こんこんこんと扉を叩かれ、僅かに開くと光が漏れ入る。 白に縁どられたシルエットの、頭から跳ねた毛の房に見覚えがあった。 「……シュヴァルツ?」 「調子どう?お見舞いに来たよ」 「お見舞いって、今夜だけれど……」 「昼間はちょっと色々あって忙しくてね。ケンタル先生から面会許可は取ったよ」 病室のベッドに座し、上半身を起こした姿勢のオブシディアナ・アルケア……黒沢葵は、常夜灯に切り替わった薄闇の中で珍しい時間の来客を出迎えた。 来訪者のシュヴァルツはベッドの横に置かれた椅子の上に腰かける。今はどっぷりと日の暮れた深夜、あまり長話はしないように、と先生からは釘を刺されていた。 「スイカ持ってきたよ、リハビリはどんな感じ?」 「えと……手足は少し動くようになった。まだ末端の感覚がないけど、時間を置かず回復するって先生が」 シュヴァルツの視線が葵の膝に置かれた手先に移る。 数日前、彼女は体内のアルカディモンによって肉体を乗っ取られ、デジメンタルを用いて剥離を行う救出作戦が展開された。 作戦は成功し、アルカディモンの命もまた奪うことなく回収されたが、葵の肉体や神経系は幾度かのデジモンの変質に巻き込まれた格好となり、 外傷に加えて一時的に神経が人間の身体の動かし方を忘れてしまう状態となっていた。しかし、それは永続的な障害とはならず、現在ケンタル先生の病院でリハビリを続けている。 影響が残らないことにシュヴァルツは安堵の息を漏らした。 「よかった……検査が進むまでどうなってるか分からなかったから、これならすぐに良くなるかな」 「うん、ただ……」 「どうしたの?」 「―――少し、怖いの。まだ何も決められてないのに、時間が進んでいくみたいで」 指は動かない。けれども葵は重ねた手に力を込めたようだった。 作戦は成功した、それ自体はほぼほぼ完璧と言ってよい。一人の少女が、重傷を負ったことを除けば。 作戦に参加した奈仁濡音ノノが葵を説得しようと手を伸ばしたその瞬間に、アルカディモンの形態が完全体に移行したことで、制御を離れた葵の肉体がノノの片腕を消滅させた。 ノノ自身は生還し、同じく治療を受けているが、欠損した片腕はひとまず別のデータ……義手を装着することが決定している。 そして、彼女の仲間だという少女が負傷の件に激昂して病院に殴りこむ騒ぎも起こった。怒りの矛先は葵自身よりも、救出作戦の実質的指揮官であった映塚黒白に向けられていたが。 ―――葵もその騒々しい怒号を耳にして、アルカディモンが、自分が奪ってしまったものの重さが改めて心に影を落とし始めていた。 「……今は考えることじゃないよ。ノノちゃんは少なくとも君を恨んでなんてないし、マモちゃんもね。それにこれからのことは、皆で考えていく責任があるから」 それだけでなく、生かして回収して"しまった"アルカディモンの処遇についても今は宙に浮いたままだった。 ペルヴィモンが懸念し続けているように、アルカディモンの能力自体は危険性の高いものであり、それを仕組んだ元凶のデジモンイレイザーの今後の動きを抑えることもまた難しい。 一方で、この作戦に参加した中で少なくない数のデジモンテイマーが生命としてのアルカディモンを尊重することを望んでもいる。彼らの協力あって成し得た救出作戦である以上、アルカディモンの処分が反発を呼ぶことは間違いない。 かといって作戦参加メンバーが由来もバラバラな連合軍であるがために、誰が責任を持つべきかさえ定かとは言えない。長期間放置もできないため、数日中にBVのボスのドゥフトモンが暫定責任者の名乗りを上げる予定である。 「とりあえず、もうしばらく様子を見てからボスを中心に会議を開く予定だよ。黒白くんは……会議のまとめ役をやりたいだろうけど、すごい過労でベッドに縛り付けられてて面会謝絶だってさ……」 ……とにかく黒白くんのことで、ホントのこと言わない方がいいかな。 