透明世界  起き抜けになんとなく手に取ったスマホの画面を操作していくと、確認のポップアップが表示されて最後の警告とばかりに二択を迫ってきた。  NOを選べばいままでどおりがほんの少しだけ延長される。いくら指摘されてもなんやかんやといつまでもぐずって居座り続けていたあの子の顔が思い浮かんで、思わず笑みがこぼれた。  逆にYESを選んでしまえば、私はとうとう完全に外の世界に放り出されてしまう。着の身着のまま、何の準備もなく。それはなんだかまだ少し心細く思ったから、はいもいいえも選ばずに問題を先送りにし、指先ではじいてタスクを終了させてむくりと身体を起こした。  寝ぐせで爆発した髪を整えて自室を出るも、リビングには誰もおらず、テーブルの上には母の簡単な書き置きとラップがかけられた朝食だけが置かれていた。壁掛け時計を見ると朝というにも昼というにも中途半端な時間を針が指していて、察するにもうずいぶん前に仕事に出掛けたのだろう。そこまで考えて今日は平日かと思い出し、だとすれば妹もきっといまごろは始業式の真っ最中のはずで、世界というものはもうとっくに動き出していたというのに私だけがようやくもぞもぞと寝床を這い出してきたところらしかった。  玉ねぎの入っていないオムライスとインスタントのコーンスープを食べ終え、軽くすすいで皿を食洗機におさめて運転スイッチを押してから、歯を磨いて身だしなみを整える。できるだけ地味で機能性重視だった学生時代から考えるとすっかり窮屈になったクローゼットから服の選定をし、腕を通した。完全にプライベートの外出なんてずいぶんと久しぶりな気がする。なにせここ一ヶ月はとんでもない過密スケジュールで、比喩でなく目の回るような忙しさだったのだから。  カーテンの開かれた窓の外の空を覗きあげて、まだまだ元気な太陽に少しうんざりとして日傘を手に取るも、そういえばもう日焼けに過剰なまでに神経質になる必要はないのだと思い返す。  休みの日に外へ出てみたり、好きだと思えるものを身につけてみたりと、日ごとに見れば微々たる変化ではあったけれど、8年半という長い時間のはじめと今とでは大きすぎる違いに人知れず苦笑を漏らした。  玄関を出る間際にふと、靴箱の上の花瓶に挿していた花たちが萎れて下を向いているのが目についた。最後にステージに立った日に頂いたお花たちの中から、いくつか包んでもらったものだ。毎日水は変えているけれど、生花とはいえ所詮は切り花。水は吸い上げられても土に根を張らなければ栄養不足でいつかは枯れてしまうさだめにある。頃合いを見て処分しないといけないだろう。 「いってきます」  誰もいない自宅と元気のない花にそうとだけ告げて、音をたてないよう静かに玄関の扉を閉めた。  訪れてみれば呆気のないものだ。  私の九月一日はそうして始まった。 ◆  九月一日が怖かった。  いわゆる転勤族というやつで、私が幼稚園生や小学生の時分にはいつだってせわしなく日本各地を転々として、我が家は定住地というものを持っていなかった。当時は正直間隔なんて気にもしていなかったけれど、だいたい1年、早ければ半年ほどというハイペースで住み慣れる暇もなく住処をあとにして、気がつけばまた見知らぬ地に足をつけていたように思う。  普通の子どもであれば友達と別れるのは嫌だと駄々をこねるものらしいけれど、その点私は手のかからない子であったと聞かされて、同時に少し心配はあったもののそこだけは助かったと■が言っていた記憶がわずかにある。  そんなだったから、殊更に自分の世界というものが狭かったのだろう。  いずれすぐに縁が切れるのであれば、大切に思う必要なんてなかったし、そう思うべきは家族だけでよかった。自己紹介も言い慣れた文句をただ機械的になぞるだけで、離別を惜しむような間柄の友人も作ろうとは思わなかったし、気がつけば別れも告げずに忽然と姿を消している。去ったあとのことなんて気にしてもしょうがないだろうけれど、おそらく関わった人たちはまるで狐につままれたような気分だったろう。  