メイプルナッツ  夢うつつにかすかな床の軋みを聞いた気がして目を覚ました。  自室のものとは比べものにならないくらいふかふかのベッドの寝心地は最高だったけれど、まくらが変わったせいか眠りがすこし浅かったらしい。意識は妙にはっきりしているのに体の奥底にけだるさが残っている気がする。 「ん……」  枕元のスマホを点けてその光量に目を細めながら画面の右上に表示された時刻を確認すると、まだ6時前。普段ならまだぐっすり眠っているような時間だ。 「わ、起こしちゃったっすか?」  薄暗闇にまだ目が慣れていないものの、特徴的な語尾のおかげで話しかけてきた相手が桜小路きな子であるということはすぐにわかった。申し訳無さそうな雰囲気を声色に滲ませながら彼女は私に向き直る。 「まだ寝てていいっすよ、夏美ちゃん」 「ん……起きますの」  普段であるなら時間までまだ眠れると安堵して目を閉じるところだけれど、今はそういうわけにもいかない。ようやく降ってきたまたとないチャンスなのだから、ぐうすか寝ている時間なんてこれっぽっちもありはしないのだ。なぜなら時はマニーなりなのだから。  洗顔を済ませて着替えのために部屋に戻る際、廊下で若菜四季と鉢合わせた。 「おはよう。きな子ちゃん、夏美ちゃん」  出で立ちはすらっとしたトレーニングウェア。目尻が下がっていて喋り方もゆっくりめなせいで眠そうな印象を受けるけれど、足取りはしっかりしていて準備万端という感じが見て取れた。  きな子のおはようっすという挨拶に続いておはようですのと返し、スマホのカメラを向ける。四季は一瞬じっとレンズを見つめたかと思うと、手でVサインを作るとまるで石像みたいに数秒静止した。 「……動画ですの」 「知ってる」  じゃあなんで動かないのか。顔もスタイルもいいというのに奇行のおかげでまったく撮り甲斐がない。若菜四季という人間を理解するにはまだまだ時間がかかりそうだった。  部屋の扉を開くとどこで入れ違いになったのか、さっきは姿が見えなかった米女メイが着替えを済ませたところだった。 「おはようっすメイちゃん。ぐっすり眠れたっすか?」 「おはよ、きな子。バスのシートに比べりゃもう天国だぜ」  きな子と挨拶を済ませた米女メイはキャップを被りながらちらりとこちらに視線を向けてくる。つい今までの笑顔を引っ込めた、色の感じられない視線だった。 「おはよう。今日も鬼塚は朝練についてくるのか」 「おはようですの。密着取材だから当然ですの」 「ふぅん。ま、そういう約束だからいいけど」  何がどういいのか。引っ掛かる物言いにこめかみをひくつかせるものの、今は気にしないことにする。こんな序盤から波風を立てて得することなんて何ひとつありはしないだろうから。 「きな子の母ちゃんがおにぎり用意してくれてたから、途中でダウンしないように食っとけよ」 「はいですの〜」  胸中に渦巻く感情を隠そうともせずぶっきらぼうに言い放つ米女メイとは対照的に、私は顔面に作りものの笑顔を貼り付けて退室していく後ろ姿を見送った。  この場この時の私の存在は米女メイからは、少なくともよくは思われていないのだろうことは嫌でも理解できた。彼女の早とちりとはいえ、初対面からして彼女の期待を裏切ったのだから第一印象は最悪だったろうし、無理もないことではある。けれど、それにしたって露骨すぎやしないかとも思う。  人間生きていれば、理解はできても受け入れがたいという事柄はままあることだろう。そんな状況に置かれたならば、受け入れられるように努力するか、受け入れた振りをして自分を騙すしか方法はない。見て見ぬふりなんてこれまで何度もしてきたのだから、慣れっこだ。  アンテナは鋭く、感情は鈍化させることが人生を歩む上でのコツだと私は知っていたはずだった。  合宿二日目の朝は柔軟運動から始まった。  部員ではない私には必要ないと辞退を申し出たが、柔軟後は周辺のランニングから入るので腱くらいは伸ばしておけと半ば強引に参加させられた。  さもありなん。動画の撮影スタッフは私一人しかいないわけで、撮影するには当然私自らが彼女たちに随伴しなければならない。道中で脚でも攣ろうものならそこまでなのだから、準備運動は入念に、だ。これはいよいよもって撮影用ドローンの導入を真剣に考えなければならない段階にきているかもしれなかった。 「だから姉者は詰めが甘いのです」  呆れ顔で腕を組む妹の声が聞こえた気がして眉根を寄せながら、きな子とペアになって体を伸ばす。 「夏美ちゃんがいてくれて助かるっす。三人だとペアが作りにくいっすから」 「どういたしましてですの」  ただの準備運動だというのに、きな子はたいそう楽しそうにへらへらと笑っていた。  