泣き虫狼とほのぼのラッコ   逆井平介はどこに出しても恥ずかしくないほどの山育ちだ。  山道を駆け、畑に勤しみ、木々と共に暮らしてきた。だから、海に対しては人一倍の憧れがあった。    大学進学を機に上京してきた平介は、朝早くから電車を乗り継ぎ千葉の九十九里浜までやってきた。  時間が早いからか人影は少なく、この広い海を平介は独占することができた。誰にはばかることなく歓声を上げ、砂浜を走る。  波の動きを観察し、恐る恐る濡れないようにと海に近づいていく。そしてゆっくり手を水につけてみた。  春先の海はまだ冷たい。両手に海水を掬い、ぺろりと少しだけ舐めてみる。   「ほんてん塩っ辛えんだな、海って!」    はしゃぎながらも海岸線を歩いてみる。九十九里の名の通り、どこまで行っても砂浜と海だ。海風を遮る松の林さえはるか先に感じる。波打ち際はうっすらと残った水で空を映すような青が張り付いている。風は独特の匂いで平介の切りそろえられた髪も右へ左へ落ち着かない。水平線はどこまで平らなのかと海の奥を眺める。だんだんと波打ち際が近づいてきて、気づけば青い生き物がすぐそばの波打ち際に座り込んでいる。あまりに突然に現れたせいでとどまるべきか逃げるべきか、思考と反射が正面衝突して腰が引けた姿勢で固まってしまう。しかしこの生き物は、アザラシ……?  熊や猪ならともかく、海棲生物のことはわからない。 「か、噛まねよな……?」 「ぼくは噛まないよ。」 「そ、そうが……。ならいいんだ。」    千葉のアザラシは頭がいい。風のないほのぼのとした穏やかな海の中、アザラシはそのまま動かずに、それでも何やら楽し気な雰囲気だ。 「これ、すごくおもしろいよ。」  そういうとお尻のあたり、砂の動きを指さす。波の行き来に合わせて座り込んだ砂が削れていくのが楽しいらしい。  もぞもぞと、時々場所を移している。そうすると新しい気持ちで楽しめるのだそうだ。  興味がわく。冷たそうだなと入らずにいたが、せっかく来たのに入らずじまいでは面白くない。面白いことを平介もしたくなった。    ぽいっと靴も靴下も脱ぎ捨てて海に入る。ズボンの裾が少し濡れてしまったが、それもすぐに乾くだろう。気にせずにアザラシの横まで歩いていく。  ざあんと幾重にも重なる波の中に立つ。すると、波が引くのに合わせて足元の砂が削れていく。一歩も動いていないのに不思議と動いている感覚になる。  これは確かに楽しい。 「これ、楽すいな。」 「うん、おもしろいよ。」 「んだな、おもすろい。」  時々、このほのぼのとしたアザラシが位置をずらす。平介も時々一歩動く。  するとさっきまで削れてへこんだ砂はすぐに埋まっていく。その代わりに足元の砂を海が持っていくのだ。  ぼんやりとした何もない時間が過ぎ、遠くから声が聞こえてくる。海からだ。  今平介たちがいるのは、入り江の真ん中だ。左右は突き出した岩場とよく茂った木々に守られており、そのおかげか風も穏やかだ。  そんな入り江へと、繰り返しおーいと誰かを呼ぶ声が届く。 「あ、よんでるみたい。」 「そっか。おもすろいごど教えでけでどうも。」 「うん。それじゃあ、ばいばい。」  そういうとアザラシは立ち上がっててくてくと海へと進んでいく。  三度ほど、ぴたりと振り返ってさよならの挨拶を繰り返す。平介もそのたびに手を振り返す。  そうしてようやくアザラシの全身が海に包まれる。アザラシは器用にも仰向けになったままに沖へと泳いでいく。  その先には海から突き出た長い首。アザラシが何かを話しかけて、平介を指さしている。まるで子供が親に今日あったことを話しているようだ。  そして、ちゃぽんと水に潜って、それきりだった。    なんとなく平介はそのまま海を見ていたが、だんだんと潮が満ちていることに気づいて慌てて靴が濡れる前にと浜に戻る。  波をかぶる寸前だった靴を回収する。風は強く平介の髪をかき乱し、相変わらず果てのない波打ち際が続いている。  さっきまでは、確かに穏やかな入り江だったはずなのに。 「なんだべ、おれ、化がされだのがなぁ……?」  気が付けばあたりには楽し気に遊ぶ人の姿も増えている。  化かされたとはいえ、別に悪い時間ではなかった。いや、とても面白い時間だった。なら、それはいいことだったのだ。  ビーチボールが高く上がり、楽し気に歓声が響く。  おれもいつかはあんな風に友達とこの海に来よう。その時にはここであった不思議な出会いを話すのだ。    砂の入った靴を履きなおし、海を後にして歩き出す。──だが平介は知らなかった。最後まで気づくことはなかったのだ。あの不思議な生き物はアザラシではなくラッコであったことに……。  終わり