バディ4話 後編 6.全員集合  ようやくホーリーエンジェモンと合流した草太は、尽きることない口論をつづけながら自宅へと戻ってきていた。再会に尻尾を振り回し感涙に咽ぶテイルモンに出迎えられ、苦笑いである。鬱陶しそうに口元を引き結ぶホーリーエンジェモンとテイルモンの喜びっぷりに困惑する少女。なんともチグハグな4人だが、ようやく全戦力が揃ったというわけである。  とはいえうち二人はほぼ初対面。距離感を探り合うようなやり取りが始まる。 「あー、高間、こよりで合ってるよな?もう体は大丈夫なのか?」 「はい。えっと、た、助けてくれてありがとうございました!」  勢いよく頭が下げられる。 「お、おう。いや、別に感謝はいい。俺だけでやったわけではないしな。それに状況もあるからな。頭を上げてくれ。」  ちらりとテイルモンを見る。無事なのはいいが、まだこよりの立ち位置が分からない。対してテイルモンはうれしげに口を開く。 「ふふふ、草太さん、こよりは今私と契約しているんですよ。草太さんが戻ってくるまで私たちの助けになってくれていましたから。」  高間こよりはパンドラモンに目をつけられ、長い間支配され続けていた少女だ。捉われていた状況を草太は知らないが、パンドラモンへの恐怖があってもおかしくはない。それでも協力するというのならば、こよりは草太の考える以上に強い女の子だったのだろう。  ざっくりとした自己紹介が一段落したところでホーリーエンジェモンが動く。キッチンの脇にぶら下げてあるエプロンを草太へ投げつけてくる。 「いい加減腹が減った。何か作れ。」 「ホーリーエンジェモン!今はそれどころではないでしょう?」 「いや、俺も腹減っているし、どっちにしても話をしないといけないのは変わらないなら、食べながらにしよう。まあ大したもの作れないけどな。」 「そう言うことだ。ただし下手なものを作ろうものなら吊るしてやる。覚悟しておけ。」 「うるさいな、作ってやるんだから文句も一緒に飲み込んどけ。えーっと、シャケしかないな。後は目玉焼きと味噌汁でいいか。ああ、二人はそっちのソファでゆっくりしててくれ。」  そういうと手慣れた仕草でエプロンを纏い、食材と調理道具を用意していく。  ずっとパンドラモンを倒しに行くぞって言ってたくせに!と何やらご立腹なテイルモンも、こよりに宥められながらソファに向かう。ホーリーエンジェモンはいつもの通り、草太の手つきが見える位置に立っている。  ガチャガチャと鍋とフライパンを出しながら、ふっと笑いが込み上げる。街を覆い尽くすような力を持つ、パンドラモン相手にたった四人で挑む。3枚目感が漂ってきた猫型デジモンと、料理にうるさい馬鹿天使。病み上がりの少女とケガからようやく復帰した自分。なんとも締まらないメンツだ。もう少しまともなメンバーだったら格好もつくのだが、どうにもこうにもこのざまだ。 「何を笑っている。真面目に料理しろ。」 「うるさいな。黙って見てろ。」  なのに、不思議と負ける気はしない。  当然ながら勝負事には勝ち負けはつきものである。だが負けるために戦うものなどいない。どれだけ力の差があったとしても、わずかな綻びを見つけてこじ開けて、全力でぶち破る。自分はいつだってそうしてきた。一時は弱って投げ出しそうになってはいたが、もんざえモンとツノモンに出来るところまでやるとぶち上げたのだ。無様はさらせない。この自意識過剰な天使が見ているのならなおさらだ。 この鳥頭はいつだって悪意と戦う最前線に立つ。ならば草太も下がってなどいられないのだ。  熱したフライパンに卵を割り入れる。じゅぅうと耳に心地よい音が広がる。魚焼きグリルからはシャケのいい匂いがし始めている。昆布を入れた鍋が沸騰するのを待ちながら、思いついたことをそのまま口に出していく。 「……パンドラモンの出す靄って何なんだろうな。」 「何の話だ?」  ホーリーエンジェモンの返答に構わず続ける。人に話すというよりは、自分に向けて質問を投げかける。今まで抱えていた疑問に答えが出そうな予感に、頭がちりちりする。 「パンドラモンはお前ら天使連に負けて封印された。どんな戦いだった?ゾンビタトゥーはその時点であったんだろ?それでも天使連に負けた。なんでだ?」  いぶかし気なホーリーエンジェモンだが、その疑問にはこたえる。 「私は参加していないから詳細は知らん。だが、天使連のほぼ全員での包囲攻撃をかけたと聞いている。」 「そうです。私たちは邪悪な力には強い抵抗力がありますから、パンドラモンに使われているデジモンを一体一体浄化していきました。あの時は支配されていたのは完全体以上のデジモンばかりでしたから、私は足止めや援護の担当でしたが。当時はまだ私もホーリーエンジェモンも進化前でしたしね。主戦力は天使連の上位天使であるセラフィモン様たちですよ。草太さんも会ったんですよね?それでゾンビタトゥーに操られたデジモンたちを包囲しながら一体ずつ浄化していったんです。少しずつパンドラモンの戦力を削っていって、最後にセラフィモン様が直接パンドラモンを聖なる力によって封印した、という流れです。」 「それだ。その時にはもう黒い靄はあったのか?!」 「えっと、黒い靄ですよね、あの時は……。なかった。ええ、ありませんでした。あの靄はリアルワールドに現れてからのものです。」 「やっぱりか。なら可能性はあるか?」  再び考え込み始めた草太だが、突然頭をはたかれる。キッチンに入り込んだホーリーエンジェモンの翼がバサリと音を立てる。いきなりの衝撃に目を白黒させていると、出来の悪い生徒を相手にするようにホーリーエンジェモンが口を開く。 「貴様だけでわかったふりをするのはやめろ。情報を共有しろ。自分で言ったことも忘れたか?第一、火を扱うときは集中しろ、馬鹿者め。」  正論の二段打ちだ。そういえば前にそんなことも言ったか。確かにその通りだ。料理の最中によそごともよくない。頭をはたかれたことは腹が立つが、そうされても仕方ない。ここからの話は込み入ってくるし長くもなる。草太だけでは判断がつかない部分にはデジモンである二人の意見もいる。ならば、まずは料理に集中すべきだ。 「作り終わったら話す。それでいいな?」 ***  艶々に炊かれたご飯と昆布と鰹節から出汁をとったお味噌汁。味噌の香りが湯気に乗って食卓に広がる。主菜は焼きジャケと目玉焼き。草太の好みでやや硬めの焼き加減。  野菜はないが、味噌汁にわかめを入れているからよしとする。卓上には醤油と胡椒、ケチャップも出してある。草太は目玉焼きには醤油だ。ホーリーエンジェモンは胡椒。テイルモンがケチャップだ。なんとなくこよりに視線が集中する。わぁと嬉しげなこよりは視線に気づかず、胡椒を振りかけてそのままパクリと食べ始める。胡椒かぁ、と微妙な顔をするものあり、分かっているじゃないかと得意げなものあり、三者三様の反応である。渦中の少女は全く気にしていなかったが。  食事自体はそこそこホーリーエンジェモンも満足するものだった。しかし状況が悪い。食事もそこそこに、パンドラモン対策の会議を始める。  ダイニングテーブルから今のソファに場所を移し、中断していた会話を始める。 「説明する前にもう一つ確認させてくれ。天使連とやり合った時のパンドラモンの戦力はどのくらいいたんだ? 完全体以上で構成されていたってことだけど、数はどのくらいだった?それと天使連の方もどのくらいいたか教えてくれ。」 「そうですね……、パンドラモン側の正確な数は把握してはいないのですが、20はいなかったはずです。完全体以上は数がすごく多いというわけではありませんから。天使連側は100以上はいましたね。ただ完全体以上は10程度です。」 「なるほどな……思ったより完全体ってのは少ないんだな。俺の考えたことを話す。まず、あの黒い靄はテイルモンが言ったとおり、パンドラモンが封印後に作り出したものだとする。