だから夏休みというものは、私にとってひとつも意味をなさない人たちや場所に寄り付かなくて済む大義名分であり、自宅というごく狭い世界に長く溶け込める唯一の時間だったのだ。私はそもそも学校という水面に垂らされた油の一滴でしかなかったのだから。  それもあって、九月一日という日は絶望の象徴でしかなく、幾度も経験した世界の終わりにも等しかった。実際は日が変わった瞬間に世界が崩壊するなんてことはあり得なくて、その後は何事もなく日常が当たり前のように続いていくのだけれど、幼かった私は大真面目にそう信じ込んでいて、八月三十一日の夜はいつも目を瞑ってしまうのが怖かった。 ◆  部屋を出てダイニングに顔を出すと、ちょうど妹が朝食を食べ終えて家を出る間際だった。 「あれ、お姉ちゃんが今日は早起きだ」  珍しいものを見たとばかりに、はるはレースカーテン越しに窓の外の空模様を確認して、その様子に私は思わず頬を膨らませてしまう。いよいよついに反抗期の到来だろうか。 「冗談だって」 「昔はあんなに可愛かったのに」 「今でも可愛いでしょ、ねえね」  それはそう。言って、はるは悪びれた様子もなく首を傾げ、屈託なく笑った。ふたつにまとめた背中まである髪が平行なまま地面に対して垂直に揺れる。  妹は私に似ず、快活で社交的に育ってくれた。特別優秀ではないけれど、特段苦手なことも見当たらない、愛すべき平凡さ。人間、普通が一番だ。  荷物の中身をチェックするはるに、今日はにわか雨が降るかもしれないと伝えると、礼を言って折りたたみ傘を取りに部屋へと小走りに戻っていった。 「みうも今日は出かけるの?」  入れ違いに母が私の朝食を手にダイニングへと入ってくる。お盆の上ではツナマヨを塗って焼いたトーストがほんのりと湯気を立て、傍らではリンゴジュースが注がれたコップの水面が揺れていた。 「うん、夕飯は一緒に行く子と食べてくるから」 「そう、気をつけてね」  頷きながら椅子に腰掛け、手を合わせてからトーストの端っこに齧りついて、なんとなく点きっぱなしだったテレビの画面を眺める。画面の隅の時刻表示に目が留まり、「そういえば今日はお仕事は休み?」と聞くと、月曜ではあるが祝日だという答えが返ってきた。あぁなるほど、だからはるも制服姿ではなかったのかと、だいぶ遅れて納得をする。 「アイドルのお仕事が長かったからかしら。まずは祝日の感覚を思い出した方がいいわね」  確かにそうかもしれない。世間一般とは仕事と休日の認識があべこべだったから、まだ違和感が残っている。今はまだいいけれど、学校に通いだしたらカレンダー通りに登校しないといけないのだから、今のうちに少しでも慣らしておかないと。 「うわー、遅刻遅刻」  考えながらトーストを咀嚼してジュースで喉の奥に流し込んだところで、にわかに廊下が騒がしくなった。はるもそろそろ出掛けるのだろう。 「いってらっしゃい」  ちらりとドアの隙間から見えたはるにそう声を掛けると、手を振りながら笑っていってきますと答えてくれた。 ◆  月曜日が嫌いだった。  秋と言ってしまうにはあまりにも鋭利で攻撃力の高すぎる陽射しに曝されながら、蟻のようにぞろぞろと行列をなす。月に一度の全校集会。引き戸を全開にして申し訳程度に風を通したくらいのまるで蒸し風呂みたいな体育館に詰め込まれ、かろうじて見覚えのある他人たちに囲まれて、よく知りもしない人の口から発せられる催眠音波をありがたく拝聴するなんらかの拷問。  どこかで誰かが倒れた音がして、一瞬のざわめきに壇上の壮年とも老年ともつかぬ誰とも知らない男性の話が中断されるも、その誰かが大人たちに介抱されて退館していったのを見届けると、なにがいいのかうんうんと頷いて話を再開し始めた。  長時間の直立による貧血か、暑さに参ったか、嫌気が差したか。私もいっそのことああやって派手に倒れられてしまえば冷房のきいた保健室に逃げ込めるというのに、誰かの手を煩わせたり注目を浴びてしまうのが嫌で必死に透明を装った。目を閉じて、耳を塞ぎ続けていれば時間というものは自然と過ぎていくものなのだから。  ぼんやりと、なにかに似ているなと思っていたけれどたぶんあれだ、コンロで熱して作るポップコーン。