草太とホーリーエンジェモン 前編 0. 日本中どこにでもあるような地方都市。それなりの高さのビル。人の行き来が絶えることのない駅前ロータリー。 夕暮れが街を照らし、家に帰る人、居酒屋を探しぶらつくサラリーマングループ、行き交う人に濃い影を映す。 何にもないただの日常である。しかし平和が破られるのは突然である。 音もなく大穴が空に開き、そこから人の世界にあり得ざる巨体が現れる。 何百年と歳を経た大樹を思わせる体表。西洋の竜を彷彿とさせる四足に背を飾る翼。赤黒い鬣がゆらめいている。 そして頭部から体にかけて黒々としたタトゥーが覗く。その体の節々からは虫が溢れ、タトゥーからは黒い靄が染み出している。 ”エントモン!全身が腐食した樹木で構成された植物型デジモン!溢れるほどに詰まった大量の虫を筋肉として動いており、必殺技は突き出した牙で敵を貫くドライアドスティンガー!” 空に浮かび上がるその体が羽ばたく度に腐食した樹皮が落ちる。溢れだした虫たちは瘴気と化してエントモンの体を包んでいく。黒いタトゥーはパンドラモンによる支配を受けている証だ。しかし、その目は正気を保ったままに悪意に濡れている。 悪意の赴くままに、瘴気と靄があたりに立ち込めていく。その矛先は人へ向けられる。 力ずくの破壊音が不協和音となって一帯を恐怖に染め上げる。 平和を脅かす暗闇。影すら覆いつくす暗黒に、誰もが怯え、竦み、恐怖に体を震わせる。逃げ惑う人々を目下に見下ろし、うれし気に笑うエントモン。破滅をもたらす悪意が、街を絶望に染め上げていく。 だが、それでも現れる光がある。 「まとめて吹き飛ばせ、ホーリーエンジェモン!」 「黙ってろ、今やる!!」 どこからか、力ある言葉が響く。それに応える声と共に、光をまとう風が黒い靄を吹き飛ばしていく。 切り裂かれていく瘴気。異常事態の連続に怯える人々も、その風に顔を上げる。 そして思う。一体この風、光の先には何があるのかと。 その答えは空にあった。 光をまとい、輝くばかりの白い羽を広げるその姿。まさに大天使というべき存在があった。 "ホーリーエンジェモン。法の執行官たる大天使型デジモン。" エントモンの巨体からすればせいぜい1/3程度の姿。それでも陰ることのないその光は人々に希望を与える。 その足元には一人の少年がいる。青いパーカーにジーンズ。右手はポケットに突っ込んだまま、左手にはスマートフォン。 どこにでもいるような少年。だが、その目にはただ強い意志がのぞく。 スマートフォンからは天使と同じ光が発せられており、少年自身もうっすらと光に包まれている。 「さっさと終わらせてもらう。夕飯がまだなのでな」 「作るのは俺だぞ」 少年──長峰草太──の左手、スマートフォンが強く輝き、光の文字が浮かび上がる。少年は右手をポケットから出して、慣れた手つきで光に触れる。トーンと操作音が鳴ると、呼応するように天使の輝きが増していく。 ホーリーエンジェモンの右腕から青白い光が伸びる。選ばれしものだけが持つことを許される聖なる剣、エクスキャリバーだ。 邪悪なデジモンを討つために鍛え上げられた光の剣。青い清浄なる光は悪を断つ至高の一振りとなる。 誰もが空を見上げる。おぞましき黒い靄の竜。対するは輝き放つ大天使。まるで神話を思わせる一幕。 あれほど怯え竦んだ体の震えは止まり、ただただ光を見つめている。もうその目に恐怖はなくなっていた。 エントモンの羽ばたきと共にまき散らされる無数の小さな虫たち。当たれば相手の肉体を枯れ果てさせる即死級の攻撃だが、エクスキャリバーの一振りで瞬時に打ち払われる。邪悪を打ち払う聖剣は伊達ではない。触れずとも、その剣風は瑣末な虫程度を問題にしない。 どちらも完全体であり、レベルは同格。エントモンはゾンビタトゥーによる強化があり、ホーリーエンジェモンには邪悪への特攻がある。どちらも防御をたやすく打ち破る攻撃を有する以上、勝負が長引くことはあり得ない。 様子見はすでに終わり、次なる一撃で全てが決まる。 求められるのは純粋な力。ただ速く強い一撃を叩き込む。それがデジモンの戦いである。 そして、そこに一石を投じるのが契約者たる人間、草太の役目である。 スマホを通じて草太はホーリーエンジェモンの力を解放する。その繋がりは2人を繋ぐだけではなく、互いの強い意思のもとに共振すら起こす。オーバーフローした光が、草太へと逆流するように溢れるのだ。 だとしても、ただの人間程度が聖なる力を持ったところで、完全体であるエントモンには脅威とならない。 ならば草太は見ているだけか。そうではない。こと勝負においては見ているだけで得られるものなどない。一瞬でも気を逸らすことのできる手段があるのだ。勝ち筋を少しでも引き寄せる。そのためにできることをやる。だから草太はホーリーエンジェモンと共に立つのだ。 草太がいる道路、その舗装路はエントモンによってぐちゃぐちゃに破壊されている。蜘蛛の巣のようにひび割れており、大小様々に分断されたアスファルト片が転がっている。 一つ手頃なサイズを拾って握りしめる。草太の体に溢れていた力が注ぎ込まれていく。 ホーリーエンジェモンからは草太が見えている。エントモンは草太を歯牙にも掛けない。 大きく一歩踏み出した勢いで、全力のもと握りしめたアスファルト片──石ころを空へと投げつける。ホーリーエンジェモンとエントモンを結ぶ一直線上に、見上げるほどの高さまで、光の尾を引いて石ころが上っていく。わずかばかりの力であるが、そこに宿す力はホーリーエンジェモンの力そのものでもある。 ホーリーエンジェモンはニヤリと笑う。口元を覆う金布でエントモンからは見えなかっただろうが。 石が放物線を描く中、ホーリーエンジェモンが構えをとる。呼応するようにエントモンが突撃を開始する。 カウンターを狙うホーリーエンジェモンと、それごと叩き潰そうというエントモン。 巨体に見合わぬ猛烈な速度でエントモンが空を駆ける。エントモンの必殺技、ドライアドスティンガーだ。 その巨大な牙を以てホーリーエンジェモンを串刺しにせんと、瞬時にトップスピードまで加速するエントモンだが、その瞬間に草太の投げ上げた石ころが強烈な光を発する。 一般に、高速移動中の視野は速くなればなるほど狭くなる。音を破るような突進であれば尚更だ。闇すら照らす爆発的な閃光がエントモンの狭くなった視界を染め上げる。 ホーリーエンジェモンが自らの力が宿った石を起爆させたのだ。もともと自分の力なのだから、その操作もお手の物。 対してエントモンは、突然視界を光で塗りつぶされたことでドライアドスティンガーを狙うどころではない。 それでも歴戦の完全体である。体格を考えれば掠るだけでも与えるダメージは十分と判断し、牙を傾けて接触面積を増やして突撃を続行する。