じゃあなんで靄なんてものを作ったのか。タトゥーだけでも究極体まで操れるのに、わざわざ作ったってことになるからな。」  息を整える。最近長々と話すことが多い気がする。なんとなく試合前のミーティングを思い出す。笑える状況ではないが、何かに挑むために知恵を練るというのは高揚するものがある。 「ゾンビタトゥーはデジモンを操るためのもので、パンドラモンの手足のように恐怖を煽ったりするのに使われていた。だがそれだけでは天使連に勝てなかった。力の相性がよくないってのもあったろうけど、各個撃破で対応できる程度しか数いなかったのが原因だ。単独で強いのがいたって数に押し負けるのは当たり前だ。だから数を増やすために黒い靄を作った。より効率的に多くのデジモンを支配するために。強いやつの数が少なくっても、数がいれば取れる選択肢は多いからな。要は天使連のやり方を真似たんだ。」 「……黒い靄が雑魚を操るものだというのはいい。だが肝心の話が進んでいないぞ。さっさと結論を言え。推理ショーをやりたいなら家で壁にでも話しておけ。」 「うるさいな、いきなり結論を言ってもお前のトリ頭じゃ理解できないだろうから説明してやってるんだろうが。余計なちゃちゃしか入れられないんならせめて黙ってろよ。」 「ちょっとやめてください!なんでこんな時に喧嘩を始めるんですか!少しは状況考えて仲良くできないんですか?!」  確かに言い争う状況ではなかった。チラリとホーリーエンジェモンを見る。同じタイミングでこちらを見ていたのか目が合ってしまう。思わず出た舌打ちが重なる。 「本当に仲悪いんですね……。あんなに息ぴったりに戦ってたのに。」 「そうなんですよ! 初めて会った時から口を開くと貶し言葉に罵詈雑言で全然仲良くしないんですよ、この二人は!」  ついいつも通りにしていたが、今は四人目がいた。流石に年下の女の子に目を丸くされるのは居心地が悪い。 「……続けるぞ。黒い靄は天使連との戦いで学習して作られたものなんだろ。なら、今街を覆っている白い靄はなんなのかって話だ。何をモデルにして作られたのか、何のためにわざわざ作られたものなのか。パンドラモンは強い相手の戦い方を真似することができる。もう分かるだろ? あの白い靄のモデルは俺とホーリーエンジェモンの契約──パスをモデルにしてる。」 「災いなどと大袈裟に言っても、結局は猿マネか。」 「ああ。お前もいつか言ってたな、やつに大層な頭があるのかってな。その意見だけには同意だ。」 「ま、待ってください。草太さんたちの契約とパンドラモンの靄が同じ?? そんなわけがありません!! パンドラモンが私たちと同じ力を使えるなんてこと、あり得るはずがありません!!」  流石に自分達と同じ力だと言われれば反発もするか。テイルモンが動揺するのもわかる。だが、草太としてはほとんど確信している。 「本質は同じだ。私たちの場合は不可視のパスで人とデジモンを繋ぐ。パンドラモンは人と自分を白い靄で繋ぐ。通すのが光か苦しみか、その程度の違いだ。」 「ここじゃ俺とホーリーエンジェモンに散々やられてるからな。それを真似るのはおかしな話じゃない。信頼関係なんていらないから、知らない人間と片っ端から繋いでも問題がない。契約がなくていいならパスも似たようなことできるだろ。」  ぐっ、とテイルモンが言葉に詰まる。別に真似られただけなのだからそこまで動揺する必要はないと思うのだが。まあ潔癖気味なのがテイルモンだ。高間こよりがその背中を撫でて落ち着かせようとしている。ならほっといても良さそうだ。 「まあ、パンドラモンの災いは、パスとはちょっと違うところもある。白い靄をわざわざ見えるようにしているのは、見える人間に不安を与えるためだろうな。視界を悪くするってのもあるかもしれない。」 「だが、大した意味がない。飢餓を無理矢理付与する以上、不安を煽ろうが結果に差はない。どうせ不安など考えている余裕はないのだからな」 「ああ。それに白い靄も別に全く見えないほど濃くはできないみたいだしな。結局無駄が多いんだ。俺たちからすれば白い靄で被害状況が明らかだし、避難もさせやすい。しかもその中心に奴がいることも丸わかりだ。形だけ真似ていい所どりしようとするから、そういう無駄ができる。さしづめ、契約は手をかけられた料理で、白い靄は具材をつぶしてくっつけただけの塊だな。同じ材料であっても味には雲泥の差があるってわけだ。」 「はん、貴様が料理を語るか。デジタルワールドで悪いものでも食べたようだな。」  馬鹿にした目で草太を見るホーリーエンジェモンに、不敵な笑みを返す。 「デジタルワールドってのも美味いものがたくさんあるんだな。俺はおもちゃのまちで炭火で焼かれたデジマスを食ったなぁ。バーベキューもしたし、途中の街じゃうまいカレーもあった。ヘビーイチゴも旬だったみたいだし、雪割キノコの炒めたのはかなり気に入ったな。」  指折り数えて美味しかった食事をあげていく。中にはホーリーエンジェモンの琴線に触れたものがあったらしい。ごくりとのどを鳴らす音が聞こえた。これは愉快だ。さっきはたかれたのも許してやることにする。それが気に食わなかったのか、苛立ち混じりの声で問題点が挙げられる。 「やつの力が私たちの劣化だとしても、問題はある。ゾンビタトゥーはパンドラモンを封印したところで消えないということだ。同様に白い靄が媒体になっている飢餓は、やつを封印しても消えまい。今苦しんでいる人間を癒す術がない。私の力でさえ消すことが出来んのだからな。」 「わかってる。お前の力でどうにもならないのは、飢餓が本能っていう人の本質に近い部分にまで入り込んでいるからだ。雑草を刈っても根は残る、それと一緒だ。人の心の深いところにまで根を伸ばして、腹が減ったっていう嘘の信号を流す。さらに、実際に食べた時の感覚を遮断している。だからいつまでも腹が減り続けるし、食べても効果がない。」  人とデジモンでは体のつくりが違う。いかなるデジモンにも刻むことのできたゾンビタトゥーは、人に刻まれることはなかった。それは両者の体の成り立ちが決定的に違うからだろう。飢える苦しみは人であろうとなかろうと等しく同じものだが、そのメカニズムが違う。おそらく、パンドラモンは、少女を支配する中で人の仕組みを知ったのだ。人に特化した災いであるから、デジモンには効くことはないのだ。 「町中に運びる白い靄は、人を飢餓に落とすための武器であり、苦しみを増幅させるためのネットワークでもある。俺たちの使う共振励起と同じで、苦しみっていう一つの感覚を増幅している。そうやって膨れ上がった負の感情を啜っているんだ。」  人の心のうちに入り込み、苦しみを与えるものでありながら、人の心に守られる。なんと悪質なウイルスか。しかし、だからこそとれる方法がある。 「ならばどうやってやつの飢餓を払う?」 「決まってるだろ。食事だ。うまいものを食べること。食事の喜びを伝えてやればいい。」 だからその方法を言えといら立つホーリーエンジェモン。ここからが重要なところだから、草太としては区切っただけなのだが、もったいぶっているように思ったようだ。 「いいから聞け。まず、パンドラモンの白い靄は、元は天使のパスと同じものだ。劣化とはいえコピーしたわけだからな。同じであるなら、俺たちにも使うことが出来るはずだ。直接食べても効果がないなら、食べたって事実を直接伝えればいい。俺が何か食べた時の味とか満足感を、白い靄が作ったネットワークで伝えてやるんだ。靄を通して人に飢餓を与えているなら、靄を通して満腹感を与えることもできるはずだろ。無理矢理空腹と思い込ませていたところに、うまいものの情報と満足感を流し込む。飢えと満腹感、どっちが勝つかなんて言うまでもないな。腹減ってりゃなんだってうまいし、たらふく食べた後の満足感ほど幸せな感覚はない。」  