エニグマ  旧校舎の音楽室で佇む彼女の細くしなやかな指がモノクロのステージの上で躍っている。数小節を奏でては譜面台の五線譜に音符を新しく書き加えて、そっとシャープペンシルを置くとまた同じように鍵盤の上でひらり、ふわりと指を舞わせていた。  頭頂部の高い位置から伸びる一房の美しい黒髪も手さばきに呼応するように左右に、ときに上下にさらさらと揺れる。まるで本当にライブのステージの上で踊っているかのよう。  恋ちゃんの動きに連動するだけじゃなく、開け放たれた窓から吹き込む風もしっとりとわずかに汗を吸った髪と制服をカーテンと一緒にやさしく揺らしている。季節は秋に差し掛かろうという時期で、ついこの間衣替えを済ませたというのに昼の汗ばむ陽気はまだ続いている。冬服のカーディガンを着たり脱いだりと忙しない日々を送る私たちを労うように、今日の風はどことなく優しい感じがした。 「今のメロディはいかがでしょう」  鍵盤から手を離して、恋ちゃんは私の方に向き直った。視線からはまるで自信作です!と言わんばかりに隠しきれていない興奮が小さじ程度、漏れ出ていた。  こんな彼女の顔が見れるというのも、曲づくりを協業する私だけの特権というものだ。 「もう一度聞かせて」  ふっと笑みをこぼして席を立ち、ピアノに近づいて譜面台を覗き込んだ。シャープペンシルで細かく書き込まれた五線譜にはところどころに色ペンで事細かに注釈が加えられており、彼女の真面目な性格がにじみ出てくるようだった。  ぽろろん、とさっきと同じ旋律を恋ちゃんが奏でる。テンポを変えてもう一度。コードをずらしてもう一度。少し工夫するだけで驚くほど違う印象が感じられた。 「いいんだけどもう一押し欲しいかな……あ、頭に一音づつ足してみるとか」 「名案です!サビの部分はこのメロディが繰り返されますから、一音加えるだけで各小節が単調にならずに個性が出ますね」 「じゃあ歌詞の方にもこんな感じで付け加えて……」  目から鱗だとでも言わんばかりに金の瞳をきらきらと輝かせながら恋ちゃんは五線譜に消しゴムをかけた。くしゃりと紙にわずかなしわが寄る。  いつまたどんな課題を出されるかわからないし、ストックは多いに越したことはない。今年のラブライブの予選を間近に控えた私達の未発表の曲は数曲、いつか来るかもしれないお披露目のときを待っていた。  最近の恋ちゃんが作る曲はずいぶんと雰囲気が変わってきたように思う。  変わった、というよりも幅が広くなったというべきか。学園祭のときの曲を初めて聞いた時はおや、と思ったものだけれど、その後の騒動を見てなるほどと膝を打った。それまで彼女が触れてこなかったものに触れて、きっとそれを表現したくてしたくて仕方なかったのだろうと、ピコピコといったテレビゲームの音源のようないわゆる電波曲めいたメロディを思い出す。  今や彼女は近づきがたいお上品なお嬢様ではなく、どこにでもいるごく普通の女子高校生なんだろう。心と心の距離が少しだけ近づいたような気がして、それがなんだか嬉しかった。 「失礼しますの〜」  まだ全体像すら定まらない曲の細部をああだこうだといじくり回していると、不意にがらら、という引き戸の音とともに教室の後ろから跳ねるような声が聞こえてきた。振り向くと、はた、と視線がぶつかりあって、お互いに「あ」という声が重なった。 「なつ……」 「カノンですの!」  名前を呼ぼうと口を開こうとした私を遮るように、夏美ちゃんは驚いたように声をあげた。 ……いま、もしかして私、下級生に呼び捨てにされた?私って、そんなに先輩としての威厳、ないのかなぁ……。  ぐわんぐわんと、まるで固いもので殴られたみたいに脳内で耳障りな音が反響し、めまいみたいに足元がおぼつかなくなって、思わず背後のピアノに手をついた。 「か、かのんさん、大丈夫ですか?」 「あ!ち、違いますの!誤解ですのかのん先輩!」  いいんだよ、取り繕わなくても。どうせ私は、頼りなくておもしろくもなくて敬われることもない、どこにでもいるただ生まれるのが一年早かっただけの人間なんだ。  恋ちゃんと夏美ちゃんの声から逃げるようにして、私はピアノの下に座り込んで床の木目をなぞりはじめる。 「かのん先輩。本当に誤解だから、話を聞いてほしい」  ふと、気づけばいつの間にそこにいたのか、眼の前に四季ちゃんがしゃがみ込んでいて、目線が合う。気配をまるで感じなかったので、驚いて飛び退いた時にピアノの底面に頭をぶつけ、瞼の裏にちかちかと星が舞った。 ◆ 「いたた……」 「少しこぶになってるけど、外傷はない。視覚にも聴覚にも異常はないし、大事ではないと思う」  椅子に腰掛けた私の頭頂部を四季ちゃんが髪を掻き分けて診てくれていた。隣では恋ちゃんがはらはらとした面持ちでそれを見守り、四季ちゃんの言葉にほっとしたように胸を撫で下ろした。  机の向かい側では夏美ちゃんがしょんぼりと肩を落として申し訳無さそうに唇を尖らせている。 「ごめんなさいですの……」 「あはは……私が勝手に落ち込んで勝手にびっくりして勝手にぶつけただけだから」  落ち込む夏美ちゃんに声をかけてみたものの、顔はなかなか晴れてくれなかった。 「誤解って?」  このままでは埒が明かないので強引に話を戻す。診察を終えた四季ちゃんがつかつかと椅子に腰掛けるのを確認すると、夏美ちゃんは手のひら大くらいの薄い板を私達が囲む机の中央に置いた。学習机の各頂点から四人でそれを覗き込む。 「これですの」  それは薄っぺらいのに硬質で、窓から漏れ入る自然光をぼんやりと反射させていた。お店のPOPなどでよく見るラミネート加工がなされた、中身はおそらくコピー用紙。表面は擦れて光沢を失っていたけれど、なんの問題もなく内側の紙に記された文章を読むことができた。  ただ、問題はそこからだった。 Q.3 1→5→6m→3m→4→1→4→5  特に説明もなくあまりにもシンプルに、これだけが飾り気のないフォントで印刷されていた。  「Q.3」というのは問3とかそういった意味なのだろうとなんとなく察せる。けれど、おかしいのはどことなく見覚えのある問題文と思われる部分の文字の左右がすべてひっくり返っているところだ。  俗に言う、クイズ、パズル、なぞなぞ。提示された情報を使って思考し、解答を導き出す娯楽の一種だろう。 「どうされたんですか?これ」  きょとんとした顔で紙片を見つめながら恋ちゃんが二人に聞く。 「拾いましたの」 「廊下の天井の梁の隙間に挟まっていたのを夏美ちゃんが見つけた。肩車させられた……重かった……」 「四〜季〜!」 「肩車しなきゃいけない場面が来たら次は私が上になる」 「どう考えても無理ですの!潰れちゃいますの!」  涼し気な顔の四季ちゃんのジョークに夏美ちゃんが歯噛みしながら食ってかかるけれど、このまま場が収まるまで見ていては話が進まないのでまぁまぁとなだめる。 「この、Q.3ってことはQ.1とQ.2もあったの?」  私と恋ちゃんの側から見て左上の該当箇所を指差して聞くと、二人は同じように首を横に振った。 「ありませんの」 「偶然見つけたのでわからない。出題者がQ.1から順番に解いていくことを想定していたのだとしたら、夏美ちゃんのがめつくて目ざとい性格が台無しにしてしまって気の毒」 「四〜〜〜季〜〜〜!」  まぁまぁ、まぁまぁまぁまぁ。 「では、お二人はなぜここに?」  恋ちゃんの問いに一瞬二人は顔を見合わせたあと、声を揃えて「「半分解けたから」」、と答えた。 「半分って?」  私の疑問に四季ちゃんはポケットからスマホを取り出して軽く左右に振る。 「反転文字を直して問題文をネットで検索したらわりとすぐに関連情報が出てきた」 「でも、鏡文字の意味がまだわかりませんの」 「ふぅん……」  返答を聞いて私もすっと視線を問題文へと落としては、眉間に皺を寄せてうーんと首をひねる。反転文字という視覚情報が邪魔をしてきて思考がなかなか定まらない。けど、その文字列にはなぜだか見覚えがあった。もう、喉のあたりまで出かかっているのだけれど……。 「どっかで見たことあると思うんだけどなぁ……」 「あぁ、なるほど。確かにカノンですね」  不意に隣から名前を呼ばれてどきりとする。顔を向けるとつかえが取れたみたいにすっきりした表情の恋ちゃんがにこにこしながら私の方を見つめていた。 「え゛っ!?な、なに、恋ちゃんまで」 「ふふ、かのんさんのことではなくて、これがカノンなんですよ」  にこにこ笑顔を崩さずに、問題文を指差す恋ちゃん。  これがかのん?かのん……カノン……Canon……あっ。 「カノン進行!」 「はい」  よくできました、とでも言いたげに頭を傾けて恋ちゃんは満面の笑顔を向けてくる。  コードはアラビア数字というのが身に染み付いていたから、反転文字というのもあってなかなか解に辿り着けなかった。 「さすがは恋先輩ですの!音楽用語だったから音楽室に来てみたんですの」 「私達は初手からカンニングしたのに……Genius」 「ゔゔぅ……もうちょっとで出てきそうだったのになぁ……!」 「うふふ。わたくし、これでも生徒会長ですから」  得意げに胸を張る恋ちゃんだけど、それはなんか違うと思う。  でも、文字の羅列の意味はわかったけど、反転文字の意味がまだ解けていない。ひとしきり悔しがったあと、ふたたび紙片に四人の視線が集中する。 「それでかのん先輩、これに心当たりはありませんの?」 「え?ないない!初めて見たよ」 「そうですの……」  残念だけど、まったく見覚えがなかった。関連性がないとわかると夏美ちゃんは視線を謎のプレートに落とし、私もそれに倣ってその不思議な文字列に目を向ける。 「音楽方面には明るくないからわからないけど、素直に考えれば解を反転させればいい」 「う・こ・ん・し・ン・ノ・カ……ウコンしんのか……って、これじゃさっぱり意味がわかりませんの!」 