「あいつら、意気地なしにも程がある!俺一人でも絶対暴いてやるんだ!」  木製の階段を、一人の少年が小声で呟きながら下っていた。  薄暗い中、踏み外さぬよう、物音を立てぬようにしっかりと鉄の手摺を握って。 「しっかし、言われてるだけあって本当に怪しい雰囲気だ…!」  階段を下り終えて、床に降り立つと、廊下は三手に分岐していた。  やはり薄暗く、いずれも先を見通すことはできない。  どこから散策するかと少年が思索したその時だった。 「ここから先は……」 「立ち入り禁止だよ」 「わっ!?」  青く長い髪の少女が、少年の後をつけていたかのように階段から降りてきた。  なんとも呆れたような表情だった。 「まぁ、そもそもここより前から立ち入り禁止だけど。どーやって潜り込んできたの」 「カウンターの奥の扉、普通に開いてたけど」 「え。……あー、最後に出たの私だわ……あはは」  少女の呆れた顔が、一瞬でふにゃふにゃとした愛想笑いへと変わる。  少年も、張り詰めた空気が萎んでいくのを感じて、なんだか急に緊張感が削がれたような気分になっていた。 「ばーか」 「しょうがないじゃん。忘れ物したお客様がいたから慌てて出て行ったんだよ?久々に走ったわー……」  言葉選びは焦っていたようだが、少女の様子は、平然としたそんな風には見えないものである。  見かけに反して妙に落ち着き払っていると、人によっては気になりそうなものだが、少年はそのような些事に気付くには幼すぎた。 「ちゃんと運動しないとダメだよ」 「このガキ……ふーん。悪びれる様子もないけど、割と生意気なんだね?」 「お前もガキじゃん!えーっと……」 「ヴェール。私にはヴェールっていう立派な名前があるんだよ。ちょっと歩こうね」 「案内してくれるの!?やったー!サンキュー、ヴェール!」 (それは違うんだけどなぁ……)  ヴェールはやれやれと言いたげな顔をしつつも、歩きながらこの少年の処遇について考えていた。  誰が対応するのがいいのか。  少年と各々の部屋の前を歩きながら、しばし采配に耽る。 (ポトリー……よりはちょっと年上か。こういう男子は年下に調子に乗るかもしれないからダメかな)  ポトリーがこの少年に泣かされでもしたら忍びない。  あるいは、一緒になって夢中で粘度工作をしている光景にでもなれば微笑ましいかもしれないが、事情聴取にはならない。 (ジェニー……いや、やめておこう。なんか色々嫌な予感がする)  「うへへへへー」と、涎を垂らしているジェニーの姿を連想して、ヴェールはその案を即座に打ち切った。  証拠も確証もないのに、何故だかそういうことを「しそう」な気がしてならなかった。 (シュミッタは昨晩遅くまでやってたから寝てるんだっけ。ピットレが今の店番で……)  二人に限らず、最近は繫盛期で手が空いてないことも多い。 (となると、こういう時はやっぱりハイネ!……風邪ひいてたね……)  心労と過労で免疫が落ちていたのか、ハイネはぶるぶる震えながら病床に伏せることになってしまっていた。  眠っている時もぶつぶつと何か呟いていたのが印象的だった。  流石に負担をかけすぎたかと、この時ばかりはものぐさなヴェールも思わずにはいられなかった。 (こうなったらエーデル……) 「アンタいつも寝てるんだからたまには人任せにしないで自分でやりなさいよー!!!」  この場に居ないはずなのに、怒号が聞こえてきた。逆に会わせたくない。 「ひーん……」 「どしたの?」 「ううん、なにも」  仕方がないので、結局自分でやるしかないかと、ヴェールは腹を括り、扉を潜るのだった。  その部屋は、地下廊下の最奥。  マスターの資格を持ったヴェールの私室であった。 「ここが私の部屋」 「わぁーここが……ほんとに!?」 「うん。家具も全部私が作ったよ」  そこにあったのは、ガラスの椅子、ガラスのテーブル、ガラスの照明、ガラスの床、ガラスの壁……等々。  全てがガラスで彩られた一室に、少年は感嘆する他なかった。 「すっげー……じゃなくて、それも裏で人体実験でもして作ったんだろ!