序章 カンラーク陥落  カンラーク。  それは甘楽にして歓楽の都。  かつて法楽の聖都と呼ばれた大帝国の都市はいまや快楽の地として世に知られることとなった。  高等神官と年若い永遠の少女王、そして寄り集まってきた棄民たちによって存在する堕落した都市はその有様でありながらいまだ清らかな地とされる。  要害の地である。  開かれた平地であり、住むにはなんら問題もない。しかし東にはルタルタと呼ばれる遊牧民が住み着き、北は門閥貴族が住まうサンク・マスグラードがある。西には王の盾ことエビソニグ帝国が立ち塞がっている。そして南に広がるのは陰鬱たるモウ・ホロビータ。耕すことならず、広げることならずの魔の地である。かつての政治の中央であったカンラークがいまだ力を持つのは、各国の王権をカンラークが保証するからだ。いわばこの地にある諸所の王国は、地図に記名がなくとも皆カンラークの子であり、カンラークがなければ王の資格ならずという印でもある。  ただそれだけでは誰も従うまい。権力とはそれを保持する武があってこそ初めて成り立つ。王権の資格発行所であることに加え、長らく歴史を積み重ねてきたモノノフたちがいてこそ続いてこれたのだ。  聖都千年騎士団がその正式な名前である。  ただそう呼ぶものは一人を除いて今誰もいない。  偉大なる千人聖騎士団。  人類の誇りをもって語られる、それが彼らの名前だった。  淀んだ歓楽の空気が大地に澱み、生ぬるいような空気が漂う街並みでも日差しは明るく何もかもを照らし出していた。  いい天気だ、と思った。  子供たちの笑い声が市場を駆け、娼家の呼び込みも今は軒下で昼寝をする。買われてきた元貴族の誰とかいう娘はもう仕事に慣れてきたのか、仕事仲間と談笑しながら粗末な煮物を道端で作っている。  冒険者の一団はカンラーク経由で入ることができるモウ・ホロビータの迷宮へと向かう。よい経験値稼ぎだと喧伝される場所は、各所から猛獣を集められた動物園で、無計画に放し飼いされているだけの場所だった。大抵の者達がその殺し合いで満足する。大貴族達がその戦いを見て退屈の慰みとしていることも知らずに。そしてさらに迷宮の奥深くに足を運んだ者の、ほとんどは戻って来なかった。  腕に自信のあるものは聖騎士を目指す。  千人聖騎士。  厳しい訓練と規律に支えられた戦闘集団である。  鍛えられた身体に白銀の鎧を纏い、青年は街を進む。巡回である。チラチラとこちらに向けられる視線は彼が千人騎士団だからではない。通常2人で任務に就くことを求められる千人騎士団で、1人で勤務することが珍しいのだ。そんなことができるのは団長か、あるいはそれに並び立つほどの腕の持ち主である。  そんなジロジロみんなよな。  と青年は苦笑する。  腕試しで加入した聖騎士だ。皆から特別視されるのは、面映い。いずれ立ち去る騎士団にも関わらず、仲間として認められているのがくすぐったいのかもしれない。  いや、このままここにいてもいいのかもしれない。そう思うのも確かだった。 「よう」  串に刺した焼き肉を口に運ぶ仲間を見つけて声をかけた。明るい瞳が僚友を見つけて気まずそうに伏せられた。 「あ、すみません、今日は大事な日なのに、こんなところ見られちゃって」 青年剣士のヨウセツだ。側にはヨウセツと街を巡回しているマダー・オサーンがいる。マダーはビールのジョッキまで持っている。堂々としたサボりだ。 「気にすんなって。俺も買い食いくらいするさ」  天幕の下で汗に濡れながら肉を焼く男から一串買うと、はぐ、と噛みついた。濃いタレの味が肉の脂と共に口の中に流れ込んでくる。うまいが、肉は痛みかけたやつだなと思う。都に定められた規則通りよく焼かれているものの、ここカンラークが全体の1割程度の食料自給率しかないと思い知らされる。新鮮な食料に事欠くのだ。  空には桃色がかったガラスのような膜が輝いた。日差しが落ち始めると見える、対物理、対魔法、対呪い、対毒防御結界が幾重にも仕掛けられているせいだ。