マモの一件の後、作戦後の過労で入院中のはずの黒白が病院から抜け出し、昼間はずっと捜索に回っていたことをシュヴァルツは口に出さなかった。 翌日に傷を増やして帰還した彼がアルカディモンの処遇を決める会議の音頭を取るのは、少し先の話である。 「でも、私は……」 薄暗い中でも、葵の表情が憂いに歪むのがはっきりと見えた。時間は進む、けれども澱んだ心は何も考えることができない。 「―――じゃあさ」 「ボクの話を聞いてよ、これまでと、これからの話」 「……?」 唐突に切り替えられた話題に葵が頭に疑問符を浮かべる。 「いや、本当はそのこと話に来たんだ。……君は地下で、血塗れのボクを知ってる。君には、ホントのことを全部話しておきたかったんだ」 血塗れ、その言葉に葵の脳が殴られたかのように記憶を想起した。彼のための花を買いに行った最中、犯罪組織と戦い敗北して、彼に助けられて…… 「あの、ごめんなさい。その時は……」 悪漢の血がべっとりと塗られたシュヴァルツの姿に恐怖心を駆られて、彼の手を拒んでしまった。そのことを今思い出して謝罪しようとしたが、 「いや、それはいいんだよ。……でも君の想像通りの話にはなる。大丈夫?」 ただでさえ直近の出来事で精神的に弱っている状況。本来なら、葵の心理ケアを申し出た秋風百合の許可が必要になるだろうが、流石に深夜にはここを外しており同席はしていない。 葵は自分の判断で、ゆっくりと首を縦に振った。 ―――ボクには過去がない。出身地、家庭環境、戸籍の公的な情報や、幼少期の記憶、そして家族や関わっていたであろう人たち全員の記憶まで……ボクという個人に関係する情報は、全部が抹消された。 だから、昔のボクを辿ることはできない。本当は肌の色が白かったり髪の色が金色だったかもしれない、もしかしたらドイツ人とかだったかも。もう何もわからないし、情報の復元もできないけどね。 そうしたのはとある実験施設だ、デジタルワールド内の人間の情報的連続性……だったかな、とにかくそういう実験のためにボクは過去を消されて、そのまま施設に留め置かれた。 ……過去を復元して帰すよりも、せっかく身元の無い子供なら実験で使い潰しても誰も咎めないと思ったんだろうね。案の定、ボクと同じ立場の5人が新しい実験に回された。 それが、今のボクを作った実験だ。ナイフみたいなものを渡されて、デジモンを使って殺し合えって言われた。―――ボクは全て、その通りにしたよ。幾百幾千も戦って、幾千幾万のデジモンを犠牲にした。 言い訳でしかないけど、ボクには過去がない……実験の決定以外に、ボクには行動を決めるべき規範が何もなかったんだ。実験をこなすこと以外に、ボクの存在価値は何もなかった。 一人は緑の髪の男の子だった。実験で傷つくのも傷つけるのももう嫌だって泣きわめきながら、ボクに自分を殺してくれと懇願した。言う通りにした。 一人は青い髪の女の子だった。実験が進むほどに心が壊れていって、周りや自分が何なのかもわからなくなって、狂いきってボクを殺しに来た。殺して終わらせた。 一人は白い髪の男の子だった。赤い髪の女の子を連れて実験施設から逃げ出そうとした。ボクはその追撃を命じられて……殺した。その子は最後に笑いながら、ボクと友達になれなかったことを悔やんでた。 それからもボクの存在意義は実験にしかなかった。ボクはそこで求められた役割を為すことしかできない、永遠に逃れられないんだって。あの時、紅く輝く命に出会う前はさ。 色々あって、ボクはアスタモンと一緒に今のBVに転がり込んだ……前言った通り、あそこ変な人ばっかいるんだけどさ。 それでも全員、どこかしら真っ当に生きてはいる。ずっと傀儡みたいに生きていたのがあそこでバカな事に巻き込まれている内に、だんだん自分が人間みたいに思えてきて――― 自分が犯した罪を、ようやく自覚するようになった。 