〇バディ3話 草太とデジタルワールド だだっ広い草原に気持ちの良い風が吹く。膝下くらいの高さの草が風に撫でられてさざ波のように揺れる。 草太の住む街ではまず見られない光景だ。ここにサッカーコートを作るとしたら何面分に当たるのか。広すぎて逆に見当がつかない。 草原から先に目をやれば、北には白く雪を被る山脈がそびえ立つ。日の光を反射してここからでも眩い白が峰と空を隔てている。 南はといえば黒煙噴き上げる山々。大気の揺らめきがここからでも分かる。人の視界に入る程度の距離なのに、南北の風景は呆れるほど変化が大きい。 つい先ほどまでいたリアルワールドでは考えられない極端さ。確かにデジタルワールドに来たのだと、否応なしに感じる。 「じゃあ、まずはまちに行こうか。」 デジタルワールドの水先案内はもんざえモン。ここに飛ばされてきて、初めて会ったデジモンだ。 傍目には黄色い熊のぬいぐるみ。草太よりも少しだけ低い身長で、背中にはチャックがある。柔らかそうな体であっても背筋をしっかりと伸ばして歩く。 生真面目さを感じる立ち振る舞いの一方、ぽてぽてと足音は妙に間が抜けている。 他にどうしようもないので、もんざえモンについていく。もんざえモンの言う街はすぐに見えてきた。 「あれがおもちゃのまちだよ。どうかな、なかなか素敵な街に見えないかい?」 外観は名前の通り、まさにおもちゃのまち。色とりどりのブロックが街を作り上げている。もんざえモンの声も問いかけではあるが、一切の疑いのない口調だ。 「外からみた感じだけど、面白そうな街に見える。」 そうだろうそうだろうと、繰り返し満足気に頷くもんざえモン。 「随分思い入れがありそうだな。もんざえモンは住んで長いのか?」 「むふふ、実はね、おもちゃのまちは私が作ったんだ。この辺りはいいブロックが採れるものだから、試しに一つ家を建てたらあとはもう止まらなくてね。まあ名前は他所から借りてきているんだけれど。」 ブロックは採れるものか?デジタルワールドがそういう変な世界なのか、それとももんざえモンのジョークか。どちらにしても深堀りしたくはない。創設者ということが分かれば十分である。 色々とまちづくりの苦労や蘊蓄を聞きながらおもちゃのまちまで道を行く。けもの道めいてはいるが意外と歩きやすい。ここももんざえモンが時々均しているとのこと。しかし、草原を熊のぬいぐるみと歩く。なんと牧歌的なことか。つい先程までパンドラモンとやりあって、あわや死ぬところだったというのに、このギャップに目が回りそうだ。 おもちゃのまちへの入り口は、ひと際カラフルに彩られた門をくぐる必要があった。 別に塀があるわけでもないので門をくぐる必要性はないのだが、自慢げに門のデザインを語るもんざえモンの手前くぐらないわけにはいかない。 少し頭を下げてぶつからないように街へ入る。 街のつくりはシンプルだ。まちの中心には噴水のある広場があって、広場を取り巻くように家が並んでいる。上から見たらバウムクーヘンのように家と道が交互に並んでいるのが分かるはずだ。 一抱えもあるブロックで積み上げられた家は、大きさも形もばらばらだ。しかし、よくよく見てみるとまちの中心ほど家が小さくなっている。家によっては草太でも煙突を覗き込めるサイズだ。 デジモンごとにサイズを変えているのか?そう疑問を投げかけようとした瞬間に答えがやってきた。 一頭身のマスコットめいた姿のデジモンが、家から姿を見せたのだ。手足はなく、まん丸とした頭に角が生えているデジモンは、もんざえモンに気がつくとその大きな口に見合った声量でお帰りなさいと声を上げる。 身体全体(頭全体?)を使ってぴょんぴょんと跳ねてくる。 「ただいま、ツノモン。今日も元気だったかい?」 「げんき!」 言葉の通り元気に答えるこの小さいデジモンはツノモンと言うらしい。とりあえず自己紹介しておくかと口を開くつもりだった。 しかしその前にツノモンの声に反応した他のデジモンが次から次へと家から飛び出してくる。子犬の群れを思わせる無秩序な塊が、草太ともんざえモンを囲む。そして響くのは、小さなデジモンのお帰りなさいの大合唱である。 まちを作ったというのも伊達ではなく、ここの住民たちはみなもんざえモンを慕っている。 もんざえモンが一匹ずつにただいまと声をかけている。おかえりなさいを言うだけで満足して離れていくデジモンや、草太に興味津々なまなざしを注ぐデジモンもいる。 そして一通り挨拶が終われば、草太に注意が向くのも当然の流れである。好奇心にあふれる視線が草太に突き刺さる。そんな中もんざえモンがお客さんだと草太を紹介したものだからテンションが上がる一方だ。 あまり小さい子と接する機会がない草太としては、こういう時にどう振る舞えばいいか戸惑ってしまう。 「普段お客さんがくることもないからね。少しだけこの子達に付き合ってくれると嬉しい。」 「ま、まあ、もんざえモンには助けてもらったしな。でも遊び方なんて分からないぞ。」 「大丈夫。ほらみんな!草太にかっこいいところを見せてあげないと!」 途端に幼年期のデジモンたちが一斉に街の中心へと移動を始める。草太も近くにいたツノモンに促されて同じ方向に向かう。 まちの中心は噴水のある広場だ。小さなデジモン達は噴水を越えて回りこんだ先、フェンスに区切られた小さめのスペースへと向かっていた。小広場といったところで、そこだけは地面が芝生になっていて、転がっても怪我しないようになっている。 先に行った幼年期の子供たちはその小広場に何匹か入っていて、それ以外はフェンスにかじりつくようにしてきれいに並んでいる。 「ここで何をするんだ?」 「ここはね、クンレンジョウ!あっちのまとにわざをうつんだ!ほら、みてて!」 そういうと、ツノモンが小広場へとかけていく。小広場の中心にはいくつかラインが引かれていて、その対面側には的に見える看板がある。金属製のパイプにぶら下がったその的の上には、妙にレトロな雰囲気の電光掲示板があって、パッと電源がつく。 ツノモンはラインの手前に位置取ると、ぴょんぴょんとその場で弾んでみせた。すると電光掲示板に0の表示が付く。 足元にスイッチでもあるのかもしれない。 ツノモンは掲示板が付いたのを確認すると、ブルブルと体を膨らませる。そして次の瞬間にはいくつもの泡が口から飛び出していく。シャボン玉よりは分厚そうなその泡は、見事に的に命中。泡の衝撃で的が揺れて、電光掲示板に点数が表示される。 結果は78点。 100点満点ならなかなかいい点数だろう。 「ああ、パンチングマシンみたいなもんか。」 すごいでしょ、ぼくもできるよ、もんざえモンがつくってくれたなどと、草太の周り中から一斉に声が上がる。 聖徳太子でもあるまいし、全部聞き取るのは無理だ。おお、すごいなとざっくり回答しておく。 ツノモンのデモンストレーションが終わった後は、次々に的あて練習が始まった。テンポよく的に当てる幼年期たちを座って眺める。いつの間にか膝に乗ってきたツノモンを適当に撫でながら、真剣な姿の幼年期たちに時々声をかけてみる。 体がぶれてるぞとか、撃つときに目をつぶっちゃだめだとか、役に立つのか怪しいアドバイスだ。