【ネオカブキチョ某所、バー「ドナウ・フェデラル」:マンゴーシュ、ハプスブルク】 キイィ……重いドアを開き、三つ揃えスーツの男がバーに入店した。「イラッシャイマセ」鮮やかな黒と黄色のキモノに身を包んだ、ウェーブがかった長い髪 を片側に流した怜悧な女性バーテンダーの静かな声。ドアを閉めると、外界の喧騒からかけ離れた笙リードの雅らかな音色と静謐な空気が満たす空間。 「ほう……」三つ揃えスーツの客、マンゴーシュは小さく声を漏らした。奥ゆかしいボンボリ・ライトと蝋燭を灯すアンドンの彩る暖色と影のグラデーション する空間、さながら古式ゆかしい屋敷の離れか茶室を思わせるアトモスフィア。壁には見事なツーヘッズイーグルの墨絵。「墺大公」のショドー。 席は見事なヒノキの一枚板のカウンター席のみ。しかし客席の背後には、より広くスペースを取ったさながらキョートめいた美しいオーガニック日本 庭園が設えられ、客席と同じく奥ゆかしい暖色の間接照明と影がグラデーションを作っており、むしろ奥行きと解放感がある。 「一人ですが」「ドーゾ、お好きな席へ」店内には先客が二名。カウンターの端から2番目の席にカチグミめいた濃紺のワンピース姿の女性、その隣に 連れ合いらしき深緑のダブルスーツの眼鏡の青年。 (一番乗りには失敗したか)マンゴーシュは当てが外れたことに小さく苦笑しつつ、二人から距離を取るようにそのまま入口から最も近い席へ腰掛けた。 マンゴーシュはこうしてバーでサケを飲むとき、できるだけ一人だけの状況を好む。 開店直後か逆に閉店間際の時間が狙い目だ。特に仕事が早く片付いた日の開店直後は良い。店内も棚に並ぶボトルもグラスも全てが手入れされたばかりの 輝き、まだ誰も足を踏み入れていないしんとした清涼な空気。 身繕いしたばかりのバーテンダーがその日に作る最初の一杯を誰にも邪魔されずゆっくりと味わう。時間と空間全てに満ちる奥ゆかしい心尽くしとゼンを 一身に受ける。日々の積み重なる業務もストレスも、訳の分からぬ債務者に頭を抱えるのも、全てはこの為とさえ感じる代えがたい瞬間だ。 バーテンダーはマンゴーシュに温かいオシボリを差し出す。「ドーゾ」「ドーモ。前から一度来てみたかったんですよ、いや噂以上の素晴らしいお店だ」 「恐縮です」バーテンダーは微笑を浮かべながらも、言葉少なにその身にはしんとした空気を纏う。プロフェッショナルのアトモスフィアだ。 続いてバーテンダーは手際よくカットしたフルーツを盛った漆塗りの皿を置いた。「お通しです。今日は新鮮なフルーツが手に入りましたので」イチゴ・ リンゴ・オレンジ・マンゴー……色とりどりのこれもまた見事なフルーツが繊細に飾り切られた一皿にマンゴーシュは目を細める。 「ドーモ」マンゴーシュはフォークを取り、マンゴーを一口。舌だけでとろけるような完熟の食感と甘さが口に広がり思わず口角が上がる、新鮮なだけ ではない、易々とは手に入らぬ上物だ。よもや猥雑な歓楽街の一角の店とは思えぬ。(まさしく隠れ家と言ったところか) 「何かお作りしましょうか」バーテンダーは尋ねる。「そうですね……」マンゴーシュは一呼吸する、ここが肝心だ。だが思いがけぬフルーツによりその ハードルは大きく下がった、サイオー・ホースだ。更にマンゴーシュはオレンジを一口食べた後答えた。 「今頂いたフルーツ、特にオレンジが素晴らしい。折角なので一杯目もフルーツベースのロングカクテルで、このオレンジのジュースを使ったものなど お願いできますか」「勿論」バーテンダーは小さく頷く。「これは有難い。