カタカタカタ。カタカタカタ。トン。 ネオサイタマの一角。小さなカンズメIRCバーの一画で小気味よいタイプ音が響く。 「やれやれ、ヒデェ夜だな」 打鍵音の主――ホーグ・フーガは、GREPしたハイデッカーの動きに一通り目を通し、IRCをシャットダウンすると、 受付にトークンを渡し、建物から数歩歩き……KMCラジオのリレー放送デコイが始まったのを確認して、素早くその場から離れた。 この日、凶悪テロリストのモタギ・ウエカダは一夜にして伝説になった。 それはネオサイタマでは一夜にして忘れ去られる砂上の楼閣であることを意味する。 「あの爺さんに何が起きたか知らねえが、それじゃあちょっと淋しいだろうよ」 おそらく、中古ジャンクショップの主は帰って来れぬであろう。 ニンジャ第六感に頼るまでもなく、このところのハイデッカーの動きは異様だ。 検挙率に反比例するように上がる犯罪率……生き延びた男はそこに何らかの胡散臭さを感じ、しばらくはハッキング行為からすらも離れている。 その無聊を慰めるでは無いが……どうせなら、オーボンの間くらいは「伝説」を保たせてやろうと、 ホーグ・フーガは各地のIRC掲示板や匿名チャットに手を出しては話題の種を蒔き続けていた。 『テロリストはニンジャに違いない』『仮面テロリストのニアデス=サンは美少女じゃ無かったんですか?失望しました』 『オムラの新兵器がネオサイタマを狙っているのでは?』『モタギ=サンによって官房長官は殺され、キョートは滅び、月が割れ、俺は彼女ができる』 そのどれもが、少し詳しく知っているなら訂正したくなるような嘘や、あえて間違えた部分を混ぜたものだ。 しかし、訂正したという行為が噂を「聞きかじりの知識」から「真実」へとランクアップさせ、人は忘れがたくなる。 (実際、古臭いメソッドだがな。生体LAN端子どころか、タイプ速度すら要らねえ) モータルだった頃に老ハッカーから仕込まれた小細工の数々。 それこそが彼をハッカー足らしめ、またギリギリで自我破壊奴隷化から身を守った盾であった。 とはいえ、それにしても今夜は物騒な事件が多すぎる。 自己満足めいた行為は止め、とっととねぐらに戻って大人しくすべきかと逡巡した時、遠くから喧騒の声が聞こえた。 「お……おいヤメロ! 君、早くドゲザするんだ!」「死んじゃうよ!」 「スッゾコラー市民!」「降伏しなさい!」 (なんだ? ハイデッカー?) 確かこの先に有るのは、マルノウチ・スゴイタカイビルとその広場だ。 パトロールコースからは外れ、しかし治安の良い大通りを選んだはずだのに、おおかた誰かが通報でもしたのか。 運の無さに舌打ちし、様子だけ見て迂回するか決めようと目を細める。 そこに映ったのは、数年前のマルノウチ抗争慰霊碑の前で弱々しいカラテを構える女性と取り囲むハイデッカー。 さらにそれを恐る恐る眺めるネオサイタマの市民たちだった。 「ナンデ?」「最初はただの喧嘩だよ。センコを捧げる行列が通行の邪魔だってさ」 「それで誰かが通報して」「ハイデッカーが慰霊碑の撤去が決まったって」 「そしたら」「彼女が」 市民のざわめきが耳に入る。 「嫌だ!」 おおかた、マルノウチ抗争の遺族だろうか。 女性のか細く、されど決断的な叫びが広場に響く。 「嫌だ!! なんでオーボンに!センコを止めなきゃいけないんだよ!!  死人の扱いくらいちゃんとさせろよ!!」 「「「ソマシャッテコラー市民!!」」」 ハイデッカーは既に暴徒鎮圧ショットガンを構え、非武装のモータルに銃撃をくわえようとしていた。 (やめとけよ、無駄な抵抗すんなって。インガオホーが来るぞ) ネギトロめいたオーバーキル光景を脳裏に思い浮かべ、ホーグフーガは空を仰ぐ。 夜空では黄金立方体の影が蠢き、髑髏めいた月が「インガオホー」とZGGGGGGTOOOOOOOOM!KRA-TOOOOOOOOM!KABOOOOOOOOOOM!DOOOOOM! 「「「グワーッ!!?」」」 「は」 その時確かに、彼は信じられぬものを見た。 月は割れ、黄金立方体の影を蒼雷が撃ち貫き、ハイデッカーは一糸乱れぬ動きで緑色の血を吐く。 「アイエエエ!!?」「ハイデッカーが……緑!?」 「ははは、ハハハハ! ハハッ!! ナンテコッタ!」 市民たちが悲鳴を上げて困惑する中で、ホーグフーガは笑いながら苦しむハイデッカーに近づく。 そして顔を上げさせると、フルフェイスメットの顔に渾身のストレートを打ち下ろした。 「来ねえってさ、インガオホー! じゃあ殴ろうぜ! 俺はこいつらが、心底気に入らなかったんだ!」 「それは……」 「俺も」 「俺もだ!」 呆気に取られていた市民たちの中に、カラテの火が少しずつ灯されていく。 一人、また一人とハイデッカーを掴み、殴り、ボロ雑巾のように踏みつける。 ホーグフーガは熱狂する群衆から離れ、目をパチパチと瞬く女性の脇をすり抜けると、 火の消えたセンコの前にトークンを一つ置き、手を合わせた。 「え、えっと」 「なあ、センコまだ持ってるか。よけりゃ譲って欲しいんだが」 「ええ、一応まだ有るけど……」 「返しそびれてたんだ。ドンブリポン一杯分。  ここで死んだわけじゃねえだろうが、ついでに持っていってくれるだろう」 それはヨゴレニンジャの自分にも、他の奴よりは少しマシに扱ってくれたキョートのニンジャの分。 奴隷ハッカーから抜け出した時に居合わせたジャーナリストたちの分。 そして、モタギ・ウエカダの分であった。 『……ヘイ、人々、聴け!……今日のナンバーは……』 「ボン・ダンスでもするか。したことねえけど」 誰かの改造サイバーサングラスから、KMCラジオの音が聞こえてくる。 ネオサイタマの日々が、また始まろうとしていた。