バディ2話 0. 薄暗い雑居ビルに人影が一つ。直立不動のまま、身じろぎ一つしない。 見れば全身に真っ黒に染まっている。もし近くでその姿を見たならば、黒いタトゥーが幾重にもその肌に刻まれいることが分かるだろう。時々、黒いタトゥーは表皮を蠢いている様子に気づくこともできる。 人影の傍らに小さな小箱が置かれている。手のひらほどのサイズで、6面全てに口や目が描かれていて、ぎょろりと目があたりを眺めまわしている。 この小箱こそが、人影を操る主であり、この街へ今なお災いを振りまき続ける災厄の化身、パンドラモンだ。 人影からは黒い靄がしみだしている。タトゥーが蠢くたびに、人影からもうめき声が上がり、その苦悶の響きが靄を生み出している。靄は風になびく様子もなく静かに漂い、パンドモンへと吸い込まれていく。そのたびに、パンドラモンが嬉しげに目を細める。 人の苦しみを糧とする邪悪なデジモン。かつてデジタルワールドの聖なる天使型デジモンたちに封印されていた最悪のデジモンが、封印を抜け出しリアルワールドに現出している。 パンドラモンに囚われた人影──哀れな少女に出来ることはなにもない。苦しみも恐怖も、何もかもがパンドラモンの餌として奪われていく。 終わりのない苦しみに身を焼かれる少女の絶望はパンドラモンにとっては甘露そのものだ。 救いの光は届かない。ただただ少女の嘆きが深まっていくばかりだ。 1. 明るい日差しがカーテンを照らすお昼時。長峰家にもお昼ご飯が食卓へ並ベられていた。 つやつやのご飯にお味噌汁──今日は大根と豆腐、アジの塩焼きに漬物がいくつか。どれも出来上がったばかりで、いい香りが部屋に広がっている。 その食卓を囲むのは三人。家主である長峰草太と、その契約者であるホーリーエンジェモン、そしてパンドラモン捜索を行っているテイルモンだ。 草太がホーリーエンジェモンの厳しく鬱陶しい指導の元に作り上げた料理は、盛り付けにまで気を使っており見栄えもいい。ホーリーエンジェモンからすると落第ギリギリの手際ではあるが、それでもインスタントとレトルトに頼り切っていた当初からすると中々の上達振りである。 普段は草太とホーリーエンジェモンだけの食卓だが、今日はテイルモンを招いての食事会だ。パンドラモン捜索に向けて、作戦会議を兼ねて草太がテイルモンを食事に誘ったのである。かなしいかな、テイルモンは一般的なテーブルでは手足が届かないため、椅子に座布団を重ねて即席で作った子供席に座っての食事である。 いただきますの声も揃って、早速食べ始める。 草太は初めに味噌汁を一口。出汁の取り方も手慣れたものだ。味噌の具合も丁度よい。手前みそながら上出来なのではなかろうか。内心これなら文句も出るまいと考えている。 が、なかなかうまくいかないのが料理初心者というものである。 さっそくテイルモンから声が上がる。 「あら、草太さん、このお漬物つながってしまってるわ。」 猫パンチくらいしかできなそうな手ではあるが、テイルモンは器用に箸を使いこなす。天使型デジモンの一端たるもの、テーブルマナーも心得ているようだ。薄切りにしたはずのきゅうりが、見事につながったままテイルモンの箸にぶら下がっている。 「…ちょっと包丁の入れ方が浅かったな。まあうまくちぎって食べてくれ。」 「貴様はいつになったら包丁の使い方を覚えるんだ?」 「うるさいな、味に変わりはないんだから我慢しろよ。」 気心もしれたテイルモンであっても客は客だ。内心上々と思っていただけに、ホーリーエンジェモンの指摘がグサリと刺さる。 ため息をつくホーリーエンジェモンを尻目に、上手に箸で漬物を取り分けて口に運ぶテイルモンはこの上なく楽しげであった。 *** 元サッカー少年と傲慢天使に猫もどき。 口を開けば売り言葉に買い言葉、罵倒が出ない日はない草太とホーリーエンジェモン。どこにでも入り込んで情報収集に勤しみながらも、主婦の噂話が気になるテイルモン。どうにも締まりのない三人であるが、この街をパンドラモンの脅威から救い続けている三人でもあった。 *** 食卓は静かに進む。基本的に草太とホーリーエンジェモンは仲良く話をする間柄ではないので、お互いの失点が目につかなければこんなものである。 きれいにアジの塩焼きを骨だけにしていくホーリーエンジェモン。その雰囲気は普段のだらけた姿とは比較にならない真剣さである。 食感が気に入ったのか、延々ときゅうりの漬物を食べ続けるテイルモン。立ち振舞も言葉遣いもたおやかさのあるテイルモンではあるが、美味しい美味しいと同じものを食べ続ける様は見た目相応だ。 食事のさなかではあるが、草太が本題を切り出す。 「食べながらでもいいから聞いてくれ。最近の状況についてだ。」 箸を止めることこそないが、二人の注意が草太に向く。 「多分だけど、パンドラモンは俺たちを探っている。実際に動ける戦力と行動範囲、対応能力をだ。」 「先に根拠を言え。」 「ここ最近出てきたデジモンを考えてみろ。」 一口味噌汁で喉を湿らせる。 「ちょっと前にデカい木のドラゴンが出てきただろ。あいつは確か完全体だって言ってたよな?」 「そうですね。エントモンです。ホーリーエンジェモンと同格、いえ、同じ完全体でも上位のデジモンですね。」 「私の敵ではなかったがな。」 「それはパンドラモンに操られていたからでしょう?」 無駄にマウントを取りに行くホーリーエンジェモンをテイルモンがたしなめる。この大天使は大体誰に対しても対抗心をむき出しにするので、まともに取り合うだけ時間の無駄だ。 「そこはどうでもいい。要は、用意することのできる中で、上位のデジモンを出してきたってことだ、大事なのは。 でもその力押しはホーリーエンジェモンに押し返されている。ただでさえ今までさんざん邪魔してきたのが俺たちだ。そのために虎の子まで出しても排除できなかったわけだろ。じゃあ次はどうするかって話になる。」 「確かにな。普通ならそうなる。だがパンドラモンの脳みそはそこまで上等に出来てるか?」 「それは知らん。テイルモン、確認するけど、その完全体より強いやつ、究極体?が出てくることはないとみていいんだな?」 「それは間違いありません。パンドラモンが脅威であることは確かですが、ゾンビタトゥーは完全体以上に対しては強制力がかなり落ちます。動かない相手にひたすらゾンビタトゥーを打ち込み続けるような条件でもない限りは、究極体が操られることはあり得ないでしょうね。」 「そうだといいがな。言っておくが、完全体のエントモンですらあのざまだぞ?」 「エントモンは究極体ではありませんよね?」 「分かった分かった。可能性としてはかなり薄いってことで理解しておく。」 ここまででようやく前提である。いちいち混ぜっかえされるせいでなかなか話が進まない。 まして食事中でもある。自然と話が途切れ、味噌汁をすする音、漬物を楽しむもの、おかわりをしに行くものとそれぞれに食事が進めていく。 「今まではデジモンの数を増やしたり、エントモンとかでかいデジモンを使ってきてたよな。でも昨日はやたらと小さいデジモンで逃げながらちまちま攻撃してきてた。明らかにこれまでとは毛色が違ってる。 俺たちより弱いやつを数だけ用意する意図はなんだ?今までの戦いからしても敵わないことは分かってたはずだ。 もし考えなしの行動でないのなら、これは試しだ。モルモットよろしくいろんなタイプのデジモンを嗾けて、俺たちがどこまでなら対処できるのかを調べている。俺はそう考えてる。」 パンドラモン自体のことを草太はあまり良く知らない。その実力や悪意については、ホーリーエンジェモンとテイルモンからの伝聞である。長く封印されていたデジモンであり、それなりに弱っている可能性だってある。 だが、弱く見積もるのが悪手であることは言うまでもない。ホーリーエンジェモンとテイルモンの判断次第になるが、改めて草太は戦うべき相手のことを知る必要があると感じていた。 これまで通りの、戦えるから戦うなどというスタンスでは致命的なミスが起きる。 元とはいえ、将来を期待されるサッカー少年だったのだ。格上相手にガチガチの対策を決めて大金星を上げたことも、格下だと舐めてかかって無様に負けた経験だってある。だからこそ自身と相手の評価を正しく行う必要がある。 「弱いデジモン相手ならテイルモンも戦えるし、問題なかった。力押しもダメ、数で押すのもダメ。なら次はどんな手で来る? パンドラモンは俺たちの弱点を探してる。だから少しでも対策を考える必要がある。違うか?」 「まずもって、貴様自身が最も大きな弱点だということを思い出すことだな。」 ホーリーエンジェモンが立ち上がり、食器をまとめて流しに持っていく。 「そこは私たちがフォローするんですよ、ホーリーエンジェモン。草太さん、なるべくホーリーエンジェモンか私から離れないようにしてくださいね。」 食器を重ねようとするテイルモンを制して草太が立ち上がる。さすがに客人に片付けなどさせられない。ソファーで待っててくれと言って片付けに入る。テイルモンはおとなしくソファーに向かい、上品な仕草で腰をおろす。柔らかさが気に入ったのか、肘掛けに手を当てて反発を楽しんでいるようだ。 「爪研ぎはするなよ。」 「しませんよ!私をなんだと思っているんですか!」 *** 床にあぐらをかくホーリーエンジェモン。テイルモンの隣に腰を下ろす草太。ローデスクには麦茶が3つ。テイルモンのために茶漬けとして残っていた漬物も出す。 「弱点その一は俺か。ただ実際の所、パスからお前の力の余剰が来てる。フライモンの毒とかも効かなかったし、多少は粘れるんじゃないか?」 「浅はかだな。粘ったところで助けがいるのでは足手まといのままだろうが。」 「私も草太さんの考えは賛成できません。ホーリーエンジェモンの言うことももっともではありますが、そもそもとして私たちは草太さんを矢面に立たせたくはないのです。」 「だから隠れてこそこそ承認だけしてろって?」 「草太さんに助けられていることも、その助けなしにこれからを進められないことは分かっています。