身の丈ほどの牙が迫る中、ホーリーエンジェモンは4対の翼で悠々と空を舞う。ドライアドスティンガーをひらりとかわし、そのままエントモンの下に潜り込む。 そして振り下ろされるエクスキャリバー。エントモンの必殺技すら利用する一撃が、エントモンの顔面から尾の先まで、全てを両断していく。そして振り抜いたホーリーエンジェモンの背後で、両断されたエントモンの肉体がビルの外壁に激突する。 どごんと衝撃音が響くと、ズルズルと地面へと落下してもう一つ大きな音を立てた。 草太のスマートフォンに新たな通知が届く。ヘブンズゲートの使用申請だ。迷うことなく承認をタップする。するとホーリーエンジェモンがエクスキャリバーを空にかざす。その先、何もない中空に巨大な門が生成される。歯車の噛み合う音が響き、門が開く。猛烈な風が門に向かって流れ出す。 その風はエントモンの巨体をも浮かび上がらせ、静かにエントモンを吸い込んでいった。 それが戦いの終わりだった。静かに空に開いた門が消えた時には、天使も少年も姿を消しており、破壊の後だけが今そこにあった現実を伝えていた。 *** 現場をさっさと離れて帰り路をいく少年と天使。交わされる言葉には棘が入り混じって険のあるもの。 それでも付かず離れず、二つの影は同じ道を行く。 これはどこまでも独善的で身勝手な天使と、立ち止まった少年が再び走り出すまでの話だ。 1. 日常 この図々しいぐうたら天使が。 その日少年の怒りは頂点に達した。 少年の名は長峰草太。この春中学を卒業し、無事地元の高校へと入学した男子高生である。今でこそ遠ざかっているものの、かつては将来を期待されたサッカー少年であった。そして今は何の因果かデジモンとの共同生活中である。 床に散らばるゴミ。食べ終わったカップ焼きそばにポテトチップスの空き袋。ペットボトルが転がり、ティッシュや紙袋が散乱している。読み終わった本は出しっぱなしで、いくつかはページが開いたままに床に投げ出されたままだ。やりかけのルービックキューブは一面もそろうことなく投げ出されている。しかも床には何か液体をこぼした跡。それを拭いただろうタオルはソファーにそのままかけられており、ソファーにも色が移っている。テレビは誰も見ていないのに大音量で流れるままだ。 草太は割ときれい好きである。もともとサッカー一筋だったこともあり、物欲が薄かった。そのため部屋に物が増えることを好まない。せいぜい観葉植物が一鉢ある程度である。ちなみに小学校のころから何度も枯らしつつも育てており、今の個体は2年目だったりする。 両親ともにまめなタイプでもあったため、必然的に散らかっている状態というのが少なく、整頓された状態で過ごすことに慣れている。 それは高校入学を機に両親が県外赴任となってからも同じで、週に一度程度掃除をするのが習慣だった。 それが乱れてきたのはホーリーエンジェモンが居候を始めてからだ。 とにかくホーリーエンジェモンは典型的な片づけのできないタイプであった。 どこからか拾ってきた木の実や紙で出来た手裏剣、片方だけの手袋、割れたマグカップとガラクタを持ち込んではそこらに放置する。使ったタオルは適当に投げ出す。食べ終わった食器は片さず、すぐにスナック菓子を食べ始める(しかもゴミは放置)。 その都度片付けるように注意をしてきたが、今日の状態はひときわひどい。 「ホーリーエンジェモン!どこに行った!?ちょっとこっち来い!!」 どうせ遠くには行ってないはず。休日の昼過ぎはだいたい屋根で日光浴などといってごろ寝をしていることが多い。草太の予想は当たり、窓から迷惑気な顔で部屋の中に入ってくる。苦情のつもりかいつもより羽の音が大きい。 ”ホーリーエンジェモン!輝く8枚の銀翼を持った大天使型デジモン!!” ある目的のために草太と契約を行っている。完全体としての全力を振るうためには草太の協力が必要であり、草太の家に居候となった身である。その性格は傲岸不遜。見た目と裏腹の素行の悪さで、草太からは極潰しの居候扱いである。 「なんだうるさいぞ。いつから人を呼びつけるほど偉くなった?」 「だまれ鳥頭。この部屋を見て何か思うことはないのか!」 「…多少、散らかっているな。」 「多少?これを、お前は、多少というのか?」 「ちっ、どけておけばいいのだろう」 そういうと床に散らかったものを足で壁に寄せる。ずりずりと何を気にすることなく、ゴミも本も何もかも一緒くただ。そうして壁際に寄せ終えたホーリーエンジェモンは心なしか満足げな表情である。 あまりの雑な仕草に草太は二の句が継げない。 「フン、これで問題ないな。」 「問題しかねぇよ…。」 掃除という概念自体が違いすぎた。こいつはゴミ屋敷にでも住んでいたのか? 草太の常識に当てはまらないのがデジモンというものだが、人型を取っている以上生活様式に差があるとは思えない。つまりは、この羽の生えた阿呆特有の問題なのであろう。思えば初めて家に入れた時にも靴を脱ぐ素振りすらなかった。脱げるものではないらしいが、それでも人の家に入る時に汚れを落とそうという素振りすらなかった。文明を知らない野生児か、生まれついての大貴族でもなければこの無頓着さに説明がつかない。なお、野生児であろうというのが草太の見解である。 だが、この我が家を野生児の最適環境にするわけにはいかない。文明は維持することに意味がある。たとえ一時の同居であっても郷に入れば郷に従えということだし、まともな掃除を叩き込む必要がある。 さっさと部屋を出ようと窓に手を掛けるホーリーエンジェモンだが、その前に草太の手が金の髪を引っつかみ部屋に引き戻す。 文句を言おうとする機先を制してこちらの言い分を叩き込む。 「これを掃除とは言わないんだよ!普段俺が掃除してるのを何だと思ってたんだお前は! 家で暮らす以上は汚れの放置なんざ許さねぇからな! ゴミが出たらすぐにゴミ箱に捨てろ!読んだ本は本棚にしまえ! その程度のことすらできないとか言わないだろうな?」 やつの言動には付き合わず、主張だけをぶつける。できないのかと煽る。このものぐさな大天使を黙らせるにはこれに限る。 しぶしぶ片付けを始める姿にため息がこぼれる。全く持って、草太からするととんだ厄介者でしかなかった。 *** そして草太がホーリーエンジェモンに文句があるように、ホーリーエンジェモンにも草太に対して文句があった。 「何度言ったらわかる!米を炊くときは事前に水に浸しておけと言っただろう!見ろ、この痩せた炊きあがりを!本来ならもっとふっくらと炊き上がるはずだった…!!」 「大して変わらないだろ…。まずいわけじゃないんだから黙って食えよ」 「そうはいくか!お前の貧相な舌に合わせた調理では素材の味が死ぬ。まともに米も炊けないような半端ものめ、徹底的に教育してやる!!」 鼻息荒く料理のさしすせそを言ってみろと草太に詰問していく。