@ 青々と輝く芝の上をスカウトされる前の新米ウマ娘たちが弾むように駆けていく。 天気は快晴。絶好のレース日和だ。模擬レースは盛況だった。 ウマ娘たちの熱意は本物だ。着順を問わず、全員がその体に備わったエネルギーを爆発させるかのように全力で走っている。 模擬レースはトレーナーたちに対する絶好のアピールの機会なのだから当然だった。 だが肩に力が入っているのはコース上のウマ娘たちだけではない。 観客席で彼女たちの様子を食い入るように見つめるトレーナーたちもまた一様に真剣な眼差しだった。 「今期はどのウマ娘が本命でしょうね」 「まだ判断はつけられない段階ね。実力の全てがこれで見えるわけではないから。でも───」 前の席の新人とベテランのトレーナーの会話にも熱が入る。 先頭の席はスカウトたちで全て埋まり、誰もが有望株を見つけようと必死だ。 ビデオカメラで録画する者。忙しくメモを取る者。どこかに電話を掛ける者。 ひとりのウマ娘の栄達はひとりのトレーナーの功績となる。 自らの将来を託すのだからこそ声をかけるウマ娘選びは皆慎重になるのだ。 自分もまたそのひとりだった。スカウトすべきウマ娘の見学に来ていた。 そのウマ娘に視線が吸い寄せられたのは偶然に過ぎない。 レース上で懸命に走る姿でもなければ、緊張気味に出走を控える姿でも、走り終えて息を切らしている姿でもない。 コースの端、区切られた柵の外側からじっとレースの様子を見つめているウマ娘がぽつんとひとりいた。 体格は決して大きくない。小柄と言ってもいい。伸びた艷やかな髪が陽光を反射してきらきらと光っていた。 そのウマ娘は何をするでもなく、ただ物静かに白熱するレースの様子を眺めていた。 何故その子から目を離せなかったのかは分からない。ここからでは顔さえはっきりとは分からないのに。 強いて言うならば、その小さな体躯から何かが滲み出ているかのように感じたのだ。 それは寂しさであり、孤高であり、存在感であり、氷のように燃える炎。 悲しげなその佇まいは奇妙なまでに胸を打った。 と───。 くるりとそのウマ娘がこちらを向いた。 僅かな間こちらを見遣った後、その長い髪を風に遊ばせながら踵を返し、足早にそこから立ち去っていく。 …周囲の音が戻ってきた。コース上では出走したウマ娘たちがゴールへと次々と飛び込んでいく。 それはまるで白昼夢のような出来事だった。 その日の夜のことだ。 トレセン学園へトレーナーとしてやってきてまだ幾数日、帰宅途中に地理を覚えるついでの散歩をしていた目にそれは飛び込んできた。 「ふっ、ふっ、ふっ…」 練習用のコースを誰かが走る姿があった。 (あれは…模擬レースの隅っこにいた…) 小さな影には見覚えがあった。今日のレースを走らなかったあのウマ娘だ。 そう多くはない照明でかろうじて散らされた暗闇の中をあの時と同じようにひとりぼっちで駆けていた。 始めは何の気なく眺めていたその伸びやかな軌道に心を鷲掴みにされるのにそう時間はかからなかった。 (なんだ…これ…!?) 違う。今日の模擬レースに出走していたウマ娘たちと比較しても明らかに走りが違う。 まるで遠い未来のモーターを積んでいるかのようだ。走りのキレが尋常ではなかった。 幻に見たのは翼だった。 背中に羽が生えている。羽撃きひとつで地を這う生き物たちの何倍もの効率で前へ前へと進んでいく。 どれほどバ群の後ろにいたって、たった数度翼をはためかすだけで前にいた全てのウマ娘たちを置き去りにしていくのが容易に脳裏へ描けた。 思わず身震いした。こんなウマ娘が存在していいのか───。 けれど、そんな夢のような時間は終わるのも突然だった。 「…っ」 桁外れのスピードで走っていたそのウマ娘が突然速度を緩め、立ち止まってしまう。 がくりと膝をつき蹲った。何らかのアクシデントが発生したのは明白だった。 すわ、故障か。選手生命の危機というワードが思考にチラついた時には彼女の元へと駆け出していた。 「君、大丈夫か!?」 間近に近寄り声をかける。初めてそのウマ娘を間近で見つめた。 駆け寄ってきたこちらを黙って見上げるその瞳は、まるで薄い硝子を何枚も重ねたような独特の透明感を持った空色だった。 彼女は靴を脱いでいた。顕になった繊細な素足の状態を見てつい絶句してしまう。 視界に叩き込まれたのは白と赤だ。真っ白な肌を彩るように真紅の鮮血が足へ幾筋も伝っていた。 ここで咄嗟に身体が動かなければトレーナーとして失格だろう。 「触るよ!いいね!」 彼女がこくりと頷く。その素足を手に取り確かめた。 主に指先などから出血している。