止まり木の上を転々とする細い脚に、少女は誰に聞かせるでもないため息をつくのだった。 羽根の美しい青も、ともすればまた物憂いの種になる―― 色彩がかつての、自分の晴れ着と重なって見えるからであろうか。 あるいはその和名が、親からもらった本名と同じ響きを持っているからでもあったろうか。 澄んで高い鳴き声に、彼女は唇の動きを重ね、口の中で音程を合わせる。 開け放たれた窓から吹き込む風は、そんな些細な音を巻き上げて、 遠くの空のどこかに、ばらばらに投げ散らしてしまった。 窓からは、足元に広がる街並みが一望できる。人の姿は粟粒のようにしか見えない。 だがそれでも、粒同士がざわざわと集まっては散り、また集まるその動き、 独特な凹型の建物――そんなものから、少女はかつて自分もいた、そこへの郷愁を強くする。 よい生徒ではなかった、と客観的には思う。だが今振り返って思えば、 仕事の合間――といって子役から大人の世界に踏み込んだ途端に失速したが――にしか、 通わなかった飛び飛びの学生生活は、もう取り返すことのできない日々である。 籠の中の青は、また誰に向けるでもない囀りを繰り返す。 また風が、今度は、彼女の長い――手入れする時間だけは有り余っている――黒髪を巻いた。 鏡と睨み合って梳るその時だけが、唯一、過ぎ去りし日々を思い出させてくれる。 その頃からずっと長いままの髪は、今でもまだ、同じような長さで肩の下まで伸びている。 毎日毎日、髪と同じだけの時間と熱意を掛けて絞り込み、鍛えていた引き締まった腰は―― 今や、その面影は残っていない。少女は指先に髪を絡め、くるくると巻く手のその逆で、 大きく膨らんだ己の腹部に、恐る恐る手を重ねるのであった――どくん、と一つ、脈が打つ。 手に返るその生々しい存在感に、彼女の顔は、泣くとも笑うともつかぬ、歪み方をする。 窓を閉じると、部屋の中はしぃんと静まり返るようであった――小鳥も囀ることをやめ、 飛び回りもせず、赤子のようにうとうとと小さな頭を揺らして眠り始める。 隣の家までは、庭と木々とぐるりと張り巡らされた塀とが、厚い壁を作っている。 いてはならぬはずのものが、彼女に割り当てられた部屋の小さな籠の中にいたとして、 それを指弾するものはいるまい――仮にその勇者が現れたとしても、 屋敷の主の社会的地位と――後は幾らかの財力の防壁を越えてまで正義を成せるものか。 夫の悪しき部分を、粟粒と化した両親に訴えかけたところで、それは新婚ゆえの気の迷いか、 あるいはもっと直接的に、妊婦の陥る一次的な躁鬱状態が原因だと一笑に付されるであろう。 そうでなくても、娘の倍の年の男が気前よく払った八桁の結納金の力によって、 まだ四十を超えたばかりの父と母は、完全に目を眩まされてしまっているようだった。 そこに、既に孫が胎にいるから責任を取る、一生を掛けて幸せにする――青臭い言葉も乗れば、 彼らがどうして、娘婿を悪く思えようか?何せ、事あるごとに義理の親を立てるような男、 市井の人間を、無害で無口な木偶に仕立て上げるなど、お手の物だ。 初めて夫と会った時のことを、少女は繰り返し思い出すのであった。 目の前の一人の人間を、ただの若い肉穴としてしか見ていない、欲に染まりきった目。 自分のような、自力で芸能界に攻め込めるだけの力の足りないような女を―― その純潔と引き換えに、無理やり引き上げて来たような男。 まだ学校を出ていない、柔らかさしかない成熟しきる前の女体――それに触れる指付きが、 ひどく手慣れていることに、少女は生理的な嫌悪感を抱かざるを得なかった。 あたかも店売りの蜜柑を、無造作にするすると剥いでいく――そんな様子だった。 そして皮としての自分をこの男は見ておらず――内側のしっとりとした果肉、 本来なら、彼女がしっかりと花開いた上で同業者の誰か、もしくは愛し合った相手に―― 捧げるはずのものを、一夜の欲望のために食い散らかそうとしている。 