草太とホーリーエンジェモン 後編 3. 大喧嘩 ホーリーエンジェモンが住み着いてからというもの、草太の生活に大きな変化が現れた…というわけでもない。 もともと草太は平日は学校に通い、家に帰ってからはリハビリがてらのウォーキングをするという生活だった。 両親は県外へ赴任中なので自炊や掃除洗濯を行い、時々買い物に出かける。そういった繰り返しにホーリーエンジェモンが加わったところで生活パターンに大きな違いがなかったというわけである。 ウォーキングがパトロールという名称に変わったのがせいぜいである。 が、細かい部分で言うなら料理への要求や部屋の片付けという一人が二人になったことへの変更は当然あった。 お互いがお互いを気遣い無用とみなしているため、喧嘩しない日がないレベルでいさかいを起こしていたが、それはお互いの妥協点の譲り合い(主に諦め)で決着がついていった。 例えば料理は草太に時間のある夕ご飯だけはしっかり作る。朝や平日昼は適当な作り置きでホーリーエンジェモンが我慢する。掃除はできる限り自分のものは自分で片付けること。また、ホーリーエンジェモン用の拾ってきたものを置いていいスペースを設けることで解決した。要は子供部屋である。 どうもデジタルワールドにないものに興味がわいたらしく、草太からするとガラクタにしか見えないものを集めるという奇行(本人は趣味と言う)を始めたのだ。ぼろぼろの釣り竿、祭りのボンボン、松ぼっくりや紙飛行機に紙でできたメダル。どこから集めてきたかも定かではないが、たまに配置が変わっているので本人なりのこだわりがあるようだ。 ともあれ、お互いが特に生活でストレスを感じる部分にめどがついたことで、比較的穏やかな共同生活になりつつあった。 実際のところ、パンドラモン捜索自体は難航していたが、暴れるデジモン(タトゥー持ち)への対処と連携は思いのほか上手くいっていたことが大きい。さすがに現れるのはせいぜい成長期や成熟期でも比較的小さいデジモンが多かったということもあり、さっさとヘブンズゲートで送還できてしまっていた。むろん危険が少ないに越したことはないし、タトゥーから染み出る靄の凶悪さに変わりはない。が、あれほど煽られて共同生活までする羽目になった割には、上手くいっているというのが草太の感想だった。 *** 日常生活としてパターンが定まり、関係性が落ち着いた。だからこそ、踏み込んでしまうこともある。 基本的にパンドラモンやゾンビタトゥー付きのデジモンの調査そのものについてはテイルモンが受け持ち、草太が積極的にかかわることはない。よって、草太の活動としては、ホーリーエンジェモンとのパトロールが主になる。 タトゥー持ちの出現についてはテイルモンの能力である程度地域の絞り込みができるということで、早期対処ができている。 それ故に、次の方針についてもめることになった。 ホーリーエンジェモンとしては捜索範囲をより広げたいと考えていたが、広げたところで戦闘に入れなければ意味がない。いかに完全体であるとはいえ力が制限されている以上は強めの成熟期程度の力しか発揮できない。そのため捜索時には草太の同行が必要になる。 しかしながら草太としては、身近なエリアの安全性を確保したいと考える。この街は草太の地元である。今でこそ疎遠になってはいるが、多くの友人が住むエリアだ。そのため、草太の方針としては地元重視となる。 どちらが正しいわけでも間違っているわけでもない、平行線をたどる意見の違いである。話に決着が着くわけもなく、ここ数日は二人の間の空気も関係性もぴりつくことになった。 ホーリーエンジェモンは共同生活を重ねた今になっても草太をつかみ損ねている。 普段の草太には能動的な意欲が感じられない。淡々と日々をこなし、情熱を向けるようなものがない。料理をしているときも、掃除をしているときも、そこにかける意志は希薄だ。 タトゥー持ちとの戦闘では暴走するデジモンの行動を的確に予想することがある。そういう時にホーリーエンジェモンへかける支持は明確で適切であった(そこが癪に障る部分でもある)。 意志の弱い人間だとは思わない。だが、自身の才覚をまともに振るう気がないように見えている。時々物憂げにしている草太には何かしらの事情がある。ただ、それが何なのかはホーリーエンジェモンにはわからなかった。 力がないから虐げられる。力あるものは弱者を顧みない。だから力が必要だった。 セラフィモンが自分を見出したのは、生きるためにあがき続けた生命力──これも力だ──に期待を込めたからだと知っている。だからホーリーエンジェモンは自らのために正義という力を求め続けた。だから振るうべき力を放り出すような草太の無気力さはいらだちしか生まなかった。 初めてリアライズしたあの時、草太がサラリーマンを助けた時の輝きに間違いはなかった。 ホーリーエンジェモンから見れば死を待つだけの弱者を、同じ弱者でありながら見事に救って見せた。 もしホーリーエンジェモンが行かなければ、草太自身が殺されて終わりだったはずだ。だが、それでもあのサラリーマンにかけられた死は払われた。間違いなく救われたものがいた。 その事実は、本人にも気が付かない心の奥で、ホーリーエンジェモンの心を揺らした。 だからホーリーエンジェモンは草太を契約者【パートナー】として選んだ。 ──ホーリーエンジェモンはその理由が知りたかったのだ。 だというのにこの体たらく。パンドラモン捜索のために行動範囲を広げたい。地元の安全を固めたい草太との方針の違い。むろん意見の違いによる衝突を起因とするフラストレーションはあった。だが、真にホーリーエンジェモンをいら立たせていたのは、草太のその無気力さだった。 普段は立ち入ることのない草太の部屋を開ける。当然部屋の主がいぶかし気にホーリーエンジェモンに目線をやる。 6畳ほどの洋室だ。南向きの日当たりのいい窓際にはベッドと箪笥が並ぶ。壁際には木製でがっしりとしたつくりの机が置かれている。草太はといえば、その机に向かって作業をしていたようだ。 足を踏み入れる。 「なんだ珍しい。なにか用か?」 問いかけの答えを待つまでもなく視線を机に戻し、書き物を再開している。ホーリーエンジェモンの様子を気に掛けるそぶりもない。 だからホーリーエンジェモンも全く気にせずに箪笥に近づいた。そこには埃をかぶったトロフィーが並んでいる。 写真立てには同じ服装の少年が並んで、泥だらけの顔に笑顔を浮かべている。当然草太の姿もそこにある。 今より幼く、だが力強い笑顔だ。トロフィーは大小いくつか。金色がくすんで輝きもない。それでも栄光の証として存在している。これらの栄誉を掴み取ったのが草太であると、今の淀んだ姿からは想像できない。サッカーという競技を草太はしていたらしい。サッカーとやらが何かをホーリーエンジェモンは知らないが、トロフィーはその時のもので、それが並べられる程度には実力があったのだろう。 ふと部屋を見渡す。写真にも、トロフィーにもボールがある。だが、この部屋には見当たらない。と、隙間に目が留まる。箪笥とベッドの間には、黒と白のボールが転がっている。 空気が抜けてへこみが目立つ。サッカーボール、ホーリーエンジェモンにもその程度の知識はある。つまり、草太はサッカーを辞めたと、そういうことなのだろう。 できることをやらない。それは”力を持つ者の傲慢”であるとホーリーエンジェモンは考える。 ホーリーエンジェモンの価値観に従えば、力は正義であり、身を守るための生存権に等しい。だからホーリーエンジェモンは理由を問うことはしない。 やめざるを得ない理由など死以外にないはずだからだ。力を放棄する理由に正当なものなどない。そうでなければ生きていけないのがデジタルワールドの理である。 気にしないといえ、背後でごそごそと物色されていい気分のわけもない。 草太が振り返ると、ちょうどへこんだサッカーボールが持ち上げられたところであった。 手入れのされていない、埃にまみれてへこんだサッカーボール。普通のボールより一回り小さい、5歳の草太が初めて買ってもらったサッカーボールだ。 ホーリーエンジェモンに片手でつかまれて、まるで食べられた後のスイカの皮みたいに平たく見える。かつての自分の宝物。それが埃にまみれて潰れている。 *** ──サッカーを諦めた日のことを、夢に見る。 ボールをいくら蹴っても狙った所にいかない夢だ。ボールを蹴るたびに膝が捻れて、ついにはボールにかすりもしなくなる夢だ。焦る思いとは裏腹に、膝から下がどんどん伸びていって、しまいには紐みたいに伸び切って力すら入らなくなる。 夢の中の草太は、もう蹴る意味がないなと動かなくなる。すると幼い草太が現れて言うのだ。 ”サッカー選手になるだろう?”と。 草太はその目を直視することができない。ただ黙って立ち尽くす。そうして目を覚ます。 *** だから、棚から落ちて目の届かないところに転がったボールを、草太はそのままにしていた。 捨てることもできず、再び手に取ることもできない。諦めた未練がボールを通して自らを苛む。かつて草太の胸を熱く焦がしていた夢の象徴。 誰しもが触れられたくない痛み、それを無造作に放り投げてホーリーエンジェモンがあげつらう。 「ずいぶん汚れた球だな。私物の管理もできないのか。普段私に偉そうに言っておきながらこれではな。」 言い終わる前にボールを奪い取られる。 「人の、人のものに勝手に触れるなって、教わらなかったのか…?」 「…それがそんなに大事か。言っておくが、それはもうゴミだ。手入れをされずに放っておかれたものはな、ゴミというのだ。」 「お前に何が分かるッ!」 「知らんなぁ。貴様がゴミにしたもののことなど。」 わざとらしく、ゆっくりと部屋を見まわす。壁に飾られたメダルやトロフィー、写真が埃を被っている。 「できることを放り出してずいぶんいい身分だな。そのくせ言い訳がましく見えないところに隠して一安心か。 それではただ生きているのと変わらんな。貴様は、どうせ少しの挫折を大げさに傷ついたと喚いて投げ出したのだろう?で、まともに向き合うのが怖くなったと? ああそうだな、どんな言い訳で辞めることにしたのか、私が聞いてやろうじゃないか。」 「ッ……! 」 怒りに我を忘れるなどというが、それは嘘だな。あまりの怒りにそんなことすら考える余裕があった。 激情は静かに溢れ、怒りのままに言うべきではない言葉を選ぶ。 「………お前、本当に人じゃないんだな。」 怒りを目に残したまま、一呼吸の後に草太がつぶやく。 「何を言っている?私こそが正義の象徴、聖なるものの導、大天使だ。今更だろうが。」 「笑わせるなよ。