信じがたい話だが、彼女の強烈な駆け足に身体の方が耐えられなかったのだ。 患部をハンカチで押さえて止血した。幸い傷はそう深いものではなく、そうしている内に止まっていった。 この分ではもう片方の足も似た状況だろう。見せるよう言うと彼女は素直に従った。 案の定こちらも皮膚が裂けていた。こちらも圧迫して出血を止める。こんなになるまで走るなんて…。 「無理して走ったら駄目だよ」 そう言うと彼女はふるふると首を横に振った。 「普通に走るとこうなってしまうんです。あなたは走ってはいけないと言われました。  身体が出来上がるまで決して走ってはいけないと。でも、今日のレースを見ていたらつい…」 そうか、と相槌を打ちながら内心舌を巻いていた。 普通に走ってあの速度なのか。なら全力で走ったらいったいこの子はどうなってしまうんだ。 しょんぼりと落ち込んだ雰囲気の彼女は血の止まった足で靴を履き直すと、ぺこりと頭を下げた。 「新人のトレーナーさん、ですよね。ありがとうございました。  大丈夫です。このまま帰ります。もう走りませんから。…走りませんから。失礼します」 そのまま去っていこうとする彼女の背中へ慌てて声をかけた。 「待って!君、名前は?」 振り返ったウマ娘は、小柄で、童顔で、可愛らしくて、なのに触れれば凍えてしまいそうな熱さに満ちていた。 「ディープインパクトといいます」 A 練習場の片隅でぽつんと孤独に佇んでいる小さな人影にもすっかり見慣れてしまった。 やぁ、と声をかけながら後ろから近寄ると、耳と尻尾が鋭敏にぴくりと跳ねた。 「こんにちわ、ディープ」 「こんにちわ、トレーナーさん。最近よくお会いしますね」 道の上で一息入れていたディープインパクトがこちらに向かって振り返る。 表情にこれといった変化はないし、挨拶にも抑揚は感じられなかったが、歓迎していないという様子では無かった。 こちらに対して向き直り、ぺこりと頭を下げてくる。 ペットボトルから水を飲んでいたものの大して発汗しているようには見えない。 練習場の外縁に伸びているジョギングコースはかなりの距離があるはずだが、彼女にとっては汗をかくほどでは無いのだろう。 「今日も基礎メニュー?」 「はい。午前中は水泳でした。午後は走り込みです」 淡々と口にするその練習内容にはあまり代わり映えがない。徹底して軽めの負荷を継続して与え続ける、体力作りのプログラムだ。 激しいダッシュを伴うような練習を課せられている姿は全く見たことがなかった。 ディープインパクトの繊細な肉体を思えばそんな内容も当然といえば当然だった。 今の身体で無理にデビューをしたら彼女の競技人生はレースよりも故障との戦いとなるだろう。 だが、そのことを頭では理解していても心は満足していないようだった。 じっとディープインパクトがコース上で走るウマ娘たちを見つめている。 彼女たちは坂路のダッシュトレーニングを行っていた。デビュー前のウマ娘としては最後の調整だ。 選抜レースで良い結果を出すための訓練である。あの特訓を終えてウマ娘たちは華々しい舞台へと飛び立っていく。 ディープインパクトだけがひとり、他の同期のウマ娘ならとうに卒業しているようなメニューを黙々とこなしている。 「ひょっとして羨ましいと思ってる?」 「はい。私もあんなふうに思い切り走りたいです。でも次の選抜レースに私は出走させられないのだそうです」 理由について納得はしていますが、と納得していない口ぶりでディープインパクトは呟いた。 顔色を激しく変えないのでクールに見えがちだが、彼女はむしろ素直な性格だ。 寡黙ではあるものの意思表示ははっきりとしている。自分を偽るということは無かった。 それを理解出来る程度にあの日からちょくちょくディープインパクトとは会って話をしていた。 「そっか。君は走ることが好きなんだな」 それは深い考えなく口にした言葉だったが、ディープインパクトからの反応は想定外のものだった。 僅かに目を丸くし、きょとんと小首を傾げる。よく意味が分からないという顔だった。 「違うのか?」 「そうですね。今自問自答してみましたが、好きか嫌いかという物差しでは測れませんでした。  走ることの意味なんて考えたこともありません。鳥が空を飛ぶことに疑問を持たないことに似ている気がします」 そう言って彼女は自分自身の口にした言葉で腑に落ちたように小さく頷いた。 鳥ときた。走るというのは自分にとって呼吸と同義なのだと。 ディープインパクトと話をしていると時折こういうことがあった。常とはどこか違う感性を彼女は備えている。 それが彼女の天才性の顕れか、はたまたただ風変わりなだけなのか。