ドーム型のアルミ箔の中で、真面目にまっとうに炙られ続けたものだけが世界に美味しく頂かれるのだ。なら、私はさしずめ弾けきらずにアルミのフライパンの底で原型を留めたまま焦げ付いたコーンが精々か。食べようと試みても固くて苦くて、終いにはごみ箱に吐き出されるであろうそれ。  汗が頬を伝って顎から滴った。  あぁ、嫌だ。早くこんなところ、飛び出してしまいたい。 ◆ 『ドアが閉まります。危険ですから、駆け込み乗車はおやめください』  きんきんとけたたましくメロディが鳴り響いて、日も落ちかけて薄暗くなり始めた街の真ん中の駅のホーム内にどこか無機質な録音アナウンスが流れ、はっとして顔を上げた。  ぼんやりと考えごとをしながら歩いていたらついうっかり乗り換え先の電車を逃してしまい、待ちぼうけを食らってしまった。次の電車の到着まではまだしばらく時間がある。  まわりを見回してみても誰も彼も今しがた発車した電車に乗り込んで行ってしまったらしく、私のように次発の到着を待つ大勢の他人の姿は少なかった。それもそうだ、皆一様に手にした小さな板切れの表示に従ってさえいれば、電車に乗り遅れることなんてまずありえないのだから。  雑踏の音が聞こえてこないと、自然に思考が深く暗いところに囚われてしまう。一人で考えたところで到底答えにはたどり着けないとわかってはいても、何か手はないかと考えを巡らせてしまう。  悠希ちゃんが事務所に来なくなった。  私たちが最後に彼女と顔を合わせた日の帰り、用事があると言ってふらりと別方向へ向かう電車に乗ったきり寮には帰ってきていない。家族とは連絡がついたらしく、聞けば今は千葉の実家にいるのだという。何か事件や事故に巻き込まれたのではと気を揉んでいたのでそこは一安心だったのだけれど、その代わり部屋から出てこなくなってしまったのだそうだ。  マネージャーや事務所のスタッフはおろか、メンバーの連絡にも反応を返してこなくて、しばらくの間はフォーメーションに一人ぶんの空白を開けて私たちはパフォーマンスを続けていた。  きっと大丈夫だ。いずれ時間が解決してくれる。少しだけ弱気になってしまっただけなのだから、いずれまた全員でステージに立てる。なにもかも元通りになるに決まっている。  そんな子どもじみた甘い考えは、冷たい壁の吐き出した無機質な鉄片一枚でがらがらとあっけなく崩れ落ちてしまった。 【東條悠希 契約解除】  なんて勝手な言い草だろう。  無許可にじろじろと観察して、突然怪しい手紙で呼びつけて、選ばれただなんて甘い言葉を囁いておいて、思い通りにいかないとわかった瞬間すぐさまゴミ箱に投げ入れるみたいに切り捨てるのか。  私はただ、『私の世界』が平穏であればよかっただけなのに、『この世界』はそれを許してはくれなかった。  何度もスマホに手が伸びかけた。こんなとき、彼女ならばどうしただろうか。どんな対応をしてどんな言葉をかけただろうか。いや、そもそも、彼女がいてくれたならこんな状況にははじめから陥ってなかったかもしれない。  ここではない別の路線のホームに向けて、接触事故による列車遅延のアナウンスが流れてはっと顔を上げた。慣れたもので、目を向けると該当のホームにいた人たちはすぐさま別のルートを検索してぞろぞろと移動を開始し始める。  幸か不幸か朝や夕方のようなラッシュの時間帯ではなかったし、いくらでも振り替え輸送の都合がつく都心部だったためか観測できた範囲では怒り狂うような人は見られなかった。緊張を解く。  どうやら『この世界』に嫌気が差した人がどこかにいたらしい。運休ではなく遅延ということならば、大事には至っていないということだろう。■に損なったか、挙動不審に気付かれて直前で止められたか。どちらにせよ気の毒なことだ。日常から逃げ切れなかったばかりか、きっと決して安くはない負債を負わされるのだから。  なんの気なしに、少し伸び気味の前髪の隙間からホームドアに視線を遣った。多少苦労はするだろうが乗り越えられないこともないなと、ぼんやりと考える。それもこれも、アイドルグループのダンスパフォーマンスで鍛えられたおかげだ。 