●闇バクシン 嘘つき。 とうとうこの言葉を言ってしまった。 トレーナーさんの言うとおりにバクシンを重ねた私は国内の短距離を制覇し、ようやく中長距離のレースへと挑み始めた。 でも……結果は芳しくない。 未だ優勝はなく、入着がギリギリ。 たまに実績稼ぎのように短距離レースに出走しては優勝して、中長距離では敗北。 そして……先日は短距離でも負けを喫し、中距離では10着以下に沈んでしまった。 トレーナーさんの指導で根気よく勉強を重ねたおかげで、バクシンだけじゃうまくいなかいことなんて、自分でもわかってきた。 それでも彼は「バクシンにスタミナとパワーを追加すれば大丈夫だ!」と明るく励ましてくる。 ……嘘つき。それならなぜ最初から長距離へのトレーニングを組んでくれなかったの。 トレーナーさんへの信頼と裏切り、自分の気持ちと体がバラバラで、めちゃくちゃになりそうだった。 不調と敗北の末に出た言葉だった。 一度口から出た後は、止まらなかった。 夕闇迫るトレーナー室で学級委員長の名前を捨てて、彼をなじった。 あなたを信じていたのに。私の気持ちも知っているんでしょう。それも含めて信じていたからついてきたのに! それでも彼は私の、バクシンの可能性を信じていると訴えてくる。そんなこと、あるわけがないのに。 彼をなじり、そして迫った。私を信じているなら今すぐ私の気持ちに応えて欲しいと。それぐらいできて当然でしょう、と。 初めての夜は涙でぐちゃぐちゃな顔で迎えた。 彼の首筋には出血するほどの噛み跡がいくつも残った。 寮長のフジキセキさんには悔しくて公園で泣いていたと、嘘をついた。 ……嘘つきは、私だった。 ……それからしばらくして、少しずつ長距離でも1着を得られることが増えてきた。 大舞台での結果はまだない。トレーナーさんは嘘つきのままだ。 でも私はもう気にしていない。 負けるたびに外泊許可を取ることにも、ずいぶん慣れた。 ●同棲稍重ネイチャ トレーナーさんと二人で努力を重ねた結果、私はいくつかの重賞レースで優勝することができた。 一時期囁かれたブロンズコレクターなんて不名誉な通り名も払拭されて。 でも最大のレースでは勝ちきれなくて。 アタシらしいよねと苦笑いしたまま引退、学園を卒業した。 引退後、アタシはトレーナーさんと借りた学園近くのアパートで一緒に暮らし始めた。 トレセン学園から斡旋される解説の仕事を受けたり、商店街でパートをしたり。 ささやかだけど満ち足りた、分相応な生活を私は彼と歩み始めた。 それを見かけたのは偶然だった。 かつて何度も彼と通ったウマ娘専門スポーツショップ、そこで彼と彼の担当ウマ娘が楽しそうに話をしているのを。 思わず隠れてしまった。そして学園に戻るところまでつけてしまった。 仕事のついでに寄ったふりで一年ぶりに訪れたトレーナー室には、慣れ親しんだ彼の匂いに混じって若い娘の香りが漂っていた。 同じ生活圏にいれば嫌でも彼女のことは耳に入る。 才能あるウマ娘であること。それを見出した彼が熱烈に口説き落として担当になったこと。 デビュー戦、そして第二戦でも勝利をして頭角を現しつつあること。明るくて前向きでカワイイこと。 一度アタシが機嫌を悪くしたこともあって、彼は家では彼女の話をしない。でもその真剣な横顔がいつもあの娘のことを考えていることはわかっていた。 アタシの時も、そうだったから。 彼との深い繋がりが欲しかった。絶対に切れない、誰にも負けない繋がりが。 この勝利だけは譲れなかった。 自分よりも何歳も年下の小娘に醜く嫉妬していることなんてわかっていた。彼のアタシへの気持ちが揺るぎないことも。 でも、それでも。 アタシの要望で選んだ、二人だと少し狭めのベッドの中で彼の背中にしがみつく。 毎日念入りにシャワーを浴びてくれる彼からはあの娘の匂いはしない。 彼はアタシの動きを察して、枕元の小箱に手を伸ばした。 「……今日は、いいから」 家族を増やすことは家計の問題と、彼が担当ウマ娘とゴールインしたことへの外聞からもう少し先にしようと約束していた。 アタシから言い出したその話を、アタシが一方的に破棄しようとしている。 「心配かけさせてゴメンな」 彼はアタシに向き合って、優しく抱きしめてくる。 彼の首筋に歯型が残るくらい噛み付く。背中に爪を立てる。 この時間がある限り、アタシは負けない……。 倒錯した幸福に満たされながら、アタシは彼の腕の中で甲高く泣いた。 ●ワルノブルボン ラップタイムを意識するように、ペース配分を忘れずに。 規則正しい動きで体を動かす。