バディ4話 前編  1.草太リアライズ  ふわりとした感覚が失われて代わりに重力を感じる。  世界を繋ぐトンネルというのはこうも気分が悪くなるものか。フィクションで見るようなサイケデリックな表現は意外と的を射ている。もしかしたら体験した人がいるのかもしないなと、どうでもいいことを思いながら目を開ける。  ようやく戻ってきたリアルワールド、草太の住む街だ。あいにく天気はどんより曇り模様だが、見慣れた景色が嬉しい。セラフィモンの言によれば、状況はかなり悪い状況ではあるものの、今は素直に帰還を喜びたい。が、そうも言ってられないのが悲しいところである。天使連は定期での連絡が途絶えていると言った。ホーリーエンジェモンのような単細胞ならともかく、一応は真面目に仕事しているテイルモンからの連絡がないのは問題だ。  何かが起きていることだけがわかっている。なら、状況の確認が必要だ。  現在地は街の中心に程近い雑居ビル。同じような高さのビルが乱立しているが、それなりに見通しはいい。正面からは街を東西に分断する川が見える。草太の家も目を凝らせば見えるかもしれない。北に顔を向けると駅がある。対して本数のないローカルな鉄道だが、この街に欠かせない交通機関である。スマホで確かめた時間は昼を回ったところ。妙に薄暗いのは天気のせいだろうか。あまり本数の多い時間ではないからか、駅前を行く人が見えない。  ──いや、駅前だけではない。屋上のフェンスに飛びつき街を改めて見直す。あるはずのものがない。どれだけ街を見回しても、ただの一人として街を歩く人がいない。自転車の原付も、車でさえ動いているものがない。耳をすませても人の声が聞こえない。いっそ川のせせらぎさえ聞こえてきそうなほどの静寂。  1つの違和感に気がつくと後は芋蔓式に状況が見えてくる。  視界がだんだんと暗い靄によって遮られていく。その色は白。いきなり現れたのではない。それはずっとそこにあった。ただ草太には見えていなかっただけだ。自然の引き起こす霧とは明確に異なる。触れることのできない白い粒子が空間そのものに充填されている。街は靄に沈められている。  無意識下でもこの靄を捉えていたのだろう、だから妙に薄暗く感じた。まるで出来の悪い3Dメガネでもかけられたかのように、ただの風景と白いもやに沈んだ景色が同時に見えている。  そして靄を認識した草太の目には、明らかな異物が映る。街の中心、おおむね川の中心にそれはあった。天高くを突くような黒い塔。黒い靄で全面を覆われていて、塔自体の輪郭は靄の蠢きに合わせて時々姿を見せる程度。街中の白いもやは、その黒い塔に繋がっている。  なぜ人がいないのか。この白い靄は何をしてくれているのか。フェンスにかけた指に力が入る。  怒りが湧き上がる。自分の街だ。自分が育った街なのだ。それがこうも好き勝手に蹂躙されている。頭に血が上るのがわかる。人のいない隙に随分と好き勝手してくれている、パンドラモンへの怒り。そして防げなかったホーリーエンジェモンと自分への怒り。  確かに草太がいない以上全力を振るうことができないのはハンデではある。だがやつならその程度のハンデをものともせず、嫌がらせという名の遅滞戦術の1つや2つは思いついたはずだ。だというのに、このざまだ。一体何をしていたのか、あの阿呆は。そして自分は何をやっていたのか。もっと早くリアルに戻る手段はなかったのか。 当然どちらにも出来なかった理由がある。奴が弱いものを傷つけるような真似を見過ごすことはない以上、何かがあったのは間違いない。デジタルワールドからの帰還にしたっていくつもの幸運が重なったからこその結果だ。それは草太にもわかってはいたが、それでも悪態の一つ二つは出るものである。  雑居ビルから階段を駆け降りて街へ出る。まずは白い靄を辿る。一面がもやに覆われていても濃淡はある。そして流れがある。白い靄が濃く集まっているラインを流れとは逆に辿っていく。いや、辿るまでもなく視線を巡らせるだけでも繋がった先に何があるのかは見てとれた。  この辺りは繁華街とオフィス街の境目だ。だから建物の一階の多くはショールームだとか店舗になっている。綺麗に磨かれたガラス越しに人が見える。俯いて体を抱きしめたまま、震えるばかりで動きがない。その背中には白い靄がまとわりついており、靄が体を出入りしている。  それが何を意味しているのか、草太には分からない。だが、紛れもなく人を苦しめる悪意がそこにあった。  長いことホーリーエンジェモンと契約なんてしていたものだから、草太はホーリーエンジェモンの力のタンクとなっている。別に体が強くなるわけではないが、薄いとはいえ白い靄からの影響を受けていないのは、そのおかげだと思っている。しかし、草太一人ではちょっと光らせるのが精一杯だ。おまけに肝心のパスが切れているため、今は隠し芸にすらならない、文字通り宝の持ち腐れだ。だが、それでもうずくまる人に声をかけるくらいは出来る。 「大丈夫ですか……?」 「……あぁ、……って」    問いかけに応える言葉がない。あえぐように吐き出す呼吸にわずかながらに音が混じっているだけだ。  身動きすら厭うようなそぶりだが、痛みを耐えるような雰囲気ではない。だが、それが何かはわからないが、苦しみであろうことだけは草太にもわかった。  この状況をあの天使が見ていられるわけもない。誰も道路上にいないのはおそらくはテイルモンと協力して屋内へと運んだのためだろう。まだ凍えるような季節ではないが、それでも野外に留まるのは問題がある。雨に濡れれば死人が出かねない。  草太の前に横たわるこの人は息も絶え絶えだ。雨風に当たることはない、ただそれだけだ。あの二人がただ屋内へと避難させるしかなかったということだ。 ただの人間に過ぎない草太に出来ることなどない。  だからせめて、自らの内にあるホーリーエンジェモンの光が届くようにと、背に手を当てる。わずかでも安らぎを届けと願う。  ぐつぐつと煮えたぎるような怒りの中、パンドラモンを想う。  これまでパンドラモンが行ってきた活動は二つ。少女──高間こより──の力を利用したデジモンのリアライズ。そしてゾンビタトゥーを用いた破壊活動。パンドラモンが餌とする、負の感情を生み出させるための手駒作りだ。  デジモンを暴れさせて恐怖を煽り、自らの餌とする。草太達によってその尽くを潰されていても、ゾンビタトゥーによる支配は究極体すら従えるほど強まっていた。  そして、邪魔するホーリーエンジェモンも、草太がデジタルワールドへ飛ばされたことで敵ではなくなった。  そうだ、天敵のいなくなった猛獣が何をするかなど決まっている。より自らの力を高めること。つまり、そのための手段がこの白い靄だ。 「──これが、人に向けた災いか……!」    元々予想していたことではあった。だが、直接目にするとその衝撃は大きい。  パンドラモンが食うのは負の感情だ。デジタルワールドではデジモンの、リアルワールドでは人が生み出す苦しみを食べてきた。リアルワールドではデジモンを暴走させて危害を与える形で。つまりパンドラモンにとってデジモンも人もどちらも等しく獲物でしかない。  いつパンドラモンの災いが人に向けられてもおかしくはなかった。むしろ人が住むリアルワールドであるならば、人に直接牙を向けるのが道理だろう。それが遅れたのは天敵たるホーリーエンジェモンがいたからだ。  草太がデジタルワールドにいたのは七日間程度。漫画や映画では時間の流れが違うなんてのもよくある話だが、幸いスマホの日付は草太の感覚と一致している。約7日間。最悪ではないが、まあまあ悪い。ホーリーエンジェモンが全力を振るうためには草太の承認が必要である以上、実質的にパンドラモンは野放しに近い状況にあったわけだ。  おまけにこの白い靄は実質的に人の身動きを封じている。ホーリーエンジェモン達の弱みを知っているのだ。どれだけ生意気な口を叩いていようと、ホーリーエンジェモンは人を、弱いものを見捨てることをしない。力を奪い、自分を強化しつつ時間を稼ぐ一手。その結果がこの白い靄に沈んだ街というわけだ。そして、その力の結晶が街に聳える黒い塔なのだろう。  後ろ髪を引かれる気持ちを払って店舗を後にする。できることをしなければならない。今やるべきことはホーリーエンジェモンとの合流だ。  呻き声だけが漏れ出す街に草太の足音だけが響く。白い靄に草太の影が映る。今はただ、駆けるしかない。     ***    パンドラモンの権能は災害を生み出すこと。パンドラモンがこれまでに作り出した災いの一つを天使連はゾンビタトゥーと名付けた。