まだ判別はつかなかった。 だがそれはそれとして寂しげにコース上のウマ娘たちを眺めているディープインパクトを見ていると無性に何かしてあげたくなってくる。 だから思わず彼女の小さな背中に言っていた。 「そんなに走りたい?」 振り返ってこちらを見るディープインパクトの瞼がぱちぱちと瞬いた。 …日も暮れて、とっぷりと夜の帳が覆った練習用のレース場。 申し訳程度に灯りが照らすコースの上を鹿毛色の稲妻が迸っていく。 ゴールをそれが駆け抜けた瞬間ストップウォッチのボタンを押し込んだ。表示されたタイムを見て改めて度肝を抜かれた。 これがデビュー前のウマ娘の叩き出す記録か。GTを走る優駿並、いやひょっとしたら…。 僅かに息を荒げながら戻ってきた恐るべき大器に感心するより他無かった。 「どうでしたか、私のタイムは」 「凄いよ、本当に凄い。でも今日はここまでだ。いいね」 ぴしゃりとそう言うと明らかに不満そうにしつつも、仕方ないとばかりに彼女は頷いた。 『走らせてあげる。ただし自分の見ているところでだけ。ここまでと言ったらやめること』。 それが全力疾走に飢えていたディープインパクトに課した条件だった。 慎重を期して走らせてやれる本数はほんの僅か。しかも異変の兆候があればすぐにストップがかかる。 それでも彼女は心の底から嬉しそうにしていた。やはり表情こそさほど変わらなかったけれども。 だが内心ではそんなディープインパクトを見てこちらも心が弾んでいたことを否めない。 そう思った理由は───。 「あの…今日は調子がいいんです。もう1本だけ…」 「…仕方ないな。あと1本だけだよ」 上目遣いでこちらを覗き込むようにしておずおずと尋ねてきたのがいじらしく、つい許してしまった。 彼女にしては珍しく薄く微笑み、ぱっと弾けるようにスタート地点へと駆け足で寄っていく。 開くゲートも無く、よーいドンという掛け声でコース上にディープインパクトは解き放たれた。 水が流れるような淀みのない走り。まるで無駄を感じさせないそれは最後の直線に入って一気に様相を変える。 翼が生え、加速する。この瞬間ディープインパクトはウマ娘であってウマ娘ではない何かへと変質する。 伸びる、伸びる、伸びる。その末脚は最早常識の中の末脚とは全く異なるものだ。 次元の違うそのスピードにただ魅せられていた。そう、魅せられていた。 思えばその頃からその魔性の走りに惚れ込んでいたのだ。 もっと見たい。その翼が羽撃きどこまでも遠くへと飛んでいく様を一番間近で見ていたい。 トレーナーが100人いれば100人がそう思うようなディープインパクトの姿へ一番最初に心を鷲掴みにされたのは自分だった。 満足そうに駆け寄ってくる彼女は他の何よりも美しかった。 「………」 トレセン学園。生徒会室。 「………っふふ」 練習用のコースが一望できるそこから誰かがその様子を静かに見ていたことなど知る由もなかった。 B まるで精密部品を作る機械のようにフォークとナイフが正確な動きをする。 彼女の操るそれには確かな教育とそれを守る律儀さが顕れていた。 「ディープはたくさん食べる割にはなんだかお行儀がいいんだな」 対面へ座る彼女へそう言うと、ディープインパクトは見る見るうちに今まで見たこともない表情をした。 林檎のように頬を赤らめ、行き場のない視線を皿の上に落とす。丁寧に切り分けられたカツレツが乗っていた。 「ご、ごめん。もしかして気にしていることだった?」 「いえ…その…。でも言われたことはあります。お嬢様の癖に大食らいだと。…そんなに私は垢抜けないでしょうか…」 恥ずかしそうに彼女は俯き、囁くように言った。 だがそれについては否定できない。彼女は所作の端々から楚々とした育ちの良さがいつも滲み出ていた。 今の食事だって主菜、副菜、白飯にスープとそれぞれを交互によく噛んで口にしている。ご飯の盛り方は山のようだったが。 実際に箱入りのお嬢様なのだそうだ。彼女の姉は身体も大きく性格に荒っぽいところがあったためか、余計にそうして育てられたらしい。 この子の物知らずでやや天然なところはまさにそれらしさがあった。 今日こうして一緒にレストランにいるのだってこちらが提案しなければ実現しなかったろう。 何の気なく休日の過ごし方を聞いたところ『自室で休みます』と無味乾燥とした答えが返ってくれば気にもなった。 トレセン学園に入学してから休日はずっとそう過ごしているという。なんて勿体ない、とレース場へ連れてきたのだ。 ディープインパクトは気まずそうにカトラリーを置いて縮こまった。 「よく分からないのですが、私はどうやら皆さんから浮いている…ようなのです。  