何が天使だ。何が正義だ。お前の正義の薄っぺらさには本当に嫌気がさす。気づいてるんだろ? お前の言葉で喜んだ奴がいるか?お前の言う正義を正しいって言うやつがいたか? いないよな。どうせ、今までもいなかったろ? そりゃそうだよな。人の気持ちもわからない、押し付けがましい独りよがりでしかないもんな。 …お前なんかが、自己満足の正義とやらで口出ししてるんじゃねぇよ!!」 「薄っぺらいだと…?私の正義を、貴様が否定するなっ!!」 お互いの傷をえぐり合う言葉を投げつける。一度タガが外れたなら、あとは燃え尽きるまで止まることなどない。 本当に契約者が誰でもいいのであれば、その正義に従わない相手を選ぶことはなかった。 その志がただの自己満足であったなら、その戦いに手を貸すこともなかった。 つまるところ、どんなにいさかいが絶えなかったとしても、心根が映すものがある。互いの心を支えるものを信じていた。だからこそ、本当に言われたくない言葉が傷を作る。 「出ていけ!もう顔を見せるな!」 「ああ、そうさせて貰う!せいぜい安物の悲劇に酔ってるがいい!」 感情の赴くままに叩きつけあった言葉の終わりは決別である。 窓から飛び立つホーリーエンジェモンは、普段の警戒心もかなぐり捨てて一直線に離れていく。 いらだちに強く机をたたく草太。弱音を押し殺すように歯を食いしばる。 ささやかながらにつながっていた信頼関係は、このようにして断ち切られた。 4.不穏な空気 影が深くなる夕暮れ、雑居ビルの屋上に人影が一つ。その人影が空に手をかざして大きく円を描く。人ではあるが、人間の動きではない。人の持つ揺らぎがまるでない見られない、機械のような動きで腕が振るわれる。 腕の動きに呼応するように空に光の線が浮かぶ。円の内側は黒く腐り落ちるかのようにボロボロと崩れていく。まるで空に落とし穴が開いたかのよう。次々と空に穴が生み出される。 そしてその落とし穴からは、巨大な毒虫が顕現する。 片手に乗せられた小箱が嬉し気に震える。 現れた毒虫──フライモンが次々と開く穴から現れる。フライモンを呼び出した穴はあっという間に塞がれていく。 そして片手の小箱──パンドラモンが、わずかに開く。フライモンの一群に向けて、爪の先ほどの針が射出される。針はフライモンたちの身体に吸い込まれ、刺さった場所に薄っすらと黒い染みを作り出した。 ケラケラとパンドラモンは笑う。傍らの人影、少女はまるでマネキンのように身じろぎもしない。ただ首元から黒いタトゥーが覗いている。 そしてパンドラモンが笑い止むと、パンドラモンの開いた隙間から靄が溢れ出して二人を包んでいく。靄が薄れたあとに残るのは、デジタルワールドから呼び出され、災いを植え付けられたフライモンの一群だけだった。 *** 突如空に開いた穴。気がついた人から、違和感が共有されていく。そして現れた巨大な毒虫をあっけにとられながら見上げている。いくつもの影が地上に影を落とす。 人は今が続くことを無自覚に信じている。でも現実はそうではない。まだ、彼らは気が付いていない。デジモンという存在が暴れだしたときの脅威を。その身の内に自分たちがいることに。 フライモンに打ち込まれた黒い染み”ゾンビタトゥー”は暴力性を増幅させる。それは誰に向けられるものか。当然より弱い者へ。つまり、誰もが死の境にいるということを。 フライモンが羽ばたき始める。一匹がすぐに二匹に。三匹四匹とその場のフライモン全てから、歪んだ不協和音が撒き散らされる。 ここに至って危機感を覚え始めたのではもう遅い。 ”フライモン!成熟期の昆虫型デジモン!必殺技はしっぽの毒針を飛ばすデッドリースティング!” 耳障りな高周波をたてながら高速で飛び回るフライモンの群れ。時折ビルや電線にぶつかりながらも、あたりを把握するように、少しずつ飛び回る範囲を広げていく。 行動範囲が広がるにつれて動きが大胆に変わっていく。紫の羽がだんだんとぶれるように速さを増していく。ハウリングノイズが響き渡り、フライモンから離れようとした人間たちが耳を抑えてうずくまる。 強烈なノイズに平衡感覚を失い立ち上がることができない。明確な脅威があるというのに、逃げることすら出来ない。恐怖におびえる声すら聞き苦しいノイズにつぶされている。 そして連続的に、断続的に羽ばたきでノイズを撒き散らかす。雑音、無音、雑音が繰り返し響く。次第にハウリングノイズが広がっていく。そしてノイズが大きくなるほどに黒い染み─ゾンビタトゥーがフライモンの体を覆っていき、次第に黒い靄として拡散されていく。 *** うずくまる人を靄が包む。呼吸に合わせて体内に入り込んでいく。震える人々にはそれに気づく余裕すらない。 一面に深まる靄は濃度を増していき、夜に沈んだよりも深く、黒く染められていく。 耳がおかしくなるほどの不協和音に真っ黒な視界。動くことすらままならず、恐怖は膨れ上がっていく。 なぜこの場に居合わせてしまったのかという嘆き。その人の負の感情が靄にしみこんでいく。 怖いならば、誰かに押し付けてしまえばいい。恐怖を塗りつぶす狂気を誘うささやき。震えているから恐ろしいのだ。力を振るえば怖くなどなくなる。敵はどこにでもいるぞ。さあその拳を柔らかい肉に叩きつけろ。 靄を通してパンドラモンはささやく。 