しかしそれはあくまで天使連のつけた名称である。  パンドラモンが生み出した災いの本質は“暴虐“であり、”支配”である。そしてそれを広げる黒い靄こそが“連結”。嗜虐性を膨らませ、争いを広げるために、3つの災いが巻き散らかされていたのである。  もし、これらを人の世界に渦巻く災いとしていうのならば、それは戦争と疫病である。  なればこそ、次なる災害は、”飢餓”。     2.それまでのホーリーエンジェモン  草太が自らの作り出したヘブンズゲートへ飲み込まれてから早くも1日が経過した。  本来ならばケレスモンを除去した以上、すぐにパンドラモン封印を再開すべきであった。それが出来なかったのは高間こよりの存在があったからだ。  高間こよりはパンドラモン逃走における重要参考人である。天使連の結界内からの脱出、ひいてはデジタルワールドからの逃亡を許すことなった原因であり、最も長くパンドラモンと過ごした存在でもある。  封印から逃れてからの動向を知るためにはこの少女の証言が必要となるのだ。封印措置を取るほどの存在だからこそ、ありとあらゆる調査が求められる。  ホーリーエンジェモンからすれば、高間こよりに大した価値はない。利用されていたことは明らかだし、パンドラモンの行ってきたことを後から追うくらいなら直接捕まえて吐かせる方が早い。せいぜい運の悪い人間だというのがホーリーエンジェモンの認識である。だからさっさと然るべき医療機関にでも引き渡してパンドラモン追撃に移りたかったのだが、それをとがめたのがテイルモンである。  パンドラモンの協力者であるという疑いから厳しい目で見ているものの、少女を助けた少年からは直々に身柄の安全を頼まれている。パンドラモンが少女を取り戻しに来る可能性を考えると、病院というわけにもいかない。まして、彼女が受けたのはパンドラモンの黒い靄そのものである。浄化出来る我々がまずは引き受けるべきと譲らない。元々テイルモンの気質としてはひどい目にあった少女を受け入れてやりたいと思っていることもあって、まずは高間こよりの安全を優先すべきと主張したのだ。  実際パンドラモンの居場所がはっきりしているわけではない。まさか同じ場所に意味もなく留まるはずがない。どちらにしても草太という外付けタンクを失ったホーリーエンジェモンは弱体化している。ケレスモン相手に全力以上を出し切って消耗した体には回復する時間も必要だった。無闇に街を探し回ろうが、こよりの保護を優先しようが大差はない。そうテイルモンに主張されると反対意見も大したものが出ない。だからこの時はホーリーエンジェモンも渋々その判断を受け入れることになった。  実際に真っ当な判断ではあったが、同時にパンドラモンを窮地から救う判断でもあった。  ホーリーエンジェモンが知る由もないことだが、パンドラモンはこよりを囮に使う直前までいた場所に留まっていたのだから。ホーリーエンジェモンと草太をリアルワールドから排除するために、全力であったのはパンドラモンとて同じだった。手元に移動用のデジモン一匹すら残さなかったのだから。  もし仮にこよりが直ぐに目を覚まし、その場所を指し示しさえすれば話は大きく変わっていたに違いない。 ──だが、そうはならなかった。  その判断を、すぐにでも討伐に向かうべきだったとホーリーエンジェモンは後悔することとなる。 ***  高間こよりを長峰家の草太の部屋へと運ぶ。なにせここが一番馴染みのある安全な場所だ。家主不在のベッドに少女を寝かせる。家に運び込む前に、近所の老人たちに捕まってしまったが、逆に高間こよりの病人としての扱いについて聞くことができたのは災い転じてなんとやらだろう。 「草太ちゃんはどうしたの?あの子は全然病気しない子だけど、看病くらいは出来るでしょうに。」 「そうよねぇ〜、いっつも半ズボンで走り回ってたのに、風邪ひとつ引いてなかったわよねぇ。」 「あのアホのことはいい。やつは不在だ。とりあえず今は寝かせておけばいいんだな。熱が出るようなら病院行きと。よし分かった。なんだ、さっさと散れ。」 「もう、すぐに邪険にするんだから。ちゃんと世話するのよ、ホーリーエンジェモンちゃん。」  がやがやと話し続けようとする老人たちも、病人の前で続ける気はなかったらしい。すぐに解放される。いつもこの位大人しくいうことを聞くならば苦労はないのだが。  少女は草太のベッドに寝かせて、あとはみていたテイルモンに任せる。 「ええっと、この子は寝かせていればいいんですね?」 「そう言っていたろう。やばそうなら病院に置いてくればいい。」  そしてそのまま窓から飛び立とうとする。が、テイルモンに金布を引っ張られ引き留められる。   「待ちなさい、ホーリーエンジェモン。あなたの行動の速さは褒められるべきものですが、無言で飛び出していくのはよくありませんよ。」 「これ以上やつに時間はやれん。それとも状況の悪さを分かっていないのか?頭まで 家猫に成り下がったのなら大人しくそいつの脇で昼寝でもしてるといい。」 「ホーリーエンジェモン……! 苛立ちをぶつけるのはやめなさい。八つ当たりなどと情けない真似をする天使がありますか?あなたこそ、状況を判断しなさい!」  ホーリーエンジェモンにとっては痛いところをつかれた形だ。草太がいなければケレスモンによる街の破壊を防げなかったこと。そしてデジタルワールド行きとはいえ、自らの必殺技を草太へ向けたこと。どちらもホーリーエンジェモンのプライドを傷つけるには十分な出来事だった。いらだちは言葉に、怒りは仕草に、短慮は行動に出る。いつもよりも口が悪いのはその発露だ。  ゆえに、テイルモンの言葉は痛烈に響いた。普段なら一顧だにしないが、自身が一番このイラつきを理解している。大人しくというには荒々しく、テイルモンに向き直る。 「……ちっ。」 「状況をまとめます。私達の戦力は著しく低下しています。あなたの全力が出せないこと、草太さんの協力が得られないこと。主にこの二つ、実際一つではありますが。草太さんの捜索は天使連に依頼済みですが、どのくらいかかるかの見込みはありません。ここまではいいですね?」 「ああ。対してパンドラモンはせいぜい手駒を失った程度か。高間こより無しでもデジモンを呼び出せる以上、時間は奴の味方だ。早々に叩く必要がある。」 「ええ。でもそのための戦力が足りないんです。私たちだけではジリ貧なんです。それは分かるでしょう?なのにあなたときたら、一人で勝手に外をほっつき歩こうとするんですから。反省文一回じゃ足りませんよ、まったく。」  ねちねちと過ぎたことを繰り返してくる。普段こそ落ち着いた風に見せているが、その実いつまでも怒りを根に持つのがテイルモンだ。草太の前では物分かり良くお上品な姿を取り繕っているが、本来はバタバタと落ち着かない上にしつこいのがこいつの性格なのだ。  ただ、どんなにしつこく言っていようと、優先順位を違えることはない。怒りを逸らすのは簡単だ。 「手札が足りないなら増やせばいいだけだ。大して役に立たんだろうが、天使連から適当に何人か呼べばいい。上もこの期に及んで二の足を踏むような無様は晒さんだろう。」 「あなた……、だから嫌われているんですよ。」 「だからどうした。木っ葉どもが役に立ったことがあるなら言ってみろ。そもそもパンドラモンに出し抜かれたのは上の問題だ。たまには尻で椅子を磨くだけの平和ボケした連中を働かせるべきだ。」 「それは言いすぎですよ、ホーリーエンジェモン。でも、すぐに手配をかけます。」  部屋を飛び出すテイルモンを一顧だにせず、窓から外を眺める。高めの立地だから見通しはいいが、かといって別にいい景色というわけではない。面白味のないただの街が見えるだけだ。なんのこともない、どこでも見られるような光景。だが、ホーリーエンジェモンはその街に暮らす人を知ってしまった。ただの街を飽きることなく眺める。 ***  普段、ホーリーエンジェモンは草太の部屋には入らない。いや、一度だけ入ったか。あの時はウジウジとした草太の態度に耐えかねて罵声を浴びせたのだった。面食らった表情が痛快であった。だが、あの時言われた言葉はホーリーエンジェモンとて身に堪えた。  ”何もない薄っぺらな正義”  自分の目指す正義とは何であるのか。そんなことは決まっている、力だ。何者にも屈することのない、純粋な力。それこそが正義。そのはずである。  ろくに食べ物も得られず、ただ弱って死んでいく仲間を見るだけの日々。そんな立場を抜け出せたのは、セラフィモンが自分を見出したからだ。か弱い成長期だった自分にはあの薄汚い路地を抜け出す力などなかった。そのための手段を考えることすらできなかった。