当然草太の答えはうろ覚えである。 みりんはどこに入るんだ?味噌のみはさしすせそに入らんだろうと、ホーリーエンジェモンからすれば信じがたい落第生である。 この大天使は殊の外食事にうるさい。そのため、こうやって草太が料理した食卓には盛大な文句が溢れかえる。 食べ盛りの少年にありがちなことだが、草太としてはまず必要なのは量である。よって、白いご飯と味の濃いおかずさえあれば大概は満足である。 対してホーリーエンジェモンは普段の粗暴さはどこへやら、繊細な味付けへのこだわりや盛り付けにまでこだわりを見せる美食家っぷりを見せる。ほうき一つまともに扱えないくせに、包丁の構えかたから鍋の手入れまで妙に知識がある。 当然調理への口出しも料理人さながらだ。味へのこだわりが薄い草太には全く分からない基準でのケチがつけられる。出汁の取り方がなっていないとか、火が通り過ぎているだの、食事の度に辛辣な評価をするのが常だった(なお、その時の出汁は顆粒出汁だった)。 挙句調理中の草太に向ってああだこうだと口を出してくる。掃除はまともにやらないくせに、ニンジンの切り方ひとつにもやたらとこだわりがある。 食えるんだからいいだろうと言うとそれこそ山のような罵声が飛ぶ。今時どこの家で一から出汁を取るというのか。 なら自分で作れと言いたいところだが、キッチンに収まる体格ではないことは火を見るより明らかだ。ただでさえ3m近い背丈と筋肉質の身体の持ち主だ。更に仰々しい羽根が何枚もある。こればかりは仕方ない。 ここまでで分かる通り、草太の料理の腕はできるだけ、である。両親が県外に赴任するにあたり、一通り料理は仕込まれてはいたが、大して興味のない料理の腕が上がるはずもない。ホーリーエンジェモンが来るまでは見るからに雑で彩りのない料理が並ぶのが常だった。 ホーリーエンジェモンが居候となった初日に出した料理について、”これでは餌と変わらんな…”と、心底がっかりした声でつぶやかれている。草太としては料理になっているからいいだろと反論したが、あまりにガチトーンのつぶやきだったため、結構ショックであったのは秘密である。 ともあれ、そこからはホーリーエンジェモンからの盛大な文句が続き、口を開けば罵声というひどい共同生活がスタートを切ったのだった。なお、料理の彩り問題についてはさすがに思うところがあったのか、ミニトマトが常備されるようになった。 掃除や料理にお互いケチをつけつつも、お互いの意見にはそれなりに理があるのとは事実である。そのため、多少なりともすり合わせは進む。一切の遠慮がないことは、ある意味では強制的な分からせ合いである。つまり、お互いが初めに危惧したよりはまともな共同生活が形成されつつあった。 *** パンドラモンの捜索については実際のところ、ホーリーエンジェモンと一緒にリアライズしたテイルモンが行っている。 テイルモンとは草太とも面識があるが、見た目にそぐわぬたおやかな態度が印象的なデジモンだった。こちらもリアルワールドへの影響を抑えるためにと力を抑えているらしい。元々はホーリーエンジェモンと同じく天使型デジモンとのこと。 かなり疑わしいと草太は思っていたが。ホーリーエンジェモンにとっては先輩にあたる立場だというが、草太から見ればただの猫もどきである。あまり動物が好きではない草太としてはどう接したものか困惑気味である。 そのテイルモンからは定期的に捜索状況の報告を受けている。その身の軽さを活かして至る所に忍び込んで情報収集しているようだ。時々脱線して噂話に1人で盛り上がったりしている。ホーリーエンジェモンといい、聖なるデジモンとやらも俗まみれである。 ホーリーエンジェモンはといえば、草太が学校にいる間は自主的に街の見回りをしている。真昼間からパンドラモンが動くかは分からないものの、普段から周囲を確認することで違和感に気づきやすくなるというのがその理由だ。 こと捜索において草太にできることは多くはないが、それでも何もしないというわけにはいかない。残念ながら情報収集が出来るほど顔が広いわけでもない。サッカーというつながり以外が極めて希薄なことに今更愕然とするレベルである。流石にクラスメイトの名前すら覚えていないのはまずいと危機感を覚えたのが最近なので、基本的に捜索という段階では役立たずの草太であった。 その為、帰宅後にはホーリーエンジェモンと合流してパトロールに出かけている。元々草太に本来期待されている役割は、ホーリーエンジェモンのお目付け役であり、戦闘時の制限解除──普段はホーリーエンジェモンの力は制限されている──だからだ。 特にパンドラモンの活動が活発化するだろう、人の集まる時間帯には可能な限り草太がいた方が都合が良い。 そういう事情から、草太の役割としてはホーリーエンジェモンについてのパトロールが日々の日課となっている。 力の制限については、デジモンがリアルワールドに与える影響を抑えるための対策だという。 草太が遭遇したデジモンはまだ少ないが、どのデジモンであっても人にとっては大きな脅威である。レベルとしては低いはずの成長期でさえ、拳銃の比ではない殺傷能力を持っている。実際ホーリーエンジェモンの能力を解放した時の力は人の及ぶところではない。完全体というデジモン全体として上位の存在であり、かつ聖剣エクスキャリバーの持ち主である。最上位である究極体にこそ及ばないものの、邪悪なデジモンに対してはレベル差をも覆す特攻性すらある。 ただ存在するだけでも聖なる光を見に纏う。力を制限している今でこそ、近所の信心深いおばあさん達に拝まれるだけで済んでいるが、一切の制限を解き放った時にどうなるのか。中身をよく知る草太でさえその神聖さに息を飲むことがある。だから草太としては、力の制限には賛成だった。 その分ストッパー役である草太には負担がかかるわけだが、仕方のないことでもある。 ホーリーエンジェモンとの契約はどうしようもない状況ではあったが、草太自身がやると決めたことでもある。自身の役割を放棄するつもりはなかった。 だが不満もある。この申請と承認というシステム、スマホという最新機器を使っているくせに有効な距離が短い。おおむね学校の校庭程度の範囲である。でなければ申請と承認の通知が届かないのである。Bluetoothかよ、と改善を希望したい草太であった。 そしてこの申請が草太にとって実に厄介だった。 この大天使ホーリーエンジェモンは非常に大人げなく、独善的で間違いを認めようとしない頭の固い正義厨であった。その為、空き缶のポイ捨てを見かけたホーリーエンジェモンから申請が来る。 信号の黄色で止まれず赤信号で進行する車を見れば申請が飛ぶ。 自転車に乗りながらスマホに夢中な人間を見ても申請が入る。 