「マスター! ほら、見て。カニ! 腕を振り上げて……威嚇しているのかしら? 可愛らしいわ」    目映い砂浜。  碧い海、鏡映しのように蒼い空。  降り注ぐ日差しはスポットライトのようで。        その下で踊る/はしゃぐ彼女が、あまりにも可憐だったから。  ああ、そういえば。この子は男を破滅させる魔性の美姫/ファム・ファタールの代名詞そのものだったなと。  パラソルの下。輝くような笑顔を見ながら、とっくにダメにされてしまった脳がぼんやり思う。  そして、無垢に、無邪気に。こちらへ微笑みかける彼女に、カニより君の方が可愛いよ、……なんて、気障な台詞が言える訳もなく。 〈――本当だ。なんて種類だろうね〉  そんな、気のない言葉と共にパラソルの外へ。  今のこの特異点には、自分と彼女以外誰も居ない。  マシュ達も、なんならBBすらもこの場には居ない。  目も眩む日差しに晒されて、『何故そうなったのか』を脳が再生する。  なんのことは無い。  ただ、本番の前に少しだけ与えられた、本当の休暇の導入なだけだ。 「――あら?」 「変よ、マスター。ほら、誰もいらっしゃらないわ」  そんなことがあるだろうか、と周囲を見渡すが――なるほど。  確かに、この広い空港の中には、自分たち以外に誰も居ない。  共にこの特異点にレイシフトした筈のマシュ、エレシュキガル、パーシヴァル、カルナ、ニキチッチ、徐福ちゃん、テノチティトラン、バーソロミューの八人は――嘘のような大所帯であった筈なのに――その姿どころか、気配すらない。  今、自分の傍らに立つのは。 「座標がズレてしまったのかしら? それとも、レイシフト自体に何かしらのトラブル?」  翠緑の髪を揺らす、紫雲の瞳の彼女だけ。  夏の装い、白と緑のサンドレスに着替えたサロメだけが立っている。 〈わからない〉 〈だめだ、通信もつながらない〉 「まあ……。それは、困ってしまうわね」  日頃から携える髑髏は、如何にして封入したのか彼女が胸元に抱えたビーチボールの中へ。    くるり、くるり。  平時ならば彼女の周囲を舞うヨカナーン/それは、今はビーチボールの中で踊っている。 「どうしようかしら。ヨカナーンは何か良い考えが有って? ……ふんふん、ええと、『ボク、オテアゲー!』? うふふ、それは困ったわ!」  髑髏に話しかけては、自分自身の裏声で返す。  そんな、日頃からよく見られる光景だが、日頃のその様が悪夢のようであるならば、今のそれは子供の見る悪い夢、程度にまでダウンサイジングされていた。これならば、そういった柄のボールを持っているだけだと言い張っても許されるに違いない。  服装も普段に比べれば周囲から浮くことはないだろうし、なんなら露出度に関しては下がってすらいる。彼女が現地の人から見られているとメラっと来るものがある自分としては好都合、といったところだろうか。    しかし……。 〈誰もいない……〉  BBは『ガイドを送りますね〜』と言っていたが……。 「ガイドどころか、だぁれもいないわ……」  そう、何かがおかしい。  同行した筈のマシュ達が一緒に居ないのは百歩譲るとしても、人気がなさ過ぎる。  ルルハワ、或いはハワトリア。  そのどちらも人は居たのだ。  仮にその空間内に視認できる人間が居なかったとしても、人が居たのであろう、あるいは見えないところに居るのだろう、と感覚的に理解できる活気があった。  だが、このドバイは何かがおかしい。いつぞやのサマーキャンプのような、寂れた、と言い表せる雰囲気とも違う。 〈人の痕跡が……〉 〈ない……?〉 「ふぅん……」  無人の空港。  無人の光景。  未来のAIに招待された先に待っていた景色としては、それはあまりにも出来すぎだった。 「……あたし、これに似たような景色、見たことある気がするわ」  周囲の警戒を行いながら、サロメと共に空港の外に出る。  やはり、人の気配はない。  水平型エスカレーター、エスカレーター、エレベーター、荷物受け取りのターンテーブル、etc.……。  そういった、人が関与せずに動き続けるものは動いているが、空港の外に出ると今度は車が影も形もない。  普通ならば泊まっているであろうタクシーも、バスも、動いている筈の乗用車も、物流を回すトラックなども、ことごとく。    そんな中で、ぽつりと彼女がその言葉を漏らす。 〈本当?〉 〈どこで?〉 「ベート・ケネスェトよ。……ああ、えっと、マスターに通じる言語だと……シナゴーグ、礼拝堂? お義父様が建てていらっしゃった、新しいシナゴーグ。まだ誰も踏み入っていない、ピカピカのシナゴーグ。皆が集まるための場所なのに、その中に入るべき人々が誰も居ない。そんな風景が、似ている気がするの」 〈中に入るべきものが〉 〈まだそこにない……?〉  なるほど、確かにそう言われればなんとなく理解できる。  人理焼却まで自分が暮らしていたあの家は、物心ついてからの新築なので見たことがあるはずだ。  家も、部屋も。