だからセラフィモンが見せた力に焦がれた。徒党を組んで治安を崩し続けていた連中を、軽々と吹き飛ばしていく姿に希望を見た。  絶対的な力が欲しかった。誰にも舐められることなく、誰からも咎められることがない。何をすることだってできる。そう、力があれば地獄のような世界であっても変えることができる。力がなければ選択肢を見ることすらないのだ。未来を望むための力、それこそが正義だ。    ホーリーエンジェモンは自分の力を、正義を信じている。力がなければ人に手を差し伸べることはできない。まして救うことなどできやしないのだと。そう、信じていた。ひ弱な人間が、ひ弱なままに人を助ける姿を見るまでは。  それはホーリーエンジェモンがリアライズした直後のことだった。先に到着していたテイルモンから緊急との連絡を受け、狭苦しい路地に急行し、興奮するミノタルモンと怯える人間を見た。リアルワールドの人間の脆弱さは聞いていたから、そのままではミノタルモンが人間を殺してしまうだろうと思った。割って入るかと翼を広げた時、路地に立つ者がいた。そして見た。サラリーマンを叩き潰す直前のミノタルモンと、それに空き缶を投げつける草太の姿を。  人とデジモンには生物として隔絶した"差"が存在する。人間がデジモンと正面からやり合う場合、ライフルやマシンガンを持ってようやくスタートラインが揃う。いわんや無手では戦いにすらならないのだ。だが、それでも草太はミノタルモンの気を引いて、殺される直前のサラリーマンを見事に救って見せた。  何一つ特別な力のない、ただのひ弱な人間の子供。本来ならサラリーマンがつぶされる姿を見るか、その前に逃げるか。取れる選択肢はそれだけだったはずだ。岩を砕く腕力も、木々を焼き尽くす炎も、自在に風を操ることもできない人間という生き物。案の定、喧嘩を売っておいて即逃走などとみっともない真似をかます始末。もしホーリーエンジェモンが助けなければ、あの時草太はミノタルモンにつぶされて死んでいたことは間違いない。  ──それでも、あのサラリーマンは生きていた。命を助けられていた。よろよろと、感謝と謝罪を繰り返しながら、あの路地を抜け出すのをホーリーエンジェモンは見届けている。確かに命が救われた瞬間を見たのだ。  本当は人間と契約するつもりなどなかった。力のない人間に変えられるものなどないと考えていたからだ。だが、草太はそれを見事に覆してみせた。何を得するでもなく、対処できる力もない。正義のないあの場において、あのサラリーマンは確かに救われた。ホーリーエンジェモンがいなければ草太は殺されていただろうが、間違いなくサラリーマンの命は助かっていたのだ。  だから、命を投げ出すようにして他者を助けようとした、その理由を、ホーリーエンジェモンは知りたかった。  ***  視界に映る街はいつもとなんら変わるところがない。道を歩く人々、スピードを出しすぎている自動車、我が物顔で奇声を上げる子供。リアルワールドのありふれた景色。つい半日ほど前に壊滅しかかったとは思えない。  人間にはどうもおかしなところがあるらしく、パンドラモンの脅威から助けた人間は不思議な挙動を示す。命が助かったことに安堵し、感謝を大袈裟に口にし、そして、ホーリーエンジェモンに安心を告げる。天使様がいるのならばと、胸を撫で下ろすのだ。大丈夫だねと笑うのだ。ただ一度助けただけのホーリーエンジェモンに、なぜそこまで無防備な顔を浮かべられるのか。人間の世界はどうも科学が発達しすぎたせいか、警戒心というものが欠如してしまったのだろう。本能すら失いつつある哀れな生き物。そう思っている。  ──しかしその表情が妙に頭に残るのだ。    バタバタとテイルモンが駆け込んでくる。同時にホーリーエンジェモンも事態を捉えた。 「大変です! 天使連と連絡が取れません! どうして?さっきまでは繋がったのに!」 「落ち着け馬鹿者。何があったかだと?決まっている。パンドラモンが動いただけのことだ。外を見てみろ。」  がしりとテイルモンの頭を鷲掴みにして窓まで持ち上げる。うぐっと声を上げるテイルモンも、窓から見える景色に声を失う。 「白い…靄?」  高台にある草太の部屋からは、街の景色が割とよく見える。街を分断する川の先、駅や繁華街のある東側の区画がぼやけている。いや、ぼやけているのではない。どこからともなく発生した白い靄が街を包み込もうとしているのだ。  ***    ──日常は崩壊する。  オフィスでパソコンに向かう一人のOLがふと空腹を覚える。昼食を取ったばかりなのにおかしいなと腹をさする。  遅めの昼ご飯を掻き込むサラリーマン。ろくに噛まないからいつも食べ過ぎてしまう。それでも満腹感が感じられないことに疑問を覚えながらもおかわりをする。  ダイエット中だと言っていつも小さな菓子パンしか食べない女子高生。いいかげん慣れたはずの空腹感がいつもより大きい。たまにはハメを外してもいいよねと、もう一つパンを買いに行く。  懐から飴を取り出す老婆。コンビニでホットスナックを買う学生。小学生はお腹を水で満たすように水道に並ぶ。それぞれが小腹を満たそうと、何かしらのものを口に入れていく。しかし空腹が収まることはない。  次第に気がついていく。これはおかしい。どれだけ腹を空かせていようが、食べたら食べただけ腹が膨れるのが道理だ。たとえ一欠片の砂糖ですら、一時を紛らわせることができるのだから。だというのに、飴玉に菓子パン、水もコーヒーも山盛りの白米でさえ空腹を満たすことができない。  食べても食べても底なしの欲求が体を苛む。目の眩むような空腹感。それはすでに空腹というよりは飢えと呼ぶべきだ。本能が叫ぶ。このままでは飢えて死んでしまうと。もっと食べなければならない。この飢えを満たせと全身が訴えかけている。 確かに食事をとっている。食べ物の食感、香り、見た目にも食べていることははっきりしている。それでも満腹につながることはない。いや、それどころか食べれば食べるほど空腹が加速する。腹がすいたという一言すら思い浮かべられない。  手元の食べ物はすぐに食べ尽くしてしまう。それでも飢えは続き、だんだんと体から力が抜けていく。食べなければ動けない。当然の理が、理不尽な欲求に屈する。すでに立ち上がる力すら奪われ、ただうずくまっていく。  そんな彼らを取り巻くように、白い靄が浮かんでいる。苦しむ人から“何か“を盗み取り、白い靄は蠢く。  パンドラモンはそれを見下ろしている。黒い靄──ゾンビタトゥーに包まれ真っ黒になったデジモンを従え、ビルからビルへと飛び移っていく。苦しみに喘ぐ人々を嬉しげ眺め、あざ笑いながら。 ***  この世界はパンドラモンにとっては理想的な餌場だ。例えるなら非常に心地のいい三つ星レストラン。たかが成長期程度のデジモンであっても、少し暴れさせるだけで負の感情がいくらでも手に入る。デジタルワールドで得られたそれなど薄い出涸らしにしか思えないほど、リアルワールドの人間が齎す感情というのは芳醇だ。恐怖一つとっても怯え、不安、逃避、願望。複雑な思考が絡み合ったそれは全てがごちそうだ。いつまでも飽きることのないメインディッシュ。  ただ、この快適な環境にも邪魔者がいた。あの忌々しい天使だ。    耳障りな笑い声で不快な光を撒き散らす天使。パンドラモンにとっての悪魔。パンドラモンが苦労して調整したゾンビタトゥーを破壊し、人の負の感情を散らしていく。最近では奴が現れるだけで絶望が薄れていく。そもそもとしてパンドラモンの力は天使の持つ力と相性が悪い。数で押そうが力押しだろうが、パンドラモンの攻撃をスルリと交わし、こちらの勢力を的確に削っていく。鬱陶しいことこの上ない邪魔者だった。  しかしそれも終わった話だ。あの小娘と虎の子の究極体を使った甲斐はあった。溜め込んだ力の大部分を放出することになったが、天使の力の源である生意気な人間を世界から追放することができた。理解に苦しむことに、わざわざ人間に力を預けていたらしい。おかげでひ弱な人間一人いないだけで、見事に役立たずの鶏がらに成り下がっている。無様すぎて自然笑みがこぼれる。    思えばあの人間もパンドラモンからすれば不愉快の塊である。どうもパンドラモンの考えを読んでいたふしがある。いかにも単細胞で頭の足りていない天使が曲がりなりにも戦えたのはあの人間の入れ知恵なのだろう。  ケレスモンを操っていたゾンビタトゥーのコア、そこに叩き込まれた蹴りはパンドラモンにまで衝撃が届くほどの力が込められていた。ケレスモンの墜落で街が破壊される直前の、追い詰められていたはずの状況。