【クラック・イン・スノーフィールド】#4 ネオサイタマ大学。Y2Kカタストロフィ以降、物理・電子共に甚大な被害を受けた複数の国公立大学が無節操に合併し誕生した、 ネオサイタマひいては日本屈指の総合メガロ大学である。 人文系から最先端テック工学まで、ありとあらゆる学問が集い、ネオサイタマ市内に複数のキャンパスが点在する圧倒的規模に反し、 門は実際狭い。過酷なるセンタ試験、壮絶な受験戦争を生き延びた者たちの学び舎…だが高潔な学究の徒の集まりと言われれば、当然違う。 親元、受験、抑圧からの解放感に当座の目標や夢を見失い、漠然とした焦燥感を抱えて日々を漂う者。社会の海に放り出される前の最期の猶予時間に、 持てる若さとエネルギーを享楽に全力で費やす者。無軌道大学生と呼ばれる者達はいつの時代も場所も変わらない。 午後の講義の終わり、キャンパス内のカフェテラス。談笑する学友同士、課題レポートの作成に勤しむ者。人目も憚らず顔を近くし、 テーブル下で手足を絡ませ合うカップル。マントラ・チャントめいた不明瞭な呟きを漏らしながら暗い瞳でひとり携帯端末でIRC掲示板に没入する者。 窓際のテーブル席で向かい合う男女。女の方は雪めいて白い肌にターコイズブルーとクリーム色のLANケーブルドレッドヘア、機械油まみれの白衣の下には PVCサイバーゴスウェア。 テーブルの下では重厚な黒いサイバーゴスエンジニアブーツの脚を組んでいる。その前で熱心にノートに書き込んでいる男子学生は黒いジャケットの下に 「もめん」のショドー入りTシャツを着ている。 「まあ……ハードウェア・ソフトウェア由来で、腰部・脚部に起こりうるトラブルのおおよそ原因として考えられるのはそんなところ。後は、心因性かな」 脚を組み替えながら、サイバーゴスめいた女性…バイオサイバネティクス科の客員教授ユンコ・スズキは答える。「心因性?ですか」 「お?以外ってカオしてる。生身の肉体だって神経、ニューロンを介してメンタルと密接に結びついてるもの。サイバネは時にそれ以上に敏感に、 如実に心のトラブルを反映させる」ユンコは飲みかけのコーヒーにミルクを混ぜながら続ける。 「過度なストレスや強烈なトラウマ、心的負担が原因で、外傷や疾患もないのに突然声が出なくなった、とか手足が動かなくなった、とか聞くでしょ? サイバネだって同じことが起こるの。サイバネ自体の不具合だとか、神経とのかみ合わせ、調整不足のグリッチとは別にね」 それからサイバネ医療と精神医学の接点に関するミニマルな講義が続いたのち、メモを取り終えた同科の学生、カスガイ・オカベは頭を下げた。 「センセイ、ドーモ。お時間取っていただき、アリガトゴザイマシタ」「いいってば、そんなにかしこまらなくて。熱心に聞いてくれる子は私も張りあいあるし」 ユンコはドロイド・サイバネティクス分野の先端技術研究に取り組む傍ら、学生達への講義に携わっている。講義後にしばしば質問を投げかけてくるカスガイは、 印象的な学生のひとりだった。 カスガイは、コーヒーを啜るユンコのオモチシリコンの肌に視線を泳がせる。彼女の物理肉体はかつて死亡し、その自我と記憶を封じたバイオニューロンチップから オイランドロイドボディで復元された。所謂ニューロンチップ再生者だ。 横顔からうなじ、ブーツから覗く太腿。雪のような白さと艶めかしさ。美しい。だがそれ以上の感情はない。おおよそのオイランドロイドボディに共通する特徴だ。 それにセンセイには悪いがサイバーゴスはあまり趣味ではない、平常心だ。 「ところで随分具体的だったけど、身内の人の話?サイバネ医院には行ってると思うけど」 「はい、勿論専門家に任せるのが一番ですけど、おれもそれを目指してる身ですし。多少知った上で話ができるだけでも何か違うと思って」カスガイは嘘はついていない。 マツユキは医者には、少なくとも表の医者には診せられぬ身ではあるが。 「ふぅん」カスガイの受け答えに、ユンコは思わし気に目を細める。「とりあえず一個だけ、君わりとグイグイ行くタイプでしょ?距離感は要注意かな。身体の問題はデリケート、 特に女の子なら」頷きかけてカスガイははたと気づく。 「女の子って、おれ言いましたっけ?」「まだまだだね。