元はエリートサッカー少年だ。空腹後の食事が齎す満足と幸福感の大きさはよく知っている。ニヤリと口角を上げて、横目でホーリーエンジェモンに問いかける。 「なあ、苦しみを食って力にするパンドラモンは、満腹の幸福感をどう受け止めるんだろうな?」 「くくく、それはそれは忘れられない体験になるだろうさ。」  控えめに言って邪悪そのものの笑顔がホーリーエンジェモンの口元に浮かぶ。悪だくみに目を輝かせる草太の口元も大いにゆがんでいる。さっとこよりの目を覆う外させるテイルモン。うっかりトラウマになりかねない光景である。聖なる力を宿す大天使とその契約者なのだ、もう少し見た目にも気をつけてほしいものだとため息をつくテイルモンである。  と、目隠しされたままでこよりが質問をする。 「あの、靄を使うのはわかったんですけど、どんな風に靄を使うんですか?」 「ああ、方法な。まず、俺がパンドラモンの白い靄を受ける。そうすればパンドラモンを介してこの街の人すべてと接続されることになる。当然飢餓が俺に来るはずだけど、俺にはホーリーエンジェモンの力が貯められているから、初めの衝撃さえ耐え抜けば、飢餓の力を破壊できるはずだ。そしたら、靄のネットワークを使って飯を食べている感覚を全体に伝える。パスと同じなら、俺の感覚は光に乗せて伝えられる。だから飢餓を与える能力を破壊しつつ、同時に味を伝えることができる。」 「……それは、長峰さんがすごく大変なんじゃないですか?もし靄が考えてたのと違ってたら……。」 「その時は別の方法を考えるさ。この作戦はネットとかで言うハッキングってやつだからな。パンドラモンの力を利用する以上、逆にやられる可能性だってある。だから気づかれる前に白い靄のネットワーク全体に光を届ける。そうやってパンドラモンの力の源を光で焼き尽くす。」 「ええっと、そういうのはハッキングというよりクラッキングに近いような……?」 「まあどっちでもいいさ。それよりホーリーエンジェモン。この作戦はパンドラモンに気が付かれたら終わりだ。もし気づかれて靄のネットワークを遮断されたら、一人でも助けられなかったら俺たちの負けなんだからな。出来る限りパンドラモンの気を引け。周りのことに目が向かないくらいにだ。……お前なら、出来るだろ?」  草太が最後に放った一言は、ホーリーエンジェモンにとって確かな意味を持つ。今となっては究極体を遥かに超えた力を持つパンドラモンを相手に時間稼ぎをできるデジモンがどれだけいるだろうか。その難しさを知らないわけがない。だがそれでも、ホーリーエンジェモンなら出来るだろうと、そう言ったのだ。 「──いいだろう。ならば貴様もこの街を、苦しむものを救って見せろ。貴様はこの私の契約者であるのだからな。」  初めて、この傲慢な天使と正面から向き合ったような気がする。  ここまでいろいろと話しておきながらも、目線は一度も合わせていない。それはへそまがりでいじっぱりな二人の、最後の矜持であった。  両手で口を覆い身を震わせるテイルモンに一発拳骨をみまいながら、ホーリーエンジェモンが懐を探る。 「おい草太。」  ホーリーエンジェモンが草太に向けて手を出している。訝しげにしつつ草太も手を出す。手渡しとは珍しい。そう思いながら手のひらに乗せられたものを見る。  それは1つの果実だった。見た目はリンゴに似ているが、ずっしりと重い。手のひらを介して伝わる感触は張りがありつつも柔らかく、みずみずしさを感じさせる。 「これは?」 「ケレスモンがおいていったカルポスヒューレだ。貴様に礼だとな。それを使え。デジタルワールド最高の水菓子だ。貴様の未熟な料理を伝えるよりは遥かにマシだろう。」 「カルポ?……そうか。ありがたく食べさせてもらう。悪いな、ホーリーエンジェモン。俺ばっかりうまいもの食って。」 「そう思うならもっと料理の腕を磨くんだな。」  それなりに出来るようになってはいても、すぐにうまいものを作れるようになるわけではない。なかなか難しいことをいうやつだ。が、ふと思いついて言う。 「なあ、たまにはお前が飯作れよ。こないだ父さんのバーベキューセット見つけたからな、多少の料理なら外でできる。キッチンじゃ狭くても、庭でならお前も動けるだろ。お前が口だけのエアプ野郎なのかを確かめてやるよ。」 「貴様は頭の芯までアホなのだな。人にものを頼むときは額を地につけろ。まあいいだろう、私の研ぎ澄まされた調理を、料理の神髄を見せてやろう。」 「あの!それ私もご一緒していいですか?」 「もちろんいいですよ、こより。パンドラモンを無事倒したらみんなで打ち上げをしますからね。何かリクエストはありますか?」 「おいテイルモン。勝手な安請け合いをするな。私は旬のものしか使わんからな。ものによっては作らんぞ。」  おそらくパンドラモンを倒すことができるのはこれが最後の機会だ。白い靄がこの街から溢れ出れば、この作戦はうまくいかない。どれだけこのカルポ──果実が衝撃的な美味しさだったとしても、伝えるための光──ホーリーエンジェモンとの共振が生み出す力の総量には限界がある。ただ一人であっても光が届かなければ、パンドラモンはその一人を起点に白い靄を作り替えていくだろう。そうなれば草太たちにもう打つ手はない。パンドラモンの不死性を保証する白い靄を処理しない限りは、たとえセラフィモン以上の強さを持つデジモンが現れたとしても勝ち目はない。それこそ人が一人もいなくならない限りは無限に力が供給され続けるのだから。  だから、このタイミングで叩く。何とも間の抜けた表現だが、おいしいものを食べるという、喜びの光でパンドラモンを焼き尽くすのだ。 ***  街の状況は相変わらず。人の気配どころか、鳥の鳴き声さえしない。異様な雰囲気に街へと近寄るものさえいない。ただの地方都市であっても、1万人以上が突然活動を停止しているのだ、問題にならないわけがない。テレビをつけるとワイドショーで謎の音信不通だとか、疫病なのではとか好き勝手に言っている。実際白い靄に触れれば飢えで身動きが取れなくなるのだ。初めのうちは取材に来ていたマスコミだとか物好きな野次馬も、目に見えてわかる以上に近づくことも無くなったらしい。 *** 7. 決戦  作戦会議で各々の役割分担を確認した四人は、いよいよ決戦と草太の家を出る。夕暮れに4つの影が伸びる。正真正銘最後の戦いになる。地上は、特に黒い靄の塔付近はゾンビタトゥーに染まったデジモンたちが巡回し続けていて、とてもではないがまともに進むことはできない。草太はホーリーエンジェモンの金布に掴まり、街を飛び越えて一気にパンドラモンの元へと向かう。  黒い靄で形成された塔の頂上に、パンドラモンがいる。塔のいたるところに白い靄が接続されており、人々の苦しみを吸い上げている。塔からはパンドラモンへ直結する黒い靄が伸びる。まずはパンドラモンをあの黒い塔から引き離さなければならない。少しでも白い靄のハッキングを優位に進めるために。    草太とホーリーエンジェモン、そしてパンドラモンが相見える。それぞれでの戦いはあれど、草太とホーリーエンジェモンが揃っての戦いはこれが初めてである。街一つを沈めて一段と力を増したパンドラモン。両手に収まる程度の大きさでありながら、これまでのどのデジモンより強い圧がある。遅れて到着したエンジェウーモンとこよりが気圧されて身を硬くする。ゾウとアリ、鯨と鰯。比べるのも烏滸がましいほどの存在の差がある。  だが、それでもなお、草太は普段のペースを貫く。ホーリーエンジェモンの金布に掴まったまま、塔とパンドラモンを珍しげに見下ろしている。ホーリーエンジェモンも先日の敗戦の屈辱をおくびにも出ず、悪態をつく。 「でかい塔の割には、安っぽい上にセンスがないな。」 「言ってやるな、ホーリーエンジェモン。パンドラモンにそういうセンスがないのは見て分かるだろ。