気温は高くもなく低くもない。陽射しはやや強くて眩しいものの、木陰に入ってしまえばひんやりと涼しい、まさに強化合宿にはうってつけの気候だった。 「とにかく基礎体力作りだ。どれだけ小手先の技術を磨いても踊りきれなきゃ意味がねえ」  話し合いの結果、今回はそういった方向で伸ばしていくことに決定したらしい。大声でアメンボ赤いななどと叫びながら入道雲に向かってとにかく走る、走る。東京のど真ん中ではやりにくい、下手すれば騒音のクレームが届きそうなこともここならば思いっきりやれるだろうという判断だった。  早朝練習を終えて、朝食の合間に昨日さっそくアップロードした動画のチェックをする。再生数は3万弱。先輩方を交えたゲーム大会動画ほどの伸びはないものの、一晩でここまで伸びたならそれは申し分のない数字だと思えた。 「夏美ちゃん、お行儀悪いっすよ」 「時はマニーなりですの。食事の時間も余すことなく活用しているだけですの」 「そういうもんっすかねぇ……」  屁理屈で返すと納得したようなしてないような、微妙な表情できな子はポテトサラダを頬張ってもにゅもにゅと咀嚼する。 「ある意味でポジティブ」  コーンスープのカップを傾けながら四季はそう言うが、私のそれの原動力はポジティブとはかけ離れた、あまりにも後ろ向きな思考から成っていた。何をやっても失敗続きだった私には、これくらいしかできないし、これくらいしか縋れるものがなかったから。  ふと、いつまで経っても会話に参加してこないメイの方をちらりと盗み見た。  静かに黙々と食事を続ける彼女は、普段の言動からは想像もできないくらい所作が美しかった。なぜだろうと観察してみると、箸使いがこの場の誰よりも綺麗だということに気づく。後から知ったことなのだけれど、メイは幼少期から親の方針でピアノを習ってきたそうで、その経験が箸の持ち方や姿勢にも影響を与えているらしかった。  そういえば、私も音楽の道を志したことがあったっけ。……長くは続かなかったのだけれど。 ◆  ニュースメールの受信ポップアップで、楽しみにしていたスクールアイドル雑誌の発売が明日に迫っていたことを思い出した。  スマホの時刻表示は22時半で、もうしばらくすれば電子書籍版の配信も始まる。そうなれば日付の変更と同時にダウンロードして全ページを舐めるように読もうと画策していたが、私は重大な見落としに気づいてしまった。ウォレットの残高が足りないのだ。  どうせ毎号買っているし、紙媒体でも買うのだからチャージも購入も急ぐ必要はないだけど、すぐに読めないというのがわかると猛烈に読みたくなるのがオタクの性というものだ。あぁ、それにつけてもクレカが欲しい。 「しょうがねえか」  独りごちて財布を掴んで立ち上がり、リビングで夏休みの宿題をやっつけていた四季ときな子に声をかけて玄関のドアを開くと、今の今まで忘れていたかのような淡い熱気が義務感めいたやる気のなさで頬を撫でた。  ふと、物音を聞いた気がして弾かれたように庭の方へと視線をやる。夏の間は山にも食べ物が豊富にあるだろうから野生動物も人里近くまで降りてくることは少ないとは言え、皆無ではない。万が一ということを考え、一瞬玄関までの距離を確認してから薄暗闇を凝視した。 「メイさん?」  果たして、そこから現れたのは凶暴な野生動物などではなく、小柄な体格だと言われる私よりもさらに小さなこの合宿の同伴者だった。 「び、びっくりさせんなよ……心臓が止まるかと思った」 「はぁ、それは申し訳ありませんの」  そういえば姿が見えないと思ったら、外にいたのか。出で立ちはTシャツに短パンという簡素なもので、私達が練習をしている間も洒落た格好ばかりしているこいつにしてはずいぶんラフな格好に思えた。よく見ればそれほど暑いというわけでもないのに汗で髪が頬に貼り付いている。 「こんな時間にどうしましたの」 「ちょっとそこまで買い物」  ちょっとそこまで、というにはきな子の実家は幹線から離れていたけれど、それ以外に形容できる言葉が見当たらなかったので、そう言った。 「ちょうどいいから一緒に行きますの」 「何か必要なら買ってくるけど」 「選びたいので自分で買いますの」  正直なところ、気まずかったので遠慮しておきたかったが、そう言われてしまっては仕方がない。腹を括って同行を許した。  電子マネーと小腹満たしの菓子類を買い終えて店内を見回すと、鬼塚はなにやら雑貨のコーナーを真剣な表情でうろついていた。時間がかかりそうだと察した私は店先で今しがた買った電子マネーのコード入力を済ませ、溶けないうちにアイスの袋を開いた。 