靄から受け取る負の感情を受け、パンドラモンは静かに笑う。 そんな狂気を振りまく街へ、ただ一人飛び込もうとする少年がいた。 *** フライモンに見つかれば命の保証はない。靄に包まれてもアウト。 だから物陰を選んで静かに、そして速やかに。眼差しは強く、何かを探すようにあたりを確認している。 突然部屋に飛び込んできたテイルモンから状況を聞いて飛び出してきたのが先程のこと。何故来たのか。その理由さえ後回しだ。 何のために危険を冒しているのか。 ─あのくだらない正義厨のために動く必要はない。 自分が行ったところで変わるものがあるのか。 ─たかが高校生に変えられる現実なんてない。 別の契約者を見つければ何とかするだろう。 ─あの大天使は、別に自分を必要としているわけではない。 少年の頭を渦巻く疑問疑念臆病風。 そもそも自分と奴は盛大に喧嘩別れをしたばかりだ。お互いの一番弱い部分を鋭い言葉で傷つけあい、怒りのままに絶縁宣言を叩きつけあった。 ホーリーエンジェモンは人間ではないし、この世界を守るいわれもない。 だから奴がこの事態に動いている保証だってないのだ。さっさと見限ってデジタルワールドとやらに帰っているかもしれない。 それかパンドラモンを見つけることを優先している可能性だってある。動いているときが一番見つけやすいのなんて誰だってわかることだ。 ──それでも奴が悪意を見逃すことはない。草太はそう確信している。 確かに奴の正義は独善的で、その横暴さが誰かを笑顔にするとは思えない。 ──でも、救われる人がいる。事実救われたのだ、自分は。 死の一歩手前、ただただおびえるだけだった自分を、やつは確かに助けてくれた。 その後だってそうだ。どんなに独善的に見えたとしても、ルールこそが人を守るものだってことを奴は信じているのだ。だから些細なルール違反も見逃さない。その先に守るべきものを見ているからだ。 デジモンが暴れだした時、たとえどんな危険なデジモンであろうと、どんな恐ろしい攻撃が来ると分かっていても、やつは人の前に立つ。 どんなに口ではふざけたことを言っていても、チンピラじみた挙動で罵声を喚いていたとしても、ホーリーエンジェモンがその後ろに攻撃を許したことはない。自らを盾とすることすら厭わない姿がそこにあった。 だから草太は信じる。 阿呆な理屈で振るわれる力だとしても、恐怖に震える人が救われるのならば、それを正義と呼んだっていいはずだ。 誰からも疎まれる自己満足だったとしても、人を痛みから解放できる力なら、それが正義だっていいはずだ。 痛みは容易く人の心を折る。折られた心が死を呼ぶことだってある。ならば折られる前に助けるしかないのだ。 そう思ったからこそホーリーエンジェモンとの契約を受けた。 どんなに嫌な奴であっても、それが分かるから自分は走るのだ。 5.合流まで 街中に悲鳴が広がっていく。タトゥーの暴力衝動に支配されたフライモンの群れは、うずくまる人々を傷つけ始める。殺すのではなくいたぶる。 やろうと思えば人など一噛みで引きちぎれるだろうに、嗜虐性を増幅されたフライモンは、一方的に人を傷つけ笑っている。 ビルの影、街路樹や植え込みに身を隠しながら草太はホーリーエンジェモンを探す。 頼りのパス──ホーリーエンジェモンとの契約の証だ──はまだ切れていない。つながってもいないが。 頼りにならないと舌を打つ。 今この街で凶暴化したフライモンをなんとかできるのはホーリーエンジェモンだけだ。あのうっとおしい羽音で普通の人間は立つことすらままならない。 しかしホーリーエンジェモンが全力を振るうためには草太の制限解除が必要だ。 まずはホーリーエンジェモンを見つけ出さなくてはこの混乱を沈めることはできない。 ──奴はどこにいる? 草太は考える。 街中で悲鳴が上がったなら、ホーリーエンジェモンはどうするか。 間違いなくおっとり刀で駆け付けるだろう。だが制限状態では守ることのできるものは限られる。 あきれるほどのアホではあるが、取捨選択を間違えるほどではない。 逆にフライモンは、どのような相手を狙うのか。ゾンビタトゥーで暴力衝動にかられた毒虫が狙うものの中に、ホーリーエンジェモンが執着するものはあるか。 理性をなくしたからこそ、脅威など一つもないはずの弱いものを狙うはずだ。事実、うずくまる無力な人々を傷つけている。 それだけか? フライモンは悪意や嗜虐性を増幅されている。要はすごい嫌な性格になっている訳だ。 嫌な奴は弱い者いじめはしても強いものに喧嘩を売ることはしないはずだ。 …なら、強いものが弱くなっていたらどうか? 今のホーリーエンジェモンは見た目だけで、通常よりもはるかに弱い状態だ。力に制限がかかっているのだから。フライモンは自分より上の存在をいたぶる機会を逃しはしないだろう。 ましてやパンドラモンの支配下にあるのだ。自分を捕まえにきた相手を逆に嬲れるならば最優先で狙われたっておかしくはない。フライモンがホーリーエンジェモンを見つけたのなら、徹底的に攻撃を加えるはずだ。 ホーリーエンジェモンは自身が集中的に狙われるとして、フライモンから逃げるか? 間違いなく逃げる。あの阿呆は正義の番人気取りだが、その本質は野生の猛獣に近い。意味もなく勝てない戦いをすることはしないはずだ。 