聖者の無菌室のなかでは性病も疫病もなく、それは翻っていえばどんな悪徳でも身を滅ぼすことがないということでもある。  ではそんな絶対防御の気の緩みがこんなサボりを生んでいるのかといえばそれは違う。  使命だの正義だの、そんな概念が幸福を生み出すわけではない。  人だ。  世を救うのは、人の手であるはずだ。  ためらわずにそう口にする。だから君もまた、勇者だ。 「勇者様にそう言っていただけると、未熟な僕でもちょっと気が楽になります」  はにかむ青年剣士に人懐こい中年男が背を叩いた。 「そんな顔すんな。勇者だって俺たちの仲間だ。同じ人間だ。  今日みたいな日でもな、いつも通りの日常を送るのが大切なんだって」  な、と片目をつぶられて頷く。確かにヨウセツの剣技はまだ未熟だがそれは聖騎士団の水準で見ればだ。もし小国にいけばすぐにでも隊長を任されるくらいの腕がある。そしてこのマダー・オサーン聖騎士の包容力を身につければ大隊長どころか将星の一つとなることもできるだろう。  有望な若手の存在にマダーは誇らしげだ。 「こいつは胆力があってな! 何かあっても弱いもののために、戦える力がある。俺は知ってるぞ」  昼行燈を気取り、いつも冗談ばかりの上官に褒められてヨウセツは照れた。 「俺は……その……未熟だから。なにかあったら逃げちゃいますよ」 「後方支援、避難民の誘導は逃亡じゃあないぞ」  マダー・オサーンが珍しく真面目な顔で言った。 「そのとき自分が出来ることをすればいい。やれることをやる。  お前の出来ることは民を生かし、お前が生き残ることだ」  中年騎士のマダーの声に、年上の男の力強さがあった。ヨウセツの胸が熱くなる。そこに「そうよ!」と滑り込んできた少女がいた。  聖騎士ミクリアだった。まだ幼い顔立ちの彼女は勇者の懐に飛び込むと満面の笑顔で言った。 「見ててね! あたしったら優秀だからなんでもやっちゃう! たとえ火のなか、炎のなか!」 「何を言っている」とヒルムナーが割り込んで来た。いかにも武人、という顔だ。鉄色の肌をもち、鍛えられた膂力を持つ。そしてマダーの同期であり、ミクリアの教官でもある。 「今日何が起こるか聖都の民はなにもしらん。  俺たちの極秘卿が極秘に行ってきたことだからな。  我ら聖騎士は立派にこの使命をやり遂げねばならぬ。教会との橋渡し。  そんな日に有事があればどうなる?   なにがあっても、一心不乱に戦ってこそ勝利をもぎとれるのだ。おまえのような性根のぶらぶらした男の話を若い剣士が聞いてはためにならぬ。  だからミクリア。  決して怯むな」  ヒルムナーは真面目な武人である。その眉間によった皺をマダーは指先で触れ、ちっとは力を抜けって、とおどけてみせた。 「お前の可愛い弟子の前で、余裕を見せてやれよ」  ヒルムナーは赤くなる。その顔をニヤニヤそて見るミクリア。一心不乱に突き進む彼を、彼女は密かに誇りに思っているのだ。 「おまえのそういう態度が……」  食ってかかろうとして、ヒルムナーの顔がゆがむ。 「コーウカツの野郎だ」  マダー・オサーンの目が一人の男を捕らえる。権謀術数で聖騎士を維持する男、コーウカツが背筋よく城壁からこちらを見ているのがわかったからだ。 「あいつみたいな卑怯者よりお前の方がマシだ」 「そういっていただけるとありがたいね」  マダー・オサーンはうれしくない比較に肩をすくめた。  城壁から見下ろすコーウカツは、僚友と目が合い、彼らが肩をすくめるのを鼻で笑った。ものを知らぬ輩が口さがないことをいうのは慣れている。 「エカレズ君、どう思うかね」  狡猾な目つきの男がうら若い戦士に言う。 「ああやって仲間ごっこをしていればいかなる難敵にも勝てると思っているのだよ」  仲良く笑い合う仲間を見ながらエカレズは微笑した。彼の村にいる頑固な老人にコーウカツはそっくりだ。さみしがりやで口が悪く、また知恵に富む賢者の側面をもつ人。彼はとても優しい男だった。コーウカツは彼に似ている。  だからエカレズはおそれなく口にできるのだった。自分を育ててくれるこの男を。 「いいじゃないですか。