マスターに教わったように。 「……ブルボン、もうやめよう、こんなことは」 マスターが苦しげに顔を背けた。 「なぜですか?マスター。この行為によって明らかにパフォーマンスの向上が確認されています。現に先日の2000mでも快勝することができました」 最初はぎこちなかった動きも、今ではずいぶんと慣れた。マスターと平然と会話ができるくらいに。 「推測……この行為によってマスターと一体感を得ることが心身のリラックスに、そして私の女性機能の安定にポジティブな効果をもたらしていると思われます」 マスターが顔を歪める。 「そうじゃない。レースだけじゃない。君の人生が、駄目になってしまう」 「……マスターの人生も、ですか?」 私の言葉に、マスターは顔を覆った。力なくもがく体を動かぬように押さえつける。日頃鍛えているウマ娘の力からすると、傷つけないように加減するほうが難しいくらいだ。 ……あなたが私に教えてくれたのです。周期的に起きるモヤモヤの沈めた方を。何もわからず、一人では上手くできない私に、すべてを。今更やめようだなんて……許されるものではありません。 軽く、喉に噛み付く。 彼の生殺与奪は私が握っていると、わからせるように。 ふいに、マスターが体を震わせた。 「……深部にて熱源を確認。これで週末のレースも完璧です。お疲れさまでした、マスター」 マスターは顔を覆ったまま、低く呻いた。 手を離すと床に押さえつけていたマスターの肩が酷く鬱血していた。つい力を入れ過ぎてしまったらしい。その味が知りたくて、舌を這わせた。 「……膨張を確認。マスターに余力があるようならもう一回、よろしくお願いします」 返事はない。私はそれを待たずに再び体を動かし始めた。 ●ストーカーグラス 座学が終わり、ジャージに着替えてトレーナー室へ。 ちょうどトレーナーさんは不在のようです。私はいつもの日課をこなすことにしました。 ハンガーにかかったままの上着を手に取り、襟元、胸元、袖口など、満遍なく匂いを嗅ぎ取ります。 ウマ娘の嗅覚は普通の人のそれよりもかなり優れているので、服についた匂いである程度のことがわかるものです。 トレーナーさんがやってきました。 礼儀正しく挨拶した後で、彼の体スレスレまで顔を近づけて周囲を回ります。トレーナーさんは最初ぎこちなくされていましたが、ようやく気にならなくなったようです。 ……またお昼にラーメンを食べられていますね。これで今週3回目です。万全にコーチングをしてもらうためにも、食生活には気をつけて欲しいものです。 これは……あの女性トレーナーの匂いです。何の用だったんでしょうか。ハッピーミークさんに聞いておかないと。 あとは……エル。……何なのでしょうね。問い詰めざるを得ません。 その他様々な情報を得てから、私のトレーニングは始まります。 ……今日も充実したトレーニングができました。 トレーナーさんは何かお仕事があるようで、学園の奥に向かわれました。 好機です。 少し疲れた足を全力で動かし、トレーナーさんの家へ向かいます。 担当ウマ娘たるもの、専属トレーナーの住所を抑えておくのは当然のことでしょう。 幸運にも密かに複製することのできた鍵を使って家に入ります。 ……家に問題はないようです。 私のコーチングの邪魔になるような女性の気配などもありません。 コンセントの奥に仕込んでおいたものも正常に稼働していました。 トレーナーさんのベッドに転がり、少し休憩します。 スマホの追跡アプリをチラリと見るとトレーナーさんはちょうど学園を出たようです。名残惜しいですがお暇しないといけません。 グリグリと頭を枕にこすりつけてから、私は足早に家をあとにしました。 夜、自分のベッドに入ってからスマホにイヤホンを繋げます。専用アプリを起動するとくぐもった音が聞こえ始めました。 「……またグラスの髪がある……なんでだ?……それにこの香りも……あー駄目だ駄目だ。溜まってんのかな、俺……」 しばらくするとわずかに水っぽい音が聞こえ始めました。 「エル。まだ起きてますか?」 同室のエルからの返事はありません。どうやら寝ているようですね。 イヤホンから聞こえてくる音を聞きながら慎ましく自分を慰めた後、眠りにつきました。 明日も元気にトレーニングができそうです。 ●将来設計ブルボン 月日が経つのは早いもので、トレセン学園に入学してから6年近く経過しました。 日々のトレーニングとマスターの指導のおかげで無事、父との夢であった三冠を達成。 その後、幾度も大舞台で成果を上げることのできた私は、周りの言うとおりステータス『幸せ』なウマ娘なのだと思います。 