人が見ても眉を顰める所業ではあるが、聖剣を抜くのは明らかにやりすぎだ。ましてやヘブンズゲートを開いてどうしようというのか。 草太はホーリーエンジェモンのお目付役でもある。だからその度に申請却下をするわけだが、納得いかないホーリーエンジェモンから申請連打が来たりする。 確かに迷惑行為ではあるが、その程度のことで毎度全力を出されても困る。しかしホーリーエンジェモンとしては、 「治安を乱す行為だ。あの阿呆に正義を叩きこむ必要がある。」 といってはばからない。 大概の場合草太が場を収めることになる。ホーリーエンジェモンは目立つ上に声も大きいので、注意をする前に相手が逃げ出すことも多い。明らかにガタイの良すぎる人間に近づきたがる人間などいない。詰め寄るホーリーエンジェモンから逃げ損ねた相手については、間に草太が入って宥めるというパターンだ。実際草太としてもモラルの欠けた人間など庇いたくはないが、ホーリーエンジェモンが人に怪我をさせるよりはマシである。だからいい警官悪い警官よろしく、ホーリーエンジェモンを宥めつつ注意と反省を促すという流れになる。 「言えば聞いてくれることの方が多いんだから、無駄に威嚇するような真似をするんじゃねぇよ。なんにでもかみつくのはやめろ。」 「言われなければやめられないようなゴミには痛みが必要だろうが。体に教えてやれば忘れることもない。口先だけで物事が進むなどと、お花畑の論理を振りかざすのはやめろ。」 口を開けば口論、手を出さないのはお互いの指先程度の良識による。それでもパトロール自体は散歩のようなもので、草太とホーリーエンジェモンそれぞれとしても気晴らしにはなっていた。 ただし、それもホーリーエンジェモンが悪(独断による)を見つけるまでのことだが。 溢れる正義感を行使したがるホーリーエンジェモンと、無用ないさかいを避けたい草太とでは意識が違いすぎた。 お互いへの文句を流しつつも、パトロールは続いて行った。 *** ところで、草太とホーリーエンジェモンが暮らすこの街は、ざっくり言えば台形の真ん中を川が分断するような形をしている。川を挟んで東側が住宅街、西側が繁華街となっており、さらに東西をまたぐように鉄道が引かれている。 草太の家はその街のおおむね中央付近西側、川にほど近い高台にあった。 家のそばには靴屋や本屋がまとまっている地方特有の広い駐車場を持つスーパーがあり、駅から遠いものの住むには便利な立地であった。 そのほか主要な施設(草太にとってだが)といえば、川を挟んで向かい側の駅近くに高校がある。そのため、草太は毎日川沿いを北上するように高校へと通っている。 この街をホーリーエンジェモンは毎日見回りしている。長峰家の窓からホーリーエンジェモンが飛び立っていく。まずは空へ舞い上がり、街全体を見まわす。そしてその日重点的にみるべき地域へと降り立っていく。 ホーリーエンジェモンおよびテイルモンが重視しているのはやはり繁華街となる。パンドラモン自体が人の負の感情を取り込む特性があるため、まず人の多いエリアに潜んでいる可能性が高いという判断である。幸いなことにパンドラモンがリアライズした形跡は確認済みであり、即時街の境界を天使連により封鎖(デジモンの出入りを制限した領域とした)ため、この街からは出られない状況にある。実際にパンドラモンがもたらす災いの一つ、ゾンビタトゥーの入れられたデジモンが発生している。間違いなくこの街にいるからこそ、ホーリーエンジェモンとテイルモンは、しらみつぶしに街を捜索している。 ホーリーエンジェモン単独のパトロールについては、飛べるデジモンならではの方法になる。そのため、草太と一緒では見られないものや場所に脚を伸ばすことにもなる。ビルの上に輝く看板や防災放送用のスピーカー、居心地悪げに煙を吹かす喫煙者の群れ。 そのどれもがホーリーエンジェモンにとって新鮮であった。だが、ホーリーエンジェモンがとりわけ気に入ったのはどこにでもあるようなただの公園だった。草太を伴うパトロールコースにも組み込まれており、草太は知らないが、ホーリーエンジェモンが1人の時にはこの公園で過ごすことも多かった。 ブランコや滑り台、シーソーに半分埋まったタイヤ。平均台とベンチ。静かなのは朝の短い時間だけで、どこかの幼稚園から幼い子供が手押しのワゴンに乗せられてやってくと、とたんに騒がしくなる。 さすがの大天使も子供が現れるとさっと姿を隠してそばから離れていく。 ただ時折、ホーリーエンジェモンは静かに子供たちを見ていることがあった。 一度だけ草太がその姿に問いかけをしたことがある。 「なんかあるのか?」 「いや、問題はない。」 そういいつつも目線を外すことはなかった。大してホーリーエンジェモンに興味のない草太から見ても、何か思うところがあるのを察せられるほどに。 ──パンドラモンの行方は知らず、そして事件のない日々が続いていた。 2.出会い そもそも草太とホーリーエンジェモンはなぜ、このように一緒に歩くことになったのか。 このお互いにとってストレスの溜まる共同生活を説明するためには、しばし時間を巻き戻す必要がある。 その日は、草太が夢を諦めた日、希望のなくなった日だった。そして、騒がしい毎日の始まりだった。 *** その日草太はいつになく浮かれていた。 中学の時に膝を痛めてから、長い間草太の膝を包んでいたサポーターを外していいと許可が出たからだ。前日の診察では医者からのゴーサインに何度もいいのかと確認をして看護師に笑われるほどであった。ドキドキしながら、遮るものが1枚なくなりすぅすぅする膝をさする。たった一枚のサポーターであっても、あるとないとでは大違いだ。膝に触れる学生服に心地よさを覚えながら登校した。 高揚する気持ちを抑えながらも、その時を待つ。午後イチの授業は体育だ。しかも今の時期はサッカーだ。それがたまらなく楽しみで、それを悟られるのも恥ずかしく感じていつもより仏頂面でいた。待ちに待った体育に向けて体操服に着替えると、剥き出しの膝が見える。よく話すクラスメイトも、初めてサポーターを付けていない草太に納得顔だ。だからそんなに機嫌良かったんだなと、嬉しさが隠しきれていなかったらしい。昔は冷静な司令塔でポーカーフェイスだと言われたこともあるというのに! 高校のグラウンドに明るい日差しが降り注ぐ。 地方の高校らしく、校庭はサッカーと野球と陸上競技が同時にできるほど広い。そんなだだっ広い中を、同じ色の体操服に身を包んだ男子生徒たちが塊になって一つのボールを追い回している。ポジションも戦略もあったものではない。ギリギリゴールキーパーだけがポジションを守っているといえる。いつもはもう少し秩序だっているのだが、体育の教師が急用で席を外した先からこれである。 草太は暴動染みた集団にまじりたくはなかったので、校庭の隅で少しだけボールを蹴ることにした。 