でも草太さんにはまず自分の安全を考えてほしいんです。」 自分のこれまでの行動が、安全を度外視したものである自覚は合った。だから真摯に草太を心配するテイルモンに返す言葉がない。 「だがそうも言ってられんのは事実だ。のこのこと前に出てこられても役には立たんが、亀のように引っ込まれても私が困る。 テイルモン、そもそもパスを延長は出来ないのか? 例えば、別の場所に同時に出られた場合はつぶすのに時間がかかる。そいつがゆっくり歩いてくるのを待つわけだからな。」 「それとパスの届かないような空の上だな。なあ、パンドラモンが逃げられないように境界を作ってるとか言ってたけど、それは空の上でも有効なのか?あとは地下も可能性としてはあるな。地面に出た場合についても教えてくれ。」 「ちょっ、ちょっとまってください!一度に2つも3つも言わないでください。 ええと、まずパスの延長については難しいです。私たちもどういう仕組みなのか正確に分かっているわけではないので。」 「「は?」」 草太とホーリーエンジェモンから同時に声が上がる。流石に看過できない回答だ。 「待て、この承認システムはお前ら天使連が作ったんじゃないのか?」 「そんな仕組みもわからんシステムだとは聞いていないぞ!」 またしても同時に詰め寄られてテイルモンはタジタジである。 「だから一つずつ…。分かりました!ちゃんと答えますから、落ち着いて一つずつ聞いてください!」 「まず、この承認システムというのは、私たちが一から作り出したものではありません。これは選ばれし子どもたちとパートナーデジモンのデータを基にして再構築したシステムになんです。と、いうよりは出来る限りをコピーした模倣品ですね。 ええと、まず選ばれし子どもたちというのは、かつてデジタルワールドに危機が訪れた時に、パートナーとなったデジモンと共に世界を救った子どもたちのことです。 選ばれし子供たちとそのパートナーデジモンには特異な進化というものが見られました。成長期のデジモンが、選ばれし子供たちに呼応して一気に進化するというものです。天使連としては、この理由を解き明かしたいという研究目線での取り組みがこのシステムの始まりでした。」 ちらりと草太を見る。この少年はそもそもデジタルワールドを見たこともなければ行ったこともない。興味のうすい話を続けるよりは、用件だけを説明する方がよさそうである。 「これは前提ですが、デジモンの進化というものは自然に行われる類のものではありません。特に成熟期から完全体、完全体から究極体なら尚更です。デジモンの進化というものは基本的に幾重にも重ねた戦いで練り上げられた力によって行われるものです。私もホーリーエンジェモンも、相応に戦いの経験を積んでたどり着いた姿なのですよ。 ですが、選ばれし子供達のパートナーデジモン達は、戦いを重ねこそすれ、普通では考えられない速度で進化をしていました。選ばれし子どもたちの危機や強い感情に反応して、一気に進化をしていたのです。 個体によっては一気に究極体まで進化したとも言われています。それでも平時には元の成長期として過ごしていたそうです。」 「見た目としてはともかく、中身は逆だな? 私は進化するのではなく、元々の力を抑制されているのだからな。」 「そもそもとしてはリアルワールドへの影響を抑えることが第一でしたからね。それと、ホーリーエンジェモン、あなた自身の素行の問題でもありますからね!」 「…ちっ。」 「待て、他にも理由があったなら言っておいてくれ。下手に隠されて情報に齟齬が出ても困る。」 テイルモンがチラとホーリーエンジェモンを伺う。が、今更草太からのホーリーエンジェモン評が変わることはないだろう。一人で納得して理由を告げる。 「知っての通りホーリーエンジェモンは荒っぽい上に、天使連からの指示も逆らいがちでした。今回のパンドラモン捜索についても、天使連としてはふさわしい人選になかなか悩んでいたようです。なにせホーリーエンジェモンは草太さんも知っての通り、かなりの札付きですからね。 それでもホーリーエンジェモン以外に適任はいませんでした。なので、どうにか首輪をつける必要があったわけです。リアルワールドで好き勝手暴れ放題になった場合への対策として。」 「…お前どれだけ信用されてないんだよ。いや、テイルモンは元々は完全体だって言ってたよな?ホーリーエンジェモンもそうすればよかったんじゃないか?そうすれば元のシステムとも整合性取れるし。」 「私は元々そういうのが得意なだけで、誰もが進化や退化を簡単に出来るわけではないんです。だからこそ選ばれし子どもたちはすごかったわけですが。」 「そこは分かった。続きを頼む。そのパートナーデジモンが進化する云々についてだ。」 「まず、当然のことですけれど普通の成長期のデジモンが究極体に進化するだけの力、エネルギーを持っているわけがありません。そんな力があるならそもそも成長期のままでいる必要がありませんから。でも事実進化をしている。では、そのための進化エネルギーはどこにあるのか。 草太さんはどう思いますか?」 そもそもとして草太はデジモンの進化を見たことがない。ここまでの話もややふんわりとした理解である。ただ、ホーリーエンジェモンをはじめ、これまで遭遇したデジモンは全て人を超越した力を持っていた。 ただの人間にデジモンに与えられるほどの力があるとは思えない。選ばれし子供達という特殊な存在だとしてもだ。なら、進化するための力はデジモンから生まれることに間違いはないはずだ。デジモンと子供。このワンセットによって進化するための力が生み出される。セットが決まり条件は何か。相性が良ければいいのか? 「…人に力を貯めてるのか? つまり、デジモンが普段生み出すエネルギーのうち、自然に発散して消えるような余剰分が人に流れて蓄えられていく。で、いざという時に人に溜まった力が逆流してデジモンに還る。選ばれし子供にためられたエネルギーが一気に注ぎ込まれるから、進化する条件を満たす。選ばれし子供になるのは、子供とデジモンのパスを生成するのに相性が絡むから。どうだ?」 「…お見事です。草太さんの言う通り、進化するのに必要なエネルギーが、選ばれし子どもたちに蓄えられていると天使連の技術者は考えたわけです。ただその仕組みの再現にはかなり苦労したようです。当然のことながら、選ばれし子供にも協力を仰いでのシステム構築ですが、不確定要素があまりにも多かったんですね。とはいえ曲がりなりにも余剰となる力を送るためのシステムとしては完成してましたから、今回ホーリーエンジェモンの暴走対策に採用されたというわけです。まあ、草太さんとホーリーエンジェモンが使うまではここまで機能するとは考えていなかったようですけども。」 「とんだモルモットだったわけか。」 「で、肝心の距離を伸ばすってのはどうなんだ?」 「…まあ、なんといいますか、再現できただけすごいシステムなんですよね。ふたりともそう思うでしょう?思いますよね??」 ホーリーエンジェモンが舌打ちをかます。草太も流石にため息を吐く。 「色々手を入れてもらってはいるんですが…。何分人とデジモンを繋ぐのは相性次第なところがあるみたいでして…。」 「なら、例えば俺と他の人、誰かを繋げて大容量のタンクにとかできないのか?」 「それは無理でしょうね。人同士の場合は力よりも意識の割合が大きくなりますから。全く別のことを考えている人を繋いでもノイズになるだけだと思います。人とデジモンだと、種族の差がフィルタの役割してくれるのでそのあたりの調整は必要ないみたいですけれどね。」 「ま、そんなにうまくはいかないか。」 お茶うけにした漬物を口に放り込む。ポリポリと気持ちのいい音がする。釣られたようにテイルモンも箸を伸ばす。 ちなみに漬物自体はホーリーエンジェモンが一本漬けしたものだ。食通気取りは伊達ではなく、いい塩梅に塩っ気が利いていてついつい食べ過ぎてしまう。 「実際のところ、もし上空から降りてこないデジモンが現れた場合、ホーリーエンジェモンが草太さんを抱えて飛ぶことになるんでしょうね。」 漬物を食べる片手間にテイルモンが二人にとっての爆弾発言を放り込む。 絵面を想像してぞっとする。ホーリーエンジェモンに抱えられるなどまっぴら御免だ。ホーリーエンジェモンも盛大に顔を顰めている。 「嫌そうですね…。なら、足にでもぶら下がりますか?」 「命綱無しでぶら下がるのはぞっとしないな…。」 結局その後も大した案は出ずに解散となった。 2. 古今東西噂をすれば影が差すという。それは世界の違う生き物であっても通用する概念のようだ。 翌日の夕暮れ、繁華街の空にエアドラモンが姿を見せた。傾いた太陽のオレンジのひかりを受けて燃えるような姿で悠々と空を泳いでいる。 テイルモンの知らせで駆け付けたものの、エアドラモンはただ街の上空を旋回するばかりで高度を下げる様子がない。 これは、と三人で顔を見合わせる。どうやらパンドラモンは草太達が空で戦えるのかを見たいらしい。 あまりに高い位置を飛んでいるため、まだ街の人々は誰も気が付いていない。言い方は悪いが、「たかが成熟期が一匹」である。ホーリーエンジェモンの剣が届くのであれば即浄化完了で終了となるところ。脅威としては大きくはない。 が、その位置が問題であった。 おりしも議論がなされた直後である。 エアドラモンは明らかに高度を下げることを嫌っている。地上どころかホーリーエンジェモンのパスギリギリの高度すら届かない高さを保ったままだ。さすがに上空から危険度の高い攻撃こそできないようだが、黒い靄を撒き散らかしており、完全な放置はできない。 対策はないものの、余裕はある。少なくとも即時大破壊を出来るようなデジモンではないからだ。 物は試しとホーリーエンジェモンが試しにパスの限界高度まで上昇すると、さすがにエアドラモンも明確な敵意を見せ、スピニングニードルをまき散らしてくる。流石に高空から一方的に攻撃されるのはホーリーエンジェモンも分が悪い。鋭い針をエクスキャリバーで弾きながらも、それ以上どうもできない。