さっさと逃げ出して、それから陰湿な不意打ちでもするのが目に浮かぶ。 だが、それはホーリーエンジェモンだけが狙われたらの話だ。 いつか見た不可解な態度。パトロール中の公園でやつは子供を見ていた。 転んで泣いた子供の元へ保護者が駆け付けるまでの一部始終を。子供の声が耳障りだというくせに、子供が泣き止むまでその場を離れようとしなかった。思えば公園に幼稚園、小学校。奴が選んだパトロールルートは子供のいる場所ばかり。 ──ああそうだ、きれいに折られた紙のメダルなんて、誰があの天使に贈るというのか。 この辺りで一番子供が多いのは、公園そばの保育園だ。やつが好んで回るパトロールコース。 今の時間帯なら、仕事が終わった大人たちが迎えに来るのを待っている子供たちがいる。かつては自分も通った保育園だ。間違いない。 見つからないように静かに、そしてできる限りの速度で駆け出す。膝が痛むかもしれない、そんなことかけらも思い浮かばなかった。 *** 国道をそれた小さい市道に入ると地域で一番大きい保育園がある。日当たりの良い大きな園庭にはいつも可愛らしい子どもたちのはしゃぐ声が聞こえていた。 それが今はどうだ?不愉快な羽音と破壊音、泣き叫ぶ声。 か弱い子供の悲鳴だ。近づくほどに強く、自分にも聞こえている。 ならばその声が、やつに届かないはずがないのだ。あの傲慢極まりなく、頭も素行も最低で身勝手な屁理屈を振りかざす自称大天使。 薄っぺらい正義をかざして人を従わせようとする、草太にとっての疫病神。 だが、弱いものを守る正義の番人でもある。誰でもなく、草太がそれを知っている。 園庭には泣き叫ぶ幼児たちと必死にかばう保育士がうずくまっている。親の迎えを待つ間、園庭は解放されているから、その状況で襲撃を受けたのだろう。 そして一塊になった彼らを、ホーリーエンジェモンがかばい続けている。 左手の盾は常に彼らを守るために向けられ、自らをかばうことはない。それどころか、自らの肉体すべて、背の翼までもをなげうって子供たちを守り続けていた。 どれだけ打ち据えられようともその背中は揺るがず、決して倒れることがない。 草太は叫ぶ。そして打てば響く返答は速やかに。 「待たせた!」 「遅い!承認しろ!!」 即時申請が来る。表示される間すらもどかしい。 「承認!!やれ、ホーリーエンジェモン!!」 二人をつないだパスを通じて、ホーリーエンジェモンの力が解放される! きらめく光が逆流するようにスマホまでも輝かせる。むろん、ホーリーエンジェモン自身が放つ光はその比ではない。 解放されたホーリーエンジェモンが放つ存在感は圧力さえ覚える。傷ついた翼すら曇りのない白色を取り戻していく。4対8枚の翼を広げたその姿は、名実ともに大天使型デジモンの威容である。 ふわりと浮き上がり、鬱憤を晴らすように羽ばたき散らす姿だけが、普段と変わらない柄の悪さを伝えている。 「さて、たかが羽虫程度が調子に乗ったものだな。一匹ずつ羽を引きちぎってくれよう」 フライモン達は様子の変わったホーリーエンジェモンへ警戒心を向けて、距離を取っている。 しかし、その程度の距離では不足している。 翼の一打ちが生み出す推進力はフライモンの比ではない。音を纏う速度で一体のフライモンの上を取る。そうして繰り出されるのは、体全体を引き絞るような溜めからの打ち下ろしの右。フライモンが反応する暇すら与えずにその拳がフライモンの胴体を撃つ。 激しい衝撃にまるでボールかなにかのごとく地面に叩きつけられるフライモン。顕れた力はエンジェモン時代の得意技、聖なる肉弾戦の代名詞、ヘブンズナックルである。 地面へ落下したフライモンには目もくれず、草太にむけ次なる力を要求する。 「草太!申請!!」 スマホが震える。見るまでもない。スマホから浮き上がるように輝く文字にはホーリーエンジェモンが誇る聖剣の使用申請が浮かぶ。 「エクスキャリバー承認!!」 叩き返すように叫ぶ。 光の聖剣がきらめく。右腕から伸びる青白い刀身は草太の身の丈ほど。ホーリーエンジェモンは胸元に手首を返し、刀身越しにフライモンの群れを覗く。 下段に剣を構え、翼の一打ちでフライモンの眼前に飛び込む。フライモンが前足を振るうよりも速く身をかわしてフライモンの上を取る。曲芸のように上下さかさまに反転したまま、フライモンの体に刻み込まれたタトゥーだけを切り裂いていく。 切り裂かれたタトゥーは黒い靄を噴出しながら、光に焼かれるかのように消えていく。 タトゥーが消えることで暴力衝動から解放されたフライモンであったが、さすがにタトゥーとエクスキャリバーのダメージは大きく、ゆっくりと地面に着地していく。 力を解放されたホーリーエンジェモンは、凶暴化したフライモンを歯牙にもかけない。成熟期と完全体にはそれほど大きな力の差がある。一体ずつ、確実にフライモンが浄化されていく。後から後から街中に散らばっていたフライモンが集まってくるものの、鎧袖一閃とばかりに聖剣が煌めき、そのことごとくを浄化していく。群れであったとしても力の差が埋まることはない。 だからそれを覆そうと思うならば、無法に手を染めるしかない。 黒い靄”ゾンビタトゥー”が明確な意思を持って蠢きだす。浄化される前のフライモン達からタトゥーから黒い靄に姿を変えて中空に集まっていく。悪意そのものを形にしたような漆黒の球が現れる。