だと言うのに、パンドラモンへ伝わってきた力を構成していた感情は、純粋な光そのものだった。頭の固い天使などよりよほど恐ろしいもの。一切の疑いなく自分の去就を委ねられるほどの信頼。未来を思い描く希望。パンドラモンが求める"負"とは正反対の感情。あの瞬間に感じた言葉にできない畏れは、パンドラモンにとって許容できないものだ。  だからあっという間に味方のはずのホーリーエンジェモンのゲートに吸い込まれていった時にはらしくもなく快哉を上げたものだ。力も知恵もないまさに鳥頭だけがこの世界に残るとは、なかなか愉快な話である。  もし、人間がパンドラモンの脅威となりうるのなら、人間を動けなくしてやればいい。新たな災いは、人を苦しめ、思考を制限し、負を捧げるだけの贄とする。この白い靄がいくらでもパンドラモンを強くする。唯一の懸念を除去できた以上、パンドラモンの行手を阻むものなどない。もはや天使などものの数ではない。たとえあの天使連が押し寄せてこようとも、パンドラモンに負けはない。  この世界はずいぶんと広くて、負の感情が尽きることがない。パンドラモンは生まれて初めて満足という感情を覚えていた。一つとして同じものはない、人間の心の動き。それが生み出し続ける甘露を延々とすすり続けることが出来る、まさに天国だ。  ああ、人とはなんと愛おしいことか!パンドラモンの欲望と笑みが途絶えることはない。  ***    生み出した災いとは、”飢餓”。生きるものが逃れえぬ欲求を溢れさせる。白い靄をわずかでも吸い込めば、本能を暴走させ、空腹が体を満たす。代わりに人に与えられるのは生命。どれだけ食べ続けようと、どれだけ絶食しようと、白い靄が命を繋ぐ。ここはパンドラモンのための食卓。この世界の苦しみはパンドラモンへ供するための食材だ。白い靄はさながら料理人でありウェイターである。その営みを途切れさせるわけにはいかない。苦しみに喘ぐ人々は、永遠に贄となり続けるのだ。  ***  街を白い靄が蹂躙していく。  無論黙ってみているホーリーエンジェモンとテイルモンではない。ホーリーエンジェモンが窓から一気に飛翔する。テイルモンは一瞬迷ってから、尻尾の先についたホーリーリングを外す。状況が分からない中離れたくはないが、ホーリーエンジェモンを野放しにすることもできない。代わりに自身の力を蓄えているリングを枕元に置いておくこととした。小さくとも守りとして十分に機能するだろう。最後にノートの切れ端に大人しく待っているようにとメモ書きを残す。そして草太の部屋を飛び出して行った。  先行して白い靄に接触したホーリーエンジェモンは、この靄に違和感を覚える。これまでの黒い靄と異なり、そこにあるのに上手く認識ができない。見下す先には苦しむ人々。この白い靄が、人の近くに集まっている。まるで白い繭に包まれたようにその姿を覆い隠す。  明らかな異常。これまで黒い靄が人そのものを狙うことはなかった。しかしこの白い靄は人に集っている。何かがこれまでと違っている。それでも靄は靄である。パンドラモンが作り出した悪意の結晶である以上、ホーリーエンジェモンの力が効かない道理はない。4対8枚の翼が大きく風をはらみ、柔らかな光を乗せて街へと吹き抜けていく。  だが、風に揺らぎもせず、依然として白い靄はその場に漂い続ける。揺らげど薄れず、人から離れることもない。    想定外の現象に戸惑うホーリーエンジェモンに、遅れてやってきたテイルモンが声をかけてくる。 「ホーリーエンジェモン、あなたは下がっていてください。」 「ぬかせ、この程度吹き散らしてくれる。」 「それより街の人を避難させてください!まずは少しでも被害を抑えなければなりません!その間に私がこの靄を調べます。いいですね?」 「……ちっ、いいだろう。言い出したのならやって見せろ。人の避難は屋内ならどこでもいいな?さっさと済ませてパンドラモンの捜索にかかるぞ。」  いうや否や路上にうずくまる人々を抱き抱えて近くの民家や店、少しでも横になれそうな場所へと避難を開始していく。その間にも白い靄は、駅周辺から徐々に広がり続けていくのだった。   ***  その日のうちにテイルモンの調査は完了した。  苦しむ人たちからのヒアリング──苦しみへの耐性には個人差があるらしい──まだ話す事のできる人によれば、突然に空腹が始まり、何を食べても満たされることがないのだという。靄は街の人にはみえておらず、ひだる神の祟りであると怯える人さえいた。  重度の飢餓感は大人に子供、男女問わずに生じており、信じがたいことに犬猫にそこらの鳥にネズミでさえ無縁ではなかった。  この白い靄が効かないのは、デジモンだけ。実際どれだけ白い靄の中で活動しようとホーリーエンジェモンどころかテイルモンでさえ欠片も影響を受けることはなかった。  これまで黒い靄は物理的な影響はともかく、ゾンビタトゥーの効果が人に対して効果を齎すことじゃなかった。だがこの白い靄はその逆である。まさにリアルワールドに特化した災いである。  靄は依然として街の中心から徐々に広がりつつあり、現状ホーリーエンジェモンたちはこの被害の拡大を防ぐ方法を見出せていない。パンドラモンさえ討てば拡大は止まるだろうが、この飢餓を解消する方法がない。  かつてデジタルワールドでパンドラモンが猛威を振るった時には、ゾンビタトゥーも黒い靄も天使型デジモンのもつ聖なる力があれば除去できた。しかしこの白い靄はそれが通用しない。パンドラモンを仮に封印、もしくはデリートできたとしてもこの飢餓が消える保証がないのだ。  さらにタチの悪いことに、この靄は空腹が齎す苦しみを吸い取り、代わりにわずかな生命力を人に注いでいる。生きていくために最低限の保証がされているのだ。まるで点滴かのごとく。死に至ることはなく、延々と苦しみだけが続く生き地獄。また、飢餓の状態が酷い人間については、食べている感覚すらないままに食事を続けている。どれだけ腹がふくれていようと、飢えの苦しみが手を止めさせない。たとえ腹が破れようと食べるのをやめられないのだ。どれだけ苦しませることになろうと、食べ続けることだけはやめさせなければならない。  報告を聞いてホーリーエンジェモンが慌てて店に避難させた人々を再度別の場所へと避難させていく。  抑制されていてもホーリーエンジェモンの力はパンドラモンの黒い靄に対して特攻をもつ。白い靄への効果はないが、わずかでも慰めにはなる。もう何度目になるか、ホーリーエンジェモンが自らの力を柔らかな光に変えて苦しむ人にかざす。一瞬だけ苦しみが薄れるものの、それでも苦しみが途絶えることがない。  どれだけ力を込めても、白い靄がはれることはない。金の布に隠されたホーリーエンジェモンの表情は凶相というにも生ぬるく、食いしばる表情がまるで笑っているかのように見えるだろう。  近場の人を屋内に避難させた後も、白い靄に埋まった領域を巡って動けない人を避難させていく。羽ばたきは荒く、風打つ音があたりに響く。意識せずとも人々の呻き声が耳に入ってくる。どこにいても聞こえてくる。人間より遥かに広い範囲まで届く耳が、苦しげな息遣いを捉え続ける。 「……苦、しい。誰か、何か食べ物をくれぇ……。」 「お腹すいた……何か、食べ物を……。」  誰もが救いを求める。しかし、その願いに応えられるものが、いない。  ホーリーエンジェモンが見たこの世界は、食べ物の溢れる豊かな世界であった。味にこだわらなければコンビニの軽食が24時間いつでも手に入るし、スーパーに行けば新鮮な食材を選ぶことさえできる。飲食店は乱立し、多様な料理が並べられた看板には、ホーリーエンジェモンからして安価であると認識できるような値が付けられている。     生真面目なテイルモンなどはどこかの主婦にでも被れたのか、飽食がどうこうとケチをつけるくらいである。しかし、それがどうしたというのか。食べられない苦しみに比べれば、飽食などただの言いがかりだ。  食べるものがある。衒いなく腹を満たすことができる。自身が育ったあのスラムにはありえないすべてがある。だからこそそんな上等な世界でどうでもいいことに鬱々と言い訳している草太に怒りが湧いたわけであるが。  だというのに、これはどうしたことだ?  溢れるほどの食べ物を前にして、飢えて苦しむ人がいる。底の抜けた食欲が人の心を歪めている。ホーリーエンジェモンが夢見た世界が、台無しにされていく。    ホーリーエンジェモンが最も恐れる世界がそこにあった。  身の内から震えるほどの怒りが湧き上がっている。一瞬たりとも留まらぬその怒りが、行き場を求めて溢れ出しそうだ。これは、どこに向ければいい?  当然パンドラモンだ。