持ってきたボールを地面につく。ボール入れから少しでも綺麗で空気の入っているボールを持ってきた。何年も使われているものばかりなので傷だらけだが、今の草太には輝いて見えた。 あまり人が来ない校庭の隅なので、ところどころ雑草が生えてきている。男子の野太い叫び声も遠く、校舎からの影でこの辺りだけ少しだけ暗く見えた。 昔練習の前に行っていたウォーミングアップから始める。身体中を温めるように伸ばしていく。そしてそっとボールに触れる。足の裏を使ってグニグニと、足首の運動を兼ねてボールを回す。丸いボールをさらに丸くするように、コロコロとその場から動かず、足とボールだけを動かす。ひとしきりこねくり回して満足したら、次に壁に向かってのパス練習。蹴るのは久しぶりだからか、狙いが逸れて思ったよりも離れたところにボールが跳ね返っていく。地面の凸凹や雑草に遮られてコースが変わる。その度に追いかけて足元に戻す。ぎこちなかったボールさばきはみるみるこなれていく。 たわいないボール遊びで、ただ遊ぶのならば十分な程に足はよく動いた。 どれもが草太にとって馴染んだ感覚であり、すでに懐かしさすら感じられる感覚だった。足に吸い付くようだったボールはすぐに離れていく。ボールの軌道全てを見通せたはずの予測能力は、ボールを受け止めるのにも苦労する始末。 寝ても覚めてもサッカーのことばかりを考えていた。なのに、あれほど明瞭に感じられたすべてが、どれもこれも致命的にずれて感じられる。 日陰の中、対して走り回ってもいないのに汗が出てくる。少しずつ、芯から冷えていくような気がしている。 一度足元にボールを止める。足の裏で触れるボールの感覚を確かめようと、ボールだけを見て足を動かしていく。踵から指先、母指球に土踏まず。ボールに触れる位置を変えていく。なのに、触れているボールの位置がイメージから、ずれる。 一歩下がってから、ボールを壁に向かって蹴る。校舎の壁に付いている染み。そこに向かって何度もボールを蹴る。一球一球がサイコロを振ったみたいにランダムにブレる。頭の中にあるイメージに、身体が一致しない。 なにより、ボールを蹴るたびに痛みの恐怖が臓腑をざわめかせた。クラブでの練習試合で起きた接触で、草太は人生で初めて骨身を貫く痛みを感じた。もう治ったはずの傷。消えたはずの痛み。それが再び草太を痛めつける。なんてことのない一蹴りが、ボールを蹴るほどに、痛みを想起させていく。 痛みはないと分かっていても、もう大丈夫だと考えていても、恐怖が身体を硬くする。人間の体は心を無視して動かすことなどできないのだ。 もう治っていると強く言い聞かせる。痛みがないのに膝を庇うのをやめられない。それを糺そうとするせいで、さらにバランスが崩れていく。 ボールの蹴り初めにあった表情など、とうになく。ただ追い詰められた表情だけが浮かんでいる。 リフティングが得意だった。今はろくに続けることもできない。 ワンタッチでのパスに自信があった。今はゆっくり動くボールですらコントロールできない。 コーナーキックもフリーキックも、いつだって自分が蹴ってきた。セットプレイなら草太の独壇場だった。今ではみっともない姿を晒している。 理性はだんだんと理解をし始めている。感情は理解を拒む。 ボールを止めて、それから空いているゴールに向けて蹴り込む。理想のフォームから何もかも外れた、落ちぶれたシュート。痛みを恐れて縮こまる身体に力強さなどかけらもない。 ボールは緩やかな弧を描き、二度三度と弾んでからゴールに転がっていった。 その時に草太は思ってしまった。どんなにリハビリが辛くとも、思い浮かべることすら拒絶していたはずの考えを。 ──もう、あの頃の感覚は戻らない。もう、戻れないのだと。 授業の終わりの鐘が聞こえてきた。その後のことは草太はあまり覚えていない。 *** 学校が終わって、後は家に帰るだけ。でも草太には家に帰る気力がなかった。 部屋にはサッカーボールがおいてある。ユニフォームに、トロフィー。もう戻らないものだ。せめてこの気持ちの置き所が見つかるまでは帰りたくなかった。 だからだろう、いつもは通らない路地に気まぐれに入った。 それまで何も耳に入らないくらいぼうっとしていたのに、初めての道だからか妙に気になる音を聞いてしまったからだ。 何かがぶつかるような低い音が一つと、誰かの悲鳴を。 悲鳴など聞く機会などあるものではない。だから危機感もなく、訝しげに曲がり角を覗いた。 そしてそこに怪人──牛の頭を持つ巨漢──に襲われる人を見た。 草太が覗いた路地からは、その巨漢、ミノタルモンの背中が見えた。 当然草太には気が付いていない。だから草太には君子危うきになんとやら、さっさと逃げることも出来た。 たとえ着ぐるみであったとしても牛の頭をかぶっているような人間は何を考えているかわからないし、着ぐるみに見えない存在感に危機感を感じているのも事実だった。 だが、草太はつい、襲われている人の顔を見てしまった。 どこにでもいそうなサラリーマン。中年の男性で、少し髪が薄い。剃り忘れたのか、それとも伸びるのが早いのか、うっすらとひげが伸びていてだらしなさを感じる。仕事終わりなのだろう、ネクタイは緩められている。 普通にすれ違ったならば目を留めることすらない、どこまでも普通のサラリーマン。 存在さえ頭に残らずに過ぎ去っていく、全くかかわりのない人間。 でもその顔は恐怖に歪んでいた。目尻からは涙がこぼれ、鼻水が垂れている。うずくまるように片腕を抑えながらも、目の前の脅威から目をそらすことすらできないほど、恐怖を顔に映している。 それを見て、異形の怪人は石をすり潰すような音をたてて笑っている。腕にはうっすら砂が付いている。近くの壁に大きな陥没。先ほどの音はこの陥没ができたときのものだろう。理屈なしにそれができる力の持ち主であることを感じる。人一人を捻りつぶすことだってたやすいはずだ。 そしてそれがこのサラリーマンに対して向けられている。 怪人はゆっくりとサラリーマンへ近づいていく。ぶらぶらと鈍く光る左腕を揺らしている。 下卑た笑いが続く。心底嬉しそうに、人を傷つけようとしている。 ──あのサラリーマンは助からない。 もしあの怪物がただのチンピラ程度だったら割って入ることぐらいはした。警察を呼んでもいいし、サラリーマン一人引きずって逃げることだってできる。 でもそれは無駄だ。無駄に死者が増えるだけだ。それが分かってしまう。 ここにいるのは人並みの高校生で、割ってはいれば潰れておしまい。引きずって逃がそうったって少し寿命が延びるだけ。 誰だって自分の命が一番大事だ。だから見捨てることは恥ではないし、ましてや悪になるわけもない。 だから、そうしたのはただの意地で八つ当たりだった。 