【ネオロポンギ、バー「キンボシ」:ヴェスパー】 ネオロポンギ。時刻は午後6時半を過ぎた日没の寸前、夕立めいた突発的な激しい重金属酸性雨がいったん止み、汚染雲の切れ間から消えかけの曖昧な夕暮れが混じる。 夜が始まり、表通りの華やかな高級繁華街はセレブ達の賑わいを増す。いっぽう、その明るさから外れた薄暗い裏路地。 「かたくなりました」「スッポンぽん」「ラジオ体操」「走れメロス」などの猥褻な看板の並ぶ雑居ビルの側面。脇にランタンめいた電灯が点いている事から、 かろうじて何らかの店と分かる古びた重いドア。表面にはうっすらと「キンボシ」と彫られている。 狭い店だ。L字型のカウンターに席が8つのみ。席同士の間隔も、上着用のハンガーの架かった背後の壁との間も実際狭い。客は二人のみ。 奥から二番目の席で静かにグラスを傾ける、カチグミめいた佇まいの若い女。その右隣でそわそわと落ち着かない様子で、残り四分の一ほどの飲みかけの コブ・トニックと相対する青年。膝に乗せたずぶ濡れのジャケットが床に小さく水溜りを作っている。 「…そろそろチェックを」腕時計に目を落としていた女が呟く。6時50分。もうじき開店から一時間が経つ。「アイエッ…あっ…あの!……ゴホッ!」 そのひと声に慌てた青年が、20分近くかけてちびちびと減らしていたコブ・トニックの残りを呷り、むせながら声をかける。「……ハイ?」 「そのう……よ、よかっらら1杯だけ、ご一緒に。奢らせてもらえませんか?」目を泳がせながら覚束なく話す。ナンパにしては随分と不慣れだ。 (アイエエ…やっぱり無理だって…)青年の名はキジタ。やはり彼もカチグミめいて身なりは良いが、明らかに夜の店自体にも不慣れなアトモスフィア。 そもそもサケ自体が苦手だった。一杯目のケモビールでもう十分、二杯目のコブ・トニックにはかなり苦戦した。本来キジタは一人だけでわざわざサケを飲みに出かける事は無い。 "窓口"との接触のためだ。 キジタの突然の申し出に、女はアルカイックな笑みを浮かべ、軽く首を傾げ瞬きしている。隣に座りながらもそれまで余裕がなく、そこで改めて女の姿をよく見たキジタは思わず息を吞んだ。 見る角度により虹彩が茜色から群青色にグラデーションする特徴的なサイバネ・アイの輝く、美しい顔立ち。そのバストは豊満であった。 沈黙はほんの数秒の間だったが、キジタには数十秒にも感じられた。(…もしかして、人違い?)サケで赤らんだ顔が耳まで染まったのち青褪めかけるキジタ。 「よろしくてよ」「えっ」思わず聞き返すキジタに女は目を細めた。「こんな早い時間に、急な雨宿りで隣り合ったのも何かご縁ですもの。お言葉に甘えて。お任せしても?」 一瞬呆気に取られたのち、気を取り直すようにキジタは姿勢を正した。「アッハイ!エート……ヴェスパー、で」ボトルを磨くカウンター内のマスターに声をかける。 これで符丁は満たしたはずだ。開店から一時間以内、カウンターの端から二番目の女、三杯目にヴェスパー。後は向こうが切り出してくるのを待つだけ……のはずだ。 「ヴェスパーをお二つで。オマチクダサイ」バーコートの上にLEDフルフェイスヘルメットを被るマスターが、宇宙めいたエフェクトのかかった声で応える。年齢・性別は判然としない。 席側より更に狭いカウンターの中、流れるような動きでサケと氷を揃える。滑らかな8の字を描いて振られるシェイカーの小気味よい音の中、再び無言の間がやや流れる。 「私も好きなの」「……ハイ?」「ヴェスパー。綺麗な名前でしょう?」「アッハイ綺麗です」名前の意味は知らないが、微笑む女の横顔を見ながら目の据わりかけたキジタは答える。 肝心な時を前にだいぶサケが回ってきていた。「ドーゾ、ヴェスパーです」やがてキジタと女にそれぞれ、螺旋状のレモンピールが浸かる透明なサケのカクテルグラスが差し出される。 「宵の明星、金星の事ね。このお店と同じ名前。イタダキマス」女はしなやかな手つきでグラスを取り、キジタに向け軽く持ち上げる。キジタも遅れてそれに倣う。 「カンパイ」「カンパイ」一口で三分の一程を含んだ女。グラスを挟む艶やかな唇から、白い喉元に一瞬見惚れ、やはりキジタは同じように倣う。 恐る恐る口を近づけると、レモンの香りに続いて花かスパイスめいたアトモスフィアが鼻腔に広がった。サケが回った頭で警戒心が緩んだこともあったが、 先程のコブ・トニックより遥かに高い度数のアルコールが、それを感じさせぬ柔らかな口当たりでするりと口中から喉に下り……「ムン」キジタは意識を失った。 ◆◆◆ 「だいぶ落ち着いた?ほらもっとお水飲んで」「スミマセン……」仮眠用らしきソファーベッドに座るキジタは何本目かの「枯山水」のボトルを飲みながら、気まずく頭を下げる。 ここはキンボシのバックヤード。薄暗い店内とうって変わり白い蛍光灯の下、事務机に小さな調理スペース、サケ類の在庫の棚などが並ぶ。 「苦手なら先にちゃんと伝えれば色々合わせて貰えるんだから、下手に肩肘張ったりすることないわよ」先程までの令嬢めいた様とは打って変わり、随分砕けたアトモスフィアで、 女は呆れたように言う。「スミマセン…それでそのう…」この有様では当然無理だろう、そうキジタは覚悟していた。「いいわよ」「……ハイ?」 「スマートじゃないけど及第点。それ、さっきお店でハンガー使わなかったでしょ?」女はキジタが膝に乗せていた塗れたジャケットを指す。事務机の椅子に架け干してある。 「隣の私のコートが濡れないように。そういう人、好きよ」女がアルカイックな笑みで身を正すと、カチグミめいた濃紺のワンピースは一瞬でタイトなニンジャ装束に変形した。 「改めまして。ドーモ、ヴェスパーです。綺麗な名前でしょう?」「ド、ドーモ…キジタ・ウトウです」キジタは目を丸くしたのち、やはり倣って身を正した。ボトルは既に空だ。 「ここからがビズの話。知ってるだろうけど、私が受けるかどうか、報酬額も中身次第。傭兵や暗殺ならもちろん割高」「暗殺です。出来るだけ見せつけるように。報酬の用意は十二分に」 先程までのたどたどしい様とは打って変わり、落ち着き払ったアトモスフィアで淡々とキジタは言う。「アラ、即答」ヴェスパーは片眉をつり上げ、意外そうな顔を作る。 「貴方みたいなタイプも珍しくないけど。それで?相手は」「僕です」「……ハイ?」キジタはベッドの上で奥ゆかしく正座し、ヴェスパーに向き直った。酔いは既に完全に覚めている。 「僕を、殺してください」ヴェスパーはアルカイックな笑みのまま二度瞬きすると、ゆっくりと首を傾げた。瞳は茜色から群青色にグラデーションする。