仲良くしたくとも、仲良くなるのは苦手です。私には同期の皆が考えていることが察せません。  トレーナーさん。私は堅くて接しづらい異分子なのでしょうか…」 肩を落とすディープインパクトについ心が傷んだ。 彼女は誤解されやすいが孤独を好まない。どこか超然とした雰囲気が孤独を招いてしまうだけだ。 どちらかといえば人懐こいウマ娘だった。だからこそ悩ましいのだろう。 励ましたくてつい喉から言葉が溢れた。 「そんなことはないよ。食べ方が綺麗なのだって礼儀がしっかりしてるのだって良いことじゃないか。  君はそのままでいいんだよ。そんな君が好きな人だっていずれ出来るよ」 本心からだ。ディープインパクトはいい子だ。世間知らずではあるが穏やかで優しい。 静かな佇まいや寡黙さから勘違いされやすいだけで人から愛されるに足るウマ娘だった。 「ご飯だってたくさん食べればいい。ウマ娘にとって食事は体を作る大事な要素だろう?  食べ過ぎは良くないかもしれないけどそれを君の身体が欲しているなら我慢することはないんだ」 勢いよく伝えられたことに彼女は目を丸くして瞬きしていたが、やがてぽつりと聞いてきた。 「トレーナーさんはどう思いますか。  私のことは好ましいですか。能力を度外視した上で私はこうしてあなたに親切にされるべきウマ娘でしょうか」 「勿論だ。君のことは好きだよ。  君は何につけても折り目正しくて優しい子だ。それだけじゃない、他の色んなところだって好きだ」 そうですか、とディープインパクトは呟いた。 フォークとナイフを握り直した。切り分けられたカツレツにフォークを突き刺しながら微笑んだ。 「ありがとうございますトレーナーさん。  うまく言葉に出来ないのですが…気持ちが晴れたような気がします」 そう言って彼女は主菜を口に運び、よく噛んでから山盛りの白米を頬張った。 午後。 満員の観客席。コースの全貌が見渡せる一番高いところからディープインパクトはレース展開を見つめていた。 一流のウマ娘たちが繰り広げるデッドヒートは観客たちの熱気を更に盛り上げていく。 だが、ディープインパクトの隣にいると逆にどんどん冷えていくような錯覚を覚えた。 それは高まる熱にまるで感応している素振りのない彼女の冷ややかさによるものか。 あるいは───高揚すればするほど芯から冷え切っていくディープインパクトの冷たい炎のような本能のせいか。 「面白く…無かったか?」 「いいえ。とても興味深いです。これまで特に興味を持たなかった自分に呆れるほどです。  昇りつめた末に『これ』が待っている。頭で知った気になっているのと実際に目で見るのは違うと痛感しました。  そうですか。昇りつめれば『これ』と戦えるのですか」 彼女は緩やかにそう言った。その緩やかさにぞくりと寒気が走った。 他の同期のウマ娘たちならこのレースを見たところで抱くものは憧憬がせいぜいだろう。 トップレベルのウマ娘とはそのくらいの差がある。 だがディープインパクトはもう既に、彼女らと競り合うビジョンがはっきりと見えている。 ディープインパクトがふと言った。 「今日はありがとうございました。あなたがいなければ、私はここへ来る意味も見いだせなかった。  とても有意義な体験でした。たぶん、今日という日のことは忘れません」 「そんな大げさな。今日は君をレース場へと連れてきただけだよ」 「いいえ。それが大事なことなのです」 1着でゴールを駆け抜けたウマ娘が観客席へ手を振っている。これから程なくウィニングライブの準備に入るだろう。 そこから視線を切り、力強い眼差しで隣のこちらへと彼女は眼差しを向けてきた。 知っている。この子はいつも表情を変えず淡々としているものだから涼やかに見えるだけだ。 本当は自分自身さえ焼き焦がしそうな熱を内包していて、だからこんな目が出来るのだ。 「先に続いている道に駆け抜ける意義があると信じることが出来ました。知識で知るだけでは絶対に分からなかった。  なんて僥倖。本当にありがとう、トレーナーさん」 ───それはディープインパクトが坂路のダッシュさえ支障なくこなせるようになった頃の話。 ようやく彼女の前途に『デビュー』という競技人生最大の山場のひとつがはっきりと見えてきた時分の出来事だった。 C まるで紅葉が湖の上へ浮いているかのようにコースは茜色で美しく染まっていた。 「はっ、はっ、はっ…!」 夕暮れの光に燃える芝の上をディープインパクトが颯爽と駆けている。 水面の上を滑るように飛ぶ水鳥のような、宙に浮いているのではと錯覚させる艶やかな走り方だった。 