それでもうれしげにアドバイスを聞いてくれる幼年期たち。 なんとなくサッカーを始めた頃を思い出す。シュート練習をするんだと言って、いつまでも公園でボールを蹴る練習をしたものだ。その時は父が見てくれていて、うまくシュートが決まると色んな言葉を駆使して自分を褒めてくれていた。だからその真似をして、できる限り良いところを探して声かけをしてみたのだった。 いつまでそうしていたのか。ポテポテと特徴的な足音に振り返ると、案の定もんざえモンが様子を見にきていた。 「むふふ、草太は子供の相手が上手だね。この子たちがこんなに集中してるのは初めて見たよ。」 「そう?ずっとこんな感じかと思ってたけど。」 「いつもはひとまわりふたまわりするとみんな飽きちゃうんだよね。まだ子供だからそうなるのも仕方ないんだけど。今日頑張ってるのは草太が褒めてくれるのが嬉しいからだろうね。」 「・・・俺が小さい頃、父さんがこうやって褒めてくれてたんだ。飛ばすのは泡じゃなくて、ボールだったけど。それが嬉しくてさ、母さんが迎えに来るまでずっとボールを蹴ってたなって思い出した。 まあ、嬉しく思ってくれてたなら、俺も声かけした甲斐があるよ。」 サッカー以外で褒められるのはなかなか照れくさい。だから思わず言い訳のように自分の経験など語ってしまった。どうにもこのまちでは調子が狂う。こういうときはさっさと話を流すに限る。それでどうしたのかと促してみる。 「君の家を用意したから、案内しようかと思ってね。ああ、ご飯はまだ準備中だよ。」 「そうか、ありがとう。いきなり押し掛けちゃったのに色々用意してくれて助かる。何か手伝いが必要なことがあれば何でも言ってくれ。できる限りのことはする。」 「そうかい?ならちょっとだけ力仕事を手伝ってもらおうかな。」 荷物があるわけでも用があるわけでもない。ならばと家に行くより先に手伝いをすることにする。 子供達に声をかけてから席を外し、もんざえモンに連れられてついたのは町外れの崩れた家。ブロックが散乱し、家の中が見えている状態だ。ブロックはただ崩れたのではなく、何か力がかけられたのか、ひしゃげている。 「これ何があったんだ?自然に崩れるような家じゃないだろう?」 「うん、この間随分酔っ払った子がきてね、止めるまでにやられてしまったんだ。本当は壊した本人に直してもらうつもりだったんだけど、自分はやっていないの一点張りで直しに来ようとしないから困っていたんだ。草太が手伝ってくれると言ってくれて助かったよ。」 「酒癖の悪い奴がいるもんだな。これ、壊れたブロックを外して入れ替えれば良いんだろ?」 「ああ、よろしく頼むよ。私は晩御飯の用意をしておこう。そうだ、直すときにブロックの色は好きにしてくれて構わないからね。」 そう言うともんざえモンは来た道を戻っていく。食事の準備を始めるのだろう。 もんざえモンが行ってしまうと、草太は一つため息を吐いた。別に理想的な世界だと思っていたわけではないが、明確に暴れるようなデジモンがいるということに少しがっかりした気分を草太は受けていたからだ。 リアルワールドで戦っていた相手は、皆パンドラモンによって無理に暴れさせられていた。このまちで出会ったデジモンも皆穏やかで暴力的には見えない。そういう前提が頭にあったから、デジタルワールドは平和な世界なのかもと思い始めていた。だが別にそんなことはないのだ。誰かに勝手に戦わされるのが嫌なだけで、血の気の多い奴は人もデジモンも変わらないのだ。そもそもホーリーエンジェモンがいる時点でそんな理想的な世界ではないと分かるだろうに。誰がいるわけでもないのに、バツが悪くて頭をかく。 もんざえモンが用意していたらしいバールのような工具で壊れたブロックを取り外し、邪魔にならないところに避けておく。ブロックは見た目の通りプラスチック程度の重さだ。とはいえ一抱えほどのサイズだからそれなりの重量になる。 ひしゃげたブロックは簡単には取り外せないから、何度もバールを叩き込んで隙間を無理矢理広げて力ずくで外していく。全身汗だくになりながらもなんとか壊れたブロックを外し切る。これでおもちゃの家は大分風通しが良くなった。あとはブロックを組んでいけば完成だ。完成なのだが、問題がある。 家の構造は簡単でブロックを嵌めるだけ。難しい作業ではない。なら何が問題かと言うと、ブロックの色を選ばなければならないのである。 周りの家はどれも色とりどりに見栄えが良く、しかも一つとして同じ色合いではない。この中に草太が選んだ色合いの家が建つわけだ。なにせもんざえモンからは自由に組んでいいと言われている。が、芸術系というより体育系で生きてきた草太に色をどう合わせればいいかなどという知識などない。周りから浮く組み合わせの色になることは必至。その手の彩りについて無頓着に生きてきたツケが回ってきたようだ。 「全部青とかにしたら流石に浮くよなぁ…。」 「じゃあぼくが選んであげるよ!」 気がつけば足元には見事な一本角のデジモン。 「…ツノモンだったよな。お前こういうのできるのか?」 「できるよ!そういうの得意だから!」 「よし、頼む。ツノモンの言う通りにブロック組むから、どれを組めば良いか教えてくれ。」 そうして初めはゆっくりと、色を決めて置く場所を合わせる。即興の建築士と大工のコンビだ。ツノモンの頭にはすでに完成図が見えているらしい。草太への指示も段々とこなれてきて、あっという間におもちゃの家が完成した。 カラフルさは周りと比べても遜色なく、それでいて色合いは穏やか。自分だけで組んだらこうはいかなかっただろう。おそらく申し訳程度に色がついただけの茶色の家になったはずだ。間違いなく悪目立ちすること請け合い。 ツノモンに感謝を告げつつ、その場に腰を下ろす。ぶっ通しで作業し続けたので少し休憩が必要だ。あぐらをかくと、ツノモンがそこに収まる。両手を後ろに着いて体を伸ばすと、ツノモンもノビのような仕草を見せる。 「よし、いい感じに出来上がったな。ツノモン、ありがとうな。」 「いいよ!ぼくもこういうの経験つまなくっちゃだから!」 経験?草太が首を傾げると、ツノモンが少し恥ずかしげに、それでいてキラキラと光を集めたような目でその理由を話してくれた。 「ぼくね、デジタルワールドに新しいまちをつくりたいんだ。」 それはツノモンの夢だ。 自分がかつて諦めたもの。自分の胸の奥で燻り続けている未練。もう一度手に取りたいと思うもの。 だからツノモンに続きを促す。 「もんざえモンが教えてくれたんだけど、ファイル島ってところに、はじまりのまちっていうところがあるんだって。いろんなデジモンがみんな仲良く暮らすまちなんだって言ってた。 このおもちゃのまちもみんな仲がいいけれど、進化していったら体も大きくなるし、すがたも変わっちゃうから、ここにはいられないんだ。 だからみんな進化したらここを出ていって旅をするんだけど、だけどね、せっかく同じまちで育ったのに、ずっとバラバラなのは寂しいでしょ? だから僕もはじまりのまちみたいに、いろんなデジモンが仲良く暮らせるようなまちを作るんだ。」 自分たちのいつか帰る場所を作るのだと、熱っぽく語るツノモンは、はじめに見せた照れはもう見当たらない。 