その全てが既に完成していても、まだ家具が運び込まれていないまっさらな空間。  自分の部屋だ、と喜び勇んでドアを開けた時に、その向こうに壁と床しかない空間が広がっていてひどくどきりとした記憶があるような気がする。  であるならば、これはつまり……。 〈もしかして……〉 〈街に配置する用のNPCはまだ〉 〈未実装ってこと?〉  そんな、これまでのシリアスな空気を粉砕する思いつき。  そんな、ここに至るまでの深刻な気配を吹き飛ばす些細な呟き。  サロメですら、「え? そんなことってあるかしら?」と言いたげな顔をする中で。 『だーいせーいかーい! 気が早すぎるセンパイも、そのお連れ様の首欲しガールも、サービス開始前に押しかけるなんてせっかちすぎますー!』    その、自分は全部わかってますよ、みたいな顔をして人を小馬鹿にしつつもまさかの事態が発生することを致命的に防げなさそうな声は……!  というかこのタイミングで聞こえて来たってことはこれほぼ正解なのか!? 『ひどくないですかその評価!? もう、そんなセンパイには問答無用です! せーのっ、BBーー、チャンネルーーー!!』  しまった、予想は出来ていたのに回避ができない……!!  瞬間、移り変わる視界。  塗り替えられる/ハッキングされる世界。  桜の花弁が舞い散って、慣れ親しんだあの場所へと引き込まれる。 「こんにちはー、セ・ン・パ・イ? そして初めましてなサロメさん!」 〈……こんにちは……〉 「あら、これが噂のBBチャンネル? 華やかで素敵……!」  うんざりした声が漏れてしまった自分とは対照的に、サロメの声は弾んでいる。  まあ、うん。確かに華やかではある。  華やかは華やかでも毒花じみた華やかではあるだろうが。  げんなりとした虚脱感が体を支配する。  BBのことだから納期の計算をミスしたのだろうか……。  なんて、その考えは、次のBBの言葉で吹き飛んだ。 「ハリー/急遽でラッシュ/突貫なBBチャンネル特別放送版――in2024、はっじまりでーす!」 〈……え?〉  今、なんて言った?  in2024? 確かにそう聞こえたが、それはおかしい。カルデアへの通信の際、BBは自分たちを2030年へ招待する、と言っていた筈だ。  そんな馬鹿な、と周囲を見渡せば、確かに。 「本当ね。カレンダーの表示が2024年になっているわ」  視界の端、スタジオの一角に置かれた電光表示版のカレンダーは今日が2024年の8月14日であることをしっかりと示していた。  仮にあの表示が正しくて今が2024年なら、6年もズレてしまっていることになる。 「その通りなんです。わたしは確かに2030年へレイシフトが出来るよう手配した筈なんですが、現にセンパイとサロメさんはこの2024年に来てしまっているんです! 確認なんですけどお二人だけでレイシフトしたのではありませんよね?」 〈それは間違いない〉 〈自分を含めて10人居たはずだ〉 「うーん……ということは……」 〈確認するけど〉 〈BBの仕業ではないんだよね?〉 「もちろんです! というか、なんで自分から招待しておいて施工完了前の物件に案内するんですか! BBちゃんはそういう『とりあえず動くからコードはそれなりでいいや』とか! 『納品前日にバグを見つけちゃったけど今日は帰りたいから明日でいいよね』みたいな手抜き工事は嫌いです!」  ぷんぷんとタクトと上下させて膨れるBB。 「ねえマスター。この方、愉快な人なのね」  そしてそれを見てくすくすと笑うサロメ。  ……こうして見ると水着霊基の彼女は本来の出自……古代イスラエルにおけるヘロデ朝の領主の娘、つまりはお姫様なのだが、その要素が幾分か出ているような気配がある。  世間知らずで、理性的だが、無邪気、無垢な気配が強い。  普段の彼女もかわいらしいが、それと同じくらい今の彼女も愛らしい。 「ともかく、です。どうしてこうなったかは分かりませんが結果は明らかです! センパイはマシュさん達と同時にレイシフトしたにも関わらず、何らかの要因によって設定年代の六年前へと飛ばされてきた。カルデア側ではセンパイは2030年へ飛んでいる筈なので、2030年にセンパイがその場に居なければそれすなわちカルデア側からはデータロスト、然るにレイシフト失敗と見なされてセンパイは意味消失の大ピンチ!」  と、隣で笑っているサロメを堪能していたらとんでもないことを告げられている……!? 〈それ、まずいんじゃ……〉 「まずいなんてもんじゃありません! こんな、道を歩いていたら偶然発生した陥没穴に落ちてデッドエンドみたいな終わりはBBちゃんの名にかけて認めません! センパイとサロメさんはなんとしてでも2030年に復帰させてみせます!」 〈(――なんて、言っていたけれど……)〉 〈――おっと!〉 「まあ! お上手ね、マスター!」  想起された記録。  二日前のそんな会話を脳裏に追いやって、飛んできたボールを打ち返す。 〈体育の授業で、ちょっとね!〉 