彼女のトレーナーでも無いのにようやくここまで来たという奇妙な感慨が胸にある。 それくらいディープインパクトにとってこれまではひたすら我慢の日々だった。 彼女の本能めいた走ることへの執着とそれを押さえつけて肉体改良に取り組む姿の慎重さはまるで爆弾解体でもしているかのようだった。 ともすれば破裂しそうになる彼女が壊れてしまわないように、本数を定めて適度に疾走させるガス抜きの全てに付き合ってきた。 苦だなんてまるで思わなかった。暗闇の中を全力で駆けるディープインパクトの姿は何よりも凄烈に映った。 気高く、美しく、澄み切ったものと向き合っている。トレーナー冥利に尽きる。まだ新人だけれど。 だがそんな日々もきっと残り僅かだ。 積み上げ続けた努力は彼女を裏切らなかった。 前はすぐ怪我していたのに、今はもうあんなに全力で走っても揺るがない。 ディープインパクトにレースの出走へ耐えうる身体が出来上がったことの証だった。 彼女が公式戦へデビューする日は間もないはずだ。だがそこに一抹の寂しさも感じてしまう。 (ディープがデビューするってことはあの子の練習に付き合ってきた日々も終わるってことなんだよな…) この子の才能は本物だ。その走りを見ればどんなトレーナーだって放っておかないだろう。 自分のようなまだ誰も手掛けたことのない新人トレーナーにこんな大器のお鉢が回ってくるはずも無かった。 出来ることといえば、せめてその日までに彼女が故障しないよう見守ってあげるくらい…。 …そんなふうに感傷混じりにコースを眺めていたから、声をかけられるまで横に立った気配にまるで気づかなかった。 「凄いな、彼女の走りは。まさに疾風迅雷。これほどの才は百年にひとりと言っても過言ではないかもしれない」 「えっ!?」 急に声がしたのにも驚いたし、慌てて顔を向けた先にいた人物にも驚いた。 緩くカーブを描く長髪を夕陽で輝かせるそのウマ娘はトレセン学園で知らぬ者はいない有名人だったのだ。 彼女は先程の自分と同じように目を細めてディープインパクトを見つめていた。 「何より目を奪われる。見る者の心を強く揺さぶる華が彼女の脚にはあると感じないか?」 「あ、ああ…。そうだな。同感だ…」 取り立てて他と違う特徴があるわけでも無いのに彼女が着ていると学生服さえ凛とした衣装に見えてくるから不思議だ。 トレセン学園の生徒会長、シンボリルドルフはそんな静かな威厳をいつも纏っていた。 「急にすまない。ただ君たちのことはよく生徒会室から見ていたんだ。  いや、それを責めに来たというわけでは無いよ。ただ一度は間近で見てみたいとそう思ってね」 …こっそりやっていたガス抜きだが、会長にはバレていたらしい。 コースの柵に腕を乗せ、ディープインパクトの飛ぶような走りをシンボリルドルフが見つめている。 夕陽の加減のせいかその目には稚気が宿っているようだった。子供が大空を征く鳥の美しさに燥ぐような。 「美しいな…。美しく、速い。大舞台を一着で駆け抜ける様が目に浮かぶようだ」 「うん。ディープになら三冠だって決して夢ではない、そんな気がするよ」 「…三冠か」 ウマ娘ならば誰もが一度は思い描く最高の栄冠のひとつ。三冠ウマ娘。 数えるほどしかいない達成者のひとりはしみじみと呟いた。 「三冠を成し得たようなウマ娘の内にはね、常に鬼が住んでいるんだ」 「鬼、ですか」 「ああ。自分を根こそぎ焼き尽くしてしまいそうなほどの煮え滾る何かだ」 柵に身体を預けて見学するシンボリルドルフの表情は陰になっていて見えなかった。 「それは味方でもあるが、時に敵にもなる。  ふとした瞬間に容赦なく自分自身へ牙を剥く。何処かで必ず折り合いをつけることになる。  もし彼女の内にもそんな鬼が住んでいるのだとしたら…。  ひとりでは乗り越えられないそれと向き合う時、彼女を支えてやれるのはきっとトレーナーである君の責務になるだろう。  どうか視座を共有してあげて欲しい。果たせずともその姿勢はきっと彼女の一助となるはずだ」 「…ディープのトレーナーになると決まったわけじゃないよ」 「おや、そうだったかな」 こちらを向いて悠然とシンボリルドルフは微笑んだ。丁度その時だ。ディープインパクトが戻ってきたのは。 走り出す前はいなかった会長の姿が不思議だったのか小さく小首を傾げた。 「…?こんにちわ、会長。私に何か御用でしょうか」 「やぁ、ディープインパクト。そうだったね。大事な用事があるのを思い出したよ」 そう言ってシンボリルドルフが懐から取り出したのは一枚の用紙だった。 記載されている内容にディープインパクトは目を丸くした。 