やつにぶつければいい。だが、それだけではこの人々は救われない。パンドラモンを首尾よく封印できたとしても、ゾンビタトゥーが自然に消えることはなかった。であれば、この飢餓も自然に消えることはないだろう。まして、ホーリーエンジェモンの力で消すことができないこの呪いから、誰が解放できるというのか。  ホーリーエンジェモンが培ってきた力が、自分自身を支えてきた力──正義が、まるで役に立たない。  か弱い人間が助けを求めている。それに手を伸ばすことができるようになったはずだ。そのはずだった。だが現実には何もできやしない。この苦しみを止められない。  近くにいるサラリーマンがホーリーエンジェモンに手を伸ばす。心の混乱を押し殺して手をとる。わずかであろうと安らぎがあるようにと、力を注ぐ。こんな役に立たない力であっても、サラリーマンは礼を言ってくる。  ウロウロと避難所として人を集めた屋内を歩く。  子供がいる。いつもホーリーエンジェモンの羽根を欲しがっていて、好きあらば引き抜こうとしてくるやんちゃな子だ。今は青い顔でほとんど意識がない。そばに寄り添う女性は保育士だ。ベテランの保育士で、一度園児を抱いて空を飛んだら危ないだろうと説教をされたことがある。最後に自分もやりたいのにと本音をこぼして子供達に突っ込まれていた。あれほど温かく、凛々しい人だったのに、今は力なくうなだれて、目もうつろだ。しかしそれでも少年の手を握り続けている。  そばにひざまづく。ホーリーエンジェモンに気がつき、少しだけ目に光が戻る。 「お迎え、かしら?……ごめんね、冗談。ちょっと力が出なくって……。でも、もし連れていくなら、私からお願いね……。この子はまだ早いと、あなたも思うでしょう……?」 「貴様など連れていくものか。図々しい。身の程をわきまえろ。このクソガキもだ。うるさくて敵わんからな!」  悪態しかつくことができない。だというのに、何をできたわけでもないのに、保育士の表情が和らぐ。 「あなたが、そう言ってくれるなら……、私たちは、大丈夫ね……。もう、そんな顔して。怖がって、子供たちが逃げちゃうわよ。」  ホーリーエンジェモンの頬に手が伸びる。飢えと疲労で少し震えている。身動きするのでさえ苦痛だろうに、そのか弱い手が、ホーリーエンジェモンに触れる。ひんやりと冷えていて、それでも触れた温もりがホーリーエンジェモンの心に残る。腕を上げるためだけに、どれほどの力を込めていたのだろうか。空腹で動けないというのに、無駄な動きなどする余裕などないだろうに。  だからホーリーエンジェモンは笑った。いつもそうするように、誰もかもを見下すように。弱く哀れで惨めなものに対して笑う。何もできずにただ励まされただけの自分を笑う。急拵えの避難所に高笑いが響く。何もできない惨めな大天使が、なんの力も伝わらないただの笑い声が反響する。 「少しだけ耐えていろ。腹を抑えれば少しは気がまぎれる。……すぐ、とは言わん。だが、必ず貴様らを苦しみから救ってやる。……おい、聞こえているな? よし、ではその時を待て。」  保育士と少年に言うだけ言って反応を待たずに外に出る。まだ、この街全てを見回れたわけではない。少しずつ広がっていく靄のせいで、手が足りない。避難が終わらず、路上に倒れこむ人がまだいる。動けるのはホーリーエンジェモンとテイルモンだけ。だから体だけは動かしていく。  自らの嘲りが生み出した高笑い。屈辱すら感じるホーリーエンジェモンは怒りで気づくことはなかったが、避難所のうめき声は、苦しみは少しだけ小さくなっていた。 ***  ホーリーエンジェモンの頭の中はぐちゃぐちゃになっている。何もできることがない。何一つ役に立つことができない。 天使連に拾われてから、ホーリーエンジェモンは自分の力を疑ったことはない。それだけの修練を積んできたし、十分な実績がある。  だが、そのプライドが、正義が揺らいでいる。  降り立った町外れの弁当屋では、店員が弁当をむさぼり続けている。 「もう食べたくない、嫌だ、苦しい、いやだ……。」  どれほど食べようが、空腹が消えることはない。どれだけ食べようと、満たされない苦しみだけが残る。それでも手を止めることが出来ない。はち切れそうな胃が悲鳴をあげている。それでも飢えに耐えられず口にしていく。食べても、食べなくても苦しみは終わらない。  これは、なんだというのか。  食事とは、こんなものではない。空腹に苦しむことも、泣きながら食べることもない、もっと満たされるべきもののはずだ……!  しかし、こんなものは知らない。この店員は、このままでは飢えに任せて腹が破れるまで食べ続けるだろう。苦しみに泣き続けるだろう。  無理やりに店員を弁当から引きはがす。はちきれんばかりに膨れ上がった腹にはもう食べられる隙間などないはずだ。だというのに、店員は必死で引きはがされまいと抵抗をする。助けてくれ、邪魔をするな、もう食べたくない。矛盾した言葉でホーリーエンジェモンへ救いを訴えかける。  ホーリーエンジェモンにとって、食事とは救いだった。どれだけみじめでひもじい思いをしても、わずかな糧があるだけで明日を信じる気になれた。飢えずに食べることのできる生活が欲しかった。わずかな糧を奪われることのない力が欲しかった。力のない、かつての自分が顔を出す。虐げられるだけの脆弱さ。パン一つ得るだけでも命懸けの日々。仲間は次々と死んでいき、最後まで残ったのが自分だった。弱っていく仲間に食べ物を与えることすらできず、ただ消えるのを見てきた。  弱さは罪だ。何ものからも害されず、害させない。それが正義だ。そのための力だ。そうならないように、そうさせないために力を得たのではなかったのか。セラフィモンに見出されて、辛く長い修練でも、そのためなら耐えられた。そうして今があるのだ。  今、ホーリーエンジェモンは力を得た。正義がある。なのに、できることがない。  頭が沸騰するような怒りが体中を駆け巡る。  一体何をどうすればいいのかもわからない。ただ、これは悪だ。世界中の悪意をより集めた災厄がここにある。    パンドラモンを必ず除かねばならない。  初めはただの義務だった。苦しむデジモンに同情しつつも、正義を身に宿す者の責務として封印をするだけだった。  今は違う。煮えたぎる怒りが、腹の底から全身をめぐる。パンドラモンは生きていてはならないものだ。どうあってもこの世界、リアルワールドとデジタルワールドから奴を滅さねばならない。  喜びを喜びへと戻さなければならない。 3.これからを戦う  白い靄の拡大速度はだんだんと遅くなっている。単純に広がるほど面積は広がっていくため、パンドラモンとはいえども一気に街全部を飲み込むことはできない。避難がひと段落したこともあり、二人は拠点となる草太の家へと戻ってきた。避難だけではなく、こちらから攻め込む必要がある。そのための対策を話し合うためだ。また、テイルモンとしては部屋に残してきたこよりのことが気になるということもある。  幸い草太の家まではまだ距離があったことと、ホーリーリングの力が守ってくれたのか、飢餓の兆候は見えない。   すでに目を覚ましていたこよりが、ぽつりぽつりとこれまでの経緯を話す。  ホーリーエンジェモンとしては語られる全てを信じるつもりはない。だが、それが悪意を持って行われたとは思わない。 「あの、テイルモンとホーリーエンジェモンさんはこれからパンドラモンと戦うんですよね……?」 「ええ。私たちはそのために来ましたから。それに、あの白い靄を何とかするためにも、パンドラモンを逃すわけにはいきません。」 ホーリーエンジェモンとしてもパンドラモン封印・打倒は使命以上の理由がある。 「……私も、連れて行ってくれませんか。」 「こより…。病み上がりのあなたを連れて行くことはできません。無理をする必要はありませんから、まずは体を治すことだけ考えて。」 「それじゃダメなんです!私が原因だって分かってるんです!あの時、私が手を差し出したりなんかしたから、こんなことになってるんです!だから、だから待っているだけなんてできません!お願いします!なんでもします!だから、私も連れて行ってください…!」 「こより……、私は「いいぞ。」何を言ってるんですか!ホーリーエンジェモン!」 「明日の夜明けにパンドラモンを潰しに行く。テイルモン、貴様はそいつと契約しろ。その姿では対して役には立たんが、進化すれば話は別だ。」  全力を振えないホーリーエンジェモンとしては戦力は多い方がいい。ただでさえ靄の中心近くは状況がわかっていないのだ。