いや、うーん、こりゃひどいな。黒くすりゃいいってモンじゃないだろうに。」  二人ののんきさにエンジェウーモンも呆れている。 「草太さん? あまり挑発しすぎるのもどうかと……。」 「ん? あれ、お前もしかしてテイルモンか?」 「そうです! テイルモンですから、パンドラモンを!」  草太は今までテイルモンが進化したところを見ていない。今回も先行して飛び出したものだから進化シーンを見逃している。テイルモンが時折いう、元々天使という言葉をかなり疑っていたものだから、先ほどまでの戦意を忘れて驚きが顔に出ている。  そんな気の抜けたやり取りを前にしても、パンドラモンは動くことなく草太を見ている。自身の災いのことごとくを退けた人間。どこかも分からぬ亜空間に飛ばされたはずの人間が戻ってきている。  かつて支配した少女──女天使に抱えられている──とは比べ物にならない意思の強さを感じる。忌々しい天使どもも、格付けは済んだはずだが何故か自信を取り戻している。これもあの人間の仕業だろう。  人を苦しめ続けてきた。デジモンを支配し続けてきた。だからパンドラモンと敵対したものは、皆激しい敵意を向けてきた。天使であっても例外はなく、ホーリーエンジェモンも、セラフィモンであってもそれは同じだった。だが、この人間の目にはそれがない。パンドラモンを見ているようで、何か別のものを見ている。確かに戦意はあれども、戦いに添えられる負の感情がない。  草太としては、当然パンドラモンへの怒りはある。だが、それは置いておくべきものなのだ。サッカーの試合に怒りなど持ち込んだところでパフォーマンスは落ちるだけだ。そして監督の雷も落ちる。いいことなど何もない。勝つために、余計なものは持ち込まない。  パンドラモンとの戦いは、この街やこの世界の存続すら左右するような戦いである。だからこそ、怒りなどという感情は無用だ。草太からすればただそれだけのことだ。  その、ただそれだけのことがパンドラモンにはわからない。自らを正面から見据えるその瞳が、その視線がパンドラモンに突き刺さる。理解できないからこそ、わかりたくなる。パンドラモンの限りない欲望が、初めて食以外へと向かう。 ──ただ、その光が欲しいと思ったのだ。  欲望に従い瞬時に生み出された黒い靄の腕が草太へ向かって伸びる。  膨れ上がるその腕は、草太の身の丈ほどの手のひらを開き、捕らえようとする。人に避けられるような速度ではない。だが、握りしめた手のひらには何もない。  金布を草太ごと持ち上げて攻撃を避けさせたホーリーエンジェモン。憮然とする草太。 「犬猫みたいに持ち上げられるのもなんか腹が立つな。バリアとかそういうので防ぐとかにしろよ。」 「犬猫の方がまだ分を弁えているぞ。助かっただけありがたいと思うのだな。」  そして、眼下のパンドラモンへ嘲りの声を投げつける。 「ああ、こいつが欲しいのか? 大した価値のある人間ではないがな、貴様にくれてやるほど安くはない。人の苦悩も喜びも、貴様にはもったいない。そこらの雑草で満足しておけ。」  とことんまでパンドラモンを見下しバカにしていく。  怒りに駆られて爆発的にあふれ出した黒い腕が蛇のように絡み合いながらホーリーエンジェモンと草太へ飛びかかってくる。4対の翼を駆使して腕を避け続ける二人だが、網のように広がった腕──黒い靄から逃れる術はない。  しかしすでに二人は全開である。青から黄金の輝きへと瞬時に切り替わった聖剣が邪な黒い腕のことごとくを断ち切る。ヘブンズナックルを正面から防ぐほどの黒い靄であっても、共振励起で高められた光の聖剣の前には、太陽に散らされるか細い朝霧に等しい。  そして一気に上空高くまで飛び上がる二人を追うように、パンドラモンも靄を広げて上昇してくる。靄がまるで悪意の翼のようでもある。   「こより、私たちは、ゾンビタトゥーに操られたデジモンたちをやりますよ。準備はいいですね?」 「うん。やろう、エンジェウーモン!」  そのままエンジェウーモンは塔を取り囲むデジモンの群れに攻撃を加えていく。 ホーリーアローが黒く染まったデジモンたちを一匹ずつ撃ち抜いていく。射抜かれたデジモンは浄化され、元の体色を取り戻していく。しかし、パンドラモンが呼び出したデジモンの数は並大抵ではない。塔の元へと街中から集まってくるデジモンたちは、黒い津波のようにエンジェウーモンを追い詰めていく。できる限りデジモンたちを一箇所に集めること。それが二人の役割だ。ゾンビタトゥーは自然に治らない以上、この世界に一体でも残しておくことはできない。そのため、エンジェウーモンが囮となってデジモンを惹きつけ、ホーリーエンジェモンの全力で一気に浄化する。それが第一の作戦であった。  上空でドッグファイトを繰り広げながら、草太は状況を把握している。金布へ体重をかけ、ホーリーエンジェモンの飛行軌道を無理矢理変更する。  飛行中だと大声でなければ言葉は届かない。そうするとパンドラモンにこちらの行動を伝えることになる。だが、軌道を変えた理由は見れば伝わる。状況がわかれば意図が伝わる。  激しい機動が一転、直下降で二人の元へと降り立つ。 「エクスキャリバー承認! 全力で振りぬけ!!」 「頭を下げろエンジェウーモン!」  飛び込んだ力の余波でエンジェウーモンに飛びかかっていたデジモンが吹き飛んでいく。無理矢理こじ開けた空間から、聖剣が振るわれる。落下した勢いをそのままに、聖剣の軌跡が円を描く。逞しい肉体が体幹を軸として360度回転する。  周囲のデジモンがエクスキャリバーの剣風に切り裂かれ、その身に刻まれたタトゥーを瞬時に焼き尽くす。  吹き飛ばされたデジモンたちが浄化され横たわる中、パンドラモンだけが上空に浮かんでいる。灰色の雲が空を覆い隠し、黒い靄がまるで宙に空いた穴のようだ。ホーリーエンジェモンとの激しい空中戦にも傷一つなく、聖剣の輝きにも何の感動も示さない。ただ、二人を見ている。  一つの街を丸々絶望に沈め、生まれた負の感情を際限なく取り込み続けている。すでにホーリーエンジェモンなど歯牙にかけぬほどの力を備え、共振した全開のホーリーエンジェモン相手に圧倒的な実力の差を見せた。それでも、この二人を捉えきれない。  ***    空に佇み動かなくなったパンドラモンを地上から草太が観察する。  痛み、憎しみ、苦しみ、嘆き、嫉妬、怒り。世に生を受けた生き物が、生きるために避けられないもの。それを啜り力となすパンドラモンならば、無限に力を増していくことになる。  ──ならば、嬉しさ、心地よさ、楽しさ、友情、愛。この世を華やかに照らす喜びの感情ならば、どうなるのか。  草太もパンドラの箱の寓話を聞いたことがある。苦しみの詰まった箱を開いたせいで、世界は苦しみにあふれたのだという。だが、最後に残った希望があったと。巻き散らかされるほどに詰め込まれていた苦しみに対して、箱に残る程度の希望じゃどうしようもないなと思ったのを覚えている。  ──今、希望はあるか。    ただの地方都市。そのすべての住民が助けを求めている。消えることのない飢えが身体を蝕む。苦しみに心が蝕まれている。  近所に住む穏やかなおじさん。毎日道を掃き清めてくれるおばあさん。少しずつ名前を覚え始めたクラスメイト。まだ名も知らぬ人々。誰もが苦しみにうずくまっている。届くことのない、弱々しくか細い声が、ホーリーエンジェモンのパスを通して草太にも聞こえている。どこを向いてもあるのは絶望だ。悲しみが靄に乗って幾重にも広がっていく。  ならば、それを助けよう。邪悪な願いで歪められた人の本能を、あるべき形へと戻してやる。希望がないのなら、希望を作り出す。草太たち四人が、希望となればいい。それだけの話だ。 「じゃ、俺も準備にかかる。パンドラモンの相手は任せた。」 