『列車が通過します。あぶないですから黄色い線の内側にお下がりください』  右足が一歩、前に出た。  さっきのアナウンスの当事者も、きっと衝動的だったのだろう。損得の秤が馬鹿になってしまうくらい、それほどまでに精神を磨り減らして、どうしようもないほど前後不覚だったのだ。  左足を一歩、前に出す。  細かな傷を隠すために必死に自分を削って、磨いて、それそのものの質量が徐々に目減りしていることもわからずに、気がついた時にはもうどこにも嵌まらないくらいに小さくちびてしまっていたに違いない。  がたんがたんと、通過列車が猛スピードで入線してくる音が聞こえてくる。  あぁ、嫌だ。早くこんな世界、飛び出してしまいたい。  生への執着なのか、これから一仕事する全身の筋肉への激励なのか、どくどくと心臓がいままでにない速度で脈打った。眼球の毛細血管に血液がひっきりなしに送り込まれ、視界に星のような軌跡を残しては消えていく。激しい血流に血管の内側が削られていくみたいに感じて、苦しくもないのに息が荒くなって、疲れてもいないのに足がもつれて、明瞭でありながら視界はぐらりと斜めに傾いた。  ふらふらと、まるで夢遊病患者のように歩き始めた瞬間、手にしていたスマホがぶるりと震えてなんらかの着信を伝えてきた。びっくりして大袈裟なくらい肩を震わせてしまい、思わずスマホを取り落としそうになる。画面を見ると、RAINの着信ポップアップ。 『正面見て』  顔を上げると、向かいのホームに立つフリルのついた黒ブラウスを着た髪の長い女性と目が合った。 「……っはぁ……っ!」  列車が視界を遮る。いつの間にか止まっていた呼吸を再開して、不織布越しに都会の汚れた空気を咳き込みながらどうにか詰め込んだ。 『ありゃ、間に合わなかった』  十四輌の列車が通り過ぎるまでに呼吸を整え、平静を装って震える指で返信を打ち込み始める。数秒ののちに視界が開けると、列車通過で巻き起こった風に赤毛のロングヘアを揺らしながら、麗華ちゃんが手を振っていた。 『偶然だね』 『そうね、今帰り?』  ほんの数メートルしか離れていないというのに、画面上の文字だけで会話をする。 『麗華ちゃんは?』 『受けてたオーディションが終わったところ』 『そうなんだ。受かりそう?』 『五分五分って感じかなぁ』  ……正直なところ、ホームを挟んでいてくれて助かったとさえ思った。だって今の私のこんな心持ちでは、手の届くところに彼女が現れていたら、きっとひとりで立っていることなんてできなくなってしまっただろうから。本当は今すぐにでも階段を駆け上がって、向かいのホームに逃げ込みたいくせに。 『通話していい?』  表示された文章を目にして、一瞬息が止まる。数拍おいて『うん』と打ち込むと、数秒後には呼び出し音とともにスマホが震えだした。緑色をした受話ボタンをタップして耳にあてがうと、懐かしい、けれど聞き慣れた変わらない声が鼓膜をやさしく揺らす。 「元気だった?」  口を開いたけれど、声が掠れてなかなか言葉が出てこない。 「……元気だよ」  はたしてようやく絞り出せた言葉は、そんな当たり障りのない嘘だった。別のホームに流れたアナウンスが左右の耳にコンマ数秒の差を伴って割り込んでくる。 「本人は心配ないって言ってたけど、悠希が休んでるって聞いたからちょっと心配してた。みんなも変わりはない?」  うぅん、と言葉を濁す。正式な発表はまだだから、彼女はきっと私たちの内情については何も知らないのだ。  事務所側も私たちも、現状を逐一彼女に報告する義務も権利も持ち合わせてはいなかった。その事実がなんだか麗華ちゃんと私たちはもう違う道の上を歩いているのだと再確認させられるみたいで、殊更に彼女を遠くに感じてしまう。今はほんの、数メートルしか離れていないというのに。 「あぁ、言えないこともあるわよね。ごめんなさい」 「そんな」  あなたが謝る必要なんてない。  打ち明ける勇気も口を噤む決断もできずにどっちつかずに言葉を濁すことしかできないことが、どうしようもなく歯痒かった。 「これから時間ある?