避難すべき人間がいる可能性を考えれば、人を抱えて運べないテイルモンより、進化してもらった方が都合がいい。 「……分かりました。こより。今からあなたと契約をします。一度契約をしたなら、もう泣き言は許しませんよ?それでも、本当にいいんですね?」 「はい!よろしくお願いします!」  契約についていつかも聞いた話を始めるテイルモンと少女を置いて空へと羽ばたく。最寄りの鉄塔に足を下ろして街を眺める。夜の街は普段であれば街灯や家の明かり、ビルの煌びやかな光があたりを照らす、なかなかの見物だった。今も街灯は道を照らしているし、誰も消すもののいないビルの電気は煌々と灯ったままだ。それらを覆う靄さえ無ければ、夜景としては十分だろう。  風に揺らぐことのない白い靄に光が滲んでいる。そこにはただ明かりがあるだけ。人の営みはそこにはない。何一つ面白味のない風景だ。ホーリーエンジェモンはそのまま鉄塔から動かずその風景を目に焼き付けていく。 ──決して怒りを途絶えさせないために。 ***  パンドラモン討伐へ向かう。陽が昇る直前の濃い藍色の中、3つの影が街の中心へと走る。  ホーリーエンジェモンを先頭を滑るように飛び、テイルモンが後に続く。新たにテイルモンと契約を交わした高間こよりはといえば、ホーリーエンジェモンの金帯にしがみついている。流石に病み上がりの少女ではデジモンについて走るのは困難だからである。例によって難色を示したホーリーエンジェモンであったが、すでにこよりの保護者気取りのテイルモンが盛大に噛み付いてきたため妥協した形だ。契約したとはいえ、わずかな期間では進化するだけのパワーを溜めきれない。わずかでも長い間蓄えるために、テイルモンのまま向かうのだ。    朝日が少しずつ街を照らしていく。白い靄が消えることはないが、街の状況を見るのには十分な光。人のいない街。何も変わらないはずの景色が寒々と映る。  白い靄はどうやら広がる距離に限界があるらしく、昨日の夜からその範囲は広がっていない。靄が広がれば広がるほど、避難に取られる手が増える。パンドラモンを叩くならこのタイミングしかない。  そしてそれはパンドラモンにとっても予想通りの動きである。白い靄を切り裂くようにデジモンが飛び出してくる。パンドラモンが温存していた手駒か、新たに呼び出したのか、クワガーモンやヤンマモン、ゴキモンが一塊となってホーリーエンジェモンに迫る。黒く塗りつぶされた虫型のデジモンは統制の取れた動きでホーリーエンジェモンの前方を塞ぎ、上下から立体的な動きでそれぞれの必殺技を放つ。  クワガーモンのシザーアームズをひらりと交わし、ゴキモンのドリームダストが生み出すゴミを嫌そうに避け、サンダーレイの稲光に合わせて高速移動を行う。光に紛れてクワガーモンのハサミを掴み、勢いよくゴキモンへと叩きつける。甲虫ならではの硬い甲殻がゴキモンの体に致命的なダメージを与えていく。当然その衝撃で前後不覚となったクワガーモンを放り投げ、背後から不意打ち気味に放たれた二発目のサンダーレイへとぶつける。群れになれば完全体を狩ることすらあるヤンマモンだが、単独では大した脅威ではない。頭部を蹴り飛ばすとすぐに地面に力なく落下した。  完全体というのは伊達ではない。力の制限があろうと、並の戦闘経験ではないのだ。  その間振り回される高間こよりといえば、ぎゅっと金帯から振り落とされまいと力をこめるしかなかった。当然これにはテイルモンが猛抗議をする。 「こよりが掴まっているのにあんな動きをするなんて何を考えているんですか!あなたならもっと穏当に対抗できたでしょう?!第一私がいるんですからコンビであたればよかったはずです!……大丈夫ですか、こより?」 「戦いについてくると決めたのはそいつだろうが。この程度で根を上げるくらいなら役に立たん。置いていく。第一、あのひょうろく玉でさえできたことだ。」 「草太さんを基準にものをいうのはやめてください!普通は振り落とされないようにしがみつくので精一杯なんです!荷重かけて急カーブなんてやれるほうがおかしいんです!もう!ここからは私がこよりを預かります!」  色々言いたいことがあるホーリーエンジェモンではあるが、こよりという人間の"おもり"がなくなるのは歓迎である。目を回している少女へテイルモンが駆け寄っていく。 「こより、大丈夫?もし気分が悪いようなら休んでもらってもいいんですよ?」 「……ありがとうテイルモン。でも大丈夫。絶対に止めたいの。私の責任だから。」 「……こより。」 「それに、私がいればテイルモンも進化できるんでしょう?ならやっぱり私も行かなくっちゃ。」 少女の言葉にテイルモンが身を震わせている。薄寒い責任感に寒気でも起きたのだろうか?何にしても時間をかけるべきではない。時間はパンドラモンの味方だ。 「話は終わったな。ならさっさといくぞ。進化するなら今のうちにしておけ。ここから先は足止めはなしだ。」 「あなたのそういうところ、本当にがっかりしますよ……。」 ***  ホーリーエンジェモンとエンジェウーモンが白い靄を切り裂きながら空をいく。完全体二人の飛行能力は並の成熟期程度では追いつけるものではない。パンドラモンが放ったデジモンを容易に引き離し、白い靄の中心へと到達した。  白い靄の発生源、その中心に座すは、パンドラモン。    ホーリーエンジェモンとパンドラモンが直接相見えるのはこれが初めてである。だが、お互いがお互いに抱く感情はすでに初対面のそれではない。かたやリアルワールドに暴力と飢餓、災いをもたらした災厄の権化。かたやパンドラモンの封印を指名として遣わされたリアルワールドの守護者。  パンドラモンの活動のことごとくを阻害してきたホーリーエンジェモンと、ホーリーエンジェモンが守るべき人間を苦しめ続けるパンドラモンである。犬猿の仲どころではない。必ず潰す。互いの視線が同じ意図を持って交差する。  自らをリアルワールドへ導いたこよりを見ることすらない。 ***  動いたのはホーリーエンジェモンからだった。8枚の翼を推進力とし、一息にすべての距離を置き去りしてパンドラモンを強襲する。その右手には聖なる力が顕われ青く輝いている。ヘブンズナックル。ホーリーエンジェモンが進化する前の姿、その必殺技である。あらん限りの力と怒りを込めた拳が、パンドラモンへと叩きつけられる。その瞬間に轟く衝撃音は未だ上空に止まったままのエンジェウーモンとこよりの肌を震わせるほど。紛れもなくホーリーエンジェモンが今撃てる最大の一撃である。    期待を込めた視線の先、見えたのはホーリーエンジェモンの拳と、それを防ぐ黒い塊。黒い靄がパンドラモンの目前に現れ、ホーリーエンジェモンのヘブンズナックルを押し留めている。  これまでもパンドラモンの黒い靄は物理的な攻撃を度々行ってきた。鞭のように打ち据えることもあれば、蛇のように噛み砕く動きもあった。そのことごとくをホーリーエンジェモンは退けてきた。元は微小な粒子の集まりである。容易く散らすことのできる技でしかなかったのだ、これまでは。しかし今ホーリーエンジェモンの拳を受け止めたこの黒い靄は桁が違う。莫大な量の靄が圧縮されたことで、極めて強固な壁を形成している。邪悪な力に対して特に効果を発揮するはずの聖なる力が完全に押し負けている。  ヘブンズナックルの光が消えるとともに黒い靄も薄れていく。靄越しにギョロリとパンドラモンがホーリーエンジェモンへと目を向ける。その瞳に浮かぶは嘲笑。あれほど煩わされた天使を、今パンドラモンは完全に上回っている。青筋を浮かべて二発目のヘブンズナックルを構えるホーリーエンジェモンのこともよく見えている。ホーリーエンジェモンが拳を振るう前に、黒い靄がホーリーエンジェモンの眼前に集めっていく。  直感がホーリーエンジェモンに回避を選ばせる。そして一拍ののちに炸裂音が響く。瞬時に翼へ力を回して上空へと舞い上がったホーリーエンジェモンだが、その両腕は黒く爛れている。黒い靄がまるで爆弾のように炸裂したのだ。回避と同時にとった防御がなければ、この一撃で終わっていた。黒い靄による打撃だけではなく、遠距離での爆発攻撃が可能なほどに、パンドラモンが成長している。  タネを明かせば、パンドラモンが行ったのはファイアピストンである。空気を急激に圧縮することで空気温度を上昇させて発火させる、それを黒い靄で再現したのだ。狭い範囲に急激にかつ大量に靄を圧縮することで高まった圧力が、黒い靄を爆風の如き勢いで弾き飛ばす。まるで爆発のように。こよりから掠め取った理科の知識すら応用を始めている。  追撃に黒い靄を集め始めたパンドラモンだが、背後から感じる危険への対処のために靄を回す。