「コードのアルファベットに直してもさっぱりだし、和音に分解してもさらに意味不明……」 「あまり関係あるとは思えませんが、いっそ弾いてみましょうか?」  見ると恋ちゃんが手を机の端に乗せて指をひらひらと動かしていた。私も何かの糸口になるとは思えなかったけれど、とにかく思いついたらなんでもやってみるべきだと思って何度か弾いてもらうことにする。 「……先輩たち、曲づくり中?」  四季ちゃんが譜面台の書きかけの楽譜と歌詞ノートに気付いて呟く。  うん、と頷いて視線を向けると四季ちゃんは何か言いたげに口を開きかける。が、すぐに飲み込むようにして口を閉じた。何を言いかけたのか聞こうかとも思ったけれど、四季ちゃんの神妙そうな表情を見て私も思わず口を噤んでしまった。 ◆  慣れない譜面に調子を狂わされたのか珍しくぎこちなく、恋先輩が逆さまのカノン進行を弾いてくれたけれど、何か進展があったかと言えばなーんにも。半分までは解けているんだからもう少し頑張ればあと半分なんてあっという間だなんて私達の甘い考えは、拍子抜けなくらい簡単に覆された。  なんとかなれの精神で何かヒントはないものかと旧校舎の音楽室に来てみたものの、これはいよいよ本腰を入れて考えなければならないのかもしれない。  けれど悲しいかな、私は頭の出来がお世辞にもいいとは言えないのだ。考えれば考えるほど脳内の回路は熱暴走を起こし、ぷすぷすと煙を吐き出しながらぱちぱちと火花を散らせた。 「ダメですの〜」 「わっかんないなぁ〜」  ほぼ同じタイミングで私とかのん先輩が頭を抱えて天を仰いだ。  早々に諦めた私とかのん先輩とは違い、恋先輩と四季は変わらず顎に手を当てて思考を巡らせているようだった。そのふたりの真剣な眼差しが真っ直ぐできれいで、思わずスマホのカメラを起動してシャッターを切る。 「あ、夏美ちゃん、盗撮は犯罪だよ」 「スクールアイドル部の活動記録写真ですの」 「部活中じゃないじゃん」  それを言われるとぐうの音も出ない。出ないが、カメラロールで撮った写真をすぐに確認する。衝動的に撮ったにしてはいい写真が撮れたんじゃないだろうか。画面をかのん先輩の方へ向けた。 「いかがですの?」 「あ〜〜〜良い……真剣な表情の美少女二人……」 「SNSに上げたらバズること請け合いですの」 「夏美さん!かのんさん!」  私とかのん先輩のやりとりを見て、ほのかに頬を染めながら恋先輩が声を上げた。  この間の一件以来、近づきがたい優等生という仮面が剥がれて可愛らしい一面も垣間見せるようになった恋先輩。ちんちくりんの私と違って背も高ければスタイルもよく頭もいい、なのにどこか抜けている。そのギャップが年上だというのにどことなく妹感を醸し出させて、彼女の魅力として一役買っていた。  四季も見た目の割に子供っぽいところがあるし、私の周りはそんな人ばっかりだと、私とは正反対の体格と性格の妹のことを思い浮かべながら思った。 「夏美ちゃん」  撮った写真に補正やフィルターをかけていると、不意に四季が私の名前を呼んだ。 「なんですの〜?」 「いま、何したの」  画面から顔を上げると視界いっぱいになるくらいに四季の顔が近づいてきていて思わずひっくり返りそうになる。 「ちょ、気配もなく近づくのやめてもらえますの?」 「次からはそうする。で、いま、何してるの」 「何って、写真を」  同じクラスになって半年ほど。知り合ってまだ2ヶ月くらい。いつも何を考えているかわからない、掴みどころのない顔をしている四季にしては珍しく、真剣な、感情的な表情だった。  勝手に写真を撮ったことを怒っているのだろうか。でも、以前メイの何気ない一言に照れに照れた場面を撮った時とはあきらかに反応が違っていて、少し戸惑ってしまう。 「怒ったんですの?嫌なら残念だけど消しますの」 「違う、その逆」  何か物事を説明するとき、きな子のように要点をおさえられない人もいれば要点しか言わないから逆に分かりづらい人もいる。四季はその典型だった。 「……わかるように言いますの」 「写真がヒントかもしれない」 「何かわかったんですか?四季さん」  恋先輩からかけられた言葉にこくりと頷き返して、「確証はないけれど」と四季は続けた。 ◆  Q.3というところから気付くべきだった。問題は複数あったのだ。  いま取り掛かっている問題が解けたのならば、自然に考えれば次の問題への導線がスムーズに示されるはず。そして次の問題も今の問題と同じような形式で提示されると仮定するならば、これは物理的な「何か」を探すゲームなのだ。 「つまり、これを解いた先には同じようなプレートがあるはず」 「だ〜か〜ら〜!わかるように言いますの!」 「……なんだか難しいけど、それを探せばいいんだね」 「しかし、具体的な場所がわかりません」  口下手な自分の性格がうらめしい。自分の気持ちを100%余すことなく伝えるには大変な労力を要する。こういう時、メイやきな子ちゃんや夏美ちゃんみたいなストレートな性格がとても羨ましくなる。 「見当はついてる。解法は少し邪道かもしれないけど」 「それを早く言いますの!」  言った瞬間、夏美ちゃんが身を乗り出した。単純でストレート。愛すべき愚かさ。 「恋先輩、カノン進行の提唱者の名前はわかる?」 「作曲者ということですか?ヨハン・パッヘルベルですね。1600年代のバロック期の作曲家です。カノン進行という言葉も、それが使用されたカノンという曲からとられているくらい有名で、のちのバッハにも影響を与えたとされる偉大な方ですよ」  さすがは恋先輩だ。聞けば間髪入れずに答えが返ってくる。説明が省けて助かった。 「ゔ〜〜〜〜……カノンカノンって、なんかムズムズするなぁ」 「じゃあ、そのヨハンさんの代表的な曲は他に何かある?」 むずがるかのん先輩には触れず、次の質問を投げかけた。 「……残念ながら、他の楽曲はあまり有名ではないですね。生涯で500以上もの曲を作られたそうですが、よくない言い方かもしれませんが一発屋と称する方もいます」 「いえ、今回はむしろそうであってくれて助かった」 「どういうことですの?」  つまり、カノン=ヨハンさんであり、ヨハンさん=カノンなのだ。このQ.3は、問題文を読み解いたならば即座にヨハンさんを連想するのが前提知識となる。  この問題は、ヨハンさんを示していた。 「えっと、じゃあこの反転文字の意味は?」 「ヨハンさんを裏返せば解決する」 「??????」  夏美ちゃんが宇宙を背景にした猫みたいな顔をした。言葉足らずがもどかしかった。説明してもわかってもらえないのなら、あとは行動するしかない。そう思って、私は背後を指で示した。 「あの中にヨハンさんはいる?」  捜索範囲が校内に限ると仮定するならば、ヨハンさんがいる場所はおのずと限られてくる。そして捜索対象がラミネートプレートのようなある程度の固さと大きさを持ち、なおかつ薄いものならば、隠すことのできる場所はさらに絞られる。偶然かもしれないけれど、夏美ちゃんの提案でここへ来たのは正解だった。そして、ここに恋先輩がいてくれたことは幸運だった。  旧音楽室の後方、黒板の上にいくつも並べられた偉人たち。その中にヨハンさんがいるならば、答えはきっとそこにあるはずだ。  三人の視線が私の指し示す方向へと向く。 「「「肖像画!」」ですの!」  つまり、問題の解は場所なのだ。 「少し高い位置にあるから、夏美ちゃん、肩車して」 「潰れちゃいますの!?椅子とか机に乗ればいいですの!」 ◆  四季の目論見通り、いくつも飾られていた肖像画のうちのひとつ、ヨハン・パッヘルベルの肖像画の額の中からQ.4のプレートは発見された。逆さまのカノン進行=パッヘルベルの裏返し、つまり肖像画の裏が解答だという四季の推理は見事に的中していた。  恋先輩が言うにはマイナーな作曲家だという話だったけれど、しっかりと肖像画が飾られているあたり、さすがは元音楽学校という感じがした。 「すごいすごい!四季ちゃんの推理通り!」 「さすがです、四季さん!」  先輩方からは賞賛の嵐。受ける四季の表情も照れたような感情と得意げな感情がほんのりと乗っているように見えた。 「でも、夏美ちゃんが写真を撮っていたから思いついた」  不意に、四季が私の名前を挙げた。予想外なタイミングだったので目をぱちくりとさせてしまう。 「夏美ちゃんのおかげ。Good job」 「わ、私は何もしてませんの」 「あ、夏美ちゃん照れてる」 「ありがとうございます、夏美さん」  四季の言葉を皮切りに、先輩方までもが突付いてきた。頬がかあ、と熱くなるのを感じた。褒められ慣れていないからだ。 「も、もう!そんなことより次の問題ですの!」  このままでは熱くなりすぎて干からびそうだったので、たった今見つけたプレートを盾にするようにして話を遮った。  そうだ、問題ひとつ解くごとにこんなことをやっていては日が暮れてしまう。夏の終わりから秋へとさしかかる季節。時間は限られているのだ。  各々さっきまで腰掛けていたピアノの近くの席へと戻り、着席したのを確認すると、新しく発見された問題をよく見えるように机の中央に置いた。  Q.3と同じくQ.4もラミネート加工がされたコピー用紙のように見えた。Q.3とは違って摩擦の少ない場所にあったせいか、表面はてかてかとした光沢を保っており、年月の経過を感じさせなかった。  プレートの左上にQ.4の文字。そして肝心の問題は、今度はイラスト問題だった。 「かわいい」 「かわいいです」 「かわいいね」 「かわいいですの」  メンバー大絶賛のイラストの内容は、壁にいくつか穴が開いており、その穴から可愛らしく描かれた動物たちが見え隠れしている、というものだった。そしてその隣にぽつんと葉っぱのイラスト。 「四季ちゃん、わかる?」 「…写実的でないから確証はないけど、ウミガメ、アヒル、クジャク、体の模様からウシ……右端のはキツネみたいなイヌ科の動物だと思う。