「お待たせしましたの〜」  ほどなくして雪国特有の二重ドアから出てきた鬼塚の声を聞いて、残りのソーダアイスを口の中に詰め込んだ。スティックに何も書かれていないことを確認してゴミ箱に放り込む。 「おう」  あそこまで悩むのなら確かにおつかいを人に頼むことはできなかっただろう。そして、そんなに真剣に選んだものが何なのか、それは大いに私の興味を引いた。 「何を買ったんだ?」  帰り道を無言で並んで歩くというのもなんだったので、世間話くらいのトーンで聞いてみる。 「おやつと、モバイルバッテリーですの。これでやっとスマホを充電できますの〜」 「充電切れなら部屋で充電したらよかったんじゃないか」  安い買い物でもなしに、金の亡者である鬼塚のとる行動とはとても思えない。鬼塚はパッキングを雑に剥いて手繰り寄せたコードをスマホの充電口に突っ込む。 「明日以降も活用しますの。練習動画を撮影してたらいくらあっても足らないし、使いたい時に充電切れなんて勿体ないですの」 「タイムイズマネーってか」 「よくわかってますの」  さっきペンションの庭でしていた何か、もスマホの充電を食う行動だったのだろうか。いや、だろうか、なんて知らない振りをするのももう面倒だ。鬼塚がスクールアイドル部の部員でもないのに、夜の間ひとりで踊っているのを私は既に知っていた。  かのん先輩が泊まっていった日から、鬼塚の私達の練習に同行するスタンスが大きく変わったように私には思えた。ランニング前の柔軟運動にも文句ひとつ言わずに加わるようになったし、ステップ練習にも積極的に参加するようになっていた。どんな心境の変化なのかは知らないが、やる気みたいなものを見せてきていたのだ。  私は戸惑った。鬼塚がLiella!のプロデュースを申し出てきた時から胸の中にわだかまっていたモヤモヤとした気持ちが、ぎゅっと濃縮されたような気分だった。  いくら底辺エルチューバーとはいえ、鬼塚がLiella!の宣伝を一手に担えば知名度は多少なりとも向上し、ラブライブの一般投票で有利になる。けれどそれと同時にまずいとも思った。  先輩達二年生と私達一年生の間にある一年間という大きすぎる練習量の差が衆目に晒されてしまう。それはきっと評価に影響を及ぼすに足る隔たりであり、鬼塚の提案はLiella!にとってプラスとマイナスの要素を両方併せ持っていた。  けれど、その問題の解決策を提示したのもまた鬼塚だった。  練習量に開きがあるのなら、合宿で練習しまくって強引にその差を埋めてしまおうという話だ。ここならば日中の猛烈な暑さもいくらか和らぎ、活動できる時間も多く取ることができる。そのぶん私達は先輩達に追いつける。  最終的な鬼塚の目的はどうであれ、鬼塚のマネジメントを受けることは私達一年生にとって得をすることの方が多かったのだ。  だから私はわからなくなってしまった。鬼塚に対する猜疑心と感謝がごちゃ混ぜになって、距離の取り方がまるでわからなくなってしまった。  四季やきな子の距離の詰め方とは違う、付かず離れずといったビジネスパートナーを連想させるドライな関係性。それが突然、揺らいだような気がしたからだ。 「明日も撮影しについてくるのか」 「当然ですの」  ならもういっそ、入部したらどうなんだと、思わず口をついて出そうになった。  あんなにただ何となく何かに属することに嫌悪感を抱いていたというのに、鬼塚が私達に属してくれないとまともに言葉を交わすことすらままならない。傍目にもわかる変化を見せたこいつと違って、私はいまだになんの成長もしていなかった。 「かのん先輩に何か言われたのか」  ようやく電源を入れられるだけの充電が終わったのか、沈黙していた画面が点り、ぶるぶると震えた。気づけば周りには建物も少なくなり、農地や草むらのそこかしこからは虫と蛙の大合唱が耳をつんざいてくる。 「……きっかけは頂きましたの」 私の問いに鬼塚は一瞬沈黙してから答える。 「でもそれは、この合宿に参加したからこそ生まれたきっかけですの」  そう続けて鬼塚は道の先を行き、つまづくようなそぶりを見せ、つま先でとっとっと、とバランスをとった。ポケットに入れたスマホとバッテリーががちゃがちゃとぶつかり合い、耳障りな音を発する。そのステップには見覚えがあった。今、私達が猛練習中の曲のイントロの振り付けだ。  包み隠さず先輩達から送られてきたダンスと曲を用いて、私達と同じように練習に参加しているのだから、踊れるようになるのは不思議なことではない。けれどそれはLiella!8人のフォーメーションからは逸脱した、独自のアレンジが加えられたものだった。