「なあ、もう作る町の名前は決めてるのか?」 「まだ!おもちゃのまち2とかどうかな?」 「最後まで聞かないとこの街とどっちかわからないのは良くないんじゃないか?」 そうやって益体のない話をしていると、もんざえモンが迎えにきてくれた。 平たいブロックで整備された道を三人で並んで歩いていく。着いた先は街の中心から少し離れた一軒家。ここに一晩お世話になる。黄色をベースに何色かのブロックが混じっていて、草太の目から見てもいいセンスに思えた。 先ほどまでならただの色がついた家に見えただろうに、今はなぜかとても素敵な家だなと素直に思えた。 *** 晩御飯は広場でのバーベキュー、もといまんが肉の焼き肉だった。草太にとっては衝撃的なことに、この世界では畑に肉が実る。しかも漫画で出てくるようなお肉。それを収穫して、焚き火で炙ったのが今晩のメインディッシュというわけだ。心の中で畑の肉はそういう意味じゃないとツッコミを入れるものの、誰に届区分けもなく。 「ん?お前ら普段は肉しか食べてないのか?普通の料理とか、この世界にもあるよな?」 料理というと嫌が応にも浮かんでしまう、いけすかない顔を思い出して眉を顰める。だがこの丸焼きがデフォルトの料理と言われた場合、これまであの穀潰しに教わってきた調理方法はどこからきた技術なのかということになる。 「ああ、小さいうちはあまり料理する必要もなくってね。肉一つでお腹が満たされるし、凝った料理を作っても何せ腕がないから。食べやすくて用意しやすい方が便利なんだ。草太の世界のような料理ももちろんあるから安心してほしい。」 「いや、別にそういうわけじゃないんだけど、まあいいか。これはこれで美味いしな。」 「お口に合ったようで何よりだよ。」 ぎゅっと引き締まった肉を噛み締める。見た目は漫画みたいな肉なのに、噛むほどうま味が染み出してくるから不思議だ。これが極上肉になると脂がのってさらに美味しいのだという。だが、草太としては歯応えのある赤身肉の方が好みだ。やはり肉なら歯応えで肉を食べているという実感が欲しい。見た目はアレだが、美味しさについては文句のつけようもない。最近はここまで肉肉しいご飯を食べることが少なかったから、大満足の夕食であった。 *** 焚き火がおもちゃの街にゆらめく影を作る。異世界ならではの馬鹿でかい月は、夜を意外なほど明るく照らしている。穏やかな月明かりの下で見ると、おもちゃのまちらしく、至る所におもちゃが落ちている。 あとは寝るだけの身である。腹ごなしにのんびりと街をぶらついてみる。 幼年期の子らが遊んだ後に片付けないまま置いていったものだろう、ブリキの木馬や竹馬、フラフープ。どうやって遊ぶつもりだったのやら。妙にレトロなおもちゃばかりだが、草太としては物珍しいものばかり。時々まだ寝たくない幼年期の子がおもちゃを咥えて駆けていくのも見かける。もしかしたら抱き枕にでもするのかもしれない。 そして、とうとうお目当てのおもちゃを見つけた。ボールだ。草太が一番に思いつくおもちゃ。きっとあるだろうと思っていた。 通常のサッカーボールよりは一回り小さい。草太の部屋に埃を被ったままの、初めて買ってもらったボールに良く似ていた。手を伸ばして、胸元に引き寄せる。空気はパンパンに入っていて、良く弾むに違いない。 軽く地面に着いてみる。思った通り気持ちよく弾んでくれる。地面に落ちる前に、右足を差し出す。ボールをしっかりと見て、足の甲で蹴り上げる。当然蹴られて浮き上がるボール。落ちてくるたびに蹴り上げる。ただのリフティング。かつてはチームメイトとバカ話で盛り上がりながらでも続けられたのに、今は全力で集中しないとどこかに飛んでいってしまいそうだ。 でも、ちゃんとできている。 どれだけ諦めたふりをしたって無駄だった。どんなに遠ざけたってボールを蹴りたいっていう気持ちが消えることはないのだ。サッカーが好きで仕方がない。どんなに下手くそになったとしても、ボールを蹴ることをやめられるわけがないのだ。 パンドラモンを相手に全力で振り抜いた右足の感覚がまだ、自分の一番深い部分に残っている。あれが本当のサッカーボールだったらもっとよかったのだが。でも、あんなに楽しいことをやめられるわけがない。伊達に物心つく前からボールと過ごしているわけではないのだから。 と、よそごとに気が回ったせいでボールはあらぬ方向へと弾んでいく。コロコロと転がるボールを止めたのは黄色くて柔らかそうな足。もんざえモンだ。 「もんざえモンか。ありがとう。こっち戻して貰えるか?」 「いいとも。むふふ、草太のボール捌きは見事なものだね。でも私もボール遊びなら自信があるよ。」 そういうと、草太の胸元へとボールを蹴り上げてみせた。柔らかな軌道を描き飛んでくるボールを胸でトラップして勢いを殺す。そのまま足元へと落とし、ぎゅっとボールを地面に押さえつけて完全に静止させる。 「へえ、うまいもんだな。ならちょっと付き合ってくれよ。」 「もちろん。子供の相手をするのが私の役目だからね。」 「そんなに子供のつもりはないんだけどな。」 「私からみれば同じようなものさ。草太は…成長期ってところかな。」 「まあ間違っちゃいないか。それにしても綺麗に蹴るもんだな。」 「まあね。ボールは子供の好きな遊びの一つだから。さんざん練習したものさ。」 ボールがお互いの間を弾み、草太ともんざえモンの会話も弾む。 もんざえモンが取りやすいように、ただそれだけを考えてボールを蹴る。試合でするような、対戦相手のマークを引き剥がしたり、味方の限界ギリギリを攻めるようなパスではなく、戦術を実現するための狙いすましたパスでもなく、受け取りやすいようにとそれだけを考えたパス。それは懐かしい感覚だった。父にねだって連れていってもらったサッカー教室。初めて会う知らない子とパス回しをした。 こんな風に、ボールを渡すよって気持ちで蹴るんだって、その時の先生が言っていた。そんなことを思い出す。 だからだろうか、今まで誰にも話したことのない、怪我によって生まれた鬱屈がするりと口から出てきた。 痛みへの恐怖と、それでもボールを蹴っていたいという欲求。なぜ自分は諦めてしまったのか。それは暗く出口のない淀みだ。 「多分、サッカーすることで得られるものに縛られてたんだな。結構いい選手だったから、ずっとチヤホヤされててさ、サッカー以外のことに全然見向きもしなかった。 でも段々とそれだけの時間を費やしたんだから、絶対に上手くならないといけないって、自分をひたすら追い込んでた。何せ他のことなんて全然知らないままだったから。 …怪我の後、卒業の時にさ、3年間ずっと一緒だったよねってクラスメイトに言われたんだ。でも、名前すら覚えてなかったんだよ俺。ひどいやつだろ? サッカー上手いから許されてたって、そういう自覚もあったから、いざ怪我で走れなくなって、ボールを蹴ることがなくなった時には心底怖くなったんだ。だから元のようにボールを蹴らなくちゃならないって、絶対そうしなきゃならないって思ってたから、それができなかったことに心が折れた。しかもさ、それすら怪我のせいで仕方ないって、分かりやすい言い訳ができて安心もしてた。」 