「……」 葵は呆然と少年の言葉に聞き入っていた。 "誰かを傷つけて、命を奪うのってとても簡単でさ、何も痛くも苦しくもない。だから怖いんだ。苦しさは何もかも手遅れになってから気付かされて這い上がってくる" かつて、自分を説得しようと下シュヴァルツの言葉が、実体験を伴うものなのだと今更に気が付いた。 「……結局悩む間もなく、今みたいなことになっちゃったけどね。どうすべきかなんてわからない、多分ほとんどの人にわかったもんじゃないと思う」 「けれどあの時……必死に生きようとしてた人を思い出した。生まれに呪われて、過去に打ちひしがれて、けれども自分がそう願うから生きようって、それだけで地獄を吹き飛ばしたバカみたいな人」 紅い火が嵐を喰らう。呪いの鎖を断ち切って自由になった少女。少年があの時から、その姿に抱いていたものは憧れだったのかもしれない。 そして今回の激闘の中で、我武者羅に願ったことで、彼女の背に少しだけ届いた。 「罪とはずっと背負っていくもの、ボク自身が刃であることも変え難いもの。きっとこれからも、ボクは戦うことを避けられないとは思う」 「けれど、それでも望むんだ―――今度は縛られるんじゃない、ボクがボクの守りたいもののために戦うんだって。綺麗な花の咲く、この世界を」 黒を裂く灯が瞳に宿る。罪悪感は見る者の視線も、自分自身の視界も曇らせていくが、人生はそこで止まってはくれない。抱えていって、決めた明日を踏み出すしかないのだ。 「……なんだかすごい話ね、遠い世界にいるみたいな……」 「ううん、同じつながった世界の話だよ―――君の世界の話でもある」 自嘲するかのように呟いた葵の手を、シュヴァルツは優しく握りしめた。まだその手の熱も彼女は受け取れないとしても。 「抱えているものを降ろすのは簡単じゃないけど、それを誰かと一緒に負うことはできる。悲しいことは半分こできるし、嬉しいことはお揃いにしていい」 「―――何を選ぶとしても、それを恐れないで。この手はちゃんと離さないから」 シュヴァルツはにっこりと微笑みかけた。それが彼の望む、守りたいものだったから。 「知ってる」 「えっ」 少しの含み笑いを漏らして、葵はそう返答する。 「だって、ついこの前にも同じことを聞いたから……あなたが告白してきて」 その一言で、シュヴァルツの顔が薄闇でわかるほどに蒼白になった。 「あの、あのあのあのそのえ?その……覚えて、る?」 「覚えてる、はっきり聞こえてたし、皆あれ聞いていたよね?どう聞いたってあれは……」 「も、もうやめて……!!いっそ殺してぇ……!!」 突っ伏してプルプルと身悶える少年の羞恥に、葵はくつくつと笑いが堪えられなくなった。実際、アルカディモンとの融合のショックで僅かに途絶えた記憶もあったが、大半は―――そしてあの言葉は、忘れずに残っていた。 本当に何もかも真っ暗だったと思う。 自分を助けようとした子を傷つけた。二度と戻らないかもしれない身体の変質。このまま戦い続けたら、明らかにより多くの人を……恐怖と苦痛がとめどなく溢れ出して、絶望ってあんな風に真っ黒に塗りつぶされているんだと初めて知った。 だけど、深い奥底から、真っ黒の深淵の中から何かが光って、それがあなただった。はっと眼を見開いて、そこに皆がいてくれた。 「顔を上げて、シュヴァルツ。私まだお礼言ってなかった」 「え、ああ……」 涙目の少年が言われた通りにすると、葵はぎこちない手を動かしてその頬に触れた。やわらかくて、あたたかい。 「ありがとう―――私も好きよ」 返事を待たず顔を寄せて、闇に輝いた星に口づけした。 時間は長く、短く、音は静かに、激しく。感覚が互いの体温へと落ちていく。 だから最後まで、私が死ぬまで、この手を離さないで――― 「……明日になったら、もう少し考えてみる」 「ケンタル先生や百合さん達とも相談して……これから先、私の、私たちのやることを」