サラリーマンのくしゃくしゃの泣き顔が、さっきまでの自分のように思えた。 だから、このどうにもできない現実を、どうにかしてやりたかった。 路地に転がる石と空き缶を静かに拾い、草太は石を牛頭の後頭部へ投げつけた。投げるのは専門ではないが、見事直撃。 そして振り返った所に空き缶も投げつける。空き缶は右目付近に当たった後、地面に落ちて音をたてる。 カランカランと路地に響く空き缶の音。振り返った牛頭の目が草太へと焦点を結ぶ。 どうも牛頭は機嫌を悪くしたらしい。重低音の唸り声。完全にこちらをターゲットにしたようだ。 視界の隅ではおじさんが呆気にとられて草太を見ている。まだ状況を理解していない顔。でも、もしかしたら助かるかもという希望、そして代わりに殺されるだろう草太への罪悪感が見えた。 自分でもバカなことをしたという気持ちがあるからこそ、奮い立たせるように軽口をたたく。 「悪いけど、むしゃくしゃしてるんだ。ちょっと付き合ってくれよ。」 牛頭であっても言葉は通じるらしい。たわいない挑発ではあったが、目の色が変わった。この生意気な人間をつぶしてやる。そういう顔をしている。 振り返って全力で走る。膝が痛むかもしれない。また歩けなくなるかもしれない。草太は別にそれでもかまわなかった。ボールを蹴れないのならば、どちらであっても大差ない。むしゃくしゃしている、というよりは完全に自棄になっていた。 路地を走って逃げる。後ろからはドスドスと響く足音。見なくても分かる、怒りの追撃だ。 幸いにもあまり足は速くないようで、追いつかれる気配はない。左腕だけが金属でおおわれているのだ、まともにバランスを取って走れるわけがない。その読みが当たった形だ。 しかし、どこまで逃げればいいかはわからない。 あの怪物を誰が止められるのか。お巡りさんには悪いが、拳銃程度で止められるイメージがわかない。 自衛隊でも読んでもらうべきか。ただ少なくとも、少なくともあのサラリーマンがこの場を離れるまでは走らなければならない。 そう考える草太だったが、ミノタルモンからするとお楽しみの時間を邪魔した挙句、不愉快な思いをさせてきたひ弱な人間である。 この手で八つ裂きにする。足を潰し、腕をちぎる。泣き叫ぶ声を聞くのが待ち遠しい。 どうせ疲れてすぐに動けなくなる。だからこの追いかけっこも愉快なものだ。 そう考えるミノタルモンの首元には黒い刺青のような染みが急激に広がりつつあった。 逃げても逃げても引き離せない。草太も当然気が付いていた。あの怪人はこちらが疲れて動けなくなるのを待っている。まだ体力は残っているし、幸いにも他の人が巻き込まれるような状況にはなっていない。だからどうにか逃げられる間に対策を考えるしかない。 そう考える草太であったが、逃走劇の終わりは突然である。命がかかった追いかけっこはたやすく人の体力と集中力を削り取る。どちらもなければ注意力だって散漫になる。つまり、街路樹の根っこに突き上げられた道路に躓き、草太は転倒した。 ごろごろと勢いそのままに転がり、それでも必死に体を起こす。 ここぞとばかりに距離を詰めてきたミノタルモンは、三日月のように目を細めて口を歪める。 見せびらかすように鋼の左手を揺らす。 ゆっくりと近づいてくる。なんと嬉しそうな表情であることか。 絶対的な強者が弱者を嬲る。幼子が虫の足をちぎるように、この怪物は自分を痛め付け、そして殺す。 これは楽に死ねないな。荒い息遣いのままそう思う。 草太まであと一歩の位置でミノタルモンは足を止める。あえてゆっくりと鋼の左腕を掲げる。 水の中に顔を突っ込んだようにごぼごぼとした聞き取りにくい声が発せられる。 「オマエ、グシャグシャ!!」 その左腕が振り下ろされる寸前、白の影がミノタルモンを横から吹き飛ばしていった。 哀れ吹き飛ばされたミノタルモンは民家の生け垣に突っ込んでいく。 死の象徴と化した、暴力の塊。それが空のダンボールのように容易く吹き飛ばされていった。驚くべき状況ではあるが、さっさと逃げ出すべき状況にほかならず、せめて怪人の状態を確認することが必要だとはわかっていた。だが、怪人のことなど忘れたかのように、突如現れた”それ”から草太は目を離せなかった。 地上から1m程度の高さに、空気を踏み固めるように立っている。 神々しいほどの光を放つ白い翼。体を取り巻く金の帯がたなびく。しなやかでありながら力強さを感じさせる厚みのある肉体と、目元から頭を覆う仮面。 ちょうどミノタルモンがいた場所にふわりと降り立つ姿は紛れもなく天使そのものだった。 その天使が口を開く。 「所詮は畜生だな。おい、草に塗れてさぞ満足だろう?うまいか草は?」 耳を疑う罵声が出る。透き通るような声、というので間違いはない。所作も美しく、上品ささえ感じさせる。だが、その口からは出る言葉のことごとくが、よくてチンピラだった。 ミノタルモンは角を引っ掛けたのか、なかなか生け垣から出てこられない。吹き飛ばされ、一方的に浴びせられる罵声への怒りで頭が回っていないようにも見える。 唖然とする草太へ天使が向き直る。目元はその仮面で見えないが、草太をじっと観察していることが分かった。 「…まあいいだろう。私は、貴様を選択しよう。」 草太には訳が分からなかった。命の危機に天使の出現。挙句自分を選ぶという。 「おい、こいつに決めたぞ。テイルモン、出てきて証人になれ。」 何をと問いただす前に、猫のようなねずみのような不可思議な生き物がてててと寄ってくる。 そして見た目にそぐわない森厳な声で天使を嗜める。 「あなたが決めるだけでは契約はなりませんよ、ホーリーエンジェモン。大事なのはお互いの合意です。説明したでしょう?」 そして草太へ向き直り、ペコリと一礼してから話し出す。 「突然のことにさぞ驚かれているとは思いますが、まずは簡単に説明をさせてください。」 この猫もどきによれば、草太は何らかの理由でこの天使(ホーリーエンジェモンというらしい)と契約することを求められている…? 困惑する草太だが、お構いなしに話が続く。 「いま、この街は危険にさらされています。 あのミノタルモンのように、凶暴化させられたデジモンたちがこの街に送り込まれようとしています。 その危険性は分かりますね?」 つい1分前には頭をかち割られるところだった以上、疑いはない。頷く草太にテイルモンは続ける。 「結構。ではどうするのか。 その答えが私たち、いえ、彼──ホーリーエンジェモンです。 この世界に送り込まれたデジモンたちを元のデジタルワールドへ送還すること。それが私たちの使命です。そしてそれを成すのがホーリーエンジェモンとなります。私はその補助ですね。 送り込まれたデジモンたちは、何者かによって強制的に凶暴化されています。あのミノタルモンの首元に、黒い刺青のような染みが見えますか?