もんざえモンは、静かにパスを回しながら、この下らない独白を聞いてくれている。 「上手くなるほどみんなの期待とか、頼むぞって言葉とかが重く感じられてさ。だからもう上手くならなくてもいいって、そういう言い訳ができたことにホッとした。でもカッコ悪いだろ、そんなの。 だからそんなこと認めたくなかった。そんなに弱気な人間じゃないって、自分のダメなところから目を逸らしてた。 んでさ、そんな時に初めてデジモンと会った。すげぇ鬱陶しいやつでさ、全然気が合わねーの。普通に話すより喧嘩してる方が多いくらい。正義がどうのこうのってでかい言葉使ってさ、自分が気に食わないだけの癖にとやかく言うもんだから、俺も一言言ってやりたくなるっていうか。なんだよもんざえモン。その顔やめろよ。 ああもう、奴の話はいい。……でも、サッカーとか怪我のこととか、そういうの全部関係なしに話をできる相手だったのは、まあ、悪くなかった。一気に騒がしくなったし、忙しくて感傷に浸る暇もなくて、もしかしたらそのまま違う人生が始まるんじゃないかとも思った。 でもさ、やっぱり忘れてられないんだ。 どんなに下手くそになっても、がっかりされるため息が聞こえたとしても、俺はボールを蹴ってるときが一番楽しいんだ。それを忘れた振りして生きてくなんて出来ない。」 気がつけば焚き火も弱まって、月明かりも雲に隠れ始めている。もうそろそろやめ時かもしれない。ただ、こんなに自分の気持ちを吐き出すことのできる機会はもうないと思う。だから、最後に一言だけ続けさせてもらう。 「俺さ、もう一度サッカー始めようと思ってる。プロとかまでは流石に考えられないけど、サッカー部に入れてもらって、もう一度ボールを追っかけるんだ。 あんなに、こんなにも好きなのに、辛かった思い出だけで終わるのは嫌だからさ。 散々みんなに心配かけて、もう辞めるとか言ってたのにな。我ながら勝手だと思うけどな。」 ボールをぎゅっと上から押さえてみる。止まったボールを今度は足の裏で転がす。そしてもんざえモンに転がるパス。 心の奥底の感情を、声に出した。それで変わるものがあるわけではない。草太が一人こぼしただけの、ただの言葉だ。最後に自嘲がでたのは草太の甘えでもあった。 だからもんざえモンは甘えを肯定する。 「ここはね、おもちゃのまちだよ。子供のためにこのまちの全てがあるんだ。私はこのまちの住人だよ? 実は私はね、背中を押すのだって得意なんだ。」 ぽかんとする草太を見て、もんざえモンが微笑む。 「──草太が1人でボールを蹴っていた姿を私は見てたよ。すごく真剣に、誰より楽しそうに目を輝かせてた。 草太はサッカーが好きなんだろう?好きなことを続けたいって思うことが悪いことなわけがないんだ。 草太がそんな風に夢中になる姿を見てうれしく思う人はいないのかな? 私はすごくうれしくなったよ。 草太の真剣な姿を見て、自分も頑張ろうって気持ちになる人はいないのかな? きっとここにいる子たちは、草太の姿に夢を見るよ。 草太が楽しく過ごすだけで周りの人が笑顔になる。素晴らしいことじゃないか。 私は、草太を応援する!」 もんざえモンの言葉に胸が熱くなる。そうか、自分に期待してくれる人がいる。まだ輝きが残っているといってくれる人がいる。それはとても幸せなことだ。視界が少しだけぼやける。もんざえモンからのパスを受け取り損ねてしまった。後逸したボールを追いかけながら目元を拭う。濡れた指先でボールを持ち上げ、振り向く。 「そろそろ寝るか。」 「うん、そうしようか。」 後は焚き火のはぜる音だけ、街は静かな夜に戻る。 貸してもらった家の中、月明かりが窓から差し込む。どこかから遠吠えが聞こえる。寝静まったまちであっても全くの無音にはならないことを知る。気持ちを吐き出したせいで妙に目が冴えてしまっている。それでもだんだんと眠りに落ちていく。 そうして見た夢は、確かに草太を幸せな気持ちにするものだった。 *** 何かいい夢を見ていた気がする。 すっきりと目覚めた草太は、調子の良さを感じる。おもちゃの家のベッドは思ったよりも寝心地が良かった。リアルワールドでの大立ち回りにデジタルワールド入り、幼年期たちの相手に家の修復。これだけ働いた後なら、藁のベッドだったとしてもぐっすりだったかもしれない。 一晩を楽しく過ごした後でいうのもなんではあるが、どうやってリアルワールドへ戻るのか。棚上げしていた難題が朝一の頭に不安としてのしかかってくる。せっかくのいい目覚めも台無しだ。 ベッドから起き上がり、まずは顔を洗う。そして水差しから水を一杯ついで飲み干す。 元の世界に帰らないといけない。それ以外の選択肢はなかったとはいえ、自分がいなくなることで起きる問題は小さいことではない。何せ主戦力たるホーリーエンジェモンの能力がガタ落ちだ。いいとこ成熟期程度、戦力として心許ない。次にパンドラモンがどのような手を使ってくるかは分からないが、この隙を見逃すことはないだろう。テイルモンと力を合わせたところで焼け石に水だ。 頭をガシガシと掻きながら、やれることのなさを嘆く。当てはないことはない。テイルモンは普段からデジタルワールドの天使連とかいう所属団体と連絡をとっているから、草太の居所を探しているはずだ。ホーリーエンジェモンもテイルモンもリアルワールドから来ているわけだから、自分を戻すことだってできるはずだ。が、その迎えがいつになるか。 パンドラモンは自らをリアルワールドに導いた少女すら捨て駒にしてみせた。究極体という鬼札のために少女を切ってまでホーリーエンジェモンを排除しようとして、見事に成功したわけだ。 この状況は逃せない。もし草太なら一気に畳み掛ける。パンドラモンが草太の役割をどの程度把握しているかは不明だが、草太さえ戻ればホーリーエンジェモンは力を取り戻せる。その程度は予想しているはずだ。だから草太が戻る前に勝負を決める。そのための手段がパンドラモンにあるか? ──ある。パンドラモンの権能。災いの生成がある。 ゾンビタトゥーで手駒を増やし、恐怖を刻みつけて戦力とした。しかしホーリーエンジェモンの聖なる力はそれに対処できた。対策を打つならここだろう。次の災いが浄化できる類のものである可能性は低い。いや、確実に悪意を増した災いになるはずだ。 延々と答えの出ない悩みに向き合っていると、ノックの音が響く。 「おきてる??朝だよ!おきな?!」 ドアを開けるとやはりツノモン。朝食ができたから呼びに来たとのこと。 「なんか困ってた?眉にしわが残ってるよ?ご飯前にそういうの良くないから、困るのは食べてからがいいよ!」 なんだよそれ、と思わず笑ってしまう。だが実際その通りでもある。備えは必要だが、いたずらに不安だけ広げるのは良くない。ツノモンと連れ立って広場へ向かう。 広場ではどこから出したのか、七輪で魚を焼く黄色いくま、もといもんざえモンの姿。体に魚の匂いが染み付きそうだと思いつつ、挨拶をする。 「やあおはよう。良く眠れたかな?」 「おはよう。良く眠れたよ。それにしても七輪まであるんだな。」 「せっかくのお客様だからね。魚が嫌いでなければいいのだけど?」 「魚も好きだ。昨日の肉も美味かったから期待してる。」 「むふふ、期待に応えないとね。