じりじりと高度を下げていっても釣られて高度を下げる様子もない。 ホーリーエンジェモンが地上へと戻って来る。手も足も出なかったのは事実なのでかなりイライラした様子で羽音がうるさい。 「完全に届かんな、あれ以上はパスが切れる。」 「ヘブンズゲートで吸い込めないか?」 「開く前に射程範囲外まで逃げられる。少しでも降りてくれば三枚におろしてくれるものを。」 ああだこうだと意見を出し合うも、すでに結論は出ている。検討事項の確認にしかならない。 二人が新たなアイデアを求めて宙に視線がうろつき始めると、突然テイルモンが手と声を上げる。 「私に任せてください。」 草太の足元、せいぜい膝を越える程度の身の丈。何を任せられるというのだろうか。 いぶかし気に見つめる草太だが、ホーリーエンジェモンは違うらしい。明らかに興味を持って問いかける。 「何をするつもりだ?」 「私がエアドラモンに取りついて高度を下げさせます。 ホーリーエンジェモン、あなたは私をエアドラモンに投げてください。いえ、直撃ではなく、エアドラモンよりも高くへです。そうしましたら私がエアドラモンに飛び乗りますから、そのままエアドラモンをあなたの元まで誘導します。ええ、エアドラモンの上さえ取れれば後は自力で行けますからお気遣いなく。」 確かにホーリーエンジェモンがパスギリギリまで上がったうえで、そこから全力で投げればエアドラモンよりもさらに上空を取ることも可能だろう。しかし、所詮は猫もどきの体。あの広い空でテイルモンがエアドラモンの元へとたどり着けるのかは疑問だ。 「テイルモン、ミスったらどうするんだ?エアドラモンに当たらなかったり、届かなかった場合は。」 「あの、当てる必要はありませんからね? 私とて元々は天使ですから風を読むこと程度お手の物です。それに、一瞬だけなら翼を呼ぶことくらいはできるはずです。」 「できるはずって・・・。」 「いいだろう。」 むんずとテイルモンの頭部をわしづかみにするホーリーエンジェモン。そのままゆっくりと飛翔を始める。 「…お前、もう少し持つところ考えろよ。テイルモン固まっちゃってるだろ。」 「投げるなら持ちやすいところがいい。しっぽでも掴んだ方が良かったか?」 「ホーリーエンジェモン。これが終わったら話があります…!」 明らかに怒っている。が、ホーリーエンジェモンが怒られればいい話だ。他人事なだけに草太は気楽である。 ただ、当事者のホーリーエンジェモンはそれに輪をかけて気楽だ。 「ふふ、あの鳥ガラめ、こいつを直撃させてやる…!」 手も足も出ずに戻ってきたのを根に持っているようだ。状況を変える一手を得たことに満足げな天使は、すでにテイルモンの怒りも右から左だ。 頭をガシリとつかまれたまま、浮き上がっていくテイルモンの姿は、UFOキャッチャーに少し似ていた。 パスの限界高度ぎりぎりまで到達したホーリーエンジェモン。そのさらに上空にエアドラモンが位置する。先ほどの戦闘(というか一方的な攻撃)に気をよくしたか、エアドラモンは旋回しながら威嚇をするばかり。明らかにホーリーエンジェモンを舐めている。エアドラモンからすれば、飛行高度に制限のあるホーリーエンジェモンなど、鎖付きの犬に等しい。 だが、今度はホーリーエンジェモンも無策ではない。 本来空中戦というものは、いかに速度を落とさずに攻撃を叩き込めるか、それに尽きる。だから先ほどの偵察(戦闘ではなく!)では一度たりとも静止することはなかった。 だが、あえて今度はホバリングするように一定の範囲内の空間にとどまる。それが何を意味するのか、エアドラモンには分からない。 動かない相手に一方的に攻撃できる立場にあるエアドラモン。その状況でわざわざ旋回を続けて攻撃の精度を落とすこともない。だんだんと攻撃に単調が生まれ、エアドラモン自身も空中に静止してしまった。当然ながら、ホーリーエンジェモンとテイルモンの狙い通りだ。 エアカッターの一枚をエクスキャリバーで打ち砕く。その瞬間、あえて強く剣を輝かせる。 猛禽に限らず空に住む生き物は目がいいものだ。まして邪悪な力に操られているのなら尚更に光が効く。 一瞬の目つぶしではあるが、テイルモンを放り投げるには十分な時間だ。 上空に投げ放たれたテイルモンが描く放物線は、容易くエアドラモンを追い越していく。その頂点を越えて落下軌道に入ると、テイルモンはスカイダイビングよろしく全身を大きく動かしてエアドラモンの上を取る。 さすがのエアドラモンも上空から襲われるなどとは思いも寄らない。突然体に落下物が衝突してさぞ驚いただろう。 「さあ、地上までゆっくり道案内させてもらいますね。」 言うや否や、エアドラモンの顔に額を寄せて、その目に必殺のキャッツ・アイを直撃させる。 ”キャッツ・アイ!テイルモンの必殺技だ。この眼光を受けたものをテイルモンは操ることが出来る!!” 一気にエアドラモンが下降していく。すでにゾンビタトゥーによってパンドラモンに操られているためか、一つの頭に3つの意志が入り込んだためか、ろくに制御も効いていない。降下というよりは墜落に近い状態だ。 すでにホーリーエンジェモンは申請─承認を済ませ、構えている。 テイルモンがエアドラモンを足場に大きく飛び上がり離脱する。そのままビルの屋上で待つ草太へと飛び込んでいく。猫程度の大きさでも見上げる高さから落下してくる生き物を受け止められるわけがない。草太は一歩引いてテイルモンをスルー。 テイルモンは猫らしく柔らかに着地、とはいかずに勢いのままゴロゴロとビルの屋上を転がっていく。まあ勢いをうまく逃せるだろう。屋上のフェンスがガシャンと大きな音を立てているのに背を向けて、ホーリーエンジェモンに視線を戻す。 その時にはすでにエクスキャリバーの剣閃がきらめき、エアドラモンを支配していたゾンビタトゥーを切断、浄化している。 受け止めなかった草太に「なぜ避けたのですか」と、盛大にまくしたてるテイルモンをしり目に、ホーリーエンジェモンは我関せずとヘブンズゲートを開くのであった。 3. 高校生活も慣れたもので、入学してから三ヵ月もすれば自分の机にも愛着が湧いてくる。 交換しろと言われれば仕方ないなと思う程度の思い入れではあるが、それでも人の机に座りたいとは思わない。 というのが草太の感覚なのだが、世の中同じ感覚の人間ばかりではないらしい。知らない生徒が草太の後ろの席の生徒と雑誌を片手に談笑している。 「そこ、俺の席だ。どいてくれ。」 「あれっ、個々の席の人? 悪いね、ちょっと盛り上がっちゃって。」 ガラガラと座席を引きながら立ち上がる生徒。手には盛り上がりの原因となった雑誌がある。いわゆる旅行誌のようだ。旅行そのものにはまるで興味はないが、開かれたページに写っている写真に目が留まる。 「お、キミも興味ある? やっぱりヘリコプターはいいよねぇ。でっかいプロペラ回すっていう発想が素敵よね。おしりにちょこんとあるプロペラも可愛くて笑っちゃうし!」 好みを肯定されたのが嬉しいのか、そのページを開いて草太へと押し付けるかのように雑誌を突き出してくる。思わず受け取る草太だが、興味があるのはヘリではなくヘリにぶら下がる人影、もっと言えば縄梯子である。 先日の戦闘では何とかエアドラモンを退けこそしたが、明らかに高空での行動に難があることはバレたと思っていい。おそらくは次はもっと脅威度の高いデジモンが来る。テイルモンを飛ばす程度ではどうにもならない相手が。 そうなると、ホーリーエンジェモンに抱えられる姿が現実味を帯びてくる。どうにか他の手段がないかと考えていた矢先のことだった。 いくつか質問をしてみたところ、思った以上に濃ゆい答えが返ってきた。これがいわゆるオタクというやつなのだろうか。同好の士なら逃がさない!とばかりに食いついてくる生徒を相手に、連絡先を交換するのと引き換えにスマートフォンで写真を撮らせて貰う。なお、高校入学後、初めての連絡先交換であった…。 *** もはや日常と化したパトロールの終わり際、街を流れる川の河川敷へと降りる。川の流れが曲がっている場所なのだが、生い茂った雑草と雑木林に視線を遮られている。つまり練習には都合がいい。ひたすら雑草をかき分ける必要があるせいで草太の服には引っ付き虫や蜘蛛の巣が引っ付くことだけが難点ではあるが。ちまちまと服についたそれらを取る草太に対し、そもそも飛行可能なホーリーエンジェモンはきれいなものである。 「ちょっとこれ見てくれ。これなら足元も安定しそうだし使えそうじゃないか?」 学校で見せてもらった雑誌には、ヘリからぶら下がる人影が写っていた。スマホのカメラでその撮影した画像を見せる。ぶら下がっている人影は、丸く輪がつけられたロープに足を入れており、片手でロープを保持している。もう片方の足と腕は自由なままで、ずいぶんリラックスした雰囲気に見える。 「この写真みたいにロープで足掛けられるようにすればぶら下がれるんじゃないかと思ってさ。ロープも家から持ってきた。」 「これを巻けと?発想の貧しさに反吐が出るな。」 「ダメ出しだけなら黙ってろよ。」 「ちっ、…これを使え。その薄汚い紐よりはマシだ。多少の自由度はある。」 ホーリーエンジェモンの身体にゆるく巻かれた金の帯が伸ばされる。意外と柔らかくてよく伸びる不思議な布でできている。ホーリーエンジェモンとしてもおんぶや抱っこは避けたかったのだろう。珍しく草太に譲るような形で提案をしてくる。 「力を込めてみろ。足場になるよう固定すればぶら下がるくらいは出来よう。」 自らに蓄えられたホーリーエンジェモンの力を引き出す。うまく使えるというほどではないが、まあちょっと使うくらいならなれたものだ。あふれる水のイメージで力を外に染み出させる。うっすらと光を纏うと、金帯は草太の手によくなじむ。触れるだけで硬さも形も融通を効かせてよく動く。 試しに足を掛けられるようにくるりと末端に輪を作ってみる。そしてその輪に足を入れて体重をかけてみると、少ししなる程度で輪が崩れる気配はない。草太には十分な強度があるように見えた。また、金帯は草太の手が触れると吸い付くように離れない。