知ってるぞ!」 「あはは……なにそれ?」 「とぼけてもムダだ!学校で『あの店はヤバい』とか『魔法道具は内臓から作られてる』とか、『本のそうちょうは人の皮が使われている』ってみんな言ってたぞ!」 「『装丁』は『そうてい』って読むんだよ?」 「そうなの!?」  子供らしい間違いに、ヴェールもクスっと笑わざるを得なかった。 (ちょっとかわいいかも……いやいや、いけないいけない)  少年の無邪気な様に、ヴェールはほんの少しだけ頬を緩ませていた。 「それで、どうやってガラスを作ったり加工するのに内蔵を使うって言うんだい」 「それは……うーん……?魔女の考えることなんてわかんないよ!」 「無茶苦茶だね……ちょっと落ち着こうか。オレンジジュース飲む?」 「うん!」  悪い魔女の工房に乗り込んでいるはずなのに、警戒も何もあったものではない。  無条件に守られていると無自覚に認識した、子供らしい無邪気さ。  それに何かが擽られ、ヴェールはまたも頬を緩ませる。 「じゃあ、ちょっとサービス。ほら」 「うわ!コップ浮いてる!ボトルも浮いてる!」  浮きあがったこれまたガラス製のコップに、ガラスのボトルからオレンジジュースが注がれていく。  その光景を、少年は目を輝かせて見ていた。 「なにも魔法は悪いことにしか使えないわけじゃないんだよ。はい」 「ありがと!」  少年がごくごくとオレンジジュースを飲み干していくのを、ヴェールはただじっと見つめていた。  ──その眼差しがどことなく獲物を見定める視線に似たものだったことには、本人すら気付くことはなかった。 「ぷはーっ!ごちそうさま!」 「お粗末さまでした」  グラスとボトルがふわふわと流し台へと飛んでいく。  ヴェールはそれを見ながら、少年に話しかけた。 「で、変な噂が立ってここに乗り込んできたのは分かったけど……こわーい所って聞いてたのにキミ一人なの?」 「うん。みんな途中で引き返しちゃった。結局そんなに怖いところでもなかったけどね」 木を見て森を見ず。たった一部屋見てジュースを振舞われただけなのに、この少年はすっかり警戒心を解いてしまっていた。 (本当に無防備……こんな子久しぶりに見たかも……。よし、ちょっとくらいいよね) 「おい少年。私の部屋だけなら見ていっていいよ。ただし、物に触ったりしないこと」 「いいの?やったー!」  ちょこちょこと、少年が部屋の中を物色し始める。  ガラス製品を見て目を輝かせている様を、とうとう辛抱たまらなくなったという風にヴェールは眺めていた。 「なにこれ?」  少年が興味を惹かれたのは、天井から吊り下げられた大きなガラスの玉。  人間よりも大きいそれの中には、もこもこした布が敷いてある。  少年がそれを不思議そうに覗き込んだところで──ヴェールは、その人指し指をくいっと一振りした。 「うわっ!?」  急にバランスを崩した少年の身体が、思いっきりガラス玉の中に倒れ込んでしまう。  ふかふかの布が身体を受け止めたため、怪我をすることはなかったが……。 「あーあー。触っちゃダメって言ったよね?」 「あ……ごめんなさ……」  少年もすぐに自身の過ちに気付くが、時すでに遅し。 「相応に、ね」  約束を“破らせた”少年に罰を与えんと、ガラガラと音を立てて少年の入ったガラス玉が上に登っていく。 「うわーっ!?」  もう降りることは叶わない。  ガラス玉は天井付近に吊るされてしまったのだ。 「降ろしてー!」 「だーめ。魔女の工房で狼藉を働いた愚か者クンがどうなるか、想像つくかなー?」  ガラス玉の出口から顔を覗かせてあたふたする少年に、ヴェールは意地の悪い笑みを向けて言い放つ。 「あ……あ……っ」 「ふふふ。つかないよね。『魔女の考えることなんてわかんない』んだから」  少年がヴェールの笑みに恐怖を覚えたように、ヴェールもまた、少年の恐れる顔を前に背筋を震わせていた。 (あぁ……なんていい表情するの……!)  嗜虐心を擽られて恍惚に浸るその様は、まさしく魔女そのものだった。  