深夜 デジタルワールド 某所\入り江  ──それは、ほんの一瞬の出来事だった。 「え」  海岸線を眺め物思いに耽っていた真菜が、突如水中から伸び来た"何か"に、拐かされたのだ。 「真菜ッ!!」  急いで真菜の上着を抑えようとしたが、向こうはそれ以上に早く彼女を水中へと引き込んだ。……やられた。12時を回り、起きている仲間は少ない。それに何より、部隊が水中であるのも分が悪い──今現在同行している仲間たちは、水中戦をあまり得意としていない。 「くそっ!」  誰かを頼っている余裕はない。人間は水の中では息ができないのだから。  そう判断したシードラモンは、すぐにそれを追って海中へと飛び込んだ。  *  悲鳴を上げる暇さえなかった。  海面に波が立ったと思ったら、次の瞬間には水の中だった。 「んぐ、むっ……」  もがいても効果がないことくらいは少し考えればわかりそうなものだが、この時はそんなことを考える余裕さえ微塵もなかった。無駄な抵抗はやめて体力と酸素を温存するだなんて、そんなこと考えられるはずもなく。  弾力のある触手の締める力が苦しい、水中で息ができない。凄まじい速度から来る速度の水圧が体を圧迫する。 「……っう」  意識が遠のく。眼前が暗く沈み、剥がれるように思考力が減って行く。水の中って、こんなに苦しかったっけ。 (私、どうなっちゃうんだろう。死ぬのかな) 「……ッ貴様ァ! 真菜は返してもらうぞ、この不届き者が!」  意識を手放しかけるその寸前に、水越しにもかかわらずはっきりと、パートナーの怒号が耳に届いた。 (シードラ、モン……)  ビリビリと海を震わすほどの声とともに、青い流星が一閃した。シードラモンのアイスアローだった。 「……!」  予想だにしない攻撃を受けて驚いたのか、私を掴んでいた拘束が緩む。海面はそう遠くない。息を、いや、シードラモンを……どっちも……!  手が水を掻く。  泳ぐ必要はない。足が痛むなら、水を蹴らなければいい。人の体は、本来水より軽い。そこにある境界を目指すだけなら、ただ浮かぶだけでいい。  海に差し込む月の光を辿れば、水面はすぐだった。 「ぷはっ!」 「真菜、捕まれ!」 「うん……!」  呼吸を整えるより先に、彼女の手を取った。手──胸鰭を掴むようにしがみつきながらバイタルブレスを掲げれば、即座に蒼い輝きが迸り彼女の姿を変化させた。 「シードラモン、進化!」  蒼い蛇龍が稲妻を身に纏い、その鱗を紅く染め上げる。 「メガシードラモン、行ける?」 「君こそ、大事無いか」 「とりあえず、大丈夫っ」  メガシードラモンの背にしっかりと捕まって、私を攫ったデジモンと対峙する。青いゼリー状の触手、ピンクの潜水服のような鎧。このデジモンは…… 「ヘイ、さっきは不覚をとったけど……今度はそうもいかねー、ゼッ! オレはアンフィモン、恨みはないがそちらのお嬢さんは渡してもらう、ゼ!」 「フン。こちらのセリフだ、貴様こそ見くびるなよ。真菜を渡せだと? 私に勝ってから言うんだな……行くぞ真菜!」 「うん!」  メガシードラモンは私を乗せたまま、ザパンと音を立てて大きく水面から跳び立つ。その紅い肢体が宙を舞い、頂点に達したところで再び稲妻を放った。 「サンダージャベリン!」  めがけた先はアンフィモンではなく、その眼前の水面だ。瞬間的に落雷に追随した強い衝撃を受けた水面は激しく飛沫を上げ、アンフィモンの視界を遮る。防御体制に入っていたアンフィモンの反応がワンテンポ遅れた隙に、入江の方へ向かって全速力で泳ぎ出した。 「……ッ、完全体如きがなかなかやるじゃねえの」 「アンフィモン……究極体だ。奴はおそらく電気を用いた攻撃にも耐性があるだろう。通常であれば対抗も難しいだろうが……」  とはいえ、戦わないという選択肢も取れそうにない。あのデジモンは明らかに私を狙っているし、何よりもう随分と沖の方に出てきてしまっていた。 「何、入江まで逃げ切ることができれば勝機はある。我々は一人で戦っているわけではないのだから」 「……うん」  そんなことは、わかっていた。シードラモンが私たちだけで戦うという選択肢を取るわけがない。  ちゃんと理解はできていた。  (わたしひとりじゃ、たよりないんだ)  私たちは一人で戦ってるわけじゃないんだ。  (わたしじゃシードラモンをつよくしてあげられない)  究極体が相手ともなれば、当然、合流して一緒に戦うのが賢い判断だ。 