世界は、四角いものだと思っていた。  立つのがようやくの狭い部屋と、一面の格子。ベッドがわりに用意された使い古しのタオルが、パルスモンのすべてだった。  格子の向こうに出られるのは、ニタニタ笑う白衣の研究者どもに連れられた時だけ。  それでもずっと走らされたり、なにか変なものを打たれたりで、苦しい思いをするだけで、何も嬉しくはなかった。  そんな境遇なのは、パルスモン一人だけじゃない。隣や向かいにも、似たような部屋が大小問わずに並んでいた。  そこに入れられていた人も、デジモンも、みんなぐったりとしてまともに動く気配がない。  たまに声を上げて見ても、うめき声しか帰ってこなくて。 「今日も、誰もいないかー…」 「いるよー?」 「うわぁ!?」  なのにその日は、声が返ってきた。 「あらら? ちょうど今日に入ってきた新人よ。驚かしてごめんなさいね、先輩さん?」  部屋の奥のほう、人間が入る大き目の部屋の格子から、その女が顔を覗かせていた。 ------------ 「まったくもうさぁ聞いてくれる? あのスケベどもはこっちの話も無視してずっと走らせたり質問責めだったりでさぁ! 飽き飽きしちゃうわ!」  ミウだかミユだか言うその女は、今までの人間とはまるで違っていた。  べらべらと言葉をまくしたてて不満をぶつけるその姿は、ぐったりとして身動きもできなかった他の人間たちとはまるで違う。  それがまず信じられなかったし、何よりその言葉も信じられなかった。 「は…話して、なにもなかったの…?」 「何にもないわよ? ずっとああだこうだ言ってるのに聞きやしないわあいつわ」 「ビリビリ、とかも…?」 「なにそれ…」  パルスモンにしてみれば、白衣の研究者とは何かを言えば怒鳴られて、あげくには何かのスイッチで電撃を浴びせられるもの。  それが嫌で彼らにはずっと黙りっぱなしだった。  なのに、何もされないのがいるなんて! 「よ…よくそんなにあれにしゃべれるね…」 「あら、あんたは何も言わないの?」 「そんなの…ダメだよ…」 「いくじなし…なんて言おうにもねぇ。こんな状況じゃ仕方ないわよね」  やれやれと、ミウはため息をこぼす。 「あんた、パルスモンだっけ? どこから来たの?」 「え…どこ…って?」 「どこってそりゃあるでしょ。どっかの森と原っぱとか。わたしはねぇ、見てのとおり人間界は東京よ!」  大きな胸を叩くミウに、パルスモンは言葉を詰まらせる。 「あら、もしかして言いたくなかった?」 「……わかんない」 「……あら?」 「ここのことしか、しらない。ここ、だけじゃないの…?」 「あららぁ…………!?」  世界は、四角いものだと思っていた。 ----------  それからというもの、白衣の研究者らに連れ出される合間をぬって、ミウは色々なことをパルスモンに教えた。  人にデジモン。  檻に建物に、外に広がる、多くの世界。  そして、ミウ自身のことも。 「デジモンと一緒に、旅?」 「そうそう、パートナーと一緒にさ。デジタルワールドを冒険してたんだ。色んなところを見てきたものよ。海も、森も、山も、砂漠も、空も!」 「すっごいなぁ…」  パルスモンには、まるで想像がつかない。  森なんて、そもそも大元の"木"なんてものを見たことがない。海だの空だの果てのないものなんて、それこそわからない。  途方もないものなのだとただただ唖然とするしかないのだが、ミウにはちょっと不満であったらしい。 「なによ連れないわね。あなたも見たくない?」 「まぁ、そりゃそうだけど……」  惹かれるものは、確かにあった。でも、と心のどこかで引っかかる。それはダメだと、引き留めるものがある。  あのズキズキと体に走る電撃が、心を縛り付けている。 「でも、ここから出ちゃいけない…出れないんだし…」 「あのクソ研究者のことなんか、気にしたって何にもなりやしないわよ」  ミウはあっさりという。 「いつか出られるときも来るわよ。そのとき勇気を出さなくちゃ、最初の一歩も踏みだせない。