ではベースはマンゴーと……他にもなにか欲しいですね」 「ではパッション・サマーなどいかがでしょうか?」マンゴーシュは笑み、頷いた。「ではそれで」「オマチクダサイ」バーテンダーは下がり、サケと 材料を備え始める。マンゴーシュは一息ついた、うまくいった。 パッション・サマーはマンゴーシュが最も好むサケだ。一杯目はまずこれにしたい。一人であれば物怖じせず堂々と注文するが、他の客の眼のある中で 女性向けカクテルを声に出し明け透けに注文する事は、マンゴーシュの高いプライドが拒否していた。 故に初めて訪れる店かつ自分以外の客が居合わせた場合は、持って回った注文で誘導するのが常だ。そうすれば2回目以降は「前回の一杯目が美味かったので」 といった具合に自然な注文に。3回目以降は「いつもの」で通じる。今回はフルーツのおかげでスムーズに進んだ。 余裕ができたマンゴーシュは再び店内を見渡す、奥の二人の客もなにやら会話しながらサケが進んでいるようだ。やがてカウンターの奥、サケの並びを目に する。スピリッツにリキュール、各種サケの揃いも申し分ない。しかしその中の一点に止まったマンゴーシュの眼は訝しんだ。 マンゴーシュもよく知るロンドン・ドライジンの瓶に何かが漬け込まれている、サンショウの実のようだ。(これは減点だな、よく分からんことをする) 彼は祖国英国の文化に誇りを持っていた。他所の国の者が、そのままで完成されているジン自体に余計な手を加えることは冒涜的にさえ思われた。 愛用の三つ揃えスーツも首都ロンドン、サヴィル・ロウの名門テーラーで設えた逸品だ。忌まわしきケイムショの跋扈によりロンドン……故郷の本店は 街と共に失われて久しい。故にマンゴーシュは殊更に英国人たれ、紳士たれと己にアティチュードとして刻んでいた。 物思いにふけるうち、バーテンダーはマンゴーシュの前にコースターとオレンジ色のサケの満ちたグラスを差し出す。縁には飾り切りされたマンゴー。 「ドーゾ、パッションサマーです」「ドーモ」マンゴーシュは、静かな憮然と目の前のサケへのにわかな興奮を隠して平然を装い静かに口をつける。 「……美味い」「アリガトゴザイマス」自然と零れた一言にマンゴーシュ自身が驚いていた。マンゴーの甘みと香り、若干のとろりとした舌ざわり。 恐らく先程の見事なマンゴーをソース状に裏ごしたものを上部にフロートさせている、全体のバランスを崩さず一口目の印象を高めるためだ。 「オレンジよりお好きなようでしたので」バーテンダーは静かに答える。「差し出がましければシツレイを」「いえ、そんな」マンゴーシュは歯切れ悪く 答える、そしてまた一口進む。「この店は私のドージョー」「はい?」バーテンダーは切れ長の瞳でボトルを見つめ磨きながら独り言めいてごちる。 「外界からひとたび扉を潜れば、ダイミョもサムライも、あらゆる武器もヨロイも外した等しく丸腰。チャドーにおいては"ニジリ"と呼ばれる概念です。 どうぞおくつろぎを」やがてバーテンダーは奥の客二人の注文を受けに向かった。マンゴーシュは呆気に取られながらまた一口進み、やがて苦笑する。 改めて店内を見渡す。奥ゆかしい灯りと影、美しい庭園、見事な墨絵、奥の席の男女。どうやらこれで3杯目の注文のようだ。女は終始アルカイック な笑み。だが青年の話に相づち頷くその動きには親しき仲を感じる、その度にサイバネ・アイの虹彩が茜色から群青色にグラデーションする美しい顔。 眼鏡の青年の纏う深緑のダブルスーツ、よくよく見ればあれもまた自分のそれと同等な上等な品だ。それを嫌味なく自然体に着こなし素朴に微笑む様。 くつろぐ両者の穏やかなアトモスフィアが店のそれに伝播している。