ツノモン、君も食べて行くだろう?」 ウヒョーッと飛び跳ねるツノモンを邪魔にならないところまで引き戻す。昨日の肉も肉汁を噛みしめるようや歯ごたえと旨味が非常に美味しかった。きっと朝ごはんも美味しい。ツノモンの喜びようも分かるというものだ。しかしただ饗されるだけというのもすわりが悪い。せめてもの手伝いとして机を拭いておく。 七輪から上げられて皿に載せられた魚は、デジタルワールドの特有種だという。たまに街に寄ってくれる釣り人からもらったものらしい。ハシバミのような香菜も、白い皿によく映える。 じっくりと炭火で焼かれた魚からは余計な脂が程よく落ちて艶やかだ。飾り包丁を入れられて捲れた皮は見るからにパリッとしている。それでいて白身はふっくら柔らかそうだ。 添えられた柑橘の実を絞って上からかけると、じゅっという音が耳に心地良い。 さあさあと勧められるままに箸を入れる。想像通りにパリパリと裂ける皮。その先は抵抗がほとんどなく、静かに箸が沈んでいく。身離れも良く、ほかほかと香りたつ湯気ごとパクリと口に入れる。爽やかな柑橘の香りが鼻にぬけ、次いで良く焼けた皮の香ばしさが突き抜ける。白身はふわりとした口当たりでありながら、ぎゅっとした歯応えをもつ。噛むほどに染み出す旨みが口内を染め上げる。ごくりと飲み込んだ後も、じんわりと舌全体においしさが残る。 「うまいな…。これはご飯が欲しくなる…。」 嬉しそうなもんざえモンの視線。一心不乱に食べ続けるツノモン。 いちいち感想をいうものでもないなと、ツノモンを見習って箸と口を動かす。黙々と食べ続ける2人にもんざえモンは満足げだ。 最後の一切れを飲み込むと、ふぅと息をつく音が二つ。見ればツノモンもちょうど食べ終えたところらしい。見事にシンクロした動きに笑ってしまう。美味しいものを食べた後の反応は種族が違っても同じようだ。そしてごちそうさまと手を合わせる。 「いい食べっぷりだったね。見ていて気持ちいいくらいだったよ。」 「これだけ美味けりゃ夢中にもなる。本当にうまかった。なんか今すごい幸せな気分だ。」 「そうとも。美味しいご飯をみんなで分かち合うことほどの幸せは他にないからね。」 確かにと頷く。腹を満たす喜びは実際すごいものがある。つい気が緩む。緩んだおかげで余計な一言が溢れる。 「これだけうまいなら、そのうち変な天使が来るかもな。」 「草太のパートナーかい?」 「ん“。いや、口が滑った。というか奴とはそんな大した関係じゃない。ただの…なんていうか。まあうちの居候だ。性格悪いし口うるさいから追っ払った方がいいかもしれない。…この魚食べた後はなんも言えなくなるだろうけどな。」 「ふふふ、なら大歓迎をしなきゃならないね。腕によりをかけて美味しいご飯をご馳走するさ。」 古今東西うまいご飯を嫌うものなどいない。あの食通気取りでも、もんざえモンの料理には文句の一つも出るまい。面食らって静かになるアホヅラが目に浮かぶようだ。 ひとしきりそんなことを考えて、そのアホヅラに会うための手段に思考が戻る。 「どうやって戻ろうかって考えているね?」 「ああ。いくらでもここで世話になっていたいところだけど、やらないとならないことが待ってる。もんざえモンとツノモンがこの街を好きなように、俺も自分の街のことが割と好きだ。だから戻らないと。」 「そっか、草太も行っちゃうんだね…。」 しょんぼりと項垂れるツノモン。罪悪感を突かれる草太であったが、この幼年期の立ち直りと切り替えは草太の及ぶところではない。 「じゃ、次に来るときには僕の作った街を見せたげる!おもちゃのまち2だよ!」 「…それ分かりにくいと思うんだけどな。でもいいな。お前の作った街なら喜んで遊びにいく。そん時はよろしくな。」 「おー!」 「おやおや、私にも会いに来ておくれよ?」 「もちろん。またうまい魚を食わしてくれ。力仕事ならいくらでもやるからさ。」 *** 「さて、草太。元の世界に帰る当てはあるのかな?」 「ある。天使型デジモンを頼る。天使連つって、うちの穀潰しが所属している組織がある。そこなら戻る手段があるはずだ。」 「天使連ねぇ…。天使型デジモンならここから北にある、氷の街に集まっているって聞いたことがあるよ。ただそんな組織と繋がりのあるかは分からない。」 「いや、それでも構わない。人間は結構珍しいんだろ?天使の街に人が現れたってなら話が届く可能性は高い。それに、天使連から離れたところに飛ばされたとは思ってないからな。多分そこで当たりだと思う。」 「一応念のためだけど、歩いて行くつもりかい?」 「流石にここの一輪車ってわけにもいかないしな。」 「むふふ、そうだね。ならちょっとは力になれるかもしれない。一輪車で旅する草太を見て見たい気もするけどね。ちょっと待っててくれるかな。」 そうして待つことしばらく、もんざえモンが何者かの首根っこを掴んで引きずって戻ってきた。大蛇のような体に大きな翼、頭骨をかぶったような白い頭部。エアドラモンである。 以前草太もやり合ったことがあるデジモンだ。 「いい加減離せよクマやろう!俺を誰だと思ってんだい!」 「いいからお話を聞こうね、エアドラモン。ほら大人しくする!」 ぎゅっと睨みつけるもんざえモンの姿はなかなか不気味なものがある。普段の話し方は見た目を随分和らげていたんだなと思わないでもない。 「うちの家を壊したのは君だろう?こちらの草太がね、代わりに直してくれたんだよ。まずはお礼を言いなさい。」 そういってエアドラモンの頭を無理矢理下げさせる。これはもしかしたらかなりもんざえモンも鬱憤が溜まっていたのかもしれない。いだだだと叫び声に合わせてヤケクソじみたありがとうの声が届く。 以前遠目に見たエアドラモンはパンドラモンの支配下だったせいか無機質な印象だったが、このエアドラモンはだいぶ表情豊かだ。 「草太、このエアドラモンが君を氷の街まで連れてってくれるそうだ。」 「そんなこと言ってねぇだろうがヨ!…あ、いや、わかった!わかったからその目をやめて!」 「じゃ、エアドラモン。氷の街まで頼むわ。」 色々力関係が働いているようだが、草太としては乗せていってもらえるなら万事OKだ。無事話し合いも済んだので、後は出発するのみ。最後にもんざえモンとツノモンに世話になった礼を言う。 「本当に世話になった。ありがとう。」 「いやぁ、いいってことよ?!」 「そうそう、ツノモンの言う通り。一晩なんてあっという間だから世話のうちに入らないよ。 ふふふ、なんでそんなに良くしてくれるんだって顔をしてるね? 昨日も言ったけれど、私はね、子供の味方なんだ。ぬいぐるみだからね。どんなことがあっても、子供の力になりたいって思うんだよ。それに、子供の笑顔を見るのが何より嬉しいんだ。だから草太をほっとけなかった。それだけさ。 ちょっとは草太も、この気持ちがわかるだろう?」 昨日相手をした時の小さなデジモンたちを思い出す。たわいないコメント一つ一つに一喜一憂していて、初対面の草太に全幅の信頼を置いていた彼ら。なるほど、確かにその通りだ。 「ああ、そうだな。なら最後まで甘えさせてもらう。でも礼は礼だ。もんざえモン、ありがとう!」 優しさには元気で応える。もんざえモンが頷く。 