あれこそがデジモンを凶暴化させている原因です。そしてこの凶暴化させる染み──ゾンビタトゥーと呼んでいますが、周囲にも感染する悪質なものです。ですから、速やかにあのタトゥーを浄化することが重要となるわけですね。」 ここまではよろしいか?目で問われる。草太としても危険な状況は理解しており、今現在としても続いていることもわかっている。 「私たちがあなたにお願いしたい契約というのは、このホーリーエンジェモンの力を開放するための権限を持ってもらいたいということになります。 見ての通りデジモンというのはこの世界の存在と比べて、極めて異質な力を持っています。特にホーリーエンジェモンはその中でも上位の存在──完全体ですから、この世界に与える影響というものがどれだけのものになるのかが分かりません。 少しでも影響を抑えるために、戦闘時以外にはできる限り力を押さえておきたいわけです。 そしてもう一つ。この騒動には人間の関与が疑われているのです。ですから、この世界、リアルワールド側の協力が必要になると私たちは考えています。 それゆえに、この力の開放をする役目を、ホーリーエンジェモンが選んだ、あなたにお願いしたいのです。 引き受けていただけないでしょうか?」 疑問はある。なぜ自分なのか。世界への影響とは何なのか。騒動の原因が人間だったとして、自分に何ができるというのか。草太の頭の中を疑問符が回る。 しかし落ち着いて考える時間は誰からも与えられない。ミノタルモンがもがく音がどんどん大きくなっている。飛び出てくるまでの猶予はほとんどない。 テイルモンの説明は我関せずとばかりによそを向いていたホーリーエンジェモンが、突然草太へと向き直り手を出してくる。 「デバイスを出せ。」 「ホーリーエンジェモン、今はスマホと言うのですよ?」 「…スマホを出せ。そいつを介して私と貴様との間にパスを繋ぐ。 私が必要と判断したときには、スマホに制限解除の申請が行く。貴様はそれを承認すればいい。 そこの牛頭でも分かる簡単な話だ。」 牛頭と呼ばれたミノタルモンだが、無理やりに頭を植木から引き抜こうと暴れ続けている。手入れの行き届いていないがゆえに如何なく絡みついていた生垣だが、ミノタルモンのパワーに次第に引きちぎられ続けている。あれが再び暴れだしたら、草太どころかこの天使と猫であっても無事である保証はない。 鳩尾に手のひらを当てる。静かに深く、息を全て吐き出す。細く鋭く息を吸う。 いやがおうにも決断しなければならない。いつだって大事な決断は突然に発生するし、ゆっくり待ってくれる余裕があるわけでない。 あのサラリーマンの顔が浮かぶ。誰だって死にたくはない。 チラリと膝をみる。どれだけ自暴自棄になっていたとしても、死んでしまいたいわけではないのだ。 ポケットからスマホを取り出す。手が震えないように力を込めて、スマホをホーリーエンジェモンへ向ける。 ホーリーエンジェモンがスマホの画面に一度指を触れる。するとスマホが震える。画面を見れば、通知が表示されている。 ”通知:管理者登録の実行について” なんとなく、草太にはこれが自分の運命を決める決断なのだろうという自覚があった。 何事もなく平穏に暮らしていく自分。わけのわからない戦いに巻き込まれていく自分。今、その分水嶺に立っている。 だが、もしも本当にこれが運命の分かれ道であったとしても。草太が本当に欲しかった選択肢はすでにない。 だから草太は迷わなかった。 通知を開き、管理者登録を実施する。名前の入力欄に手書きで名前を書く。決定ボタンをタップすれば、味気もなくシンプルな表示で完了のダイアログが表示された。 「長峰草太か。」 名乗ってはいない。だからこの通知が文字通り自分の名前も知らせたのだろう。 わけのわからない状況は続いている。だが、目の前のこの天使が自分の命綱であることはわかっている。 ぐっと腹に力を込める。 「お前はホーリーエンジェモン、だな。」 ブルブルと通知が連続する。 ”新しい通知:管理者として登録されました” ”新しい通知 ホーリーエンジェモンとのパスが生成されました” 「いいだろう、貴様が私の契約者【パートナー】だ。 申請を飛ばしたぞ?まずは力の開放を承認しろ。」 画面には早くも新しい申請が届いている。 ”新しい通知:[最優先]戦闘申請、力の解放申請が届いています。承認しますか?” 顔を上げる。ミノタルモンがようやく生け垣から頭を抜いて、より興奮している。すでに言葉もめちゃくちゃで口角から泡が吹き出ている。正気ではない。凶暴化させられている。その言葉が真に迫る。 ホーリーエンジェモンがチラと草太を見た。 ”yes”、”no” スマホにはそっけなく2つの単語が並んでいる。お前が決めろと、決めるのはお前だと、そう突きつけてくる。 “yes“を押す。 画面には通知アプリの画面だけが映っている。問題なく承認されたのかを確認すべく草太は顔を上げる。 草太の目前では、ホーリーエンジェモンが8枚の翼を広げている。翼の一枚一枚が力ある神秘の光を宿している。輝きは辺りを照らし、飛び立つホーリーエンジェモンに残光を残す。ただの一息でビルなど飛び越えるほどの中天へ、心地よい羽ばたきの音を響かせる。空にあるその姿は紛う事なき大天使の存在感! だが神聖なる姿と裏腹に、響き渡る高慢さを隠さない高笑い。 「やはり空はいい!リアルワールドというのもなかなか乙なものだな! だが、お前はいらないな、ミノタルモン。大人しくするなら優しく首を切ってやるが、どうだ?」 出てくる言葉にも神聖さは欠片もない。しいて言えば蛮族か。出会って間もない草太ですら薄っすら感じるほど、この大天使は異端児である。 当然ミノタルモンが大人しくするはずもない。ホーリーエンジェモンに向かって威嚇を繰り返す。 「ははは、もう言葉も忘れたか!惨めなものだな!」 微塵も慈悲を感じさせない言葉を放つと、ホーリーエンジェモンは瞬時にミノタルモンヘ接近し、輝く拳を叩きつけた。一撃二撃と重い音が響く。ミノタルモンも負けてはいない。痛みを感じていないかのように即時反撃を繰り出す。しかしホーリーエンジェモンの翼は伊達ではない。ミノタルモンの鉄塊の如き左腕を紙一重で躱し、風を巻き起こしながらも軽やかに身を翻す。ふわりとしていながらも素早く動く翼は変幻自在に風を打っている。しなやかな翼は、ミノタルモンの一撃を防ぐことさえしてのける。 そして繰り返し重い拳をミノタルモンへ加えていく。 ミノタルモンがホーリーエンジェモンに向き直るより速く、それでいて的確に弱みをつく。明らかに格が違う。見る間に弱っていくミノタルモンだが、それでもその凶暴性は衰える様を見せない。 「テイルモン、あいつの体、黒い染みがだんだん小さくなってないか…?」 「よく気が付きましたね。