空が赤く燃えている。 地が朱く泣いている。 俺は紅く崩れていき、 皆が赤い霧となった。 誰もが死に絶えた。 俺はその血を啜っている。 "地獄"は満杯だ。 ――― リソース供給が落ちた保管室は薄暗く、赤色の緊急灯のみがその仔細を朧げに照らしている。 本来、実験で得られた成果物を厳重に保管するための部屋、ないし牢獄は、今やその管理機能の源を絶たれたことでがらんどうと同義となっていた。 その中央、小高い台座の上に、"それ"が安置されていた。蒼い毛並み、仔犬のような姿、そして額の旧型デバイスと思しき装置が、それを獣型デジモンのルガモンであると識別させた。 しかし一方で、その姿は正しいそれとは程遠いものでもあった。毛は殆ど赤い血で染まり、身体のあちこちが腐敗したかのように溶け崩れ、赤い瞳は潰れて何も映さなかった。 ―――まだ、俺は死んでいないのか。 轢き潰されたような痛ましい肉塊は、ルガモンである前にただの死体のようにさえ見えた。その塊が微かに呼吸を残していなければ。 ―――いつまでこの地獄が続く。俺はどれだけ、このまま"死に続け"なければならない…… デジモンを冒していたのは"地獄"が齎した呪いの傷だった。 あの地獄、デジモンが狂ったように戦い続け、傷つけ合い、殺し合い、死した魂がデジタマに還ることさえ許されず、ただただ殺し殺され続ける赤い嵐の狂宴。 彼はその渦中にあった。幾度となく傷を負い、それは相手から奪った血肉で補った。既に彼本来の構成要素は消え失せて、喰らった肉だけのキメラが身体の総てとなった。 身体だけではない、記憶と精神が肉体に座するものならば、それも同時に挿げ替えられた。彼を"彼"たらしめるものは、総てが赤い嵐へと喪われていった。 ―――もう何も残っていない。ただ傷が腐る痛みだけが。何のための命だ、何の、ための…… 記憶は永久に繰り返す。破壊と死の嵐の光景だけが繰り返される。もうたくさんだ、早く終わりにしてくれ。幾度懇願しようとも、砕け切った骨は自分の喉を裂くことさえ叶わない。 いや、裂けたとしても今度は窒息の苦しみが足されるだけか。狼の屍は自嘲する。何のためなどと、これはどう足掻いても、ただ責め苦に苦しみ続けるだけの命ではないか。 ―――もういい。終わりのない死が終わりだというのならば。俺は、それで――― 遂には、止めても死ねはしないだろう呼吸を止めようとした。 「―――」 ―――誰だ。 その瞬間に、誰かを感じた。五感は殆ど潰れていたはずだった狼は、それ以外の何かで、台座の傍らに立つ誰かを知覚した。 「――――――」 暖かく、 鉄臭く、 苦く、 どろりと融けて 赤い。 狼はそれを知っていた。記憶の中で幾度となく。 ―――血か。 崩れかけた身体が巻き戻り、砕けた骨が継ぎ直され、傷が肉に埋められていく。幾度となく、そう蘇らせられ、戦わされたように。 潰れていた眼を開き、赤い光に滲む視界が相手を捉えた。 「―――逃げよう、一緒、に」 灯火の中に溶け込むような赤い髪。手術用の貫頭衣のようで赤く汚れた服。血が抜け落ちたように青ざめた白い肌と、夥しい切り傷。 そして赤いの瞳の少女が狼を見つめ、たどたどしい言葉で語りかけてきていた。 ―――逃げる?何処へ。 「どこ、へ、でも」 ―――何時まで。 「いつ、までも」 ―――その先に、何が在るんだ。 「…………」 ―――いいんだ、俺のことは。逃げるならお前だけでいい。 恐らく、この静寂は後僅かで途絶える。"実験の成果"だという狼に彼女が接触することは在り得ない。混乱が収まれば、再び彼と彼女は然るべき収容がなされるはず。 逃げるのならば、血で回復して尚傷だらけの自分は余計な荷物になる。それは捨て去るべきだ。 それに、ここを出て何がある。肉体は別物、記憶は塗りつぶされ、誰も知ら得ぬ幽霊となり果てて、何が――― 「―――ある」 「何もない、が、ある。壁もない、屋根もない、けど。誰も、私たちを、縛らない、何かを強制しない」 ―――――― 「一緒、に、行こう。どこ、までも」 手を差し伸べる。傷だらけの腕と共に。 ―――あぁ。 狼は、前足をその掌に乗せた。 崩れ落ちた穴を抜けて、瓦礫を超えて、泥を渡って。どこまでも遠い道程の向こうに、 少女と狼は、漸く暗闇を抜け出した。地獄の狭間の地から、現世の中へと。 空が青く澄んでいる。 地は草木に萌えている。 陽が黄金に輝いて、 一人を赤く、一匹を青く照らしていた。 その色彩を、彼女たちの記憶から喪われたものを、もう一度焼き付けていく。 「―――何も無いな」 「うん。何、も、ない」 全ては抹消された。"こちら側"で彼らを知る者は誰もいないし、その存在を保証する情報もない。幽霊のように不確かに、この世界をあてもなく漂うだけの命。 けれど、 「これが―――自由の、味か」 それだけで良かった。 壁も屋根もなく、縛り付けるものもない。自由が。 何もない自由と、始まりがあった。