までだった。 前を走ってるヤツ、邪魔だな。 一瞬でもそう感じた途端、ぶくぶくと熱湯があぶくを吹くように怒りが込み上げてくる。 躱すのさえダルい。ぶっ潰しちゃおうか。 堪え性の無い、ルールを守る気の無い、粗暴で乱暴なヤツ。周りはアタシをそんな目で見る。 違わないけれど違う。本当に自分でも制御不能なんだ。どうしようもなく心の奥底から闘争心が沸き立つんだ。 アドレナリンがマグマみたいに沸騰する。前を走るヤツが煩わしい。ああ、こんなもの抑えられるわけが無い。 もう少しで前のヤツの肩に手が届く距離まで詰めた。 だが、伸びかけたその指先がぴくりと止まる。記憶の中から誰かの声が走った。 ───『それは君の弱点かもしれないが長所でもある。それを無くす方向で矯正なんてするのは勿体ない!』 うるせえ。勝手なこと言いやがって。誰だお前は。 思い出そうとして時系列を遡るといの一番に再生されたのは昨晩の出来事だった。 何かにつけアタシに絡んでくるゴールドシップのやつがアタシを待ち構えていて、にやりと笑って言ったのだ。 『な?言ったろ?アイツぜってー面白いヤツだって。ゴルシちゃん預言者〜♪』 面白いもんか。口を開けばこっ恥ずかしいことしか言いやがらないし。 ちょっと目の前で走ってやっただけで夢中になってアタシのために必死になって…。 ───そうだ。そいつだ。思い出した…! 観客席の方をキッと睨みつける。 ここからでは点のようだったが間違いなく見えた。 祈るような張り詰めた表情でアタシだけをじっと見つめる馬鹿の阿呆面が。 そうだ。お前だ。アタシにぐずぐず思い悩ませたのも、らしくない事をさせたのも、こんなレースを走ってるのも。 こんなに滾ってるのに前のヤツを吹っ飛ばして前へ行くのを躊躇わせるのも、全部、全部全部全部───。 「お前のせいかぁぁあああああああああ!!」 マスクに指をかけた。 このマスクは制御装置だ。顔を隠していれば表情は悟られない。煮え滾る闘争心も多少は外に漏れない。 そんな自己暗示をアタシは自ら千切り捨てて思い切り大外へと脚を向け、飛び出した。 速く!速く!もっと速く!ちんたら走ってるお前らなんかに用は無ぇ! 一瞬で抜き去られたウマ娘の驚く顔もあっという間に置き去りにする。みるみるうちに目の前の視界にはひとりの影も無くなった。 まだだ。少しでも早くゴールを駆け抜ける。一息でも、一歩でも、一秒でも早く! そうしたらアタシはあのふざけたトレーナーをぶっ飛ばしに行くんだ…! ───何故だか心の中は澄んでいて、イライラしているのにひどく楽しかった。 G 「オラァアア!」 「ぐわああっ!」 レース上に悲鳴が鳴り響く。周囲はあからさまにドン引きしていた。 それもそのはず選抜レースを走り切るなり、観客席に屯するトレーナーたちの列へと突っ込んできたオルフェーヴルがひとりのトレーナーを担ぎ上げたのだ。 無論、自分のことである。コースの芝の上まで引きずり出され、芝の上へと投げつけられた。 衝撃。肺から一気に抜けていく呼吸。目の前が白黒交互に染まる中、倒れ伏した身へ誰かが馬乗りになったことだけ感じられた。 「おいっ!起きやがれ!」 鼓膜に荒々しい声が突き刺さる。見上げるとそこにはウマ娘の顔があった。 器の違いを証明するかのように大差をつけて駆け抜け、選抜レースを制した素晴らしいウマ娘の顔。 爛々と目を輝かせ、普段マスクで覆っている口元さえ獰猛に弧を描き、火が点くほどに自分の顔に焦点を合わせ睨んでいた。 揺さぶられて混乱していた意識がすぐさま戻ってくる。乱暴されているというのに胸いっぱいの喜びに満ちていった。 「どうだ、これがテメェの見たかったアタシの走りだ!見てたなら何か言いやがれ!」 「ああ!凄かった!君が一番だ!君は最高だ、オルフェーヴル!」 「よっしゃぁあああっ!」 褒めたのに何故かもう一度投げられた。 掴まれた襟からぶんと振り回され、僅かな時間滞空する。また芝に叩きつけられ、げふっと悲鳴が漏れた。 やっぱり再び馬乗りになったオルフェーヴルが、その息がかかるくらい顔を近づけてきて囁いた。 「いいか…!アタシなんかを担当したら、そのトレーナーは毎度この調子だ!  それでいいわけねぇだろ!毎度ズタボロになるってのかよ!ふざけんな!いいか、アタシは…!」 瞳の奥にまだチラついている、諦観のぬるい炎。反射的に叫んでいた。 「それでもいい!」 ぎっ、と音がした。何故かそれがオルフェーヴルが奥歯を食い縛った音だとすぐに分かった。 「君はきっと三冠ウマ娘にだってなれる、凄いウマ娘だ…!  そのトレーナーになれるというなら安いもんだ!どんと来い!俺は君を担当のウマ娘にしたい!」 「おま…っ、…っ、もういい!もういいっ!」 胸ぐらをつかんで無理やり上半身を引き起こされた。 「ばーか。…ま、いいッス。アタシのトレーナーなんて、どうせアンタ以外に務まりゃしないッスから」 オルフェーヴルの疲れたような、嬉しいような。そんな笑みがすぐそばにあった。 後日。 「で。せっかくトレーナーがついたのになーんでアタシはこんなもの書いてるんスかねぇ」 「堂々と皆が見ている目の前でそのトレーナーを思い切りぶん投げたからだろ」 オルフェーヴルは気怠そうにずり落ちたマスクの紐を直した。 ペンの進みは悪い。まだ殆ど空白の埋まっていない用紙には反省文と印字されている。 トゥインクル・シリーズへの出走すら危ぶまれる行為ではあったが、こちらの必死の嘆願により反省文提出で済むことに相成ったのだ。 これが終わらないことにはトレーニングも始められないので書き終わるまで彼女のすぐ側でキーボードを叩いていた。 「さっきからずっと何をパチパチやってるんスか」 「君のトレーニング予定表」 くるくる指先でペンを回していたオルフェーヴルの耳がぴくりとこちらを向いた。 「でも本当は目標にする出走レースの話から始めたいんだ。相談したいことなんて山ほどある。だからそれは早めに終わらせてくれ」 「…随分急かすッスね」 「当たり前だろ?」 マスクをズラし、愉快そうな微笑みを見せてくれたオルフェーヴルに言った。 「三冠を取る予定のウマ娘の予定なんだ。早ければ早いほどいいんだから!」 それが『金細工師』だなんて繊細で雅な名前のウマ娘の始まり。 「勝ったからっていつまで抱き着いてんだ!離れろっ、オラァッ!」 ───そしてトゥインクル・シリーズに良くも悪くも名を轟かせる、稀代の暴れん坊将軍の出陣だった…! 「やめろーっ!だからって埒はやめろーっ!…ぐわぁあああああっ!」