「ハッ、いつものことだろうが!」  ホーリーエンジェモンが光を纏い、パンドラモンへと切り掛かっていく。 ***  パンドラモンには理解できない。  自らを満たすためにパンドラモンはある。そのように生まれ、そうやって生きてきた。喜びも嬉しさも、悲しみも嘆きも何一つとして分かち合うことはない。  喜びはノイズで、悲しみは心満たす供物。それがパンドラモンであり、世界のバグが生み出した化け物だ。  人のため、弱いものを守ろうと剣を振るうホーリーエンジェモンを理解できない。少しこづかれるだけで死んでしまうようなひ弱な人間が、どうしてパンドラモンへと立ち向かってくるのか。全てがパンドラモンの理外にある。 8.光を示す  ホーリーエンジェモンから離れ、地上で草太がエンジェウーモンとこよりの二人と合流する。ここからが本番だ。これから草太は白い靄を、飢餓を自ら受け入れることになる。1万人以上の人間が共振し合う苦しみがどれほどのものかは想像もつかない。  意識をどれだけ保つことができるか、それが勝負だ。最悪の場合、こよりが無理矢理にでも草太の口にカルポスヒューレを突っ込むことになる。  エンジェウーモンは草太とこよりの護衛だ。全てのデジモンを浄化しきれたとは限らない。作戦の要となる草太を守り切る必要がある。  静かに深呼吸を繰り返す。鼓動が落ち着いてくる。できなければ全滅。ならばやるしかないのだ。星も見えない曇天の夜空にはパンドラモンと切り結ぶホーリーエンジェモンがいる。聖剣の光が瞬き、黒い影が跋扈する。今でさえ押されているというのに、これから更なる苦難が天使を待っている。  白い靄を草太が取り込むためには、ホーリーエンジェモンの力を一度完全に遮断する必要があるからだ。草太やこよりを飢餓から守り続けた聖なる力を、完全に閉ざさなけばならない。 それはホーリーエンジェモンへの力の供給も完全に閉ざされることを意味する。共振励起によってかろうじて渡り合えている状況だというのに、力の増幅がなくなればどうなるかは日を見るより明らかだ。  それでもホーリーエンジェモンは、何一つ文句をいうことなく、やると言った。普段あれだけ不平不満を撒き散らかしていると言うのに、肝心な時には決して弱さを見せることはない。  一気に息を吸い込む。体に蓄えられて溢れる聖なる力を、意識して遮断する。  体の守りが消え、白い靄が猛烈な勢いで草太の中へと入り込んでくる。カッと腹が焼けるような感覚を最後に、膝から崩れ落ちる。 「長峰さんッ!」  慌てて草太を支えるこより。しかしその声は草太へ届かない。延々と共振を続ける苦しみが、激しい飢餓が草太を深い闇に引きずり込んでいく。 草太の肉体が悲鳴をあげる。何日もまともに食べられていないのだと、白い靄に騙された脳が空腹を訴える。人々の苦悶の声が、草太に絡みつくように響く。ただ、食べるものが欲しい。何者にも変え難い、生物としての本能が暴れだす。飢餓がもたらす苦しみは絶えることなく、肉体を、心を、蝕んでいく。  これがパンドラモンの悪意。飢餓に苦しむ人々の嘆きが、苦しみが、無理矢理接続された白い靄によって増幅されている。誰もが膝を折り、空腹にあえぐ苦しみが、共振し続ける飢餓が草太の意識を吹き飛ばそうとする。  "バサリ"と翼を打つ音が、かすかに耳に届く。  自分の体が今どうなっているのかも分からない。空腹で頭が痺れたように働かない。だが、その音は確かに聞こえたのだ。大して長い付き合いではない。性格も行動も何一つ気が合うものがない。こんな状況でなければ言葉を交わすことすらない、正真正銘別世界の住民。  だが、草太がその羽音を聞き逃すことはない。どれだけ嫌な存在であっても、そいつは草太にとっての唯一なのだ。ただ一つ、草太が憧れた光だ。だから草太には意地がある。だからこそ、他の誰よりも弱みを見せるわけにはいかないのだ。  ──ホーリーエンジェモンはまだ戦っているのだから!  腹が減ったからなんだというのか。膝をやってしまった時の痛みだって、そのあとの絶望感だって、自分は知っているのだ。この程度のことで屈するようでは、あきれるほど高慢な天使の隣に立つことはできない。そんな弱い姿を見せることだけは、絶対に御免だった。  震えそうになる手に、必死に力を込める。崩れそうになる膝に鞭を入れるように足を支える。腹が減りすぎて逆に吐き気さえしてくる。それでも、腹に力を入れて笑う。パンドラモンの飢餓など大したものではないと、虚勢を張る。  不安の表情で草太を見つめるこよりにも気が付かない。かすかな力を振り絞る。奴が、自分を待っている。必ず戻ると、そう信じているのだ。だから、それ以外のことはいらないことだ。ただ一人のために、残る全ての力を振り絞る。  再び、草太に蓄えられていた聖なる光を解き放たれる。自らの身のうちに深く根を張った白い靄が、光に焼き尽くされる。白い靄に接続されたまま、草太が、再び立ち上がり叫ぶ。 「ホーリーエンジェモン、待たせた!!後は、好きにやれ……!!」  草太が飢餓に苦しんだのはわずかな時間だったろう。それでも草太はほとんど瀕死だし、ホーリーエンジェモンは全身がボロボロにやられている。  そんな仕打ちを、この街の人々は受けつづけていたのだ。今も苦しんでいる。それが許せるだろうか。許せるはずがない!  ブワッと光と風が吹き荒れる。パンドラモンの攻撃を凌ぎ続けて傷ついた身体が、力を取り戻す。 「好きにやれ? あの阿呆は何を言っている? 貴様に言われるまでもない! ここからは私の時間だ!!」  全身に満ち満ちる力が、ホーリーエンジェモンを高揚させる。そして高く響く笑い声。不遜なまでに笑う声が、夜空の元にどこまでも広がっていく。  草太からすればこの高笑いはただの阿呆の鳴き声に過ぎない。  だが、この街の人々にとっては違う。これまでこの街がデジモン、ひいてはパンドラモンによって受けた被害は相当なものである。直接的にデジモンに傷つけられた人、デジモンによって破壊された家屋やビルに住んでいる人々。  それらすべての災いを、このホーリーエンジェモンが祓ってきたのだ。  どこであろうと、誰であろうと、弱きものを守り続けてきた。ホーリーエンジェモンが現れたのなら、もうそれ以上傷つく人はいないのだ。だからホーリーエンジェモンの到来を告げる笑い声は、街の人にとって自分たちを救いに来る天使の福音なのだ。  草太はエクスキャリバーを振るうのが楽しくて仕方ないから笑っているだけだと思っているし、大部分はその通りである。  しかし何も知らない人々からすれば、見るからに神聖な天使が、人を安心させるように笑っているように見える。事実がそれを後押しする。正真正銘ホーリーエンジェモンはこの街を守り続けてきた。守り抜いてきた守護天使である。  この高笑いこそが、作戦の要だった。草太の作戦はパンドラモンの靄をいわばハッキング、正確にはクラッキングすることだ。草太の感じるカルポスヒューレの味を届け、飢餓を焼き尽くすこと。  だが、おびただしい苦しみと助けを求める声であふれる中、それを届けるのは困難極まる。苦しみに心が捉われている人に、かすかな光など届かないからだ。  ──だが、ホーリーエンジェモンの声は必ず届く。  今までの実績が証明している。草太が口に出すことは絶対にないが、ホーリーエンジェモンはまぎれもなくこの街の希望である。だから、苦しみに喘ぐ人々は誰よりこの天使に救いを求める。  この街の人々は、あの高笑いに希望を覚えないはずがないのだ。たとえわずかな時間にしかすぎなくても、その声は確かに飢餓を忘れさせる力を持つ。  白い靄を通して、草太が聞いたこの高笑いを街の人々に届ける。それはなんの力もない、ただの声だ。  パンドラモンがこの声の意味を理解することは、ない。この声がどれほど人に救いをもたらすのかを、決して理解できないのだ。  