「これって…選抜レースへの登録用紙…でも今回はもう締切を過ぎていたんじゃ…」 「その通り。だが君は一度見送っている身であることだし、事の次第によっては私が推薦して出られるようにしよう。  聞きたいことはひとつだ───ディープインパクト。君はレースに出てももう大丈夫か?」 トレセン学園の生徒会長は静謐な眼光でこちらを見据えた。 ディープインパクトの体躯の問題のことは把握済みなのだろう。真剣な表情だ。 傍らの彼女と視線が合う。目の奥まで覗き込むような交錯の後、小さく頷いた。 なら答えはひとつだ。 「大丈夫だディープ。───もう我慢の必要はないよ」 その時ディープインパクトの目の中で何かが動いた。ごう、と揺らめいたそれは炎のようだった。 ふ、と微かな笑い声が耳に届く。シンボリルドルフの唇からそれは漏れていた。 「記載項目を埋めて明日中に持ってきてくれ。君の活躍に期待する、ディープインパクト」 用紙を渡し踵を返してその場から立ち去ろうとする彼女の背へつい問いかけていた。 「シンボリルドルフ。その鬼は君の中にもいたのか?」 横顔だけ振り返った三冠ウマ娘は困ったように──力強く──微笑んでいた。 「それについては秘密だ。あまり堂々と人へ教えられるほど立派なものでは無かったからね」 涼やかに歩き去っていく“皇帝”の後ろ姿にディープインパクトがありがとうございますと言ってぺこりとお辞儀をした。 D 「結局一度も模擬レースに参加できないまま本番を迎えてしまった…」 「ん。大丈夫です」 こちらの心配を他所にディープインパクトは落ち着いた様子で膝に手を付き中腰で股関節を伸ばしている。 デビューを目指すウマ娘たちの登竜門。トレーナーの前で実力を示す機会である『選抜レース』。 普通はそれへ向けてレースのイロハを学んでから臨むものだが、彼女は急なエントリーだったために何一つ準備がない。 「大丈夫って…例えばスタートの練習さえ君は満足にしていないんだぞ?」 「ん…始まればなんとかなると思います」 出走のための集合がかかる前の最後の時間だというのにディープインパクトはずっとこの調子だった。 まるで平常心のようだが緊張していないのとは何処か違った。それはしばらく彼女のことを見てきたから分かった。 言葉にするなら、きっとディープインパクトは待ち切れなくてそわそわしている。 「そうか。君はもう早くレースが始まって欲しくて仕方ないんだね」 「ん。…はい。待ち遠しいです。やっと走れる。思い切り走れる。早く、早く…」 淡々と呟きながら入念に柔軟体操をするディープインパクトの姿に思わず背筋がぞくりと粟だった。 それは会った時からずっと一貫している彼女の走ることへの姿勢だった。 大抵のウマ娘たちは走ることに何か意味を求める。夢だったり、誇りだったり、それこそひとりひとり違うものを。 ディープインパクトは意味を求めない。走ることに強烈な執着心を抱くが、そこへイコールで結びつく何かが無い。 まるで誰よりも速く走るためだけに生まれ、誰よりも速く走るためだけに生きているような、そんな虚ろな凄味がある。 紐を離せば虚空へと消えてしまう風船みたいだ。目を離した瞬間にふと消え去ってしまいそうな儚さを彼女は常に内包していた。 いや。今はそんな感傷は余計なことだ。 「あんまりのめり込み過ぎると掛かってしまって脚が残せなくなるぞ。  スタートの練習なんてしてないんだから最悪最後の直線まで最後方にいたっていい。君の脚ならそこからでも追い込める。  とにかく前へ前へと序盤から行き過ぎないように…」 「トレーナーさんの方が落ち着いてください。私は大丈夫です」 「き、君が落ち着きすぎなんだよ!」 慌ててそう言うとディープインパクトがくすりと微笑んだ。 あまり表情を変えない彼女にしては珍しくはっきりとした感情表現だった。 …選抜レースへ出走するウマ娘たちへのアナウンスが鳴り響く。 ジャージの上からゼッケンを着けたディープインパクトがこちらへと手を差し伸ばしてきた。 「トレーナーさん。これまでありがとうございました。  あなたに助けてもらえたから今日私はレースを走ることが出来ます。本当に感謝しています」 まっすぐこちらを見つめてぺこりと頭を下げるディープインパクトについ目頭が熱くなってしまう。 手を取って握手を交わした。あんな物凄い走り方をする子とは思えない、若枝のように華奢な指だった。 「いいんだ…。本当のトレーナーというわけではないけれど、君の特訓を見守るのは楽しかった。  だから君も自分のレースを目一杯楽しんでおいで。  