すっとこんな陰の中よ」 「勇気?」 「言ったでしょう? 最初の一歩。こわい、つらい。そんな縮こまっていたいときでも、先に行こうとする、そんな心の力」 「そんなもの、オイラには…」 「そう? ちゃんと持ってたじゃないの」 「え?」  本当に、わからなくて、パルスモンは首を傾げる。 「一番最初、適当に喋ってたじゃないの誰かいないのかってね、先輩さん」 「え…?」 「それも、"勇気"なのよ。誰も返事しないことをわかってて喋ったのに返ってきたから、ああも驚いたんでしょう?」 「そ、そんなのいいだろう!?」  がっと思わず格子に掴みかかったパルスモンの姿を、ミウはクスクスと笑っていた。 「なんだって、勇気は必要。でもどこにでも、勇気はあるのよ。私にも、パルスモンにも」 「どこに、でも」  自分の胸を、気づけばパルスモンは触れていた。  ―― ここに、勇気がある? 何にでも進める力が、ここに?   「忘れなければ、大丈夫よ。どこにだって行けるわ」 「じゃあ、さぁ」 「ん?」  気づけば、言っていた。 「ミウも、その時は、一緒だ」 「まぁ……」 「……えっ、あっ」  なんで、こんなことを言ったのだろう。  パルスモンは無性に恥ずかしくて、縮こまる。  ミウはただ、微笑んで見つめていた。 「だからミウじゃなくて、私は美優だって。ミユ」 「そっか、ゴメン、ミウ」 「ま、どっちでもいいわよ。なら、約束ね。ちゃんと守りなさいよ?」 「約束……決めたこと! やらなくちゃ、守らなくちゃって、決めたこと! 前に教えてもらったぞ!」 「正解。じゃあその時は、お願いね?」  あぁ!と。  お互いに笑いあった。  その日もまた、ミウが連れていかれた。  同じように、パルスモンも連れていかれた。  相変わらず痛くて苦しかったけれども、不思議とつらくはなかった。  また、檻に放り込まれる。  白衣の研究者が誰もいなくなったのを見計らってから、いつものように話しかけた。 「なぁ―― 」 「ひぅっ!?」 「えっ?」 「ひっ、えっ、あぅ、あ……あ…なんだ、パルスモン、だったのね……」 「ミウ……?」  あれが、あのミユとの最後の話だったのだと、この時になって初めて気づいた。 -------- 「なぁ…大丈夫なのかよ、ミウ」 「えっ、えぇ……ありがとうね、パルスモン」  あれからというもの、ミウは見違えたように、しおれていた。  声に元気は無いし、なにより格子から姿を全く見せなくなってしまった。  檻の奥のほうに行っているらしい。  声が小さめなのも相まって、パルスモンには少し聴こえづらい。  他の檻が息遣いくらいで静かなのが、このときばかりはありがたかった。 「何があったんだよ、ミウがそんなになっちゃうなんて」 「わ…わかんない……。ただ、あの人たちは『取り出す』って、言ってた……」 「取り出すって、何をさ」 「『勇気』、だって」  何を言ってるのだろう。『勇気を取り出す?』パルスモンには意味が分からない。  なのに、妙に腑に落ちた。  勇気は、それこそミウに教えられたもの。  前を向く力。前に進む心の力。  それを、根こそぎ持っていかれたのだろう。  だから、ミウはこんなにも変わってしまった。前を、見れていない。 「ごめん、ね」  ぽつりと、ミウの声が聞こえてくる。 「ごめんね、パルスモン。こんなに…こんなに怖かったんだね……。それなのに、勇気だなんだ、勝手なこと言って、本当にごめんなさい」 「ミウ……」  パルスモンは聞きたくなかった。  ミウのこんな弱音を、聞きたくなかった。  それでも、聞かなくちゃいけないと、そう思った。 「もう、あんな勇気、わたしにはないの。ごめん、なさい……」 「言えただけ、勇気、あるじゃないか」  気づけば、言っていた。 「それが言えるだけでも、オイラ……うれしいよ…」 「……そっか、そう、なのね」  ありがとう、と。  ぼそりとしたつぶやきは、どうにかパルスモンにも聞こえてきた。 ------------  それから、連れ出される度にミウは変わっていった。 