だって鬼塚はLiella!ではないから。  私と彼女以外に人通りのない夜の田舎道で、星明かりを頼りにひと通り踊り終えた鬼塚は評価を求めるようにしてじっと私のことを見つめてきた。 「どう思いますの?」 「うまいけど、千砂都先輩が見たら徹底的に細かいところに指導が入りそう」  鬼のツノのように手を頭の両脇に当てて肩で息をしながら、なんとも微妙な表情を浮かべる鬼塚。 「あの人、満面の笑顔で冗談にならないこと言ってくるから怖いですの……」 「聞いたぞ。帰ったらチクってやろ」 「勘弁してほしいですの〜」  情けない声を上げる鬼塚を見て、思わず口元が緩んでいたらしい。ポケットの中でスマホが震えたことで、はっと我に返る。見ると、目当ての雑誌の配信開始を告げる通知だった。こうしてはいられないと、顔を上げると、同じように鬼塚も何かの着信があったのかスマホを見つめ、柔らかな笑みを浮かべていた。 「どうした?」 「妹からチャットが届きましたの。律儀に日が変わった瞬間に誕生日おめでとうって」  へぇ、鬼塚には妹がいるのか……って、 「誕生日!?」 「ええ、今の今まで忘れてましたの」 「そういうことは早く言えよ、バカ!」  後ろを振り向く。現在地はペンションと最寄りのコンビニのちょうど中間地点といったところだ。けれど、戻って何か買うにしてもコンビニではろくなものがないだろうし、この考えは却下した。  そういえば旭川の方に有名な動物園があった覚えがある。なら、すぐに帰って四季ときな子に相談を持ちかけて計画を練らないと。 思わず鬼塚の手を取って、引いた。 「明日は朝練で切り上げて、出かけるぞ」 「はぁ!?い、いいですの、時間が勿体ないですの!」  時は金なりが限られた時間を有効活用すべきという意味であるならば、その限られた時間を誕生日を迎えた友人を祝う時間に宛てるのもまた有効活用と言えるだろう。 「……変なの」  私に手を引かれながら夏美が浮かべた困ったような笑みが、妙に印象深かった。 ◆  あたり一面を覆う雪の白と夜の黒が白熱灯のオレンジに照らされてその輪郭を幾分か柔らかくしていた。  少し前までしんしんと降っていた雪も今は止み、風も吹かない静かな夜に、私はひとりエントランスと庭を結ぶ階段に腰掛けてぼんやりと夜空に溶けていく白い息を見つめていた。  合宿最終日。曲を完成させて振り入れも済ませた私達は明日、東京へと戻り、最終調整を経てラブライブの東京大会へと臨む。  緊張がまったくないと言えば嘘になるけれど、思ったよりも落ち着いていて自分でも驚いた。  私が入部を決めて四ヶ月あまり。ずぶの素人だった私が短期間でここまでやってこれたのも、偶然Liella!に目をつけ追いかけ回し、夏合宿にまでついて行ったおかげだろう。人生何が起こるかわからない。 「……っと、なんだいたのか」  背後から声をかけられるが、振り向きもせずに答えた。 「遅いですの。凍えるところでしたの」 「悪ぃって。四季もきな子ももうすぐ来るから」  言ってメイは手すりにもたれかかり、同じように空を見上げる。星は綺麗だけれど、珍しいものなんて何もない、すっかり見慣れた夜空だった。案の定と言うべきか、メイは代わり映えのしない景色に早々に飽きてしまったらしく、手癖でスマホをいじる私の手元を覗き込んでくる。 「何してんの」 「別に」  夏の頃はぎくしゃくしていたというのに、親しくなってみればメイはやたらと人懐こかった。そのさまはまさに猫のようで、あんなに恐る恐る接していたのが馬鹿らしくなるくらいだ。  画面の右上に表示された時刻を確認すると、そろそろ日が変わる頃。チャットアプリを起動して数タップし、あらかじめ考えておいた文言を手早く入力し、あとはもう送信するだけの状態にしておく。 「お待たせっす〜」 「寒い……」  背後から響く扉の音と、呑気な声と物静かな声。振り返らずとも浮かべている表情すらわかる。 「おっ、来たな」  メイの発した言葉と同時に立ち上がり、お尻についた雪を払った。 「きな子、ピザまんが食べたいっす」 「寒いのは好きじゃないけど、冬の屋外で食べるカップ麺は好き」 「私は何を食おうかな」  ぞろぞろと、賑やかに歩く友人たちの後ろ姿を写真に収める。我ながらなかなか良い写真が撮れたのではないだろうか。 「夏美ちゃん、置いてくっすよ」  振り返ったきな子の声に「今行きますの」と返し、時刻表示に0がみっつ並んだのを確認して送信ボタンをタップした。人のことなど言えようもない。我ながら律儀だ。 送信した文言に既読がついたのをみとめた後、数歩先で待つ友人たちの輪へと駆けていった。 了