葉はデフォルメが強すぎて断定できないけれど広葉樹であることは確か」  かのん先輩の質問に対する四季の答えは歯切れが悪かった。それもそのはず、穴から覗く動物たちは体の一部分しか見えておらず、これだと確信できるほど全体像が把握できなかったからだ。  全部で五匹(鳥も混じっているけれど)描かれた動物は左から、穴から顔を出すカメ、穴から顔を出すアヒル、穴から顔を出すクジャク、お尻を向けたウシ、お腹と尻尾を覗かせた…尻尾の形状からキツネと思われる動物。そして隣に場違いな葉っぱ。描かれた大きさからして動物の方に目がいきがちだけれど、葉っぱの方にも得体の知れない違和感があった。 「さきほどの問題に倣うなら、このイラストが次の問題が隠されている場所のヒントなのでしょうか」 「流れからいえばそうなるね」 「さっそく解きますの」  とは言ったものの、何から手を付けてよいやら、見当もつかない。まずはこの動物のイラストが何を意味しているのかから考えなければ。 「まず、動物と植物のイラストは別のものを示している可能性が高いです。要素がかけ離れすぎていて不自然ですから」 「そう。分けて考えた方がいい」 「え、でもこの右端のがキツネだとしたら、葉っぱも関係してこない?」  かのん先輩が左手の人差し指を右手で握り込み、右の人差し指を立てて他の指を握った、忍者のパブリックイメージみたいなポーズをとる。 「関連性があるなら葉そのものをイラストに盛り込むはずですから、こう、分けて描かれているならそれは考えにくいと思いますよ」 「そっかぁ」  そして恋先輩と四季のインテリチームが動き出す。声には出さないが独り言を言うように唇が細かく動いているのが頭を高速で回転させている証拠だ。  私はといえばクジャクをキジと間違えて思い浮かべていたくらいのおつむなので黙っていた方がよさそうだと思った。それどころか、キツネといえばきな子だなぁとか、すみれ先輩はクジャクが好きだったなぁとか余計なことばかり思い出してしまう。 「解き方合ってるかどうかわからないけど、そういえば私、小さい頃に読んだなぞなぞの本で似たようなの見たことあるよ」  かのん先輩が思い出したように口を開いてイラストをひとつひとつ指をさす。 「頭を出してる子は頭文字、お尻を向けてる子は最後の文字、お腹見せてる子は真ん中の文字を繋げて読むと単語になるの。懐かしいなぁ、ちぃちゃんと一緒に擦り切れるくらい何度も読んだっけ」 「かのんさんナイスです!」 「その方向性でいくと、ウミガメの頭、アヒルの頭、クジャクの頭、ウシのお尻、キツネの真ん中…」 「う・あ・く・し・つ…?意味がわかりませんの」 「悪質、という言葉はありますが「う」が余計ですね。それに場所を示す単語でもありませんし」 「でも、解き方の手がかりにはなるかもしれない。もしかして、英語に直して…?」  英単語とかになるともう私は完全にお手上げだ。キツネがfoxでカメがタートルなことくらいしかわからないし、タートルは綴りすら思い出せない。アヒルはチキンでウシはビーフだけどこれは肉の名前であって動物そのものを指す言葉ではなかったはずだ。クジャクなんて想像すらできなかった。 「T・D・P・W・O…ダメですね。意味が通りません」  早くも迷宮入りの気配がする。解き始めて五分も経たずして、私達は行き詰まりかけていた。  全員首をひねりながら黙りこくるなんともいえない沈黙を破ったのは、またしてもかのん先輩だった。 「ねえ四季ちゃん、これって本当にウミガメ?」  その言葉につられるように私の口からも「あ」という声が漏れる。 「前肢が平べったくてヒレ状になっているからウミガメ、のはず」 「単純にカメじゃないんですの?」 「だよね」  かのん先輩の発言に乗っかる形にはなったけれど、私も無意識のうちに脳内でこのイラストをカメと認識していた。ウミガメというのは細かすぎるのではないだろうか。 「……もしかしたら二人の言う通りかもしれない」 「じゃあカメだとしたら……か・あ・く・し・つ……?」  依然として答えの全体像ははっきりとしないものの、輪郭くらいは見えてきた気がする。出来上がった単語を読み上げるかのん先輩の声が耳に入ってくると、ぼんやりとだけど割とよく聞く単語のように感じた。 「なんだか聞き覚えがありますの」 「ですね。どこで聞いたんでしょうか」  かあくしつ、カアクシツ…と各自呪文のように唱えながら、既視感(この場合は既聴感とでも言うのだろうか)の正体を思い出そうとした。 「もしかして、科学室?」  一番最初にそれに辿り着いたかのん先輩の言葉に、いつもなんだか眠そうな四季のたれ目が見たことないくらいに見開かれた。  だとすると、私達がアヒルだと信じて疑わなかったこれは…。 ◆ 「………不覚」 「まぁまぁ、落ち込まないでよ、四季ちゃん」  職員室に音楽室の鍵を返して科学室へ向かう道すがら、隣を歩く四季ちゃんはもう何度目かのため息とともに自責の念を呟いた。  結局、あのアヒルだと思われた水鳥は、ガチョウだったのだ。そうすることで答えはか・が・く・し・つとなり、意味の通る言葉になったことで私達はさっそく移動を開始した。 「凡ミス…ダサい…」 「そんなことないから元気だして!みんな間違えてたんだし」  四季ちゃんがいなければ一問目…Q.3だから三問目かな?も解けなかったのだから、落ち込むことはないはずだ。  のろのろと肩を落としながら歩く四季ちゃんとは対称的に、廊下の先の方では楽しそうにのっしのっしと歩を進める恋ちゃんと夏美ちゃん。恋ちゃんは謎解きがいたく気に入ったらしく、「RPGやミステリー小説みたいな気分です!」と興奮気味に話していた。夏美ちゃんはというと「全部解いたらお宝が手に入るかもですの!」とこちらも大興奮。21世紀の高校の校舎にお宝なんてものがあるとは思えないけれど、楽しそうにしてるからまぁいいかと思った。 「そういえば、今日はメイちゃんとは一緒じゃないんだね」  出し抜けに、思いついたことを口に出して話題を変えようとした。音楽室に二人が入ってきた時から気になっていたことだ。 「メイはきな子ちゃんに泣きつかれて、スーパーの特売の助っ人に駆り出された。すみれ先輩も一緒に行ったみたい。二人とも優しいから」 「きな子ちゃん、一人暮らしだから大変だもんね。自炊してて偉いなぁ」  場面を想像してみると、すみれちゃんの「しょうがないわね」というセリフとメイちゃんの「しょうがねえなあ」というセリフがどこからか聞こえてくるみたいで、なんだか笑いが込み上げてくる。  そういえば、事前にちぃちゃんから全体練習は休みだと伝えられていたけれど、ちぃちゃんと可可ちゃんは今ごろ何をしているんだろう。  気になってスマホのスリープを解除してみると、グループチャットの未読がいくらか溜まっていた。曲作りと謎解きに夢中になっていて、まったく気が付かなかった。 「ちぃちゃんは可可ちゃんと一緒に衣装の材料を買い出しに行ってるみたいだね」  確認してスマホをまたスリープ状態にしてポケットに突っ込む。四季ちゃんの様子を伺うと、メイちゃんの話題を出したことで少しばかり元気を取り戻したように私の目には映った。 「ほら、置いてかれちゃうよ」  手を差し出すと、四季ちゃんは私の手のひらをじっと見つめたあと、目を細めながら視線を私の顔の方へと上げた。 「……かのん先輩は気安い」 「へ?」  なんだか意味深なことを四季ちゃんは呟いて、私の差し出した手にとん、と一瞬手を置いたあと、固まる私を置いてすたすたと先に行ってしまった。  追い越す瞬間にその形の良い唇が動いたような気がしたけれど、はたして彼女は何を呟いたのか、私の耳には届かなかった。  呆然と遠ざかる後ろ姿を見つめていたら不意に、アシンメトリーな髪型の長い方を手のひらにくしゃりと握り込んだかと思うと手櫛でさらりと整え、振り返る。  その顔はまるで何もなかったかのように普段通りの四季ちゃんだった。 「かのん先輩、置いてかれるよ」 「あ、うん」  四季ちゃんの呼びかけに答えて、私も首をひねりながら小走りに歩み寄る。 「???」  どうも、四季ちゃんは掴みどころがない。 ◆  戸を引くと、消毒液のような独特な匂いが鼻をついた。引き戸の開閉の振動で備品棚のガラスやビーカー、フラスコといったガラス製品がかちかちと微かな音を一斉にあげている。 「改めて見ると、向かいの屋上がほんとによく見えるね」  到着して早々、かのんさんはカーテンを開け放ち、窓から見える景色に率直な感想を述べた。  近づいて眺めてみるとなるほど、わたくし達スクールアイドル部のメインの練習場所である屋上広場が目の前に広がっている。  四季さんはここで飼育しているであろうカメの様子を確認し、水槽のすぐ脇に置いてあった乾燥餌の缶の蓋を開き、ピンセットでつまんで与えていた。 「そういえば、ここは科学準備室兼、科学愛好会の部室では?」  実験器具やら標本やら参考書やらが所狭しと並ぶ部屋をぐるりと歩き回りながら見回し、部屋を仕切るカーテンを見つめながら言う。科学室と呼ばれる教室はカーテンで仕切られた向こう側のはずだ。 「問題ない。ここはもともと科学室のスペースを一部切り取ってできた後付けの教室だから、広義的に見ればここも科学室」  四季さんの差し出した餌に元気よく食らいつくカメの様子を見ると、残暑に参っているわけではないようで、ほっと息をついた。  四季さんの城は他にも様々なもので溢れかえっていて、少し眺め回すだけでも興味を惹かれるものが山のようにあった。二台置かれたホワイトボードの片方には周期表が貼り出され、もう片方には構造式や数式が書き込まれていた。この、丸で囲まれたKIRARA!!というのはなんだろうか。赤字で書かれているのできっと何か重要な言葉なのだろうが、恥ずかしながら理数系方面には明るくないわたくしにはなんのことだかさっぱりだった。  