「なんであいつらは私を助けに来たりしないのよ、薄情者、卑怯者!」 「ごめんなさい、レオモンごめんなさい。私が足止めするなんて言わなきゃ、あなたも死ななかったのでしょう? 私なんかに付き合ったせいで。私を恨んでいるんでしょう!?」 「ね、ねぇあの、なんでも、なんでもしますからもうやめてください、いたいのもつらいのもやなの…」 「やだ、もういたいのやだぁ! みゆをつれてかないで! みゆをおうちにかえしてぇ!!!」  こぼれていく  壊れていく。  ミウが、消えていく。 「ミウ……ミウゥ!」  声を届けても、届かない。  崩れるように変わっていくミウを、パルスモンはただ眺めていることしかできない。  ミウへ何かすることをよほど急いでいるのか、それとも気に入ったのか。  ずっと、パルスモンは連れ出されることもなく檻にいるだけだった。 「ちくしょう…約束したんだ、オイラが、オイラがどうにかしてやんなくちゃ!」  檻を叩いても、びくともしない。せめてと電撃を出しても、あっさりと吸われてしまう。  それでもと、殴って、蹴って、体当たり。とにかく叩き続けるしかなかった。 --------  気づけば、パルスモンは檻の床に倒れ伏していた。  起き上がろうとして、体に走った痛みによって身じろぎだけに終わる。  ぼんやりと考えて、檻への体当たりをしていたことをようやく思い出した。 「なんでだよ…なんでダメなんだよ…」  体は疲れてクタクタで、檻に何度も当たってせいで打ち身だらけだ。  あまりに痛い。苦しい。  それが、パルスモンには意外だった。  動けないほどの疲労はもちろん、全身の傷なんて今までの実験でいくらでもあった。  これ以上にひどいことにも、何度だってなった。  どれも痛かった。苦しかった。  なのに、今この時の方が、あまりに痛くて、苦しい。 「なんで……こんなに胸が痛いんだ…!」  檻にいくら当たっても、びくともしないなんてあまりにわかりきってる。  だというのに、今はそれが受け入れられない、認められない。  胸の奥で渦巻く感情が、あまりにもわからない。  わからぬままに、歯を食いしばっていた。  気づけば、涙も流れている。  ただただ、目の前の四角い天井を眺めているしかなかった。  だから、音を立てて檻が開くまで、白衣の研究者が近づいていることにも気づかなかった。  いつもと同じように、自動で檻が開く。  普段ならば、それに従うように研究者の前に自ずから出ていくものだった。だが、今日は無理だった。  ぐったりと倒れたままでいると、訝るように研究者が覗き込む。  一目見るなり、舌打ちをこぼす。直さなきゃ、と。そう言って、パルスモンを掴み上げ、檻から引きずり出した。  呆れたように、研究者はパルスモンの顔を覗き込む。  いつも通りの、見下した、嘲る目つき。  いつも通りのはずなのに、それが無性に心をかきむしる。  気づけば、その鼻筋に噛みついていた。  振り払われて、パルスモンは床に落ちる。受け身も取れず全身を強かに打った。  一層強くなる痛みよりも、檻の外に出られたことが嬉しかった。  歩くどころか、立つことすら出来ない。膝が笑っているが、構わない。  這って、進む。ミウの檻へ。  彼女の檻は、もう、すぐそこ。 ── 視界が、ぶれた。  蹴られたのだ、と気づいたときには壁に床にと、何度も身を打ちつけていた。  床に転がったパルスモンは、意識が朦朧とする中で、目の前にあった檻に誰かがいるのに気がついた。  部屋の奥の隅、身を縮こませている女がいる。黒い髪をかきむしり、怯えながらパルスモンを見つめるその顔は── 「ミ、ウ……」  ようやく会えた。  その思いが胸に溢れる。ただそれだけで、痛みも、疲れも、全てが消えていく。  もう体は動かせない。そのはずなのに、じり、と。パルスモンは檻へ、ミウへと向けて、這い出していた。 「…ぃ…こ…」 「……え……?」 「い、こう、ぜ……きてくれ、よ…ミウ……」 「え……えぇ……」  途切れ途切れのその言葉に応じるように、ミウがゆっくり近づいていく。  