私たちの絆が強ければ、なんらおそるべくもなしですよ」 「絆で戦いが出来るかね」  冷ややかな声で男は言う。 市場のかなたから金色の槍が人ごみのうえに突き出して見えてきた。幾本ものその鋭い穂先は戦うためのものではなく、人払いのための印のようなものだ。 「見たまえ、エカレズ君。あれが教会の連中だよ」  聖都カンラークは教会とつながりが太い。オダイエナイ大司教に続くのはコーコシカ殿下だ。豪華絢爛な道行きを恥じるようについてくるハズー僧正の横に、リヴァイブ枢機卿の陶器のように白い顔が並ぶ。教会のお歴々というやつだ。 「何が信仰か。  あいつらがのうのうとしておられるのは、いざとなれば我ら聖騎士の武力を盾にできる安心感だ。  だがあの者たちはわかっておらんのだよ。いまや戦いは力と力のぶつかり合いではないということに。この厳重な結界でもなければ、決して安心できぬ脅威に人類は襲われようとしているのだ」 「魔族の、転移術ですね」  エカレズの理解力の早さにコーウカツは目を細める。 「その通り。連中は移動の術を使う。それが転移石だ。物体を、その身になじみのある場所に引き付ける。自分の意志で思った通りに移動できる術はまだないが、いずれできるようになるだろう。襲撃を受けずに、使節団がカンラークに到着したのは幸いだ」 「そうですね。ただ……」  エカレズは遠くを見た。故郷の方だ。 「その転移術を、仲良く使いあえば、魔族ともお互いもっと豊かな生活が送れるのに、そうは思いませんか? コーウカツ殿」  なにを夢見がちなことを、とは、コーウカツは言わなかった。その代わり。 「貴殿は明日故郷に帰るのだろう」とだけ言った。顔をほころばせるエカレズだった。 「はい。今日、実は俺の誕生日なんです」 「それはそれは……。なるほど」  エカレズはウァリトヒロイ王国の農村からここまでやってきた。団長が見出した彼はめきめきと頭角を表し、見習いといいながらも聖騎士として恥じない鍛錬を行っている。 「今日は騎士団が全員集合することになっていたから、出発を先延ばしにしたというわけか。ふ……それは気の毒だったな。これでご両親になにかお土産でも買っていきなさい」  祝いを渡そうと金貨を取り出そうとしたコーウカツに、エカレズは「騎士団のお話、とりわけあなたとの日々が、両親へのなによりの宝です」と応えた。 「さあて、皆さま、ずずずいと歩かれよ」  聖騎士チョンマゲイラが聖者一行を案内する。  聖騎士の衣装はお仕着せのものではない。心のありようなのだ。チョンマゲイラが東洋の衣装を着ているのもそのせいだ。故郷への誇りを胸に戦う聖騎士は多い。  陽気にふるまうチョンマゲイラだが、教会の使者を案内するのはいつだって気が重い。  どうした陰気な顔をして、とジノブンデトーク司教が尋ねる。貴様の態度は、カンラークで教会の重鎮たる我らを案内するのに、ふさわしくないぞ。 「いや、これはまた失礼をば!」  こうべを下げるチョンマゲイラの首は横を向いている。髷だけがしおれた花のようにおじぎした。なかなかの傾奇者である。花のように散るのが武人の誉れと思う彼にふさわしい仕掛けだった。彼が頭を垂れるのは、誠に尊敬できる武人だけだった。 「ずいぶんハズレをひいたな」  のんきなことをいうのは、いつのまにか隣にいた聖騎士バクトだ。赤いマントに、縁起物の印を鎧中につける気のいい男である。チョンマゲイラとギャンブルと酒を楽しむ、これもまた聖騎士のなかの傾奇者であった。 「リヴァイブ枢機卿まで混じっている。遷都の話そっちのけで、カンラークの切り札でも探りに来たのかもな」 「違いない」  チョンマゲイラはちらりと後ろを振り向く。魔族とも平気で手を結ぶというリヴァイブ枢機卿。輝きの勇者とやらを側にはべらせ、愛想よく微笑んでいる。なるほど。身の安全は万全というわけだ。手ごわい護衛を雇い身を守るのは、自分がこの都で暗殺の憂き目にあうことも予想してということか。  教会からのナガ・アルダ=ケマ使節団はこれより、団長と出会う。  