それでいて離そうと思うとスッと離れていく。元々がホーリーエンジェモンの力であるからして、かなり草太の意志を汲んでくれる便利な帯というわけだ。これならば掴まり続ける握力の心配はしなくて良い。 「落ちても拾わんからな。」 言うやいなや一気にホーリーエンジェモンが空へと飛び上がる。無論金帯に掴まる草太も一緒にだ。邪魔にならない程度に伸びた金帯にギュッと掴まり直す。 高度は翼の一打ち事に増していく。重力を振り切るような力強い加速に置いていかれないように、腹に力を入れて体幹を正す。一枚の帯では有るが、不安定さを一切感じない。曲がりなりにも天使の纏う衣であるからだろうか。 ホーリーエンジェモンといえば、草太を振り落とさんとするが如く、空を縦横無尽に駆け巡る。急停止に加速、急旋回。金帯に掴まる草太もそれに合わせて振り回されていく。しかし無茶な慣性も金帯が緩和するためか、ホーリーエンジェモンの力が草太を満たしているからか、思った以上に余裕がある。 「ホーリーエンジェモン、解放の申請をしろ!どこまでやれるか確かめる!」 風切り音の中、一言伝えるのも一苦労である。 ポーンと申請の通知。音は聞こえなかったが、振動なら分かる。スマホには新しく落下防止のストラップを付けている。とはいえ普段と違うのは高さだけ。片手で許可を出すのも慣れたものだ。途端にホーリーエンジェモンの輝きが増し、それ以上に速度が上がる。 「ちょっ…!」 金帯一つで空にぶら下がる身としては、ジェットコースター以上の迫力を感じる。地上が遠いだけ恐怖感は薄いかもな。と、半ば諦めの境地で振り回されるのを耐える。 しかし、こうして上空から自分の街を見ることなど早々ない。上からみるとミニチュアのようで、なんだか愉快だ。目を凝らして自分の家も探してみるが、相変わらず好き勝手飛び回られているせいで見つける前に視界が移り変わっていく。風を受けながらくるくると流れていく景色を見ていると、思っていることが零れ出る。 「…ここが俺たちが守っている街か。」 「何か言ったか?」 「なんでもねぇよ!」 最後に街全体をぐるりと大回りして、河川敷へと降りていく。流石に地面に足をつくとホッとする。 「なんだ、この程度でへばったか。軟弱だな。」 「うるさいな、人間は生身で飛び回るようにできてないんだよ。鳥もどきの人間未満と一緒にするな。」 語気は強いが明らかに虚勢である。膝に手をついて深呼吸を繰り返す様を見てホーリーエンジェモンは溜飲を下げたらしい。いつもなら口げんかの始まりだが、優越感丸出しの視線一つで満足のようだ。草太はその視線に構う余裕すらないので、無事に平和が維持された。 「あなたたち、もう少し、なんとかなりませんか…?」 明らかに諍いを含むやり取りに呆れた声を出しながら、草むらからテイルモンが現れる。身体についた草や葉っぱを払いながら、器用にため息をついてみせた。 「よくここが分かったな。」 「この辺りを中心に飛んでいたでしょう?草太さんも一緒にいるなら目立たない所に降りるでしょうから。簡単な推察ですよ。」 フフンと自慢げなテイルモンに思わず感心する。先日のエアドラモンの件といい、なかなか出来るやつだという認識が生まれつつあった。 が。 「…こいつは他のデジモンの気配を感じ取れるからな。第一連携するのに私の位置が分からないでは話にならんだろうが。何が推察だ。」 「テイルモン、お前…。」 「いいでしょう、別に! 降りる前からここだって予想してたのは確かなんですから!」 テイルモンの猫被りも大分剥がれてきたな。上げた評価もすぐ下がる。ホーリーエンジェモンに食ってかかるテイルモンも随分素を見せてくれるようになったわけだ。 「で、どうしたんだ?」 わざわざここまで二人を訪ねて来たのである。理由があるはずだ。 「パンドラモンの協力者が分かりました。」 テイルモンが一息に切り出す。先ほどまでの醜態は影も形もない。 「ようやくだな。だがよくやった。当然パンドラモンまでの道筋は抑えているんだろうな?」 「残念だけどそう都合良くはいかないものよ。まずは聞きなさい。 協力者の名前は高間こより。14歳の女の子。1年前に交通事故に合ってからずっと意識不明のままだったのが、半年前に突然ベッドからいなくなり、それっきり行方不明。」 「パンドラモン脱走のタイミングと符合するな。」 「ええ、私も同じ意見ですね。念の為にこの街の人間を洗いざらい調べてみましたが、完全に動向が分からないのは彼女だけ。 さらに言うならば、事故の後から行方不明になるまでの間に、高間こよりと思われる少女がデジタルワールドで何度か目撃されています。どこにでも現れて、突然消えていく不思議な少女としてデジモンの間で噂になっていたわ。」 「待て、ずっとベッドにいたんだろ?それがどうしてデジタルワールドで目撃されることになる?」 「これは推測ですが、事故の衝撃で体と意識が離れたのではないかと。飛び出した意識だけがデジタルワールドに繋がるようになってしまった。そう考えると、体はベッドに寝ているだけですし、意識のある短い間だけデジタルワールドに出現するという理屈にも合います。」 「そしてパンドラモンの前に現れたと?」 「おそらくは。その辺りの詳しい経緯は分からないところではありますが、彼女は意識だけをデジタルワールドに繋げることができた。それを利用してパンドラモンはリアライズした。大筋はそんなところでしょう。詳しくは確保した後に聞けばよい話です。 さらに、彼女のその特性を使ってデジタルワールドから他のデジモンを呼び出していたのでしょうね。」 「随分といい様に使われているな。…高間こよりはまともに動ける状態だと思うか?」 「知らん。それもパンドラモンを見つければ分かることだ。」 「少なくとも、パンドラモンから離れられる状態ではなさそうですね。なんとか使い潰される前に見つけなくてはなりません。」 4. パンドラモンの協力者が判明したことは捜索が大いに進展することを意味する。 手のひらサイズのデジモンを探すのと、14歳の少女を探すのでは難度が全く違う。 パンドラモンが少女を必要とする限り、人が隠れていられる場所がいる。そういう場所を探せばいい。さらに言えば、少女の食べ物も必要だ。人もデジモンも食べなければ生きていけない。パンドラモンが何を糧にしているかは知らないが、高間こよりには食事が必要だ。そしてそれは何かしらの非合法な手段でそれを得ているはず。 高間こよりを探す。指針が決まればあとは動くだけだ。 当然こちらの動きが変わったこともパンドラモンに捕捉されているだろう。 ここからはどちらが先に有効打を打てるか。草太達がパンドラモンを見つけ出すか、パンドラモンが草太達を倒すデジモンを呼び出せるか。 *** その答えは突如として空に現れた。 街に降り注ぐ暖かな日差しが突如遮られる。すわ通り雨かと空を見上げれば、それはそこにあった。 街に注ぐ太陽を覆い隠す程の巨体。地上からこそ形が分かるが、至近距離からでは形すら認識が困難であろう超大型のデジモン。それは巨大な鳥の姿をしていた。まるで島が浮かんでるかのような巨大な鳥だ。 そのサイズによる存在感はこれまでのどんなデジモンの比ではない。 ”ケレスモン!オリンポス十二神族の一体に数えられる巨大怪鳥型デジモン!必殺技は巨体を相手に叩きつけるアイランドフリーフォール!!” 当然ながら草太たちも即時集合している。あれほどの巨体に気づかない方がおかしい。 まずテイルモンから情報共有がなされる。かの巨大デジモンの来歴である。 「究極体が何だって?」 先日自信満々にあり得ないと断言した言葉がテイルモンに突き刺さる。 が、予想外の自体など今更問題にしても仕方がない。 「オリンポス神族とかいう大層なデジモンでも操られるのは防げないものなのか?はっきり言ってそれならかなりヤバいぞ。」 「何かカラクリがあるはずです。どう見積もっても究極体を簡単に操れるほどパンドラモンが成長しているとは思えません。」 そうこうしている間にも、ケレスモンからは体の土くれと共に黒い靄が地上に落ちてくる。巨体からすればわずかな量ではあるが、人の身からすれば車が落ちてくるのと大差ない脅威だ。現時点では攻撃的な動きは見られない。だが、できる限り早急に対処する必要がある。 空に座すケレスモンまではどう頑張ってもそのままでは届かない。 練習の成果を発揮する機会が早くもやってきてしまったわけである。だが、単純に飛び回るのと、戦闘のために飛び回るのでは全く話が違う。本当にやれるのか、まさに出たとこ勝負。 金帯を操作して足掛けを作り、手に吸着させて離れないことを確認する。 「ホーリーエンジェモン、まずは様子見だ。本当にケレスモンが操られている状態なのかをまず確認する。あれほどでかいのを呼び寄せるのと、操るのを同時にこなせるわけがない。場合によってはあの上にパンドラモンがいる可能性だってある。油断するなよ。」 「誰にものを言っている。貴様はせいぜい自分の心配でもしていろ。」 すでにこのやさぐれ天使はやる気十分だ。言うやいなや一気に上空へと舞い上がる。 風の音が耳を打つ。この街で一番高いビルを瞬時に抜き去り、生身の人が到達しえない高さまで一瞬だ。 青空が一面に広がる自由の世界。だが、そこにはすべての意思を制限された存在がいる。 ケレスモン。でかい。まるで森が浮かんでいるようだ。 その体にはパンドラモンの悪意の象徴、ゾンビタトゥーが刻まれている。ただし、あまりの巨体に全身を覆いきれず、ところどころに抜けが見えた。これまでの経験上、タトゥーに覆われるほどパンドラモンからの干渉が強まり凶暴化していく。絶対量としてみればこれまで見たタトゥーの中で最大級だが、その巨体ゆえに相対的にはまだ余裕があるようにも見える。ケレスモンからは明確に敵意が向けられていないことからして、凶暴化させるにはまだタトゥーが足りないようだ。 草太をぶら下げたホーリーエンジェモンが、様子見がてらぐるりとケレスモンを一周する。森そのものといった中央部に対して、外周部は確かに鳥らしき羽根の形が見られる。