びくびくと、怯えた足取り。パルスモンを覗く眼は、恐怖に染まっている。  聞かなければ、何をされるかわからない。  研究者に痛ぶられた他のデジモン達と、同じ眼だった。  それでももう、パルスモンは構わなかった。  檻までたどり着いたパルスモンは、その間からミウへと手を伸ばす。 「い……こう……」  その手に、ミウがゆっくりと触れた。    気づけば、パルスモンは笑っていた。  熱が、伝わる。  ミウの鼓動が、パルスモンに染みわたる。  そうかと、初めて気づいた。こうして、触るのは。 「……初めて、だったな……」  小さく、笑って。  また蹴りとばされて、意識を閉ざした。 ----------  目が覚めて、すぐにパルスモンは部屋を変えられていることに気づいた。  檻の部屋は、格子ではなく透明の板に変えられている。そこから見える他の檻も、みんな透明板だ。  ミウが居るはずの檻とは、そもそも場所が違うのだろう。  もう、どこにあるかもわかりはしない。  何が出来るはずもなく、パルスモンは寝転がった。  体の痛みも疲れも、多少はマシになったが、まだまだつらい。  特に蹴られただろう脇腹が、ズキズキとひどく痛む。  それでも、前と比べれば、いくらかマシだった。 「まだ、いるんだな、ミウ」  いるのかもわからなかったのに、居てくれた。  最後に笑いかけたとき、部屋の隅で縮こまってても、目が合った。見てくれた。──笑ってくれた。  それだけで、なんだか嬉しかった。 「次があったら、その時こそやってやっぞぉ!」  言うなり、パルスモンは目を閉じた。  すぐに寝息を、いびきをかき始めていた。  久々に、穏やかな眠りであった。 ------------  時は、思いのほか早くに来た。    ズン、と鈍く響くような音とともに、檻すら揺らす激しい衝撃が周囲一帯に襲い掛かった。  すぐに衝撃は収まったが、よほどのものだったのだろう。他の檻でもデジモン達が不安そうに周囲を見回し、声を上げている。  普段は静かな牢獄が、今日はどうにも騒がしい。 「なん、だぁ…?」  バチバチと照明が慌ただしく点滅するのが、余計にデジモン達の不安をあおっている。  パルスモンも何が起きているのかわからず、周囲を見ているしかなかった。  だが、カチリ、と。透明板から小さく響いた音は聞き逃さなかった。  そっと押してやるだけで、透明板は簡単に開いた。  板に隔たれていたざわめきが一気に大きくなり、パルスモンに叩きつけられる。  それが、波を引くように次第に小さくなっていく。  きぃ、と透明板が開かれる音が、あちこちで聞こえ始める。  それらも気にせず、パルスモンは檻の外へと飛び出した。 「最初の、一歩!」   我も我もと飛び出してくる他のデジモンたちのことなど、構っている暇はなかった。 ----- 「あぁもう…ほんとどこだよ……」  ミウを探さねば。その一念で走っていたパルスモンも、さすがに一度立ち止まって息をついていた。  檻の部屋は、想像以上に多かった。  パルスモンのように捕まっていたデジモンも多く、これを絶好の機会とばかりにほとんどが勝手に開いた檻から逃げ出していた。  少しだが、捕まっていた人間もいた。傷ついた人間も多かったのだが、他のデジモンに背負われたり、他の人間と寄り添って逃げ出していた。 「あいつらに聞いてもミウは知らないって言うしなぁ……わぁっ!?」  突然天井からスプリンクラーを浴びせられ、ずぶぬれのパルスモンはたまらず駆けだした。  いつも研究者に連れられていた所内は、まるで姿を変えていた。  天井で光る電灯はチカチカ明滅したり、赤だの青だのと目まぐるしく色を変えている。  けたたましい警報と共に誰かの悲鳴や罵声がスピーカーから響き渡る。  あちこちの扉が一人でに開けたり閉めたりを繰り返す。  どこかで蒸気が噴きだした。 「めっちゃくちゃになってんなぁ……」  あまりの惨状に、パルスモンは驚きすらも通り越して呆れていた。  