枕を握り締めて顔を隠しながら、少女は己の肉体に消せない痕の残ったことに、泣いた。 だがその一夜で――失ってはいけないものを失ったのは、何も彼女だけではなかった。 危険日を避けるよう少女に過去数か月の月経についての日を報告させ、 万が一にも穴が空いていてはならぬと買いたての新品を装着し、 終わった後には念には念を入れ、経口避妊薬を与えて飲むところまでを確認したというのに―― それら全てと、透明体一つを、すり抜けた。無情なる赤線二本が、二人を青ざめさせた。 今を時めく長者様が、名だけは少し売れていた歌手崩れに枕営業を掛けさせた挙句孕ませて、 それを堕ろさせたなどと世間様に知れたらどうなるか――それこそ、誰の得にもなりはしない。 彼に与えられた選択肢は――事実上一つしかなかった。彼女にとっても、それは同じ。 呼び鈴が鳴る。止まっていた時間は動き出し、身重の体を引きずって、少女の足は玄関へ。 男は出迎えた若妻の身体を、両腕の中に包むように抱いた――その大仰な手ぶりに、 やはり彼女の心中は淀む。誰も他に見る者などないというのに、 一々がどこか茶番じみた、言い訳がましいものにも見えてしまうのだった。 結婚を気に、若い女の子に手を出すのをやめた、と彼は言う。 事実、そのような後ろ暗い話は、かつての友人知人からも聞こえては来ない。 しかし心を入れ替えたのだ――と、そんな楽観的で盲目的な愛情を信ずるわけにもいくまい。 あの下卑た野獣の目は、いまだに、彼女の夢の中で無窮の闇を吐き出し、呑み込んでしまう。 全身に冷や汗をびっしりとかいて夜中に飛び起きた妻を――夫はなだめ、 大事な身体だから、と腹を撫でて、落ち着かせようとしてくる。 その指遣いが、かつてのそれと重なるがゆえに、少女の心中はさらに乱れるのだった。 愛している。今は君だけだ。浮気なんかしない。幸せな家庭を作ろう―― そんな言葉を囁かれるたびに、少女は薄ら寒いような気がする。どれも、薄っぺらく聞こえる。 あの獣と、この男とがとても同じ存在には思えぬのだ――仮に遺伝子の一切が一致しても。 忘れもしないあの日のことで、彼女は舞台とも銀幕とも縁が切れた。 本当に自分のことを大切に思っているなら――こんな鳥籠に閉じ込めたりするだろうか? 悪阻の苦しさを訴えてくる妻の、臨月胎に性懲りもなく性器を硬くして、 させてくれ、とほとんど脅迫にも近いような具合で頼み込んでくるだろうか? 頭を下げられると断われない彼女の心の弱さに付け込んで―― 行為の最中、少女は夫と顔を合わせることを極度に嫌がる。 それは見られないためというよりは――見ないため、であった。 妊娠し、間もなく母になろうとする肉体に、なお興奮し欲を叩きつけてくるその顔が、 書類の上では配偶者となる男の胴の上に付いていることが不愉快であった。 目を見開き、明らかに父としてではなく――気に入った玩具の変形機構を弄ぶ、 子供じみた征服欲に付き合うことが、我慢ならなかったのである。 そして――それでも、一年の時をそうして粘膜を絡め合いながら過ごすうちに、 彼の性器によって、感じさせられてしまうようになった己の肉体とも。 枕に頭を埋め、布団を強く握り込み――世界の一切を拒絶すると、 却って、性器の擦れ合う感触、ぬるぬるとした己の愛液、子宮口を叩く先端、 そんなものの輪郭が、頭の中ではっきりと形を持ち始める。それだけが、全てになっていく。 見たくない顔。聞きたくない声。嗅ぎたくない臭い――それら全てに、背を向ける。 だが不意に体勢はぐるんと入れ替えられて、少女は夫の――決して整ってはいない――顔を、 直視せねばならなかった。この男との遺伝子を半々に分けた子が、胎内にいることも。 壁越しに、寝惚けた小鳥が唄っている。失われた自由を悲しむ歌を。 もう生涯遭うことのない、運命の糸に紡がれた伴侶を求める歌を―― 少女の頬に垂れた一筋の涙は、出来損ないの蛞蝓のような舌に、一滴残さず拭われた。