みうがよければ、少しお茶でもしない?」  とても魅力的な提案だった。けれど、それだけはしてはいけないと、脳裏から誰かがささやく。もし首を縦に振ってしまったが最後、きっともう自力では立ち上がることなんてできやしなくなる。だから今は、今だけは会えない。 「……ごめん、用事を思い出したから」 「そっか。じゃあ、またの機会に」  嘘はついていない。嘘はつきたくなかったから。 「──」 『……番線に、列車が到着します。危険ですから──』  もうすっかりと聞き飽きたメロディとともにアナウンスが流れて、私の小さすぎる返事はかき消されてしまった。すぐに電車が入線してきて、呆気ないくらい簡単に彼女の姿は車輌の向こうに見えなくなってしまう。  次いで、ホームドアと連動して到着した列車のドアが開き、まるで二酸化炭素を吐き出すみたいに乗客を入れ替えはじめる。  乗るべき電車の開かれたドアの前で、私は動けずに立ちつくす。真横をすり抜ける誰かの舌打ちの音が聞こえたような気がした。やがて発車のベルが鳴り、いっぱいの他人たちをこれでもかと詰め込み終えたスライドドアが閉まっていく。私を置き去りにしたままに。 「みう」  こころなしか大きな声で、私の名前を呼ぶ声がスマホのスピーカー越しに届いた。 「いってらっしゃい」  あぁ、そうだ。用事がある。やらなきゃいけないことがある。やっておかないと後悔するであろうことが、私にはまだ残っている。 「いってきます」  できる限りはっきりと、まわりの喧騒に埋もれてしまわないようにマイクに向かって口にして動き出していく列車に背を向けて、こぼれかけた涙をぬぐった。  きっと誓いは呪いで、約束は足枷だ。それに囚われてしまっては視野も進むべき方角さえも狭まってしまう。  けれどもそれは紛れもなく指針で、確かに向かう先を指し示していた。  自分にも彼女にも嘘はないように。あの日の言葉を嘘にしてしまわないように。肌に食い込む鉄輪の冷たさと痛みに耐えながら、やり残したことを遂げるために、私はもと来た道を辿るのだ。 ◆ 「みんな考えが甘いんですよ」  花のように飾り切りされたりんごの沈んだティーカップをソーサーに置いて「何が?」と聞くと、彼女はふふん、と鼻を鳴らして得意げに考えを披露しはじめた。 「そんなに急いで卒業前に一緒に出かけなくても、卒コン終わってから気兼ねなく遊べばいいんですって」  このマカロンくらい甘々です、とフォークに刺したひと口サイズのお菓子を頬張って味わいながら、純佳ちゃんは目を閉じてうんうんと頷いた。たぶん彼女は夏休みの宿題をさっさと終わらせて、残りの期間を悠々と満喫するタイプだとなんとなく察せられる。  一理あるかもしれない。確かに卒業間際に純佳ちゃんからは特にどこかに誘われた憶えがなかった。みんなに遠慮していたのか、私の体力を気遣ってくれていたのかと思っていたけれど、別にそんなことはなかったらしい。 「みんなもSNSに写真あげるのかなって思ってましたけど、あんまりそんなこともなくてあれー?って思いましたよ。目立ってたのは動画上げてた瀬良くらいかなぁ」 「でも、もう私は芸能人じゃないから今日の写真はあげられないよ」  昨日の今日でそういった扱いが変わるという認識を共有するとともに、レンタルして身に纏ったクラシカルな衣装の裾をつまんだ。被写体になるのは全部が終わった今になってもまだ抵抗があるものの、これが世に残らないのはそれはなんだか惜しいような気がしてならない。 「アップしなければ撮り放題ですんで」  言って、純佳ちゃんはカメラのレンズを向けてくる。最近は前にも増して遠慮というものがなくなってきた気がする。それはいいことなのか悪いことなのか。 「ほんと、八月が九月になっただけでどうしてやっちゃダメなんでしょうね」  その問いには、そういうものだから、としか答えられない。権利だとか法律だとか、そういったよくわからない面倒なしがらみというものがいくつもあるのだろう。 「卒コンがほんの数日前だったからでしょうかね。もう次のライブではみうさんとステージに立てないって、いまだに実感できてないです」  それは私も似たような気持ちだ。