よほどの混乱が起きているのだろう。  研究者たちは泡を食ったように走り回り、何かの機材やら紙束やらを抱えている。  パルスモンや他の逃げ出したデジモンを見かけて声を上げていたが、それすらも構ってられないとばかりに走りだす。  とはいえ、また他所から逃げ出したらしいデジモンに襲われたりしていたのだが。 「あぁあぁー…ここぞとばかりにやりかえしてやんの」  また一人、デジモンに研究者が押し倒された。持っていた資料やらが廊下にばらまかれる。  慌てて拾おうとするその背中を、デジモンが踏みつける。    怒りに満ちたその瞳と、見入られ怯える研究者。今までとまるで逆になったような構図。  ざまあみろ、と周囲のデジモンははやし立てるのだが、どうにもパルスモンはのれなかった。 「なんだかなぁ…」  似たような気持ちはパルスモンにもあったはずなのに、いざ目の当たりにすると、そんなに良いものには思えない。    ズズン、と再び全体を揺らした振動に、パルスモンははっとした。 「こんなことしてる場合じゃねぇや。ミウを探さなきゃ!」  そう言って再び走りだす。とはいえ、 「探さなきゃって、どこなんだよ!」  いくつも見て来たのに、見つからない。  少なくとも、今までいた檻と、先ほどまでの透明板の檻の二部屋はあると思っていた。  だが、それ以上にもっとたくさん檻はあった。  廊下の先は、いまだに見えない。どこかに檻があって、また他の部屋や廊下に繋がっている。  果てが、見えない。  「どこに、いるんだよ……うぉっ!?」  立ち尽くしていたパルスモンの後頭部に、何かが当たる。  そのまま全身を覆うように何かに巻き込まれるようにして、パルスモンは倒れた。  「な、なんだぁ? 紙!?」  紙束がパルスモンに覆いかぶさっている。起き上がって見てみればまた研究者が一人、デジモンに捕まってやり返されていた。  どうもその研究者が放り出した紙束がパルスモンに当たったらしい。  どうもその研究者は色々抱え込んでいたようで、他にも器具やらなんやらがあちこちに散らばっていた。 「痛いんだからなぁ、もう」  よっ、と紙束から抜け出そうとして。  ころりと、目の前に何かが転がり出てきた。  妙な、小さな機械。まるで、研究者たちがいつも手首に巻いてる腕時計なるものに似ている。  でも、それとは明らかに違っている。  紙束に混ざっていた当たり、一緒に持ち出そうとしていた物なのだ。これも、何かの研究品なのだろうか? 「なん……だろうな……これ」  そんな、小さな機械に、パルスモンは妙に惹かれていた。  その小さな画面にそっと手を置くと、機械はひとりでに動き出した。  ――― その機械の名はバイタルブレスと言うのだと、パルスモンは知らなかった。  ただ、画面に映るのは波打つ線が1つだけ。  一度だけ跳ね上がる、規則的な波形が連続して写される。  ドクン、ドクンと。  不思議と心地よいその波形を見ているうちに、パルスモンは気づけば立ち上がっていた。  これは、鼓動だ。  心臓の、心の動く音。  誰のだ? 誰の、鼓動だ。  画面には鼓動だけが写っている。何も、他には描かれていない。  だというのに、パルスモンはなぜか、その鼓動がわかった。  心地よいのも、納得だった。 「これは……ミウだっ!」  ――― 『エレキラッシュ』!  まさしく電光石火の速さで、パルスモンは飛び出した。  廊下の果ても、部屋割りもなにもわからない。  それでもこのバイタルブレスが、写る鼓動が、パルスモンを走らせた。 --------  部屋に入れば、もう見飽きた、相変わらずの檻だらけ。  だというのに、パルスモンは既視感とわずかばかりの懐かしさを覚えていた。  どの檻も開かれて、空っぽだ。息一つ聴こえてこない。  それでも、ここが最初の檻の部屋なんだと、どこかで確信していた。 「ミウーっ!?」  叫んでも、返事はない。自分の声が、ただむなしく響いていくだけだ。  にわかに膨れる不安に、手のバイタルブレスをギュッと握りしめている。  