美しさすら感じさせるそれは、まだタトゥーを残したままの一体のフライモンを飲み込んでいく。触れた場所から靄がフライモンの体を引き寄せるように蠢く。まるでアリにたかられる蛾のように、毒々しい羽も警戒色そのままの体も黒い靄に包まれる。 フライモン一匹を丸々飲み込んだ黒の球からは、フライモンの絶叫が聞こえてくる。ぶちぶちと何かがちぎれる音が響く。フライモンが靄の中で何かひどいことになっている。 フライモンを取り込んだ靄の球からは、鞭となった靄が振り回され、ホーリーエンジェモンも手を出しあぐねる。 そして、だんだんと球が小さく薄くなり、フライモンの姿が見えてくる。元の姿とはかけ離れた姿となって。 ゾンビタトゥーを介して注ぎ込まれた力は、フライモンの肉体という器を無理広げ、強制的に巨大化させている。 力による巨大化に耐えきれずにちぎれた肉体の隙間は、黒い靄が埋めている。遠目には身体中にひび割れたような黒い線が見える。そうして無理矢理に膨れ上がったフライモンの肉体は元の3倍を超えるほどの大きさとなってホーリーエンジェモンの前に現れた。 生き物の強さは多くの場合、大きさだ。強い生き物は大きい。正面切っての争いでライオンは象に勝てない。絶対的な質量はまぎれもない力そのものである。 それはデジタルモンスターであっても同じことだ。例外はあれど、成長期から成熟期、完全体に至るまで、より強く『大きく』なることこそを命題として進化し続けるのがデジモンである。 本来であれば成熟期と完全体では埋めがたい力の差がある。多少の大きさを覆せる差だ。しかしそれを補うのがゾンビタトゥーである。パンドラモンがゾンビタトゥーを介して与えた力によって、フライモンの位階は完全体以上まで引き上げられている。 巨大フライモン、いやその裏に潜む影、パンドラモンが笑う。 「シネ」 巨大化したためにその動き自体は緩慢である。飛び続けることよりも悪意を優先した巨大フライモンがビルのアンテナを止まり木として、その巨体を下す。 そして羽を高速で震わせていく。その巨大化した羽がもたらすハウリングノイズもより威力を増している。 同時に放たれる黒く染まった鱗粉が一帯を染め上げるように広がっていく。 気がつけば二人の背後では、守っていたはずの子どもたちが苦しそうにうずくまっている。 フライモンが強大化したことにより、より多くの悪意を振りまく形態に変わったのだ。 タトゥーの靄は尽きることなく振りまかれ、辺り一帯はより深い暗い闇に覆われていく。 小さく柔らかな光が消えていく。無条件に信じていた未来が失われる絶望。 ホーリーエンジェモンが慌てたように地上に降りてくる。草太には目もくれず、子供達の前に立つ。声をかけるでもなく、手を差し出すわけでもなく、ただ立ちすくむように。 草太はホーリーエンジェモンとこの子供達がどんな関係なのかは知らない。ただの気まぐれで近寄ったら懐かれた。概ねそんなところだろうと思う。 まだ何者でもない、何にでもなれる可能性の塊。 ホーリーエンジェモンは戦うすべしか知らない。苦しむ子供にしてやれることを知らないのだ。ただ撫でてやるだけでも子供は安心するものなのに、それすらわからないのだ、この天使は。 呆然とするホーリーエンジェモンをそのままにしては置けない。初めて見せた弱さをそのままにしておきたくはない。なにより、こいつなら苦しむ子供たちを救うことが出来るはずなのだ。 ここに来るまで何十人もの人々がフライモンのハウリングノイズに苦しめられていた。耳をふさいでも防ぐことのできない苦しみを受け、立ち上がることさえできていなかった。そんな人々の中を、草太一人だけホーリーエンジェモンの元へと駆け抜けてくることが出来た。 より強大となったハウリングノイズに苦しむことなく、今草太は立っている。そこに鍵がある。 草太とホーリーエンジェモンは契約によって魂を直接接続するパスが生成されている。このパスを通じてホーリーエンジェモンの力が草太にも流れ込んでいる。邪悪を滅する聖なる光が草太の体を守っているのだ。だから草太はハウリングノイズに耐えられたし、毒の影響を受けていない。 ならば手はある。草太にはホーリーエンジェモンの可能性が見えている。 草太を守る光などわずかなものである。草太自身が今まで意識すらしなかったものだ。ただ繋がっているだけで伝わってくる光でも、悪意の毒に対することが出来るのならば、大本であるホーリーエンジェモンならば毒も靄もすべて吹き飛ばすことが出来ると。そして、その力があればどれだけの命を守れるかを。 立ちすくむホーリーエンジェモンの背中に手を当てる。 「俺が今ここに立っていられる理由を考えてみろ。」 「──ッ、消せるのか…?」 「分かったならボケっとしてんな!さっさと毒を消し飛ばせば済むだろうがッ!!」 「…貴様もたまには良いことを言う」 ホーリーエンジェモンの4対の翼に光が集う。羽根一枚一枚に宿るは猛き光である。 瞬時に高く舞い上がり、その翼が力のある風を起こす。静かに広がっていくその風は、聖なる光を運ぶ優しくも苛烈な暴風となる。街中にまき散らかされた毒鱗粉が光に溶けて吹き消されていく。 毒に苦しむ人々の顔が風を受けて穏やかな呼吸に変わっていく。草太の後ろにうずくまる子供たちの泣き声も小さくなる。