そしてもんざえモンの隣に膝をつく。威勢は良くても口数が少なく、しょげているツノモンに、同じ子供として話をする。 「ツノモン。おもちゃのまち2、絶対作れよ! 俺が次に来た時に、このまちとそっちのまち、どっちに行くか迷うくらい立派なやつを頼むぜ。」 「……仕方ないなぁ!ぼく、がんばって作るからね!草太も元の世界に戻ってもがんばるんだよ!」 「ああ!約束だ。」 「じゃあぼく、すぐにどこに作るか考えなきゃだから!草太!バイバイ!またね!!」 そう言ってぴょんぴょんと勢いよく街の中心へと戻っていく。少し震えていた声には気が付かなかったことにする。名残は惜しいが、やるべきことは決まった。 エアドラモンへと向き直る。 「じゃ、氷の街までよろしくな、エアドラモン。」 *** エアドラモンの背中は思ったよりも暖かい。角を掴んで過ぎ去っていく景色を見ているが、首元の羽根が意外なほど風を避けてくれる。 「あーあ、貧乏くじ引いたモンだぜ。」 「愚痴るなよ。お前からすりゃ大した距離じゃないだろ?」 「勝手なこと言いやがってよゥ。もんざえモンの頼みじゃなきゃ振り落としてるところだぜ。」 変なイントネーションでぶつぶつと文句を言い続けるエアドラモンだったが、草太が適当な声かけをしているうちに機嫌を直したらしい。案外と単純な性格のようだ。 「お前もしかしておもちゃのまち出身なのか?やけにもんざえモンに頭が上がらないし。」 「…そーだヨ!俺も家を壊したの悪いって思ってたんだけどサ、この体だろ?ブロックの組み立てどころか取り外すのも無理なんだから、困っちまってヨ。」 「酔っ払ってたって聞いたぞ。飲むなとは言わないけど程々にしろよ。自分のいた街なんだからさ。」 「ショージキ反省はしてっからさ、あんまり責めないでくれヨ。」 「んで、届かない相手にどうしたんヨ?」 「ああ、テイルモンってやつをさらに上空までぶん投げてさ、背中に飛び乗って高度を下げさせたんだ。」 「マジか!正気じゃねぇな!」 「だよなぁ。つーか、同じエアドラモンでも気にならないモンなのか?」 「お前らだって同じ人間が暴れたのを取り押さえられたって聞いて怒りに燃えねぇだろ?それとおんなじヨ。」 途中いくつかの街によって食事と休憩、睡眠を済ませる。 家を壊した当人ということで警戒していたのは初めだけ。蓋を開ければ単なる脳筋だったエアドラモンは、草太にとっては馴染み深い体育系のバカだ。自分がそうだったので扱い方は手慣れたもの。思いの外気楽な空の旅となった。 途中の街でも人間を珍しがったデジモンからのちょっかいやら、なぜか困りごとを相談されたりとトラブルはあったが、無事に氷の街まで到着することができた。 空の上から見下ろす街は、氷の街というだけあって一面が薄水色の氷に見える。街の中心にそびえる塔は氷の結晶を模しているのか、幾何学的な形状が壁に刻まれている。街中が氷でできているわけではなかろうが、そう思えるくらいに肌寒い。まるでこの街一帯だけが冬に覆われているようだ。おかげでひたすら手をこすり合わせる羽目になっている。 途中の街で上着を手に入れてはいたが(以前来た人間のものらしく、手に入れるのも一苦労だった)、震えが止まらない。 「あのよゥ、流石にこの寒さは俺もしんどいゼ。これでもルーツは南の方なんでサ。」 「確かに派手だもんな。よし、ここまでで大丈夫だ。もう街はすぐそこだしな。」 ここまで連れてきてくれたことについて感謝の言葉を告げる。妙にクネクネとエアドラモンは変に照れている。かなりのお調子者だからあまり正面から感謝された経験がないのだろうな。そんなことを思いつつ、実際リアルワールドの状況を心配して思い詰めないで済んだのはその剽軽さのおかげでもある。 「本当に助かった。ありがとう。帰り道も長いし気をつけろよ?それと、もんざえモンとツノモンにもよろしく言っておいてくれ。」 「あいあい。ま、オマエと飛ぶのはなかなか楽しかったゼ!じゃあな!!」 そう言って螺旋を描きながら空へと舞い上がっていく。ピューっときた道を戻っていくエアドラモンを見送り、氷の街へと踏み出す。正直寒くてたまらないから、歩くほうがマシなのである。 ざくざくと足音が鳴る。一面が霜柱でおおわれた地面を歩いていく。ここからでも見える青白い門は、おもちゃの街とは違ってずいぶんしっかりとしている。 門までの道は一人だ。なんだかんだでもんざえモンやツノモン、エアドラモンと一緒にいたから一人になるのは久しぶりだ。街まであと少し。一歩ずつこの世界から離れていくんだと思うと少し寂しさがある。みんなが遊んでいる中先に帰る時の感覚だ。でも、帰ればまたサッカーができる。あれほど憂鬱だった気持ちがすっかり前向きになっていることに一人笑う。門の前に立つまでには、このなんとも言えない気持ちを整理しないといけないな。そう思いながら、ゆっくりと歩いていくのだった。 *** 「とまれ。…人間か?この街に何の用だ?」 「リアルワールドに戻るための手段を探しに来た。この街にいる天使型デジモンたちに話を聞きたい。通してもらえるか?」 「…しばし待て。」 門番らしきデジモン──草太は知らないがブルーメラモンという──が2人、用件を話すと片方が門の中に入っていく。割とセキュリティはしっかりしているらしい。が、できればさっさと中に入れてほしいところである。なにせ寒い。体が冷えないように立ち止まらずその場をうろうろする。しかし青く燃えているくせに、全く暖かそうに見えないデジモンだなと内心愚痴を吐く。そうこうしているうちに許可が下りたようだ。門の中から先ほど中に入っていった方のブルーメラモンが草太を呼び寄せてくる。 「本当はもう少し入るためには審査がいるんだがな。お前、何かコネでもあるのか?上に確認したらさっさと通せってよ。」 「まあ、貸し借りみたいなのはあるかもな。」 門をくぐって街の中に案内される。整然と並んだ街並み。色彩の薄い建物ばかりが、碁盤に並べられたかのようにきっちりと並んでいる。地面は硬質なパネルかなにかで舗装されていて、草太の運動靴から歩くたびにきゅっと音が鳴る。車が通るわけでもないのにやけに広い道幅は、大きなデジモンが通ることを想定しているのだろう。当然そこまで大きいデジモンは見た限りではいない。というか全体的にデジモンも少ない。ここにくるまでに寄った街でも思ったが、やはりリアルワールドほど人口密度が高い街はなさそうだ。 時々すれ違うデジモンたちの口元には白い息が浮かんでいるのが見える。デジモンであっても寒さは感じるということに何か安心を感じる。驚くほど姿かたちが異なる彼らだが、等しく寒さを感じる熱を持っている。デジタルワールドを脅かす危険な存在を封印するのが天使連だと前にテイルモンが話していた。当時はあまり実感がなかったが、こうしてデジタルワールドで普通の生活を営んでいるデジモンたちを見ると、それがいかに大事なことだったのかわかってくる。 大通りをいくつかまたぎ、静かな住宅街を抜けてたどり着いたのは巨大な白磁の教会だった。きれいに清められた前庭には落ち葉一つもなく、飛石がてんてんと教会の入り口まで続いている。塀の内側は柔らかな緑を湛える樹木がよく整えられている。