そしてその頭部、そこには巨大な鳥の顔と全身をタトゥーに覆われた人影があった。 飛び上がる前にテイルモンに説明されたケレスモンの特徴が頭をよぎる。 “ケレスモンは巨大な鳥の姿と女性の姿を併せ持ちます。そして、その女性の姿こそがケレスモンメディウムというケレスモンの本体です。“ 推定ケレスモンメディウムは、タトゥーに全身を縛られている。かろうじて兜や手足の鎧が見えるが、身動きが取れないほどタトゥーに縛られている。つまり本体を確実に抑えることで効率的にこの巨体を支配しようとしているようだ。 そして、ケレスモンメディウムの前には、究極体であるケレスモンがパンドラモンに不覚を取った、決定的な理由がそこにあった。 ホーリーエンジェモンがさらに旋回した時、ケレスモンメディウムが抱える影が見えた。 高さにして150cm程度の人間だ。ケレスモンメディウムに抱えられるようにしているが、刻まれたゾンビタトゥーはケレスモンメディウムよりも遥かに深く濃い黒に染められている。 高間こより。その変わり果てた姿がそこにあった。 パンドラモンは自らの手足としていた高間こよりをケレスモンを支配するための餌に使ったのだ。 慈悲深き神族が一柱であるケレスモンメディウムが、哀れにも邪悪なるデジモンに苦しめられている人間を見捨てるはずがない。 ケレスモンメディウムの前に放り出された高間こよりへ、ケレスモンメディウムが駆け寄ったその瞬間、ゾンビタトゥーを炸裂させたのだろう。 いかな究極体とはいえ、完全に油断した状況に悪意を叩きつけられたのならばひとたまりもない。 おそらく、あの黒い靄もタトゥーも、高間こよりの命などまるで考えていない。単純にケレスモンを縛るだけの圧をかければ人の体などひとたまりもないというだけだ。 だからこそケレスモンメディウムは高間こよりを見捨てられない。少しでも気を逸らせば高間こよりは死ぬ。パンドラモンはこの上なく効率的にケレスモンを支配して見せたのだ。 そして、死なない限りは使い潰すのがパンドラモンのやり方らしい。 タトゥーに全身を蝕まれた少女の体が、パンドラモンの意思に従って腕を振るわされる。円を描くように腕を空に向けると、空に穴が開く。デジタルワールドへと繋がることのできる特異性が、パンドラモンの力を注ぎ込まれることで空間に穴を開けられるほどに高められている。空に空いた穴からは次々とデジモンが出現していく。 人質であり、手下を生み出すための装置でもあるのだろう。 当然、リアライズされたデジモンたちは困惑した状態である。その隙にケレスモンから伸びた黒い靄がデジモンたちを包む。瞬時にゾンビタトゥーに感染させられ凶暴化していく。たちまち空はパンドラモンの支配下となったデジモンで溢れかえる。 早速草太とホーリーエンジェモン目掛けて殺到してくる、でかいクワガタやトンボ、角のある赤い鳥に悪魔のようなデジモン。 それらがまとめて攻撃を仕掛けてくる。レベルとしてはおそらくホーリーエンジェモンの方が上。だが、今は草太という重りがある。ただでさえホーリーエンジェモンには飛び道具がない。8枚の翼による圧倒的な機動力ですれ違いざまの斬撃を与えるのがホーリーエンジェモンのスタイルだ。しかし草太がその機動に耐えられるかは怪しい。ましてや敵は増え続けているのだ。このままではジリ貧である。 まずはリアライズを止めなければ話にならない。いくらホーリーエンジェモンとはいえ、際限なく増え続ける敵を相手に戦い続けることなどできない。 ならば、第一に高間こよりを助け出す。そうすればケレスモンメディウムの手が空く。守らないとならない人間がいなければタトゥー程度自力でなんとかできるはずだ。 「ホーリーエンジェモン!あの子とケレスモンメディウムは俺がやる!お前はあいつらをなんとかしてくれ!」 「出来るならならばさっさとやれ!」 ホーリーエンジェモンが一気にケレスモンへと突っ込んでいく。一息にケレスモンの背中にある森へと飛び込み、巨大な木々をジグザグに抜けてデジモン達を引き離しにかかる。ホーリーエンジェモンほどの機動力を持たないデジモン達は、高度をあげて先回りを行う。 その隙に草太がケレスモンに飛び移る。勢いを殺しきれずごろごろとケレスモンの体表を転がりつつ、ケレスモンの頭部──高間こよりとケレスモンメディウムの元へと駆け出す。 これまでの度重なる戦いで、ホーリーエンジェモンの力はパスを介して草太に蓄えられている。草太自身では金帯を操作する程度のことしかできないが、元は大天使が有する聖なる力だ。それを十分に蓄えた草太の体自体がパンドラモンへ特効的に作用する。 だから草太自身がゾンビタトゥーに直接接触すればかき消すこともできるはずだ。なんならホーリーエンジェモンと共振している状態であれば、一気に消し飛ばすくらいの効果はあるはず。 ケレスモンの背中に生い茂る森は思ったよりはさっぱりとしている。足を取られるような低い草木はない代わりに、でこぼこと木の根が這いまわり足元は非常に悪い。だが、これまでの戦いは草太自身をも大いに鍛え上げていた。広い面を一度に認識する空間把握能力、自身の体をイメージする通りに動かす集中力、走り抜けるだけの体力と脚力。 まるで舗装路を駆け抜けるかのような速度で森を抜け、一気に首を渡って2人の元へと走る。 先に気がついたのはケレスモンメディウム。身動きの取れない中でも、わずかに唇を震わせる。 ‘この子を、お願い’ 全身を黒い靄で締め付けられながらも、自らよりも人の無事を願う。確かな善意を持って人を助けようとするその意志に応えたいと思う。だから答えは一つだ。 「任せろ。」 なんとなく、試合のことを思い出す。先に点を取られたり、逆転を喰らったり、コーナキックにPK。ピンチの時もチャンスの時も、ボールが回ってくると、みんなから声がかかる。 “頼む!” “なんとかしてくれ!” “やっちまえ!” “行け!” いつだって答えは一つだ。任せろ。ただ一言でいい。 期待に応えられることも、応えられないこともあった。だが、諦めたことはなかった。 どんなに勝ち目が薄くとも必死に足掻いて状況を動かしてきたのだ。 だから、今回もなんとかしてみせる。なんといっても、自分には大天使がついている。これほど心強いことなど、ない。決して言葉にすることはないし、認めることはしないけれど。 真っ黒に染まった人影──高間こよりへ手を伸ばす。腹の底に力を込めて、ホーリーエンジェモンから預かっている力を溢れさせるように。かの大天使と比べれば遥かに弱く、それでも人の身に余るほどの聖なる光が草太の体を包む。その光は、少女を包む黒をも照らす。肩へ触れると、触れた先から少しずつ黒が薄まっていく。これならば行けそうだ。なんとかできる。 その希望をパンドラモンは待っていた。 瞬間、少女の身体から膨大な量の靄が溢れ出し、草太を飲み込んでいく。 **** 真っ暗な光のない世界。ぼんやりと思考がまとまらない。目の前どころか自分の手さえも見えないような暗闇。なのに自分がぽつんと立っているのが分かる。 ここはどこだろうか。 そう考えた矢先に、てーんとボールがバウンドする音が響く。 ボールが転がっているならそこはコートだろう。草太の記憶に馴染むその音が、現在地を形作る。 青々とした芝生。白線に区切られた長方形のコート。短辺側にはゴールがある。相変わらずコートの外は真っ黒いままだが、それでも今どこに自分がいるのかがはっきりとした。 自分がコートにいるならそれは試合中なのだろう。そう考えた瞬間に現れて自分の元に集まってくるチームメイト。全員の名前も顔も知っているはずなのに、誰1人として顔がわからない。真っ黒に塗りつぶされた顔のチームメイトが草太の肩を、背中をポンと叩く。いつものじゃれ合いが、次第に形を変えていく。チームメイトの輪郭が少しずつ緩んで、草太へと纏わりついていく。真っ黒い液体へと変わっていくチームメイトに、全身を押し込まれて立っていられずにコートに転がされる。 気がつくと膝を抱えて痛みに苦しむ自分がいた。草太にとっての悪夢の瞬間がそこにある。もう何も考えられていない。痛みに思考は乱され、歩けなくなる恐怖に心が震え、ボールを蹴られなくなる事実に身体が怯える。 顔のないチームメイトが草太を無理やり立たせる。腕を取り、ボールの前に引きずり出す。 そのボールの先にはゴールがある。あの時、もし自分が蹴ることができたなら、あの試合に負けることはなかった。もっと先に行けていたはずだった。全国制覇だってできるはずだった。それを台無しにしたのが自分だ。膝を壊したなどと、そんなのは言い訳だ。本当に強い選手だったのなら、壊すことなんてなかったはずだからだ。 チームメイトが草太を前に押しやる。このボールを蹴るのはお前だと、その行動が告げている。 お前のせいで負けたのだから、お前が蹴らないといけない。 自分のせいで負けたのだから、草太が蹴らないといけない。 だが、草太の足はすでに折れ曲がって、まともに立つこともできない。 痛みがひどくて堪えるので精一杯だ。何より、心の底から怯えている。かつてそうであったように、草太は痛みの先に諦めを見ている。もうまともにボールを蹴ることはできないという恐怖が、際限なく痛みを加速させる。 “なぜ蹴らない。お前が蹴るべきだ。お前はサッカーなしではただの役立たずだ“ 草太の心の底から声が聞こえる。顔のないチームメイトは草太自身の怒りだ。 役立たず。その通りかもしれない。あれだけ大口を叩いていても、怪我一つで折れる心だ。その程度の男が、何を為せるものか。諦めて俯くその直前、視界の隅に映るものがある。 一瞬だけ、この暗闇を切り裂くように、金の流星が流れた。 あの光はなんだっただろうか。焦点のぼやけた思考が光を捉える。すると途端に不愉快な気持ちが湧き上がる。上から目線の自分勝手な声が聞こえる。 「私に働かせて自分は居眠りとは、無能もここまでくると呆れてものも言えんな。」 いつの間にか聞きなれてしまった声が、草太を嘲る。忌々しいことに、今までのどこの誰よりも、はっきりとその声が聞こえてくる。 