追ってヴェールがふわふわと、ガラス玉まで浮遊していく。 「入るよ」 「はい……」  こうして、あまり広くはないガラス玉の中はヴェールと少年で窮屈になった。 「よいしょっと」 「せまい……」 「当たり前じゃん。ここ、本当なら私だけの寝床なんだよ?ほら詰めて詰めて」  ヴェールが少年の身体と密着しても、意外にも抵抗はなかった。 「あっ……」 「ふふ……どうしたの?ヘンな声だして」 「い、いや。なんでも……」  あからさまに焦った声に気分を良くしながらも、ヴェールは少年に返答する。  少年の体温を感じて楽しむべく腕は身体に回し始めていた。 「ぎゅーってしてあげる」 「…………」  先程までなら「やめろよ!」とか言いそうなところだが、少年は既に臆していて、余計なことを言うべきではないと理解しているようだ。  ヴェールもそれを面白がって、少年の身体をペタペタ指で触って弄び始めた。  ふにふにとつついた頬の柔らかさは、期待以上である。 「ふふ……ふふふっ」 「な、なに……?」 「くすぐったい?」 「……ちょっとだけ……」 「そっかぁ……」  抵抗も一切ない。  学習性無力感のようなものだろうか。  この状況を、何もせずに堪えることでしか耐え抜けないと自覚した弱者が取る行動。  ヴェールの嗜虐心はまたも擽られる。  こうまで自分好みの行動を取られると、もはや誘っているのではないかとすら思えてしまう。 「えい」  次に取った行動は、のしかかること。  のそのそとカタツムリのように、ゆっくりと少年の身体に身体を預けて。 「おもい……」 「女の子に向かって重いはないでしょ」  身長がヴェールと同程度しかない少年からすれば当然なので理不尽極まりないのだが、この場においてはヴェールが絶対。  そのまま両手首をヴェールが掴めば、もう少年は動けなかった。 「な、なにするの……?」 「何されると思う?」  少年の顔をまじまじと覗き込むと、怯えだけではない“別の感情”を見出すことができた。  震えているのに、何かを少し嬉しがるかのような眼差し。  ほんの少しだけ上がった口角も、ヴェールは見逃さなかった。  ──だから。 「ちゅっ」  一瞬の触れ合いにして、少年にとっての決定打。  何か大仰な予備動作もなく、さも呼吸をするように、唇に唇が落とされた。 「…………!!!」 「ふふっ、あんまりにも無抵抗だから好き放題しちゃった。ごめんね。本当は別に怒ったりはしてないんだけど……つい、ね?」  言葉とは裏腹に、ヴェールには悪びれる様子など微塵もない。  こわばっていた少年の身体は熱を持ち、すっかり力が抜けてしまったようだ。  だが、それ以上に──。 「うん、満足したし帰してあげるよ。……おや」 「……」 「あらら」  弱弱しくも抱き返されたのは、流石に想定外だった。  というか、少しからかってやるだけのつもりだったし、キスなんてちょっとしたおふざけのつもりだったのに。 「あー……えっと」 「……」  少年はヴェールの胸元に顔をうずめたまま、一言も発しない。  ただ、その小さな手がぎゅっとヴェールの服を掴んで離さなかった。 (これは……まぁ……しょうがないし、いっかな……なんて……)  結局ヴェールも少年を抱きしめたまま、しばしの時を過ごすのだった。  夜になっても帰らないので、少年の友人から助けを求められた親御さんが慌てて迎えに来たり。  責任者として求められる説明に窮したり。  完全に心奪われた少年をどうやって引き離して帰すのか困り果てたり。  後でエーデルに怒鳴られるを通り越して哀れまれたり。  色々あったけど、その辺りはまた別の話。  おしまい。 「うーわマスターヴェールってそういう趣味だったんだー……しかも自制できないなんて……」 「わ、私には相応の年齢じゃないかな!」 「うーん……で、どうやって帰ってもらったの?」 「んー。『大人になったらね』って」 「常套句だけどさー、本当に大人になってもゾッコンだったらどうするのよそれ」 「その時はその時考えるよ」 「逃げたりしないでよね」 「ぎくっ」  本当におしまい。