少年」 ◆◆◆ 「よう、カスガイ」「テオシ」正門に差し掛かったカスガイにツーブロック・ヘアの学生が声を掛けた。「俺も今上がりなんだ。この後メシどうだ」 「悪いけどパス、おれも色々付き合いあるんだよ」すげなく断るカスガイにテオシは食い下がる。 「最近それ多いよな。もしかしてアレか?女?そりゃないか。お前全然ソッチに興味なかったもんな。ブッダかよって」「どういう意味だよそれ」 「アッ!前のノミカイのことまだ根に持ってンのか。悪かったって、このとおり!」大げさに手を合わせ深く頭を下げるテオシ。 前期の期末試験の終わり、テオシをはじめとする仲間内とのノミカイは、いつの間にか他のグループが合流。不運にもひとり逃げ遅れたカスガイだけが厄介なセンパイ連中に巻き込まれ、 徹底的に飲まされた。文字通り死ぬほどに。 後日カスガイはその件でテオシに揶揄はしたものの、本気で怒っているわけではなかった。おかげで天啓を授かったのだから。 「そうだ!クーポンやるから。うちのバイト先で飲み放題2割引き!」テオシは懐から『おさかな人間』と書かれたクーポン券を素早く取り出す。 「お前さ、謝るフリして最初から宣伝目当てだよね。しかも安い。埋め合わせなら他にあるでしょ他に」「バレたか。じゃあ他ってなんだよ?例えば」 引っ込みかけたクーポン券は取りながら、カスガイは答える。「1カ月学食オゴりとか。3カ月でも良いよ」「この野郎!」二人は笑った。 二人は小学校の頃からの付き合いだ。同級生の一人から、今に至る悪友の間柄になったきっかけは「あの夜」の出来事だ。両親さえ夢扱いし、クラスメイトらにも小馬鹿にされたカスガイの話を、 それまで殆ど話した事のなかったテオシは真剣に聞き(豊満なバストのくだりは特に熱心に)、信じてくれた。それが始まりだ。 ジュニアハイスクール半ばまで自我科に通っていたカスガイをからかう者が居れば、テオシは必ず間に入った。とりとめのない軽妙なやりとりで、剣呑なアトモスフィアをたちどころに、 面白おかしく変えてしまう。気付けば相手も、カスガイも笑っていた。直接口にしたことは一度も無いが、カスガイはテオシを凄い奴だと思っていた。 食事はパスしたが最寄り駅まで、たわいもない話で盛り上がりながら二人は歩いた。小学校からハイスクールまで、幾度となく並んで帰った通学路と同じ。今は学部が違うもの同士、 カスガイは勉学に、テオシはバイトに精を出し人間関係も違う。こうして帰りが揃うことは稀になったが、カスガイとテオシはずっと、いつもこうだ。 この日が二人で帰った最後の日になった。 ◆◆◆ 「アアアアアアアアァーーーッ!!」CRAAAAAAAAAASH!! 廃ビルの中に女の絶叫と激しい物音、破砕音が響き渡る。室内は荒れ果て、ベッドは横転し、ガラス棚は砕け、椅子が吹き飛び天井に突き刺さる。 ……それから暫くして、散々たる有様の部屋の中央には眼を丸く見開き佇むカスガイ。目線の先の部屋の隅には壁に張り付くようにうずくまるマツユキ。 「……何してるのマツユキ=サン」学校帰りに立ち寄った部屋の惨状に、しばらく唖然とし言葉を失っていたカスガイがようやく口を開く。 マツユキは無言。タタミ2枚ほどの距離の床にへばり付いているのは、半分シミと化したよく肥えたバイオネズミのネギトロ死体。 「もしかしてこのネ」「やめろ!!!」「ウワッ!?」今までに聞いたことのない声量の怒声に、思わず身をすくめるカスガイ。 「…………動いてないか?」「うん、真っ平になってる」「死んでるか?」「うん、死んでる。完全に」「本当に?」「本当に」マツユキは深く息を吸って、吐いた。 「片付けろ。私の見えない所に」「えっ?いや、死体触るのはおれ、ちょっと」「片 付 け て !!!」再び張り上がった声にカスガイも再び驚く。 いつものマツユキの威圧的に作ったハスキーな声と違い、その声は少女めいていた。 カスガイは、ビル内のロッカーから掃除道具を探して持ち寄り、ガラスの破片を集め、埃を払い、ベッドを立て直し、他の部屋から新しい椅子を調達した。 (天井に刺さった椅子はそのまま放置した)。 バイオネズミの死体は屋上の隅の吹き溜まりに置いた。明日の朝になるころにはバイオスズメかカラスが平らげ、片付いているだろう。