居眠り?自分がか?こんな状況に押し込まれているというのに、こちらの苦労も知らないで。 怒りが心に火をつける。 折れた心を舐めるように怒りの火が広がっていく。 なぜ蹴らないのかだと?怪我をしたからだ。見ればわかるようなこと長々とさえずる外野にも怒りが向く。なぜ蹴れないのか。怪我をした時の痛みがよみがえるからだ。 なんで諦めたのか。──痛みに心を折られたからだ。 ああそうだ。自分は諦めてしまった。絶対に治すと心に決めたのに、必ずもう一度フィールドに立つと誓ったのに、たかが痛みに膝を屈したのだ。 うるさい外野の声が鮮明に聞こえてくる。これは自分の声だ。自分自身を呪う声だ。 ならばやってやる。折れた心ならもう消し炭だ。一度諦めたからなんだというのか。 いい加減頭に響くこの声を黙らせてやる。 蹴れとというのなら、存分に蹴ってやる。この長峰草太、一世一代のシュートを見せてやろう。 無理やり草太を立たせていた影を振りほどく。右ひざの痛みは絶えることはないし、震えるほどの恐怖が体を満たす。だが、それはもう草太にとって、すでに理由にならない。 あの鼻持ちならない天使に言われるだけでいていいものか。 ひん曲がった足は戻ることはなく、ぶらぶらと思うとおりに動かない。だが、そんなことはどうでもいい。なにせ最後のシュートだ。多少の無茶もこれが終いなら押し通せる。 一歩踏み出す。それまでの何もかもを忘れて、自然と体が動く。かつての自分より大きく育ったその体が、その心の望むとおりにイメージをトレースする。 そこに雑念など入り込む余地はない。流れるように無駄のない、力強いフォームで右足が振りぬかれる。 白黒のボールは線を引くかのようにまっすぐにゴールへと吸い込まれる。 ボールはゴールを越えて、そのままこの暗闇に突き刺さる。まるでゴムのように空間が引き延ばされ、限界を越えて世界が引きちぎられる。 その先には顔を靄で包まれた入院着の少女。ボールはそのまま少女の顔に直撃し、靄を弾き飛ばす。そして倒れる少女。流石に女の子の顔面に直撃はヤバい。慌てて草太が駆け寄る。 「だ、大丈夫か?!」 草太が少女を抱え起こす。わずかに声がもれるだけで意識がないままだ。 突然笑い声が響く。ボールに弾き飛ばされていった靄が、宙に浮かんでいる。 靄がぐるぐると動き、それは次第に目となった。草太とその目が合う。 こいつがパンドラモンか。ようやくの対面だ。話だけは聞いていたが、会うのは初めてだ。言いたいことは山ほどあるが、今はそれどころではない。少女の状態もそうだが、外ではホーリーエンジェモンが戦っている。すぐに自分も向かわなくてはならない。 「悪いとは言わないし、思ってもないけど、この子はもらっていく。お前の悪だくみも俺たちが叩き潰す。」 目だけがにんまりとうれしげにゆがむ。 草太が強く左手を握る。先程まで感じていなかった感触、スマートフォンがあることを知らせる。瞬間あふれる浄化の力。パスを介して現れるホーリーエンジェモンの力が、草太と少女を包み込む。 少女が身じろぎをして、目を覚ます。靄を警戒しつつも、草太が少女と目を合わせる。 「──、」 掠れた声は言葉を成していない。できるなら水を与えて、ゆっくりと話を聞いてやりたいところだが、今はそれどころではない。まして、少女がどういう状態だったのかも定かではない状態で下手なことも言えない。 「悪いけど君の言葉を待っていられない。状況が悪い。だから一つだけ聞く。 ──俺は君を助けたいと思う。だから俺に、君を助けさせてくれないか?」 少女はじっと草太の目を見つめる。口はうごけど声は出ない。だが、少女は小さく、震えながらも、うなづいた。 スマホをパーカーのポケットにしまい、左手を高く上げる。少女を抱き止めたまま、草太は叫ぶ。 「ホーリーエンジェモン!!」 吹き抜ける風と共に闇を切り裂きホーリーエンジェモンが現れる。草太が掲げた手を取リ、草太と少女は一気に青空の元へと引き上げられていく。 草太の腕の先、少女を見てホーリーエンジェモンが目を細める。しかし何も言わずに力強い羽ばたきのまま、二人をケレスモンから引き離していく。 少女という人質、そしてタトゥーの供給元が失われたことで、ケレスモンメディウムがタトゥーを引きちぎるように吹き飛ばす。しかし、ケレスモンの巨体に刻まれた領域は広すぎた。ケレスモンメディウムが力を取り戻してもなお、ケレスモン自身のコントロールを取り戻すことは容易ではないようだ。 ケレスモンメディウムは胸の前で手のひらを組み、ゾンビタトゥーの影響を切り離そうとしている。だが、パンドラモンの抵抗は激しく、主導権を簡単には明け渡そうとはしない。 その隙に、ホーリーエンジェモンと草太、そして少女は一度地上に降りることにする。さすがに助け出したばかりで弱っている少女を巻き込むわけにはいかない。 雑居ビル屋上に降り立つと、テイルモンが駆け寄ってくる。その目は少女に向いており、鋭い視線は明らかに敵対者へ向けるものだ。実際状況は明らかにクロ。どの程度意識があったのかはわからないが、今回の事件の元凶ともいえる人間であることには間違いがない。だがそれでもまずは話を聞くところからであるべきだ。 機先を制するため、草太がテイルモンへと告げる。 「俺たちが、助けた子だ。」 じっとその場でテイルモンは草太を、そして少女を見つめる。 「……わかったわ。あなたたちが助けた子を、私も助けます。」 ホーリーエンジェモンの金帯から降りると、抱えていた少女をゆっくりと床へとおろす。名残惜し気に首に回されていた腕が離れる。 「俺たちはあれをなんとかしないといけない。だから、君のことはそこの猫もどきが見てくれる。話は後で必ず聞くから、待っててくれ。」 背後ではテイルモンが猫もどき発言に目を丸くしているが、いちいち構ってはいられない。事実だからである。 ともあれ上空ではケレスモンが悶えている。この隙に何とか対処するしかない。 「行くぞ。」 「ああ。」 再びホーリーエンジェモンの金帯に手をかけて、空へ向かう。最後に一度少女に目をやり、あとは振り返らない。 空に飛び交うデジモン──少女が呼び出した者たち──は、ずいぶん数を減らしている。 「ずいぶん張り切ったな。」 「誰かが役に立たなかったからな。」 残りのデジモンを落としながら、少しずつケレスモンへと近づいていく。呼び出したデジモンはせいぜいが成熟期。すでに大多数を落としている以上、草太という重しがあったところでホーリーエンジェモンの敵ではない。 残る戦力はケレスモンのみ。パンドラモンとケレスモンメディウムとの主導権争い次第ではすでに決着がついている可能性もありうる。 だがその程度で終わるほど容易くもない。突如としてケレスモンから溢れる黒い靄。これまでにない濃度で、ケレスモンの巨体すら覆い隠すほどの量が吹き出続けている。街の人からみれば突然雷雲が現れたようにも見えただろう。それほどまでに勢いよく靄が噴き出ている。 「ケレスモンが負けたか。」 「だろうな。でもケレスモンメディウムには高間を助けてもらった借りがある。できる限り助けたい。なんとか出来るか?」 雷雲と化したケレスモンを眼前に、今後の動きを相談する。仮に完全に乗っ取られたとするならば、対処は難しい。ケレスモンを覆い尽くすほどの靄を完全に除去するのにどれくらいかかるか。それが分かるから、2人の表情は冴えない。 と、黒い靄をかき分けて何者かが飛び出してくる。咄嗟に構えるホーリーエンジェモンに対し、ゆるっとした声がかかる。 「おっと、攻撃するのは勘弁してほしいね。せっかく命からがら逃げ出してきたところだからねぇ。」 「ケレスモン…か?」 「うん、私はケレスモンメディウム。どうぞお見知りおきを。と、そちらの少年は先程ぶりだね。彼女は無事助かったかな?」 トサカのような兜に金色に輝く鎧、それに対してやけに薄着の胴体。どうにもメリハリの効きすぎた姿だ。最上位の実力を持つという究極体だというのに、やけに気さくな口調であることに戸惑うものの、彼女の無事を伝える。 「そうか、それはよかった。なら、これで全員無事ということになるね。」 「ん?中にはまだケレスモンがいるんだろ?」 「ああ、ケレスモンならここだよ。」 見ればケレスモンメディウムが小脇に抱えているのはデジモンである。その見た目はケレスモンの姿をしている。ただ大きさに果てしない差はあるものの、どうやら本体とも言うべき体を無事に取り戻せたらしい。 「心配してくれてありがとうね?ただこれでも私たちはデジモンなのだよ。結構融通が利く体なのさ。ただ、問題もあってね。」 明らかに厄介ごとだ。ますます顔をしかめるホーリーエンジェモン。草太も似たり寄ったりの顔だ。 「遠慮ないねぇ、君たちは。ともかく、私たち本体が抜けたとはいえ、体は残ってしまっているんだよね。でもあの黒い靄はばっちり残っているわけなんだよ。できれば全身取り戻したかったけれど、完全に主導権を取られてしまってね。」 ケレスモンメディウムの言う通り、黒い靄が薄れていくに従って、タトゥーに全身を縛られたケレスモンの肉体が見えてくる。 「なあ、テイルモンが言ってたケレスモンの必殺技、なんて言ってたか覚えてるか?」 「テイルモンとやらは知らないけれど、私の必殺技ならアイランドフリーフォールだね。全力で体当たりをするんだ。そうすると爆風と衝撃で相手をメチャクチャにすることができるよ。」 思わぬところから答えが返ってきたが、問題はその中身である。 当人のいうことには、ほぼほぼミサイルである。このまま地上に直撃すれば、冗談抜きで消滅する。それを許すわけにはいかない。 ケレスモンメディウムに改めて向き直る。見れば身体中がボロボロである。金の鎧は煤けていて、長い桃色の髪も埃にまみれて輝きがない。抱えられたケレスモンも心なしか元気がなさそうだ。表面に生えた苔もところどころ毟られていて10円禿になっている。 つい先程まで、名前も顔もわからないような見ず知らずの少女を守り続けていたのだ。ひたすら打ち付けられるタトゥーを相手に、あの少女は傷一つなかった。