指ひとつ動かせないほどの飢えに横たわるサラリーマンが、その笑い声を耳にする。成長期すら訪れていない幼い子供に、その声が届く。その手を握る女性は、その声の持ち主を知っている。いつも騒がしく井戸端会議を開く近所の主婦にも、かつて信号無視を詰められたタクシードライバーにも、ただ一度でもかの天使を知った人の全てに、たとえ知らない人であっても、その自信に満ちた笑い声が、その心に響く。  どれほど耐え難い飢えであっても、全ての感情を止めることはできない。深い絶望にあるからこそ、希望はより強く輝くことだってある。  ホーリーエンジェモンのその声が、わずかな希望を生み出す。その希望が、わずかでも空腹を忘れさせたその一瞬が、最初で最後のチャンスだ。その瞬間をとらえ、これからの声を届ける。 「いただきます、だ。」  いつもの青いパーカーのポケットから、カルポスヒューレ──デジタルワールド随一のスイーツだ──を取り出す。高らかな笑い声にいら立つパンドラモンは、草太の行動を気にも留めず、少しずつ雲が薄れていく夜空を背景に、ひたすらに天使を追い回している。  その果実は、デジタルワールドの生み出した至高の一品。かぐわしき香りに理性が飛びそうだ。柔らかで張りのある皮をむくこともなく、一気にかじりつく。  かぶりついたその先から舌がとろけるような甘い蜜があふれ出る。脳がしびれるほどの甘みが口内を彩る。突き抜ける香りは上品ながらも甘みに負けない強さがある。シャクシャクと食感のいい果肉に、耳までもが心地よさを感じる。  ただの一口。ただそれだけで、それまでの苦しみが吹き飛ばされる。わずかな時間ではあったが、草太は何もかも忘れて、その味わいに集中する。  パンドラモンによって飢餓の苦しみは靄を介してつなげられている。同じ苦しみが人と人の間で反射して増幅しあう苦しみのるつぼ。そこに一滴の甘露が齎される。  ホーリーエンジェモンがこじ開けた飢餓の隙間に、するりと入り込んだそれは、絶え間ない空腹にあるからこそ、劇的に人々に染み渡っていく。  わずかでも光が届けば、草太の味わったカルポスヒューレの感動が伝わる。光がその味、触感、香り、ありとあらゆる食の喜びを伝える。そのどれもが人の心を満たしていく。  からからに乾いた心が満たされるとき、人は誰も幸福を覚えるものだ。邪な闇をたやすく引き裂き、白い靄で作られたつながりは、幸福の光で塗り替えられていく。    人の苦しみを最大限に味わうために、パンドラモンは人と人との感覚をつなげて見せた。草太とホーリーエンジェモンの共振励起を模して、人の苦しみを増幅させることすらして見せた。たとえセラフィモンであっても、人の心を埋め尽くす飢えの苦しみを取り除くことはできないだろう。ゆえに人が人である限りパンドラモンは飢えることがない。  ──だが、飢えの苦しみが本能に根差すものであるように、飢えを克服した時の喜びも耐えることはない。人の感情とは、隣りあわせであるがために。  天使の力を真似たくせに、それを利用されることなどかけらも考えていない。そのセキュリティホールを草太は 突いた。一口咀嚼するごとに、舌が受ける感覚が目まぐるしく移り変わる。濃厚な甘みの奥には深いうま味がある。スッと消えていくような爽やか酸味が口内を洗うようだ。カルポスヒューレの皮にはほんの僅かな苦みがあって、絶妙なバランスで甘さを引き立てる。舌の根はいつまでも滋味が残り、パンドラモンの飢餓によるものではない、純粋な食欲がその果肉を求める。  草太から伝わってくるカルポスヒューレへと、人々の意識は集中する。ただこの果実を味わいつくす。そのためだけに、ただ味わうということだけに人体のすべての感覚が費やされる。そこに飢餓の入り込む余地はない。  共振励起。パスをつないだもの同士は、同じ意識を持つことで、両者をつなぐ力が増幅される。今、この街の人々が持つ感情はただ一つだ。ゆえに、溢れかえるほどの共振が生まれている。パスを通じるわずかな光が、共振によって倍々に膨れ上がる。白い靄の中を光が幾重にも重なっていく。  草太はもぐもぐと、この恵みの果実を食べ続けている。言葉もなく、ただそのおいしさだけを感じている。その気持ちがこの街全てに広がって、まるで幸せに輝くように街に光が溢れる。  最後の一口を飲み込む。口にはわずかな甘みだけが残る。 「……ご馳走様でした。」  草太の心からの一言が、草太へつながるすべての人へ満足という気持ちを届けた。  苦しみを忘れ、ただただ食べることだけに夢中となる至福の時。誰もが幸福を感じる時間がそこにある。  人々の心に巣食っていた邪悪な災い、飢餓はすでにない。忌々しい靄は、ただの満腹感に塗りつぶされ消えていったのだ。  白い靄を流れる光が、黒い塔に溶け込み光の塔へ塗り替えていく。”負”だけを取り込み続けたパンドラモンへ、”正”の感情が、莫大な量の希望が注ぎ込まれる。最も効率よく力を吸い上げ味わうために、パンドラモンは白い靄を自身の本質そのものへと接続していた。ゆえに、一瞬でパンドラモンの全てが光にさらされる。  黒い靄の翼が光に溶けて、災いの箱が地へ落ちる。  消えることのない光に本体を焼かれながらも、パンドラモンの視線は草太とホーリーエンジェモンを捉え続ける。    月夜を背に、4対8枚の翼を広げ、黄金の光を纏う。それは邪悪な意思を断つためにこの世界に遣わされた、ただ一人の大天使。弱きものの守護者──ホーリーエンジェモン。  街中を染め上げるほどの光が、この街の希望が、この尊大で傲慢な、誰より弱さを知る天使へと集まっていく。  そこに顕れるのは、あまねくすべての人々の弱さを守るための光だ。遥か銀河を流れる星のように、静かに瞬く光が聖剣となり顕現する。    その刃は、絶望を切り裂き未来を開くための希望を宿す、ひとかけらの熱すら持たない光の剣。  ホーリーエンジェモンが光剣を天へとかざす。  パンドラモンは自らを逆流し周囲にあふだした光──自らが傷つけ続けた人々の希望の衝撃にしびれて動くことが出来ない。負を取り込み続けたからこそ、正しき人の意志にあらがうことが出来ない。ただ、二人へ向ける視線だけが動かない。  悪意をまき散らし苦しみを食らう世界のバグ。進化も退化もなく、負を取り込んで災いを成すだけの存在。バグそのものであるが故に、このパンドラモンを倒したとしても必ず次のパンドラモンがあらわれる。だからセラフィモンや天使連は封印を選んだ。 だが、ここはデジタルワールドではない。リアルワールドに現れたパンドラモンは、すでに世界から切り離されている。  そしてホーリーエンジェモンと草太による逆転の光は、パンドラモンをパンドラモンたらしめるそのバグを浮き彫りにした。  もし、パンドラモンが、食というものを少しでも理解していたのならば、こうはならなかった。リアルワールドへと解放されたが故に食欲に歯止めがかからなくなった。人の持つ圧倒的な情報量に欲望を揺らされて、飢えを満たすことを止められなくなった。──つまり、何事も腹八分目ということだ。  ホーリーエンジェモンには祈るべき神などいない。姿は天使であってもその本質はデジモンであるからだ。誇りによって立ち、矜持を恃みに進む。そこに祈りの入る余地などない。  だからホーリーエンジェモンが告げるのは、同じく飢えを知りながらも、異なる道を歩んできた者の最後の情けだ。 「パンドラモン、お前の苦しみを、今祓ってやろう。」  振るわれた聖剣が一瞬の輝きが、パンドラモンを両断する。世界に満ち満ちる幸福が、パンドラモンの体を打ち砕く。パンドラモンを災いたらしめていた、バグごとすべてが浄化されて、さらさらと、邪悪そのものであったことが嘘のように、穏やかに消えていく。白い靄を満たす光がゆらゆらと浮かび消えていく。まるで星屑のような、美しい光が街の空に広がっていき、やがて静かになる。  