そのまま戻ろうとしたカスガイは、 ふとバツの悪さを覚えて向き直り、重金属酸性雨に晒されるアワレなネギトロに向け軽く手を合わせた。「ナムアミダブツ」 そうして一時間以上かけようやく落ち着いた頃になっても、マツユキは部屋の隅で動かなかった。「マツユキ=サン。立てないでしょ、ほら掴まって」 何度目かの声にも、マツユキは背を向け壁にもたれたまま無言。埒が明かない。無理に抱えることも出来たが、それは躊躇われた。なによりまた暴れたら手に負えない。 「けどおれびっくりしたよ。いや本当。マツユキさんがあんなに…怖がるなんて」ネズミ、と言いかけてカスガイは止めた。「確かに歯はアブナイし、色んな病気持ってるだろうし」 「……違う。嫌いなだけ」少女めいた声がか細く答える。マツユキはカスガイにこれ以上取り繕ったタフな虚勢を続けることはもはや無意味と諦めていた。 「ネズミがじゃなくて。中途半端に小さくて、カサカサ動き回る汚いもの。きもち悪い」 マツユキの頭の中にあったのはかつての自分の所有者の小男の事だ、脂ぎった醜悪さに反し子供じみた背丈。マツユキの身長から見れば更に小さく見えた。 抵抗できぬマツユキの視界の中を、はしゃぐように動き回り出入りしながら、歪んだ遊び心で加えてきたあらゆる汚辱。 マツユキがベッドの上で、視界の端を走る肥えたバイオネズミを認識した時、最初に抱いたのは誰しもが抱く単純な驚きと嫌悪感。だがそこに小男のアトモスフィアが頭を横切り、 両者が紐づいたとき。フラッシュバックめいて瞬時に溢れ出した大量の負の記憶。とめどなく沸き立つ恐怖に思考は埋め尽くされ、激しく乱れ、叫んだ。 気が付いた頃にはこの有り様で壁にもたれかかっていた。そこにカスガイがやって来た。 「つまり、怖いってことだよね」「馬鹿にしてる」自分の弱さを、恥を軽くまとめるカスガイにマツユキは不快を顕わにした。「しないよ、怖いものは誰だって怖いよ。おれも、 ずっとそうだったから」カスガイはマツユキに数歩近寄り、床にアグラした。  「みんな普段は忘れてたり、見えないようにしてやり過ごしてるんだ。暗い部屋に押し込めるみたいに。けどおれは部屋のドアがボロかったんだね。中でたまに何か動いたり、 音を立ててるのがわかった。暗いから、余計怖かった。ずっと自我科に通ってさ」普段なら適当に聞き流すカスガイの話。だがその感覚に思い当たる節があったマツユキは続きを促した。 「今は平気?」 「ここ何年かは。上手く忘れてた、見て見ぬ振りが上手くなったのかな。でも最近、急に部屋が明るくなって、中がはっきり見えるようになって。それで平気になった。 暗いのが一番良くないんだ。電気を点けてちゃんと整理すれば良かったんだよ。それが大変って話だけどね」 「……あなたは、何が怖かったの」マツユキはようやくカスガイに顔を向ける。額から目元にクロームが露わの顔半分。 「オイランドロイド」「嘘」剥き出しの左のサイバネ・アイと目を合わせて話すカスガイに、マツユキはため息がちに呆れた声を出した。 「思うよねそりゃ。でも本当だよ。そんな奴が今はマツユキ=サンと話してる。そういう事だってあるよ」 「…私は怖いものだらけ。一番は、人間」「じゃあおれの分類ってさっきのネズミ以下?結構ショックかも」おどけるカスガイにマツユキは何かを言いかけ、視線を落とした。 「背中」「え」両腕で這うように、マツユキはカスガイの方に身体を向き直る。そのバストは平坦だった。 「掴まるから、こっち向けて。重いだろうけど」「うん。知ってる」カスガイはマツユキをおぶさり、ベッドに寝かせた。人間の力で。平常心だった。 ◆◆◆ 本格的に降り出した重金属酸性雨の下、人混みのストリートを傘を差したカスガイは歩き思案する。次は害獣・害虫用トラップも買っておこう。そもそもあの廃ビル自体、 ヨタモノが上ってこないとはいえマシな環境ではない。他の場所も考えなければ。だがニンジャと明かさずどうやってマツユキを移動させるか。 同時にひとつ気がかりがあった。いくら恐慌状態に陥り手あたり次第辺りの物を手にかけたとはいえ、歩けぬ筈のマツユキにしては室内が荒れ過ぎていた。這っては明らかに届かぬ場所まで。 「心因性。か」カスガイはユンコの言葉を思い出しながら家路に就いた。 【NINJASLAYER】