ホーリーエンジェモンはそれを横目でしっかと見つめている。 鱗粉をあらかた吹き消したホーリーエンジェモンが草太の元へと戻ってくる。毒をまとめて吹き飛ばされたフライモンは再び宙へと浮かび上がり、二人を警戒している。 二人は、合わせたかのように巨大フライモンへと同時に向き直る。 草太からホーリーエンジェモンへ。ホーリーエンジェモンから草太へ。二人をつなぐパスが伝えるのは力だけではない。 弱いものを守ること。”泣き声を少しでも早く止めたい” 暴れさせられているデジモンを救うこと。”暴力をさせている奴に腹が立つ” フライモンは大人しいデジモンであることをホーリーエンジェモンは知っている。目の前の巨大なフライモンが上げた悲鳴を草太は聞いている。 自身の欲望のために人を傷つけること。 草太はそれが許せないと思う。たかが一つの傷が夢を奪うことだってある。 ホーリーエンジェモンは、それこそを”悪”と断ずる。弱さが生む悲劇を知るがゆえに。 性格、心情、生まれも種族も、世界さえ異なる二人だが、悪へ立ち向かう意志、その一点だけは違えることがない。 ならば弱い心に手を差し伸べること。未来を穢すものに立ち向かうこと。つまり、それが二人にとっての正義である。 「草太。」 「ああ。」 猛き意志が同じ焦点を結ぶとき、二人の魂が共鳴する。 共に立つ二人の体からは黄金の光が溢れ出す。ホーリーエンジェモンの力が、草太との共鳴によってかつてないほどの高まりを見せる。 半身になって左手のスマートフォンを、巨大フライモンへと向ける。 背中越しに、ホーリーエンジェモンの右手のエクスキャリバーが向けられているのが見えた。 「全力を振え、ホーリーエンジェモン!!」 その力を向けるべき悪を示す。 「言われるまでもない、奴は微塵も残さん!!」 溢れる光が悪を討たんと気炎を上げ、空高く飛び上がる。 黄金の光を纏う4対の翼が震え、爆発的な光が広がる。その光は朝焼けにも似て、街を埋め尽くす靄を切り裂くように焼き払う。暗がりを打ち破るその光は、靄がもたらす暗闇のことごとくを駆逐し、月を掲げる優しい夜の色を取り戻していく。フライモンがもたらした破壊や痛みに苦しむ人々すら、その光に恐怖を忘れた。 吹き荒れた光は陰ることなく、ホーリーエンジェモンへと焦点を合わせて行く。曙光を束ねたがごとし黄金の輝きが、ホーリーエンジェモンの右腕で形を成す。 エクスキャリバー、その刀身は優しく柔らかな黄金の光そのものとなった。 見るだけで温かくなるような、太陽にも似た穏やかな光。 そしてそれは、幾万の悪を焼き尽くす苛烈な光でもある。 「エクスキャリバー」 その剣の銘がつぶやかれる。 「さあ、正義の時間だ。フライモン、お前にこびりついたクソを今払ってやろう」 どこまでも高慢で、上から物を言う、変わらない姿。 むろん答えが返るはずもなく、巨大フライモンからは三度強烈なハウリングノイズがまき散らされる。 そして同時に強烈な毒針が射出される。ハウリングノイズで身動きを止め、わずかでも付着すれば骨までも溶かす猛毒を確実に当てる。フライモンの必勝パターンがホーリーエンジェモンを狙う。避けることが可能でも、その背後には草太と子供たちが位置する。 正義を標榜する輩にはこの手が一番効く。フライモンを操るパンドラモンは、デジタルワールドの天使型デジモン達に敗れとらわれたとはいえ、災いを元にさんざん暴れまわったデジモンである。天使型デジモンの弱みをよく知っていた。 だから、知らなかったのはデジモンと人が共に戦う強さである。 ホーリーエンジェモンが左手を前にかざす。まるで大砲のように猛烈な勢いで飛ばされた毒針は、ただそれだけでまがまがしい毒液が浄化され、一滴たりとも地に落ちることすらなく消えていく。物理法則すら捻じ曲げる光の力。 本来デジモン自身が操ることのできる力は、そのデジモンのレベルによって大枠が決まる。いかな完全体であっても、靄によって強制的に位階をあげられたフライモンの毒針を浄化などできるはずもない。 しかし、人とデジモンが心を一つにした時の力はいかなる悪意も吹き飛ばす光を生み出す。 フライモンへ向けた左手をそのままに、弓を引くかのように半身になってエクスキャリバーの切っ先をフライモンへと向ける。そして体中の力全てを剣に乗せて突貫する。雷のような刺突が、まっすぐに巨大フライモンの体を苦しめるゾンビタトゥー、その中心を確かに貫く。 そして、エクスキャリバーの黄金はさらに輝きを増して、ゾンビタトゥーどころか、膨れ上がったフライモンの肉体を癒すように全身を黄金に染め上げた。 ホーリーエンジェモンがゆっくりとエクスキャリバーを引き抜くと、すべてのタトゥーが塵のようにくずれて消えていく。4対の翼が巻き起こす風が、その塵すら浄化し消し去っていく。 ボロボロと膨れ上がった肉体が剥がれ消えていく。元の大きさにしゅるしゅると戻っていき、そのまま地面に伏せるフライモン。 もうフライモン達に戦う術はない。戦いは終わりだ。 ゾンビタトゥーに操られたとはいえ、街や人を散々苦しめたフライモンをみんなが見ている。そもそも操られていたことを草太達以外誰も知らない。弱った姿をいいことに追撃しようと考える人がいてもおかしくはない。 「ホーリーエンジェモン、全部まとめて吸い込んでやれ」 「わかり切ったことを貴様が指図するな。