整理整頓を信条としているわたくしではあるけれど、未知のものが乱雑に溢れかえる部屋というのもそれはそれでわくわくして趣があって良いな、とも思ってしまう。 「でも、四季がそう主張してもここに目当てのものがなければ意味ありませんの」  夏美さんの主張にはわたくしも同意見だった。問4のプレートに記された「大まかな場所」の謎は解けたものの、「具体的な場所」を示しているであろう謎のほうはまだ解けていないからだ。 「それも問題ない。たぶんこの部屋にあるから」  四季さんの素っ気ない返答にわたくしは思わず夏美さんと顔を見合わせたあと、声を大きく張り上げてしまった。 「解けたんですか!?」 「勿体ぶらずにさっさと言いますの〜」  驚愕するわたくしとは対照的に、夏美さんはもうこの流れは飽きたとでも言いたげに隠すこともせず不満を口にする。 「さっきの問題と同じ。探しているものの形状を考えれば、隠し場所は限られる」  注目の的である当の四季さんはマイペースに使い終わったピンセットと手を丁寧に洗浄し、餌の後片付けを済ませてハンカチで手を拭いながら部屋の中央あたりにいるわたくし達に向き直った。いつの間に羽織ったのか、四季さんは制服の上に白衣を着用していて、インテリ感が増している。 「葉のイラストは葉柄が上に描かれていた。普通なら下にして描く筈だから明らかに意図して描かれたもの」  四季さんの前説を受けて手に持ったプレートに視線を落とした。なるほど、言われてようやく初見時の違和感の正体に気づけた。  四季さんは自説を語りながら部屋を横切るようにゆっくりと歩き始めた。ごくりと喉を鳴らす。この雰囲気はまるで小説に出てくる探偵が推理を披露するシーンのよう。 「これはおそらく前の問題の反転文字と同じもの。イラストだから反転しても気付いてもらえないだろうから今度は上下逆さまにしたんだと思う」  前回の答えは肖像画の裏だった。同じ解き方だとすれば、今度は葉の裏…?  語りを止めずに歩を進め、わたくしと夏美さんの脇を通り過ぎ、入口の引き戸の少し前でようやく足を止め、ほぼ直角に体を右に向けた。彼女の見つめる先には教室の後方の壁に設置された黒板。薬品や実験器具や標本を仕舞うための戸棚で半分以上が隠れているそれは、わずかに露出した部分に掲示板代わりに植物の葉の標本が押し花のように紙に乾燥、圧着されて貼り出されている。 「つまり、答えはここ」  言いながら四季さんが掲示物をめくると、そこには見覚えのあるプレートが貼り付けられていた。四季さんの推理はまたも見事に的中していたのだ。 「「おーーーー」」  窓際にもたれかかったかのんさんとわたくしの隣に立つ夏美さんがぱちぱちという拍手とともに賞賛を送る。 「四季さん、素晴らしいです!」  わたくしも一拍置いて声をあげた。心臓がどきどきと高鳴り、ライブのステージ上にいるみたいになんともいえない高揚感で肌が粟立った。 「そういえば四季は、その標本に触ったことはないんですの?誰が仕掛けたかとか、知りませんの?」 「…眺めたことはあったけど触ったことはなかった。いつ、誰が、こんな仕込みをしたのかは不明」 「そういえば、謎だよね」  皆さんの会話を聞いた瞬間、熱くなった体温が急激に冷え込んでいくのを感じた。皆さんと謎解きをしていくのがとても楽しくて考えないようにしていたけれど、もしかしたらこの状況は生徒会長として見過ごせない、見過ごしてはいけない事態なのかもしれない。  去年も今年も、文化祭などでこういった催しを行うという申請を受けた覚えはなかった。ということは、誰かが、無許可で、誰にも知られることなく、いつの間にか学校中に何かを仕掛けたということだ。そしてそれが誰にも発見されることなく今日まで隠され続けてきた。考えてみるとぞっとしてしまう。 「じゃ、次の問題に取り掛かろっか」  かのんさんの声に呼応して四季さんと夏美さんは手近な椅子に腰掛けたけれど、わたくしは立ちつくすばかりで動くことができないでいた。 「どうしたの?」  石のように固まって虚空を見つめるばかりのわたくしに気付いたかのんさんが声をかけてくれて、はっと我に返る。 「い、いえ、すみません、今行きます」  ぎこちなく、わたくしも丸椅子を手で引き、席についた。 ◆  もうすっかり見慣れたラミネート加工のなされたコピー用紙。左上にQ.5と書かれているので、なんの問題もなく順番通りに謎を解けていることがすぐわかる。  それは葉っぱの標本の裏にセロハンテープで貼り付け、固定されていた。音楽室の例とは違って額に入れられていなかったからだ。  四季は標本が破れないように慎重に剥がそうとしたけれど、心配したのが馬鹿みたいにあっさりと、それは簡単に分離した。乾燥のせいか経年のせいか、セロハンテープがパリパリに劣化していたからだ。少し力を入れるだけで剥がれることなく薄いガラスのように粉々に割れてしまった。  …そういえば、今まで考えもしなかったけれどこれはいつからここにあったんだろうか。 Q.5 3 35 18 39 F-B  今回の問題は前回とは打って変わって簡素な文面だった。数字がいくつかと、ハイフンで区切られたアルファベットが二文字だけ。 「まずは取っ掛かりを探さないとね」 「とは言っても、ノーヒントじゃ手の施しようがありませんの」 「例の如く、上の数列と下の文字列は別のものを指していると思う」  そんなことは今までの流れからわかっている。問題はたった四つの数字と二つの英字だけで何が導き出されるのかということだ。 「数字の共通点は…倍数でもないし素数でもない…下の行は計算式…?代入する値を上から選ぶ…いや…一般的に係数として用いられるFとBは…」  これまでも八面六臂の活躍を見せていた四季も今回ばかりは苦戦しているようだった。  ふと、隣の恋先輩の方を見ると、四季と同じように眉間に皺を寄せて何かを考えている様子が見て取れた。四季と違っていたのは、目の前の問題ではなくどこか違う場所に焦点が合っているように見えたこと。問題を解いているという感じではなく、言い知れない怖さのようなものがその眼差しから感じ取れた。 「れ」 「ねぇ、あんまり難しく考えなくてもいいんじゃないかな」  名前を呼ぼうと口を開きかけた瞬間、故意ではないだろうけど偶然にもかのん先輩の声がそれを遮った。 「今までそこまで専門知識が必要じゃなかったし、上の行は…3番目の文字、35番目の文字、っていう感じに別のものを当てはめるのかも。アルファベット…は26文字だから違うか」  かのん先輩の言葉に四季は何度かまばたきをしたあと、脱力するように細く息を吐いた。 「…目から鱗。私は数字の羅列を見るとどうしてもややこしく考えてしまうみたい」 「じゃあ、五十音ですの?」  アルファベットでないならば、ぱっと思いつくのはそれくらいだ。引っかかるものはあるものの、会話に参加するために恋先輩から視線を切った。 「そうなると…えっと、ちょっと待ってね…」  かのん先輩は指折り数えて脳内で対応させようとしたけれど、早々に諦めてスマホを取り出し検索エンジンに五十音表、と打ち込んだ。なにも全部そらでやる必要はない。便利なものは使ってこそだ。 「う・も・つ………あ゙」 「うもつゔぁ?」  一文字づつ声に出していき、四文字目になったとき、かのん先輩は蛙が潰れたような鳴き声を発した。四季が聞こえたままにオウム返しする。 「ごめん、たぶんハズレだ。四つめの39文字目が、や行のえ段だった」  や行のえ段。や・ゆ・よ。 「……存在しませんの!」 「いや、ある!あるんだけど!…なんて読むのコレ」  かのん先輩が向けてきたスマホの画面には、見たことのない文字が映し出されていた。カタカナのイとエが合体したような、見慣れない文字。 「おそらく、古字。昔はや行とわ行にもいの段とえの段があったらしいから、発音はたぶん、いぇ、が近いと思う」 「じゃあ、う・も・つ・いぇ…?」 「意味がわかりませんの…」 「古文だったら、恋先輩の方が詳しい」  四季の一言で六つの瞳が一斉に恋先輩の方を向く。けれど、視線を向けられてもなお、恋先輩はじっと一点を見つめて微動だにしなかった。まるで、心ここにあらずといった風だ。 「恋ちゃん?」 「……え、あ!はい!」  かのん先輩の呼びかけに、ようやく反応が返ってくる。肩をびくりと震わせてほんの少し飛び上がるようにして驚いていた。 「す、すみません、考え事をしていました」  まるでこの間の騒動の時みたいにぼんやりとしていた恋先輩のためにここまでの顛末を説明した。  あの時は寝不足ということだったけれど、今日はそんな様子は見られなかったし、ついさっきまで嬉しそうに謎解きを楽しんでいたのだ。何か気がかりなことを思い出してそっちに気を取られてしまっているのだろうか。たとえば、門限が近いだとか。  ちら、と窓の方を見遣る。秋も近づきいくらかやわらいだとはいえ、依然として強い日差しが屋上のタイルを灼いていた。日はようやく傾き始めたというところで、まだまだ門限を気にするような時間ではない。  そもそも、部活のある日は日が沈むまで練習をしているのだから、門限などという考え自体が見当違いだった。 「うもついぇ…うーん、聞き覚えはありませんね」 「だよねぇ」 「古文の専門知識が必要なのだとしたら、かのん先輩のさっきの推理と矛盾する」  どうやら恋先輩の見立てでは、今回の仮説は空振りに終わったよう。へなへなと崩れ落ちる。 「また振り出しですの…」 「いろは順だと…は・て・そ・ゆ…意味が通りませんね」 「やっぱり、なんらかの計算が必要かもしれない」 「アルファベット27文字目以降はAに戻るとか…」  ああでもない、こうでもないと議論を交わす。考えすぎて頭が痛いくらいだというのに、灰色だった中学時代以前からは想像もできないほどに楽しい。  