質量すら持つ黒い靄の壁に突き刺さるのは、エンジェウーモンのホーリーアローだ。右手に備えられた弓から絶え間なく雷の矢が放たれる。その隙にホーリーエンジェモンは体勢を立て直し、靄にやられた腕を浄化する。  パンドラモンも撃たれるばかりではなく、早々に迎撃を開始する。ゾンビタトゥーの針がエンジェウーモンへと投射される。針は威力こそ高が知れているが、ゾンビタトゥー感染を招く。浄化にも時間と力がかかる。おまけに数が尋常ではない。ホーリーアローで打ち消せるような量ではなく、エンジェウーモンも攻撃を中断し、回避に専念することとなる。    ホーリーエンジェモンが全力を振るえない以上、エンジェウーモンの攻撃が要となる。エンジェウーモンが隠し持つ最高の一撃。それを至近距離から直撃させること、今とれる勝ち筋はそれだけだ。そのためにホーリーエンジェモンが前衛としてパンドラモンの気を引いていく。白磁のような翼を羽ばたかせ、高速機動による接近戦でパンドラモンを釘付けにする。両腕に力を集め、隙あらばヘブンズナックルを叩き込むべくパンドラモンを翻弄する。パンドラモンは周囲に靄を集め、防御を固めながらもホーリーエンジェモンへと針の投射を繰り返す。  エンジェウーモンのホーリーアローは直線的で読みやすく、パンドラモンの脅威にはなり得ない。しかし変幻自在の軌道から打ち出されるホーリーエンジェモンの拳は確実にパンドラモンに迫りつつある。力こそ制限されていても、その戦闘センスに翳りはない。パンドラモンからすれば、ホーリーエンジェモンには散々煮湯を飲まされている因縁の相手でもある。黒い靄も針も、ホーリーエンジェモンへと向けられ、次第にエンジェウーモンへの警戒が疎かになる。  ホーリーアローのことごとくを弾かれたエンジェウーモンではあるが、無論無策でホーリーアローを撃ち続けているわけではない。いくつもの矢が黒い靄に突き刺さり、パンドラモンを囲っている。ホーリーエンジェモンを叩き落とそうと視野が狭くなっているパンドラモンはそれに気が付かない。  そしてその時が来る。    パンドラモンの周囲に突き刺さった雷の矢が、輝きを放つ。矢としての形を放棄し、雷が解き放たれる。光と熱が周囲を照らし、破壊を撒き散らす。当然矢に囲まれていたパンドラモンが雷光に飲み込まれていく。その溢れる閃光に影が映る。  炸裂する矢にタイミングを合わせて飛び込んだホーリーエンジェモンが、激しい雷に焼き焦がされながらも、左右のヘブンズナックルをパンドラモンへと叩き込む。  雷に吹き飛ばされた黒い靄を無理矢理に集め、パンドラモンがその拳を防ぐ。ホーリーエンジェモンならば必ず飛び込んでくる。その確信がパンドラモンを救った。  天使たちの渾身の攻撃を防ぎ切ったと嘲りを浮かべ、ホーリーエンジェモンを屠るための靄を集めるパンドラモン。  しかしその背後に女天使の影が迫る。そっと、エンジェウーモンが両手をパンドラモンに翳し、エンジェウーモンのもう一つの必殺技”へブンズチャーム”を解き放つ。優しさと美しさを力に変えて放出する光線である。邪なるものと反対の性質を持つがゆえに、相手が邪悪であるほど効力を増す特性がある。周囲の黒い靄が吹き飛ばされ、わずかな靄も攻撃のために回したパンドラモンに防ぐ術はない。巻き込まれまいと離脱したホーリーエンジェモンが離れていくのを目で追うことしかできない。  薄い桃色の、柔らかで苛烈な光線がパンドラモンへ直撃しその姿をかき消していく。  テイルモンは、こよりとの共振励起で引き上げられた力の全てをこの一撃に込めていた。紛れもなく直撃した手応えがある。邪悪への特攻を考えれば生きているはずがない。一連の攻撃で巻き上がった土煙で視界が真っ白だ。追撃を撃とうにも視界が悪くて狙えるものではない。そもそもこの一撃を防げたはずがない。煙が晴れるのを大人しく待つ。   「馬鹿がっ!追撃を放て!」 「えっ?」  戸惑いの声を上げた瞬間、土煙の中から黒い靄の腕が鞭のようにしなりエンジェウーモンを打ち付ける。咄嗟に防御こそしたものの、踏みとどまれる地面などない空中である、そのままビルへと叩きつけられてしまう。  エンジェウーモンの攻撃で舞い上がりパンドラモンを隠したのは土煙だけではなかった。街を覆う白い靄がパンドラモンへと一気に集結していたのだ。それをエンジェウーモンはただの土煙と誤解したのだった。  パンドラモンはヘブンズチャームが放たれる一瞬に白い靄から一気に力を吸い上げていった。強力な光線ではあったが、白い靄はデジモンの干渉を受けにくいデザインとなっている。防ぐことはできないが、邪魔をされることもない。ゆえに、ヘブンズチャームで受けたダメージをリアルタイムで癒すという荒技で、破壊の力を上回って見せたのだった。   白い靄が薄まり、パンドラモンの姿が見えてくる。しゅるしゅると、ヘブンズチャームによってつけた傷が修復されていく。かすり傷程度のそれが綺麗に消える。あえてホーリーエンジェモンにそれを見せたのだろう、パンドラモンの口角が吊り上がっている。  無論、力を急激に吸い上られた人間の苦しみは尋常ではない。息をすることさえ困難なほどの飢えが体を締め付けていく。すでにまともな思考が奪われ、身を焦がす飢餓だけが体を支配していく。だがそんなことはパンドラモンの知ったことではない。 「貴様……!」  エンジェウーモンが吹き飛ばされて行ったビルにはこよりが向かっている。おそらくもう戦える状態ではないだろう。  先ほどのエンジェウーモンの攻撃はこれ以上ないタイミングと威力だった。制限なしのホーリーエンジェモンでさえあれほどの威力を出せるかは怪しい。それをここまで完全に凌がれてしまった以上、ホーリーエンジェモンには打てる手がない。もしヘブンズゲートを開けたとしても、ケレスモンがそうしたようにあの黒い靄で吸い込まれるのを防いでしまう。ゲートそのものが破壊される恐れすらある。正真正銘手詰まりだ。 ***  攻撃の手を止めたホーリーエンジェモンを見て、パンドラモンはにたりと笑う。そして黒い靄の腕を形成する。黒い腕はぐるりと円を中に描く。中空に黒い線が残り、線は繋がれて黒い面になる。面、すなわちデジタルワールドとリアルワールドを繋ぐゲートだ。無理矢理に繋がれた世界を穿つ穴からデジモンが飛び出してくる。パンドラモンの十八番だ。一気に黒く染め上げられ、凶暴化したデジモンが野に放たれる。  ホーリーエンジェモンが歯を食いしばる。握りしめた拳からは血が滴る。知能の足りない小物だと見下していたパンドラモンにここまでコケにされるのははらわたが煮え繰り返るほどの屈辱だ。その視線を前に引き下がらなければならないことも。何より、弱きものを苦しめる悪をどうにもできない自分の弱さに、心が軋む。  撤退。一気に反転し高間こよりの元へ向かう。すでに気絶しエンジェウーモンから退化したテイルモンを抱きしめているこよりをひったくるようにして抱え、一目散に撤退する。  パンドラモンはそれを追わない。今ホーリーエンジェモンが見せたのは紛れもない負の感情だ。ホーリーエンジェモンは、それがパンドラモンを強くする贄だと知っている。だから高飛車な態度でパンドラモンを見下し、怒りを見せることこそすれ、負の感情としないように感情を抑えてきた。それが今、確かに崩れた。わずかに中空を漂うそれを、パクリとパンドラモンが飲み込む。  パンドラモンの直接対決は、パンドラモンに軍配が上がったのだった。 ***  パンドラモンは一通りデジモンを呼び出すと、再び力を蓄える作業に戻っていく。いかなパンドラモンとはいえ、無尽蔵に呼び出せるわけでもない。エネルギー源こそ飢餓に苦しむ人の数だけあるが、無理矢理搾り取って殺してしまうわけにはいかないのだ。ただ、ホーリーエンジェモンを下した以上、かつて自分を封じたセラフィモンであろうともう負ける気はしない。  だが、それ以上にパンドラモンの本質をなす何かが、人々の飢餓を求めている。それはパンドラモンにとって、戦いや災いを求める本能ではない、純粋な欲望と言えるものだった。 4.世界終焉のロードマップ  パンドラモンに敗れ撤退したホーリーエンジェモンたち三人であったが、ゆっくりと休む余裕はなかった。パンドラモンが呼び出したタトゥー付きのデジモンの処理である。パンドラモンは自ら動くつもりはないらしく、支配下のデジモンによってホーリーエンジェモンたちを追い詰めるつもりらしい。  白い靄によって耐え抜いたとはいえ、ホーリーエンジェモンとエンジェウーモンにしてやられたことは事実である。ゆえにゾンビタトゥーによる間接的な攻撃で仕留めようというのだろう。    