鼓動は、ある。 「ミウ、ミウ!」  叫びながらも、走る。  もっと奥に、ミウの檻はあったはず。  せめて、そこまでいかなければ。 「いるんだろ? オイラの声が聞こえてるんだろ? ミウ!」  走りながら、はた目に1つの檻が目についた。  あちこちの傷とくたびれ方からして、今までの自室に違いなかった。  ならば。 「そこにいるんだな!?」  すぐ先に、ミウの檻がある。  また、来れた。それだけでも、どこか感慨深いものがある。その思いを、振り払う。 「来た、来たぞ! ミウ!」  部屋の隅の寝台で、毛布が膨らんでいる。そこに、ミウが居るのだろう。  よく考えれば、おかしいのだと気づけた。  これだけ呼んでも、反応がない。  これだけの大騒ぎで、脱走どころか様子も伺ってない。  いくら変わっていっても、ミウにそんな妙なことがあるのだろうか?  答え合わせのように、のそりと毛布が起き上がった。 「――― さわがしいですね」 「…ミウ!…………ミウ……?」  はて、と。ベッドの上に起き上がる女に、パルスモンは首を傾げた。  今まで見てきたミウとは、まるで違う。  最後に見た時でも、怯えた目がそこにあった。  ミウがずっと削られ続けてきた今まででも、まだミウはそこにいたはずなのだ。  では、このミウは?  ミウの黒髪とはまるで違う、真っ白な髪。顔に覇気はない。その目はぼんやりと、ただパルスモンを見つめている。  でも、その顔はミウなのだ。 「はて、先ほどからミウ、ミウとやけに鳴いてる方がおりましたが、あなたでしたか」 「なぁ!?」  似合わぬ冷めた平坦な声に驚くが、その言葉にも驚いた。 「オマエ、ミウじゃないってのか!?」 「らしいのですが。14番、とかそのように呼ばれておりました」 「ちげーよ、ミウだ。14番って、もう名前でもなんでもないじゃねーか」  はぁ、と。こてりと首をかしげるミウは、わかっているのだろうか。 「そうなのですか?」 「わかんねーことが多いオイラでも、数字で呼ぶのは違うってのはわかる」 「それで、私がミウ、ですか?」 「そうだ!」 「では、わかりました。私はこれからミウ、ということで」 「これからじゃなくて、前からずっとだってのになぁ…」  パルスモンも思わず頭を抱えてしまう。素直に聞き入れてしまう"ミウ"の様子にどうにも慣れない。前なら、もう少しは色々と言ってただろうに。  そんなパルスモンに、"ミウ"は言った。 「前のことを、知っているのですか?」 「知らねーのか…?」 「はい。まったく覚えておりません。全部吹っ飛んだ、とかは研究者の方が仰ってましたが」 「は?」  なにを言ってるのだろう。 「そんな…こと、何をしたらそうなるっていうんだよ」 「心と感情を抜いた、とのことですが」 「ーっ! どうやったら、そんなことまで出来るってんだよ!」 「すみません、そこまでは」  淡々と謝るミウの姿も、パルスモンの眼には入らない。  わからない。わかりたくない。疑問に思いながらも、同時に納得もしてしまった。  心も、感情も、全部抜いてしまえば、その人は変わる。  パルスモンも、同じようなものだった。  ミウが、くれたから、変わった。  「── ミウ、オマエ、知りたいのか?」 「どうなのでしょう。まぁ、せっかくなので」 「そっか」  そっか、そっかと。パルスモンは頷いた。 「安心しろ、オイラが覚えてる!」  はっきりと、言い切った。 「ミウの声も、言葉も、鼓動も、全部オイラが覚えてる」 「いまのオイラは、全部ミウのくれたものだ。ミウが全部教えてくれたんだ」  だから、と。 「全部、ミウに返す! オイラが教えてやる!」 「そこまで、よろしいのですか?」 「いいんだ、オイラは決めた! だから早速、一つ教えてやる!」  パルスモンは胸を張る。教えるなら、これだ。 「約束、ってのがある! やると決めた、決まり事。オイラが全部教えるって決めたのも、約束だ!」 「ヤクソク…、約束。なるほど」 「前の"ミウ"とも、約束、してたんだ」 「ほう?」  