こんなことなら最初から最後まで動画を撮っておけばよかった。この私がカメラを回すのを忘れてしまうくらい、充実した時間だった。 ◆  アルファベットループ説を試して出てきた単語を検索してみると、なんと医療機関の略称がヒットした。  しかし、カリフォルニア州はいくらなんでも遠すぎる。校内でちまちまとやっていたのにいきなり海外に行けと言い出すとはとても思えないので、全会一致でこれは無いとの結論に至り、私達はまたも振り出しに戻された。 「わかってしまえば単純なことだと思うんだよね。たぶん」  考え疲れたかのん先輩が凝り固まった筋肉をほぐすように軽く伸びをする。重心の移動に伴って丸椅子がわずかに軋みをあげた。  今までの例を見ても、難しく考えれば考えるほど泥沼に嵌っていくというのはわかっていた。必要なのは少しの知識と発想の柔軟さとひらめき。  とはいうものの、手がかりがなさすぎる。一度頭を空っぽにしてぼんやりと問題を眺めてみたけれど、3が多いな、くらいしか感想は出てこなかった。  せめてもう一声、ヒントがあれば。……ダメだ。考えがまとまらない。一度頭をすっきりさせないと。 思い立ち、立ち上がる。ふらふらと窓際まで歩いていき、戸棚の下の引き戸を引いた。 「休憩。コーヒーとココアならあるけど、みんなも飲む?」  突然立ち上がった私に注目するみんなに、インスタントコーヒーの袋を取り出して振って見せた。 「えっ、いいの?じゃあ私、ミルクたっぷり砂糖はなしで!」 「私はミルクも砂糖もいっぱい入れてほしいですの…糖分が足りませんの…」 「ではわたくしはココアをお願いします」 「りょうかーい」  提案しておいてなんだけど、カップは人数分あっただろうか。普段は私とメイくらいしか飲まないから、二つは確実にあるのだけれど。  戸棚を探ってみると箱からまだ出していない新品のものを発見した。いつだったか割れてしまった時のことを考えて予備を買ってきたのを思い出す。  これで三つ。それなら、私はビーカーでいいかと思い、カップの問題は解決したので次はお湯を沸かすことにした。 「やっぱり、アルコールランプでお湯を沸かしてビーカーで飲むの?」 「えっ」  かのん先輩が興味深そうに投げかけてきた質問に、思わず手が止まる。 「マンガとかアニメでよく見るやつ、ちょっと憧れてたんだよね」 「気持ちはわかりますけど、実験に使ったビーカーで沸かしたお湯で飲むのは気持ち的にどうなんですの…?」 「…えーと」  戸棚の奥から取り出した電気ケトルの処遇に困ってしまった。以前は私もビーカーで沸かして飲んでいたのだけれど、メイに勧めたらやめろと言われて渋々電気ケトルを導入したのだ。  このまま何食わぬ顔でお湯を沸かすか仕舞うかを迷っているうちに、かのん先輩とばっちり目が合ってしまった。笑顔のまま固まるかのん先輩。 「あっ……あーーーー……そうだよね、うん」  いたいけな少女の夢を壊してしまった。申し訳ないと思う。  かのん先輩はわかりやすいくらいに落ち込んでいて、本当に浮き沈みの激しい人だと思った。夏美ちゃんはそんなかのん先輩を写真に収めるべくスマホを構えてベストなアングルを探して動き回っている。恋先輩はといえば、置かれているものが珍しいのか、興味深そうに部屋を見回していた。 「かのん先輩のはビーカーに淹れる」 「うん…ありがとう」  本当に申し訳ないと思う。  ケトルに水を注ぎ、台座のコンセントを繋げたあと、カップとビーカーを並べてコーヒーとココアの粉を入れ、注文通りにスティックシュガーとフレッシュを戸棚から取り出してカップの脇に置いていく。  ケトルからはすぐにぐらぐらというお湯の沸く音が聞こえてきた。アルコールランプやバーナーで沸かすのも私は(かのん先輩も?)謎の風情があっていいと思うけれど、科学の力は偉大だ。とにかく沸くのが早い。 「あーーーー!!!」  突然、背後から叫び声が上がって、封をして今まさに仕舞おうとしたココアとコーヒーの袋を危うく取り落としそうになった。  振り向くと、恋先輩がものすごい勢いでなにやらメモ帳に何かを書き込んでいるところだった。勢いが強すぎて、ポニーテールが踊る、躍る。走り書いて、書き終えるとそれを何度も読み返し、そして意を決したように立ち上がっては天に掲げる。 「解けました!!!」 「マジですの!?」 「えっ、恋ちゃんホント!?」  勝利の雄叫びとともに恋先輩はその場をぴょんぴょんと飛び跳ね、まるで子供みたいに喜びを全身で表現していた。 「はっ!?」  ひとしきり暴れて冷静さを取り戻したのか、恋先輩は私達の視線に気付くと今さらながらこほん、とひとつ咳払いをして静かに椅子に腰掛けた。  気付けばお湯はとっくに沸いていて、手に持っていたはずのコーヒーとココアの袋はいつの間にか足元に転がっていた。 ◆  恋先輩の推理はこうだった。いや、この問題の答えは推理というほどの思考を必要としない、かのん先輩の言ったとおりの単純なものだった。単純であったがゆえに、頭のいい四季は思考の迷路に迷い込み、泥沼に嵌っていったのだろう。 「かのんさんの、数字に対応するものを置き換えるという解き方は正解だったんです。ですが、問題は何を置き換えるか、でした」  そのとおりだ。問題文にはなんのヒントも書かれていなかったから、何を対応させるかで私達はさんざん頭を悩ませていたのだ。  数字に対応するものなんてそれこそ世の中にごまんとある。ぱっと思いつくだけでアルファベット、五十音、ライブのセットリスト、アルバムのトラック数、本のページ…それらをひとつひとつ照らし合わしていけばいつかは正解に辿り着けるだろうが、それこそ日が暮れるどころか天文学的な時間と労力かかかってしまうだろう。  だから、問題用紙自体にヒントを書くことができないのなら、それはすぐ近くに配置されていて然るべきなのだ。 「あれです」  恋先輩が私達の正面を指で指し示すと、六つの瞳がその先へと向いた。  二台配置されたホワイトボード。その向かって右側に、大きなポスターがマグネットで貼り付けられていた。マス目で区切られた内側に数字やアルファベットが印刷されたそれは、確かにこの部屋に当たり前にあるもので、この部屋で見つけた問題に対応させるにふさわしいものだった。  少し目線を上げればヒントは最初から目の前にあったのだ。 「元素…周期表…」  力なくそれの名前を呟いた四季はへなへなと崩れ落ち、机の上に突っ伏した。 「……不覚その二」 「元気出しますの」  言って、四季の淹れてくれたコーヒーに口をつけた。たっぷり入れた砂糖のおかげで甘さが口いっぱいに広がり、動かしすぎて疲労困憊の頭がいくらか元気を取り戻す。 「えっと、続けますね」  恋先輩は問題であるところの「3 35 18 39」に、周期表の元素番号に対応した元素記号を当てはめていく。3のリチウム、35の臭素、18のアルゴン、39のイットリウム。Li、Br、Ar、Y。Library。 「ですから、わたくしの出した答えは図書室、です」 「すごいよ!恋ちゃん!」  かのん先輩の惜しみない賞賛を受け、恋先輩は「初めて自分で解けました!」と無邪気に喜んでいた。最初から最後まで四季の独壇場ではつまらないし、こういった結末もアリだろう。 「四季、いつまでそうしてますの」 「今回ばかりは立ち直れない……」 「謎解き勝負じゃあるまいし、落ち込むだけ時間の無駄ですの。時はマニーですの」  なんだかんだで四季の明晰な頭脳のことは頼りにしているんだから、いつまでも凹まれていめは話が進まない。私としては問題を解いていった先に何があるのかが気になるだけなので、誰が先に解こうがぶっちゃけた話なんでもいいし、早く解ければ解けるほど、時間の節約になる。時間を有意義に使える。  それに、いつも澄ました顔をしている四季の凹んだ姿というのはとてもレアだ。それが見れただけでも今日という日はじゅうぶんに価値があったし、撮れ高もばっちりだった。  撃沈した四季の姿を写真に収め、マグカップをあおって底に残っていたコーヒーを飲み干す。溶け切らずに沈殿していた砂糖の強烈な甘さが舌を刺した。  謎が解けたのならば善は急げである。空になったマグカップを洗い、シンクの脇のビーカーやフラスコが並ぶ乾燥ラックに一緒に立てかけておく。 「ご馳走様ですの」  写真映えもしない、そこらで売っているただの市販のインスタントコーヒーだというのに、なんだかとても美味しく感じた。 ◆  みんなが飲み終えたマグカップを片付け、次の目的地である図書室までの道を歩く。会話の内容は専ら一連の謎の出題者とその目的についてだった。  ここまでなんの疑いもなく提示された謎を解いてきたくせに、夏美ちゃんの一言で私達の間に突然むくむくと疑念が湧き上がってきたからだ。  誰が、いつ、なんのために。 「そんなの、お宝を隠すためですの!謎を解いたその先には巨額のマニーが〜〜!」 「私はそう思わない。宝を隠すなら証拠なんて絶対に残さないし、第三者にわざわざそれに繋がるヒントなんて与えたりしない」 「……四季は現実的すぎますの」  いけないだろうか。夢見ることも結構ではあるけれど、冷静さを失わないことも必要なことだ。夏美ちゃんは特に、自分と他人の利について口やかましいタイプだと思っていたけれど。 「あんなにはしゃいだ手前お恥ずかしいのですが、わたくしはとても複雑です」  鼻息の荒い夏美ちゃんとは正反対に、恋先輩の顔色は暗い。 「わたくしはこの学校の生徒会長だというのに、校内にこれだけのものが隠されているのを今日まで知りませんでした。明確な管理不行き届きです」 「そんなこと」 「いえ、あります」  かのん先輩の否定の言葉を恋先輩は強い口調で遮った。 「去年も今年も、校内をこういった謎解きの舞台として使用する旨の申請を受けたことはなかったんです。