さっさと承認だけしていろ!」 ヘブンズ・ゲートの申請を即座に承認する。通常は亜空間につなぐゲートではあるが、今回の任務として、天使連が作り出した隔離空間へと接続されている。ホーリーエンジェモンよりも更に高位の天使型デジモンたちが作り出した聖なる力に満ちた空間である。ゾンビタトゥーを瞬時に浄化し、傷ついたデジモンの治療にもなるだろう。もとより現世にこんな悪意に満ちた力を残しておくわけにはいかない。 見慣れた門が空に開き、街に残る靄と気絶したフライモン達が吸い込まれていく。 誰もがホーリーエンジェモンの輝く光を見上げていた。 *** バサリと空気を打つ音とともに、ふわりとホーリーエンジェモンが舞い降りる。黄金の輝きは消えていつもの姿だ。スマホをちらりと確認すると、申請時間が経過しましたと無個性なポップアップが開いている。 戦いが終わって後始末も済んだ。そうするともう話すことがない。 絶縁宣言まで飛び出した喧嘩の後である。忘れたことにするには短すぎる時間だ。お互いに気まずい。さりとて二人だったからこそ何とかなったこの状態。 どちらも自分が間違っていたとは思っていないし、謝りたいとは思っていない。だが、それでも踏み込みすぎた自覚があった。 「…もう少し速く来れなかったのか。おかげで翼が汚れたではないか」 「…お前が助けてーって情けなく叫んでたらもっと速く着いたさ」 だから憎まれ口をたたかざるを得ない。引っ込みがつかなくなった阿呆が二人である。 と、そこにおずおずと話しかけてくる人がいる。それまで守られ続けた保育士と園児である。 「あの、て、天使さん?私達を守ってくれてありがとうございましたっ!」 勢いよく頭を下げられる。驚いた様子のホーリーエンジェモンに、追撃とばかりに園児たちの幼い礼が続く。草太からすればただのチンピラだが、見た目はまさに天使そのものである。ましてや身を粉にして守ってくれた実績がある。 恐怖から開放された子供は無敵である。たちまち園児たちに囲まれるホーリーエンジェモンであった。 あっという間に子供のおもちゃと化すホーリーエンジェモンに、巻き込まれまいと離れようとする草太だったが、草太にも保育士が頭を下げ始める。ありがとうありがとうと、自分の両親ほどの年齢のご婦人に頭を下げられて平然とできるほど肝は太くない。 「ちょっ、頭を上げてください!俺は別になんにもやってないですから!礼はアイツにやってください!」 「いえ、あなたが来てくれれば何とかなるって聞いてましたから。だからお礼を言わせてください。」 「いや、何にもやって…、聞いてる?」 ホーリーエンジェモンと自分の関係性を知っているのはあとはテイルモンだけだ。であるのにも関わらず自分がくるのを待っていることを知っていた。そんなことをあのへそ曲がりがいうのだろうか。 「天使様は私達を守りながら、なんとかできる人が来るからそれまで耐えろって言っていたんです。」 穏やかな瞳が、それが草太のことだと、そう信じていることを伝えてくる。 「だからあなたにもお礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました。」 そう言って頭を深々と下げる。草太にはもうなす術がない。ああ、だとか、いや、とかうにゃうにゃと言葉を濁してその場を離れる。保育士さんは不思議そうな顔をしてその姿を見送っている。 速足で保育園を後にする。さっさとこの場を離れたい草太である。 そして、同じく園児の群れから開放されたホーリーエンジェモンと期せずして隣り合う。 草太はホーリーエンジェモンを信じてこの場に来た。 ホーリーエンジェモンは草太を信じてこの場で耐え抜いた。 お互いが、なぜそこまで互いを信じられたのかは分からない。大して長い付き合いでもない。性格も考えも何もかもかみ合わない。絶縁するほどの喧嘩もした。それでも、信じるにたる確信があった。それは、思ったより悪い気分ではなかった。だから。 「薄っぺらいってのは言いすぎた。──悪い。」 「理由があったということにしてやる。──泣き言は聞かんがな。」 3 エピローグ 「全く貴様は学習能力がないのか?味噌を入れたあとに沸騰させるバカがどこにいる!カスがっ!!」 「ぐっ、ちょっと沸かしすぎただけだろ!お前こそ掃除は終わったのか?終わるまで飯にはしないからな!」 口を開けば罵声が飛ぶ。 「お前なんでも間でもエクスキャリバー申請してくるのやめろ!ピコンピコンうるさいんだよ!幼児でももっとまともな判断するぞ!」 「黙れ!私の目の前で悪が行われた以上、即刻やつに正義を叩き込まねばならん!さっさと承認しろ!!」 「たかが信号無視に過剰な戦力もちこむんじゃない!いかれてんのか!」 仲良くする気がまるでない。 二人のレベルの低い口げんかもここまでくれば筋金入りだ。様子を見に来たテイルモンがあきれている。 喧嘩にため息をつきながら、一昔前の携帯電話で現状報告をしている。 「はい、こちらは何とか対応できています。パンドラモンの捜索についてはお任せください。代わりにデジタルゾンビ化の治療と対策はお願いします。」 通話を切った後にもまた別の話題で喧嘩が始まっている。 「もう、仲がいいんだか悪いんだか・・・。」 やさぐれ天使と鬱屈少年の戦いは続く!