ホーリーエンジェモン達からすれば、逃げられたことは良いものの、ゾンビタトゥーに操られたデジモンが街を闊歩するのは問題だった。破壊を繰り返すデジモンたちを放置することはできない。万一避難所が襲われれば何十という人間が傷つけられ、命を落とす危険性がある。あふれかえるデジモンを退けること、それが喫緊の問題であった。  ***  草太の家に帰還した少しして、テイルモンが目覚めた。こよりによって状況が説明されると、すぐに動き出す。今は少しでも街を彷徨くデジモンを倒すこと、そして苦しむ人々をさらに中央から離すことが必要だ。  テイルモンが目覚めるまでにホーリーエンジェモンが実施した高空からの偵察によれば、ゾンビタトゥー付きはパンドラモンのいる中心街を囲むように巡回している。そこから近い避難所はタトゥー付きのデジモンによる危険が大きい。よって、ホーリーエンジェモンは引き続き避難活動に行動の全てを当てることになった。幸い白い靄の発生源から離すように避難を実施していたおかげで、中心街に避難させた人は少ない。それでも残っていた人々を避難させていると、デジモンに遭遇することはあった。人々を抱えるホーリーエンジェモンを守るエンジェウーモン。ゾンビタトゥー付きのデジモンをちぎっては投げ、聖なる弓矢が一射ごとに確実に動きを止めていく。周囲の警戒をするこよりと共にホーリーエンジェモンが離脱するという即席の編成ではあったが、なんとか中心街付近の人間の避難をすることができたのだった。  だが、その時間はパンドラモンをより成長させることにもなった。  パンドラモンがより広くへと白い靄を拡散するために作り上げたのが、街の中心に聳え立つ黒い塔である。 ***  ホーリーエンジェモン達三人が黒い塔についての調査結果をまとめる。  「パンドラモンが作り出した黒い塔は白い靄を広げるためのものでしょう。現にこれまで街の外れまで届いていなかった白い靄が明らかに範囲を広げています。今は結界がありますからそれ以上広がることはありませんが、いつまで持つことか……。もし、結界が破られることがあれば、それこそ京都や大阪まで白い靄が広がった場合、もう何ものであってもパンドラモンを倒すことはできないでしょうね……。」 「もう、もうダメなの、テイルモン?」  怯えた瞳でこよりがテイルモンに縋り付く。かつて散々にパンドラモンに使い潰されかけた少女である。その恐怖は並大抵ではない。 「……落ち着いてください、こより。大丈夫です。私たちはまだ全て出し切ったわけではないのですよ?あなたも知っているでしょう?まだ、希望はあります。」 ***  ──これでもう、希望は残らない。  パンドラモンは人々から吸い上げた力を元に、黒い靄を物質として顕現するまで密度を上げて組み上げていった。白い靄を広げ、引き寄せる。いわばアンテナとなる塔だ。  これまでなんとか被害を逃れていた街の外周部すらも白い靄に沈んだ。天使連がパンドラモンを逃さないために作り上げた結界が白い靄を防ぐ壁となっている。だがそれも時間の問題だろう。一万人を越える人々から力を吸い上げ続けるのだ。白い靄が結界内を埋め尽くし、飽和する。そうすれば隣接する他の都市、より多くの人間に苦しみを分け与えることができる。この世界の広さをパンドラモンは知らない。だが、人と人とを苦しみでつなげるネットワークは範囲が広がるほど力が集まるのだ。力では干渉し得ない、純粋な感情──飢えと苦しみ──のネットワークだ。誰にも壊すことのできない、この力の源泉があればパンドラモンが負けることはあり得ない。  ゆえに、どれだけ世界が広かろうとパンドラモンはただ待っていればいいのだ。いずれ世界は白い靄に沈み、全ての生命はパンドラモンのために苦しみを差し出す。  その時を夢想し、パンドラモンは一人静かに笑うのだった。 5.変わらぬ二人  リアルワールドにようやく帰ってきたというのに、辛気臭い光景に気が滅入る。草太の目には白い靄と黒い塔が遠目に見えている.そしてゾンビタトゥーに覆われた巨大な影。  できる限りタトゥー持ちに見つからないように物陰を伝っての移動してきて、ようやく家へと続く橋を渡るところまで来たというのにだ。なかなかうまくいかないものだ。  草太の前に現れたのは2階建ての一軒家ほどの大きさを持つ、ヤドカリのようなカタツムリのような姿をしたデジモンである。 ──シェルモン!のどかな見た目の裏腹に知性が低く好戦的なデジモン!必殺技は液体を高圧で発射するハイドロプレッシャー──  などとそんなデータを知るはずもなく、ひたすら逃げ回ることになった。  シェルモンは動きこそゆったりとしているが、見た目にそぐわぬ足の速さを持つ。なにせ一歩の大きさが違いすぎる。河川敷近くまで来てしまったせいで建物が少なく隠れることも難しいのが辛いところだ。  草太が駆け抜けたばかりの歩道をブルドーザーのような太い響きと共にシェルモンが飛び出していく。なんとか狭い道に入り込んではみるが、力ずくでシェルモンが道を押し広げていき、対して引き離すこともできない。時折曲がりきれずに民家に突っ込みながらも諦める様子がない。しかし、追いかけっこに焦れているのは草太だけではなかった。  突如シェルモンが足を止める。ぐぇっグェっと聞き苦しい音を立てる。数々の戦いを経て磨かれた直感が横に飛べと叫ぶ。一瞬の逡巡さえ惜しんで横っ飛びする草太。直前まで草太がいたその場所を何かが通り過ぎる、盛大な破壊音が響く。草太は飛び込んだ勢いでゴロゴロと転がり、速度を殺さずに立ち上がって駆け出す。何を飛ばしているかは知らないが、直撃したらおしまいであることは間違いない。よって振り返って確認する必要すらない。  再び始まった追いかけっこだが、むしろ射撃ゲームか何かである。シェルモンに有利すぎるゲームに文句をいう暇もない。知能なんてなさそうな顔をしている割に、草太を逃げ場の少ない河川敷方面へと誘導している。それでも逃げ続けるしかない。  しかしそれも道路に植えられた街路樹が草太の前に切り倒されるまでだった。タタラを踏んで急停止するも、よく育った街路樹は前方どころか草太の逃げ道のほとんどを生い茂る枝葉が塞いでいる。逃げ道がわかりきっている獲物ほど狙いやすいものはないだろう。初めてシェルモンが口から何か放とうとしているのを草太は見た。それは草太を容易く吹き飛ばし、一撃で行動不能にするだろう。というか死ぬ。  なんだか覚えのあるシチュエーションに思わず頬が緩む。そして代わりに締まったのは首だった。  シェルモンの口から放出された高圧の液体が一直線に街路樹を粉々に破壊していった。  宙吊りになった草太はその一部始終を見ていた。いつも着ているパーカーのフードを引っ張られて、盛大に首が締まっている。なんとか力を込めて首にかかった体重を分散する。  自分の攻撃を宙吊りとなってかわした草太をシェルモンが怒りと共に見上げる。草太も恨めしげに自分を引き上げた存在を見上げる。 「……お前、もう少し助け方ってものが、あるだろ。」 ごほごほとせき込みながら文句を言う。一言いうたびに締め付けられた喉が痛む。 「礼一つまともに言えんとは、偉くなったつもりか?」 「いいからさっさと下ろせ。ほら、承認だ。行ってこい。」 「初めからそうしておけ、馬鹿者が。」  再会の挨拶すら通り越して力の解放を申請するホーリーエンジェモン。苦情もそこそこ、さっさと取り出したスマホで承認を済ませる。フードから手が離され、草太は地面に着地する。飛び出したホーリーエンジェモンも、服の埃を払う草太も、お互いを見ることすらない。  例によって追加で申請されたエクスキャリバーも承認しながらようやく息をつく。背後では高らかな笑い声と共に天使がシェルモンに襲い掛かっている。  デジタルワールドから先、身の安全という点ではおもちゃの街以外では常に気を張る必要があった。それをようやく緩めることができた。自分本位の偏った視点でしか物を言えない短気なアホでも、その実力は確かだ。番犬としてみれば悪くはない。  早々にシェルモンを下したホーリーエンジェモンが草太の元へ降り立つ。 「……状況は分かっているな?さっさと奴を潰しに行くぞ。」 「お前な……。状況も何もまだ戻ってきたばかりだ。ああだこうだ言う前に説明しろ鳥頭!」  命の危険を助けられようと、手詰まりな状況を打破しうる相手だろうと、出てくるのは変わらぬやりとり。感謝の言葉より不満の言葉が口に馴染む。止める者のいないなか、悪口と皮肉とを互いに突き付けていく。  それが落ち着くということに、何より腹が立つ二人なのであった。 後編に続く