結ヶ丘に存在する部活にもミステリ研の類はありませんし、このパズルの出題者の正体も、目的も、本当にわからない」  かのん先輩も夏美ちゃんも私も、恋先輩の心情の吐露に息を飲んで耳を傾けていた。 「隠されているのがパズルやクイズだったからいいものの、もし危険物が隠されていたとしたら。そしてそれが学外の誰かが不法に入り込んで仕掛けていったものだとしたらと想像すると、恐ろしいんです」 「恋先輩の心配は理解できなくもないけど、少し飛躍しすぎていると思う」  隠されているのがもし危険物であったならという仮定については、結ヶ丘という新設の生徒数もまだ多くない学校に仕掛けるという意味合いがそもそも薄いのだ。  あまり考えたくはないけれど、そういった類の犯罪者の目線に立てば、被害者は多ければ多いほうが良いはずだ。ならばもっと生徒数の多い学校を標的とするだろうし、ひとつひとつ謎を解かせるなんていう回りくどいことはしないだろう。回りくどいことが好きな種類の犯人だとしたらお手上げだけれども。 「……考えすぎでしょうか」 「恋ちゃんが学校と、学校のみんなのことを心配してくれるのは嬉しいけど、私にはこれは、楽しいことなんだって思うよ」  私の否定の言葉に俯いてしまった恋先輩に、かのん先輩が優しく声をかける。 「私達がライブで集まってくれた人達を楽しませたいって思うのとおんなじだって、そう感じるの。恋ちゃんだって謎解きしてる時、楽しかったでしょ?」  かのん先輩の言葉でさっきの大はしゃぎを思い出したのか、恋先輩の頬がほのかに染まる。 「この問題を作った人が誰なのかはわからないけど、きっと解く人が楽しんでくれますようにって思いながら作ったはずだよ。私達が曲やダンスやステージを作るのと同じように」  それに、出題者(以後Xと呼ぼう)は意図的に問題を簡単にしている感があった。音楽科のある学校の生徒なら難なく解ける問題であったり、子供向けのなぞなぞを参考にしていたり、すぐ目の前にヒントがあったりと、解かせないことを目的とせず、むしろ解かれることを望んでいる節さえある。  かのん先輩の言うように、これはきっとエンターテインメントの一種なのだ。 「そうだといいのですが」  恋先輩の表情は依然として暗かったけれど、かのん先輩の言葉でいくらか晴れたように私には見えた。 ◆  司書の生徒に一言告げて、わたくし達は図書室の捜索を始めた。  幸いなことに現在進行形で図書室を利用している生徒はおらず、悪目立ちすることなく捜索ができそうだった。 「えっと……九番、九番……あ、ありましたの」  夏美さんを先頭にして9と番号の割り振られている書架の前に立つ。問題文の二行目、「F-B」という記述を一行目の解法に照らし合わせて、フッ素とホウ素の元素番号である「9-5」を導き出したわたくし達は、迷うことなく真っ直ぐに図書室の一角に設置された真新しいメタルラックの前へと足を運んだ。 「たぶん、この五段目」 「いち、に、さん……」  上から順番に指差し確認するかのんさんの人差し指が、書架の下から三段目で止まり、四人の視線が集まった。おそらくここにわたくし達が探しているものがあるはずだ。 「下から五段目という可能性はないでしょうか」 「もしそうだとしても、労力が二倍になる程度。図書室の本を全部ひっくり返すよりはまし」  わたくしの指摘に四季さんはそう返し、「今までの例を見るとあまり複雑に考えず直感的に考えた方がいい」と、眉間に皺を寄せながら続けた。 「じゃあ、手分けして探そう」  かのんさんの言葉に、わたくし達は各々書架から数冊づつ本を抜き出しては、ぱらぱらとページをめくっていく。カバーのあるものはそれも外して裏に隠れていないかも丹念にチェックしていった。 「あぁ、なんだかこの感じ、懐かしいな」  ふと、かのんさんが苦笑交じりにぽつりとこぼした。そういえば、似たようなことをわたくしもした覚えがあった。わたくしは入学してから少しづつ一人でだったけれど、かのんさん達は夏休みが終わった二学期の始めごろだったか。 「なんだか遠い昔のことのように思えます」 「私も」  同じような苦笑いを向け合って、当時を懐かしむわたくしとかのんさん。あの頃は対立し合っていたのに、今はもう一緒に同じものを探している。人は変われば変わるもの。ほんの一年前の話だ。 「なんですの?二人だけで通じ合ってますの」 「おんなじようなことをやったな〜ってだけだよ」  わたくし達の会話に興味を惹かれた夏美さんを軽くあしらうかのんさん。些細なことだけれど、忘れられない記憶だ。  それからわたくし達は特に目立った会話もなく黙々と作業を進めていった。丁寧に、丹念に手に取った本を一冊一冊、何かが挟まっていないかをチェックしていった。  だというのに、床に積み上がった本の山の頂上に最後の一冊を積んでもなお、お目当てのものは影も形も見当たらなかったのだ。  わたくしの先程の指摘のとおり下から五段目の本にも目を通してみても結果は同じで、ただ無為に疲労が蓄積されただけだった。 「ぬあ〜〜〜〜!?見つかりませんの!」 「夏美さん、図書室ではお静かに」  頭を抱えながら咆哮をあげる夏美さんに対して口許に人差し指を立てて咎め、わたくし達に訝しげな視線を向けてくる司書に愛想笑いを送った。 「けど、叫びたくなる気持ちもわかるよ……まさか空振りに終わるなんて思ってなかったもん」 「F-B=9-5の解が間違っていた……?ハイフンがマイナスだとしたら4……けど、4だけじゃ……」  かのんさんはうらめしげにうず高く積まれた本を指で突付き、四季さんはまた思考の迷宮に囚われかけている。 「わたくし達が探すよりも前に誰かに借りられてしまったのでしょうか」 「私も偶然Q.3を見つけたし有り得ますの……ここまで来て成果ゼロなんてとんだ骨折り損ですの……」 「でも、こんなに丁寧に問題を隠してきたXが、こんないつ誰に借りられるかもわからないようなところに隠したりするかな」  かのんさんはまだ諦めない姿勢をみせている。確かに、謎の人物Xはこれまでいつも視界には入っているけれどわざわざ手は伸ばさないような場所ばかりを隠し場所としてきた。その法則に則れば、誰もが手に触れることのできる本の隙間、というのはどうにも違和感が残る。  であれば、問題の解に見落としがあったのだろうか。一行目の解法からして間違っていたのであれば、図書室をいくら探し回ろうと次の謎は見つかるわけがないのだ。 「いつも見てるのに見えなくて、わざわざ手を伸ばさない…」  思考を反芻するように口に出す。なんだろう、この引っ掛かりは。わたくし達は重大な見落としをしているのかもしれない。奥歯の隙間にものが挟まったみたいなもやもやとした気持ちがわだかまっていた。  夏美さんに急かされて、渋々といった感じにかのんさんと四季さんが床に散乱した本を書架に戻していく。  書架に、戻していく。 「書架です!!!!」 「ナーーーーッツ!?恋先輩!しー!しーですの!!」  突然立ち上がって叫び声をあげるわたくしを、夏美さんが口許に人差し指を立てて咎める。さっきとは立場が逆転していた。慌てて口を両手で覆うものの、出してしまった声はもう戻らない。  恐る恐る入口の方を確認してみると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔の司書と目が合い、互いに愛想笑いを浮かべて元に向き直った。 「しょ、しょか?」 「あぁ、ええと、本棚のことです」  言って、逸る気持ちを抑えられずに書架に歩み寄って上から五段目の棚板の真裏を手でまさぐる。ちょうど中央付近まで手を移動させた時、指の先にメタルラックの塗装面とは違う、つるつるでこぼことした感触が確かに感じられて、胸が高鳴るのを感じた。 ◆  それは小さな鍵だった。  部室の鍵のような古めかしいウォード錠というわけではなく、最新鋭のマグネット式というわけでもなく、とりわけ珍しさや目を引くところもないありふれたピンタンブラー方式の鍵だった。  キーホルダーの類はついておらず、それそのものだけが本棚の棚板の裏に忘れ去られたように養生テープで貼り付けられていて、鍵以外は見つからなかった。  指でつまんで窓から漏れ入る自然光にかざしてみるけれど、当たり前だけどなんの変化もみられない。 「いよいよクライマックスが近づいてきましたの!お宝は目の前ですの〜!」 「夏美ちゃんは、お気楽」  前を歩く夏美ちゃんと四季ちゃんの足取りは軽い。私達は図書室から一路、生徒用のロッカールームへと移動していた。なぜかと言えば、図書室で発見したこの鍵に見覚えがあったからだ。  鍵といえば部室と、あの箱のことを真っ先に思い出してしまう。けれど、残念ながら部室にはもう蓋の開かない箱がもうないということは、可可ちゃんの部室リノベーションの際の物置整理で既にわかっていた。  入学したら生徒一人にひとつ与えられる荷物や上着を仕舞っておくロッカー。その鍵に見つけた鍵が酷似していた。いや、酷似どころではなく、まったく同じ種類だった。  キーケースにぶら下げた私のものと並べてみても、鍵のギザギザ部分が微妙に違うだけでひと目で同じ種類のものであるとわかる。  そして私達普通科の使うロッカールームにはこんな噂があった。  開かずのロッカー。  ロッカールームの端の端、誰も使っていないはずのロッカーがひとつだけ鍵の紛失によってずっと閉まったままなのだという。 「バズネタ探しに学校の噂話を聞き回った時に聞いたことありますの。けど、パンチが弱かったからボツにしましたの」 「生徒会への要望に鍵の交換がのぼったこともありましたけれど、理事長に相談したところ、空きロッカーはまだまだあるので現状のままで保留、足りなくなってから考えましょうということになりました」 「……初耳」  みんなの反応はこうだった。私も耳にしたことくらいはあった。