見える範囲でも相当な広さだ。東京ドーム何個分とかそういう単位だなと、スケールの差を考えてしまう。 「では、私はここで失礼する。」 ここまで案内してくれたブルーメラモンが去っていく。去り行く背後に礼をかけ、草太もさっさと教会へと入ることにする。 飛び石を渡って教会のドアを叩く。ドアすら草太の身長の倍はある。このサイズなら何が出てもおかしくはない。さあ、鬼が出るか、蛇が出るか。 当然出てくるのは天使である。はい、と出てきた天使型デジモンはそのまま草太を教会内へと招き入れる。すでに話は通っているらしい。ここは、と尋ねてみたが、案内のデジモンは首を振るだけで会話をしようとはしない。 案内の天使が立ち止まり、道を開ける。その先には両開きの扉が一つ。これまで通ってきた通路にあった扉に比べ、艶やかで深い色をした扉だ。ここに草太が尋ねるべき相手がいるのだろう。この街の門番から見て怪しさの塊である草太を、鶴の一声で入れることのできる立ち場のデジモンが。 案内役が扉を叩くと、中へと入れとの声。幸い案内役が扉を開けてくれたため、このでかい扉を開ける手間をかけずにすんだ。 部屋には1人のデジモンが立っている。蒼と白にまばゆく輝く鎧とそれに見合う体格。身長だけでも草太の倍ほどはあるだろうか。そして何より5対10枚の翼がこれまであったなかで最も高位の天使であることを物語っている。同じ天使型だからこそ、ここまで案内してくれた天使デジモンにホーリーエンジェモンやテイルモンとの違いが際立つ。ケレスモンメディウムとの相対した時にも思ったが、究極体というのは格が違う。ただ見えているだけでも圧がある。人間とは根本的に違う生き物であることを感じる。 「君が長峰草太か。はじめまして、私は天使連のセラフィモンだ。」 天使連──ホーリーエンジェモンとテイルモンの所属する、デジタルワールドにとって致命的な存在やバグを封印するための組織。パンドラモンが生み出す災いを危険視し、封印をしていたのもその活動の一環である。 そして逃げ出したパンドラモンの再封印に動いているのがホーリーエンジェモンであり、その契約者である草太だ。 草太としてはあまり関わり合いになりたい相手ではないが、パンドラモンという不始末に協力しているという点では貸しがあるといえなくもない。 ホーリーエンジェモンのヘブンズゲートで飛ばされてきたわけではあるが、浄化という目的のために例外的にこの場所と接続されていたはずだ。緊急避難として使われてはいても、当初の接続先からそう遠くはないはず。そう考えていた草太の読みが当たった形だ。 「早速だけどセラフィモン、俺をリアルワールドに戻してほしい。」 「もちろん、と言いたいが、君はまず今の状況について知る必要がある。 単刀直入に言って状況は最悪だ。リアルワールドに送った者たちとは全く連絡が取れていない。 ホーリーエンジェモンとテイルモンを含めてだ。」 「パンドラモンが本格的に動いたんだろ、そんなの分かってる。だから早く俺を──」 「落ち着きたまえ。我々とて座しているだけではない。リアルワールドへのゲートの構築を進めている。直に門は開く。」 さっさとリアルワールドに帰って状況を変えたい草太の焦りを見透かすように、別の選択肢を提示してくる。 「私が言いたいのは、君にはここで事態が収まるのを待つ選択肢もあるということだ。今準備を進めているのは私を含めて我々天使連が通ることのできるゲートだ。 パンドラモンが姿を現している以上、最大戦力である私が直接討つことが最短であるはずだ。君がこれまで助けてくれてきたことには感謝している。 だが、ここからは我々に任せて安全な場所に避難する方が確実とは思わないかね。」 言い方は嫌味な大人のそれだが、セラフィモンが草太のことを心配していることはわかる。なぜならセラフィモンのまなざしは、もんざえモンが草太を見る時のそれだ。ただの直感ではあるが、悪意がないことを確信するのに十分な理由だ。 それでも、草太の答えは一つだ。 「言いたいことはわかった。だから次は俺の意見をいわせてもらう。まっぴらごめんだ。俺は帰る。 あんたの心配はありがたく受け取る。でもこれは俺が引き受けたことだ。選択肢なんてない不自由な状況だったけど、やると決めたのは俺だ。」 「それをさせないために私が出ると言っても?」 草太へとセラフィモンが圧をかける。究極体相手に圧をかけられるのもこれで二度目だ。しかも、その理由も答えも全く同じときた。あのアホ天使がつなぐ悪縁にしか思えない。 息を吸い込み、セラフィモンを説き伏せるための言葉を選ぶ。 「パンドラモンはもうお前らの手に負える状態じゃない。あいつはずっと人間と一緒にいたんだぞ。」 「選ばれし子供達の逸話だね。だがそれは互いの信頼関係の賜物だろう?」 「それを必要としないのがパンドラモンだろ。負の感情を食べて力を蓄えるようなデジモンが、人間の街にいたらどうなるか。 …俺はデジタルワールドに来てから大した時間を過ごしたわけじゃないけど、それでもわかることがある。」 お前では不足だと、自分ならばできると言葉にする。どこまでも理性的に詰める。そうしなければセラフィモンは納得しない。実力ありきの世界であることを忘れてはならないのだ。 それができなければ草太はこの教会で、デジタルワールドから事態が動くのをただ待つだけになるだろう。そして動いた結果がいいことであるとは限らない。 「密度が違う。人の世界じゃ街の中心を突っ切って歩いてすれ違う人がいないなんてことはありえない。それに、良くも悪くも人の心は揺れやすいんだ。些細なことを気にして嫌な気持ちになることなんてざらだ。はっきり言って、パンドラモンの成長はセラフィモン、あんたの予想を越えてくるぞ。」 「ケレスモンを従えたという話は聞いている。だが、聖なる力の優位性がある。そうそう屈することはないというのが私の見解だ。」 「パンドラモンは人の恐怖を煽って力を増していく。リアルワールドであんたとパンドラモンがやり合ったとして、それを見ている人間はパンドラモンとあんたのどちらにも恐れを覚えるよ。究極体ってのはそれだけ威圧感がある。そうしたら戦うほどパンドラモンが強くなっていく。それは聖なる力の優位性ってだけじゃ届かなくなる。俺とホーリーエンジェモンですら、ケレスモンとやりあえるだけの力が出るんだ。一万人以上の人間の恐怖を吸ったパンドラモンがどうなるかは考えるまでもない。」 セラフィモンには悪いが、パンドラモンの悪意に天使連が太刀打ちできるとは思っていない。第一、セラフィモンははじめにリアルワールドに来た時に謎のデジモンにこっぴどくやられたとも聞いている。もしパンドラモンとの戦闘中にそいつが襲いかかってきたらどうするのか。もしかしたらパンドラモンも倒せるかもしれないが、セラフィモンともども逆に取り込まれる恐れもある。そもそもこれ以上不確定な要素を増やしたくもない。 「──でも、ホーリーエンジェモンは別だ。」 「あの子にはそれができると?」 「ゾンビタトゥーに操られたデジモンが出た時、ホーリーエンジェモンは高笑いで突入していく。どんな時でもだ。そして奴が笑った後に人が傷つけられることはない。 