慈悲深き十二神族が人柱。弱きものを決して見捨てることのない、慈愛の化身。 ケレスモンメディウムは無事に脱出だと言うが、緊急脱出として本体から抜け出すのが容易いことだとは思えない。まともな手段ではないはずだ。消耗した彼女にこれ以上の負担をかけたくはない。本来二人が助け出すべきだった少女を守り続けてもらった借りもある。 何より、これは草太とホーリーエンジェモンがやるべきことだ。 慣れない敬語でケレスモンへと告げる。 「ケレスモンメディウム。あとは任せてください。俺たちが何とかします。 下にテイルモン──猫みたいなのがいるので、状況とか説明はそっちに。デジタルワールドへの帰還についても助けになるはずです。」 だが、ケレスモンメディウムはすぐには動かない。目こそ隠れて見えないが、試すような視線が草太とホーリーエンジェモンに絡むのを感じる。不覚を取ったとはいえ、その身は究極体だ。これほどまでに消耗した状態であってもなお、草太とホーリーエンジェモンでは相手になるまい。だからその目は二人を捉えたまま、お前たちにできるのかと、そう問いかけている。圧倒的な格上からの、文字通りの上から目線。 ホーリーエンジェモンは不愉快げに鼻を鳴らすが、大一番を前に無駄な喧嘩を売ることはしたくないらしい。実力が劣っているのを認めたくないだけかもしれないが。視線を無視して抜け殻のケレスモンの体を眺め始めている。 しかし草太は目を逸らさない。 やがてケレスモンメディウムが表情を戻す。 「じゃあ、お願いね。」 そう言うとさっさと地上へと降りていく。 残ったのは、二人。大天使、ホーリーエンジェモン。その契約者、長峰草太。まるで気の合うところはなく、口を開けば喧嘩しかすることがない二人だ。だが、パンドラモンからこの街を守り続けてきた二人だ。 「じゃあ、やるか。」 「ああ、やるぞ。」 いつもの如く、ホーリーエンジェモンがエクスキャリバーを申請する。それを草太が即時承認。この街を守るために手を組む。仕方なくそうするのだと、お互いがポーズを取らざるを得ないくらい、2人の目的は一致している。 早くも草太とホーリーエンジェモンの間で共振励起が始まる。降り注ぐ陽光に負けない輝きがホーリーエンジェモンからあふれ出す。共振によって増幅される力は完全体の枠に収まらない。まるで流星のように光の尾(ぶら下がる草太のことである)を引きながら、抜け殻となったケレスモンへと突貫する。 ケレスモンから伸びる黒い靄が、二人を迎撃せんと向けられる。 何十とケレスモンの体から伸びる腕は、まるでヘビの頭だ。時に重なり時に分裂するその蛇は、変幻自在に宙を蠢き二人を毒牙にかけんとする。 だが、その二人こそが対パンドラモンの専門家である。たかが腕が増えた程度のことで怯むことはない。 黄金の剣が尽くを打ち払っていく。まるで三日月のような残影が空に浮かび上がり消えていく。切り裂かれた蛇は元の靄に戻り、別の蛇に取り込まれて形を取り戻す。末端の靄をいくら切ったところできりが無い。 燕のごとし急激な切り返しを幾度も繰り返して、ケレスモンの抜け殻へと向かう。 懐へ入り込み一撃を加えつつ離脱する。ホーリーエンジェモンの得意とする一撃離脱戦法である。 幾重にも重なる黒い靄をすり抜けて、ケレスモンの抜け殻へと長く大きい傷跡を作る。 手ごたえはある。しかし、ケレスモンの巨体からすればせいぜいがかすり傷。ましてや抜け殻相手である。ゾンビタトゥーを使った操り人形相手では、傷を与えたところで痛みにうめくことすらないのだ。 黒い靄は、無数にのたうつ蛇のように二人を襲い続ける。 時に華麗に、時に無様に避け続ける2人だが、このままではジリ貧である。こちらの体力が尽きるのが先か、ケレスモンが地上に激突して街が壊滅するのが先か。 ケレスモンの高度は徐々に下がってきている。体力も時間もない。 この大質量の爆弾をなんとかするには、ヘブンズゲートしかない。それも、この巨体を飲み込めるような特大のゲートがいる。 通常は浄化のためにデジタルワールドへつないでいるが、まさかこれを送るわけにはいかないので、本来の亜空間への接続だ。ホーリーエンジェモンがパンドラモン追撃として選ばれた最大の理由、二度と帰ることのできない亜空間への門を開くこと。それ以外に勝ち筋はない。 だが、その力の行使をパンドラモンが許さない。 そもそもとして亜空間への門を呼び出すこと自体が極めて高度な技である。当然のことながら片手間にできるようなものではない。これまでの戦いでも、ヘブンズゲートを直接攻撃に使用することはなかった(浄化を優先していたという理由もあるが)。ましてや、十重二十重にと振るわれ続ける攻撃をよけながら使える技ではない。 金帯にぶら下がるしかできない草太としては歯噛みするしかない。何かで気を引こうにも、そもそも上空遥か高みである。手元にあるのはせいぜいがスマホである。まさかこれを投げるわけにもいかない。草太がいなければホーリーエンジェモンは全力を発揮できないが、草太が今現在重りにしかなっていないことも事実だ。せめて少しでも弱みを見つけようと目を凝らす。 何十と繰り返した回避行動のあと、大きくエクスキャリバーを振るい巻き起こした風を壁にして、ホーリーエンジェモンはケレスモンから距離を取る。そして金帯ごと草太を引き上げて告げる。 「私が避けている間に貴様がヘブンズゲートを開け。」 「ゲートを?──使えるのか?」 「逆承認だ。せいぜいうまく使って見せろ!」 ヘブンズゲートを草太が開く。確かにホーリーエンジェモンとパスによってつなげられ、力のタンクとなっている草太にはそのための力が蓄えられている。ましてや共振によって増幅された力である。理屈としては使えないはずがない。 スマートフォンの承認システムは草太からの申請は想定されていない。人間が持つ力などたかが知れているからだ。だが、それでもパスは繋がっている。草太からあふれた力を石に込めて投げたことだってある。先ほどだってこの力を使って高間こよりとケレスモンメディウムを救い出したのだ。ならばできない道理がない。 ましてや、ホーリーエンジェモン自身がそれを承認するのである。何度ともなく繰り返した動作を逆転させることなど、ホーリーエンジェモンからすれば容易いことだ。 いつもと少し違うバイブレーションが草太のスマートフォンを揺らす。ゲートの使用許可、それが通ったのだ。 ホーリーエンジェモンの回避行動で盛大に振り回されながらも、通知を開き確認する。そこには確かに承認の2文字。 少し画面に文字化けが見えるが、大したことではない。 大事なのは、画面中央に浮かぶただ一つの単語だ。 "ヘブンズゲート" 臆することなく選択肢をタップする。 画面が切り替わり、ゲート生成位置の設定画面が映る。カメラを利用してゲートを開く場所を決めるらしい。スマホの画面に映る真っ青な空には遠近感がない。まさか目の前に開くことはないだろう。が、念のためケレスモンよりさらに上空を映す。 カメラがピントを合わせるように、ヘブンズゲートを生成するための力が一点に集中していく。それは草太の身体を通り力の焦点へと向かう、莫大な力の流れだ。 体中が焼けるような熱を感じる。システムの想定範囲外である故の異常が現れているのか、単なる負荷に発熱しているだけか。どちらにせよやめるという選択肢などない。 スマートフォンを握りしめ、空のただ一点に意識を集中する。 靄による攻撃も、躱す時の動きも既に草太の頭にない。少しでも意識が振れたら門が発散する。誰に説明されるでもなく、草太にはそれが分かった。パスを通じて送られてくる、ホーリーエンジェモンからのフィードバッグかもしれない。力の使い方、流し込み方、それら全てを薄氷を踏むように静かに丁寧に進める。 そして門を現出させる時が来る。ここまでくればケレスモン──パンドラモンも事態に気が付いている。空気が歪み、光が曲がるほどの圧力が、空に満ちている。ケレスモンから伸びる靄も、抜け殻に戻り警戒状態となっている。だがどれだけ警戒したところで無駄である。 草太はスマホを空にかざし、大きく円を描く。その軌跡の先、天空に巨大な黄金の円が現れる。円は厚みを増し、周縁にはデジタルコードが刻まれていく。閉ざされた門は、遥かなる亜空間とこの世界とをせき止める鋼の壁だ。 顕れたヘブンズゲートはケレスモンすら容易く通り抜けられるほどの威容を誇る。文字通り草太とホーリーエンジェモンの切り札、最後の一手である。 この大いなる門が、重低音を響かせて開かれていく。 ここが勝負どころである。草太は一気にゲートへと力を注ぎ込む。体を通り抜ける力の流れは燃えるほどの熱だ。莫大な力の元、ヘブンズゲートが開かれていく。亜空間からの引力が強まっていき、その直下に位置するケレスモンの抜け殻を引き寄せていく。いくら羽ばたこうと、石くれの翼がパンドラモンに応えることはない。第一、翼は空に上がるためにあるのだ。門が直上に開かれている以上、ケレスモンの抜け殻がゲートから逃れる術はない。 しかし、相手は抜け殻でもあったとしても究極体である。ましてやパンドラモンの力を十分に蓄えているのだ。草太とホーリーエンジェモンがなす強力な意思を束ねた共振励起に対し、幾多のデジモンや人々へ与えた恐怖と苦しみ、その負の感情を吸い取り束ねたゾンビタトゥー。対照的な二つの力がせめぎ合う。 力の綱引きはケレスモン──パンドラモンに軍配が上がる。 ヘブンズゲートの引力ではケレスモンを取り込むには足りない。どれだけ食いしばろうと、力を捻り出そうとも、草太が開くヘブンズゲートでは力が足りない。 街の人々は今怯えているのだ。上空に得体のしれないバカでかい鳥が現れ、今にも落ちてこようとしている。かと思えば謎の円盤がその鳥を引き寄せんと得体のしれない力を放つ。その引力はわずかながらにも、地上にまで影響を与えている。 これで怯えるなという方が無茶である。これまで草太とホーリーエンジェモンがどれだけ街のために戦っていようと、怪物同士の戦いであることには変わりない。