そして、一つのデジタマだけが残った。 ***  全てを見届けていた草太が、ゆっくりとデジタマへと近づき、手を伸ばす。不思議な力で宙へと浮かんだままだったデジタマが、触れた瞬間に重力を思い出したように落ちて、草太の手の内に収まった。  それが、パンドラモンによる災害の終幕だった。 *** 街1つを丸々飲み込むほどの力。いつでもパンドラモンは最後の災い──支配、疫病、飢餓の次に来るならば、それは死だ──を作ることが出来たはずだ。  それをしなかった理由がホーリーエンジェモンにはわかった。  パンドラモンは飢えていたのだ。ただただ飢えていた。だから人間の負の感情を食べ続けることをやめられなくなった。ただ貪欲に食欲に溺れて勝ち筋を見失った。パンドラモンの勝ちは揺るがなかったはずだ。だというのに、パンドラモンは勝つためではなく、長引かせるように戦った。ホーリーエンジェモンと草太の感情すらごちそうに見えていたからだ。  自身もそうだったからこそ、わかる。スラム街から助け出された当時のホーリーエンジェモンもそうだった。何もかもがごちそうだった。だが、ホーリーエンジェモンにはセラフィモンがいた。食事の作法から作り方、材料の選び方までを丁寧に教わることが出来た。口うるさいクソガキへ教えるくらいまで、食というものを知ったのだ。  草太による白い靄のハッキングにより、パンドラモンを構築するデータの末端に至るまでが白き光で焼き尽くさた。そして、剥き出しとなったその本質を、パンドラモンを取り巻く因果の全てを輝く剣が断ち切った。ゆえに新たなデジタマには、忌まわしき災いなど何もない。 ──そこにあるのは、何にでもなれるだろう、希望だけが詰まっているのだ。 9.答え合わせ  昨日までの陰鬱な靄や苦しみの連鎖を感じさせることなく、さんさんと太陽が街中を照らしている。  長峰家の庭には草太とホーリーエンジェモン、テイルモンに高間こよりの4人が集まっている。草太の父が所有していたバーベキューセットを組み立てているところだ。決戦前の約束を果たすというわけである。  とはいえキャンプ未体験のこよりに、そもそもキャンプなど知らないテイルモンは戦力外である。庭に面したリビングを開けているので、そこに腰掛けながら楽しみだねなどとほんわかするような会話をしている。パンドラモンが残したデジタマも一緒である。  対して男性陣はといえば、最悪の空気の元に組み立てを続けている。キャンプ道具は大体が組み立て式なのだが、コンパクトになるようにと複雑な構造である。故に、椅子一つ組み上げるのにああだこうだと試行錯誤を繰り返す羽目になる。なかなかうまく進まない組み立てに苛立ちが募り、自然と罵詈雑言が飛ぶ。組み合わせる場所が違ったろうが馬鹿者めといえば、お前が気づかなかったのが悪いわ抜作と返す。手を動かしながらも言い合いがおさまることがない。一切合切を論う辛辣なやり取りと、ひだまりのような思いやりに満ちた会話。庭の内外で酷いコントラストである。こよりとデジタマには聞かせられない醜い争いだ。  人に聞かせられない殺伐とした組み立てが終わり、ようやく料理を出来る状態となった。リアルワールドで初めて料理を出来るとあって、ホーリーエンジェモンは張り切っている。雑用は草太を顎で使う反面、食材の下拵えは非常に丁寧である。  包丁とはこう使うのだと、草太との腕の違いを見せつけている。皮むき一つとっても均一で無駄がない。こよりもテイルモンも大喜びである。さすがに草太も包丁の腕は認めざるを得ない。そもそも料理に対して興味がなかったはずが、すっかり染められていることに気が付いていない。  火を使う段階になってガスカートリッジが残り1本であることに草太は気が付いた。まだその1本は十分に残っているが、ホーリーエンジェモンがどのくらいコンロを使い続けるかはわからない。コンビニにでも売っているようなよくあるガス缶なので、三人へちょっと買いに行ってくると声をかける。が、そこでテイルモンとこよりが名乗りを上げる。さすがに何一つ手伝いをしていないことに罪悪感を覚えたらしい。ならばとお願いすることにして、草太も料理の手伝いに戻る。きゅうりの板摺でもしようかときゅうりのへたを落としている。スペースや安全性の問題から、二人は背中合わせだ。サク、と包丁をきゅうりに入れた時、ホーリーエンジェモンが振り向くこともなく、ぼそりと草太へ問いかける。 「一つ、聞きたいことがある。」 「……言ってみろ。」 「初めて、貴様がデジモンと遭遇した時、ミノタルモンの注意を自分に向けさせていたな。あれは、なぜだ?」 「は?……あの、牛のデジモンか。空き缶か何か投げたっけ。ん、何かおかしいことがあったか?」 「死に向かうような真似をなぜしたのかと聞いている。」 「ああそういうことか。死にたくてやったわけじゃねぇよ。それにいいだろ、なんだって。」 「いや、答えろ。どうせ貴様とはもう会うことはないからな。私の疑問を解消させろ。」 「……ま、確かに最後だしな。──お前と同じだよ。」 「は?」 「あの時、殺されかけてたおっさんと目があった。ぐちゃぐちゃな顔してさ、いい大人が暴力に従わされてる姿があまりに理不尽だなって思ったんだよ。ふざけんなって。嫌だって思ってるくせに、諦めた顔してるのも、俺じゃどうにもできないだろうって思っているのも腹が立った。正直足のけがで自暴自棄になってたせいもある。けど、理由なんてそんなもんだ。」 「ただのやつあたりだと?」 「ああ。お前だってそうだろ?」 「はっ、貴様の幼稚な感情と同じにするな。私は私の正義に基づいて戦うまでだ。」  はぁ、と重いため息が出る。こいつは最後まで本当に知能の足りない鳥頭だ。いや、あえて目を逸らしているのかもしれない。いつもなら、これからも今まで通りに続くのなら、適当に濁してやってもいい。だが、こいつの言う通り、多分これが最後だ。もう会うことはないのだ。なら、この気の合わない、腹の立つことしかしない、誰より尊敬すべき相棒へ、本当の言葉を贈るのもいいか。 「お前、バカなんだな。」  ビキリとホーリーエンジェモンの隠された額に青筋が立つ。付き合いの時間はともかく濃さは人一倍だ。見えなくてもそのくらいはわかる。 「正義が力だって言ってたな。じゃあ、お前がやってきたことはなんなんだよ。パンドラモンはお前より強かった。ならパンドラモンの方がもっと正義になるだろ。正義に刃向かう俺らは悪か?んなわけあるか。」  一息に言った後、振り向いてホーリーエンジェモンと正対する。 「力の使い道から目を逸らすなよ。お前は今まで何やってきたんだ?弱いやつを理不尽から守ってきたんだろ?部屋の片付けもしないし料理も口だけで俺任せ。ものぐさなお前がそれでも絶対に譲らなかったのが、それだろうが。お前がいつもやってることだ。俺たちがやってきたことだ。人を傷つける。悪意を撒き散らす。悲しみを広げる。そういうのが許せなかったから力を欲しがったんだろ。ぐだぐだと言い訳並べやがって。弱いものいじめが嫌いなんだって正直に言え。悪い奴が楽しそうにしてるのが気に食わないって素直によ。何が力こそ正義だ。だからお前の言葉は薄っぺらいんだよ。本音で言え! 悪に泣くやつを少しでも減らしたいんだって言え!それがお前の正義だろうが!」  まるでハトが豆鉄砲を食らったかのように、ホーリーエンジェモンが呆然としている。今まで一度たりとも見せなかった姿だ。自分の中身を当てられて動揺でもしてるんだろう。なら、ここで追撃する。 「お前がわざわざ半端にふるまう理由なんぞ知らん。けどな、俺はお前の口から出る言葉なんざ一切信用してないんだ。でもお前のやることは見てきた。本心ってのはな、行動に出るんだ。どんなに力だ正義だなんて言っても、行動を見ればお前がやりたいことなんてお見通しなんだよ。