「しっかり捕まっていてくれ、真菜。飛ばすぞ」 「……」  ぎゅうと、メガシードラモンを抱きしめるようにしがみつく。時折後ろから攻撃が迫る気配がするが、彼女はそれらを器用に躱しながら泳いでいるようだ。  ……なんとなく、通常の究極体に比べて、攻撃の手が緩いように感じられた。先ほどの言葉から推測するに、恐らくは、私を生捕りにする必要があるからなのだろう。  であるなら、私がもっと上手に彼女の戦闘をサポートできる司令官なら……せめて、戦闘の邪魔にならない程度に動けたなら。  あるいは、彼女を究極体にしてあげられたなら、もっと……彼女に負担をかけずに済んだかもしれない。 「ヘイヘイ、速度落ちてん、ゼ! やっぱ究極体相手に勝負挑むなんてのは無謀だったんじゃねーの!?」 「ぐっ、もう追いついてきたか……!」  後ろから、メガシードラモンを煽るような嘲笑混じりの声が聞こえてきた。もう、声を張り上げなくても聞こえる距離まで迫っている。 「……っ」 「そもそもよぉ、シードラモンのお嬢さん? お前、なーんでそんな人間守ってるワケ? 人間なんて他にいくらでもいるし、一人でも強くなれっしょ?」 「真菜が……私のパートナーだからだ!」 「ほぉん……そんな背中にギュッと抱きついて縮こまってるだけのガキがパートナーね。パートナーってより、お荷物にみえっけど?」  …………。 「は、わかってないな、貴様。順序が逆だ。パートナーだから真菜が大事なんじゃあない。私が、真菜を大事に思っているからこそ……私自身の意思で、彼女をパートナーに選んだのさ!」  メガシードラモンの軌道が突然ぐるりと弧を描き、大きく口を開けた。──。 「メイルシュトローム!」  気付けば、そう叫んでいた。  メガシードラモンの口から、凄まじい高圧水流が発せられた。反動だけで振り落とされそうなそれを必死に堪えて、そして彼女の顔を見上げた。 「うおっ! ヤバ、顔こえー、ゼッ」 「……あは」  シードラモン、怒ってるや。 「すまない、真菜。私は、どうにも自分で思っていたよりかなり短気なようだ」  知ってる。 「君を斯様に愚弄されて尚、奴に背を向けられるほど冷静ではいられない……!」  そうだね。 「奴はここでブチのめす。力を貸してくれ、真菜」 「もちろん。任せて」  どきどきと、胸が高鳴る心地がした。  自分勝手なことを思ってるのは、わかってる。  それでも、きっと私は……シードラモンに守られるだけじゃなく、頼られたかったんだ。  ポケットに手を入れ、中をまさぐる。流されていないようでよかった。 「いくよ、シードラモン」 「ああ!」  BEメモリーを空高く掲げ、バイタルブレスにセットする。私の高鳴る心音に合わせて、青い光がさらに輝きを増していく。 「「メガシードラモン、進化──!!」」  紅く輝く鱗が、より靭いかたちを成していく。見覚えのある黄金色が、今は何より頼もしく見えた。 「──メタルシードラモン!」 「ハッ、こりゃ御大層なことで……!」  黄金に輝く鎧を纏い、より巨大になった蛇龍……シードラモンの、新しい姿。 「覚悟しろ。今の私は、無敵だぞ」  ビリビリと、空気が震えている。バイタルブレスから伝わってくる熱が、早く、一刻も早くその言葉を叫べと私を急かす。 「……アルティメット……ストリーム!」 「ッオオオオ!」  ──そして、閃光が迸った。  *  結局。  アンフィモンを倒せたという実感はなかった。  何しろ、デジタマも上がってこなければ、本人が敗走したというのも見られなかったから。  それでも、周囲にもう気配は感じられなかったし、なにより実際には入り江までもう少しだったわけだから、私たちは無事に逃げ果せた、と認識して問題なかったろう。 「真菜さん! すごい音がしましたけど……って」 「大きな光が見えたが、もしかして敵襲……これは」 「オーイ真菜、大丈……うおっ!? シードラモンか?」 「……魚澄さん。何があったのか、聞いても?」 「……騒がせたのは悪かったが、少し休ませてくれないか」 「ちょっと一息つかせて……それから、順を追って話すね……」  呆れたように、あるいは疲れ果てたように大きなため息をひとつ吐き出すと、緊張の糸が切れたのかメタルシードラモンはベタモンまで一息に退化してしまったのだった。