なまじライブというものを欠席したことがなかったものだから、油断するとクラウドスケジュールに記入された秋に参加するフェスの予定に向けて、なんとなく気持ちを作り始めてしまう。 「あー……うん。やっぱり写真上げてもいいですか」 「え、でも」 「顔が映らないように後ろ姿撮りますから」  そう言って純佳ちゃんは席を立った。  私が座る席の背後から、シャッター音が何度か聞こえてくる。カメラを向けられているというのに表情を作らなくてもいいというのは経験が少なくて、なんだか新鮮な感覚だ。だというのに、口元には自然と笑みが浮かんでいたように思う。  必ずしも、前を向くだけが正解とは限らない。 「たぶん、みうさんはまだここにいるぞーって、私は会えてるんだぞ羨ましいだろーって、ファンの人たちに自慢したいんだと思います。私って実は案外イヤな女なので」 「……そっか」 「そっか、ってなんですか。そこは否定してくださいよ、もう」  あの頃私が胸に抱いていた寂しさを、彼女も、彼女たちも抱いてくれているのだろうか。  そうなのだとしたら、嬉しいのだ。  寂しがってくれるのが、たまらなく嬉しいのだ。 ◆  雨の日は嫌いだった。  夏は蒸し暑いし、冬は凍るように冷たい。濡れれば身体を壊してしまうし、ひどくなるとそれは災害として突如として牙を剥いてくる。  けれど、どれだけ嫌おうともそれは生きるためには不可欠であるらしい。必要悪というやつだ。  だとしても、やはり嫌いなものは嫌いだった。その理由の最たるものとして、今の図書室の現状があった。  昼休み、もうすぐまた転校が決まっていたから借りていた本を返しに来たついでに、まだ読めていない本を読もうと戸を引いた私は思わず顔をしかめてしまった。いつもならば校庭へと駆け出していく児童たちも雨の日ばかりは校内で過ごすことを余儀なくされ、向かう先の候補のひとつとして挙げられるのがこの図書室だった。  普段は見向きもしないくせに、こんな時ばかり人で溢れかえる雨の日が、私は嫌いだった。  ちら、と貸し出しカウンターの後ろに掲げてある「図書室ではお静かに」という文字列を見てはため息が漏れる。  家は決して裕福とは言えなかったから、本を読むにもその手段は専ら学校の図書室か街の図書館、若しくは地域の児童館だった。お金はかからないし、静かで人気も無いから一人になるにはうってつけだったというのに、今はもう椅子の確保すらも難しい状況だ。  何度注意されても声をひそめてしつこくおしゃべりに興じる連中に嫌気が差して、私の足は自然と本の森の方へと向いていた。  こんな時のための避難所として以前から見繕っていた窓から灰色の光が差し込む穴場のいい位置に、その子は床に直に座り込んで熱心に、ゆっくりと時間をかけながらページをめくっていく。言葉は交わしたことはないけれどたまに見かける低学年の子だ。勉強家なのか、物語が好きなのか、フリルとリボンのたくさんついた襟の大きな可愛らしい洋服を着ていたけれど、スカートが汚れることも気にせずに夢中になって本を読み込んでいる。なんだか野原に咲いた風に揺れる花のよう。  ふと、本棚にもたれながらそろりそろりと腰を下ろす私の存在に気付いてその子が顔を上げ、視線が合った。なんとなく、小さく手を振ると、にこりと微笑み返してくる。会話はなく、まるでそれで充分だとばかりにお互いに手にした本へと視線を落とした。  無関心というわけではないけれど、無干渉。そんな名前も知らないいくつも年下の子との距離感が心地良い。みんながみんなこんな風だったらもっと世界は居心地がいいのに。  雨の日は嫌いだったけれど、雨の日じゃないと過ごせない時間というものも確かにあった。  机や椅子のある方は相変わらず騒がしかったけれど、窓際では降りしきる雨音がまるで音楽のように響いていた。 ◆  もうすぐ到着するという旨のメッセージを受け取って、お店の入り口の方を少しだけ気にかけながら窓の外の空模様を伺った。  彼女の予報はどうやらかなり精度が高いようで、言った通りの時間帯に言った通りに雨が振り始めた。