首をかしげるミウに、パルスモンは手を差し出した。 「一緒にいこうぜ、ミウ」 「── なるほど、約束は守らなければならない。かしこまりました。早速、実践してみましょう」  その手を、ミウが握り返す。  握った手を通じて、パルスモンに鼓動が響いてくる。  やっぱり、とパルスモンは確信した。この鼓動は、ミウだ。変な腕時計と、同じ鼓動だ。  その鼓動に応じるようにして、波形を映すだけだったバイタルブレスが光を放つ。  バイタルブレスは自ずから動き出し、一人でにミウの手首に巻き付いた。 「おや、なんですかこれは」 「わかんね。拾ったやつ」 「また妙なものを」 「そいつのおかげだからな、それがここまで導いてくれた」  訝しげにバイタルブレスを見ていたが、すぐに興味を失ったように視線を外していた。 「ところで、あなたのことはなんとお呼びすればよろしいのでしょう」 「オイラはパルスモンだ」 「では、パルスモン様。よろしくお願いいたします」 「様なんていらないってのになぁ」  握った腕を、パルスモンは引っ張った。さあ、と外へと促していく。 「じゃあほら、早く!」 「そんなに急ぐのですか?」 「それは急ぐ! 急がなきゃマズイ!」  ちょうど、ズン、とひと際大きな衝撃が走った。それ自体は一瞬だったのだが、それから細かい振動がずっと続き、鈍く響いている。 「では、そんなに急いで、どちらへ?」 「わっかんね!」 「ダメじゃないですか」  きっぱり言い切ったミウが面白いとばかりに、パルスモンは笑っている。 「とにかくどこでもいこーぜ! 森も山も海も宇宙も、ミウに教えてもらった場所はまだオイラも行けてないんだ」 「一緒とは、そういうことでしたか」 「そうだぜ? じゃあ、いこー!」  ミウの手を握りしめて、パルスモンはトタトタと走りだす。    ミウに言ったとおり、世界のあちこちなんて、パルスモンとて行ったことはない。  なにせずっと檻ぐらし。四角い部屋の向こうには、行ったことはない。  どんな場所かも、"ミウ"に一度聴いたきり。不安に思う気持ちはたくさんある。  それでも踏みだすのが、勇気。  そう教えてくれたのは、まさしくミウだった。  だから、その言葉通り、パルスモンは歩んでいく。  一緒にミウを引きつれて、歩いていく。 ----------  どこまでも、どこまでも広がる青い空。  高く厚く積みあがる夏の雲の下に、抜けるような声が響いた。 「うわっひゃぁー! すげぇぜ、見ろよミウ!」  白青赤と鮮やかな花萌ゆる丘の頂上から顔を出すのは、黄色のデジモン。パルスモンだ。  背後に手招く先にいるのは、大きなリボンに白い長髪をくくった女。全身を覆うインナーの上に、涼し気というには露出過多な際どい薄手のドレスを翻し、丘を登っている。  その足取りは静かだがしっかりとして、片手に下げた大きなトランクもものともしない。 「なんですかパルスモン、騒がしい」 「そうは言ってもさ、見ろよあれ、あれ全部水みたいなんだぜ!?」 「ほう?」 「これだろ、海ってやつ!」  だろう、と目を輝かせるパルスモンをよそに、ミウはトランクから本を取り出しパラパラとめくりだした。 「『デジモンでもわかる! 人間界の歩き方』曰く"一面に広がる水たまり"が海だそうですので、あれが海に違いないのでしょう」 「ぃやったぁー! 来たぜ海―!」 「そんなに嬉しいですか?」 「だってよぉ、初めて来たんだぜ、オイラたち! 今まで山も森も原っぱもあった、川もあった。ようやく海なんだ。まだまだ初めてがいっぱいあるんだぜ!」  まだ見ぬ光景に、パルスモンは胸を高鳴らせる。海を見つめる目は、期待と興奮に溢れている。 「えぇ、確かに。知らないことが多すぎます。」 「だろ? それに探してるうちに、ミウの感情の手がかりも見つかるだろ!」 「要るのかもわからないのですが……そういうのは見つけてから考えればいいでしょう」 「だな!」  一人と一体は揃って丘を超えていく。波の音が、風に乗って聞こえてきた。