あれがデジモンを強制的に凶暴化させる悪意の塊、ゾンビタトゥーです。私たち天使型デジモンには、悪を浄化するための聖なる力が備わっています。あのように聖なる力を注ぎ込むことで、タトゥーの力を弱めているんです。 …本当はミノタルモンはおとなしいデジモンです。あんな風に暴れたりはしません。なのに、自分の意志すら捻じ曲げられて、無理やり凶暴化されているんです。だから、少しでも早く解放するために、ああして聖なる力を注ぎ込んでいるんです。」 一方的に拳を振り上げるその姿は子供が壊れないおもちゃを見つけたときのそれに近い。 「…暴力に酔ってるようにしか見えないけど。」 ぷいと顔を背け知らんぷり。 この猫もどきは見た目よりやり手だ。 そんなことを話していると、草太のスマホに新たな通知が届く。 ”エクスキャリバーの使用申請が届いています。承認しますか?” 気が付けばホーリーエンジェモンはミノタルモンから距離を取って、草太を見ている。さっさと承認しろということだろう。 浄化が必要なのは間違いないし、戦いの素人が口を出す話でもない。 だから草太はそのまま承認をタップした。 ニヤリと嬉しげに口を歪めるホーリーエンジェモン。その右腕に静謐な青い光が集まっていく。暖かさよりも、冷たさを感じさせる光。その光は右腕の手甲を介して青白い剣を成す。確かめるように素振りを二度三度と振るう。 ふわりと浮き上がり、そして力強い踏み込みと共に剣が振るわれ、ミノタルモンを縦に両断した。 確かにその剣──聖剣エクスキャリバー──はミノタルモンの正中線を通り抜けていた。しかし、その体は両断される代わりに、大量の黒い靄を吹き出した。悪だけを断つのが聖剣たる由来でもある。 しかしゾンビタトゥーに込められた悪意が黒い靄として噴出し広がっていく。そして靄はそれ自体に意思があるようにうねうねと動き始める。崩れ落ちるミノタルモンを尻目に、新たな戦いが始まった。 靄は鞭のような形状となり、辺り一帯を打ち据える。さすがのホーリーエンジェモンも薄気味悪い靄相手には距離を取っている。 「おい草太!聞こえているな!いまからヘブンズゲートを開く。承認したらすぐに何かに掴まれ!無様に吸い込まれたとしても私は知らんぞ!」 ホーリーエンジェモンの怒鳴り声と新たな通知。 “新しい通知:ヘブンズゲートの使用申請が届いています。承認しますか“ 靄が打ち据える範囲がだんだん広がっている。明らかな危機が増大していることに内心恐怖を覚える。 草太には何が何やらわからない。だが、あの高慢な天使に守られた事実があり、悪意を撒き散らす相手を打ち据えようとしている。そしてそれの力の鍵を自分が握っている。 それが分かるから、yesを押す。 テイルモンが慌てながら草太の裾を引く。こちらと促されるままに近くの電信柱の影に身を隠す。テイルモンは図々しくも草太の腹に抱きついている。 「何が起きるんだ?こんなに慌てないといけないことなのか?」 「ええ、慌てるべきタイミングですよ。あなたが承認し、あの子が使おうとしているのは、ヘブンズゲートという門です。本来はどことも知れない亜空間へ何もかも飛ばしてしまう技です。」 「待て、じゃああのミノタルモンはどうなる!操られてるんだろう?!あいつもまとめてそんな亜空間に飛ばしていいのかよ!」 「草太さん、落ち着いてください。本来ならと私は言いましたよ。」 「…なら今はどこに飛ばされることになってる?」 「今あの子が開くゲートは、デジタルワールドの中に私たち天使連が作り出した空間へと送られることになります。空間全域に最高位の聖なる力が充満された空間です。そこでミノタルモンとゾンビタトゥーを完全に浄化していくことになります。」 「要は病院送りみたいなもの?」 「というよりは、隔離施設ですね。靄を完全に浄化して、それから病院送りという流れになります。」 「なら別にこんな慌てて避難する必要ないんじゃないか?」 「では、わかりやすく例えで言いますね。送られる先は深海で、靄を潰した後にゆっくり浅瀬に引き上げます。これで慌てる理由がわかりますね?」 「わかった。しっかり掴まってろ。」 胡乱な話をしている間にホーリーエンジェモンの準備は終わっていた。右腕をかざし、エクスキャリバー内に存在するホーリーリングに力を込める。何もない空間へ輝く光と共に円型の門が現れる。 静かに開かれるヘブンズゲートだったが、その反応は劇的だった。 まるでブラックホールが現れたかのように何もかも吸い込む勢いがある。 門の向きは草太達とは反対向きに開かれているにも関わらず、電柱にしがみつかなければ引きずれらるだろうと感じる、強大な引力があった。当然門の正面にいる靄とミノタルモンはひとたまりもない。抗うことすらできず静かに吸い込まれていく。 そして静かに門が閉じられる。あれほどの引力ではあったが、引き込まれたのは靄とミノタルモンだけ。落ち葉一つ動かすことなく、それだけが消えていた。 これで終わりかと一息つく草太だったが、ホーリーエンジェモンはまだいうべきことがあるらしい。 「パンドラモン!そしてその協力者よ!どうせ聞こえているのだろう? この私がお前達を天国に導いてやる!必ず見つけ出して二度と出られないよう叩き込んでやる!感謝しろ!! せいぜい残り短い現世を怯えて過ごすのだな!」 最後に高笑いを放つと、静かに門は消えていった。 そしてそれが戦いの終わりだった。 *** 実際のところ、それからが大変だった。なにせこのチンピラめいた大天使の面倒を見る羽目になったからだ。 「よし、お前の家に案内しろ。」 「は、なんで?助けてくれたのには礼を言うけど、うちに来る意味が分からん!」 一気に険悪になる空気に慌ててテイルモンが間に入る。 「草太さん、あなたとホーリーエンジェモンのパスはあまり遠くだと届かないんです。それに契約者となったあなたを敵が狙う可能性もあります。ですから、なるべく普段から近くで過ごしてもらうと言うことでお願いします。」 「ふざけんな!聞いてないぞ!」 *** 結局草太が折れる形で共同生活が始まったのだった。 尊大な口調で部屋の狭さや料理にダメ出ししてくるホーリーエンジェモン。掃除もできないダメ天使に無理やりでも教え込む草太。お互いがお互いに対して一切の気遣いをしないこと。自然と発生したこのルールだけが、この奇妙な共同生活を支えていた。 「お前居候になるんだからもっと家主に気を遣えよ。ていうか整頓くらい覚えろ。」 「貴様ごときになぜ私がへりくだらねばならん?むしろ天使を家に招けた幸運に感謝すべきだな。」 「は?食って寝るしかできない極潰しが偉そうな口きくじゃないか。」 「は?あおびょうたんが口だけは一丁前か?」 影から二人を見守るテイルモン。さすがにペットは不可だったのだ。 「あの子たちに任せて大丈夫かしら…。」