ユリ・レズラレルがドロドロのぐちょぐちょになる話 ここはとても寒い。華やかな大通りから外れた路地裏で壁にもたれて座っていると、石畳とレンガの壁が私の体から熱を奪っていく。本格的に強まってきた雨は傘を持たない私の体を打ち付け心まで冷たく濡らしていく。傘を盗んでくればよかった。こんな目に逢うなら、それくらいは許されるはずだ。私、ペラルは恨めしげに雨空を見上げる。 仕事柄とてもよく働く耳には表を歩いている人々の楽しげな会話と忙しない足音がかすかに聞こえてくる。雨すごいね。新しい傘を買ったんだ。今日はどこに行こうか、なにを食べようか、一緒に行こうよ。誰もがこの入り組んだ路地裏の暗がりのことなど知らずに、楽しげに歩み去っていく。私もそんな世界に憧れたことはある。だが、私はこちら側に足を踏み入れてしまった。他人を騙し、今までの人生の全てを金に替えて、裏社会で組織の道具として使われる。そうすることでしか身を守ることは出来なかった。 そしてその自分の命すらも間もなく失われるだろう。体や服からぽたぽたと流れ落ちる雨水が傷口を洗い流し、地面に赤い染みを広げている。この出血量ではもう助からない。いや、あるいはすぐに適切な処置を施せば──こんな死にかけの、見るからに裏社会の人間を助けるような物好きがいれば、生き延びることが出来るかもしれない。だが、そんな都合のいい妄想は無意味だ。何より、もう終わりにしたい。ここで独りで孤独に死ぬのなら、それでもいい。帰る場所なんて初めからない。必死に生きた結果がこれなら皮肉なものだが、それでも私は地べたに這いつくばってでも自分の力でここまで来た。それを表を歩く幸せな誰かに"救って頂く"なんて、プライドが許さない。マフィアに人生を握られた私を切り捨て、何度も助けを求める私から目を逸らし続けたお前たちに今更何も期待などしない。私の人生は私一人のものだ。この寒さに震える体も、流れる血も、頬を伝う涙も、後ろめたい過去も、雨に煙る路地裏の景色も私だけのもの。ああ、寒い、寒い。寒くて、とても眠い。このまま目を閉じればきっと── 「ここは寒いわ。一緒に温かいところに行きましょう?」 気がつけば、傘をさした銀髪の女性が傍らに立っていた。華奢な体躯。品のいい黒のドレス。柔和な笑み。差し伸べられた、なよやかな美しい手。一目で分かる。裕福で恵まれた身の上の者だろう。今まで何不自由なく生きてきた、不幸を知らない、だから可哀想な人は助けてあげたい、そんな人間。歳は私とそう大差ないだろうか。 「私はユリ。あなたのお名前を聞かせて?」 優しく微笑んだまま、ユリと名乗る女は微かに首を傾げた。自然と表れる仕草から人に好かれそうなあざとさが滲む。 「……ペラル」 驚いた。裏社会で生きる上で見ず知らずの相手に名前を名乗るなど軽率極まりないことだ。それに、こんな身なりのいい女に気安く話しかけられても、普段の私なら歯牙にもかけなかっただろう。だが、なぜか言葉が口をついて出ていた。 「ペラル。素敵な名前ね。怪我をしているようだから、私の家で治療させて頂戴。温かい紅茶もご馳走するわ」 「…結構よ」 うんざりする。過去にもこういった偽善者は会ったことがある。人助けをしている己に酔っている。あるいは、世間知らずの大バカだ。そうして私の過去を知るとそそくさとく逃げ出し何も知らなかったと宣う。最期の時まで私の最も嫌いな人種を見せられて、不快感で目眩がする。 「……あなたは何をしている人かしら?冒険者さん?」 血まみれの私を見て、凶悪犯罪者とは呼ばず、穏当な選択肢として冒険者を選んだようだ。 「……ただの……商人よ」 大嘘。昔から変わらない、嘘。商人を装って人に近付き、実入りの良い儲け話を持ちかけて何人もの富豪を破滅に追い込んできた。この答えも、いつもの癖だった。 「ちょうど良かったわ!」 突然大きな声を上げるユリと名乗る女。口調も明るい。 「私、商人ギルドを作ろうと思っていたの。ぜひ最初のメンバーになってもらえないかしら?」 何を、ふざけた事を言っているのだろう。困惑する私をよそに、彼女はドレスのまま地面に両膝を着いた。ぐしゃり、と泥と雨と血で優美なドレスが汚れる。彼女はそれを気にもとめず、私に傘を──差し伸べなかった。私と同じ穢れた地面に跪いた彼女は、降りしきる雨の中、傘を閉じてそっと傍らに置いた。彼女の美しい銀髪が、ドレスが、瞬く間に雨に濡れてキラキラと光る。壮麗な出で立ちだった彼女は私の頭上から傘を差し出すことをせず、躊躇なく私と同じ汚濁に塗れていく。そうして穢れてなお、この人の美しさは変わらず、むしろ際立って見えていた。彼女は両手で私の右の手を優しく握り互いの顔の前に持ち上げると 「あなたとなら、どこへでも行ける気がするの」 ……と、先程と変わらず優しく微笑んで見せた。私は仕事柄、嘘を見抜く事が得意だ。だから分かる。本心だ。その瞳はどこまでも真っ直ぐで、彼女の手は……とても暖かかい。 「……ユリ、あなたは…」 とても……危うい。そう思った。私は無意識に彼女の手を強く握り返していた。