本格的なデビュー戦ではなくても、きっと今日は君の晴れ舞台のひとつだ」 「楽しむ…自分の…」 てっきりディープインパクトは「よく分からない」といつものように言うのだと思っていた。 だが彼女はにこりと笑い、こくりと頷いた。 「はい。楽しんできます。いってきます、トレーナーさん」 そう言ってディープインパクトは靭やかな足取りでコース場へと歩いていく。 しばらくそこでその背中を眺めていた。 「この出走予定のディープインパクト…?ってウマ娘、聞いたことがないっすね。こんな子いましたっけ」 「ああ、模擬レースにも出てきたことが無いから知らないのも無理は無いわね。  良家の出なんだけれど学園じゃずっと調整中扱いで、入学も推薦らしいから殆どレースを走ったこと無いんじゃないかしら…」 選抜レースの観客席に詰めかけたトレーナたちの会話を小耳に挟みながら自分も席へ着く。 レース上の芝は太陽の光を浴びてぴかぴかと輝いている。 一番最初にディープインパクトの姿を見たときと同じ快晴。絶好のレース日和だった。 あの時と違うのは彼女の姿はコースの柵の外にいないこと。 今度は今日の選抜レースを走る競技者として堂々と柵の内にいた。 彼女の姿はすぐに見つけられた。他のウマ娘たちより一回り小さな身体だからよく目立つ。 出走前の待機所でじっくりと足首の関節をほぐしていた。 既に意識は全てレースへと振り向けられているようで観客席の方を見ようともしない。 それでいい。ディープインパクトと自分との時間はいってきますと彼女が告げた時に終わったのだ。 彼女は今日のレースを走り、一流のトレーナーの元へと行くだろう。 なのに不思議と先程までの寂寥感は薄れていた。 まるでGTレースのファンファーレが出走を告げる時のように心臓がドキドキとしてくる。 物凄い高揚感で自然と頬は緩み、悪寒にも似た期待でじんわりと汗が浮かんできた。 静かに闘志を燃やす彼女を見ていると、大丈夫なのだろうかという先程までの不安は吹き飛んでいた。 見せつけてやれディープインパクト。お前を知らない者たちにディープインパクトを教えてやれ。 その背中から翼を生やし、瞬く間に空を飛んでいくウマ娘がいるということを知らしめてやれ。 皆の常識を粉砕するのにたった一戦もあれば君には十分過ぎる。 ゲートが開いた。やっぱり出遅れ、集団の後ろの方をのんびりとディープインパクトが走っていく。 周りのウマ娘たちが必死で走っていく中、どこか物足りなさそうなくらいに涼しい足取りだ。 まだ末脚を見せてもいないのに目利きのトレーナーの幾人かが早くも微かにざわつき出した。 それほど長いコースではない。すぐに最後の直線が見えてくる。 流れるように集団の外へつけた彼女がグンと姿勢を一段低く構えた。獰猛に瞳を輝かせたのさえ見えた気がした。 さあ、今だ。 羽撃け。 飛べ。 E 結果から語ると、ディープインパクトは選抜レースにおいて二着以下に10バ身以上の大差をつけて圧勝した。 それはもう、一緒に走った他のウマ娘が可哀想になるくらいの絶望的な力の差だった。 全員が必死で追い縋っているのに差が縮まるどころかぐんぐんと加速してあっという間に遥か彼方。 たったひとりでゴールを駆け抜けたディープインパクト。その圧倒的なレースを目の当たりにした選抜レース会場の全てがしんと静まり返った。 皆唖然としていたのだ。歓声ひとつ聞こえないコースの上で彼女がゆっくりと脚を緩め、そして立ち止まる。 二着のゴールなんて誰も見ていなかった。全ての視線がただ静かに佇むその異次元の生き物に釘付けだった。 それがディープインパクトというウマ娘が産声を上げた時の出来事。 彼女が叩きつけたその衝撃に誰もが酔い痴れた瞬間だ。 その後のトレーナーたちの反応など言うまでもない。 何人かがディープインパクトに駆け寄っていった。その道の名伯楽とされるトレーナーたちがほとんどだ。 それはそうだろう。トレーナーなら誰しもあの走りを見れば心に描いたはずだ。 三冠ウマ娘。それもあの“皇帝”のような、無敗の三冠───。 そうしてここにひとり戻ってきた。 トレセン学園の練習場。日も落ちて僅かな照明が道を照らす夜闇の練習用コース。 ディープインパクトとガス抜きもとい秘密の特訓を繰り返した場所だ。 (どうしてここに足を運んでしまったんだろう…いや考えるまでもない) ディープインパクトの才能は本物、いや本物以上だ。まるで天井が見えないとさえ言っていい。 トゥインクルシリーズの歴史に名を刻む未来だってきっとあの子にとっては夢物語では無い。 それが花開かずに終わるなんてことがあれば、トレーナーとしての人生はそれで終わりだ。 