〈女子バレー部が、強豪だったから!〉  二人っきりの砂浜で、ただただビーチボールを打ち合うだけの戯れ。  オチなし、ヤマなし。ゲームセットの条件もない、ただの児戯。  しかし、――うん。 〈サロメこそ、上手だね!〉  跳ねるボール。  飛び散る飛沫。  不快では無い、熱い日差し。  これだけで環境としては非常に好ましいのだけれども。 「ええ、ええ! バレエ? はよく知らないけれど……今のあたし、あなたとなら――何でもできそうな気がするの!」 〈うわっ!?〉  華麗なフォームで飛び上がったサロメが、見事なスパイクを打ち下ろす。  ぱしゃり、と水面に叩き付けられたボールが波打ち際で揺れる。 「ふふふっ! あたしの勝ちね、マスター! ヨカナーンも見ていて?」  ふわり、ふわりとサロメに近寄ってくるヨカナーン入りのビーチボール。  ボール遊びがしたい、と言われた時はまさかそれを使うのか……? と一瞬肝を冷やしたが、流石にその辺はしっかり考えていたらしい。 「ああ、楽しかった! マスター! 次は海の家に行きましょう! あたし、恋人同士が一つのグラスを二人で飲むあれがしたいわ!」  おおう。  すごいな、水着霊基。  きゅっ、と腕に抱きつきながらとんでもない爆弾発言をしてくるサロメに脳内で動揺が止まらない。  普段はこんなこと絶対言わな……いや言うかもしれないが、ここまでダイレクトに伝えてくることはあまりない。   「あはっ、楽しいわ、夏って楽しいのね! あたし、気に入ってしまったわ! マスター、マスターは楽しいかしら? あたし、振り回してしまっていない?」    こちらをのぞき込むサロメ。  揺れる翠緑の髪。  瞬く紫雲の瞳。      二人きりの砂浜で、ただ戯れるだけの時間。  何を求めるでも無い、ただ笑い合うだけで。  流す汗も、肌を焼く日差しも。  爽やかな風に、心地よい波も。  その全てが、彼女と共に味わえるのであれば、それは間違いなく。 〈――もちろん〉 〈君と一緒なら、何だって楽しいよ〉 「〜〜〜〜っ。……ええ、ええ! あたしも。あたしもよ、マスター!」  BBは言った。  2030年までの6年間を6日間のものとして、自分たちとカルデアの主観時間と外的時間、それを整合させる。  故に、今自分たちに与えられたのは、6日間の自由時間。  齟齬を埋め合わせるための時間。そこに居なかったものを、そこに居たことにするための、摺り合わせ。  だからこそ絶対にどんな事件も起こらずに、ただただ時は穏やかに流れていく。  だから、一日中目的もなく街を巡ったり、無計画に食べ歩きをしてみたり、逆にホテルの部屋でだらけてみたり。  普段ならば決して許されない、贅沢で、自由な時間の使い方。    うん、思えば、こんな機会を彼女と持つことは無かったな。  なんて、夜景をカーテンの隙間から見ながら考えたとき、ふと腑に落ちたことがあった。  ――ああ、なるほど。  もしかすると、自分はこんな時間をこそ求めていたのかもしれないな、と。  スイーツを頬張って笑う彼女を見ながらふと思う。  ビーチのただ中で鮮やかに輝く彼女を見ながら。  手をつなぎながら、視線を交わしながら。  その美しさに目を奪われる度に、思う。  恋を知り、口づけの味を知って、そしてそのまま義父によって事切れた少女に、その一瞬のまま固定されてしまった彼女に、烏滸がましいかもしれないけれど、穏やかで、刺激的で、胸が躍る日常を教えてあげたいと、そんな願望が奥底に眠っていたのかもしれない。  明日を、もっと良いものにしようと、そう思ってくれたなら。  彼女が、今という絶頂ではなく、より良い明日を、自分と共に求めてくれたなら。  きっと、自分はそれだけでいい。  自分は、それだけでいいのだから。  さて、それでは明日は何をしよう。  シーツの上で、微睡む彼女を見ながら。  その可愛らしい、何より美しい顔に落ちる髪を払いながら考える。  たった6日間。  けれど、自分たちにとっては、何よりも長い、夏期休暇。  もう幾度夜を重ねれば終わってしまうけれど。  きっと、この思い出が終わることはないだろうと確信して。  翠緑の髪の彼女を抱き留めて、明日に思いを馳せて眠りにつこう。 〈お休み、サロメ〉  どうか、良い明日を。    ――そして、あたしは眼を開く。    あたしは知っている。  彼と深く絆を紡いだ、『このサロメ』は知っている。  彼の旅路の穏やかならざるを。  彼の夢見の安らかならざるを。  だからあたしは祈っている。  あたしの胸の中で微睡む彼が、どうか静かに眠れますように。  彼は聖者ではないけれど。  彼はヨカナーンではないけれど。  それでも、我慢し続ける彼のことが大好きで。  それでも、耐えて前を向く彼のことが大切で。  だからこそ、彼にもいつか、救いがあらんことを、と。    お休みなさい、大好きなマスター。  どうか、良い夢を。  夢のような、幻の夏に。  どうか、ひとときの安らぎを。