わかったら、さっさと料理に戻れバカタレが。」  くるりと背を向けて、板摺に戻る。ええと、どこまでやったんだっけかとわざわざ口に出してみる。ホーリーエンジェモンはまだ、草太を見ている。そしてばさりと翼の音。料理に戻ったのだろう。鍋をかき混ぜるような音。 「──私は貴様が気に食わん。危険もなく穏やかに眠り、まともな食事を三食とることが出来る。にもかかわらずありもしない痛みに怯えて希望をあきらめる。そのちぐはぐさに腹が立つ。行動は本心が出たものだと言ったな? なら貴様は何なんだ。ケレスモンの時も、貴様は死に行くようなまねをしたな。飢餓を受け入れさえした! それは何のためだ……!」  絞り出すようなその声は、草太の本心をも浮き彫りにする。 「……初めはただの八つ当たりだったさ。でも、惜しくなった。サッカーばっかりで全然他の人のこと知らないままだったけど、ようやく色んなことに目を向けられるようになったんだ。俺の知らないことが、知らない人が山ほどいるんだ、この街に。それをパンドラモンなんかに壊させたくなかった。俺のこれからを守りたくなった。それに、これからもサッカー、やることにしたからな。練習できないのは困る。つーか、ケレスモンも、パンドラモンも、お前がいたんだから、無茶ってほどじゃねぇだろ。」  そのまま、沈黙が落ちる。外から、テイルモンのはしゃぐ声が近づいてきた。 「そうか。分かった。なら、貴様はそれを続ければいい。好きにしろ。ただ、口に出した以上、飲み込むことはできんぞ。貴様の契約者は私だ。私に恥をかかせるな。私の見る目の確かさを証明してみせろ。」 「──分かった。なら、お前も、俺が誇れるお前であれよ。」  ギィと家の門が開き、テイルモンとこよりが入ってくる。ガス缶だけではなくいろいろ買いこんできたようで、袋が妙に膨らんでいる。 「ただいま戻りました! せっかくですからスイーツも買いましたよ。後でみんなで食べましょうね。ってあれ? 二人ともどうかしたんですか?」 「いや、別に……。」 「何か文句があるのか?」 「え、いえ、何もないですけど……。ガス缶はここに置いておきますね。ほらこより、スイーツは冷蔵庫にしまっておきましょう。」  靴を脱いでこよりとテイルモンが家に入っていく。  草太とホーリーエンジェモンはもう、口を開かない。  ──あまりに黙りこくっているのをテイルモンにしこたま説教されるまでは、だったが。 10.遠い、別れ、友よ  パンドラモンの封印、いや討伐が完了した以上、ホーリーエンジェモンとテイルモンがこのリアルワールドにいる理由はない。もともとデジモンという存在がリアルワールドに与える影響を最小限に抑えること、そのために力の制限だとか、テイルモンまでの退化までしてきたのだ。影響云々をいうならそもそもいない方がいいのが道理である。  パンドラモンが呼び出したデジモンがいないことが確認できたこともあり、ホーリーエンジェモンとテイルモンがデジタルワールドが戻る日がやってきた。  見送りは当然草太とこよりの二人。人目につかない河川敷に4人が集まる。すでに泣きはらした目の女性陣は、これが最後とずっと抱き合ったままだ。草太とホーリーエンジェモンといえば、あれからも何も変わらず、絶えることのない口喧嘩をして過ごしてきた。ホーリーエンジェモンは別れ難さに泣いている二人をやや冷めた目で見てすらいる。  ずっと行方不明になっていたこよりは、家に帰ると大騒動だったため、草太とホーリーエンジェモンと会うのも久しぶりである。テイルモンはずっとこよりにつきっきりだったので、相当仲良くなっていたらしい。とはいえいつまでも抱き合っているままではいられない。  4人の前に幾何学的な模様が浮き上がり、機械仕掛けの門が開く。リアルワールドとは違う風が吹き込んでくる。門の先には10枚の翼と輝く鎧のデジモン、セラフィモンが待つ。 「久しぶりだね、長峰君。それに、ホーリーエンジェモン、テイルモン。ご苦労様だった。」 「ああ。約束通り、パンドラモンは何とかしたぞ。」 「テイルモン、ホーリーエンジェモンが無事任務を完了しました。」  きちっとした返事はいいのだが、こよりに抱きしめられたままでは台無しだ。さすがのセラフィモンも対応に困ったらしい。しかしホーリーエンジェモンはいつも通りそっぽ向いたまま。草太は首をすくめるばかり。 「ふっ、強いきずなを結べたというなら何よりだ。」 「雑なコメントだな。それよりセラフィモン。俺たちはあんたたちのやらかしを解決した。だから俺たちの願いを一つ聞いてもらいたい。いいよな。」  どうにもならず適当をかますセラフィモンへ、突っ込みと要求を告げる。つっこみは流しつつも、要求に対しては慎重さを以て答える。 「内容次第といったところだね。こちらの落ち度であることは認めるが、叶えられることには限界がある。それはわかってくれるだろうね。」 「別に大したことじゃない。このデジタマをちゃんとしたところで育ててほしいってだけだ。それくらいのことが出来ないなんて言わないよな。」 「──パンドラモンの、デジタマか。さすがにそれは 「私がそいつの面倒は見る。」」  仮面がなければ驚きに見開いた目が見えただろう。それほどセラフィモンの驚き方はわかりやすかった。 「ちっ、その顔はやめろバケツ頭が。──もう、そのデジタマに特別なものは何もない。私たちがパンドラモンの特異なものはすべて焼き尽くしたからな。だが、天使連はこいつが怖くてたまらないのだろう? すでにただのデジタマだということが信じられないんだろう。だから私が面倒を見てやると言っている。パンドラモンを倒した本人が面倒を見るというのだ。渡りに船というやつだ。さっさと許可を出せ。今ここで。」 「ホーリーエンジェモン……。あなたにも責任感ってものがあったんですね。」  ふぅ、と大きく深呼吸の音がする。セラフィモンが息をつく。 「長峰君。ホーリーエンジェモン。君たちが成したこと、その全てに心からの賛辞を贈ろう。そして君たちの願いは確かに聞き届けた。ホーリーエンジェモンを保護観察官とする条件の下、私が知る限りもっとも信用のおける者のそばでこのデジタマを育てよう。……これでいいかな?」 「ああ。それでよろしく頼む。もんざえモンには面倒を押し付けて悪いって謝っておいてくれ。」 「ふふふ、いいとも。体のいい雑用係もできて逆に喜ぶかもしれないよ。」 「ならいいけどな。せいぜいこき使ってやってくれ。」 「まて、私は保護観察以外する気はないぞ。」 「まあまあホーリーエンジェモン、私もたまには手伝いに行きますから。ちょっとは働くのもいいものですよ?」 「すごい嫌そうな顔してるね……。」  残った懸念はもうない。そして今更話すこともない。  ホーリーエンジェモンとテイルモンがゲートを渡り、二つの世界が徐々に離れていく。泣きながらお互いの名前を呼び合うテイルモンとこより。だが、自分たちには、せいぜい一言あればいい。 「じゃあな、鳥頭。」 「さらばだ、唐変木。」  それで終わりだった。静かに閉じていった門は、何もなかったように消え去った。テイルモンの名を呼び泣くこよりの背をポンポンと叩き、ゆっくりと歩き出す。こよりのことはテイルモンから頼まれている。これからもちょくちょく様子を見ることになるだろう。  だから、いつまでも、あの尊大な天使に頭を使う時間などない。    これから草太はもう一度プロを目指すのだ。こよりの様子を見つつも、サッカー選手となるべく自分を鍛えなおさなければならない。どこまでできるかなどは分からない。だが、奴のたわごとを証明するつもりはないが、できるところまでやると約束はしている。  ダメだったならダメでその時だ。いくらでも目の前に道はある。    あの天使が開いた未来の広さを、希望の輝きを、草太は知っているのだから。 おわり