正直なに笑ってんだって思ってたけど、どんな状況でもホーリーエンジェモンのあのふざけた声が聞こえるだけで安心する人もいるんだ。 誰もパンドラモンなんて知らない。セラフィモンも、暴れるデジモンのことも、何が原因で何のために現れたのかを知ってる人間なんていない。 でもホーリーエンジェモンを知っているんだ。 街中をうろうろ飛び回って、どうでもいいような諍いに顔を突っ込んでは騒動を広げる。子供にまとわりつかれて逃げ出す情けない姿も、八百屋で値引きしろと駄々こねる姿も、馬鹿でかいデジモンの暴走を止める姿も、俺の街じゃ日常茶飯事だ。 …街に流れる噂を教えてやる。恐怖を蹴散らす希望の天使、だとさ。 パンドラモンが恐怖を食うなら、恐怖を払うのがホーリーエンジェモンだ。やつ以上にパンドラモンとやり合うのに相応しいやつがいるか?」 口から出てくる言葉の一つ一つにうんざりする。撤回したい気持ちでいっぱいだ。何が悲しくてあの腐れ天使を評さねばならないのか。 しかも何が嫌って、全て客観的な事実であり、何より草太の本心がひとかけらでも含まれていることだ。 「……そしてあの子の全力を君がサポートすると。 確かに、私が行ったところでデジモン同士の争い程度にしか見えないかも知れんな。 なるほど、パンドラモンと戦うならば君たち以上の適任はいない、か。 ふっ…あの子はいいパートナーと出会ったんだな。」 わざとらしく目元を拭う真似をするセラフィモンを冷たい目で見る。このセラフィモン、口調こそ仰々しいが、どうにも鬱陶しさがある。大体セラフィモンの教育が悪かったのが問題だろうと、厄介者を押し付けておいて白々しい。 「あの子は生きるためにひたすら──」 「そういうのはいい。必要なら直接聞く。たぶんその機会はないけどな。」 やつの生い立ちも、育ちも何も聞きたくなどない。契約者ではある。それだけの関係で、お互いを知る必要なんてないのだ。 「いいからさっさと俺を帰してくれ。リアルワールドの混乱もパンドラモンも俺たちがなんとかする。それでいいだろ?」 *** 幾人もの天使型デジモンが入れ替わり立ち替わり、それぞれの力を注ぎ込みゲートの生成を行っている。 準備に時間がなどと言っていたが、本来ただの人間を適当な場所にリアライズする程度ならそこまで時間がかからないものらしい。 かける必要があったのはセラフィモンのリアライズを想定していたためだ。もしくは草太が送られることを考えていたため。 強力な力をもつ究極体を送るのは容易なことではないのは草太にもわかる。そして、ホーリーエンジェモンという完全体の力をたらふく体に蓄えている草太にも同じことが言える。どこへでも飛ばして構わないなら多少の雑さは許容されるうが、パンドラモンが猛威を振るう草太の街へ正確に繋げる必要がある。そのために教会中のデジモンが協力していたわけではある。だが、セラフィモンが出撃する必要がなくなったため、最大戦力がゲートの作成に力を振るえることとなり、ゲートの構築は一気に進んでいく。 次第に姿を現していくゲートの前に立って待っていると、セラフィモンから声がかかる。 「君にはいくら礼を言っても足りんな。あの子のことも含め、世話になる。」 「別にいいさ。俺だって1人じゃ帰れないのに手伝ってもらってる。お相子だろ。」 「ふっ、そういうところを彼らは気に入ったのかもしれんな。」 「彼ら? ──もんざえモンか」 「彼は私の先輩だ。君のことは彼から聞いていた。心優しい少年だと誉めていたな。」 「もんざえモンなら札付きの不良相手にだってそう言うだろうさ。それよりゲート開けるのに専念してくれ。」 スポーツ以外で褒められるのは照れ臭さが勝る。さっさと話を変えるに限る。セラフィモンにはお見通しだったろうが、実際重要な話でもある。 「後3分で準備が終わる。君の準備は──、良いようだな。」 準備も何も、デジタルワールドに来てから増えた荷物は防寒用に手に入れた上着だけ。スマホに家の鍵と財布。大事なものは全て持っている。別れを惜しむような相手もこの場にいない。 長かったようで短かったデジタルワールドでの日々。名残はあっても後悔はない。 ヴゥンと響く低い音とともに、セラフィモンたちがゲートを開いていく。ホーリーエンジェモンの丸いヘブンズゲートとは異なり、文字通り扉のような門だ。その先には形容し難い不思議な光と色が続いている。 …これに入るのか。仕方ないとはいえ、こんな不思議空間に飛び込まないとならないことにゲンナリする。これが最後になることを祈るばかりだ。 そしてセラフィモンへ礼を告げてゲートに飛び込む。あっという間に視界全てを光が覆い尽くしていく。 一切の躊躇を見せずに飛び込んでいった草太を見送り、セラフィモンはゲートを閉じていく。 *** 人の視覚に捉えられる波長よりさらに広い、光そのもの草太の目に飛び込んでくる。あまりにサイケデリックな光景なので目を閉じるが、瞼を通しても明滅が鬱陶しい。気持ちが悪くなりそうだ。 いつまで続くのかとげんなりしていても、次第に落ち着いてくる。上下の感覚すらなくなっていたが、体が重さを思い出す。重力とは有り難いものだ。 気づけば明滅も収まり、頬に風が触れる。目を開けると、馴染み深い光景が見える。雑居ビルの屋上、フェンスで覆われたスペースに空調用の配管やら室外機。 どうやら無事に戻って来れたようだ。妙に薄暗いが、夕暮れ時なのだろうか。 変わらない景色だが、明らかな変化が二つ。 人の気配がない。人の会話や足音、生活音はもとより、車のエンジン同じすら聞こえてこない。ここは駅近くの繁華街のはず。だと言うのに見える限りに人がいない。 そして街の中心に聳え立つ黒い塔。曖昧な輪郭のそれは、街中どこからでも見えるほどの高さを持っている。草太の目には、街中至る所からうっすらと靄が塔へと繋がっているのが見えた。もやの元を辿るために屋上から地上へと降りていく。 もやの一つを辿ると屋内に繋がっている。何かの会社の一階、ガラスの内側に人が蹲っているのが見えた。何人もの人が横たわり苦悶の声を漏らしている。苦しげに時々みじろぎするその人達の背に、靄が繋がっている。 おそらく、この街の住民一人一人、ただ一人の例外もなく靄が人を繋いでいる。 一つのもやに気がつくと、その全容にも気がつく。天を仰ぎ見る。太陽は中天にある。つまり、あまりの靄に街が沈んでいる。 セラフィモンからまずい状況と聞いていたが想定以上だ。おそらく新たな災いをパンドラモンは生み出した。 ホーリーエンジェモンと早く合流しなければならない。が、それでも街の人々の全てがパンドラモンに繋げられているとすると、どれだけの力を蓄えているのか。 自分たちで対処できるのか。弱気の虫が蠢いて、操られるだけで邪魔になるからと断った援軍のことが惜しく感じてくる。 「これは…ちょっとやばいか?」 だがやらねばならぬ。そのために帰ってきたのだから。 まずはホーリーエンジェモンと合流する。すべてはそれからだ。 わずかな時間ではあったが、命がけの戦いと、デジタルワールドで過ごした日々は草太の鬱屈を吹き飛ばした。 駆け出す草太の足取りに迷いはなく、その瞳は靄に沈む街のなかで唯一輝きを放っていた。 続く