顔の傷が疼くたび、男は仮面の下で目を細めた。時が経っても傷は治るどころか、 却って鮮烈な痛みを彼の心の中に投げかける。あれからもう何年経っただろう―― そのまま瞼は閉じる。千人からの聖騎士隊が紙切れのように千切り飛ばされる嵐の中、 しかし彼は己の剣技によって生き延びていた。死んでたまるか、という思いが、 本来なら敵わぬはずの相手、後に彼の上司となる魔王軍の重鎮に、 三日三晩切り結ぶという不可能を果たさせた――けれどそれがどうしたろう。 彼が守るべき民は、紙切れとすら言えぬ塵のごとくに削り取られたのだ。 吹き荒れる刃の渦が、清廉にして慈愛に満ちた聖女の喉笛を捉えた瞬間といったら―― ぽん、と肩がずしりと重くなる感覚と共に、襟足がちりちりと乾燥する音がする。 振り向けば、彼の体躯の倍はあろうかという――獅子面の大きな亜人が立っていた。 溜め息は己の無力から、この無神経で――暑苦しく――押し付けがましい、 来訪者への不快感へと切り替わって、如実に彼の仮面の下に現れる。 亜人はその僅かな唇の動きに、特に気を向けるでもなく、彼を友と呼んだ。 友?お笑い草だ。高々一度、酒宴を共にした程度の間柄。同僚以上ではないはずだ。 まして男は、内に燻る復讐心を押し殺してまで、憎き魔王軍に潜入した間者。 そんな相手を友と呼べるのなら――そう思えるのなら、その眼球は硝子玉と同じだ。 金糸雀色の硝子玉は、男の持つ剣を、感情を抑え込む仮面を、ただじっと見ていた。 ともすれば、武力において並ぶものなし――そう称される四天王の一人と、 幾度となく打ち合い、しかし欠けることなく刃に冷たい光を帯びた彼の剣を、 俺にも触らせてくれ――そんなことさえ言い出しかねなかった。 亜人の体躯からすれば、それはせいぜいが小刀という程度の大きさにしかなるまい。 何よりその肉体にゆらゆらと纏わりつく炎は、生物としての強さを物語っていた。 剣士としての積み重ねた修練は、単なる人間である彼を、軍内部でも無二の強さとした。 それでもなお在る、人と魔物との生物学的な差――それを思い知らされるようだった。 仇との差は、その下で鍛錬を重ねた日々の重さを持ってしても、なお埋まらぬような―― 男の表情がまた少し暗くなったのを見て、亜人は極めてにこやかに牙を見せ、笑った。 どれだけ断っても次の週末は空いているか、いや今からならどうだ、午後からは? 相手が明確に拒絶の意を示すまでひたすらに誘い続け呼び続け、 よくまぁここまで諦めの悪いことだ――と、誰からも思われている。 しかもそれが特定個人にではなく、少しでも縁のできた相手には誰彼構わずという有様。 一度は彼の持つ情報網や人脈目当てに都合をつけてはみたものの、 その代償がこれでは釣り合わぬというものだ。仮面の下はまた不愉快に歪んだ。 初めは、人の世を捨て魔に下った自分を怪しんで探りを入れてきたのかと思った。 けれどそれのできるぐらいに、獅子面の中身は出来がいいというわけでもなく、 また硝子玉二つ転がして、あちこちに友を探すその姿は、獅子というよりは子供であった。 鬱陶しい――一言で表せばそうであろう。けれど――言い切れなかった何かが、 単なる敵味方、勇者、魔物、人、亜人――そういったところを越えて己の中に残ることに、 男は何とも苦々しい思いを抱くのである。自分の本来の目的は、何だったであろうか? 魔王軍を内側から腐らせるために、裏切り者の汚名を被ってまで中に入り込んだのに―― この大きな猫のごとき童は、目の前の男が本当に自分たちの仲間であるかのように語る。 彼の仕掛けた悪辣なる罠を、理想のための礎かのように言う―― これが単なる愚かさからのことであれぱ、いつか人気のないどこかで、 その無駄に太い首を掻いてやれば終わる話だ。男にはそれができる。 それを――踏みとどまっている自分がいる。武力では己に届かぬ、こんな獣相手に。 いつか男は、それだけしつこく他者を誘う理由を、彼に聞いてみたことがある。 単なる寂しさだとか――自分本位であったなら、やはり刃は振るわれたろう。 けれど帰ってきた答えは、ただ一つであった――俺もお前も、今でこそここにいる。 しかし明日はどうかわからない。だから少しでも早く、想い出を作っておきたいのだ、と。 忘れられる権利、静かに眠る権利――それの侵害であるとさえ言えた。 想い出とは、双方向のものだ。彼の言葉には、明日を知れぬ軍属の身、誰かの中に―― たとえ暑苦しさだけが抽出されたとして――残りたい、そんな想いが透けていた。 死を間近に見た者同士にしかわからない、有無を言わせぬ言葉の厚みがあった。 同じ人間を斬るのは怖くないか?反対に投げかけられた問に、男はただ唇を噛んだ。 魂までも魔に塗れたことの演出のため、自ら幾人かを手にかけたことはある。 かつて勇者様と自分を呼んだその口が、裏切り者――そう恨めしく呟くのも見てきた。 あの日、本当は自分も死んでいて――この身体だけが怨念に動かされているのかも、 そう考えてしまったことも一度や二度ではない。個室を与えられるだけの地位にあるのは、 時折、あの光景が夢の中にぶり返すことを思えば――なんともありがたいことである。 男は問には答えず、同じ質問をそのまま投げ返した。彼のような獅子面の亜人は、 人の世とも魔の世とも交わるような境界の民であるから――魔の側として、 やはり拳を交えたこともあるだろう、それが答えだ――と。 亜人は笑って答えた。同じ側に立ってさえいれば仲間だ、そうでなければ敵だ、と。 俺はただ一人でも多くの仲間の中に、俺を覚えている人を増やしたい―― 仮面の下はまた歪んだ。男はその感情が何かには、答えを探そうともしなかった。