けど、それだけだ。  実際、私達が入学したての頃は気味悪がる生徒もいたにはいたけれど、すぐにその存在すら忘れられていったので、今日みたいなことがなければ思い出すこともなかっただろう。  しばらく廊下を歩いてロッカールームに辿り着き、件のロッカーを目指して鉄の箱の森を彷徨った。部屋の隅っこ、壁際の角にそれはあった。  なんの変哲もない、いくつも無数に並ぶ縦長のロッカーと同じもの。異様な存在感を放つでもなく、それは静かに佇んでいた。  使用者の氏名プレートをはめ込む窓には手書きの「使用不可」の文字が記され、今現在誰もこれを使っていないことがわかる。 「じゃ、じゃあ、いくよ」 「緊張の一瞬ですね……」 「撮影準備オッケーですの!」  鍵穴に発見した鍵を宛てがった。今さらだけどなんで開ける役が私なんだろう。開く段になって急に怖くなってきた。何かが飛び出してきたらどうしよう。虫とか、ネズミとか、おばけとか。  震える指先でゆっくりと鍵穴に鍵を差し込む。先が奥に当たる感触を感じて、深呼吸してから鍵を回した。  がしゃん、という金属音とともに差し込んだ鍵が九十度回転する。  開いた。  ゆっくりと鍵から手を離し、取っ手に指をかける。少し力を入れて引けば、扉は開くはずだ。 「ひぃ〜……」  緊張で声が漏れた。心臓はばくばくとうるさいくらいに鳴って、冷や汗が背中を伝う。意を決し目を瞑って指に力を込めてえいや、と引くと、あっけないくらい簡単に扉は開いた。  果たして、いつから封印されていたかわからないロッカーの内側からは恐れていたものなど飛び出してはこなかった。つん、と防虫剤のような匂いが鼻を突く。 「かのん先輩、目を開けても大丈夫」 「お宝とご対面〜!……です、の?」  四季ちゃんの呼びかけと、夏美ちゃんの困惑の声に恐る恐る瞼を開いてみると、空っぽのロッカーの網棚の上にぽつんと、ごついダイヤル式の南京錠がぶら下がった箱が鎮座していた。そしてその箱自身で重石をするように、網棚と箱の隙間には見慣れたプレートが挟まっていた。 ◆ Q.6 鏡合わせの日  新たに発見されたプレートにはイラストも数字もなく、ただ簡潔にそうとだけ記されていた。  箱の大きさは幅15センチ、奥行き10センチ、高さ8センチほどの比較的小さなもの。材は色合いから見てウォールナットか年を経た樫か、過度に装飾がされているわけでもない簡素な木製のものだったけれど、手触りがよく年月を感じさせる鈍い光を反射させていて、どこか上品で趣味の良さがひと目で見て取れた。錠前のかかった掛け金と角の装飾は真鍮製だろうか。 「雰囲気バッチリでテンション上がりますの〜!」 「喜ぶのは錠前を開けてからにして、夏美ちゃん」  問題文は素直に考えてダイヤル式南京錠の暗証番号のヒントだろう。そしてその箱の大きさに対して不釣り合いなくらい巨大な南京錠のダイヤルの桁数は、なんと六桁。こんな大きさの南京錠なんて見たことがない。よく見かける桁数が三や四ほどなのに対して六桁である。その組み合わせは総当たりすれば100万通りにものぼった。 「ひゃくまん……」 「けど、問題ない。ヒントのおかげである程度絞れる」  思いがけない大きさの数字を聞いて、目眩で足をふらつかせた夏美さんをかのんさんが受け止めるのを見届けて、四季さんは顔色ひとつ変えずに言い放つ。 「鏡合わせの日、ですから正解の数字は日付、ということですね」 「Exactly.恋先輩。日付に限定すれば候補はかなり絞られる。六桁を年二桁、月二桁、日二桁とすれば、2月29日を含めても366日×100年通り。36600通りまで数を減らせる」 「それでもまだめっちゃ多いですの!?」 「夏美ちゃん、結論を急ぎすぎ」 「四季の説明が回りくどいだけですの!」 「まぁまぁ」  ころころとまるで百面相のように表情を変えて四季さんに詰め寄る夏美さんをかのんさんがなだめて、四季さんの次の言葉を待った。 「ただの日付、というだけなら36600通りだけど、鏡合わせ、というヒントでここから一気に30通りまで絞ることができる」 「「そんなに」」  続く四季さんの言葉を聞いて目を見開き口をあんぐりと開けるかのんさんと夏美さん。その様子がなんだか可笑しくて、笑みがこぼれてしまった。  鏡合わせ、ということは左右の数字が鏡面反射のように並ぶということだ。例を挙げると、123321という数字を真ん中で区切れば、123と321が鏡合わせとなる。このままでは12年33月21日という存在しない日付になってしまうけれど、ならば鏡合わせが成立する日付とは何かを考えれば、答えは簡単だ。 「条件を満たす日付は11月の1日から30日までの30通りのみ。これなら総当たりしてもそう時間はかからない」 「四季ちゃん、すごい!」 「四〜季〜!愛してますの〜!」 「えっ……ごめんなさい……」 「ガチっぽい反応しないでほしいですの!?」  かのんさんは四季さんに惜しみない拍手を送り、夏美さんは四季さんに抱きついていた。わたくしも拍手をし、推理が四季さんと同じ結論に至ったことに安堵し、ほっと息をついた。 「じゃあ撮影してるからさっそく試しますの!」 「人使いが荒い……」  そうして四季さんはダイヤルをひとまず10年11月01日に合わせ、夏美さんはその様子を動画に収め始めた。 「いよいよゴールみたいだね」  解錠の様子を覗き込みながらも手持ち無沙汰のわたくしに、同じくギャラリーとなったかのんさんが話しかけてくる。 「わかりませんよ。もしかしたら箱の中からまた新しい問題が出てくるかも」 「えぇ〜?それはちょっと拍子抜けかも」  わたくしの受け答えにかのんさんは苦笑いを浮かべて返す。  ふと、天井に近い位置にある採光窓に目をやった。窓の外はもうだいぶオレンジの色が濃くなってきていて、そろそろ下校の時刻が近づいてきているのを教えてくれていた。 「次の問題じゃないとしたら、何が入ってるんだろう」 「さぁ……でも、何が入っていようと、拾得物として届けないといけませんね」 「生徒会長様はお固いなぁ」 「かのんさんも他に立候補や推薦がなければ副会長になるんですから、そのあたりのルールはきちんと守ってくださいね」  にっこりと満面の笑みを浮かべて、これから一年間頼りにするわたくしのパートナーを真っ直ぐに見つめた。 「ど、努力しまーす」  四季さんが回すダイヤルは02年11月20日を合わせるも、いっこうに開く気配を見せなかった。 「あと10通りしかありませんの……推理は本当に合ってますの?」 「推理は仮定でしかない。どれだけ辻褄が合っていようと真実はひとつしかないし、そればかりか正解が複数ある場合もある」  心配そうに見つめる夏美さんとは真逆で、四季さんの言動からは焦りは見られなかった。ただ淡々とダイヤルを合わせ、錠前の可動を確認していく。  そしてその時は唐突に訪れた。  がぎん、と耳障りな金属音とともに、ついに掛け金が浮いたのだ。 「ほ、ほんとに開きましたの!」  夏美さんの実況の声を聞いて安堵したのか、四季さんは長く細い息を吐いた。言動からは想像できなかったけれど、やはり緊張はしていたようだった。  的中した日付はというと、42年11月24日。それを見た途端、息を飲んで一瞬ひときわ高く心臓が鳴った気がした。動悸のせいか血流が早くなり、耳の奥でごおおと耳障りな音が鳴ってうるさかった。 「えっ、その日付って」 「早く開けますの!四季!」  耳鳴りの向こうで、かのんさんと夏美さんの声がした。  どうして、その日付なのだろう。  四季さんが南京錠を掛け金から外し、箱の蓋に手をかけ、ぐっと力を込める。親指の第一関節に皺が寄り、ゆっくりと長いこと外気にさらされていなかったであろう箱の中身が、曝された。 ◆ 「はー。骨折り損のくたびれ儲けですの」 「撮れ高がいいって喜んでたじゃない」 「それはそうだけど、でも散々引っ張ったオチがあれじゃあ、視聴者が納得しませんの!」  そういうものなのだろうか。少なくとも私は、普段触れないようなクイズやパズルに触れられて充実した一日だったと思う。メイがきな子ちゃんについて行った時、私も一緒に行こうかと思ったけれど、夏美ちゃんからのヘルプコールを開いて結果的によかったように思えた。  ことの発端である夏美ちゃんは、結末に満足していないようだけれど。 「んー、やっぱりネットの集合知はすごいですの。問題をアップしたらすごい速さで答えが返ってきますの」 「カンニングはよくない」 「解いたあとの問題ならそれはただの答え合わせですの」  ああ言えばこう言う。お互いに憎まれ口を叩いてばかりだけれど、本当に嫌なら無視すればいい。転じて、私も夏美ちゃんも、この会話のキャッチボールを心地良いと思っているのだろうか。  私達が学校の正門をくぐる頃には、太陽はもうかなり西に傾いていて、世界が茜色に染まっていた。秋は夕暮れ、というのは誰の言葉だっただろう。確か古文関連だったと思うのだけれど、あいにくと専門外だった。 「結局、Xが何者で、何がしたかったのかもわからずじまいですの」 「断定できない。けど、推測することならできる」 「ふぅん。聞かせて?」  珍しく、夏美ちゃんのアイデンティティである語尾がなかった。  物事を推測する、ということは想像することだ。例えばある方程式の解を想像する。例えばある実験の結果を想像する。緻密な計算を必要とする理数の分野においても、ふわふわと曖昧で机上ではなく脳内でだけ展開される想像、という行為は重要なファクターだった。 「想像でしかないけれど、」  そう前置いて、私は考えを披露しはじめた。  最初の引っ掛かりは夏美ちゃんが偶然見つけたQ.3のプレート。そして第二に、科学室の標本の裏に貼り付けるためのセロハンテープ。それらは経年による劣化を感じさせるものだった。前者の表面にできた細かな傷は、梁の隙間に強引に挿し入れた際にできたものではない。