ましてや上空遥か高みの戦闘である。そもそもとしてホーリーエンジェモンが街を守っていることすら気が付いていないものだっている。 どれだけ強い意志であっても、ただ二人だけの力だ。対してパンドラモンはおびえる人々の負の感情をすすり、わずかながらでも力を増し続けている。弱い力であっても束ねれば大きな力に成るのは自明だ。草太の力ではパンドラモンにかなわない。 だからホーリーエンジェモンが猛り、声を放つ。 「突貫する!!」 光を纏いケレスモンの抜け殻へと突撃する。エクスキャリバーすら収め、ただケレスモンの抜け殻を押し込んでいく。ゲートによる引力とホーリーエンジェモンの圧力。 草太だけでは足りずとも、ホーリーエンジェモンがいる。 たった二人ではあるが、お互いに対しては呆れるほどの意地を以て、いくらでも虚勢を張れる二人だ。 どれだけ食いしばろうと動かなかったケレスモンが、ゲートによる引力と、ホーリーエンジェモンの押し込みで徐々に動き始める。 少しずつでも確かに勝利が近づいている。 ケレスモンの全身がゲートを越えたとき、二人の心が緩んだ。 あと一息で街を守りきることができる。その希望が油断に繋がった。 敵はケレスモンの抜け殻を操るパンドラモンである。その意志は、ケレスモンではなく、身体に刻まれたタトゥー、そして黒い靄である。 それまで縮こまって動かなかった黒い靄が、突如として膨れ上がり、ゲートの縁をつかむ。まるで蜘蛛の糸のようにベッタリとゲートに張り付き、逆に門から這い出ようともがく。靄はゲートの稼働部までも塞いでおり、ゲートを閉じることすら出来なくなっている。 あとはゲートを閉じさえすれば終わりだった。にも関わらず、些細な油断が致命的なミスを生んだ。 ゲートに取り付いた靄を切るだけでは足りない。切られた端から即時再生を繰り返し、逆に靄の範囲が広がる始末。エクスキャリバーの切れ味が仇になった形だ。 これほどのサイズのゲートは長く持たない。 ケレスモンの抜け殻ごと靄を叩き込む方法を見つけなければならない。 ホーリーエンジェモンが、一つだけ見つけた勝ち筋に逡巡を顕にする。現実から背けるように、それでも思わず草太に目を向ける。 にやりと草太が笑う。 「あれ、何かに似てると思わないか。」 指し示す先にはケレスモンの頭だった部位に集まる、ゾンビタトゥーの塊。光を吸い込むような黒が球状に固まっている。 「…サッカーボールか。」 「俺が飛び出したら、エクスキャリバーでゲートをつかむ黒い手を切れ。俺はあのボールをゴールに叩き込む。それでゲームセットだ。」 「お前の人生もそうなるな。」 ホーリーエンジェモンが開くゲートだからこそ、その威力はよく知っている。ゲートをくぐればもう戻ることはできない。 「もう一つくらいゲート開いてみせろよ。さあ、行くぞ!!」 「貴様ッ!」 有無を言わせずにホーリーエンジェモンの金帯を蹴ってゲートの先、ケレスモンへと飛び乗る。ゲートは強力な引力を発揮しており、まるで空へ落ちるように引き寄せられていく。 ケレスモンの抜け殻を一気に駆け上る。元々が巨大な体ではあるが、今の草太ならば、ゾンビタトゥー、いや、あのボールまで3秒もかからない。 止める間もなく飛び出した草太を目で追うこともなく、ホーリーエンジェモンはエクスキャリバーを構える。 自分勝手な草太の行動にカチンときた。それしか選べない自分の無力さに腹が立つ。 なにより、草太ならなんとでもしてしまうだろうという希望を感じた自分自身に、はらわたが煮えかえるほどの怒りがある。 ケレスモンの巨体は土と草に覆われている。草の高さはまちまちだが、膝を壊す前に走っていたグラウンドを思い出す。膝の治療中にあれほど焦がれたグランドではなく、バカでかいデジモンの背中を走っている。なんの因果というのか。多分あの腐れ天使との腐れ縁だろう。 これから蹴りこむボールだって、検定球どころか邪悪な力の塊だ。おまけに叩き込むゴールは亜空間そのもの。 自分でもあきれるような、空想じみた現実だ。 それでも高揚する気持ちがある。体は覚えている。ただボールを追いかける喜びを。あれほど焦がれた瞬間がここにある。さっきは最後のシュートなんて言ったけど、あれは嘘だな。まだ、諦められない。 ホーリーエンジェモンの力と、ゲートの引力に任せて一気に飛び上がる。宙に飛び出した体は草太のイメージと寸分違うことがない。自分自身を十全にコントロールする感覚。草太の望み通りの軌跡をたどって、草太の右足が邪悪の塊へと叩きつけられる。 ジャンピングボレー。かつてプロのスーパープレイにあこがれて泥だらけになるまで練習したそのシュートが、誰にも知られることのない空の上で振りぬかれる。 草太が飛び上がる瞬間を目に焼き付ける。場合によってはこれで草太自身が消えてしまう可能性がある。ならば最後まで見届けること。それが自らに課せられた義務であるとホーリーエンジェモンは考える。 遠目にも草太が笑っているのが見えた。今まで見たどの瞬間よりも、生き生きとした表情を見せている。これが本来の草太そのものなのだろう。その瞳の輝きは、亜空間の中にあってもひときわに目立つ。 言葉にすることのない、その時感じた全てをエクスキャリバーに込めていく。すでに余力など残ってはいないが、それでもこの湧き上がる感情が力となって応える。 そして、しぶとくゲートをつかむ黒い腕に向けて、エクスキャリバーを振るう。 スッとすくい上げるような切り上げから、半身を返して振り下ろしの一撃を放つ。 その剣の軌跡は真円を描き、黒い腕を両断する。 右足が描く軌跡、剣のきらめく光。二人の一撃には刹那のずれさえなく、パンドラモンの力を削ぎ、蹴り飛ばす。 力の根幹にシュートを叩き込まれ、まともに靄を作ることすらできずに、パンドラモンの力の残滓とケレスモンの抜け殻が亜空間へと落ちていく。 そして、草太も浮き上がったまま寄る辺もなく、亜空間へと吸い込まれていく。 上も下もなく、いつかテレビで見た宇宙飛行士のように、無重力じみた動きでくるくると回転している。一瞬ゲートの向こう側にホーリーエンジェモンを見た。草太に向けて手をかざしている。 ホーリーエンジェモンがどんな顔をしていたのか。遠すぎて草太にはよく見えなかった。飛び込んだことに後悔はない。ただ、それを見られなかったのは惜しいな。そんなことを考えた。 最後に何かに引っ張られる感覚を覚えて、草太の意識は暗転した。 5. この街の空を覆い隠すほどの巨大なゲートが閉じていく。呆れるほど巨大な怪鳥は、それを上回る巨大な門に引きずられていった。 ゲートからは地響きすら生ぬるいような大きな音がしている。ゴゴゴと肌すら震える響きが続き、最後にゴンとひときわ大きく響いたのが終わりだった。 ゲートが消えた後には何もなく、ただ青空が広がっている。あれほどまで激しい戦いがあったことを微塵も感じさせない、穏やかな風だけが吹き抜けていく。 その空からホーリーエンジェモンがバサバサと翼を羽ばたかせて降りてくる。 テイルモンは、高間こよりを支えながら見ている。 ざっざと音を立てて着地したホーリーエンジェモンは、二人の前を無言で通り過ぎ、ビルの間際、フェンスを叩きつけるように蹴り飛ばす。がしゃんと大きな音が響く。ビルの間で反響するその音は、徐々に薄れ消えていく。 息を荒げたまま、肩を上下させて、憤懣やるかたない様子で何度も深呼吸を繰り返している。その横に草太の姿はない。 いるはずの人間がいない。ここにきてテイルモンもただの空白が、嫌な予感に変わっていく。 ぼんやりとそれを見ている高間こよりはまだ状況を理解していない。 一足先に降りてきていたケレスモンメディウムは目を伏せている。 どれくらいの呼吸を重ねたのか。ホーリーエンジェモンがテイルモンたちへと向き直り、歩いてくる。 ごくりとテイルモンは唾をのみ、尋ねる。 「そ、草太さんは、どうなりましたか?」 「知らん!ああ、奴がどこにいるかなど私が知るものか!!あの考えなしの唐変木め!!」 「ホーリーエンジェモン!落ち着きなさい! …私たちには状況が見えていません。あなたには、説明する義務があります。いいですか、もう一度聞きます。草太さんは今、どういう状況にありますか?」 「…黒い靄の腕がヘブンズゲートを防いでいた。黒い腕を切るだけでは足りなかった。だから、奴がパンドラモンの力の塊を直接蹴とばしに行った。ゲート送りを完遂したが、やつはゲートの中からは出てこれなかった。」 「では草太さんは…。」 思わずテイルモンは口をはさむ。できればその先は聞きたくなかったからだ。気難しいところはあるが、やさしさと強さを持つまっすぐな少年だった。 彼が失われたなどと、そんな言葉をホーリーエンジェモンからは聞きたくなかった。 「…話を聞け。聞いたのは貴様だろう。あいにく奴ならデジタルワールドだ。ゲートの中にもう一つ、ヘブンズゲートを開いた。接続先は普段の通りだったが、二重のゲートなど初めてだったからな。デジタルワールドのどこにつながったかまではわからん。だが、確実に、デジタルワールドへ送った。確実にだ。」 テイルモンの力が抜ける。 「まあ、悪運の強いやつのことだ。どこか適当なところに放り出されているだろうよ。」 6. ピピピと鳥の鳴き声。瞼を明るい光が刺激する。 うっすらと目を開ける。寝起きでぼやけた視界には黄色い熊が映る。 …そんなことがあるか? 何度か目を瞬かせるが、結果は変わらない。 「おや、起きたみたいだね。話せるかい?」 「・・・、ここは?」 「ふふふ、そうだね。きっとそうだと思っていたけれど。」 眉を顰める。状況もわからないままに勝手に自己完結されるのは不快だ。まして起き抜けで禅問答などしたくはない。 「ああ、ごめんよ。そうそうあることではないから興奮してしまった。」 やけにコミカルな動きの熊である。 「まずは自己紹介からとしよう。私の名前はもんざえモン。どうぞよろしく。 そしてここはおもちゃの街。まあ街はずれの街道になるね。いや、君の知りたいことはそれではないか。つまり、ようこそ、デジタルワールドへってことだね。」 続く!