カンラークの秘密を知る、聖騎士最強の男。  極秘卿、サウザンド・キョウディエンド。  白い長髪に口ひげ、慈悲深くみえるその瞳はいままで何を映してきたのか。  強き者たちを導き、率い、そして古の地カンラークの真の姿を知る者。  旅から旅を重ね、有数の武人たちを見出してきた者。 「コイン占いでもしてみるか?」  とバクトは言った。彼はいつもコインの裏表で決断する。表が出れば旨く行く印、裏が出ればそれまで。 「よせやい」とチョンマゲイラは鼻白む。 「そいつは一発逆転の賭けにとっておきな」 「よう! 勇者殿」  早足に進む青年に、声をかける男がいる。娼家の立ち並ぶ裏道にいるのは、聖騎士オンナグッテ・ソーだ。思わず口がほころぶ。春を売る仕事につく女たち。彼女たちは隠れた被害にさらされることがある。病も呪いも入り込めないこのカンラークで、暴力を防ぐのは武の力だ。 「あいかわらずモテるな、オンナグッテ」 「クールなところがモテるちゃうんかね。ほら、ボクってちょっと女殴ってそうやし」  冗談めかすが、彼ほど女性を大切に扱う男はそういない。だからこんなにも女性に囲まれるのだろう。ねえ、オンナグッテったら今日はずっとここにいるのよ、などと肌を露わにした女たちがはしゃぐ。彼はそっと青年の耳元に顔をよせ。 「実はな。オレ、今回の任務終わったら、結婚申し込もうおもてんねん」 「結婚?」 「そ。ミクリアちゃんとな」  くすくす笑う彼に、娼婦たちも笑う。あのちっちゃい子? 妬けちゃうわあ。彼女らの威言葉を笑って流して、だがオンナグッテは本気だった。 「なあ、今回の教会との合意がなったら、オレたち千人騎士団もちったあ余裕ができるってもんや。そしたらなあ。オレも、人並みの幸せゆうやつを求めてみてもええんやないかって思うんよ」 「なんでそれを俺に?」  首を傾げる黒髪の青年に、オンナグッテはため息交じりに答える。 「お前に友人代表をやってもらうためや。うまくいったら。そう全部うまくいったらな。  まあええわ。ほら、もう行き、教官がくるで」  向こうから顔をしかめた初老の男が歩いてくる。火傷面のセギ・シャクカだった。  その炎のような、焰のような、火の如くな彼の面影、風貌、そして姿は、歴戦の戦士に見える聖騎士だった。彼は聖騎士団の教官であり、戦士たちの先生だった。彼は右脚を踏み出し、左の娼家に目をやると、右の方に目を向けた。右を向かなければ右が見えないからだった。  そして正面に、探していた騎士2人をみつけると、目をこらし、右脚を踏み出したあと、おもむろに左足を踏み出した。 「なにを!」  声を張り上げるセギ。シャクカ。 「しているか! 貴様ら! お客様は」  歩みは早くなる。走るでもなく、しかして歩くというには想いもよらぬ速度だった。  つまり。  早足だった。 「遊んでおらず、配置に」 「ほら、もう行けって。ここらオレに任せ。話がいつまでたっても終わらん」  目を閉じたり開いたりする青年に、どん、と肩で押すと、丁寧な指導と、長い話で有名な名物教官を相手にするために、聖騎士にして女のような表情をもち、1人の女性に、それもこの青年に秘めたる恋をもつ同僚ミクリアへ少年のようなオンナグッテ・ソーが進み出た。  ちなみに彼は童貞だった。 「その説明必要ある!?」  女たちが笑った。  親しみをこめた、女たちの声だった。  「団長、おつかれさまです」  青年は声をかける。  老将は手を挙げて勇者を招いた。 「ようやくこの日が来たな」  と彼は言った。あまりにやれやれ、という雰囲気だったので、青年は笑った。彼と同じ、もしくはそれ以上の剣の達人である団長は、常に団のために心を砕いてきた。誰も殺さず、死なさず。それは命の大切さを心から知っている人だからだと青年は思う。  カンラークは要害の地である。側に遊牧民ルタルタが刃を研ぎ、北は悪徳貴族が跋扈するサンク・マスグラードがある。混乱する地の中心で赤く燃える聖都カンラークに、地上のものならざる力をもつ教会が戻って来てくれれば! まあ、ちょっとしたろうそくくらいには明かりが灯るだろうと意地悪く青年勇者は考える。