長い間そこにあり、ラミネートフィルムの表面に細かな振動や圧力が加わり続けてできたものだと思われた。後者はもっと単純で、プレートが標本の裏に貼り付けられてから相当な年月が経っていることがわかった。それこそ、最低でも三年…下手すればもっと前からそこにあったことになる。 「待ちますの。三年以上前って」  知っての通り、結ヶ丘は今年で開校二年目になる新設校だ。ただし、結ヶ丘には前身となる学校が過去に存在した。神宮音楽学校。今はもう過去の話ではあるけれど、私学のそれなりな名門校だったと聞いている。けれど生徒数の減少により経営が悪化し、最後にはあえなく廃校の憂き目にあった、という話だった。  そして時は流れ今から二年前の春、かつて神宮に在籍していた恋先輩の母親の尽力によって結ヶ丘女子高等学校として生まれ変わった。新築した新校舎を除き、旧校舎の設備には前身である神宮のものが一部、いまも使われているという。  神宮の廃校から結ヶ丘の開校まで、およそ二十年ほど。私達が今日解き明かした謎の数々が仕掛けられたのは最低でも三年以上前。Xは、ここが学校としての機能を失っている間にあれらの謎を仕掛けたものと思われた。  引き継がれた学校設備たちが空白期間中にどう扱われていたのかはわからない。けれど、相当古いものも散見されることから、廃校時のまま保存されていたように私には感じられた。そんなことが可能なのかどうかは不明だけれども、ある程度の資金を積めば不可能ではないだろう。  次の引っ掛かりは図書室だった。旧校舎の設備の多くが神宮時代から引き継がれているとはいえ、老朽化によって廃棄せざるを得なかったものもあるだろう。おそらくその筆頭が図書室の書架だ。古めかしい建物に似つかわしくないほどに、書架は新しく、きれいだった。にもかかわらず、そこには開かずのロッカーの鍵が隠されていた。  この情報から想像するに、これらの謎が仕掛けられたのはここが結ヶ丘として開校することが本決まりになった段階、あるいはその前後だということがわかる。開校が確定してもいないうちから新しい設備の搬入が行われるとは考えにくいからだ。  したがって、Xは、開校以前から校舎に出入りできる人物、即ち結ヶ丘の創立に深く関わっている人物だという仮定を立てることができた。 「それって」  そんな人物は限られている。  まぁ、あくまで私の勝手な想像でしかないのだけれど。 ◆ 「十中八九、花ね」 「ですよね」  拾得物の報告と引き渡しのため、わたくしは理事長室を訪れていた。ことの顛末を説明し、段ボール箱に詰め込んだ拾得物を理事長の机に置いた。内訳は、Q.3からQ.6までの問題プレート、紛失していたロッカーの鍵、そして南京錠と小さな木箱。 「あんのイタズラ娘、身体壊してたっていうのに何をやってたんだか」  ため息交じりに拾得物の数々を見回しては、手元の用紙になにやら書き込んでは慣れた手付きで判を押していく。 「あとは私がやっておくから、貴方はもう帰りなさい。もうすぐ下校時刻でしょう」 「はい、わかりました」 「ああ、それと、この箱は持って帰りなさい。きっと貴方宛でしょうから」  理事長は段ボール箱から木箱を取り出して、差し出してくる。 「……ですが」 「いいのいいの。誤魔化しとくから」  拾得物横領という犯罪に手を染めるのはどうかと思ったけれど、これがもしお母様の所有物だったことが証明されれば、所有権は遺族であるわたくしや、お父様にある。ならばまぁ、それが証明されるまでわたくしが一時的に預かっておくのは問題ないように思えた。 「それにしても、やっぱり血よね。あの子もこういうゲームの類は好きだったから」 「はあ」  少し複雑ではあったけれど、そう言われるのは悪くない気がした。 「楽しかった?」 「……ええ、とても」 「そ。ならいいわ」  簡潔な問いに簡潔に返すと、理事長はまるで昔を懐かしむように目を細めた。  あの時かのんさん達が見つけてくれたノートには、かつての学校アイドル部の活動記録写真がいくつも貼り付けられていた。その中には在学中の理事長の姿もあり、部員でこそなかったものの非常に協力的な関係であったことがひと目でわかった。理事長は、お母様のよき理解者だったのだろう。 「では、失礼いたします」 「ええ」  戸を引きかけて、ひとつ気になっていたことを質問してみることにした。 「もしかして、理事長は気付いてらっしゃったのでは?」  開かずのロッカーの鍵交換の申し出の際、理事長の返事はいやに早く、現物を見もしないで保留という判断を下したのが気になったからだ。 わたくしの唐突な質問に理事長は一瞬面食らったような表情を見せたけれど、それはすぐに悪戯っぽい笑みにかき消された。 「さて、なんのことやら」  そう言われてしまってはこちらからは何も言うことはない。  にやにや笑いに対して貼り付けたような笑みで返し、わたくしは戸を引いた。 ◆ 「失礼しました」  戸を閉めて一礼し、一息つく。  窓の外を見ると景色が完全にオレンジ色に染められていて、ずいぶんと短くなった昼に秋の深まりを感じる。 「かのんさん」  廊下の窓際にもたれかかるようにしてかのんさんが佇んでいた。食堂の自販機で販売している紙パック飲料を両手にひとつづつ持ってわたくしに振って見せたあと、はにかむような笑みを見せた。 「終わった?」  中庭への道すがら、わたくしに苺ミルクのパックを手渡して、かのんさんはさっそくストローをアップルティーのパックに差し込んで口に咥えた。 「先に帰っていただいてもかまいませんのに」 「少しお話したかったから」 「それに、ドリンク代も……」 「いいよ、オゴリで。お喋りに誘うのに手ぶらっていうのもあれだし」  話しながら、中庭のベンチに並んで腰掛ける。膝の上に預かった木箱を置いて、わたくしも紙パックにストローを差し込んだ。吸い上げると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。 「Xの正体は花さんだったんだね」 「ええ、毎度お騒がせしてすみません」 「お騒がせだなんて、そんな」  わたくしと理事長の会話を聞いていたのか、それとも自力でそこまで辿り着いたのか、かのんさんはXの正体をいとも簡単に言い当てた。  それにつとめて冷静に返すと、かのんさんはほんの少し慌てたように取り繕う。 「気がついたのは最後の最後だったし」 「わたくしもです」  最後の南京錠の暗証番号、11月24日はわたくしの誕生日の日付だった。結ヶ丘という学校を舞台にしてこんな数字を最後のピースに使用するのなら、その人物はその日付になんらかの関連があったと考えるのが自然だ。  もしかして、誕生祝いだったのかも。それとも入学祝い、あるいはただの気まぐれか。Q.3からでなくQ.1から……いやもしかしたら発端となる何かから順番通りに解いていけば、なんらかの説明があって諸々の苦労はなかったのかもしれない。今となっては過ぎたことだし、考えるだけ詮無いことだけれども。  飲みかけの紙パックを脇に置き、木箱の蓋を開ける。中に入っていたのはリボンがひとつ。肌触りがなめらかで、好きな色をしたそれ。お母様とお揃いで持っていたお気に入りのもう片方。それ以外は手紙の類はおろか、何ひとつ入っていなかった。  じつに簡素で労力の割に合わない謎解きのご褒美。蓋が初めて開いた瞬間の夏美さんの落ち込みようが脳裏に思い出された。 「私、花さんってやっぱりすごいって思ったよ」 リボンを指先で撫でるわたくしに、かのんさんが語りかけてくる。 「学校を守りたいってだけじゃなくて、率先してまわりの人を楽しませて、巻き込んで。そのときの結果は残念だったけど、結ヶ丘として復活させて、私とみんなを出会わせてくれた」  もちろん、恋ちゃんとも。と笑う彼女がいやに眩しく見えて、目を細める。 「今日の謎解きも、解く人を楽しませようって気持ちが伝わってきた。なんでそんなことができるんだろう、って考えたとき、思ったんだ。誰かが幸せでいてくれることが、花さんの幸せだったって、一番やりたいことだったって」  顔を上げ、空を仰ぐかのんさん。  つられてわたくしも見上げると、夜の群青と夕日のオレンジが混ざり合い、綺麗な紫色のラインが空に引かれていた。 「うまく言えないけど、私もそうでありたいって、いつかそうなりたいって、思う」  目線だけを隣に向けると、かのんさんの瞳は真っ直ぐに空を見つめていて、きらきらとしていた。 「素敵なことです」  単純にそう思えた。なにより、母のことをそう言ってくれたのが嬉しく思った。  木箱に入ったリボンを撫でる。今やすっかりわたくしのトレードマークのようになったポニーテールだけれど、たまにはきな子さんや千砂都さんみたいに二房に分けてみるのもいいかもしれない。 「副会長、頑張るよ。私もこの学校を良くしていきたい。みんなをハッピーな気持ちにさせたい」 「はい、頼りにしています」  顔を見合わせて笑いあった。  42年、というのはまるで今から20年もあとの遠い未来のように思えるけれど、改元前の元号に合わせればほんの8年後だ。  8年後といえばわたくし達は二十代半ば。ちょうどやりたいこと、やりたかったことができているかどうかの判別がつく頃だ。  未来のことなんて今からじゃ何もわからないけれど、今この瞬間抱いた気持ちを忘れないでいたならば、きっと未来はよりよい方向へと進んでいくのだと、信じられる。その証拠に、つい一年前まで対立をしていた彼女とだって、今はこうして語らえているじゃないか。  夏から秋へと移り変わり、昼間の残暑を労うようにいくらか優しくなった風が頬を撫でる。日は暮れなずみ、最終下校時刻が近づいてきていたけれど、なんとなくもう少しこのまま話をしていたいと思った。  空を見上げるといつの間にそこに現れたのか、宵の明星がゆらゆらとまたたいていた。 了