しかし、ウマ娘の輝ける時間はあまり長くありません。私も怪我や故障が避けられず大きなパフォーマンスの低下が発生。マスターとの話し合いの結果、引退を決意することになりました。 「はい、引退セレモニーはその日程で問題ありません。来てもらえると『喜び』パラメータが大きく上昇……嬉しい、です」 マスター曰く昔に比べてかなり社交性が向上したとのことで、普遍的な言い回しにも慣れてきました。 『ところで、卒業後のことは決まっているのか?』 父の問いに私のデータベースが即時データを抽出します。 「はい、現在5件の講演会の予約が、また、学園から基礎トレーニング教室を受け持ってもらうよう依頼を受けており、受諾する予定です」 『そうか……ところで、その、トレーナー君とは上手くいっているのか?』 「?……『上手くいっている』の具体的な内容が不明です。回答困難。ただ、マスターと私の信頼関係に問題のないことは確かです」 電話口からため息が聞こえました。父の求める回答ではなかったようです。推論エンジンをフル回転させます。 『男女として、という意味だよ。何か卒業後の約束などしていないのかね?』 男女?約束?データベースに総検索をかけますが、一致するものは見当たりません。 「何もありません」 『……彼はそんなに甲斐性なしには見えなかったんがな……ブルボン、お前も年頃だ。ウマ娘としてレースを走り終えてもまだ人生は続く。古臭い考えかもしれないが結婚も含めた将来設計を考えてみなさい』 それからしばらく彼を逃すと不味い、母を見習ってなど父の話が続いた後、電話が切れました。 ……男女?パートナー?将来設計?結婚?……マスター? 自分がわからないことはマスターに聞くのが一番ですが、父から強く止められたので別の方に聞くことにしました。 『ただいま子育てバクシン中!サクラバクシンオーです!!』 久しぶりに聞く彼女の声は電話口からでも高い活力を伺えます。 「お久しぶりです。サクラバクシンオーさん。お忙しいところすみません」 『いえ、お構いなく!ちょうど寝かしつけたところですから!!あっ、声が大きすぎました!少し控えさせてもらいます!』 サクラバクシンオーさんは私より早めに引退されました。私同様に短距離の才能に逆らうように長距離に出走、非常に苦労されながらもついには長距離で一つの栄冠を手にされました。しかし直後に治療困難な故障が見つかったそうです。 『もう学級委員長でも優等生でもなくなるんですよね……』と悲しげにつぶやく彼女が、『最後にバクシン的悪いことをしてきます!』と立ち直った後、卒業後すぐに専属トレーナーと入籍。呼んでいただいた結婚式でわずかに膨らんでいるお腹を見た時に計測された衝撃値は、データベース内でも非常に高い値と記録されています。 『どういったご用件でしょうか!?私、学級委員長……ではなくなりましたが、一人の優等ウマ娘として何でも相談にのらせていただきます!』 ほぼ変わらない声量で彼女が続けた。 「ありがとうございます。では質問その1、サクラバクシンオーさんはなぜご自分のトレーナーさんと結婚されたのでしょうか?」 『ちょわっ!?』 しばし無言のあとに発せられた声は先程より声量が落ちていました。 『そ、それはですね……長年私を支えてくれて、夢を叶えてくれたあの人に……い、一番の好意を抱いたからですっ』 なるほど。よくわかります。私もマスターに同じような感情を抱いている気がします。 「質問その2、サクラバクシンオーさんはどのように結婚を申し込んだのでしょうか?」 『ちょわわっ!!?』 その後、私は彼女から『逆バクシン』や『夜のバクシン』など、かつて聞き及んだことのないメソッドを聞かせていただきました。 あまりにも衝撃的でステータス『混乱』が発生、一部記録に失敗したほどです。 しばらく情報を整理した後、私はトレーナー室に向かいました。 部屋にいたマスターは私を見てなぜかぎこちない笑みを浮かべました。これは、ステータス『緊張』でしょうか。 「ブルボン、君に大事な話が……」 小さな小箱を手にマスターが近寄ってきます。今です。 私はマスターをソファに突き倒しました。そのまま唇を奪います。ここまでは完璧です。 「マスター、愛しています。結婚してください」 目を白黒させるマスターは、呆けた表情で「はい」と答えました。 「了承を得ました。ありがとうございます。続いてオーダー『逆バクシン』を実行します」 何かを言おうとするマスターの口を再び唇で塞いで、彼のシャツを引き裂きました。