それでも灯らないよりましだ。この世界を照らそうという、明るい心の火が。  少なくとも各王国諸侯の支配権の資格を発行するという威信は、教会の後押しで再び規律を産むだろう。それは西に位置する魔王軍へ人類が力を合わせるきっかけとなるはずだ。  魔族は手ごわい。おそろしい術を使い、人よりも強大である。  だが、それでも人はあきらめない。彼らの下僕にはならない。 「教会本拠地が遷都して、再びカンラークに戻ってくる。あなたが奮闘したからできたことですよ、団長」 「そういってくれるとうれしいが、このあとうまくいくかが一番大切だよ。  なにせこの世は神の手によって動くものではない。  我らのような、人間が動かすのだからね」  青年は頷く。向こうから東洋から来たもう一人の武人がやってきた。隻腕にして、一刀の太刀のもと敵を切り伏せるイゾウだ。彼の美技はルタルタの騎馬の短弓を避けて切り伏せる。喜色満面の男がぐいっと汗を拭いた。 「まもなく使節団がやってくるぜ親父!」 「うむ。頃合いだ」  老人が頷いた。  周囲が湧いた。  カンラークの象徴でもある少女王が現れたからだ。  人々は驚きの声をあげる。カンラークの民には今日のことは何も知らされていない。だからこそだ。なんの式典もないはずなのに、聖都カンラークの双子であるとされる彼女が王宮からでてくるなんて。  赤い髪を持ち、赤い瞳を持ち、白い衣をまとう少女。カンラークより未来を、予言する者。  ケイラ様! ケイラ様だ!  ざわめく群衆が左右に割れる。  そこに踊り歩くチョンマゲイラとバクトが進み出た。  黄金の槍が天を衝く。  おう、少女王だぞ、とジノブンデトーク司教が叫んだ。 「彼女が我らを迎え入れる。それからが全ての始まりだ。  命とは惜しむべきではありません。お分かりですな。謀略ははずべきことです」  ハズー僧正にオダイエナイ大司教は首を横に振る。 「全ては偉大なる御心のままに」  視線を向けられたリヴァイブ枢機卿は頷く。彼が思い描く不朽の命の呪法のためにはカンラークの秘密が必要なのだ。ナガ・アルダ=ケマ使節団に実力者が多いのはその目的のためなのだから。  己の野望の到達点は間近だ。  使節団を向かいれる少女王が微笑みかけている。  ただ、リヴァイブ枢機卿は、ふいに少女王が振り向くのを見た。  その先に白銀の鎧を着た青年がいた。  黒髪の青年。どこにでもいるような一人の剣士が。  青年勇者は、初めて見るカンラークの秘宝を見た。  彼女の手には宝玉があった。  顔には笑顔があった。  なにに気づいたのか、微笑んだ。  姉さま、と呼んだ気がした。  その瞬間。少女王は消し飛んだ。  聖都カンラークの象徴がいたところには、黒い球体があった。  稲光を覆いながら、晴れ渡る空の下に現れた黒い闇は、やがてほどけて、一人の男となった。  誰も声を発しなかった。何重にも張られた結界をすりぬけ、少女王を一瞬で葬り、ゆっくりと立ちあがる黒衣の男がいた。  二つの角に、夜のようにたなびくマント。  その鎧に傷はなく、ただ赤い目が虚ろな兜の奥で鈍く光る。  悲鳴があがった。  城壁から声が上がる。 「団長! 転移術だ!」  コーウカツだった。  いつも理性的に周囲を見渡す男が、焦りも隠せず叫んでいた。遠い国から。 「魔族がやってきた!」  ヤー! ヤー! ヤー!  それぞれで声が上がる。  一度顔を合わせ消し飛んだ少女の姿を目に焼き付けたまま、青年はすでに剣を抜いていた。  団長は険しい目で見ていた。  突如現れた、名も知らぬはずの黒衣の魔族を見据えていた。  低い、覚悟を決めた声が、極秘卿の口から漏れた。 「ボーリャック、行くぞ」  青年勇者は。  俺は走り始めた。  それから三日が経った。  その一部始終を、俺、勇者ボーリャックは全て覚えている。わすれられるわけもない。にもかかわらず、人類の歴史にはたった一言が刻まれているだけだった。  どの書をといてもそこには。  カンラーク陥落。  と。