それを見越して待ち合わせは屋内に設定して、早め早めの行動を心がけたおかげで私は通り雨に遭うことはなかったというわけだ。  やがて待ち合わせ時刻の15分も前に彼女は店舗の入り口に現れ、きょろきょろと店内を見回して私の姿を見つけると、微笑んで手を振った。 「お待たせしてしまってすみません」  注文したドリンクをカウンターで受け取って私の席の向かいに座りながら、蛍ちゃんは開口一番に謝罪の言葉を口にする。 「まだ約束の時間の前だよ」 「でもでも、師匠をお待たせするなんて」  気が弱いんだか腰が低いんだか。彼女はどうも謙虚すぎるきらいがあって、それは今も昔も変わっていなかった。それは美徳であると同時に人によっては欠点にもなり得る。 「フリーになるんだからもう少しだけ……図太くなれたらいいなぁ」  グループでの活動終了後は、舞台俳優をメインに芸能活動を続けるのだそうだ。昨夜観劇させてもらった舞台劇が彼女の22/7としての実質的なラストステージ。一夜明けて目の前にいる彼女は、今やもうただの一之瀬蛍でしかなくなっていた。 「あらためて、卒業おめでとう」 「実質的には自主退学みたいなものですけれど……ありがとうございます」  まだ遠慮気味な部分は見え隠れしていたけれど、礼を告げる彼女の顔はどこかすっきりとした、やり遂げられたような表情が浮かんでいた。聞けばもう次の舞台の出演も決まっているらしい。しかも初めての座長ということで、かなり気合いが入っていた。 「まだ小降りですけど、そろそろ出ましょうか」  しばらく雑談でもしていれば止むだろうと高を括っていた雨は、観客として参加するライブの開演時間が迫ってもまだしつこく降り続けていた。  蛍ちゃんにおめでとうを告げられたし、いい機会だからとずるずると先延ばしにしていた二択の答えを、「じゃあね」と一言だけ添えて指先で選択する。一ヶ月以上も保留にしていたわりに拍子抜けするほどあっけなく、『グループ会話を退会しました』という簡素なシステムメッセージだけが画面に現れて、タップすると当たり前みたいに消えていった。  トレイとグラスをカウンターに返却して退店し、軒先で立ち止まって鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、ふと手を止めた。広げられたオーニングのふちからはぽたぽたと水滴が滴っていたし、その外側ではまだ霧のような小雨が降り続いている。 「みうさん?」  傘を開いた蛍ちゃんが不思議そうな顔で私の表情を覗き込んできた。 「たぶんもう止むから、いいや」  言ってそのまま軒の下を出て、濡れることも気にせずに足を踏み出した。慌てたような蛍ちゃんの声が背後から聞こえてくる。  傘はもう必要ない。もしまた手に取ることがあるのだとしても、それはきっともっとずっと先のことのはずだ。  肌に当たる雨粒が冷たいのに気持ちがいい。十月にしては高すぎる気温も心なしか下がって、思ったよりも過ごしやすかった。雨も、時には悪くないのかもしれない。  ずっと私は透明だったけれど、決してそこに存在していなかったわけじゃなかった。まるでガラス玉のように、雨粒のように、サイダーのように、泡のように、見えにくいけれど最初から確かにずっとそこにあった。  やがて流れてきた雲の切れ間から陽が差して、踏んづけた水たまりのしぶきがきらきらと輝いて、まるであのときの夕暮れのよう。  あぁ、透明だった私はようやく、透き通ったままで色づいた。やっと、この世界に溶けられた気がした。  ステップ、ターン。思わず踊り出してしまう。道行く人がぎょっとした表情を向けてくるけれど、構うものか。だって今の私は透明人間、アイドルではなくただの滝川みうだ。  ふいに、ポケットに入れたスマホがぶるりと震えた。  たとえすぐそばにいなくたって、私たちは世界を通してつながっている。この雨上がりの空の下に彼女たちがいる。  だから今この目の前に広がる景色が、胸の真ん中に確かに息づくひとたちが、私の全世界だ。  きっと今なら、この世界のことを好きだと言えるかもしれない。  そんな気がした。 了