あれほどの大器をみすみす失った無能のレッテルがそう簡単に払拭出来るとは思えなかった。 レース前は新人の自分ではない立派なトレーナーが彼女には相応しいだなんて考えていたくらいだ。 (けど───) だがそんなのは弱気に過ぎない。 実際にレースを走るディープインパクトを見てしまえばそんな妄言は口に出来なかった。 空を飛んでいくその走りが、心に焼き付いてしまっている。 『どうか視座を共有してあげて欲しい』というシンボリルドルフの言葉が胸中に蘇っていた。 自惚れでもいい。自分以外の誰に、それが出来る? 「トレーナーさん。こんなところにいたんですか」 「ディープ」 背後からこちらに近づいてくる小さな足音も聞き慣れたものですぐ彼女だと分かった。 念願の初レースを走り抜いた日の夜だというのにもうディープインパクトはいつも通りのクールな表情だった。 「疲れてないか?レースが終わった後すぐにトレーナーたちに囲まれていただろ」 「はい。私を担当にしたいと皆さん物凄い熱意でした。あまり喋ることは少ないので、少し疲れました」 「…ひょっとして、もうトレーナーを決めちゃった?」 不安になって恐る恐る聞くと彼女はふるふると首を振る。 長い髪が薄ぼんやりとした電灯に照らされチカチカと光って綺麗だった。 「そうか。…そうだ、選抜レース一着おめでとう。凄いレースだったな」 それは当然のように口にした賛辞だったが、ディープインパクトから返ってきたのは暫しの沈黙だった。 「ディープ?」 「…ありがとうございます。ただひとつ残念なのです。  私は楽しめなかった。あなたが言ったように私のレースを楽しもうとしましたが、出来ませんでした」 呟くように言った彼女が爪先で小石を弄っている。彼女らしくない無意味な遊びだった。 「以前も話した通り、私は走ることに意味を持てないのです。  好きとか嫌いではない。ただ走る。そういう風に私は出来ているよう感じていてそこに疑問を持つことが難しい。  今日のレースを走って思いました。中盤まで前を走るウマ娘の背中へと常に心が叫んでいた。  あれを超えろ。あれより速く走れ。  私が例えレースに臨む理由など無い空っぽでも、相手が例え絶対に勝たねばならない事情を熱意に変えて走っていたとしても。  相手を不幸のどん底に叩き通したとしても、あれを食い千切って屠れ。どうしようもなくそんな風に心が疼くのです。  それでも相手に勝って嬉しいとか楽しいとか、そういう気持ちがあればそんな走りだって正しいのかもしれない。  でも、全然嬉しくも楽しくも無いのです。ただ今私はいるべきところにいると感じるだけなのです。  だから私は…上の舞台へ辿り着けば、私にだって走ることの意味が見いだせるのではと…」 それは傲慢だが哀しい、獣の告白だ。 何かの手違いで走ることに純化し過ぎてしまったウマ娘の嘆きだった。 理性ではなく本能が一着を取ろうとするのに心がそれを受容出来ないから歪が生じる。 だから言った。 「俺は楽しかったよ」 「え?」 「俺は君のレースを見ていて楽しかったよ。きっと皆一緒だ。ディープの凄い末脚にドキドキしたはずだ。  選抜レースにいた人たちだけじゃない。きっと大舞台で走ればそこにいる全ての人が君の走りを楽しいと思うよ。  その輪の中へ君だけが加われないなんて不公平だ。絶対に許せない。だから…」 レース前にディープインパクトが伸ばしてきた握手の手を、今度はこちらから差し出した。 「俺は君に走ることが楽しいと感じさせてあげたい。君が走っていて良かったと思える、その手伝いがしたい。  俺みたいな新人トレーナーで良ければ、君の担当トレーナーにさせてくれないか」 ディープインパクトがぽかんと口を半開きにして目を丸くしていた。初めて見る少し間抜けな表情だった。 だがその唇が柔らかく綻ぶのにそれほど時間はかからなかった。 「…あなたは私を暗闇から引っ張り上げてくれた。  無我夢中で彷徨っていた私を導いてくれた。  そうすべきという観念だけで走っていた私に微かでもそうしたいという気持ちを与えてくれた。  あなたがその気持ちを本物にしてくれるというのなら、手を取らない理由はありません」 「あなたに私の全てを預けます。  改めてよろしくお願いします。トレーナーさん。───いいえ。トレーナー」 「こちらこそ。君のために全力を尽くす。  改めてよろしくお願いします。ディープ。───いいや。ディープインパクト」 がっちりと握手を交わす。 ディープインパクト。───後にトゥインクルシリーズへその名の通り激震をもたらすことになる、稀代のウマ娘。 人はいつしか、彼女のことをこう呼ぶようになる。 “英雄”。