先程までは感じなかった、同じ空間に在りながら一人で殻の中に居た。 (参ったなこれは)完全にイポンを取られた。あのバーテンダーは、ドージョーに足を踏み入れてなお着込んでいた己のヨロイを見事に剥いでしまった わけだ。サケの回りのほのかな熱と共に、余計なつかえがとれたような心地よい軽さが証だ。「カコーン」庭園のシシオドシが奥ゆかしく音を立てる。 (……たまにはこういうのも悪くないか)マンゴーシュは再び一口。グラスが空だ。「何かお作りしましょうか」二人にサケを供し終えたバーテンダーが 再びマンゴーシュに尋ねる。「このお店のお勧めを頂きたいですね」「ではコブ・ダシのビターズを使ったショートカクテルなどいかがでしょうか」 「是非」マンゴーシュは穏やかに頷く、バーテンダーは再びサケと材料を揃え始める。次はあのサンショウの浸かったジンで何か頼んでみよう。未だに 解せぬがあのバーテンダーがそうしたのならば、作るのならば美味いに違いないのだろう。今はむしろ期待感さえある、良い店に来た。 その時である。 キイィ……重いドアを開き、三度笠を脱ぎながらサイバー・キナガシの女がよろよろとバーに入店した。「ヒカエナスッテ……ヒカエナスッテ、とくらァね」 「…………」バーテンダーは一瞥もせず無言。切れ長の瞳には乾いたアトモスフィアが漂う。マンゴーシュは訝しんだ。 「ドーモォ、ハプスブルク=サン。いやあ、ちょいと飲み食いが過ぎましてねえ。カネがもうなくてね、それでね、まあ、無くてもここはひとつツケで 飲ませてくれそうな所に行きゃあ、もうそりゃ問題ないって道理で……あらぁ?イイ男?」胡乱な女は入口に近いマンゴーシュに突如しなだれかかった。 「エッ!?」予想外の事態にマンゴーシュは困惑!そしてキスをせがむように両頬に手を当て顔を寄せる女は「ゲホッ!オエエ……」「ウワアアッ!?」 「イヤーッ!」その瞬間、いつの間に女の後ろに立っていたバーテンダー……ハプスブルクは鋭いカラテシャウトと共にその首音を掴み店外に放り出す! 「ンアーッ!」「少々シツレイ」ゴロゴロと路上に転がり出した女を追い、ハプスブルクは店外に出ていく。キイィ……ドアが閉まると再び店内には 奥ゆかしい静寂。「えぇ……?」「気にしない方がいいですよ。たまにあるんです」もはや放心状態のマンゴーシュに眼鏡の青年が困り顔で言った。 マンゴーシュはニンジャ聴力をそばだて、店外の様子を聞く。『ドーモ、ブライカン=サン。帰れ』『そうおっしゃらず……ここはひとつこう、古巣の よしみというか。困ってる人を助けない女はケツノアナが狭くてキツいっていうか、それは興奮しやすがハプスブルク=サンはそんなお方じゃ』 『イヤーッ!』『ンアーッ!?』『クズめ』『アーイイ……』『私一人ならまだしも客に手を出すとは言語道断だ。店を潰す気か』『でしたらほら…… 代わりにテイクアウトって事で、ちょいとボトルの一本だけでも頂』『イヤーッ!』『ンアー!?』『保健所か屠殺場行きか好きな方を選べ』『アッ!』 「ムン」「エッ!?」ドアを注視していたマンゴーシュは背後のドスンという音に驚き振り向く。たった今まで普通に会話していた筈の青年がカウンターに 突っ伏し昏倒している。グラスは器用に手に持ったままだ。「気にしないでくださる?いつもこうなのよ」隣の女は嘆息がてらまたグラスを傾ける。 キイィ……重いドアを開き、ハプスブルクは何事もなくカウンターの中へ戻っていった。外からは遠く吐瀉音が聞こえる「シツレイ、ではお作りします」 「スミマセンお会計を」マンゴーシュは帰宅した。